書籍・雑誌

04. Juni 11

【詩集】 福島出身の詩人,三谷晃一の綴る郷土の記憶~詩集『星と花火』(文芸社)

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 詩人,三谷晃一は1922年福島県生まれ。地元新聞『福島民報』論説委員長を務めながら,郷土福島を題材とした詩を多く書いてきた。今回私が手にした詩集『星と花火』は,戦中の貧しい郷土の記憶と,今日に至る変わりゆく郷土の歳時記を綴ったものである。
 まず『星と花火』に採録された作品を全て読んでみて思った事は,自分や郷土のおかれた様々な状況を,何に怨むまでもなく坦々と受け入れて生きていく三谷の姿である。
 まず,「初夏の村で」,「魚をとる」という作品。具体的な場所を示す地名は一切でてこないが,ここに綴られた風景は,例えば井上陽水の『少年時代』の様に誰もが記憶として持っている故郷の原風景である。そんな故郷――すなわち,藁ぶき屋根の農家,リンゴの花,風でゆらゆら揺れる葱ぼうず。そして村で唯一の娯楽といえば,NHKラジオとテレビ。こんな時間が流れる村に,ある日突然工場,高速道路,工業団地,ダムが作られていく。しかし三谷は,今となっては村の総意で受け入れたそれらの物にたとえ郷土の記憶が奪われても,工場やダムの向うの町にも人々の暮らしがあるのだと,その敗北感を声高く叫ぶのではなく,静かに胸にしまいこむのである。

 そして,「セイタカアワダチソウ」という作品。ここでは自分の郷土(日本)が何者かに征服されていくような光景が,変わりゆく故郷の風景ををメタファにして綴られている。それは異国の武力であり,また外来(東京)からの巨大資本でもある。
 セイタカアワダチソウとは知られるとおり,昭和40年代頃から全国で爆発的に繁殖を始めた帰化植物であり,その自生場所は国産植物であるススキと競合する。作品「セイタカアワダチソウ」に登場する小さな風でも大きく揺れているススキの姿は,その見知らぬ侵略者に対する抵抗の象徴だ。
 昭和40年代といえば,わが国は高度成長期のただ中であり,外来の工業文化,消費文化が一気に流入してきた時代だ。当時を振り返れば,このセイタカアワダチソウも同時に印象として焼き付いているだろう。
 しかし三谷はここでも何かに,あるいは誰かに怨みの念を投げるのではなく,この事実と時代の変化を自らが「敗北者」として受け入れていくのである。
 後半,唐突に現れる
「豊葦原瑞穂国。
 秋。」
 という『日本書紀』に謳われるわが国の美名のフレーズが,いつかは来るであろう外来農業と,それによってまたも滅ぼされるかもしれない村落共同体の農村文化に対する三谷の強い憂いが感じられる部分である。そして,遥か昔にダムに沈んだ村の一部を押し黙って眺めるのである。

 そんな三谷には「東京」という町はどう映ったのか。「東京にいくと」という作品は,故郷(福島)から東京へ家族旅行か,あるいは出張で訪れた時の東京の町の点描風景である。デパ地下でワイン,チーズ,そして全国の物産が集まる食料品売り場で土産を買う。東北の人間からみたら寒暖の差が穏やかに感じる東京の佇まいを,三谷はこう表現する。
「なま暖かい東京よ。
 なま暖かい思想よ。」
 そうして東京の喧騒を離れて再び故郷の食卓についた時,東京から買ってきた鯵や烏賊の生乾しを目にして,「どうしてあんなところ(デパートの土産売り場)で腐敗もしないで きみは生きて来られたのか。」と呟きつつも,この普段より豪華な食卓に満足している三谷の姿がそこにはある。
 これはかつて集団就職で東京に大挙して押し寄せた東北の労働者達が,二度と故郷へは帰らず,やがて「東京人」として帰化していった事への嘆きにも聞こえなくもないが,どんな状況下でも,物事の対立や争いを止揚していくような,三谷晃一という東北の郷土に生きた一人の詩人の懐の深さを感じるのである。

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27. Juli 10

【書評】『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』(京都大学学術出版会)

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 ここ近年,相次いで日本人ノーベル賞学者が誕生したり,先頃の惑星探査衛星「はやぶさ」による世界的快挙などもきっかけで,わが国の科学技術に対する関心が高まっている。NHKが戦後の日本の半導体技術開発を追ったドキュメンタリー『電子立国日本の自叙伝』を放送したのが今からちょうど20年ほど前。この時代は日本のリベラル悲観論者達からは「失われた10年」などと言われつつも,わが国の科学技術,産業技術はグローバル・スタンダードの中で常に高い水準を保ってきた。この時在欧中だった私のもとにも,世界を席巻するジャパン・ブランドの勢いは十分に伝わってきたのである。
しかしこれは何も今日的に達成されたものではなく,例えば麻生太郎の著書『とてつもない日本』(新潮新書)の中でも述べられているとおり,古来よりわが国が連綿と紡いできた技術,伝統,文化の絶え間ない蓄積により形を成したものなのである。
 医学の分野も例外ではない。戦後直後の1950年代から,わが国は再び目覚ましい発展を遂げていく。しかし残念ながら戦時中の資料の中には紛失,焼失してしまったものも多く,この事が,多岐に及ぶ医科学研究分野を近・現代史として俯瞰する際の困難な状況を生んでいる。
 本書『サイトカインハンティング』は,免疫学の分野で世界の最先端のフィールドで戦った,いわば先駆的メジャーリーガーみたいな日本人科学者達の物語である。

 表題にあるサイトカインとは,免疫細胞から分泌されるタンパク質のことで,これまでに数百種が発見されているが,今日の研究者たちによっても新たな物が続々と発見されている。サイトカインの研究は,いわば密林をかき分けて新種の昆虫を発見しに行くような途方もない行為であり,これを追い求める医学者達の目が,時としてハンターの目に豹変するというのは容易に想像がつく。

 免疫学分野は先に挙げた産業開発技術に比べると,抽象的すぎて一般的には馴染みが薄いかもしれない。しかしその概念の歴史は古く,「牛痘法」で有名なジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)の時代にまで遡る事が出来る。
 1796年,ジェンナーは,生まれ故郷のグロスタシャーの農村地帯で古くから農民の間で伝わる伝承――すなわち,「牛痘に一度罹った者は,それより重い天然痘には罹らない」というものを科学的に実証するために,牛痘患者の牛痘疱から採取したリンパ液を健康な少年に接種し,その効果が確認されると,村人に集団接種を行った。そして彼が表した有名な書物が『牛痘の原因及び作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae)である。これがワクチンの始まりである。

 興味深いのは,ジェンナーの発想の源泉が,科学とは程遠いはずの民間伝承を契機としたものであるという事である。わが国においても和名に充てられた「疫」という字は,かつて各地の村落共同体で伝承されていた疱瘡神信仰をも含む「疫病神」と同じである。村落共同体では「病」をカミサマとして祀る事で「病」封じを行った。年に一度の「祭り」では,その「病」のカミサマと交わる事が,いわば「通過儀礼」=すなわち,ワクチネーションであったのだ。それを思えば壮大な物語性をもって捉えることも可能である。

日本インターフェロン・サイトカイン学会編
『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』
(京都大学学術出版会)
【目次】
第1章 プロローグ
第2章 インターフェロン
第3章 インターロイキン-2
第4章 インターロイキン-3,-4,-5
第5章 インターロイキン-6
第6章 IL-12とIL-18
第7章 ケモカイン
第8章 G-CSF,Fas
第9章 遺伝子改変マウス

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08. März 10

【書評】 三橋貴明×八木秀次 『テレビ政治の内幕』(PHP)

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 経済評論家の三橋貴明と、ラジオ日本『ラジオ時事対談』のコメンテーターとしても知られる高崎経済大学教授の八木秀次による政治とメディアをテーマとした対談本である。同様のテーマでは昨年、三橋貴明が単著で『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』を上梓している。こちらの方は、メディアと政治の関係性をビジネスモデルという観点から批評したものだ。
 今回の対談本は、今現在、実際に起こっている情況とインタラクションして書かれたもので、昨年に民主党政権が誕生した直後から、小沢一郎の秘書であった石川知裕議員が逮捕される今年1月まで、全5回に分けて対談されたものが収録されている。
 これを読むと恐ろしいのは、三橋、八木の両論客が政局を分析しながら、当時あらかじめ予想していた事がほぼ的中していることである。例えば現政権は、デフレが進行しているのにも関わらず財政出動もせずに緊縮財政に舵を切った点、また、「夫婦別姓法案」、「外国人参政権」といった近代的な国民国家の形態を根本から変えてしまうような法案、そして将来的にはネット言論規制にもつながっていくであろう様々なネット・メディア関連法案、言論・表現の自由を規制しかねない「人権擁護法案」などを上程しようとしてる点なども見事に予想が的中している。
 このように書くと、まるでこの本がノストラダムスの預言書か、『20世紀少年』の「よげんの書」よりも恐ろしいということになってしまうが、何ていうことはない。新聞・テレビ等のマスメディアが、普段から国民に対して正しい情報を正確に伝えていたならば、これらの事は誰でも簡単に予測できた事なのである。
 例えば現在問題となっている北教組(北海道教職員組合)と民主党・小林千代美議員の事にしても、選挙の前に民主党という大衆政党が、どんな支持母体で成り立っているのかをマスメディアがきちんと正確に国民に伝えていれば、国民も今さらこんな程度の事で大騒ぎはしなかったのであろう。つまり、「子供手当」、「母子加算」、「農家戸別補償」、「高速道路無料化」のからくりも含めて正確な情報が与えられたうえで国民が民主党を選択したというのならば、そこで初めて「民意」によって政権交代がなされたということができる。今になって“こんなはずではなかった”と言っても、それは全部自分自身で選択してきた結果なのである。
 最近になって私の周囲では、先の衆院選で民主党に投票した方々が、“なぜ選挙の前に本当の事を教えてくれなかったんだ”、“本当は自民党に入れたかったが、自民党がだらしがないからいけないんだ”と言って私のせいにしているが、こういう方々は、一生かかってもデモスクラティアの理念を理解できないのであろう。
 ではなぜ、同じ日本という国に住み、自由に情報を享受できる環境にいながら、本書 『テレビ政治の内幕』の論客と、その他多くの大衆との間に、このような情報格差が生じてしまったのであろうか。それは何度も言うが、メディアリテラシーと情報検索スキルの差に他ならない。マスメディアから日夜流れる情報に疑いを持って行動をしてきた集団と、マスメディアの情報に疑いを抱くこともなく、ポピュリズム政治に煽動された集団との間に差異や落差が生じたのである。だから、この点においては民主党には罪はないのである。

●ポピュリズム政治の功罪
 現在の大衆的な政治状況を予見していたともいうべき本がいくつか手元にある。その一つが渡辺恒雄の『ポピュリズム批判』と、もう一つが西部邁の『貧困なる過剰』だ。『ポピュリズム批判』は、ちょうどパソコン通信に代わりネットの登場によって、徐々にネット論壇が形成されていった頃に「This is 読売」掲載コラム集としてまとめられたもので、『貧困なる過剰』の方は、西部が論客としてテレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出ていた頃に上梓されたものである。
 この2つの著書の中で、知識階級以外の多くの国民は「大衆」、あるいは「愚民」と定義され、この愚民が世の中を跋扈するようになれば恐ろしいことになるという、大胆な論陣を展開しているが、今あらためて読み返してみると、納得せざるを得ない部分も多々あるのである。西部はしばしば、デモスクラティア自体が制度疲労をおこしており、少々語弊があるかもしれないが、「バカにも1票、賢い者にも1票」という制度自体が如何なものかと言っている。これはなかなか思っていても口にはできない言葉だが、現在パーソナリティーを務める東京MXテレビの『西部邁ゼミナール』でも同様の事をしばしば主張しているから驚いた。
 では、西部が言うところの「バカ」から「賢い者」になるにはどうしたらいいのかというと、それは三橋貴明らが著書で何度もふれているとおり、メディアリテラシーを身につける事なのである。現在の情況をフィードバックしてからあらためて当時の西部邁の著書を読み返してみると、これが単に選民的知識階級至上主義の本ではないことが分かってくる。西部邁がこの世で最も醜いものとして忌み嫌っているのは「バカ」そのものではなくて、煽動された「バカ」がとる喧騒たる行動なのだ。

●「民主人権党」と「友だち民主党」のゆくえ
 冒頭で、本書 『テレビ政治の内幕』は、まるで『20世紀少年』の「よげんの書」のようであると書いたが、実は三橋貴明は、もっと以前にこれよりもさらにスリリングなかたちで未来を予見した本を書いている。それが三橋の人気ブログのタイトルにもなっている『新世紀のビッグブラザーへ』である。これは全くのフィクションではあるが、登場人物や国や政党は、我々がよく知る実在のものが全てモデルとなっている。ここに登場する国家社会主義政党である「民主人権党」や、『20世紀少年』に登場する「友だち民主党」とはまさに、民主党的なるものを感じるのである。
 物語の中で、「民主人権党」や「友だち民主党」は、マスメディアを味方につけて大衆心理を巧みに操り、テロや革命ではなく、あくまでも憲法に基づいて合法的に政権の座につくのである。そして一度政権の座についてから、徐々に国家を解体していった。『新世紀のビッグブラザーへ』の世界では、すでに「日本」という国号さえこの世に存在しないことになっている。
 この本が上梓された時、多くの読者は荒唐無稽なSF小説として読んだであろうが、今もう一度読み返してみると、きっと背筋が寒くなるだろう。何しろ、我々が子供の頃に特撮番組の世界で見ていた「ショッカー」やら「死ね死ね団」やら「ヤプール」やらが、政治家となって“大人帝國”にも存在しているのが『新世紀のビッグブラザーへ』の世界なのである。
 しかしこの物語でも最後に風穴を開けたのは、やはりメディアリテラシーを身につけた若者である。これは現在の愚衆政治の中で、唯一国民が武装できるツールなのである。
 一方で、昭和の残滓で生成されたキメラ的大衆政党は、もうデモスクラティアを党名に名乗るのは辞めにして、一層のこと「テレビ党」とでも名乗ればよかろう。

■井上リサによる書評■
【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)

【書評】 三橋貴明著 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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06. März 10

【書評】 上田篤著 『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』(岩波新書)

 少し前の話になるが、「日本は『神』の国」と言って批判を浴びた総理大臣がいた。「日本は『神』の国」という発言の一体どこが悪いのであろうか。
 欧州キリスト教社会のような国教の存在しないわが国・日本は、神仏混交の「八百万神」(やおよろずのかみ)と共存してきた。これは「神」であっても西洋のGODのように帰依するものではなく、村落共同体の中でカミサマとして祀ってきたものである。神話に基づけば、日本にはその名のごとく800万ものカミサマが存在しているのだ。まさに「神の国」ではないか。
 日本にいるカミサマの中には、他国の土着信仰にも見られる海、山、川などの自然物を司るカミサマももちろんいれば、茶碗、農機具などの物を司るカミサマもいる。物に何者かが宿るという「物の怪(け)」という感覚は西洋人にはなかなか理解できない。例えば「針供養」。これはもともと裁縫道具である縫い針を供養するものだが、今日実際に「針供養」の会場に行くと、時折注射針を供養に持ってきている医療関係者の姿を見かけることがある。その他にも、日本全国に無数にある神社・仏閣の中には航空機を祀る神社まで存在する。
 また、柳田國男の『遠野物語』に登場する男性器の形状をしたコンセイサマ(金勢様)や、山形、新潟地方で伝承されている「ツツガムシ」信仰などは、村落共同体における五穀豊穣や疫病退散という生活に密接した部分で役割を果たしている。
 つまり我々日本人は、それを意識しなくても、実に多くのカミサマに囲まれて暮らしているのである。文化人類学においては、ながらくこのような信仰的概念は、未開文明の原初的なるものとして低位に扱われてきたが、むしろ、このカオスの中で熟成された豊かさがあるからこそ、 わが国は他に類のない多くの創造的なものを生み出してきたとも言えのである。それは例えば宮崎駿が描く『もののけ姫』の世界観であり、または古くは『鳥獣戯画』に源流を求めることができる「怪獣」という文化もわが国独自のものだ。円谷特撮に代表されるわが国の「怪獣」は、単に既存の生物が巨大化しただけの西洋の「化け物」とは明らかに異なる。
 そんな豊かに暮らしてきたはずの日本人が、都市の生活の中ではどんなカミサマと共存しているのであろうか。そんなカミサマの源流を探ったのが本書、『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』である。

 著者の上田篤は小松佐京や羽仁五郎らとも親交がある戦中派である。この時代特有の、戦前、戦後の断絶した世界を生きてきた人物である。戦争が終わると、戦前の教育が全て否定され、今度は、戦後民主主義の中で興った学生運動にも挫折していった世代だ。京大闘争の時には毛沢東の農民蜂起を習った「山村工作」で農村に入ってはみたものの、それは単に闘争のためのイデオロギーであって、そこには血の通った農村との交流がなかった事に深く傷ついて、運動から離脱していった1人である。
 ちょうどこの頃に上田がたまたま出会った本が、文化人類学者きだみのるの『にっぽん部落論』であった。上田はこの本との出会いによって、農村集落における常民としての暮らしに深く関わりながら、日本の生活文化全般を都市論も踏まえ、地政学的に考察していくという上田の研究スタイルを導くきっかけともなった。
 本書、『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』は、都市の中で暮らす現代日本人の中にいきづくカミサマ、そして都市と隣接する空間に存在するカミサマについてフィールドワークしている。その対象は、日本人が古くから特に信仰の対象としてきた名山や参道、そして公園、山の学校、地方都市の私鉄沿線、町屋、甲子園球場と多岐にわたり、カミサマのいそうな場所を訪ねている。この本を読むと、やはり「日本は『神』の国」と思えてしまう。ちなみに、著者は特段に阪神ファンではないが、仮に甲子園球場が神殿であらば、そこには超分散的極小集団における「神のネットワーク」が存在し(すなわち阪神ファン)、そのカミサマは六甲山であろうと締めくくっている。

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14. Februar 10

【書評】 福本和夫著 『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』教養選書No.83(法政大学出版局)

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 “自称”環境保護団体シー・シェパードによるわが国捕鯨船に対する無差別テロ行為が止む気配がない。国家主権意識、国防意識とも極端に欠如したアマチュア集団の現政権は、困った顔をしてただこの状況を見ているだけである。石破前農水相が提案した海賊対策に関する法案も凍結したままだ。テロリスト相手の戦いにおいては、“9条バリアー”や“原子力潜水艦 「遺憾の伊」号”などは通用しないのだぞ。
 シー・シェパードをめぐる一連の論争の舞台は、単なる環境問題の域を超え、エコ利権、白豪主義による人種差別問題へと広がりつつある。シー・シェパードの日本を標的としたテロ行為を見ていると、捕鯨を行っているのは日本だけと思われてしまうがそうではない。日本に近代的な捕鯨技術を伝えたノルウェーも代表的な捕鯨国である。しかしあのテロ集団がノルウェー捕鯨船を攻撃しているところを見たことがない。それもそのはずで、本来、公海上でテロ行為を行えば、他国ならば間違いなく海軍が出てくるからである。
 わが国は他国のようにただちに海軍兵力を派遣するような事が出来ない。そのことを知っていて、あのテロリストたちは日本を執拗に攻撃しているのである。ここでもしわが国イージス艦が出て行って、ミサイルでも一発放てば、彼らはもう二度とこのようなことはやらない。試しに、ハープーンミサイルであのテロ船を一艇撃沈してみればわかる。

 実は、こんなテロリストどもにぜひ読ませたい本が手元にある。福本和夫が記した捕鯨史に関する本だ。福本和夫はわが国近代思想史の中においてはマルクス主義の本流をいく共産主義思想家として位置づけられているが、思想家としての福本和夫の他に、産業技術史研究家、捕鯨研究家としての顔もある。特に晩年は捕鯨史の研究に膨大な時間を費やし、わが国の捕鯨文化というものを、産業史、工業組合史、常民文化史、漁業史といった実に多岐にわたる視点で考察し、あらためてわが国の捕鯨文化の豊かさを掘り起こすことを試みた人物である。
  『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』と題した福本の研究書は、数年前、私がシーボルトの文献収集のフィールドワークをするために長崎に滞在していた時に地元の古書店で見つけたものである。
 まずこの目次だけでも見ていただきたい。図版や年表といったアーカイヴも網羅したこの研究書は、福本和夫の捕鯨研究における集大成であり、最高傑作であろう。この本の中には、「近世―近代」から「現代」にかけて、鯨文化とともに活き活きと暮らしてきた常民としての近代日本人の姿が描かれているのだ。これを民俗伝統文化と云わずして何と呼ぶのか。捕鯨を単にエコ思想、地球市民思想に置き換えて批判するものどもに、私は反証としてこの本を明示したい。

福本和夫著 『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』教養選書No.83(法政大学出版局、初版1960年7月15日)
【目次】
第1章 「鯨の生態と効用」

鯨の路―鯨の廻游/上り鯨・下り鯨/象の眼のような鯨の眼/日本で鯨が魚類でないことを説いた先覚者/鯨の尾の威力/森鷗外の鯨の歌/鯨の大敵シャチ/鯨の年齢調査に成功したかくれた研究家天野太輔氏/明治20年代までの鯨の用途/拡大し発展した鯨の利用方法/鯨ヒゲの用途/木綿弾弓の発達と鯨の筋/昔の鯨油の用途と一頭からとれる量/昔の捕鯨の費用と収益/捕鯨に関する藩の課税/アラビア人による竜涎香の東西通商史/捕鯨業の時代区分と鯨の種類別―セミ鯨からマッコウ鯨へ、そして今日はナガス鯨の時代である/鎖国日本を開国させたのはある意味では、アメリカ捕鯨業であった

第2章 「わが捕鯨方法発展の五段階」
わが捕鯨方法発展の五段階/日本捕鯨の発展段階年表/年表附註スヴェン・フォインのこと/突取法以前の捕鯨/日本古代の原始的な網取法/日本は古来から網取が得意であった/原始的形態のワナとアミ/古代日本に原始的な網取捕鯨法のあったこと/網取捕鯨法と鰤追網との類似点/万葉時代の彩色船/突取捕鯨の先駆者が三河、尾張であったわけ/突取捕鯨法初期の規模/日本捕鯨史上における寛文・延宝初期の意義と紀州太地浦の役割/沖網漁船の長桹と勢子船の狩棒/勢子船・砧踊の名称と網取捕鯨法/太地浦の網取捕鯨と西鶴の「日本永代蔵」/捕鯨業はたいてい海賊の盛んだった地に栄えた/捕鯨についての書いた最初期の人々

第3章 「欧米人・中国人・アイヌ人の捕鯨と比較して」
欧米の捕鯨方法発展の五段階/銛の役目とボンブランスの役目/中国の捕鯨方法/アイヌ人の捕鯨方法/わが網取捕鯨技術の六つの特徴点―併せて網取捕鯨法の限界点

第4章 「わが沿岸網取捕鯨業の発展」
網取鯨組マニュファクチュアの規模―製銅に次ぎ製鉄に匹敵する大規模であった/鯨商人とサバ船のこと/九州における捕鯨場の増加/長崎万屋町の鯨の山車と玩具/長崎万屋町の鯨の山車と小林作太郎の自動カラクリ鯨/益富組の漁場数/益富組の紋章/鯨組のマニュファクチュアの人的組織/鯨組主和田、多田、醍醐、深沢、益富等の家系と生活/和田氏系譜中抜粋/刃刺の任務・等級・昇進・修養・生活など/銛の投げ方/銛の役目と劔の役目/手形切り/納屋(鯨体処理工場)/鯨組の生活規律/鯨組の服装/組出の儀式ならびに初穂のこと/鯨供養のこと/刃刺踊とその唄/わが鯨船の種類・特色など/網取法時代の通鯨数と捕鯨数/鯨船を軍船に充用するために新造した吉宗/頼山陽の「水戦論」と捕鯨実習

第5章 「土佐津呂組の捕鯨」
「津呂浦捕鯨誌」の内容項目/「津呂浦捕鯨誌」の参考書目/津呂浦捕鯨組の開祖多田五郎右衛門のこと/万治三年にかけての(すなわち日本近世学芸復興期の始期における)捕鯨復興と津呂組中興の祖多田吉左衛門のこと/捕鯨年代記/津呂浦鯨組の使用人員数/土佐藩と津呂捕鯨組との関係/船頭などの勤続年数と副業/鯨組の階級制と風紀/土佐の捕鯨統計表/器具の二、三について/鯨の汐吹きについて/鯨の交尾について/鯨の長さ測定法/経営主体の変遷

第6章 「ノルウェー式捕鯨法が何故まず日本海方面ではじまったか」
日本海沿岸の捕鯨業/その規模と特徴の二、三/ノルウェー式の採用に長州仙崎が先駆したわけ

第7章 「わが捕鯨図説の四系統」
わが捕鯨図説の四系統/捕鯨図説四系統年表/木崎絵巻の作者は「肥前物産図考」の著者/捕鯨絵巻中の圧巻/捕鯨業の宣伝につとめた平戸藩主/蘭方医大槻磐水の鯨研究/司馬江漢の「生月島捕鯨図説」/わが鯨体解剖学の発達/わが鯨解剖学発達年表/「鯨史稿」の性格・識見とその成立/「勇魚取絵詞」の成立と特色

第8章 「わが漂流船と英米遠洋捕鯨工船との接触」
アメリカ捕鯨の太平洋進出年表/太平洋への漂流船と英米捕鯨工船との接触/太平洋上の遠洋捕鯨船とハワイ/漁夫五郎の視察した水戸沖の英国捕鯨工船/万次郎の救助された米国捕鯨船/米国捕鯨船で乗りまわした万次郎の見聞と体験/帰還後の万次郎は幕府に建議して小笠原へ捕鯨に乗りだした/米国遠洋捕鯨船の規模/彦蔵漂流記とサンドウィッチ島の捕鯨船

第9章 「近代式捕鯨への過渡期」
憲政以後の日本における捕鯨銃法への傾向の発展/漂流記「蕃談」の米国捕鯨工船図/浮世絵師周延の錦絵捕鯨図/太地浦前田兼蔵発明の捕鯨銃/太地浦の末期現象―漂流の一大悲劇/紀州の串本・大島におけるノルウェー式捕鯨業は岡十郎の東洋漁業会社によってはじめられた

第10章 「近代式沿岸捕鯨とは母船式遠洋捕鯨」
日本におけるノルウェー式捕鯨業の開祖、岡十郎/これより先、ロシアが朝鮮近海でノルウェー式捕鯨業を開始した/明治の海事小説家江見水蔭の「実地探検捕鯨船記」/近代式捕鯨資本家としての中部幾次郎と山地土佐太郎/大型鯨を対象とする近代式近海捕鯨/小型鯨を対象とする近代式近海捕鯨/戦後私のみた乙浜・太地浦の近代式小型捕鯨船/近代式近海捕鯨の中心地は北上した/母船式遠洋捕鯨/電気銛の改良/船団作業員の訴え

第11章 「研究余話十三章」
鯨の和名・漢名/鯨・鰉(蝶鮫)と中国文学/鯨を研究した本草家・医家/蘭医シーボルトと日本の捕鯨業/「本朝食鑑」の鯨論/捕鯨と明治の文豪/アイヌの鯨祭とそのうた/鯨捕りをうたった加納諸平/丸山薫の詩「鯨を見る」/鯨の落語/鯨幕のこと、鯨のだんまりのこと/勝間竜水の鯨図/長沢蘆雪の捕鯨図/壱岐の岩窟壁画の捕鯨図

第12章 「本書の特色は日本ルネッサンスとマニュファクチュアの見地からした総合・比較研究にある」

追補
生月島の勇魚取絵図詞と露伴の小説いさなとり

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11. Dezember 09

【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)

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 年末になって週刊誌や新聞の中吊りに「鳩山不況」「民主大恐慌」などという文字が躍るようになった。特に『週刊朝日』の狼狽ぶりは見ていて面白い。何を今更という感じである。
 これほどまでにデフレギャップが亢進し,経済が停滞している時に,民主党がデザインするマルクス主義をトレースしたような緊縮財政をやれば,このような事態になることは最初から分かっていたことである。それを承知で朝から晩まで“政権交代”を愚衆に喧伝しまくったマスメディアは,恐竜のようにとっとと滅びればよい。新聞社やテレビ局が2つ3つ潰れたところで困る人はいない。しかし,日本という国が無くなっては困るのである。

 このたび,経済評論家の三橋貴明が『民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由』(アスコム)を上梓した。内閣府などの公式統計資料をソースに分析された経済書である。
 この本を読んでみて思ったことなのだが,大きく分けて2つの相対する評価が上がって来るであろうと予想される。その一つは,民主党に対する単なるネガティブキャンペーン本と捉えようとする勢力(仮にこれをタイプAと規程する)。そして,もう一つは,民主党政権になって変化した現在の日本経済の状況の詳細を知って,ただただ恐ろしい思いをする人たち(タイプB)ではないであろうか。
 この差異はどこに起因するかといえば,タイプA群の人たちはマクロ経済をまったく理解できない人であり,タイプB群の人は,多少なりともマクロ経済を理解している人である。そして,タイプB群の中には,今まで何となく平穏に暮らしてきたのだが,知らなくても良いことまで知ってしまって,今まさに戦々恐々としている人々も含まれる。
 「自民党にお灸をすえたつもりが,実は自分が大やけどをしてしまった」という状況の,潜在的「お灸」層の人たちだ。彼らは,「子供手当」に一瞬喜んでみたものの,まさか自分の配偶者の勤務先が倒産することなど想定していなかった。また,自分が関わっている文化活動や学術研究に事業仕分けで「廃止」の審判が下るとは思ってもみなかったのであろう。
 だから現在,「こんなはずではなかった!」という民主党に対する激しい憎悪の念が熟成しつつあるのである。また加えて,マクロ経済に精通している者であれば,現政権下における日本経済の絶望的な未来図を明確に想像できるので,この本を読むと,心底恐ろしい思いをするのである。いわばこれは同時代性をもって書かれた,経済版「真・よげんの書」なのである。我々はこれから,リアル「20世紀少年」の世界を体験させられるかもしれないのだ。

 著者の三橋貴明がマクロ経済入門者に対していつも分かりやすく提示しているチャートが2つある。
 ひとつはバランスシートであり,もう一つはデフレギャップである。この2つは実に明快である。
 私は最近面白い事に気がついた。それは,マクロ経済をよく理解している人は,しばしば国家経済を人間の身体に例えて話をされることである。麻生総理がそうであるし,本書の著者,三橋貴明も同様である。
 麻生総理は昨年と今年の渋谷,池袋の街宣で,「まずはカンフル剤を投入し,その後に時間をかけて体質改善だ」と言われていた。そして日本経済が回復するには「全治3年」であると。
 仮にこれを麻生総理のいわれるように国家経済を「身体」に例えると,つまり,電解質異常を起こした血漿の電解質補正とカロリー補給をやりながら,時間をかけて循環改善していくという考え方である。これは実に明快。生理学の教科書としてスタンダードであるギャンブルの「水・電解質テキスト」に符号する。(ギャンブルについては以前に専門誌に書いたコラムを参照→http://ringer.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/7_a8b5.html
 そして,三橋貴明が経済番組や講演でしばしば提示するデフレギャップの図は,生理学者ギャンブルが作成した「ギャンブルグラム」のように分かりやすい。
 デフレになるには様々な状況,要素が複雑に影響し,その経緯も様々である。ここでその時々の状況にあった補正を適正に行うことでデフレギャップは解消される。この手法を誤ると,さらにデフレギャップは悪化するのである。
 これを生理学者ギャンブルの考えに照らし合わせると,電解質異常を起こした血漿を補正するには,その電解質異常に至った経緯,状況を冷静に分析し,適切な処置をせよ,ということである。すなわち,同じ脱水症状でも,例えばアシドーシスとアルカローシスとでは対処の仕方は異なる,ということである。これを誤ると,さらに症状は悪化するのである。

 このように考えていくと,近代的輸液のメソッドとなったギャンブルによる「体液平衡」という概念は,三橋貴明やリチャード・クーのいうバランスシートで国家経済の全体像を見ていくという考え方といくつもの共通点が見いだせる。
 本来,マクロ経済について少々苦手であった私が三橋貴明の数々の経済書に書いてあることを理解できるようになったのは,何を隠そう,ギャンブルの「水・電解質テキスト」の考え方を引いてきたからなのである。
 そして現政権が今やっていることは,日本経済を心肺停止状態に至らしめることなのだ。本書『民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由』では,その理由が非常に詳細かつ明快に提示されている。これを単なる民主党批判本だと思っている人たちは,いずれ事の重大さに気がついた時に,どんなパニック症状を引き起こすのか,詳細に観察してみたい。

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出典:「日本経済の真の問題」(2009年,三橋貴明作成)

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ジェームス・ローダー・ギャンブルによる「ギャンブルグラム」
(上)Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695
(下)Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942

■井上リサによる書き下ろしコラム■
【書評】 三橋貴明 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)
【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)
【コラム】麻生太郎の内科身体的修辞法(自由民主党総裁選)

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05. Oktober 09

【書評】 三橋貴明 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)

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 作家で若手経済評論家の三橋貴明によるメディア論である。メディア論と言うと,一時期ポストモダニズム領域でもてはやされた現代思想史における身体論,時間論を連想される方もいるかと思うが,この論集の中にはドゥルーズもデリダも登場しない。では何かというと,ビジネスモデルから実数字をもとに分析されたメディア論なのである。
 タイトルにある挑発的な「マスゴミ」という文言は,文字通り,ゴミのような今日のマスメディアのことを言い表している。このような皮肉と嘲笑を込めた言い回しは,近年は三橋自身もそう呼ぶように,“ネット・スラング”として数多く存在している。
 例えば,読売巨人軍のことを「ゴミ売り虚塵軍」,NHKを「犬HK」(または日本反日協会),テレ朝(テレビ朝日)を「テロ朝」(テロリストのような報道局),民主党を「ミンス党」(「民主」を朝鮮語風で読んでいる。実際に日本の民主党は「永住外国人参政権付与」や「東アジア共同体」を党是として掲げるなど,幸か不幸か親韓親北政党というイメージが定着してしまった),といったものをしばしば見かける。誰が最初に言い出したのかは分からぬが,総じて言いえて妙なのである。
 さて今回,三橋貴明が本書で袋叩きにしているのが,今日の翼賛的マスメディアである。単にそれが翼賛的であるとか,巨悪の象徴であるというのならば,こういう評論を書くのは本来は立花隆あたりの仕事であろう。しかし事はそんなに単純ではなく,三橋が言うことろの“マスゴミ”が,経営悪化の一途を辿っているのにもかかわらず,相変わらず現体制を改善する様子が見られないところに,この巨悪の病理が存在しているのである。
 作家の三橋貴明は,経済評論家でもあり,中小企業診断士というライセンスも持っている。中小企業診断士というのは,企業の財務状況を,まるでDr.Houseのような厳しい臨床医の視点で隈なく精査し,改善すべき点を挙げて,ただちにそれを「根治」に向けて指導するという役割を持っている。その中小企業診断士でもある三橋の目から見ても,地上波テレビの軒並みの視聴率の低下,新聞の売り上げ部数の減少,そして広告費売上はネットに猛追されるという状況の中にあって,何らビジネスモデルを変えようとしない旧態依然とした“マスゴミ”の存在が,不思議でしょうがないのであろう。
 例えば,現在ほぼ横並びのニュース番組を見て,異様に思うのは私だけであろうか。テレビ局は電波は自分たちの所有物と勘違いをしているようだが,あれは国民の財産であり,各テレビ局はそれを国民から借り受けているだけである。それを独占している民放が,どれも横並びの同じような論調のニュースを流すという状況がまず異常なのである。
 そのような理由から私は,余程の事――(たとえば阪神タイガース日本シリーズ優勝,金本涙の現役引退,浅田真央金メダル,東海地震で熱海水没,テポドン大阪に着弾,その他大災害,有事など)がない限り,ばかばかしいし,何ら緊急性もないので日本の放送局の番組はほとんど見ることはない。そのかわり有料チャンネルで海外ニュース,海外ドキュメンタリー,海外医療ドラマ,海外マイナー・スポーツ中継三昧の日々である。最近はテロ朝がどこのチャンネルかも忘れてしまった。(でも全然困らないが)
 一方で,私が毎日見ているアメリカの放送局は,例えばCNNやABCはややリベラル色が強いのに対してFOXは堂々と共和党支持を表明しており,視聴者に対してあらかじめそのようなアカウンタビリティを表明することで,健全性,透明性を確保している。日本の放送局のように,一見すると中立・公正を装いながら,あざとい印象操作やカット&ペーストをやってごまかすよりも,よほど健全である。
 ひとつの放送局が堂々と特定の政党の支持表明を行うというのは,日本の放送法では考えられないことであるが,少なくても米メディアでは,必ずそれに対抗するメディアも存在するので視聴者は各自のメディアリテラシーに基づき,取捨選択すれば良いのである。もしスポーツ新聞が報知新聞だけであったならば大変なことになってしまうが,阪神極右プロパガンダ紙「デイリースポーツ」も存在するからいいのである。

■テレビ・新聞なしに現代人は生きていけるか
 三橋貴明が詳細なデータをもとに分析した結果,過去の遺物であるマスコミが恐竜のような最後を迎えるとして,我々は,テレビ・新聞なしで生きて行けるだろうか?
 答えは「Yes!」である。
 現在テレビで放送されている番組は,ニュース,報道バラエティー,お笑い,スポーツ中継,そして深夜の通販番組などであり,こんなものはわざわざテレビでやらなくてもいいようなものばかりだ。では,テレビ局は 「誰のために放送しているのか」という命題に行きつくわけだが,これは視聴者ではなくスポンサーに対して,費用対効果としての裏付けや,広告的価値を維持するために放送しているのである。そこで問題になってくるのが視聴率なわけだが,各局ともいろいろと手は打っているようではあるが,まったく改善される兆しがない。それは視聴者が求めているものと,放送局がスポンサーの意向を受けて制作している番組とに大きな隔たりがあるからだ。その隔たりについては本書の著者である三橋貴明をはじめ,いろいろなものが指摘しているのにもかかわらず,テレビは相変わらず死んだふりをしているようである。
 例えば過去に放送された麻生首相と鳩山代表の討論会の模様をノーカット生放送したのはネットであり,テレビ局はそれを短く編集して流しただけである。ここでもし1局でも“抜けがけ”してノーカット中継をしたならば,視聴者はその局だけに釘づけになったであろう。また毎日報道されるニュースにしても視聴者が求めているのは,今日起こった事実だけを伝えるストレートニュースである。そこにキャスターや評論家や御用学者たちが出てきて,いちいち自分の個人的なイデオロギーを語られてもこちらは迷惑だ。ワイドショーや報道バラエティ番組しかりである。我々国民は,このような方々の個人的なイデオロギー発露の装置として貴重な電波を貸してやっているのではない。
 こうした視聴者のテレビメディアに対する不満を解消する形で賑わっているのがニコニコ動画やスティカムなどのネットライブ中継である。これは,一般ユーザーが自分の部屋やペットの様子を中継した極めてプライベートなものから,選挙の街頭演説会,デモ行進,集会といった政治的な内容のものまで実に多岐にわたる。これらの膨大なコンテンツは既存のテレビ番組の内容を完全に代用するようなものであり,こちらのネット映像の方が新聞・テレビを差し置いて,一次ソースになる事もある。
 この点は三橋もすでに指摘しているが,三橋が言うところのいわゆる旧態依然とした“レガシーメディア”たるテレビ・新聞は,ネットという競合相手を甘く見ていたということなのである。ネット上で一次ソースが流れた場合,それをもとにテレビ・新聞の情報の正確さ,公正さがネット・ユーザーたちによって厳しく精査されることになる。今までは世の中を批評・論説している立場であったマスメディアが,今度は自分たちも批評の俎上に乗せられることになるのである。これは未だかつて経験しなかった事態であり,だから慌てているのである。
 私のように,普段から学問・芸術のフィールドにいる人間にとっては,こんなことは当り前のことなのだが,マスコミの人間にとっては思いもがけなかった出来事である。時折散見する,まるで議論にもならないようなマスコミ側の人間の失敬な態度は,自分が作ったものに対してディベートから逃げているというクリエイターとしてはあるまじき行為なのである。碌な番組も作らず,碌な記事も書かず,それによってネットユーザーから批判された時に発現するヒステリックな症状は,まさに前時代的である。

■“恐竜”は滅び,環境の変化に対応した身体を持つ“昆虫”は生き残る
 しかしここでただ1点だけ,そんなレガシーメディアでも有用であると思うものがある。それは独立採算型の地域新聞である。
 私は大手新聞社が発行する新聞は購読していないが,伊豆の地域新聞である『熱海新聞』は年間購読している。販売所は伊豆にあるので他の新聞のように新聞配達で届けてもらうわけにはいかない。まさか「クレヨンしんちゃん」の映画みたいに,自転車で熱海峠を越えることなどできないであろう。そこで,販売店と相談して,毎月の購読料1430円の他に1か月分の送料1000円を上乗せして払うという約束で,毎日伊豆の販売店から東京の自宅まで郵便で送ってもらっているのである。
 少々へそ曲がりと思われるかも知れないが,私が『熱海新聞』を購読しているのには理由がある。実は数年前から私は,熱海で「農業」「先端医療」「アート」の3本柱による地域活性化事業,町づくり活動を行っており,東京にいながら熱海の政治経済を含めた隅々の事について知るためには『熱海新聞』を毎日読むのが一番いいのである。この紙面には中央の大メディアがけしてフォーカスしないような町の手触り,息づかいを感じる事が出来る。
 例えば昨年,麻生内閣の「定額給付金」がマスコミから一斉に“バラ撒き”だと叩かれていたとき,2月20日付の『熱海新聞』では,伊豆半島6市6町首長会議が2月19日,「定額給付金の早期支給に関する要望書」を鳩山邦夫総務大臣に提出した,との記事を伝えている。またその「要望書」の中には,“消費喚起を促し,地域活性化が図られる定額給付金の財源を確保する関連法案の速やかな成立を”,“定額給付金のめどが立たない状況にあることは誠に遺憾”といった趣旨の意見が盛り込まれている,と詳しく報じている。そして,いわば新聞の顔であるコラム「潮の響」では,“「定額給付金」は都会では微々たる経済支援にしかならないが,そのお金を使って伊豆に来てくれるお客さんもいるだろうことを考えると,一概に「バラ撒き」とはいえない”,という主張も書いている。
 私もそれを受けて,私が個人的趣味の範囲で気楽に運営している熱海の観光PRブログで“定額給付金で熱海に行こう!”キャンペーンをやったところ,熱海市役所観光課の職員の皆さんもたくさんブログをご覧なっていて,後からとても喜ばれたのである。
 熱海の斎藤栄市長も民主党系の市長だが,政局よりも地域経済や住民の生活を第一に考えているような市長なので,このような,国会審議を邪魔するような民主党を牽制する「要望書」のとりまとめも速やかにできたのである。
 『熱海新聞』のようなきめ細かい記事のフォローは,地域新聞ならではの持ち味である。私が在欧中に愛読していたFrankfurter Allgemeine ZeitungやSüddeutsche Zeitungなどの独紙にも同じようなことがいえるわけで,三橋が本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』で述べているように,「需要」と「供給」が健全に結ばれれば,レガシーメディアでも生き残る余地はあるのである。
 『熱海新聞』のような地域新聞は,いわば限定された環境で身体を対応させながら生き延びてきた小回りの利く“昆虫”のようなもので,このようなものはあえてネットと競合することなく,読者の足元を大切にしていけばよいである。

■バカにつける薬
 本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』では,ありがたいことに,中小企業診断士でもある著者の三橋貴明が,レガシーメディアの生き残り策として,経営体質改善のための処方箋をいくつか提示している。その中でも「放送免許更新制度の撤廃」,「放送法改正」(処分規定の盛り込み)など,今すぐにでも緊急に取り組まなければならない課題もたくさん含まれている。
 しかし果たして今の“マスゴミ”が,謙虚にこのようなものに対して聞く耳を持つかどうかは疑問である。なぜなら“マスゴミ”にこのような謙虚な姿勢があるならば,ここまでひどい状況にはならなかったからだ。
 例えば,『毎日新聞』が新春企画した特集「ネット君臨」は,ネットの匿名性といった彼ら“マスゴミ”が言うところのネットの「負」の部分ばかりをクローズアップするという非常にヒステリックな内容であった。取材記者は新聞社というバックボーンに隠れることができるのに対して,取材対象には実名の開示を求めるというバランスを欠いた取材姿勢に疑問を持ったフリージャーナリストの佐々木俊尚もこの点をするどく突っ込んでいるが,毎日新聞の記者はこの疑問に真摯な態度で答えてはいない。そればかりか,ネットメディアの有用性すらも,冷静に分析することから逃げているのである。実は“マスゴミ”こそ,究極のモラトリアム人間の集合体であったのだ。
 このような状況からみても,“マスゴミ”がレガシーメディアとして衰退していくのは時間の問題である。彼らのために最良の処方箋を提案した三橋も,当然そのことは分かっているとは思うが,これは,中小企業診断士の三橋貴明の,臨床家としての良心か好奇心がそうさせたのであろう。本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』は,今まさに滅び行く“恐竜”に向けてのラストメッセージだ。

■三橋貴明のその他のレビュー■
【書評】三橋貴明著『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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14. Juli 09

【雑誌】 『いとをかし』 の紹介

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 名古屋の老舗和菓子店「両口屋」が発行する和菓子雑誌。先月新宿文化クイントサロンで開催された,詩人で英米文学者の加島祥造さんの茶会をかねたトークショーの席で,お菓子と一緒にあみやげとしていただいたものである。
 昔でいうと,顧客や株主に向けた企業のディスクロージャー誌ということになるのであろうが,単に自社商品の紹介にとどまらず,和菓子を切り口にして,わが国日本の伝統文化全般にわたって内容の深いコラムを読むことができる。
 そのうえ,例えば金融関係のディスクロージャーなどは,財務状況,投資状況など,ひたすら数字の羅列で少々味気ないものであるが,これが和菓子屋ともなると,菓子の名の由来,和菓子作りに欠かせない道具の歴史,製法の歴史などと,とたんに味わい深いものに変わってくるのである。その他にも「和」の文化に蘊蓄のある各界の人物にもスポットを当て,その生活の中に佇む「和」のライフスタイルなども紹介している。創刊1号は先に登場の加島祥造さんである。

 今回の特集は「氷」。両口屋でこの季節に出される「室の雪」という実に美しい菓子の紹介とともに,氷にまつわる様々なコラムも読むことができる。中島満氏による『江戸のアイスロード―献上氷を運ぶ飛脚たち』は,江戸時代に金沢から江戸まで献上の氷を運んだ飛脚たちのことが詳しく書かれている。参考資料も詳しく文中に登場するので,このルートの近くを旅行した際は,資料が所蔵されている美術館や博物館も訪ね歩くことができる。
 また,雪や氷の研究で有名な科学者・中谷宇吉郎(1900~1962)のエッセイを書いているのは,中谷宇吉郎雪の科学館館長の神田健三氏。中谷宇吉郎の功績は,特にわが国の科学史や気象学といった学問に興味を持っているもの以外にはあまり知られていないかもしれないが,世界で始めて人工雪の生成に成功したのがこの中谷宇吉郎である。また一方で,中谷は雪に関するドキュメンタリー映画もいくつか制作しており,この時に立ち上げられた制作会社「中谷研究室プロダクション」は,私の縁戚にあたる写真家でドキュメンタリー作家の吉瀬昭生も所属していた「岩波映画」の前身のプロダクションである。

 巻末コラムを飾るのは,コラムニスト・谷浩志の『左党オヤジの甘口入門』。この方,男のくせに,いやオヤジのくせに,甘口ワインやお菓子の蘊蓄をたれているのがまた可笑しい。
 最近は甘い物好きの男性のことを“甘味男子”と呼ぶそうで,“この「珍獣」を世界で最初に見つけたのは自分だ!”と,まるでウォーレスの研究をこっそりいただいてしまったダーウィンみたいな事を言っているメディア風情がいるが,彼らはかつて「TVチャンピオン」を席巻していた元祖・甘味王の池田貴公子のことは多分知らないのであろうな。

■両口屋是清■
http://www.ryoguchiya-korekiyo.co.jp/

■中谷宇一郎雪の科学館■
http://www.city.kaga.ishikawa.jp/yuki/

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24. Juni 09

【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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 そう遠くはない未来の日本に,国家解体と日本人弾圧を合法的に企てる「民主人権党」なる独裁政党が反日連邦の傀儡として台頭し,それによって“第三市民”(いわゆる植民地時代で言う三等市民のこと)にまで地位が転落した日本国民の若者が,様々な弾圧を受けながらも抵抗して戦いぬいていく物語である。
 日夜いわれなき弾圧に苦しむ若者たちが暮らすこの社会は,「大アジア人権主義市民連邦」によって分割統治され,「人権警察」や「九条教」なるカルト教団が跋扈するような,まことにおぞましい世界である。実在の時事をトレースしたようなその刺激的な内容は,文科省ならぬ,まさに,「ショッカー日本支部推薦図書」といったところだ。

 著者の三橋貴明は,中小企業診断士という肩書を持つ異色の作家である。
 近年,医療小説,経済小説といわれる類の小説の作家は,もともとこれらの業界に属していた人間にたまたま文才があって,現代小説や社会評論の世界へと転身したケースも多々見受けられる。著者の三橋貴明もそのうちの一人であろう。普段は冷徹な数字のデータを提示し,論拠もなくイデオロギーだけを振りかざす文系御用学者たちを片っ端から粉砕するような痛快な経済専門書を数多く書いている。
 ネットとのメディアミックスで生まれた三橋の作品などをみていると,昔の昭和風情の現代小説の作家たちが,自分の門外漢のジャンルに手を出す時には,取材だけでも相当の年数の時間をかけていた時代が何か懐かしいような気がする。これができたのは多分にその時代に流れている時間のスピードが現在とは大きく異なったのと,そして,いわゆる“有識者”と言われる文化人や記者だけが「言葉」と「文字」を特権的に扱うことができた時代の,選民的ジャーナリズムが君臨していたからだとも言えるのである。
 それに対して現在では,旧態依然たるマスメディアやジャーナリズムが特権的に保守していた権威というものはすでに崩れつつある。その原因は言うまでもなくネットという新たなメディアが台頭してきたことに加え,そのネットを既存メディアに対するカウンター・ツールとして使いこなし,メディア・リテラシーを獲得することの必要性に気がつきだした国民が増えてきているからである。
 ひと昔前までは,新聞やテレビの言うことが間違っていると疑うものはいなかったのであろう。情報の一方的な「受け手」にすぎなかった国民は,社会に相対化された権威などまったく持ち合わせていなかった。あるいは情報の発信側,つまりメディア側も,「受け手」にすぎない国民のことなどこの程度にしか思っていなかったともいえる。しかしこの感覚こそがナンセンスであった。彼らが言う“愚民”よりもパラダイム・シフトに乗り遅れたマスメディアは,完全に,三橋貴明が言うところの“レガシーメディア”として取り残されたのである。
 反対に我々は,このような状況の中でネットというメディアが台頭してきたことで,マスメディア側から編集権を行使して投げられた情報を,今度は第一次ソースをもとに「受け手」側が情報の精査と並列化を行うスキルを手に入れたのである。これは新聞・テレビといった旧来のメディアにしてみれば,非常に脅威なことである。

 長い歴史を紐解けば,いつの時代にも翼賛的なメディアは存在していた。その時それらの勢力と常に闘ってきたのは,アヴァンギャルド=<前衛>の位置にいた言論人や芸術家たちなのである。それは過去の歴史の中だけの話ではない。三橋貴明も,この作品を書くにあたっては,ジョージ・オーウェルの『1984』へのオマージュを込めていると告白している。
 そして,本作品 『新世紀のビッグブラザーへ』の中では,そのアヴァンギャルドの役割は,ススムという一人の日本人青年が担うこととなる。
 三橋貴明が今回加筆して書き下ろしたこの作品は,単に近未来のエンターテインメント小説という域に収まるだけではなく,マスメディアやジャーナリズムのあり方,「政治」と「情報」の関わり方といった実に今日的なテーマを内包している作品なのである。

●ビッグブラザーとは何者か?
 タイトルになっている“ビッグブラザー”とは一体何者なのか。米語のくだけた言い回しでは,マフィアのボスを表すことが多い。広義の意味では絶大な権力者のことである。
 『新世紀のビッグブラザーへ』の中では,なかなか正体を現さないビッグブラザーの威を借りて,「民主人権党」なる独裁政党が日本に誕生する。
 この「民主人権党」の醜悪さといったら,さながら『20世紀少年』に登場する「友だち民主党」をも彷彿とさせる。
 「民主人権党」は,「人権擁護法案」,「外国人参政権」,「東アジア共同体」,「無防備都市宣言」,「沖縄一国二制度」といった,人間の倫理や良心に情動的に働きかけるような文言で埋め尽くされたマニフェストを掲げ,新聞やテレビでしか情報源を得る事が出来ない情報弱者の国民の中に,まるで癌が血管新生で領土を拡大していくかのごとく浸潤していくのである。
 「民主人権党」のやり口にどこか暗黒臭漂う懐かしさを感じるのは,これはわが国特撮ヒーロー文化が連綿と紡いできた歴史の中で,まさに悪の組織として輝いていたショッカー(『仮面ライダー』),死ね死ね団(『愛の戦士レインボーマン』,ヤプール(『ウルトラマンA』)などとそっくりだからなのである。
 これらの悪の組織は,女,子供,病者などを手玉に取り,工作活動を仕掛けるのが得意である。例えば,「○○基地の場所を教えれば,お前をショッカー少年隊のリーダーにしてやるよ」,「うちの組織に入れば誰にも負けない無敵な体を与えてやるよ」,「テストで100点取らせてやるよ」という具合にである。
 「民主人権党」とはまさに,「選挙でわが党を応援すれば,外国人の君にも選挙権をやるよ」,「女性が結婚をしなくても,もっと楽して遊んで暮らせるイケイケな法案をつくるよ」,「財源なんて後から適当に考えるから今は心配するな」などと口当たりの良いことを言って,ウイルスのように国民の中に浸潤してくるような独裁政党である。
 しかしここで考えてみてほしい。あのショッカーをはじめとする悪の組織に騙された人たちはどうなったのかというと,結局は勢力拡大のための捨て駒に使われただけである。ショッカーが国民のために約束を守ったためしなどない。少年少女時代にこれらの物語を見た子どもたちは,自分の夢というのは,結局は自分の力で成し遂げるしかないのだ,ということを学習したはずである。そして弱者たる人たちの心の隙に入り込んで日本を侵略しようとしたブラックスターのブラック指令(『ウルトラマンレオ』)は,“自分たちの未来は自分たちで守ろう!”と悟った子どもたちの手で倒されたではないか。本来はこれこそが健全な世の中であるはずなのだが,大人になると,どうやら歴戦のヒーローたちが身を呈してわれわれに送ってくれたありがたいメッセージをすっかり忘れてしまっているようだ。この平和ボケした日本国民が「民主人権党」なる翼賛的な独裁政党の餌食なるのは納得できるのだ。

●「民主人権党」は,異形化したショッカーである
 いわゆる歴代の悪の組織や侵略者たちが行ってきた工作戦術の中で,特に秀逸と思われるのは,地球人同士の中に猜疑心を芽生えさせ,お互いが争い合うように仕向けることである。それをやったのがメトロン星人(『ウルトラセブン』)だ。メトロン星人の場合は,個人の人間関係における工作活動をしたわけであるが,この他にも,国家に向けた大規模な工作戦術を試みた侵略者や悪の組織もたくさんいる。
 ショッカーなどの秘密結社や,ヤプールなどの宇宙からの侵略者たちは,国家や防衛隊に対して国民が憎悪を抱くような工作をたびたび仕掛けている。
 例えば,数多のヒーロー作品で見られるニセモノのヒーローの存在がそうである。ニセモノのヒーローに町を破壊させたりする姿をメディアを通して国民に晒し,“実はあいつは悪いヤツだ”というプロパガンダを仕掛けるのである。さらに高等な戦術になると,ゴリ博士(『スペクトルマン』)のように公害をまき散らす怪獣を日本に送り込み,公害で苦しむ国民に対して無策な日本政府の姿を露呈させ,国民の憎悪を次第に日本政府に向けさせることも可能なのである。
 特撮ヒーロー番組の中でも非常に社会性が強いことで強烈に脳裏に残る『コンドールマン』に登場したキングモンスターは,公害だけではなく,アラブのオイルマネーや政治家の食肉利権をも利用して,日本を乗っ取ろうとした。『超人機メタルダー』に登場した桐原コンツェルンのゴッドネロスに至っては,『ハゲタカ』の鷲津もびっくりな地下銀行で世界の為替と株価をコントロールしていたのである。
 いずれもこれは特撮ヒーローの子供向け番組の中での出来事であり,われわれはその馬鹿馬鹿しさを笑って見ていられるが,実はこれらの悪の組織の方法論を周到に実行すれば,平和ボケした現代の日本国民など簡単に工作できるかもしれないから恐ろしいのである。
 その際最初にやることは新聞,テレビのメディアを懐柔することである。そして毎日毎日国民が暗い気持ちになるような悪いニュースばかりをエキセントリックに流し,今の世の中が何となくだが悪い時代であるかと思わせるような世論を形成していくのである。そうすると国民の不満や憎悪は必然的に政府与党に刃のように向い,悪いことが起これば何でも政府与党や国のリーダーのせいにするようになる。そして,日本のことを悪く言うことで自称“インテリ”のキャラを立ててきた御用学者たちをコメンテーターとしてテレビスタジオの雛壇に並べ,朝から晩までありとあらゆる日本の悪口を言わせるのである。
 このような電波を毎日浴びせられた国民の多くは,日本人としての尊厳を次第に失い,だんだんと日本という国が嫌いになっていくだろう。それに追い打ちをかけるように,本来は国民に伝えなければならないことまで,“報道しない自由”を盾にとり,メディアは正しい情報を遮断してしまえばいいのである。
 そこで,我らが「民主人権党」の出番である。我らが“ヒーロー”「民主人権党」が燦然と輝くマニフェストを掲げ,例えば,“政権交代をすれば株価3倍”,“政権交代すれば癌も治る”,“政権交代すればベイスターズ優勝!”などと実現不可能な空手形を国民に切り,懐柔していけばいいのである。しかも尚且つ国民にとって不幸なのは,『新世紀のビッグブラザーへ』の世界では,このショッカーみたいな「民主人権党」と戦ってくれるヒーローや防衛隊もいないので,まさに「民主人権党」の思いのままだ。
 実際に,「イントラネット大アジア」というネット遮断システムで情報封鎖された第三地域(旧日本国)に隔離された第三市民(旧日本国民)は,「民主人権党」によって完全に管理されてしまったのである。

 この戦後60余年の間に,日本という身体の筋層に潜り込んで根を張っていた巨大な腫瘍の塊が,腐臭漂う分泌液を垂れ流しながら国民の前に姿を現したのが「民主人権党」である。その姿はあまりにも醜い。少なくてもショッカーにはショッカーなりの「悪の美学」や「悪の仁義」があったはずだが,「民主人権党」は,確固たる形も成さず,ただただ増殖を続けるだけの癌細胞のようである。しかも「民主人権党」の始末におえないのは,“民主”や“人権”という良心的な言葉で正体を偽装しているところだ。第四代「民主人権党」党首ハトカワは,“友愛”などという言葉を巧みに操り,第三市民を懐柔したのである。
 この点については,ショッカーやデストロン(『仮面ライダーV3』)といった悪の組織は,見るからに悪の組織と分かるような名称がついていたりして,堂々としていてまだ気持ちがいい。自然界において,猛毒を持った昆虫や爬虫類が極彩色の姿を見せることによって,“オレたちは危ないぞ”と警告を発しているのと同じだ。
 しかし「民主人権党」ときたら,そんなそぶりもまるで見せないので,最初は美味しそうなカレーだと思って一口食べたら,実はウンコだったという最悪なケースになるのである。
 「民主人権党」が掲げるマニフェストも実に胡散臭いものばかりである。どれもこれも,女,子供,病者といった社会的弱者の琴線に触れるようなものなのだが,その中で,例えば「女性差別禁止」と今の日本で言われても,女性の私ですらリアリティがない。
 私事で恐縮であるが,私はこれまで仕事や学問や,その他世間のコミュニティの中において,女性だからという理由で差別されたことは一度たりともない。自分の力不足で達成できなかったことはたくさんあるが,それは女性だから出来なかったのではなく,単にその時の自分自身の実力が足りなかっただけである。ましてそれは,社会のせいでもなく,政府の政策のせいでもなく,もちろん悪の帝国・読売巨人軍のせいでもなければ自民党のせいでもない。すべて自分の実力不足である。人間誰しもこれを認めるのは辛いもので,この辛い気持ち,悔しい気持ちで悶々としている時に,「民主人権党」のような翼賛政党が現れたならば,一気にそちらになびくであろう。これはどうしようもないポピュリズムたる「病」に冒されている日本の末期症状を暗喩しているのである。

●巨大イントラネットで展開される終端抵抗と有機端末との闘い
 「大アジア人権主義市民連邦」に統治された第三地域は,バーティカル・フィルタリングによって外部からの情報が全てターミネートされている。いわば末梢血管が壊死して多臓器不全を起こしているような状態である。そのまま放置すればやがて腐敗するであろう。こんな恒常的に循環不全を起こしたような世界に住んでいる第三地域の住民だけは,デモも集会も容易ではない。ネットというツールを取り上げられた彼らは,お互いの信頼の上に成り立っていたコミュミティも失ったのである。
 青空すらも,作り物の「美」に見えてしまうこの殺伐とした世界は,円盤生物来襲後の地球(『ウルトラマンレオ』後期シリーズ)にもそっくりなのである。この時ブラック指令は,直ちにみさかいなく町を壊すのではなく,防衛隊基地や,市民と防衛隊員の交流の場であった市民スポーツクラブを全滅させることで,市民からコミュニティを奪ったのである。「大アジア人権主義市民連邦」がやろうとしたことがまさにこれで,ウェブ上のコミュニティを失った第三市民たちは,一人一人が単なるばらけた点でしかなくなったのである。
 青空から射す光を見て,まるでテタノスパスミンに冒された破傷風患者のように発狂しかけるススムの姿は,究極の孤独を前に,初めて「死」というもののリアリティを感じた時に表れる裸体としての人間の姿である。しかし別の言い方をすれば,まだその行動できる「身体」がある限り,われわれ自身が終端抵抗に対抗するべく有機端末となり得るのである。そしてその,有機端末たる人間の身体の耐用年数は有限であるが,可能性は無限なのである。それには第三市民一人一人が行動を起こさねばなるまい。これは,今の世の中にも大いに言えることなのである。

 この物語のラストを読んで,これをバッドエンドととらえるか否かは人それぞれである。
 少なくても私は,ラストで青空のもと一歩ずつ歩くことを決意したススムの姿に,たった一人で何千匹ものギャオスと戦いを挑むガメラが空に向かって咆哮を轟かせた『ガメラ3-邪神イリス覚醒』(金子修介監督)のエンディングを思い出してしまったのである。

(余談であるが,「民主人権党」のやり口や,メディアを使った世論誘導の方法論が手に取る様に分かってしまう私こそ,スガ・イチロウやハトカワなんかよりも「民主人権党」初代党首に相応しいのではないかと思った次第である。)

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31. März 09

【雑誌紹介】 ロハス・メディカル

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 雑誌業界に不況の波が押し寄せているといわれて久しい。このところ毎月たくさんの雑誌が休刊、あるいは廃刊に追い込まれている。その中には何十年もの間読者にも愛されてきた老舗雑誌もあったりする。
 そんな状況とは対照的に、フリーペーパーといわれる新しい雑誌媒体が盛況のようである。フリーペーパーといえば、その創世期はタウン誌やグルメ雑誌の延長のようなもので、やけに巻末の広告ばかりが多くて、紙質も悪いものが目立った。こういう雑誌は基本的に「読み捨て」であり、家までは持って帰らず駅のゴミ箱に捨てて帰る人も多かった。
 しかし今ではフリーペーパーも相当に様変わりしていて、例えば『R25』などは既存の商業誌にはないハードエッジな特集やコラムが読めて若年層に人気である。地下鉄のラックから品切れになることもある。
 最初はタウン誌、グルメ誌の延長だったフリーペーパーも、近年では実に多様になり、医療や健康に関するフリーペーパーも見かけるようになった。この『ロハス・メディカル』もそんなフリーペーパーの一つである。
 多くのフリーペーパーが地下鉄構内などのラックで入手できるのに対して、この『ロハス・メディカル』は、首都圏の主要基幹病院の患者待合室で無料で配布している。内容も生活習慣病などの特集をするなど,読者の関心のニーズに対応したもので,この他にも毎年のように改正される複雑な医療行政について分かりやすく解説するページや,患者会を母体とするNPO主宰者や医師の連載コラムも読むことが出来る。
 その中で,放射線科医の加藤大基さんが連載している「通院ついでの歴史散歩」というエッセイがなかなか面白い。加藤さんは自分も癌を患った経験のある医師で、その著書『東大のがん治療医が癌になって』でも知られている。
 『ロハス・メディカル』3月号では、聖路加国際病院から築地界隈の歴史散策について書かれている。聖路加国際病院の敷地と所縁のある杉田玄白やシーボルトの話に始り、近隣には芥川龍之介の生地があることも紹介されている。
 「通院ついでの歴史散歩」という考え方は,なかなか楽しい。今現在も実際に通院生活を送ってる人の中には,通院生活がなかったら自分はこんな縁も所縁もない場所を訪れることはなかっただろうと思っている人もいるであろう。家と病院をただひたすら往復だけしている人もいるに違いない。しかしこの時期ならば,桜並木がきれいな場所があったりするかもしれない。少し路地裏に入れば感じの良いカフェやギャラリーがあるかもしれない。加藤さんのエッセイは,代わり映えのしない通院生活の中にも,何か新しいことや楽しいことを見つけることをガイドしてくれるものだ。
 これは加藤さんが医師でありながら自分も実際に重い病を患った経験があるからこそ出てきた,患者側に立った発想であろう。毎日患者がどんな思いで通院しているかなどということは医師にはなかなか伝わりにくい。長引く療養生活の中で,町並みの四季の移り変わりを見て元気になる人もいれば,その長患いに感慨深いものを感じる人もいるであろう。そういう時に,少し視点を変えて,いつもの通院ルートを散策するのもいいだろう。そういう人には打って付けの読み物である。
 『ロハス・メディカル』は間もなく5月号が刊行される。私は先日都内の基幹病院で癌検診を受けに行った時に,たまたま待合室で手に取った。他のフリーペーパーのように地下鉄構内のラックに置いてあるわけでもないので,次号が読みたければまた待合室までもらいに行かなければならない。
 毎月のように,どこも悪くもないのにこの雑誌をもらうためだけに病院に行くというのは,やはり変に思われるだろうか。

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