ドラマ

19. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#13「満月の夜に(最終話)」(FOXチャンネル) 

 毎週火曜日にFOXチャンネルで放送していた画期的な精神医療ドラマ『メンタル:癒しのカルテ』が最終話を迎えた。ここでよくあるアメリカドラマならば,物語の伏線が全て繋がり,登場人物たちがそれぞれ新しい人生へと旅立つという明るいパターンで締めくくられるのであるが,このドラマはこのような安易な終わり方をしなかったことで,視聴者を裏切らなかったといってもいいであろう。その代わりと言っては何だが,見るものには大きな失望感を残したまま,主人公のDr.ギャラガーは我々のもとから姿を消してしまったという感じである。

 そもそも,鳴り物入りで赴任してきたギャラガーは,ウォートン記念病院というオーソドックスで規律正しい病院を,例えばラカン派のフェリックス・ガタリやジャン・ウーリが始めたフランスのラボルド病院のような,異文化理解,多文化共生的な地域精神医療的空間に変革していこうとしていたわけである。そしてそれにともなう病院側の抵抗勢力と闘いながら,患者の自立と自由,すなわちアンデパンダンを勝ち取ったわけである。
 まず精神病棟の入院患者にも自由時間が与えられるようになり,ギャラガーの同僚も彼に理解を示し,患者のバックボーンにある文化的背景,民族的背景にまで気を配るようになっていった。これは大きな進歩ではあるが,ギャラガーがその場にいてこそ動機付けされるものであり,彼がその場からいなくなってしまえば,おそらくこの体制も空中分解してしまうであろう。なぜなら,ギャラガーの同僚たちは,ギャラガー自身を理解しているのであって,彼が実践しようとした精神医療における新しい試み自体を,どれほど深く認識していたかは不明だからである。
 実際に,ギャラガーも,患者とのコミュニケーションには多くの時間を割くが,同僚との関わりには一定の距離を置くという個人主義を徹底しているように見えたのである。チーム医療でありながら個人主義を貫くギャラガーの姿に,少々の違和感を覚えることもあった。今回,ギャラガーが最後に視ることになった狼化妄想障害の患者とのやりとりも,彼の独断で遂行されたものであり,周囲の同僚はそれを取り巻くように見守ることしかできないのである。

 そして今回の最終話で,彼自身も実は心の「病」を抱えていたことが暴露され,納得せざるを得なかったのである。
 ギャラガー自身が抱えていた「病」とは,統合失調症である。そしてもちろん彼にはその「病識」がある。彼が時折患者の人格をそのままトレースしたように,患者の内面に入っていく様子は,ギャラガーの別人格がなせる技だったということか。また,彼がスピリチュアルな代替医療にも積極的にコンタクトしていたのは,医師としての限界を感じているのとともに,自分自身も「病」で苦しんでいたとも理解できる。
 ギャラガーが,別人格のもう一人の自分をカウンセラーに見立てて対話するシーンがたびたび登場するが,この対話の相手は自分の全てを知っているような全能な存在であり,スタートレック『ネクストジェネレーション』シリーズに登場する全能な知的生命体Qとピカード艦長との間で繰り広げられる哲学的な対話と類似している。スタートレックでは,いまだにQの存在が明らかにされてはいないが,Qの存在とは,自分の中に内在する「自分が考え得る理想的で全能な人格」が,別人格として自分から分離した状態に表れるモノであると私は認識している。つまりこれこそが統合失調症である。
 ギャラガーは,自分から分離された人格と対話することによって,医師を辞めて,ウォートン記念病院を去ることを決意する。彼は,病院改革の途上でそこを去り,家族との軋轢,妹の病やケアについても何ら解決できずに去るわけである。彼が多くの難しい症例の患者に試みた数々の画期的治療法,診断法は,その患者に対してだけ有効なオーダーメード医療であり,これをスタンダードなルーティーンとして転用することは出来ない。したがって,ギャラガーが去ったこの空間では,それを実践することはできないのである。
 常に患者の立場に立って行動していたギャラガーは,見ようによっては多くの患者を途中で投げ出したことになるが,このスタンスにも,ある実在した人物の行動と重なるところが多々ある。ギャラガーのこの選択は,肝臓癌で亡くなった作家で元医師であった永井明を彷彿とさせるのである。
 永井明は『ボクが医者をやめた理由』という医療エッセイで文壇デビューした作家であった。彼の研修医時代の自伝的エッセイを読むと,永井明もギャラガーと同様に非常に患者思いであり,時には自分を犠牲にしてでも患者のことを真剣に考えているのがわかる。しかし,研修医時代を終えて実際に医療現場に関わっていくうちに,このがんじがらめの制度の中で疲弊していき,ついには医師を辞めてしまうわけである。そして医師を辞めた永井明は,作家,医療ジャーナリストという立場で文筆活動を続ける中で,医療制度の諸問題を提起するとともに,病人とも医師としてではなく人間として付き合っていこうとしたわけである。その永井明も最後は重い病に倒れるのだが,しばしば著名人にみられるような,所謂「闘病記」などでそれを表すこともなく,誰も知らないうちにひっそりと亡くなっていくのである。
 永井明が亡くなる前に最後に残したエッセイが,何かから自分が逃亡するような内容であった。自分は全てのものから逃げるぞ,というようなことが綴られている。彼も元臨床医として,自分の癌がかなり進行していたことを冷静に認識していた。そして闘病を表明することなく文筆活動を続けながら,「病」から静かに撤退をしていったのだと私は理解している。
 ギャラガーがわずかな荷物だけをまとめて一人でたたずむ姿は,他の仲間のように,新天地に挑むという印象は受けない。むしろ,全ての空間,状況,人間関係からいったん撤退を決めた,ひとりの元・精神科医の姿がそこにあった。形式的な医療批判を繰り広げる社会派医療ドラマよりも,深い示唆に富んだラストである。


『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#12(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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12. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#12「不要な身体」(FOXチャンネル)

 以前のエピソードで,いわゆる「精神外科」,すなわち,精神疾患を外科的処置により根治を目指すという立場の医師がクローズアップされた。この場合,例えば帯状回切除など,主に脳の葉切除が適用されることから,しばしば人道上の問題が浮上してくる。
 今回本エピソードで登場する病は,「身体統合同一性障害」である。これは,類似した疾患である「性同一性障害」と同様に,精神と身体の統合に障害が生じる病である。「性同一性障害」については社会的な認知も進み,わが国でも,治療の一環である性転換術や,戸籍の変更などにも理解が広まりつつある。
 特定の「性」を持って生まれた自分の身体に違和感を覚え,それを拒絶してしまうのが「性同一性障害」であるとするならば,「身体統合同一性障害」はさらに複雑である。この場合は,自分の固有の「性」ではなく,身体そのものに違和感を覚え,それを拒絶する行動の表れとして,自分の四肢を意図的に傷つけたり,時には切断する場合もある。この場合特にパラフィリア(この場合「四肢切断愛」)とも呼ばれ,先天的な身体障害に対するフェティシズムが引き起こす,一種の偏執気質と捉えられる場合もあり,医師は非常に困難な選択を迫られることが多い。パラフィリアを単に偏執的趣向と捉えるのか,病的事例として捉えるかは判断が難しいところである。しかし実際に,このパラフィリアが病的に移行した場合は,空想の範囲内であった「四肢切断愛」が,それを実際に遂行することで,甚大な外科的侵襲をもたらす結果となる。
 ギャラガーのもとに運ばれてきた工場労働者の青年は,まさに身体統合同一性障害の患者である。彼は作業中に指を誤って切断したという名目でギャラガーのいるウォートン記念病院の救急外来に運ばれてくる。本来ならば事故による怪我であるから外科医が対応するところであるが,この青年の言動に不自然な点が多々あり,精神科部長のギャラガーが対応することとなった。
 まずこの青年の言動で一番不自然な点は,手術を頑なに拒否している点である。彼は,麻酔が怖いという一貫した理由で手術を拒否しているので,ギャラガーは,麻酔措置は安全に行うことを何度もカウンセリングで説明する。しかし一向に納得しない青年に対して,ギャラガーはある精神疾患を疑ったのである。それが身体統合同一性障害である。そして,青年が働く工場経営者によって,この青年が意図的に自分の指を切断したという証言がなされたことで,信憑性はますます高まったのである。
 身体統合同一性障害の患者は,一度傷が癒えても,その傷が癒えた身体を受け入れることができなければ,また同様のことを反復的に繰り返すこともある。そのこと考慮して,慎重にカウンセリングを進めるギャラガーと,一刻も早く手術を開始することを望む上司のカール医師とは意見が対立するのである。
 カールが手術を急ぐ理由は,切断された指の切断面がきれいに残っており,このまま組織が壊死する前に切り落とした指を縫合すれば,青年の指が元通りになるからである。もちろん,このまま放置して,青年の指が元通りにならなくても命に別条はない。しかし青年のこれからの労働者としてのハンディなどを考えると,なるべくなら最良の形での身体の回復に努めるのが医師の仕事であり,カールの立場は十分に理解できる。
 一方でギャラガーの立場は,青年の切断された指の復元にはカールや他の同僚ほどはこだわっていない。それは,この青年が切断された指の復元を望んでいないこと,ギャラガーが疑った身体統合同一性障害という精神疾患の特異性を理解しているからだ。
 ギャラガーはここでいつものように,患者の身辺のフィールドワークを独自に始める。そして,青年が密かに画きためていた数点のスケッチを発見する。そこに描かれたものは,手足が欠けた人物の姿であった。それはクリーチャーとして躍動的に描かれている。これは青年が求める理想の身体でもある。
 普段我々は,「五体満足」という言葉で身体の健全性を表現するが,この「五体満足」という感覚に違和感を持ってしまうのが身体統合同一性障害である。通常我々には「正常」「健全」に見える「五体満足」な身体が,彼らには「五体満足」な身体としては映らないのである。この青年も同様で,先天的に身体障害を持つ者に対して,子どもの頃から憧れを持っていたこと,そして電車の窓から手を出して,自分の腕が切断される瞬間を何度も空想していたことなどをギャラガーに告白する。この青年の告白によって,彼が,麻酔に対する恐怖で手術を拒否していたのではなく,手術によって,もとの「五体満足」な身体に復元されてしまうことを恐れたのである。この青年にしてみれば,四肢切断を実行したことで,自分の身体と感覚の間に折り合いをつけようとしているわけである。
 そしてギャラガーは,他の医師の反対を押し切り,結局青年の希望を受け入れて,切断した指の復元術は行わずに退院させたのである。そして青年は,自らの希望で身体障害者となったのである。
 ここで命題として浮上してくるのが,人間の身体における「正常」と「異常」の認識と定義である。常識的に照らし合わせれば,指が欠損した手は「障害」とみなされ,わが国でもその障害の度合いに応じて障害者手帳が発給される。医学的に「障害」,または「異常」とみなされたものは治療の対象となる。これは当り前のことではあるが,この健全あるいは健康至上主義的な考え方は,時として極端な健康志向を生むことにもなる。例えば,自治体が行っている成人検診の検査結果で,「異常」「正常」の誤差の範囲内の数値を見て,必要以上に一喜一憂したり,テレビの健康情報番組を疑いもなく信じ込み,そこで薦められていた健康食品に多くの視聴者が一斉に群がる姿も,「健康」という幻想に取り付かれた一種のファシズム的思考を見ることができる。身体統合同一性障害とは,このような健全主義と対極をなすものであろう。
 患者をあえて治療せずに帰したギャラガーの言葉は印象的である。彼は,「患者の身体を治すのが医者の仕事ではない。患者を苦しみから救うのが医者の仕事である」と言っている。このギャラガーの言葉を鑑みれば,例え青年の切断された指を外科的に復元できたとしても,そのことで青年がまた苦しめば,彼を本当に救ったことにはならないということであろう。
 今回の場合は指を切断しただけで,すぐさま命に関わるような状況ではなかったが,これが生命維持に直結するような場合であったならば,ギャラガーは果たして同じような行動をとったであろうか,興味深いところである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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04. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11「戦場に眠る記憶」(FOXチャンネル)

 精神医療のこれまでの常識からは考えられないような独創的な診断法や治療法を試みる異端の精神科医ギャラガーのもとを今回訪れたのは,イラク帰還兵の夫を持つ妻と彼女の子供である。妻は,夫がイラクから帰って来てから奇行が目につくようになり,ついに家族である自分たちにも銃口を向けるようになったとギャラガーに訴える。
 イラクに限らず,戦地からの帰還兵が何らかのかたちでPTSD(心的外傷性ストレス障害)を受けることは,今ではよく知られるようになった。古くはベトナム帰還兵の中にもこうした症状は多く見られたが,当時は個別の鬱病として処理されるケースもあった。また戦地で障害を負った帰還兵に対する社会保障も十分ではなく,退役してからの生活に馴染めないなど,社会生活を健全に送れなくなる者も出てきている。パトリオティズムを大きく掲げるアメリカ社会において,このような事を他言することは,ややもすると反米・反戦主義者とも受け取られかねない。だから退役軍人あるいは帰還兵を抱えている家族たちは近隣に気軽に相談できるコミュニティもなく,孤立してしまうことになる。
 ギャラガーのもとを訪れたこの家族も,まさにこの典型であろう。

 イラク帰還兵クレイが赴いていたのがもっとも地上戦の戦闘が激しかったバグダットである。戦地から帰還後,クレイは自宅の地下室に閉じこもり,そこで大がかりな戦場ディオラマを黙々と作り続けていた。家族の話からも,クレイがこのような趣味を以前から持っていたという様子はなく,突然このようなものを作りだしたこと,そして家族にも銃を向け出したことに異常な状態を感じた妻は,夫から逃げるようにしてギャラガーの所にきたのである。
 クレイが地下で制作に没頭していたのは,バグダットの町を忠実に再現したディオラマである。そこに田宮模型にあるような米兵フィギュアが転がっている。この状況はまさにクレイが戦地で体験した状況そのものであり,そこに転がる米兵フィギュアの中に,自分を表すものがいるのであろう。こんな,患者の心象風景を素描したようなものにギャラガーが注目しないはずがない。ギャラガーはカメラを持参してクレイが作ったバグダットのディオラマを覗きに行くのである。
 ディオラマで表された建物と建物の間からしゃがんでカメラを構えるギャラガーはさながら戦場カメラマンといったところである。ギャラガーはそこで何十枚という写真を撮影し,クレイの心の中にどのような心的外傷があるのか探ろうとするのである。これは言ってみれば規模の拡大した「箱庭療法」のようなもので,そこに形作られた風景,配置された物などは,制作者の想念を身体化したものなのである。
 通常の「箱庭療法」では,座ったまま両手の幅に収まる程度のサイズ,つまり文字通り「箱庭」としてのキャパシティーで行われるが,クレイが制作していたのは鉄道模型のNゲージを部屋の中いっぱいに走らせるような規模のものであり,そのまま特撮自主映画のセットとして使っても遜色はないほどのものである。
 ギャラガーは撮影したディオラマをただちに現像し,病院内の自分のオフィスの壁に並べてさっそく検証作業にはいる。そこへ突然入ってきたのがギャラガーの義理の父である。
 実はこのように,ギャラガーの家族が実際に姿を現すのは今回が初めてである。しかも,ギャラガー自身も家族とうまくいってはいない。物語が終盤にきて,ギャラガー自身が抱える苦悩も明らかになったわけだ。4人の家族,すなわち母,義理父,統合失調症の妹,そしてギャラガーは,まったくもって家族のの体を成していない。母と義理父は愛情で結ばれているようであるが,母の愛情は家族にではなく義理父にだけ向いており,妹とギャラガーが孤立している状態である。しかも今まで行方不明で,やっとギャラガーと再会を果たした妹・ベッキーの介護方針をめぐっても,義理父の意向が大きく反映されている。このような状況にあるので,母との関係も妙によそよそしいのである。
 欧米,特にアメリカでは,子連れで再婚した家族のことを「ステップ・ファミリー」と呼び,このような家族形態は何ら珍しいものではないのだが,突然“他人”が加わった家族がすべてうまくやっていけるわけではない。ギャラガー一家の場合は,ギャラガーに対する母の無関心な態度が,より一層彼を苦しめているのである。
 精神科医としてのギャラガーの診断方法や治療方法が,患者の置かれた環境,文化,成育歴にも深く関わっていくのは,このようなギャラガーが今現在も置かれている立場から立ち上がってきたものであろう。

 やや支配的な性格の義理父は,それでも軍事関係の知識を駆使してギャラガーにヒントを与えてやる。それによると,どうやらクレイが戦場でトラウマになった原因は,同じ部隊にいた人間にあるのではないかということが分かってきた。義理父は,ギャラガーの写真に写る前線部隊の配置を見ただけで,この部隊を指揮する人間は有能な指揮官ではないと分かったようだ。
 ギャラガーはそれを頼りに,クレアが一体戦場で何を見たのかを探ることにする。それによって明らかになったのは,無能な指揮官の存在だけではなく,彼らが武器を持たない民間人にも銃を向けていたことである。クレアがディオラマを制作しながら家族に発作的に銃を向けてしまったのは,妄想の中で仲間が戦場で行った残忍な行為とオーバーラップしてしまったからだ。そしてその罪悪感からか,自分自身の手を撃ち抜こうとして大けがを負ったのである。クレアが何かに憑かれるように自分で制作を始めた戦場ディオラマは,結果的に大規模な箱庭療法として完結したわけである。そしてこれに助言を与えたのは間違えなくギャラガーの義理父である。もちろん性格も美意識もギャラガーとはまったく異なる,ある意味では俗世間的なこの男とギャラガーの積年のもとに乖離した関係が,すぐさま氷塊するとは思えないが,家族再生への可能性を含ませる内容であった。このような複雑なキャラクター作りにかけては,米国ドラマはやはり上手いと言わざるを得ない。日本のドラマに出てくるようなスーパードクターがいない分,我々は,その解決できない問題についていろいろと考えさせられるのである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
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【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

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【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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23. September 09

【海外ドラマ】『メンタル:癒しのカルテ』#10「人生のやり直し」(FOXチャンネル)

 精神科医療現場の様々なタヴーに真っ向から向き合い,全米では本放送第1話から大きな反響を起こした『メンタル:癒しのカルテ』の第10話は,どの診療科を受診しても原因がまったく分からない精神症状に悩まされている青年ビリーがギャラガーのもとにやってくる。
 ドラマも佳境に入り,ここを訪れる患者だけではなく,実は医師たちも,それぞれに抱えている問題で病んでいることも描かれるようになってきた。
 我々はどこかで,医者だけは病気にならないような幻想を抱くことがしばしばある。それは,白衣を着た医者と,患者用の丸椅子に小さく座らされている患者というフレームの中で医者を見ているからである。つまり患者は,白衣を着ていない時の医者の姿を知らないわけで,もちろん患者になった医者の姿も想像できないわけである。
 私の90年代の代表的現代アート作品『Doctor's Hand』は,そんな「医師」-「患者」関係の固定化されたフレームを取り外し,本来は「患者」の立場にあるものが「医師」の視点で身体を捉えていくというロールプレイを行うインタラクティヴな作品である。この作品『Doctor's Hand』シリーズは,国内外の美術館をはじめ,いろいろなオルタナティブスペースで展示されたが,その中のひとつ,東京オペラシティのICCで開催された「芸術と医学」展におけるシンポジウムでは,私の講演が終わった後,非常に興味深い意見を言って帰られたアメリカ人男性がいた。
 彼の話によると,彼の父は食道外科の権威で,長いこと一線で活躍してきたが,ある時自分が癌になり,病んだ医者をケアしてくれるものが誰もいないことに気がついたのだという。今でもこのアメリカ人の言葉が胸に刺さるが,“患者は病気になれば医者に診てもらえるが,医者が病気になった時は,誰に助けてもらえばいいのか”という事なのである。結局彼の父は,癌は治ったものの,精神はひどく疲弊し,医者を辞めて毎日ぼうっと風景を眺めたり,釣りをしたりしているそうだ。
 また,かつて私が世話になっていた医師2人が,ここ5年の間にやはり癌で亡くなったが,彼らは自分で立てなくなるまで臨床現場を離れなかった。病院で彼らと対面する時には,もちろん私が「患者」で彼らが私を診察する「医師」という立場であるが,明らかに私よりも状態が悪そうな彼らを見て,いつも私の方から“先生,お大事に”,“先生,ちゃんとご飯を召し上がっていますか?”,“先生,今日は顔色が悪いですね”,“寒くなってきたから,先生もインフルエンザには注意して下さいね。”と帰り際に声を掛けるという滅多にない状況となっていた。しかし後から聞いた話によれば,自分が診ている患者の方から,“お大事に”を声を掛けられることが,心から嬉しかったそうである。
 『メンタル:癒しのカルテ』に登場する医師たちを見ていると,このような私の身近にいた医師たちの姿を思い出す。ウォートン記念病院の医療スタッフはみな優秀だが,人間として幸福な人生を歩んでいるのかと言えば,必ずしもそうではないようだ。

 「人生のやり直し」と題した第10話は,ギャラガーを始めとするウォートン記念病院の医療スタッフ自身の紆余曲折の人生模様にもスポットを当てている。そこに描かれるのは白衣を脱いだ医師たちの姿である。病院内の権力闘争で仲間を裏切りながらロビー活動をしたり,夫がいながら病院の医師と不倫を続けるギャラガーの同僚たちは,アメリカ社会に浸透する“満たされない日常”という「病」の縮図である。統合失調症で行方不明になったままの妹の幻覚に苦しむギャラガーもまた,自らに心の闇を抱えていることが大きくクローズアップされている。
 ギャラガーが,ウォートン記念病院に赴任したその日から,様々な医療改革を提言したり,診断や治療の中に医療人類学的な視点でオルタナティヴな多文化共生的な方法論を受け入れているのは,これまでの近代的精神医療というものに限界を感じているからであり,医師にもかかわらず自分の身内(妹)すらも救えない無力さも認識しているのである。
 そして今回は,ギャラガーのそういった考えがより一層に反映されたものである。

 今回ギャラガーのものを訪れたビリーは,工事現場の崩落事故が原因で一見するとPTSDを患っているようにも見える。ビリーが何度も反復的に夢で見る光景は,自分が巻き込まれた崩落事故の様子だが,工事の現場監督とビリーの証言はやや異なっており,ギャラガーは独自に現場検証を始める。そこで分かったことは,ビリーの記憶の中に,自分が体験した崩落事故と,過去に起こった大規模な崩落事故がモザイク状に混在していることであった。自分の工事現場の建物の名前と,古い新聞記事にアーカイヴとして残る歴史的大惨事であった崩落事故の場所の名前が類似していることから,ビリーの脳は時系列上で誤作動を起こし,記憶を書き換えているということだ。
 このような場合は,時間をかけたカウンセリングによって,記憶を正しく修正していけばいいのであるが,ギャラガーが試みたことは,そこに留まらなかった。
 まず,ビリーが誤った記憶としてアーカイヴしている崩落事故についてのルポルタージュを書いた作家のもとを訪れ,当時の事故の様子,生存者の足跡などをフィールドワークし,さらに,前世療法を行っているカウンセラーにもアドバイスを受けるのである。このカウンセラーは,正規の心理療法のトレーニングを受けた者でもないし,もちろん医師免許も持っていない。医療の立場からみれば,これは民間の非正規医療,または,いわゆる代替医療といわれるものだ。
 わが国でも,癌などの難治性疾患の緩和ケアの現場では,さまざまな代替医療が台頭してきているが,これらはすべて患者自身の自己責任によって行われているものであり,その多くは保険医療の対象にはならない。しかし時としてそのようなものの方が,患者自身にとって必要である場合もある。ギャラガーが訪れた前世治療を行うカウンセラーは,呪術医といわれるものであり,確かに今日の医療においては異端ではあるが,このようなものに救われる患者もいるのは事実だ。それは,西洋的世界にはない,異なった文明的背景をもったニューカマーやマイノリティーが,精神医療の現場で異文化,多文化を尊重する地域精神医療を求めていることからも理解できる。
 ギャラガーは,かつての崩落事故の関係者の中に,ビリーの前世の人間がいることをビリーに伝え,ビリーもそれに納得する。これは精神科医の行動としては,おおよそあり得ない行動だが,患者の抱える苦しみを否定せずに,とことんまで向き合うというギャラガーの一貫したこれまでの姿勢をみていれば,それほど奇天烈な方法論とは思えないのである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
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【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
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15. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9「血まみれの少女 」(FOX)

 どこまでも精神科医療領域のタヴーに入り込んでいく『メンタル:癒しのカルテ』の第9話は,父の殺害現場を見てしまった自閉症児リーザの物語である。ギャラガーが今回リーザの心の闇に降りていくのに利用したのが音楽である。他人の語りかけに,ただただ同じ言葉を反復的に返すだけのリーザのような症状は,日常生活でもコミュニケーションに困難を極める。彼らの心の内を知る術がないからであろう。ことに今回の場合は,殺人事件の犯罪捜査のためにリーザの目撃証言が必要なのである。
 これには刑事もお手上げといった様子で,ギャラガーの出番となった。今回のエピソードの重要なテーマは「音楽」である。

 実際に,精神医療の現場で導入されているアートセラピーの中でも,近年注目されているのが音楽療法である。聴覚は視覚よりも,より身体的,情動的に作用するからである。したがってこの運用には専門的知識や臨床経験が必要であり,知識がないものが安易な考えのもとに運用することには様々なリスクがともなう。
 一時期,一連の“癒しブーム”の中でヒーリング・ミュージックと称される音楽がもてはやされたが,これはあくまでも日常生活を健常に送る人間が息抜きに楽しむためのものであり,精神疾患を患っている人間に対して「治療」と称して運用するようなものではないと私は考える。
 近年の“癒しブーム”の中で,世の中のありとあらゆるものに“癒し系”というカテゴリ分けができあがり,それによって安易に理解できるもの,ただ単に一時的に快いと感じるもの,口当たり・耳障りが良いとされるものに傾倒することは,かえって,人間の身体性・思考力を奪うようなものであり,感覚の後退や創造力の減退をもたらすというのが私の考え方である。
 特に人間の身体性は,ある程度の抵抗・障壁・摩擦などがあってはじめて認識できるものであり,我々人間はこのような重力や空間に支配された「不自由な身体」を認識することで,はじめて身体というものを様々な知覚にてよりリアルに獲得することができるのである。
 
 様々な表現活動の中でこれを最も認識しているのは,ダンスやパフォーミングアーツなどの身体表現にかかわる者であろう。彼らは,各個体に与えられた身体能力の頂点と衰えを極めて冷静に判断する能力を持っており,やがて衰えていく身体を抱えながらも,不自由な身体の「美」を表すことができる。かつてフィギュアスケートの伊藤みどりが世界的に注目されたのは,単に女子スケータにとっての最難度とされるトリプルアクセルという技ばかりに注目されたのではなく,伊藤の身体の構造は,欧州の選手たちのそれと比較しても明らかに違いがあるにも関わらず,あたかも重力に抵抗するように大技を繰り出すことが衝撃的であったからである。我々は,このような行為を見る時に,人間が生まれ持った不自由な身体性,そして同時に,その重力に拘束された不自由な身体の抵抗から生まれる「美」と「野性」を認識するのである。
 これは勿論身体表現だけに限ったことではなく,大きな画面でドローイングやカリグラフィを描く画家にも同じことが言える。彼らはもっとも「体育」というものから遠い存在に見えるが,日々の体調の変化には敏感であり,身体の衰えとともに,関節の柔軟性,可動範囲,筋力の変化なども作品制作の中で敏感に感じている。彼らがフィールドとする画布のサイズがその時々の身体に相対化されたものであり,身体の衰えとともに縮小していく画布の中でも,なお野性的に作品を描き続けようとする。

 一方で,音楽表現における身体性は,作曲者よりも演奏家に依るところも大きいが,過去に何度も楽曲の中に身体性を意識して取り入れた作曲もいる。その代表的な作曲家が黛敏郎で,黛が1955年に書いた『トーンプレロマス55』という楽曲を一度聞いてみるといい。黛がヴァレーズにインスパイアされて書いたこの楽曲は,吹奏楽編成の持つあらゆる可能性,身体性を試みた作品である。黛は楽曲解説でこのようなことも書いてる。
「人間の息を利用する管楽器と,手に依る打楽器を生命とする打楽器のアンサンブルが発する音のエネルギーの集積は,トーンプレロマスという言葉に一番相応し,効果をあげてくれることだろう。」
 この楽曲で重要なのは吹奏楽編成ということである。つまり,吹奏楽に編成される楽器群は,「息を吐く」,「手で叩く」という身体的行為が直接音に繋がるのである。これを黛が言うと,あたかも原初的男根主義に聞こえてしまいそうだが,ようするに黛は,音楽における根本的な「野性」を描きたかったわけである。

 自閉症児のリーザにとっても音楽は重要な要素である。別居中のヴァイオリニストの母から与えられた玩具のピアノで,いつも音階だけを弾いている様子にギャラガーは注目した。それは,一見同一の調性の音階だけを弾いているようにみえるが,よくよく聴いていると,実は複数の異なる調性の音階を弾いていることが分かる。それは反復的にB-A-D-G-Eというコード進行である。そしてこれを一つに繋げると,「badge」(バッヂ)という単語になる。
 ギャラガーは,リーザが刑事の聞き取り調査の時に,さかんに眩しそうな仕草をしていたのを思い出し,その「badge」という単語から,リーザが父の殺害現場で何か光るようなバッヂのようなものを見たのではないかと推測する。そしてそれは,刑事が身に付けていたバッヂであることがわかった。つまり,薬物の売人だった父と警察は初めからグルになっていたのだが,仲間割れから刑事がリーザの父を殺したのである。
 リーザは,自分からは自発的には発声はしないが,音楽を使って必死に父を殺した犯人の事を伝えようとしていたのである。コードを繋ぎ合わせて単語をあやつる行為は非常に理知的であり,即興ジャズのセッションのようだ。また,言葉として音楽をあやつるシチエーションは,これまでにも,例えば『未知との遭遇』の宇宙人とのセッションが有名であるように,異文化を理解する上で重要なアイテムなのである。我々にとってはまさに“異文化”圏で自閉症児として暮らしているリーザの心の「声」を聞き逃さなかったギャラガーだからできた行為である。音楽で心のコミュニケーションを試みるという,音楽療法の本来のあり方を示してくれたエピソードである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
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09. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8「自分を探して 」(FOX)

 前回のエピソードを見て,Dr.ギャラガーの診断方法は,医療人類学的であると書いたが,まさにそのことを決定づけるような話が今回のエピソードである。
 ギャラガーのもとに,腕に大やけどを負った少女が運び込まれる。これは事故ではなく,少女自らがガソリンの代わりにアルコールを頭からかぶり,火を放ったのである。つまり自殺未遂だ。これは計画的というよりは,鏡に映った「顔」のない自分の姿に発狂して,突発的に行った行為である。この少女は16歳のヘザー。スポーツ万能で活発な性格だが,ボーイフレンドとはあまりうまくいっていない。
 ヘザーが鏡ごしに見た姿には,なぜ顔が無かったかを探るところからギャラガーの診断は始まる。診断を進めていくうちに,彼女には,幼少時代からポールという精神科の主治医がいることがわかった。このポールという精神科医は,「人間の性的選択は環境によって決まる」という独特の学説を唱える医者である。なぜヘザーの両親がこのような医師のもとを訪れたのかというと,ヘザーは出生時の割礼で誤って男性器を損傷してしまった男児であり,これからどうやってヘザーを育てていけば良いのかカウンセリングを受ける為である。
 ポールが行った計画は,ホルモン補充療法で人工的に女性の身体を作り,人工の女性器も同時に創建することである。つまり,ヘザーに自分は生まれつき女性であると思わせて,そのまま育てることである。ヘザーの両親はポールの言う事に忠実に従い,16歳までヘザーを女性として育ててきたが,“彼女”は成長するに従い,男性である本能が女性である身体を拒否しだして,恋愛も何もうまくいかなくなってしまったのである。
 実際にはこのような事はあってはならないが,ヘザーはまさに,ポールという異端の精神科医の学説の臨床例として,長年にわたり実験台にされていたのである。
 しばしばホラーやサスペンスでは,特異な人格の精神科医が登場するが,これは精神科医の,学者としての探究心や,偏狭な覗き見主義が極端に肥大化した結果もたらされた怪物の姿であり,一種のマッドサイエンティストといえるだろう。
 これに対してギャラガーは,ポールの学説を逆手にとって,ヘザーを救いだそうとする。ギャラガーがヒントを得たのは,未開の部族で伝承されている様々な風習,因習である。

 我々のように近代的な社会に生きている人間は,生まれたその瞬間に「性」が決定され,「名」も与えられるのが当たり前であるが,未開の部族の中には,生まれた時には「性」は決定されず,生活習慣によって「性」を選択する部族もいれば,生まれてからしばらくは「名前」も与えられず,人間なのか動物なのか,またはそれ以外のものなのかも明確にされないまま育てられるものもいる。アマゾン奥地で暮らすヤノマミ族などがそうだ。これらの少数部族の実態は,20世紀になって,多くの人類学者によるフィールドワークによっても明らかにされている。
 ギャラガーもそのような人類学関係の文献をあさり,ヘザーには,“彼女”自身の身体は「男性」であることを告知した上で,これから先の人生をどちらの「性」で生きていくのか選択させる術を探るのである。ギャラガーのこのような精神医療における医療人類学的なアプローチは,実は実際の精神医療現場においても非常に今日的なテーマである。これは,精神医療の世界においても異文化共生,多文化共生といったオルタネイティヴな視点が必要とされるようになったことと無関係ではない。特に欧州では,様々な文化的,宗教的背景を持った移民が増えるようになり,従来の欧米型の精神医療,つまり,あくまでも欧米文化を背景に立脚した医療では,その他の異なる文化を持ったニューカマーの治療には不適合なのである。欧州におけるこのような状況については,京都大学の松嶋 健によるフィールドワーク『フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──』(『こころと文化』第7巻第1号,2008,2)が詳しい。

 ここで一つの映画が思い出される。1978年にアメリカで公開された『マニトウ』である。これは郊外に住む白人女性の背中にネイティヴ・アメリカンの伝説で伝わる悪霊が取り付き,白人医師とネイティヴ・アメリカンの呪術医が協力して,その悪霊と戦う物語である。ここに登場する白人医師は,腫瘍の様に白人女性の背中に寄生した悪霊を排除するために,現代の医療技術を使おうとするがまるで効果がなく,彼に協力を申し出たのがネイティヴ・アメリカンの呪術医である。彼は自然界のあらゆる精霊を降霊し,悪霊と対決するのだが,この時にどういうわけだか病院にある医療機器に宿る精霊も一緒に降りて来て戦うのである。これは万物に精霊が宿るというネイティヴ・アメリカンの視点からそうなるのであろうが,八百万(やおよろず)の神々をいただくわが国日本にも古代神道の時代から同様の概念が存在するので,妙に親近感があるのである。
 今回ギャラガーが試みたのも,近代の精神医学における性同一性障害に適応される治療ではなく,ネイティヴ・アメリカンの呪術医の「術」である。これを導き出したのは,ヘザーが自殺未遂の時に放った火である。ヘザーが衝動的に放った火は,自殺するためではなく,いったん何かをリセットするために行った「儀式」であるとギャラガーは理解したのである。
 ギャラガーは夜の庭にヘザーを連れ出し,蒔きで火を焚いて,その中にいらないものを捨てろと言う。箱の中にはヘザーが生まれた時からの思い出のものがたくさん入っており,その中にはいろいろな「性」を表すものが含まれている。そしてヘザーは,その中から「女性」性を表すものだけを選別し,火に放ったのである。最初の主治医であったポールの学説は,「人間の性的選択は環境によって決まる」というものであったが,ギャラガーはその学説を覆すように,ヘザー自身に自分の「性」を選択させたのである。ギャラガーのフィールドワークがなかったら,おそらくこのような視点で性同一性障害を治療することはできなかったであろう。


『メンタル:癒しのカルテ』
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■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
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01. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7「君に首ったけ 」(FOX)

 精神科医療現場の様々な人間関係やタブーを描き,放送当初から全米で大きな反響を巻き起こしてきた『メンタル』の第7話は,おそらく精神科医療に関わる者にとっては一番触れられたくない領域,いわば負の遺産としてその歴史に名を刻んでいるロボトミー術を連想させるものである。
 現在はあえて使われなくなった「精神外科」,即ち,精神疾患を投薬やカウンセリングではなく外科的に治療する分野のことであるが,今回はこのような言葉も本編で登場する。わが国でも,患者の人権が確立される以前の古い時代の用語が慣習としていくつか残っている。それの多くは法律用語や行政用語においてであり,その言葉が実社会で運用されることはほとんどない。その中でもやや差別的な印象をもたれる言葉等は,順次,「言い換え」が行われている。
 一般に最も知られるのは,精神分裂病を統合失調症として言い換えることが定着したことであろう。また前出の「精神外科」という言葉も誤解を招くということで今ではほとんど使用されない。その代替用語として運用されているのが「脳神経外科」である。同様にして,昔は日常会話の中でも良く聞かれた「精神病院」という言葉も好ましくないものとされ,「神経科」「精神科」「心療内科」などと言われるようになっている。

 今回,このドラマの主人公の精神科医ギャラガーに対してライバルとして登場する女医のザンは,精神外科医である。2人はチック症と強迫性障害が起因する潔癖症を患っている患者,クレイグの治療をめぐって激しく対立する。ザンは脳の帯状回切除を行うことでクレイグの症状は治まるというが,患者にとってもリクスが大きく,治療法の主流にもなっていないこの手術をクレイグに行うことを拒否するのである。帯状回切除術は,癲癇などに現れる情動運動を制御に有効とされるが,それはかつて多くの精神病患者に実験的に行われたロボトミー術を想起させるようなものであり,確かに,帯状回切除の副作用によって患者の性格まで変わってしまう事があれば,患者の基本的人権にも大きく抵触することにもなる。ギャラガーは,このことを懸念したと思われる。
 この時の2人のやりとりが興味深い。精神外科医のザンは,クレイグの妻が夫の介護からも早く解放されて,昔のような夫婦関係に戻るためには,効果が目に見えてわからない投薬やカウンセリングよりも脳の手術を施した方が良いという考え方である。ザンは,自分の臨床実績をあげるための功名心からではなく,彼女なりに患者のことを考えて選択した結果がこれなのである。そして,日本の医療ドラマではあまりにもタブーすぎて描かれることがない精神外科医と精神科医の対立も鮮明に描かれている。この両者の対立はしばしば外科医と内科医が対立をするのに非常に良く似ていて,精神外科医が精神科医を見る眼差しが,外科医が内科医を見る眼差しに類似している。外科医も精神外科医も,ともに根治治療を目指すものであり,そんな彼らからすると,患者に長々と付き合ってカウンセリングをするような精神科医や内科医は,まどろっこしい存在に見えるようだ。
 しかもザンは,ギャラガーをはじめとする精神科医のことを,患者の人生相談にのるカウンセラー程度にしか見ておらず,自分の事を称して“本物の医者”と言い,“本物の医者”に任せておけ,などと言うのである。
 これに対するギャラガーの診療スタイルは,これまでのエピソードを見ても分かるとおり,患者の立場に立ち,自らもその視点で患者の周辺をフィールドワークすることである。なんとしてでもクレイグの脳手術だけは避けたいギャラガーはクレイグの妻と面談することになるが,ここで妻のミミにこそ,重大な病が隠れていることを発見する。それは腫瘍による異常性行動であった。もちろんミミにはまったくそのような病識はなく,潔癖症になった夫クレイグとの夫婦関係が破綻したので,その性的欲求を紛らわすために,いろいろな男性と関係を持っていたわけである。しかし,そのあまりにも異常な性欲に何か病的なものを感じたギャラガーは,機能的,器質的な脳疾患を疑ったのである。そしてなんとギャラガーはザンに診断を依頼した。
 このようなことができるのは,ギャラガーが患者本位に動いているからであり,そうでなければ自分と対立する医師に診断を依頼することなどプライドが許さないであろう。ここの部分に,2人の医師の間に芽生えた信頼関係のようなものが垣間見えるのだ。例えば,『白い巨塔』の中での財前と里見の2人の意思を思い出す。医師としての姿勢ばかりか医事裁判においても対立関係になった外科医の財前が,自分の医局の人間ではなく,かつての同僚の里見医師に自分の病について診断を仰ぐ様子も,立場を超えた互いの信頼や友情があったように思う。

『メンタル:癒しのカルテ』
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31. August 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#6「雨の日の記憶 」(FOX)

 精神医療の現場におけるタヴーを堂々と描き,その第1話からして全米で大きな反響を呼んだ『メンタル:癒しのカルテ』(FOX)の第6話のエピソードは,ギャンブル依存症のレオナルド,鬱病の敏腕検事クレイン,そして彼女によって殺人事件の被告にされた妄想性障害のハンセンをめぐる物語である。
 これまでのエピソードでは,1人のゲスト患者を主軸に物語が展開されていく構成であったが,今回からは複数の主要人物にそれぞれ別の伏線を張らせ,最後にそれが一つのテーマとして集約されていくという,アメリカの群像ドラマでは昔からスタンダードな構成に変わったようだ。このようなフォーマットは,私が全シリーズにわたって視聴しているスタートレック・シリーズにもしばしば見られるもので,脚本家によっては片方の伏線で暗喩を示唆するような様式美も見せてくれる。

 このドラマの主人公であるDr.ギャラガーは,鳴り物入りでウォートン記念病院の精神科部長に抜擢されて,この地にやってきたユニークな精神科医である。日本語で“ユニーク”と表現すると,“個性的”であるとか,“特質的”であるといった具合に,無条件で好意的に受け取られる場合が多いが,英米語でこれを表現した場合,必ずしもそうではない。むしろ,特異で異質で異例な人のことをユニークというのだ。その中には,“理解し難い人格”という要素も当然含まれている。同じように「ナイーブ」なる言葉も日本語では“繊細な”とか“朴訥な”といった比較的良きイメージの表現として使われるが,これも英米語圏では,悪い意味で繊細な,つまり,通常の社会生活において誰しもが日常的に受ける微細なストレスにも耐えられない人が,“ナイーブ”な人なのである。例えば,“あいつはナイーブなヤツだ”と言った場合,日本語では繊細で純朴で芸術家のような人物となろうが,英米語圏では,単に社会不適合者として見られる場合も多々ある。
 『メンタル』は,そんなナイーブな人々と,それをあらゆる手を尽くして救おうとするユニークな医師ギャラガーの物語なのである。

 第6話のエピソードに登場する3人の患者に共通するテーマは「死」のあり様である。ギャンブル依存症から人生が破綻し,自殺願望が強くなったレオナルドは,自らの手で人生というギャンブルに終止符を打とうとする。自殺願望者が暴走しだした場合,無理に止めようとすると,かえって悪い結果を導くことは良く知られたことだ。そこで,屋上から飛び降りようとするレオナルドに向かってギャラガーが試みたのは,自分が旨そうに食べているアメリカンドッグをレオナルドにも薦めたことである。
 自殺願望者にとって,究極の欲求は言うまでもなく「死」であるが,その前に,人間としての基本的欲望が存在するはずである。その欲望の中の一つに「食欲」というものがある。ギャラガーはレオナルドに対して,理性により「死」について説くよりも,本能に対し「生の欲求」でアプローチしたのである。今にも屋上から飛び降りようとしている人間に対して,それを止めるそぶりも見せず,ただ旨そうにアメリカンドッグを食らうギャラガーの行為は一見すると常識を逸脱している。しかしギャラガーは,アメリカンドッグを旨そうに食らう自分のことをチラチラと見るレオナルドの様子を見て勝負ありと思ったのであろう。
 ギャラガーが旨そうに食べているアメリカンドッグから漂ってくるピクルスやケチャップや香ばしいソーセージの香りは,我々日本人がラーメンやカレーライスの香りにどことなく郷愁を感じてしまうのと同様に,アメリカ人にとっては心の故郷のようなものなのだ。その香りで子供の頃父親と一緒に行ったメジャーリーグのボールパークのことを思い出すも者もいれば,家族と行った遊園地のことを思い出す者もいるだろう。アメリカンドッグの香ばしい風味は,どんなアメリカ人の心の中にも原風景として存在するものだ。
 人生を破綻してしまったレオナルドの原風景にもこのアメリカンドッグの残像は焼き付いていたとみえて,彼は自分の五感によって死をとどまったのである。

 今回,レオナルドの物語と並行して描かれているのが女性検事クレインと,彼女によって刑事被告人にされてるハンセンの物語である。クレインは裁判を「勝ち」「負け」のゲーム感覚で捉えているところがあり,それはアメリカにおける訴訟社会を垣間見るようなキャラクターである。
 そもそも日本に「勝ち組」「負け組」というあまり好ましくない言葉が流入してきたのも,北米格差社会の影響によるものだと私は認識している。1980年代に,日本でも欧米の経済紙の日本版が発行されるようになってから,この言葉が様々なメディアで散見するようになった。在欧中に夜の酒場で「勝ち」「負け」話で盛り上がっているグループと私はしばしば同席した事があるが,彼らはたいてい北米出身のファンドマネージャーや起業家である。彼らが「勝ち」「負け」と得意満面に言っているのは,自分が運営しているファンドの評価額がインデックス(平均株価)よりも勝ったか負けたかという事なのである。女性検事クレインの気質はまさにこれに近く,裁判は,数字で見る株価とは違って,そこに人間がいるにもかかわらず,自分自身の勝負事として「勝ち」「負け」だけにこだわっているのである。そして勝つためならばどんなことでもやる。
 今回被告にされたハンセンは,たまたま殺人現場に居合わせただけの人間だが,事は厄介で,ハンセンは事件の犯人ではないのだが,クレインの巧みな弁論によって自分が殺人犯ではないかと思うようになってしまったのである。クレインは,ハンセンの抱える妄想性障害という病を逆手にとって,殺人犯に作り上げようとしたのだ。
 日本では,知的障害や精神障害を持った人間を,裁判の証人として法廷に立たせることについて慎重な意見があるのは,実は知的障害者たちを差別しているのではなく,無用な冤罪を生む可能性を懸念して慎重論を唱える法学者もいるのである。このような状況で患者の利益や人権を最大限護るのが精神科医の立場である。
 ギャラガーとクレインは法廷で対決することになるが,事件の真犯人の存在が明らかになったことで,クレインは敗れるのである。これはクレインにとって,人生における最大の挫折だったようで,人格崩壊にもなりかねない重い鬱状態になってしまう。彼女がもし,今度は患者としてギャラガーのもとを訪れれば,鬱病患者として扱われるであろうが,彼女の根本的な病はそこにあるのではない。リーマンショック以降もやはり「勝ち組」「負け組」理論がいまだに優位性を保っている北米社会そのものに病の起源があるのではないか。

 今回のエピソードでは,3人の患者たちがそれぞれに人生のやり直しのスタートラインに立ったわけだが,この中でもっとも立ち直るのが困難なのはクレインであろう。彼女が抱える鬱病を根治しても,それは感冒における対症療法でしかなく,病の根本は米国社会そのものにある。米国社会という制度そのものを治療しなければ,クレインのような患者は後を絶たない。

『メンタル:癒しのカルテ』
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24. August 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5「人気スターの苦悩」(FOXチャンネル)

 毎週火曜にFOXチャンネルで好評放送中の『メンタル:癒しのカルテ』第5話の患者は,映画スターのリーアムという男性。物語の中でリーアムは,トム・クルーズ並に全米で人気のスターという設定である。この日も彼は自分が主役を務める新作映画のプロモーションのために,生番組のトークライブに出演していた。
 このトークライブは見た感じでは,私がいつもCNNの生放送で見ているラリーキング・ライブのようなものだ。番組の看板アンカーマンのラリーキングが,毎回スターや起業家,政治家など多彩なゲストを招き,結構言いたい放題突っ込みを入れる番組である。リーアムがこのようなトークライブに呼ばれるのは,スターとしてそれなりにステイタスを築いてきた証拠である。
 リーアムは新作映画についていろいろとアンカーマンに尋ねられると,最初はまじめに作品の事や,この作品についての意気込みなどを“スターらしく”語っていたのだが,なぜか途中から女性や性的マイノリティーに対する差別発言を繰り返すようになり,慌てたアンカーマンの制止も振り切り,会場にいる女性客にも暴言を浴びせかけるという生放送前代未聞の大失態をやってしまった。その後彼は心神喪失状態となって病院に収容されることとなる。
 当然これはパパラッチたちの格好の餌食になり,彼は“休養”という名目で,Dr.ギャラガーが精神科部長を務めるウォートン記念病院に身を隠したのである。ギャラガーのもとに来たリーアムは,自分が生放送のトークライブで行った行為については記憶がある様子で,これは「役造り」のために意図的にやったことだと弁明する。そして突然病院を舞台に見立てて一人芝居を始めるのだ。
 それはまるでリーアムの身体に様々な「役」が入れ替わり立ち替わり憑依するような不条理劇である。「リチャード3世」に始まり,怪奇映画,アクション映画,戦争映画などのありとあらゆる登場人物がリーアムの身体を乗っ取り,独白を続けるのである。ギャラガーの同僚たちはこのリーアムの様子を見て,ただただ“役者は凄い!”と感心をする。どうやらリーアムのことを非常に芸術家肌の強い作家的志向の役者であると評価したようで,彼は注目を集める映画の公開前に精神的なプレッシャーで不安定になっているだけだと思っているようだ。
 ギャラガーたちがリーアムによって見せられた行為は,まさに誰もが知る映画スターというポピュリズムとは対極にあるもので,言うならば,長らく舞台を中心に活動をしてきた小劇場の役者が時としてポピュリズムに対して向ける攻撃的な憎悪と嫉妬に類似している(1980年代のわが国の小劇場ブームの時に,小劇場の劇団が『劇団四季』などを小バカにしていたように)。そして自分の苦悩をまったく理解しない愚衆に対し,悪態をついているのである。
 この状態があまりにも突発的に起こったものであるから彼は精神科で診断を受けることになったのである。そして今回の物語は,リーアムの行為は「芸術」なのか「病」なのかという表現病理における根本的問題が通底しているように思える。

 ギャラガーの見立てでは,リーアムは「詐病」(虚偽性障害)と診断される。
 詐病の定義は非常に複雑で,読んで字のごとく,近年までは確かに“「病」を装った「病」”として定義されることも多かった。この場合の偽装“詐病患者”は,生活苦,金銭的困難などを回避するために意図的に「病」を装ったもので,近年わが国でも,身体障害,心身障害などを偽装して生活保護を不当に受給したり,障害者手帳を不当な方法で取得するという悪質な事例がしばしば報告されるようになった。このような事例は「病」に当たるものではなく,明らかに犯罪であるから除外するとして,リーアムが陥った詐病とは,「病」になることによって医師や看護師を始めとする多くの人から大切に扱われたいとするミュンヒハウゼン症候群に相当するものだ。
 これはいつの時代にもセレブリティは孤独であることを物語っているのである。先月亡くなったマイケル・ジャクソンもそうであった。特にリーアムのように非常に芸術家肌の強い役者は,世間とは乖離し過ぎたその極端なハイアート思考が社会との「溝」をますます作り,孤立していくのである。一時期,日本の往年の俳優である錦野明(にしきのあきら)が,自ら「スター錦野」というキャラクターを名乗り,多くの大衆が抱くスターという虚構を逆手に取って様々なバラエティ番組に登場していたのは,中々巧妙なアイロニーを含んでいて面白かった。

 ギャラガーはリーアムの治療にも薬を処方する事はなかった。その代わりにギャラガーがリーアムに施したのは,病室を独白劇の舞台にして,リーアムに心の内を語らせる事である。その際ベッドに拘束されたリーアムはさながらキリスト磔刑図のようである。そしてギャラガーの催眠療法に堕ちたリーアムは,スターという看板によって作られた虚像に苦しめられている事,過去に性的虐待を受けた事などを告白する。いずれもスターとしては公言することはできないことなのである。
 リーアムはこういった過去のトラウマを覆い隠すようにスターという虚像を装ってきたが,それももう限界に来たということである。その虚像を破壊するために彼が行った行為が加速して,それが病的な領域にまで達したと理解できる。
 毎回ギャラガーの診断方法や治療方法を見ていて思うのだが,とことんまでに患者に寄り添うギャラガーのモティベーションは一体どこからきているのか非常に興味深い。それがだんだんと明確になりつつある。ギャラガーが患者に施している行為とは,物語の再構築ではないのか。それは心の「闇」の空間の中で断片的になってしまった「記憶」や「時間」や「身体」をひとつに繋ぎ合わせることであり,それは失われた自尊心の回復にも繋がる。それには典型的な医療空間よりも,それぞれの患者にフィットした有機的空間が必要なのである。
 それが,前回の患者であるコナー少年に与えられた仮想RPG空間であり,その前の患者である大作家ギデオンに与えられた神による審判の場面である。このような空間が作れるのはギャラガーが芸術家のごとくクリエイティヴな医者であるからである。多くの精神科医が「表現」という行為の中に「病理」を見出そうとするのに対してギャラガーは,患者固有の「病理」の中から「表現」を導き出そうとするのである。このギャラガーのアプローチは,今日の精神科医療領域でも特に,芸術療法や病跡学といった分野に大いなる疑問を投げかけるものであろう。

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17. August 09

【海外ドラマ】『メンタル:癒しのカルテ』#4「少年の空想ゲーム」(FOXチャンネル)

 毎週FOXで放送中の『メンタル:癒しのカルテ』第4話の患者は,テレビゲームの世界に自閉している選択性無言症と診断された少年コナー。
 両親に連れられて,ウォートン記念病院の精神科医Dr.ギャラガーのもとを訪れたコナーは,診察中も下を向いたまま,両手がまるでゲームのコントローラーを操作しているかのように忙しない不随意運動により反復的な動きをしている。
 ギャラガーが精神科部長を務めるウォートン記念病院は,ギャラガーが新たに赴任してから体制も変わりつつある。それは,精神科医療における閉鎖性,患者不在の「制度」を内部から改革しようとしているギャラガーや彼の理解者たちの試みが徐々にだが功を奏してきているからだ。彼は赴任早々に,絵画療法室に閉じこめられていた患者たちを庭に出して,自由に遊ばせたり,患者と医師で運動会をやらせたりと,現場の医療スタッフも当惑するようなことを次々とやってきた。
 今回のエピソードの冒頭でも,さっそく患者たちを病院の壁に自由に落書きをさせている。これに困っているのは病院の事務職員で,患者の落書きを消すのにかかる費用のことを心配しているのだ。しかし実際には病院の医療スタッフも,楽しそうに落書きをする患者たちを制止する様子はない。
 絵画療法室ではいやいやながら小さな画用紙に絵を描かされていた患者たちが,いざ病院の壁に自由に絵を描いても良いとなったら,何故にこうも見違えるほどに活き活きしているのであろうか。それは,「落書き」という行為そのものが,「制度」からの開放を意味しているからである。そのインプロヴィゼーションは,全身を使って大きな画面で自由に絵を描くことで体現される。それは同時に自身の身体性を再認識することにも繋がるのである。
 これは実際にフランスのラボルド病院で,創設者のジャン・ウーリによって何度も試みられた舞踏家や音楽家と入院患者たちの即興的セッションとも方向性を同じくするものに思える。つまり,「制度」から解放された空間には,「制度」の中でコントロールする指導者はいない。そのかわり,病者による表現の「共感者」がいるのである。
 狭い部屋に閉じこめられて,療育カリキュラムとして施される絵画療法などは,確かにフォーマットの上ではアートという要素が組み込まれてはいるが,実は,そのあり方自体にはアートの本質がどれほどまでに理解された上で臨床現場にフィードバックされているのかは甚だ疑問である。この点は,今日の芸術療法が抱える問題でもあるのだ。
 また「落書き」という行為は,「制度」から開放されるとともに,その開放された空間で行われた「行為」が,直接社会とも関わることをも意味する。かつてバスキアらにも影響を与えたグラフィティというゲリラ的アートも,「落書き」から派生したものである。これがもしアートの制度で守られた空間で制作されたものならば,それはパブリック・アートとなり,その行為や作品はアートの制度の中で守られることになるが,無許可の空間で「落書き」をした場合には,それがいかにアートであっても,法的には公共物における器物破損として罰せられる。したがって,この懲罰というリアクションで社会と深く関わることになるのである。
 しかし今回ギャラガーたちは,病院の壁に勝手に落書きを始めた患者たちを制止することはしなかった。患者の赴くままに行動させてみるというギャラガーの考えは,彼のもとを訪れたコナー少年の治療方法でも一貫している。

 選択性無言症と診断されてギャラガーのもとにやってきたコナーは,あきらかに両親,特に父親からの抑圧を受けている様子が見てとてる。コナーは誰とも目を合わせることもなく,言葉も発する事無く,ゲームの世界に自閉している。彼がこのようになってしまったのは,精神障害者の家系であることを妻に隠している父が,その贖罪意識からコナーを必要以上に優秀で模範的な子供に育てようとして抑圧してきた結果である。彼はそれによって,「躁」状態の激しい躁鬱病となってしまったのだ。
 コナーが妄想の中で見ている世界は,ポリゴンで3D加工された仮想空間である。そこで得体の知れないクリーチャーと毎日戦っているのだ。彼の手が激しく不随意運動を起こす時は,彼が仮想のゲーム・コントローラーを必死に操作している時である。
 ギャラガーはコナーを無理矢理ゲームの空間から呼び戻すのではなく,コナーの妄想空間に自ら入り,武器(アイテム)を使って迫り来る敵を自力で倒せとコナーに命令する。コナーはそれに従い,アイテムの袋から次々と武器を取り出し,クリーチャーを倒していく。そして最終ステージに現れた巨大なラスボスは,明らかに父を象徴するような存在であった。コナーはラスボスから逃げようとするが,武器を持って戦い,やっとの思いでラスボスを倒した瞬間に,コナーの妄想にあった仮想空間が崩壊していくのである。
 ギャラガーが今回コナーに行った治療は,仮想ゲームの中でラスボスを倒させることである。コナーを取り巻く妄想空間は,コナーの「病」そのものが作り出したものであり,本来ならばすぐにでも排除したい空間であるが,病根を断つには,この空間でコナー自身がトラウマを克服しなければならないと考えたギャラガーは,あえてゲームオーバーとなる最終ステージまでコナーを進ませたのである。
 テレビゲームにおけるRPGには,一定の共通するフォーマットがある。それは,「戦い」-「挫折」-「旅」-「帰郷」-「克服」-「成長」というのもだ。ドラゴンクエストなどがそうであるが,未熟な勇者は必ず旅に出て,そこで賢者と出会い,いろいろな経験をついでから逞しくなって故郷へ帰り,リベンジを果たすという大きなプロットがある。ギャラガーは,このRPGにおける勇者の成長の過程をコナーに経験させたのである。
 一人の少年の妄想空間をRPGにおける成長の物語として組み立てた今回の脚本は,なかなか秀逸であった。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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