医学史

15. Juni 08

【テレビON AIR】フジテレビ『いただき+(プラス)』に生理学者シドニー・リンガーの番組資料を提供(6月2日放送分)

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 フジテレビで毎週月曜19時54分~20時で放送中の情報番組『いただき+(プラス)』でカルシウムの特集があり,その際に,私が医学史の分野で長年にわたり研究をしている生理学者シドニー・リンガーの資料が必要ということでフジテレビから問い合わせがあった。そこで,私が研究のために以前からリンガーのご親族であるアン・リンガーさんなどから頂いている資料の一部を番組に提供させていただいた。
(尚,私のリンガーに関する研究については以下のwebを参照に)
 生理学者シドニー・リンガー研究ブログ
http://ringer.cocolog-nifty.com/blog/
 生理学者シドニー・リンガー研究ブログ(英語版)
http://ringer.cocolog-nifty.com/biography/
 生理学者シドニー・リンガー研究Web
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer-J/SydneyRinger-(J).html
 生理学者シドニー・リンガー研究Web(英語版)
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer/S.Ringer.html

 現在関東ローカルで放送中の『いただき+(プラス)』という番組は,全農が提供の番組で,小学生から中学生ぐらいを対象とした食育の情報番組である。放送時間は非常に短いのだが,毎回食べ物を通じて栄養素やその働きについて楽しく学ぶことができる番組だ。
 今回の特集は「カルシウム」ということで,番組ではカルシウムを多く含む食物の紹介とともに,そのカルシウムの働きを発見したことでも知られるリンガーの研究についても少しだが触れられることとなった。
 シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は,19世紀イギリスで主に生理学,内科学,小児科学の分野で活躍した人物で,彼の業績で一番有名なのは,点滴の際に輸液基本液として使用されるリンゲル液を発明したことである。多くの日本人は,リンゲル液をその名前の印象からドイツ医学由来のものだと思っているであろうが,実は発明者のリンガーはイギリスの生理学者なので,リンゲル液も本来はイギリス医学由来のものである。しかしわが国の場合は,時の明治政府が帝大(東京大学医学部)にベルツやミュレルを招聘し,近代医学の基礎はドイツ医学から学ぶという方針を決めたことで,わが国にはドイツ以外の由来の技術も多くはドイツ医学経由で入ってきた。そのような経緯から,本来は英語であるはずの“Ringer”も,「リンガー」とは発音せずに古いドイツ式発音で「リンゲル」といってきた慣例のようなものが医学界には存在している。(しかしながら,“er”の綴りを“エル”と発音するのはかなり古いドイツ語であり,現代ドイツ語による発音ならば,英語と同じく「リンガー」と発音するのが自然である。同じように,しばしば医学用語として登場する“Fieber”(発熱)も,「フィーベル」ではなく「フィーバー」とするのが現代ドイツ語では一般的である。)

 今回の番組ではリンガーのカルシウムに関する実験を取り上げることになった。リンガーがカルシウムの働きについて行った実験というのは,カエルから摘出した心臓にトノメータをつなぎ,生理食塩水を灌流させながら心筋におけるアルカリイオンの作用を詳しく分析するというものである。リンガーはこの実験を通して,カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき,しかもカルシウムが少なすぎたり,カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり,さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう,という歴史的大発見をするのである。
 この時に生理食塩水に偶然混入した多電解質でできた溶液がリンゲル液である。その後リンゲル液は,ヒト血漿用に多電解質が補正されて,現在医療現場で使用されているリンゲル液になった。
 また,リンガーのカルシウムを始めとする多電解質に関する実験とその成果は,現代の医科学にも延々と受け継がれている。例えば心臓外科手術の際、塩化カリウムを注入し一時的に心臓を停止させるという技法や、心室細動の除去などがそれであり,いずれもリンガーの研究がなければ産まれなかったであろうメソードである。
 以下は,Journal of Physiology(英国生理学雑誌)に掲載されているリンガーのカルシウムの研究と,リンゲル液誕生の記録である。
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
(因みに私の書斎には,リンガーが書いたこの2つの論文の表紙を額に入れて飾ってある)

 なお番組では,子どもたちに理解しやすいように,リンガーが研究する様子などがイラストでも登場した。イラストレーターの方が書いて下さったリンガーは,ポートレートに比べるとまだ若いころの印象だ。どことなく俳優の佐々木蔵之介さんにも似ていたりする。

番組Webページhttp://www.fujitv.co.jp/itadaki/

★BSフジで再放送(7月20日 20:55~21:00)

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05. Mai 08

【展覧会】『病と医療 江戸から明治へ』(国立公文書館)

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 江戸から明治にかけてのわが国の医学史料の一般公開である。史料の説明は、音声ガイドも含めて医学史という学問に初めてふれる初心者向けに作成されているが、史料そのものは貴重なものばかりで見ごたえ十分であり、メモを取りながら1点1点じっくりと見ていたら、2時間近くもかかってしまった。

 ここで公開史料の中から特に興味をひいたもの、貴重なものをいくつかピックアップする。

『官府御沙汰略記』(延享2年~安永2年)
 文京区小石川にあった幕臣小野家の隠居が書いた日記で、本来は幕府内の人事異動などを主に記録したものであるが、その一部に家庭医学書のような民間医療について書かれた項目もしばしば登場するので面白い。
 例えば、肌荒れのひどかった若い娘に対し、クチナシの煎じ汁に塩を入れて炊いた米を食べさせると良い、という記述がある。クチナシの抽出成分は、現在でも美容液に配合されることはしばしばあり、その効能はメラニンコントロールであると言われているが、肌荒れに対して果たして経口摂取で効能があったのかどうかは定かではない。
 また、幕臣の平坂孫二郎が、梅毒の治療のために草津温泉に湯治へ行った記録も記されている。しかしあまり効果はなかったようで、幕臣付きの医者も、もっと長期に滞在して治療する必要があると言っている。
 この当時はまだまだ西洋医療が入ってくる前であるから、疾病の概念も現在とは相当に異なる。すでにコレラ、赤痢、インフルエンザなどが一般的な内科的疾患と異なる伝染病であるとは認識されていたが、後に東京医学校(現、東京大学医学部)にベルツやミュレルが来るまでは、病理学という概念が明確にはなかったので、病気の原因を正確に突き止めることは困難であったのがうかがえる。ヨーロッパでさえ、リスターが登場するまでは「消毒」や「殺菌」という概念がなかったのである。
 それにしても、この頃からすでに温泉の有効性が認められているのが面白い。そして庶民は行楽で楽しむものであったようだが、特権階級のものにとっては、すでに長期滞在型の施設として存在していたようである。
 その温泉の効能については、後に薬学者として来日したオランダ人のゲールツが、日本各地の温泉地をフィールドワークした本を出版している。
 その資料が下記の『日本温泉独案内』である。

『日本温泉独案内』(明治12年)
 薬学者ゲールツが、日本全国の温泉をフィールドワークして、その効能をまとめたもの。タイトルだけを見ると、まるで“お一人様”の独身OL向けに編集した『るるぶ』別冊みたいだが、内容はいたって科学的なものである。
 当時、民間医療の間では、温泉ならどんな病でも効く、というような温泉万能主義が大勢を占めていたようだが、当然温泉成分はそれぞれ異なり、実際にはその効能を知らずに温泉に浸かると、かえって病気を悪くしてしまう場合もあった。そのために薬学者のゲールツが、全国各地の温泉を巡り、その成分と効能を分析したのである。(しかし、彼の文献を読むと、私にはまったり温泉巡りの旅をしているようにしか見えない)
 この文献の中には、熱海、湯河原、修善寺、草津といった現在でも有名どころの温泉の名がたくさんでてくるので面白い。例えば熱海の温泉については、「第4種含塩泉」と正確に分析している。
 この時代にこのような書物が刊行されたのは、長らくわが国では科学的根拠に基づかない民間療法が何の疑問を持たれることなく広がっていたためで、それをあらためて科学的に検証していくことは、医学の近代化においては絶対に必要なことであったといえる。何にしても、すべてに対して「万能」である薬や治療法は霊感商法でもないかぎり存在しないわけで、今日の健康情報番組のひどさをあらためて上げるまでもなく、「万能」という言葉に安易に飛びついてしまう大衆が、いつの時代にもたくさんいたのであろうことを容易に想像できる。

『養生訓』(生徳3年)
 江戸時代に貝原益軒によって書かれた養生のための手引き書。今風に言えば、出せばベストセラーになる「健康マニュアル」本に相当するが、内容そのものは日々の質素なライフスタイルを体現し、それが結果的に養生につながるといった、いわば老子などの道教的な考えに近いものがある。
 その中で、現代の我々がもっとも見習わなければならないと思った一節を書き出す。

   万の事一時心に快き事ハ
   必後にわざわいとなる

 つまり、その時は一時的に快楽を得られることでも、節度を超えるとかえって病気になる、ということを言っているのである。これは、後に『養生訓』の影響を受けて多くの医師や学者が執筆したこの類の書物の中にもしばしば出てくる。
 例えば、幕府の医師だった多紀元徳が書いた『養生大意抄』(天明8年)には次のようなことが書いてある。

  凡(およそ)何事をせしにも 節(ほど)あり
  切なく苦しきを強いてはなせバ
  神気を傷(やぶ)り 又は筋骨を傷める 

 これも、何をやるにもほどほどが良いということを言っていて、その中でも特に飲酒や夜遊びや食事について言及しているものと思われるが、いずれの共通点も、適度に体を休めるのが良い、と言っているわけである。

『老人必用養草』(正徳6年)
 江戸の世でも、現在と同様の老人問題があったようである。これは老人向けに、老人はどう暮すべきかを説いた養生書のひとつである。その項目は健康はもとより、衣服、住まい、色情までにいたっている。そしてこの中の健康に関する項目でも、身体的な健康だけではなく、精神的健康についても「七情」(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)という項目で扱っていて、近年やっとわが国の医療現場でもQOLの向上や、患者や患者の家族の精神的サポートについても言及されだしたことも考えると、実に先見の明があると思った。しかも、高齢者の「色情」については障害者のそれと同じく、介護の現場でも長らくタブーになっていたことでもあり、江戸の医師たちのアヴァン・ギャルドな感性に興味をそそられる。
 その中で思わず笑ってしまったのは、「隠居僻みの原因」という項目だ。これは、若者と高齢者の世代間闘争にもつながることだが、『老人必用養草』の中では、老人が若者の言うことに従わず頑固になる原因は、老人は自分の生きてきた考えに固執し、視野が狭くなるからだと記されている。だから時には庭の片隅に草木でも植えて、心の余裕を持て、などと言っている。
 たしかに、近年の団塊高齢者もこぞって田舎に引っ込み、ロハスやスローライフ志向に移行しようとしている状況をみると、ストレスフルな都会生活の中で、始終若者に八つ当たりするよりも、このほうがよほど心身の養生になる。

『和蘭医事問答』(寛政7年)
 蘭学医の杉田玄白と建部清庵が交わした往復書簡である。その中で清庵が杉田へと宛てた書簡の中で、来日するオランダの医師は外科医ばかりだが、オランダには内科医はいないのか?、と尋ねているものがある。もともと奥羽藩の藩医で和漢医療に携わっていた清庵がこのような質問をしたのは、来日する蘭学医や蘭学に学んだ医師たちが、塗り薬でも済みそうな場合でも、何かと外科的処置をすることに驚いたからである。これに対して杉田は、オランダには内科医も当然いるが、わが国に最初に来日した蘭学医がたまたま外科医だったので、そのような印象がひろまってしまったのだと思う、と清庵に宛てて書いている。

『広恵済急方』(寛政2年)
 江戸で庶民の間に伝承していた民間療法を、多紀元徳が改めて編纂したもの。当時の10代将軍・家治は、都会(江戸)と田舎、そして武士と農民などの身分によって広がった医療格差を是正しようと、誰にでも速やかに役立つであろう家庭医学書のようなものの編纂を元徳に依頼していた。そして各地に伝わる民間療法、とりわけ産中産後の処置、中毒、怪我、嘔吐、発熱などの緊急を要するものを重点にしてまとめられたのが『広恵済急方』である。
 読んでみると、いろいろと面白いことが書かれているが、中には目を疑うものも多々あるのも民間療法のご愛敬である。
 ここでひとつ書き出してみる。

【喉に物が詰まった時】
鼻の中に強い酢を注ぎこめば、むせて吐き出す。

 これを見た時に、私は思わず往年の漫才コンビ「ツービート」のテイストを感じてしまった。「ツービート」のネタの中に民間療法をテーマにしたものがあって、例えば、歯が痛い時にはどうしたらいいか? ということだが、この時には目に釘を刺せばいい、というものである。なぜなら、目の痛さで歯の痛さを忘れるから、というオチが付く。
 これは本当にナンセンスというしかないが、私の個人的記憶を辿ると、小学校の予防接種の時、注射の痛みと恐怖をこらえるために、注射の時に友人に自分の足を踏んでもらっていたことをふと思い出した。これはまさしく、足の痛さを意識することで注射の痛さを忘れるためである。これが意外に効果があったと記憶している。
 『広恵済急方』の中にある民間療法には、このようなばかばかしいとしか思えないようなものも多々あるが、けしてそれが荒唐無稽というわけではなく、誰かによる何らかの成功体験から民間の間で伝承されたものであろう。それは現代の科学のように再現性が認められるものばかりではないが、時には江戸の庶民の命を救ったものもあるのだろう。

『龍驤艦脚気病調査書』(明治18年)
 大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が演習中に海軍兵の中で起こった脚気(ビタミンB1欠乏)について詳細に報告したもの。周知の事であるが、わが国明治政府は、学問、技術、教育などをドイツに学んだ経緯があり、当然陸軍もドイツ式を導入していた。しかし海軍だけは例外で、軍医の高木兼寛がイギリスのセント・トーマス病院医学校に学んだことでもわかるように、伝統的に英国式を採用していた。このことは後に昭和に入っても何かと海軍対陸軍という構造を生じる原因にもなるが、海軍と陸軍が対立したのは単なる権力闘争だけではなく、そこには当然のことながら学問的対立も存在した。具体的に言うと、ドイツ病理学対イギリス臨床学の戦いである。
 海軍軍医の高木がイギリスで臨床医学を学んだのに対し、陸軍軍医の森鴎外(森林太郎)はドイツでコッホらの病理学を学んで帰ってきた。このことは、診断学というフィールドにおいて後々さまざまな対立をすることになるが、その最たるものが、脚気の診断と治療法をめぐる高木と鴎外の対立である。
 脚気の原因は、ビタミンB1欠乏によるものであることは現在は広く知られているが、明治に国民的病として脚気が蔓延した時には、なかなかその原因がわからなかったのである。ビタミンB1を含まない白飯が主食となった軍隊の中でも当然のことながら脚気が蔓延して、明治政府は軍医にその原因を突き止めるように命じた。
 ドイツでコッホ流の病理学を学んできた鴎外は、脚気の原因を病原菌説に求めて、“脚気菌”の特定とそれの同定を試みたがうまくいかなかった。それに対して高木は、かねてから鴎外の病原菌説を否定し、イギリスで学んだ臨床医学にのっとり、脚気にかかった海軍兵士たちの食習慣、生活習慣などを詳細に調査した結果、脚気の原因はやはり食事と生活習慣にあると仮説を立てた。そこで高木は、練習艦「龍驤」での反省をもとに、兵食に従来の白飯だけではなく麦、パンなどを取り入れてみたのだ。その結果、ビタミンを多く含む麦飯でビタミン欠乏が改善されて、脚気に罹る兵士が格段と少なくなったのである。高木のすごいところは、医学史上でまだビタミンの存在が発見されていない時代にこれをやったことではないだろうか。因みにビタミンの存在が発見されるのはずっと後になってからで、1911年にロンドンのリスター研究所にいたフンクによって、初めてビタミンが物質として同定されている。
 しかし、高木が正しく脚気の原因を突き止めても陸軍兵士の脚気の蔓延はしばらく止められなかった。これは、ドイツ医学に学んだ鴎外が、愚かにも最後まで高木の説を否定し続けたからである。そのため陸軍は日露戦争にいたっても相変わらずの白飯主義で、陸軍は戦闘以外にも多くの脚気患者で兵士を失っている。一方、練習艦「龍驤」での教訓を生かした海軍の兵食は戦艦「筑波」にも引き継がれ、脚気患者は激減しているのだ。
 昭和に入っても、兵食が充実していたのは海軍であり、例えば戦艦「大和」の中で食べられていた肉じゃがやカレーは、栄養学的にも理にかなったものである。

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04. Dezember 07

井上眼科病院「目の歴史資料館」を訪ねる

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 御茶ノ水にある井上眼科病院内にある「目の歴史資料館」を訪ねる。
 ここの資料館について説明するにはまず、明治から代々続く井上眼科病院の歴史や、その創立者であり、わが国における近代眼科学の礎となった初代・井上達也という人物にも触れなくてはならない。
 井上達也は、1848年(嘉永元年)に、漢方医であった井上肇堂の四男として生まれた。この時代は欧米では、すでにルネサンス時代を経て医学が科学として多分野に細分化していった時代であり、大きな流れとしては、イギリスの臨床医学やドイツの病理学が繁栄を極めていた時代である。
 その中でわが国は、時の明治政府が国策として、西洋医学の基礎をドイツに学ぶという方針を決定し、後にベルツとミュルレルの2人のドイツ人医師を東京大学に招いた。そのミュルレルにドイツ医学を師事したのが井上達也である。また、そればかりではなく、井上達也は、眼科学の研究をとおして、わが国では視力検査の際の視力表の考案者としてなじみ深いフランスの眼科医ランドルトらとも交流があり、資料館にもその記録が残っている。
 つまり、井上達也が研究を通して関わった人物を順に辿っていくと、必然的にわが国における近代眼科学の歴史を俯瞰することになるのである。
 眼科学の歴史とは面白いもので、古代の多くの医学者たちも、「なぜ目で映像を見ることができるのか」ということにとても興味を持っていて、古代ギリシャの時代から、目の構造や機能についてはいろいろな考察が行われている。例えばガレノスは水晶体の存在をすでに確認しているし、ファブリキウスや後のヴェザリウスらは、その水晶体が眼球の中央にあることを認識している。
 また眼科学では、レンズを多く用いることから、光学の分野とも大きく関わっている。例えば、レンズを通過する時の光の軌道は天文学者のケプラーの実験によって明らかにされたわけであるし、また、ニュートンやヤングらによる一連の光学研究は、眼科医療でなくてはならないレンズの発達にも大きく寄与しているのである。
 この資料館では、当時の眼科学の臨床記録だけではなく、眼科領域の光学機器などの展示も見ることができるので、ここを訪れた人は、たぶん眼科学の裾野の広さをいろいろと認識するであろう。

 ところで、国の施設でもなく大学病院でもない民間のクリニックが、医学史についての史料を「資料館」という形式で広く一般公開することにはどんな意義があり、価値があるのだろうか。
 まず専門の研究者に向けてだが、もし内外で、眼科学の歴史を専門に研究している医史学者がいるならば、私ならまず、ここの資料館を最初に訪問することを勧めるだろう。そして、ここにある様々なアーカイヴに触れてもらえば、わが国における眼科医療の歴史が明快に俯瞰できるであろう。また当時、現在のように治療器具や診断器具が充実していなかった時代に、臨床現場にかかわる若い研究者たちが創意工夫で診断や治療に挑んだ姿には科学者の原点を感じることができ、彼らもまた“クリエイター”であったことを再認識させられるだろう。
 それを表す資料の一つが、克明にスケッチされた眼病のカルテや視力表である。これは現在の眼科医療の現場でのものと比較しても、その正確さや緻密さがまるで劣るとは思えないのがすごいところである。例えば、実に緻密にスケッチされた眼底のカルテを見ると、網膜剥離や眼底出血などの変性部位が正確に把握できる。
 これらの資料から見えてくるのは、私がかねがね大学の講義の中でも学生たちに言っている、臨床学の原点である。もし美大生がこれらの資料を見たならば、そのデッサンのように緻密なスケッチに興味を抱き、病変というものが冷静な空間で捕捉され、写実というかたちで写し取られていくというところに、タブローにおけるデッサンとの共通点を発見するであろう。
 また、医学生がこの資料を見た時には、先人たちの偉業をとおして、臨床とは何たるかを改めて問うきっかけにもなるのではないかと思う。地理的にも、周囲には医学部のキャンパスがいくつかあるので、まだ専門の勉強を始める前の教養課程にいる学生たちにもぜひ見てもらって、これから自分たちが学ぼうとしている臨床学というものがどういうものなのかをイメージしてもらいたい。
 では一方で、一般の人たちにとってこの資料館はどんな役割があるのだろうか。この資料館が敷設されている場所は、正面玄関を入ったところの左側である。ちょうど外来患者らが診察を待つ場所と対面する位置なので、当然、ここの場所に診療を目的として訪れた一般患者たちの目にも入る場所である。それで、彼らがそこの場に足を踏み入れた時に何を思うかに私はたいへん興味がある。
 ある人は、明治から眼科病院の歴史を築いてきた歴代の医師たちの評伝に触れてみることで、同門として何らかの関わりのあるここの医師たち-すなわち自分たちの主治医のことを、より身近に感じられるようになるであろうか。またあるいは、DVDに収録された昭和初期の木造時代の古い医院や御茶ノ水界隈の風景を見て、文教地区と言われたこの町の歴史の重みをしみじみと感じるのであろうか。それは私にはわからないことである。だが昨今、物事がいささか急速に進みすぎてしまって、歴史を振り返る余裕がないどころか、何か大切なものを置き忘れてしまったように感じる今日このごろ、わが国の学問の歴史と深い関わりのある街に、このような資料館が歴史散策スポットとして存在するならば、わが国の郷土や歴史を愛する心を育んでいく契機にもなるのではないだろうか。

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