名古屋芸術大学

03. Oktober 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】後期集中講座ワークショップ(動画)

2008年度 名古屋芸術大学芸術療法講座
「美術史から考察する疾病論・医学概論」


ワークショップ(動画)
疒(やまいだれ)に任意の記号・文字を加えて新しい文字を作成する

 芸術療法の講義では,西洋医学史,美術史を学びながら,それに関連した様々なワークショップも実施している。古代ギリシャ医学について概説したこの日の講義では,古代ギリシャの医学者,哲学者の人間の身体についてのとらえ方,「病」というものについての特徴的な考え方などにふれ,「病」が示す様々な身体の症状もまた,身体自身が表したひとつの「表現」といえることについて解説した。
 このワークショップはそれを踏まえて,身体症状や身体感覚,心身の状態を示す新しい記号を創作するものである。学生らには,あらかじめフォーマットされた疒(やまいだれ)の中に任意の記号や文字を加えて,新しい文字を作ってもらった。

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30. September 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】後期集中講座レポートVol.1~「芸術療法」という言葉から受けるイメージ~

2008年度名古屋芸術大学 芸術療法講座
「美術史から考察する疾病論・医学概論」

 まず芸術療法講座後期集中講座の第1回目は,学生らがこの「芸術療法」という分野について,どれほどの馴染みと知識があるのかを知るために,簡単なレポートを提出してもらった。
 内容は,「芸術療法」という言葉から受けるイメージについて自由筆記の形式でその事柄を書くというものである。そこで出てきたものは,まず,「音楽療法」,「ダンスセラピー」,「箱庭療法」,「カラーセラピー」といった定型化された古典的なセラピーを例にあげるものも多かったが,それとは別にさらに細分化されたかたちでは,例えば「大人の塗り絵」,「ゆるキャラ」,「α派音楽」,「環境音楽」,「森林浴」など,昨今マスメディアの主に情報バラエティー番組といわれるもので話題となったいわゆる“癒し系”アイテムをあげるものも散見された。
 次に,学生らがどんな情報媒体を通して「芸術療法」の存在を認識したかについては,美学,芸術学などの専門書をあげたものの他に圧倒的に多かったのが,テレビ,新聞でのドキュメンタリーである。そのドキュメンタリーとは総じて病者や障害者をあつかったものであり,例えばある芸術の分野で突出した才能を持つ障害者の話や,また,精神科医療の分野で芸術表現を治療に導入しているケースなど,芸術と医療が具体的に結びついたものに関してはかなり強い印象を持っているのがわかる。そして注目すべきは,芸術分野を専攻している学生らが,これらのものに対して,何ら疑いの目もなく認めているわけではないということである。
 例えばある学生は,縁日の夜店でみかけたカラーセラピーまがいのものに“胡散臭さ”を感じていると書いている。またある学生は“昨今「アート」とか「セラピー」ということばが実に安易に使われている”といった,昨今の芸術療法という分野の抱える問題点をそのまま挙げている。その他にも,「アート」と「セラピー」をめぐる周辺領域をフローチャートで提示し,その中に“なんでもあり?”という言葉を書き込んだ学生もいた。
 ここにあがった学生らによる芸術療法という分野に対する異論,疑問,疑念は,普段,創作的活動に関わっているクリエイターとして感じた素直な意見であろう。つまり,芸術とはセラピーの分野でも必要であることにはかわりはないが,それならば何でも良いのか? という疑問であると私は考える。ある1人の学生が指摘した“なんでもあり?”という言葉がそれを投げかけており,医療の(特に精神科医療)分野で行われる様々な芸術表現のようなものが,クリエイターから見たらどう見えるのか,という一つの健全な批評精神の表れであると私は判断した。
 芸術療法の領域に,なぜこのような状況が生まれてきてしまうのかということについて,それは芸術療法に関わる「アート」と「セラピー」という異なる二つの分野のスタッフ,具体的には「アート」側ではクリエイター,そして「セラピー」側では医師,心理学者,カウンセラーなどが,双方の分野について深く理解していないことから起こるコミュニケーションの希薄さも原因にあることも学生に説明した。これは『アート×セラピー潮流』(フィルムアート社刊)の冒頭でも述べたとおりだが,つまり,医師,カウンセラーらのセラピー・スタッフの多くは,美学,芸術学といった領域で知識としてはアートを一応は理解してはいるが,「表現」という行為が持つ「闇」の部分についてはクリエイターとしての実感では理解できていない。ゆえに,何でもかんでもアートに見えてしまうという現象を生んでいるのは事実だ。一方で「アート」側の人間はどうかというと,昨今,アートがいろいろな分野とコラボレーションをして表現の定義が曖昧になりつつあるが,そのアートがセラピーの現場に関わる時に,アート側の人間もまた,医療や医学の分野について体系的な理解をしているわけではない。そこでやはり相互理解の誤差が生まれてくるわけである。しかも誤差が是正されないままにアートとセラピーをいとも簡単に結びつけてしまうことによって,“胡散臭い”,“なんでもあり?”という疑念が生じてしまうのである。
 これらの問題について考えていくには,やはり,本来「アート」と「セラピー」または「芸術」と「医学」はそんなに安易に結びつくものではないという大前提に立ったうえで,なおかつその接点を改めて求めていくという態度が必要である。そのために私の講義では,いわゆるアート・セラピーについて概説したり,アウトサイダーアートだけを取り上げたりはしない。医学と芸術の双方の歴史を通して,長い人類史の中で「病」,「身体」というものがどのように捉えられてきたかということにフォーカスを当てていくことを学生らにアナウンスした。私が第1回目の講義のガイダンスで学生に配布した医学史年表はそのためにある。この年表とともに美術史も振り返りながら,「芸術」と「医学」の接点で見えてくる「病」の形を浮き上がらせることから,ようやく芸術療法はスタートすると私は考えている。

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17. August 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2008年度 後期集中講座の準備 

 9月から始まる名古屋芸大・芸術療法講座の後期集中講義の準備を始めている。
 シラバスを見ての通りだが,昨年とは大幅な改編はない。その代わり昨年受講した学生からたいへんに要望の多かった映画・映像作品についても補足していくつもりである。
 名古屋芸大で行っている芸術療法講座の講義は,タイトルこそ「芸術療法」であるが,内容は「芸術療法」に限定したものではない。むしろ昨今の「芸術療法」周辺領域に対する問題提起を込めた内容であると自負している。その問題提起とは,昨今例えば「アート」と「癒し」(私は基本的に“癒し”という言葉を安易に使うのは嫌いだが)をいとも簡単に結びつけてしまう傾向などがあげられるだろう。それによって世間ではアウトサイダー・アートがその本質を理解されぬままもてはやされたり,擬似健康番組が量産されていく結果となる。その過程においてもっとも問題となるのは,人が「病む」という問題について深く考察する機会を得ぬまま,「癒し」の様式や結果だけを求めていくことである。それらの要因を生んでいる原因の一つに,医療現場に関わる者は,しばしば芸術についての体系的理解が不足していたり,また方法論としてアートをセラピーの現場に導入していくアーティストやクリエイターも医学概論として医学という学問をあまり理解しているわけでもないということがあげられる。この双方のコミュニケーションの希薄さが,「病」というものを互いに深く考察し,ケアの方向性を精密にデッサンしていくことへの困難性を生んでいる。

 本来,「アート」と「医療」,または「芸術」と「医学」はそんなに容易く結びつくものではない。だが,それらを横断する接点は必ず存在しているということを実感するためにも,私の講義では毎年,ギリシャ時代までさかのぼって西洋美術史と医学史を同時進行で横断しながら学生らに学ばせている。これは,芸術と医学の両極が,それぞれ「病」と「身体」について,歴史的にどう関わってきたのかを知るためである。
 例えば,「病」とは一体どこからやってきたのだろうか? 人類は歴史的に「病」とどう対峙してきたのだろうか? これらを深く考察することで,「癒し」よりもまず,「病」とは何なのか,ということを「医学」と「芸術」の2つの座標から考えることからスタートする。
 芸術大学で行う講義であるから,図版,動画といった視覚的資料を多様していくが,内容的には医学部で行う医学概論や医療人類学の講義に相当するものである。
 昨年は,古代ギリシャから現代までを,代表的な芸術作品と医学史年表で振り返ったが,今年は学生の要望の多かった映画,映像,ドキュメントフィルムなどを「現代の身体的表現」というカテゴリで補足していく。その中にはもちろん今日のクリエイターを目指している学生らが日頃の創作活動の中で大いに刺激を受けているであろうSFX映画やゲームなども含まれる。また,近代日本の「闇」の部分を非常に秀逸に描いてきた表現として,怪獣映画や怪奇映画などについても言及する。つまり今年はこれらのものをもって,「病」,「身体」,「表現病理」について学生らとともに考えていく内容にしたいと考えている。
 現在それらを含めた映像資料を鋭意編集中である。 

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05. April 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2008年度シラバス

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2008年度シラバス

「美術史から考察する疾病論・医学概論」

 古代ギリシャにおいて芸術と医学は、アルスメディカという言葉が示すとおり、「人間への眼差し」という臨床学的な座標上では、互いが深く反響し合う関係にあったといえる。
このことを踏まえ、本講座では、西洋美術史と医学史のトピックを往来しながら、図像学の視点でそれぞれの時代の「病」像を抽出していく。また芸術というものが、人類史の中でいかに「病」と実践的に関わってきたかを再度考察し、今日の芸術療法の現場が抱える問題点や方向性についても模索する。
 今年度は,昨年の受講生から要望の多かった映画,映像作品についても多様な作品を取り上げ,最終講義では映像作品の上映を行う予定である。

【授業計画と内容】
1)ガイダンス 美術図像学から疾病論、医学概論を読み解くことの意義、今日の芸術療法との関わりについて
2)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(1)
  ~「病」の起源~
3)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(2)
  ~「ホスピタル」の登場~
4)ルネサンス絵画に描かれた医師像と患者像
5)キリスト教絵画における「病」と「手当て」の概念
  ~ナーシングの確立~
6)戦争群像画におけるカタルシス
  ~回復装置として機能する解毒療法~
7)ラファエル前派に描かれた恍惚の女性像
  ~「卒倒」「昏睡」の美学と麻酔学の関わり~
8)西洋カリカチュアの中の「生・老・病・死」
  ~「死の舞踏」をめぐる「病」観~
9)後期印象派と表現主義に投影された精神と身体の変容
10)アウトサイダー・アートをめぐる「表現」と「病」の境界線
11)モダニズムにおける新しい「病」の概念
12)映像表現におけるメタファーとしての「病」
  ~SF, 特撮、ホラー映画における異形の病理学的分析~
13)身体表現と「病」
  ~舞踏,パフォーミングアーツ,障害者プロレスから見えてくる「表現」としての「病」~
14)映像作品の上映
15)総論、レポート課題についての概説

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20. Februar 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2007年度追試問題

 名古屋芸術大学での私の講義「芸術療法講座」で、出席日数が足りない学生、またはレポートの成績があまりよくなかった学生に対し、以下のような追試を受けてもらった。
 本来なら、全員に同じ追試問題を課すところであるが、今回は私なりに一工夫してみた。見れば分かるとおり、全員に異なった内容の追試問題を出題したのである。これは、過去に私の各講義の中で実施した小レポートやワークショップなどからそれぞれの学生個別の理解度などを測り、その上で、学生らが創作活動の過程で何に一番興味を持っているのかを、深く考えてもらうためのものである。
 以下、主な追試問題をリストアップする。

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 「疾病論」 2007年度追試問題

追試問題(1)「疾病論」
以下の映像作品の中では、臨床学的に類似性のある空想上の血液疾患が登場します。以下の作品を視聴し、この3つの作品に登場する「病」の相違点、そしてこの空想上の血液疾患は何を象徴しているのかを比較し批評して下さい。
エンキ・ビラル監督『ティコムーン』(1997年)
岡本喜八監督『ブルー・クリスマス』(1978年)
実写版『マグマ大使』第17話~第20話(1966年)
400字×10(4000字)以上

追試問題(2)「ウルトラセブンと戦後シュルレアリスム」
あなたは、芸術療法講座第9回「シュルレアリスム」の講義で提出したレポートで、『ウルトラセブン』の「狙われた町」を取り上げ、古いアパートの中でちゃぶ台に向き合って座っている等身大のウルトラセブンとメトロン星人のカットがシュールであると書いていますが、このテーマをさらに掘り下げて下さい。
『ウルトラセブン』が放送されたのは1960年代であり、わが国の前衛的芸術運動、たとえばダダイズム、シュルレアリスム、暗黒舞踏といったものが興った時期と重なり、当時『ウルトラセブン』の制作現場に関わっていた監督の実相寺昭雄、前衛彫刻家の成田亨なども昭和の前衛芸術運動、思想運動に多大な影響を受けています。
そこで、『ウルトラセブン』のエピソードの中からシュールと思われるカメラワークや、成田亨がデザインした怪獣・星人などの造形をいくつか取り上げ、その造形やカメラワークの中に60年代を象徴する社会病理や心の闇がどのように表現されているか書いて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(3)「新感覚食品における新しい身体性とシュルレアリスム」
 あなたは、芸術療法講座第10回講義「シュルレアリスム」でのレポートで、「ねるねるねーるね」(クラシエフーズ)などのいわゆるケミカル系菓子について、菓子への食欲よりも菓子を介した化学実験のような要素があることがシュールであると述べています。
 これを踏まえて、この菓子と同業他社のケミカル系菓子類を比較・分析し、その食感から得られる身体感覚(味覚・臭覚・その他口腔内で感じる様々な感覚)や、食品でありながら「食べる」という行為以外の要素が消費者に好評を得ている理由を論説して下さい。
400字×10(4000字)以上
 
追試問題(4)「患者・障害者・被介護者におけるQOL~ファッション・宝飾デザインの現場からのアプローチ」
 あなたは、芸術療法講座第13回講義でのレポートで、宝飾デザインの制作をとおして患者とコミュニケーションをとりたい、と書いていますが、このテーマをさらに掘り下げて下さい。
 具体的には、病人、障害者、介護を受けている高齢者が、療養生活の中で服飾、宝飾などのファッションに興味を持つこと、またはそれを身につけることは、彼らのQOL(生活の質)の向上にどのような作用を与えるのか、具体的な事例を2例以上抽出して分析し、レポートを書いて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(5)『「お笑い」とシュルレアリスム』
 あなたは、「芸術療法講座第10回講義」シュルレアリスムのレポートで、お笑い芸人のムーディー勝山をとりあげ、彼の独特の芸風、すなわち何度も同じフレーズが反復されるなどの理由でシュールであると述べています。
 昨今の新人芸人には、ムーディー勝山の他にも反復的な芸風を得意とする芸人が多く、またそれが広く大衆から受け入れられています。これらの芸人が多く輩出される社会的背景なども含め、なぜそれがシュールな笑いへと帰結するのか述べて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(6)『障害者スポーツにおける「病」と「身体」』
 あなたは、「芸術療法講座第11回講義」アウトサイダーアートの中で視聴した障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の映像について、他の格闘技のような観客が一体となる臨場感(ライブ感)に欠けていると述べています。その理由として、観客が介入できる余地が欠けていることをあげていますが、ではなぜ「ドッグレッグス」の試合ではそのように感じるのか、またそれは障害者であるという理由でそう感じるのかなどを、他の障害者競技、たとえば全世界的に認知されている「パラリンピック」などとも比較しながら説明して下さい。
400字×10枚(4000字)

追試問題(7)『「食」という行為をめぐるシュルレアリスム』
 あなたは、「芸術療法講座第10回講義」シュルレアリスムのレポートで、カップラーメンがシュールであると述べています。その理由として、乾燥した状態から食べ物へと形状が変化することを理由にあげています。周知のとおりわが国が開発したこれらのインスタント技術は、宇宙食や自衛隊などの保存食にも応用され今日にいたりますが、今後これらの技術がさらに進んでいくとしたら、人間の「食」における身体感覚にどのような影響をもたらすと思うか、予測して下さい。
400字×10枚(4000字)

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12. Februar 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】最終レポート「疾病論」を読み終える

 名古屋芸術大学・芸術療法講座の2007年度最終レポート「疾病論」を読み終える。
 レポートを全部読んでみて、まず特徴的であったのは、学生が研究対象にした作品がアニメ・漫画、そして映画などの映像的な作品が多かったことである。(研究対象作品のリストはこちらを参照)研究対象の選定動機などを読んでみると、「今まで何気なく見ていた作品の中に、どのような病理があるのか改めて見直してみたい」、または「“病”と“表現”あるいは“病”と“芸術”の間にどんな関係性があるのか興味がわいた」といった理由をレポートの冒頭にあげている学生が多かった。

 これは毎回講義の中で実施した小レポートの中でも散見されたことだが、例えば、「芸術療法講座を受講するまでは、“病”と“表現”、または“医学”と“芸術”が実は歴史的にも深い関係があったことをあまり知る機会がなかった」、ゆえに、「講義を終えて、今まで目にしていた作品が、また別のものに見えてきた」という講義での印象についての記述からもわかるように、普段日常的にも親しんできた作品を改めて研究対象に選び、その作品の中に通底している表現病理について分析することに至ったと私は理解している。

 もっとも多かったアニメや映画等の映像作品を研究対象にしたレポートでは、レポートの5割~6割を作品のストーリーやプロットの解説に費やしてしまっているものが多く、そこから独自の作家論や作品論を批評として展開していくことへの困難さがうかがえた。

 しかしその中でも、例えばカメラワークや照明といった1つの表現手法に的を絞り、その手法が各場面でどのような効果を果たしているのか、またどのようなメタファが存在するのかを詳細に書き込んでいるものや、漫画のコマ割り、ペンタッチなどの技法から登場人物の心理状態を分析しているものもあった。

 また、映像作品ではなく、絵画、彫刻、写真などのパーマネントな美術作品を取り上げた研究レポートの中にも、作家の年代別のコメントをひろったり、自分が継続的に注目している美術作家の展覧会記録を参考にして、まだ美術業界では評価の定まらない若手作家の作品を積極的に研究対象に選んだレポートもあった。特にこれらのレポートは、すでに多くの研究者が存在する著名な作品や作家について批評する場合とは異なり、資料の収集や参考文献の閲覧もなかなか困難がつきまとうが、そこをよくクリアし、こちらの期待以上のレポートを仕上げた学生もいる。

 なお、各レポートについての感想や評価は、順次このブログで記事にしていく予定である。

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23. Dezember 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】最終レポート「疾病論」 研究対象作品リストアップ

 名古屋芸術大学芸術療法講座 最終レポート「疾病論」で学生が研究対象とした作品をリストアップする。
 尚これは順不同であり、カテゴリー分けは後日行うこととする。

『MOTHER 2』(任天堂)
『家なき子』(日本テレビ)
『70年代カルト・ヒーロー』(『シルバー仮面』、『レッドバロン』など)
『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿)
『医龍 Team Medical Dragon 2』(乃木坂太郎/林 宏司)
『マラソン』(寺田敏雄)
『ハウルの動く城』(宮崎 駿)
『I am Sam』(ジェシー・ネルソン)
『蟲師』(漆原友紀)
『新世紀エヴァンゲリオン』(GAINAX)
(*この作品については複数の学生が研究対象に選んだ)
『AKIRA』(大友克洋)
『ビーン』
『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二)
『にじいろのさかな』(マーカス・フィスター)
『ガシェ医師の肖像』ほか(ゴッホ)
『妹の恋人』(ジュレマイア・チェチック)
『死ぬまでにしたい10のこと』(イザベル・コヘット)
『鉄コン筋クリート』(松本大洋/マイケル・アリアス)
(*この作品については複数の学生が研究対象に選んだ)
『Buttons』(エリザベス・レイトン)
『解夏』
『エディット・ピアフ 愛の賛歌』
『タイヨウのうた』(渡邉睦月)
『サトラレ』(佐藤マコト/本広克行
『SILENT HILL』(コナミ)
『エルの楽園』(Sound Horizon)
『BLACK JACK』(手塚治虫)
『CHRONO CROSS』
『Dolls』(北野武)
『月に照らされて』(はりたつお)
『筒井町天皇祭』
『さよなら絶望先生』(久米田康治)
『博士の愛した数式』(小川洋子)
『バガボンド』(井上雄彦)
『箪笥』(キム・ジウン)
『零~紅い蝶』(柴田誠)
『ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン』(ヨーゼフ・シュティーラー)
『光の帝国』(ルネ・マグリット)
『トイレへ逃げこむ人』(石田徹也)
『TRIADIC MEMORIES』(モートン・フェルドマン)
『世界中の子と友達になれる』(松井冬子)
『アンダルシアの犬』(ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ)
『からくりサーカス』(藤田和日郎)
『私の頭の中の消しゴム』
『ブレイブ・ストーリー』(宮部みゆき)
『LEON』
『漂流教室』(楳図かずお)
『COLLATERAL』(マイケル・マン)
『NHKにようこそ』(滝本竜彦)
『怪~ayakashi~ JAPANESE CLASSIC HORROR化猫』(中村健治)
『ゆめにっき』(ききやま)
『叫び』(ムンク)
(*この作品については複数の学生が研究対象に選んだ)
『ポケットモンスター』(テレビ東京)
『我が子を食らうサトゥルヌス』(ゴヤ)
『2ちゃんねる掲示板』(ひろゆき)
『火垂るの墓』(高畑勲)
『インストール』(綿矢りさ)
『二人のフリーダ』(フリーダ・カーロ)
『<長崎>熱線とその後の火災で溶解変形した瓶』(東松照明)
『DEATH NOTE』(大場つぐみ/小畑健)
『TAXI DRIVER』(マーティン・スコセッシ)
『Serial experiments lain』(小中千昭/安倍吉俊)
『シザー・ハンズ』(ティム・バートン)
『es[エス]』(オリバー・ヒルシュビーゲル)
『妄想代理人』(今敏)
『十二国記』(小野不由美)
『カウントダウン(PV)』(Cocco)
『マルコビッチの穴』(スパイク・ジョーンズ)
『自画像』(ゴッホ)

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【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2007年度最終レポート「疾病論」

 本日、芸術療法講座2007年度の最終レポートが大学から郵送で届く。
 因みに2007年度の最終レポートは以下の通りである。

名古屋芸術大学芸術療法講座 「美術史から読み解く疾病論・医学概論」
【2007年度 成績評定用レポートテーマ】
「疾病論」
【概要】
視覚表現を主体とした芸術作品を1点選び、その作品の中に内在している「病」について論じて下さい。
批評対象は、美術、映画、建築、映像表現(CG、ミュージック・クリップ)、広告、デザイン、アニメーション、漫画など、視覚表現を主体とするものならば可。
【文字数】
所定の400字詰め原稿用紙×10枚

 当初、レポート・テーマの研究対象は、美術作品に限定していた。芸術療法の講義の中では、古代ギリシャ時代からポストモダンまでの西洋美術史と医学史を同時に学びながら、美術と医学、あるいはアートと医療(セラピー)の歴史的関わり、「病」の見え方、いわゆる「癒し」という行為における社会学的認識やそこに生じる差異などについて考察していくというものなので、その総括をこめて、西洋哲学、心理学、精神医学などとも関わっている「美術」に限定したわけである。
 しかし考えてみれば、今日の時代において「病」というものは、我々の身体を離れていたるところで多様な形で内在しているわけで、当然のことながら、美術という視覚表現以外にも多様な影響をもたらしているのも事実である。そのような理由から、上記のように視覚表現に限って批評範囲を広げてみたのである。
 レポートを見ると、おおよそ「病」とは結びつきそうもない作品や、すでに定型的な評価を得ている著名な作品を研究対象とした学生もいるが、実はそのような作品とあえて向き合い、異なった「読み方」を探るという方法論は、臨床学ともおおいに共通する部分もある。
 また、私はまったく予想もしていなかったのだが、インターネット巨大掲示板「2ちゃんねる」を研究対象にした学生が1名いた。「2ちゃんねる」は基本的にはテキストが集積されたメディアであり、視覚よりテキストに重心が置かれたものと理解するのが常識的だ。したがって、これを果たして「視覚表現」として定義できるかどうかは難しいところであるが、中には文字や記号の集積によって「像」を作るアスキー・アートなるものも存在し、また例えば、「2ちゃんねる」に集積されたテキストが、映画『マトリックス』のオープニング・イメージで見せたテキストのビジュアル化や、『新世紀エヴァンゲリオン』にしばしば登場する象徴的なタイトル文字のカットインの例を引用すれば、PCの画面上で展開される「2ちゃんねる」も、webメディアの視覚的コングロマリットと言えなくはないので、この「2ちゃんねる」を研究対象としたレポートも、メディア論におけるひとつの問題提起として受け取ることにした。
 それからもう一つ非常にユニークであったのが、地元の夏祭り『筒井町天王祭』についてのレポートである。このような研究対象が出てくるのもまったく予想できなかったが、これも広義の上では視覚的身体表現といっても良いであろう。しかも、この祭自体、古くから疫病退散を祈願するという目的があり、この部分に古来人々は「病」をどうとらえ、「病」とどう対峙してきたのかを民俗学的に考察する契機にもなる。
 関連することと言えば、芸術療法講座第2回の古代ギリシャ医学の「病の起源」についての講義の中で、これと対比するかたちで日本古来の人々の「病」のとらえ方について、ダニが媒介となるリケッチアの一種、「ツツガムシ」病についての説話・伝承も同時に取り上げた。そこで私は戯画で擬人化された「ツツガムシ」や、山形の農村地帯に「病除け」のために建立された祠の写真も見せたりしたので、もしそのことの意図が多少でも伝わった結果、展開されたものであるなら興味深い。

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18. November 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】学生のレポートを読む~医療空間における芸術作品について

 ここ近年のことだが、知人、友人が医師として働く病院や医院から、臨床関係の勉強会以外でもさまざまなイベントの案内を頂くようになってきた。具体的には、病院受付ロビーを解放したお笑いや大道芸人の舞台、コンサート、美術展などである。このような行為はやはり物珍しいのか、後日かならずといっていいほど、地元新聞やタウン誌などで「地域のニュース」として記事となることが多い。
 しかし、よくよく考えてみれば、ホスピタルという空間の原型が、古くは古代ギリシャで生成され、後にそれが修道院により近代化されて今日に至る一連の流れをみれば、このような状況──即ち、療養空間に、臨床学的な医療の他に芸術や哲学などの多様な要素が入り込み、そこでそれぞれが補完し合いながら、一つの療養空間を形成しているというのは、奇異なことではなく、むしろきわめて人間的なことであり、こちらのほうが、ホスピタルという空間が持つ本来の原型に近いと言えるのである。
 例えば、療養空間と芸術作品(主に絵画)の結びつきを考えた場合、名古屋芸大の芸術療法講座でも取り上げたが、キリスト教絵画の中のマリア像や、病をメタファーにしたイコンなどを挙げることができる。これらの作品は、医学が科学として体系づけられていく以前の発展途上の時代に、病者の祈りの対象として存在したり、<奇跡的な治癒>を体験するための装置として機能していたわけだ。
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ウッチェロ「聖ゲオルギウスと竜」(1456-1460)

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フラ・アンジェリコ「助祭ユスティアヌスの治療」(1445)

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グリューネヴァルト「聖アントニウスの誘惑」(1515)

 翻って、現代の療養空間ではどうか?
 例えば冒頭にあげた医療空間を利用したさまざまなイベントだが、これはあらかじめイベントとして広報し、このイベントそのものが、現代医療空間における<癒しの空間の体現>、または<ホスピタリティの体現>といった明確な達成目標があり、かつて修道院時代のホスピタルが自然発生的に備えていた、いわゆるホスピタリティとは若干性質が異なるものである。むしろ、空間的にこれに近いのが、病院の壁やロビーに何となく展示してある絵画を中心とした芸術作品の存在である。

 名古屋芸術大学・芸術療法講座の中では、これをテーマに以下の設問を学生らに与えた。

名古屋芸術大学 芸術療法講座
「美術史から読み解く疾病論・医学概論」第5回 レポート

【設問】
中世における傷病人の看護は、現代のような医療機関ではなく、その多くは修道院が担っていた。また、中世の看護とは、養育や養護という行為と一体化しており、キリスト教絵画で描かれるマリア像も、「癒し」のための祈りの対象として機能していた。
翻って、看護・医業が細分化、専門化されている現代の病院空間において、しばしば展示されている絵画や彫刻などの芸術作品は、患者にとってどのような役割を果たしているのか説明して下さい。

 この設問に対し、多くの学生が患者としての実体験から、いろいろと興味深いレポートを書いている。
 まずこのレポートの中で、ほとんどの学生が、医療空間に芸術作品が存在することを好意的にとらえている。その理由として、
「医療空間という無機的・無味乾燥な空間に芸術作品が存在することで、有機的な空間を作りだしている」
「患者にとって病院という閉鎖された空間の中で、芸術作品は外界とつながる唯一のものである。したがって、患者が感じる孤独感を緩和する作用がある」
「芸術作品は、“生きることの原初的な欲求”で生成されており、そのことが患者や医療スタッフのモティベーションを向上している」
「芸術作品を見ることで、病気などの気を紛らわすことができる」
などがあげられている。
 その中で実体験に基づく詳細な事例として、たとえば、自分が患者で待合室にいて何らかの作品を鑑賞する時に、その作品の制作者のプロフィール、作品の技法、テーマなどについて考えをめぐらすことで、暇つぶしや気分転換になったり、病気から離れることができる、という画学生らしい回答がある一方で、作品のディティルに目がいくことで、その作品の所有者、つまりは病院の院長あるいは理事長の権威主義的な人格を想像してしまい、かえって気分が悪くなる、という興味深い回答もあった。
 具体的には、展示されている作品がアマチュア画家や無名アーティスト(おそらく病院関係者の友人、知人からの寄贈と思われる)の作品ならばそれほど違和感がないが、美術年鑑で号の価格が掲載されているような作家や、公募美術展などである程度著名な作家の作品が展示されていた場合は、患者の気分を癒すというホスピタリティよりも、医者の権威主義を感じてしまう、というものである。また、展示されている作品がいかにも高価そうだったり、俗物的だったりした場合、やはりその病院の院長らの美意識のなさに気分が悪くなる、というものである。
 これは思いもよらない面白い回答だが、考えてみれば、山崎豊子作『白い巨塔』の中でも、主人公の財前が、教授選挙で自分に有利にはたらくように、医局内の有力者に心斎橋あたりの著名な画商がついていそうな画廊から絵画を購入し、それを賄賂として贈るという場面もあったわけで、芸術作品をいわゆる旧来の「洋画」マーケットでとらえた場合、例えば同じく山崎豊子作『華麗なる一族』に登場する錦鯉のショーグンと同じような、有力者の権威を象徴するものとして映るようである。
 また、もうひとつの問題提起として、「あたりさわりのない作品が展示してある」という回答もあったが、これはかなり重い意味を含んでいる。つまり、ここでの回答の<あたりさわりのない作品>とは、明らかに医療スタッフが認識している定型的な患者像を想定してのものであり、いたずらに「死」や「病」を連想させてしまう作品や、色調の暗い作品、あるいは激しいストロークの作品などは除外し、凡庸な静物画や風景画のことを意味するのであろう。つまり、このような<あたりさわりのない作品>は、医療スタッフ側からしてみれば、患者に余計な精神的ストレスを与えまいとする配慮なのであろうが、レポートの多様な事例を見ればわかるように、花が挿してある花瓶の悪趣味な模様から、医療スタッフの美意識や人格を想像してしまい気分が悪くなる場合があるように、医療スタッフ側が定型的に考えていると思われる<あたりさわりのない作品>というもの自体が、いかに曖昧な存在であるかがわかる。むしろ、「死」や「病」を意識させるような作品と対峙してこそ、自分の「生」を強いコントラストで認識することもできる場合もあるのではないか。そのような問題を提起してくれるレポートであった。

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23. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】学生のレポートを読む~画家の自画像について

 先週放送した「3年B組金八先生」は、私にとって実にタイムリーな内容であった。この回のエピソードは、今社会問題化しているバカ親、いわゆるモンスターペアレントの執拗な過干渉により、担任やクラスメイトとの人間関係がうまくいかなくなってしまった児童が主人公であった。彼の父親は地元の有力な政治家で、母親も、自分自身は何のスキルもステイタスもないのにもかかわらず夫の権威にただぶら下がり、そのことでしかIDを得ることができない自己顕示欲の強い主婦である。昔なら教育評論家の阿部進が、こういったバカ親のことを“ママゴン”と怪獣のように呼んだものだ。
 さて、バカ親の話はこのへんにして、物語の中核は、バカ親の圧政に苦しんでいる1人の児童が、ある美術教師との関わりの中で、次第に親からのプレッシャーから解放されて、強い精神を獲得していくというプロセスにある。
 その美術教師が用意したワークショップがクラス全員に自画像を描かせることである。そこでクラスの他の児童たちは鏡で自分の顔を興味深く凝視しながら、楽しそうに自画像を描くのだが、先ほどのバカ親の子だけはなかなか描くことができない。しまいには自分の姿を直視できなくなり泣き出してしまう。そして、自分の親に向かって、「本当の自分の姿はどうなのだ」と詰め寄るのだ。これが彼にとっての初めての「主張」であったと思われる。
 この美術教師のねらいとは、普段は一番よくわかっているはすの自分の姿を、改めて客観的に見つめてみる、ということだ。
 折しも、私も直近の名古屋芸大での「芸術療法講座」の講義の中で、自画像について取り上げたばかりなので、実にタイムリーである。

 私は「芸術療法講座」の第9回講義の中で、精神を病んだ画家の一例としてゴッホとムンクを取り上げた。
1889_2
ゴッホ「自画像」(1889)

1919
ムンク「スペイン風邪の後の自画像」(1919)

 そして、学生に対し、次のような設問を投げかけた。

【設問】
印象派の代表的な画家・ゴッホ、表現主義に影響を与えた画家・ムンクは、ともに精神を病みながら、その病んだ自分の姿をモティーフにして多くの作品を制作した。
画家にとって、病んだ自分の姿を自画像として描くという行為には、どんな意味があるのか考えて下さい。

 この設問に対してのレポートを、今あらためて読んでいる。その中で興味深いのは、「病気の自分を描くことで、自分の病の本質を客観的にとらえることができる」それにより、「病というものの偏見や恐怖を克服する」という解答や、「自分の病を描くことによって、自分が抱える病が外に放出されて楽になる」という解答もあった。この「病を放出する」ということについては、「自分の作品の中に病を転写する」、あるいは「作品の中に病を封じ込める」という具体的な方法論に言及したものもあった。
 実はこういった方法論は、実際にアート・セラピーや、癌などの難治性疾患の終末期医療の現場では、「イメージ療法」という形式で行われているものだ。特に後者の「病を外に放出する」という行為は、身体を使ったダンスセラピーや、熱中しながら造形作品を作らせる絵画療法と大いに共通する部分がある。
 私はこの設問を設定するにあたり、学生らに対しては、あえてアート・セラピーの現場でのこういった予備知識を与えなかった。それは、心理学における定型的な知識からではなく、芸大生なのだがら、日頃の作品制作をとおしてのアプローチから、クリエイターとしてこの問題を考えてもらいたかったのである。結果、偶然にも実践的なアート・セラピーと大いに共通する帰結点をみたわけだが、ここにこそ、医療におけるアートの役割の可能性を垣間見たきがしてならない。
 他にもこの回のレポートは、いろいろと読みどころ満載なので、後日また詳しく書きたいと思う。

 

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22. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】学生のレポートを読む~スペクトルマンについて

 先日の名古屋芸大での芸術療法講座第14回講義の中で上映した「スペクトルマン」についての学生のレポートがとても興味深い内容である。(この作品の内容についての詳細は、10月20日付けの記事を参照)
 私はこの作品について、以下のような設問を設定した。

【設問】
知的障害者である三吉青年は、他の人間と同様に暮したいという思いから、一つの選択をしましたが、彼が人間らしく幸せに生きていくためには、他にどんな選択の可能性があったと思いますか?

 これについて様々な意見が寄せられた。一番多かったのは、三吉君は天才になる脳外科手術を受けないで、今のままでも十分に幸せなのだから、地域のコミュニティの中であたたかく見守られながら暮らしていくほうが良かった、という意見である。では、どうして他者から見ると幸せそうに見える三吉君が、脳外科手術を選択せざるを得なかったのかというと、周囲の人間や子供たちから「バカは死ななきゃ治らない~」と馬鹿にされるのに耐えられなかったわけで、地域の中から彼を追いやり、究極の選択をせざるを得ない精神状態にまで追い詰めてしまった周囲の人間にこそ問題があると、実際の障害者医療の現場での事例を引用して、我々周囲の人間の方を厳しく断罪する内容のレポートも散見された。またその一方で、三吉の周囲の人間の中でも、いつも昼食時にそばを注文してくれるGメンの人々や、孤児である三吉をそれなりにかわいがっているそば屋の店主などは、三吉に対して口は悪いが愛情を持って接しているのだから、三吉君も自分が周囲の人間から大切にされていることに気づくべきであったという意見もあった。
 一方で、三吉に対する厳しい意見も寄せられた。それは、彼の当初の希望であったはずの「人並に利口になりたい」という欲求に満足せず、最終的には「天才になりたい」といった具合に欲望が際限なく肥大化した結果、悲劇が起ったというものである。そして、たとえ天才になるにしても、天才になったら何をしたいかというモティベーションがなく、ただ、今まで自分のことをバカと罵っていた周囲の人間を見返してやりたいという思いだけだったのではいか、という意見もある。
 それから少し異なった角度からの意見であるが、三吉君は「人並み」の知能を獲得した後、それからはフェアに他の人と同じ方法で競争して大学に入るなり、博士になるべきであった、という意見である。この意見はわりと重いメッセージを含んでいるといえる。それは、障害者医療の現場でもしばしば議論される「機会の平等」という問題だ。障害者の周囲にいる人間は、彼らのことを先天的に社会的弱者であると規定している側面があるので、彼らにとっても不本意である不要な特別扱いをしてしまうことがある。その心理の根底にあるのは、我々が誰しも隠し持っている欺瞞性や道徳心なのである。
 またこの他にも、三吉君の地域での自立の可能性について模索したものもあった。例えば、同程度の障害者だけ集まってグループホームのようなところに住めばよかった、という意見や、日常のかわりばえしない生活の中に、幸せを見つけていく努力をすれば良かったという意見もあった。その中で新しい方向として、三吉君はそば屋の出前だけではなく、自分でそば職人になり職人技を身につけて自立せよ、という意見である。そばの出前だけを一生やっていてもなんらスキルが身に付かないので、三吉君にも自分で生きていくためには何かスキルが必要であるという意見だ。この意見は、今現在、社会問題化している「ニート」、「ひきこもり」、「ワーキングプア」の社会病理とも意外に符号するのではないか。つまり三吉君に必要なのは、ある分野での突出したスキルなのであり、例えば彼の場合ならば「カリスマそば職人」になることも一つの方法だが、そのようなものを獲得すれば、他に劣ることが多少あったとしても人間としてのプライドは持っていられるだろう、ということである。どんな分野でもよいのでプロフェッショナルになることが、ニート脱出の第一歩であるのと同様に、障害者がプロフェッショナルとしてそれにふさわしい対価を得て地域で自立していくことの必要性を投げかけていると思えた。
 レポートをひととおり読み返して思ったことだが、議論百出なところ、そして悲劇的に死んだ主人公・三吉をも厳しく断罪する態度に健全性を感じる。また原作のプロットにはない今日我々が多く抱える社会病理の側面から出てきた意見も多く、非常に面白かった。
 毎回学生らのレポートを読んでいて思うことだが、こちらの方も彼らから多大な刺激を与えられているということである。これには毎回のごとく感謝している。

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21. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第14回「スペクトルマン48話・49話」上映

 名古屋芸大での芸術療法講座の第14回は、「スペクトルマン」の中から第48話・第49話を上映した。
 「スペクトルマン」は1971年から72年にかけてピープロダクションによって制作された当時の子供向けの特撮怪獣番組である。この時代の特撮作品の本流は、「ウルトラマン」などで著名な円谷プロであるが、それと一線を画して異色の作品を制作していたのが漫画家でもあったうしおそうじ率いるピープロである。その中でも「スペクトルマン」は、当時の70年代のわが国が抱える様々な社会病理をプロットのみならず登場キャラクターにまでも反映させているところが興味深い。
 当初、この第14回目の講義で上映する予定の作品は、「スペクトルマン」のほかに候補として、寺山修司、三島由紀夫の作品も実は用意していた。最終的に「スペクトルマン」を選んだ理由はいろいろあるが、まず、寺山や三島の作品は、芸術作品として一定の評価を得ている作品であるし、今後も十分に寺山や三島の映像作品にはふれる機会が多々あると思った。
 一方で、今回上映した「スペクトルマン」の第48話・49話は、知的障害者の社会的差別や自立の困難さをテーマとしたものであり、本講座「芸術療法」で最初に掲げた、“人間にとって「病」とは何か”、“人が「病む」こととはどういうことなのか”といった医学概論的な視座に立った大きなテーマと深く関わる内容であること、またこのような内容から考えて、現在の放送倫理規程においては地上波では放映できないであろう内容であることも含めて、この機会にこの作品の上映を決定した。
 私が興味深かったのは、本作品の主人公である知的障害者の三吉君が自分のために選択した方法を学生らがどう判断するのか、ということはもとより、すでに幼少時代から洗練されたCG映像などに見慣れている、いわばある意味で目のこえた彼らがこの作品を初めて見た時、今よりも格段に技術が劣る30年以上も前のテレビ特撮のチープさをどう受け入れるのか、ということであった。
 上映が始まると、人間が中心のドラマパートでは静かであったが、主人公が苦しみながら怪獣になってしまうシーンや、スペクトルマンに倒されるシーンでは、本来悲しいパートのはずであるが爆笑が起こった。やはり怪獣造形の滑稽さが喜劇にしてしまった模様であるが、一方で、主人公と仲良くしていた犬が巨大化して犬怪獣になり、スペクトルマンに両腕を切断されて鮮血を画面いっぱいに吹き出しながら絶命するシーンには、一部悲鳴も起こったりもした。ここの部分で、円谷作品と一線を画したピープロの毒気が多少は伝わったであろうか。
 しかし、上映後のこの作品の感想についてのレポートに目を通すと、学生の間にこの作品に対する微妙な温度差、感じ方の差異があるのがわかって非常に興味深い。レポートの内容は後日詳しく触れるとして、以下に上映の前に学生に配布した作品解説を添付する。

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名古屋芸術大学 芸術療法講座
「美術史から読み解く疾病論・医学概論」第14回

【上映作品解説】 
「スペクトルマン」第48話・第49話(1971年・ピープロダクション制作)
 「スペクトルマン」は、1971年から1972年にかけて、ピープロダクションにより制作された特撮怪獣番組である。
 当時の日本において特撮作品をリードしていたのは円谷プロであり、円谷プロは「ウルトラQ」に始まり、その後に「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」と続いていく、いわゆるウルトラシリーズによって怪獣特撮というわが国独自の様式を完成しつつあった。円谷英二によってその概念が確立された「怪獣」たちは、生物ではあるけれども、動物などとは異なる超自然的な存在として描かれ、倒される時も、流血するような生々しい描写は円谷の考えによって極力避けられた。それに対抗する形で現れた作品が「スペクトルマン」であり、円谷の怪獣が超自然的であるならば、スペクトルマンは徹底したリアリズムにこだわったのである。
 たとえば、怪獣を倒す防衛チームであるが、ウルトラシリーズの場合、「科学特捜隊」、「ウルトラ警備隊」、「MAT」、「ZAT」といった防衛チームは、官僚組織を中核にしたエリート集団であるのに対し、スペクトルマンにはそのような防衛組織は登場せず、その代わりに東京都公害調査局分室の「公害Gメン」(後に「怪獣Gメン」に改変)という都の職員たちが防衛にあたる。登場する怪獣たちも、当時のわが国の世相を反映し、公害怪獣、ゴミ怪獣、地震怪獣、そして物語のプロットの中には臓器移植問題、受験戦争、交通戦争、オイルショックといった70年代のわが国が抱えていた社会問題が随所に挿入されている。ここにおける怪獣の姿とは、まさしく時代・世相の「病」をメタファーにして生まれたものであり、その異形の身体が、病んだ我々の「心」と「身体」を投影しているともいえる。
 その中で、本作エピソードの第48話「ボビーよ怪獣になるな!」・第49話「悲しき天才怪獣ノーマン」は、SF文学で最も権威のあるネヴュラ賞を受賞したダニエル・キイス原作「アルジャーノンに花束を」をオマージュした傑作である。
 知的障害者の青年と彼のペットであるネズミとの友情を描いた「アルジャーノンに花束を」は、近年舞台やTVドラマで多くリメイクされているが、本作の場合、原作にはない悲劇性を持たせることによって、障害者医療におけるQOL(Quality of Life)の問題に、より深く肉薄しているといえよう。
 物語は、小さな町のコミュニティで住民とともに共生して生活している知的障害者の三吉青年が、人並みに生活したいと願ったことから知能を向上させるための脳外科手術を受けるところから始まる。そして、人並み以上の能力を獲得した三吉青年は、彼をとりまく環境や人間関係の変化や、致命的な副作用という大きなリスクを負うこととなる。
 本作は、知的障害者の置かれた立場やそれにまつわる差別というナイーブな問題をテーマとし、実際にストーリーの構成上、知的障害者に対する差別的表現があるために、今では地上波では放送される機会が失われた。だが当時の子供向け番組とはいえ、後世に残る名作である。(「芸術療法講座」講義内で配布)

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20. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第13回講義 モダニズムにおける新しい「死」と「病」の概念(2)

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第13回講義
モダニズムにおける新しい「死」と「病」の概念(2)
~近代腫瘍学との関わり

【医学年表】
1942年 マスタードガスの誘導体であるナイトロジェンマスタードが、悪性リンパ腫
      に有効であることが示され、抗癌剤の第一号となった。 (アメリカ)
1944年 スプレプトマイシンを開発(アメリカ)
1948年 クロロマイセチンを開発(アメリカ)
1949年 リドリーにより、眼内レンズの最初の移植が実施された。 (イギリス)
1950年 日本で胃カメラを開発(オリンパス工業)
1952年 ソークは、最初の小児麻痺(ポリオ)ワクチンを開発。 (アメリカ)
1953年 シャーマン・ブンケにより凍結精子で初の人工授精児誕生 (アメリカ)
1957年 ウォルターは、脳波測定法を開発。 (イギリス)
     エリック・アイザックスら、インターフェロンを発見・命名。(イギリス)
1964年 麻疹の最初のワクチンが開発された。(アメリカ)
1965年 パントリッジは、最初の携帯用の細動除去器を導入。 (イギリス)
1967年 バーナード、世界初の心臓移植を行う。(南ア共和国)
1968年 アメリカでX線CT装置が開発される。
1970年 風疹の最初のワクチンが開発。 (アメリカ)
1973年 ラウターバー、核磁気共鳴画像法(MRI)の研究を発表。 (アメリカ)
1978年 世界初の体外授精児誕生 (イギリス)
1982年 HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の発見。
1996年 体細胞クローンの子羊ドリー誕生 (イギリス)
1998年 ウィスコンシン大学、ヒトES細胞株の樹立に成功(アメリカ)

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15. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第12回講義 モダニズムにおける新しい「死」と「病」の概念(1)

名古屋芸術大学・芸術療法講座

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第12回講義
モダニズムにおける新しい「死」と「病」の概念(1)
~心理学、近代精神医学との関わり

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14. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第11回講義 「国家」、「都市」と「身体」におけるインサイド/アウトサイド

名古屋芸術大学・芸術療法講座

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第11回講義
「国家」、「都市」と「身体」におけるインサイド/アウトサイド
アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の台頭

 今回の要点は、20世紀に入って国民国家主義が台頭してきたことと、それにともなう公衆衛生概念の変化が、人間の「健康な身体」に対する意識形成にどう影響したかということの考察である。
 まず、国家がめざす「健全な身体」像が国民に提示されたことによって、人々は、より好ましいスタンダードな身体=「健全な身体」を希求するようになる。そして、健全なるもの(正常)と、そうでないもの(異常)とを区別するようになるわけだが、はたしてこの「正常」「異常」の線引きは、明確な根拠や基準があって、きっちりと分けられるものなのかどうか、まず疑いをもつことから講義はスタートする。
 最初に私は、自身のドック検診のデータを学生に提示した。検査データの横には、WHOが提示している標準値(正常値)を併記した。私の身体データはすべて正常値に納まっているが、これがもし、5ポイントか6ポイント、わずかではあるが正常値から外れた場合、こいれを「異常」と捉えるのか否か、という問題について考えた。例えば、もしこのままこの数値が今後も動かなければ、これは誤差の範囲内での被験者の「体質」ともいえるわけで、昨今、テレビでの健康情報番組などの影響なのか、あまりにも検査結果の数値をストイックにとらえてしまうことによって、かえってストレスを感じてしまい、そちらのほうで体を壊すというナンセンスさを例示してみた。
 次に具体的な例として、おもに西アフリカ系民族が持っている「鎌状赤血球遺伝子」の話をする。これは医療人類学でもしばしば取り上げられる事例であるが、鎌状赤血球遺伝子を持った人は、赤血球が三日月状に変異する「鎌状赤血球貧血」を発症すると、貧血や血栓などの症状が出て、体に害を及ぼすが、一方で、ヒトの赤血球に寄生するマラリア原虫は、この鎌状赤血球遺伝子を持った赤血球に寄生しても、壊れやすい赤血球の組織と一緒に潰されてしまい、マラリアが発症しない。
 言い換えると、ある限定された地域の人たちは、この遺伝子を持っているおかげで、マラリアには罹らず、結果的に「種の保存」という大原則でみた場合、単に劣性遺伝子とはいえない、ということである。
 ようするに、われわれが、固定観念のもとに判断してしまう「正常」「異常」とは、実はその境界線は微妙なものであり、そんなにすっきりとは区別できないものである。
 以上のようなことを踏まえてから、今回は、何らかの理由で先天的または後天的に心身に異常を持っているアーティストが制作した芸術作品、いわゆる世間ではアウトサイダー・アート、またはアール・ブリュットと呼ばれているものを数点見たあと、東京にある障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の試合の動画の一部を上映した。
Doglegs
天願大介監督「無敵のハンディキャップ」

 ここで私が問いたかったのは、同じ障害者の行為であっても、なんで音楽や美術や詩などのたぐいの芸術活動は、世間一般の目に触れる機会が多いのに、プロレスやお笑いはダメなのか、という問題である。
 ドッグレッグスの試合についても学生にレポートを書いてもらったが、やはりほとんどの学生がこんな障害者たちがいることを知らなかった模様である。レポートについては後日詳しくふれるが、ここで少し補足すると、たとえば、

“障害者というと、作業所などで軽作業をしたりするイメージがあったので、衝撃的だった”

 という内容のレポートを書いてきた学生が多くいた。その一方で、身近に障害者がいるらしき学生が、障害者というと世間からは前者のように見られがちだが、むしろそのことに違和感を覚える、という趣旨のレポートを書いてきている。
 ようするに、芸術活動や食品製造などで自立自助をしている障害者の姿は、一般的にみて好ましく見えるようがだ、まずそこに疑いをもたなければいけない。われわれは彼らと接するときに、実は常に「世間」というものがつくった「道徳」とか「良識」という踏み絵を踏まされているということだ。
 われわれが、“芸術活動は素晴らしい行為だ。プロレスやお笑いは見世物だ。”と思った瞬間に、障害者に対する実に定型的な認識とともに、われわれの心の奥底に潜んでいる欺瞞性があぶりだされるのである。

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13. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第10回講義 「表現主義からシュルレアリズムへ」

名古屋芸術大学・芸術療法講座

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第10回講義
1.表現主義からシュルレアリズムへ
~肥大する「こころ」と「身体」~
2.「異形」をめぐるメタファーとしての病

【医学年表】
1885年 パスツール、狂犬病ワクチンの製造に成功する。 (フランス)
1890年 エミール・フォン・ベーリング(ドイツ)と北里柴三郎、抗毒素を発見し、
      破傷風ならびにジフテリアのワクチンを開発した。
      コッホ、ツベルクリンを製造する。(ドイツ)
1895年 ヴィルヘルム・レントゲン、X線を発見。(ドイツ)
1897年 ホフマンによりアセチルサリチル酸が合成される。(ドイツ)
1898年 キュリー、ラジウムを発見(フランス)
1901年 ランドシュタイナー、血液型を発見。 (オーストリア)
      ノーベル賞創設(スウェーデン)
1906年 ワッセルマン、梅毒の血清反応を考案(ドイツ)
1907年 エールリッヒは、眠り病に対する化学療法を発見。 (ドイツ)
1908年 ホースレー、脳手術の定位固定法を確立。 (イギリス)
1910年 パウル・エールリッヒと秦佐八郎がサルバルサンを合成。
1921年 エドワード・メランビー、ビタミンDを発見。 (イギリス)
1928年 アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見。 (イギリス)
      ベンゲル、脳波を発見(ドイツ)
1932年 ゲアハルト・ドーマク 、連鎖球菌に対する化学療法を発見。 (ドイツ)
1933年 マンフレッド・サケル、精神病治療にインシュリン・ショック療法。
1934年 ルスカ、電子顕微鏡を発明(ドイツ)
1935年 メドナ、精神病治療に痙攣療法を提唱した。 (ハンガリー)
1936年 アントニオ・エガス、ロボトミー手術を提唱した。 (ポルトガル)

(日本)
1889年 北里柴三郎、破傷風菌の培養に成功する。
1894年 北里柴三郎、エルザン(フランス)、ペスト菌を発見する。
1897年 滋賀 潔、赤痢菌を発見する。
1900年 高峰譲吉ら、アドレナリンの純粋分離に成功する。
1906年 田原 淳、心臓の伝導系(田原氏結節)を発見
1911年 鈴木梅太郎、オリザニンを創製。
1913年 野口英世、梅毒スピロヘータを発見する。
1915年 山極勝三郎、市川厚一、人工タール癌の発生に成功
      稲田竜吉・井戸 泰、レストスピラを発見する。
1926年 三宅 速、胃癌における「ボールマン分類法」を日本に伝える。
1932年 吉田富三、佐々木隆興、肝臓癌の人工発生に成功する。

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09. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第9回講義 「狂気の原風景」~印象派に投影された精神と身体の変容~

名古屋芸術大学・芸術療法講座

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第9回講義
 「狂気の原風景」~印象派に投影された精神と身体の変容~

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08. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第8回講義 西洋戯画の中の「生・老・病・死」~「死」と「舞踏」

名古屋芸術大学・芸術療法講座

美術史から読み解く疾病論・医学概論 第8回講義
西洋戯画の中の「生・老・病・死」~「死」と「舞踏」

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07. Oktober 07

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第7回講義 「ラファエル前派に描かれた恍惚の女性像」~「卒倒」「昏睡」の美学と麻酔学の関わり

名古