現代思想

13. Januar 10

【メディア】 国民によるマスメディア監視サイト 「メディア・パトロール・ジャパン」 設立へ

 ロンドンの下町を歩いていると,夕刻を迎えた頃から町の小さなパブが次々と店の灯りを点ける。地元のロンドン市民は馴染みのパブに集い,政治談義から芸術談義,サッカー談義で花が咲く。日本のいわゆる「赤ちょうちん」や学生が集まる駅前居酒屋のような騒がしさはない。パブでの酒の肴はそこに集う面々が持ち寄ったその日の話題である。
 ご存じの通り,パブ(Pub)とはパブリックハウス(Public House)の事である。もともとは公共の社交場という意味合いを持った空間だ。この社交場に酒場やミニ・クリケット場や,スポーツ観戦用のテレビなどが置いてあるのがイギリス発祥のパブである。
 今日では日本でもサッカーや野球に特化した居酒屋を町の中で時々見かけるようになった。わが町にも,サッカーセリエAを専門に観戦するサッカー・バーもある。近年では池袋に開店した「猪木酒場」もなかなかの人気である。これは猪木を中心とした昭和のプロレスファンが集う店である。しかし何と言ってもこのようなスポーツ・コミュニティとしての酒場の歴史を辿るならば,関西地区に古くから数多く存在する阪神ファンの店であろう。この空間は,文字通り阪神ファンしか足を踏み入れてはいけない空間であり,このような店で讀賣の話題など出そうものならば,罵声とともにつまみ出されるという,昔ながらのイギリスのような,厳しい“階級社会”が存在しているところを見ると,これぞ正統のパブの継承者だとは思う。

 さて,パブという言葉はもう一つ,パブリシティ(publicity)という言葉とも大きく関わっている。パブリシティとは公共性・社会性をもった情報媒体を通して第三者に向けて発信される素材のことだ。これが新聞・テレビといったいわゆるマスコミを通して発信されるものがニュース・パブリシティである。すなわち,パブリック・ハウスもパブリシティも,もとを辿れば「公共圏」という観点からは同様の性質を持ったものであることがわかる。
 このパブの観点から「公共圏」論を提唱したのがドイツの社会学者ハーバーマスである。彼はデリダやニクラス・ルーマンとの永年にわたる論争をしたことでも有名。同じようにアーレントが古代ギリシャの都市国家ポリスにおける市民空間を「公共領域」として提唱した“パブリック”の概念を,現代において可能性を模索したのがこのハーバーマスである。
 そして,ハーバーマスが言うように,各人の身分,階級,政治的立場によることなく自由な議論が可能な言論空間という理念から発展したのがパブリック・ジャーナリズムである。パブリック・ジャーナリズムとは,既存のマスメディアによるものではなく,国民(または,ハーバーマスが公共圏論の中で定義している市民)による国民のためのジャーナリズムなのである。

 少々前置きが長くなったが,このたび,このパブリック・ジャーナリズムの理念を担っていくであろう新しいメディアが立ち上がる運びになった。その名も「メディア・パトロール・ジャパン」である。発起人は,ジャーナリストの西村幸祐,作曲家のすぎやまこういち,経済学評論家の三橋貴明の3氏である。
 私は昨年に関係者から直接この情報を頂いていたが,先日,新宿のロフトプラスワンの西村幸祐トークライブの席で正式に発表があった。
 「メディア・パトロール・ジャパン」は,その名の通り,現在,新聞・テレビなどのマスメディアにより日々暴力的に行われている偏向報道,捏造報道,特定の政治勢力に荷担したプロパガンダ報道を国民全員で監視,検証していくサイトである。「メディア・パトロール・ジャパン」は,いかなる政治的,経済的拘束も受けない。「日本が大好き」な国民一人一人が主役である。
 発起人の一人であるすぎやまこういち氏はこのような事を述べられた。
「君たちも一人一人力を合わせて,ドラクエの勇者になって,日本に跋扈する巨悪を倒して欲しい!」
 「メディア・パトロール・ジャパン」は,まさに,日本が大好きな国民一人一人がドラクエの勇者,あるいは公安9課の草薙少佐となってレガシー・メディアたるマスゴミと戦っていくものである。このようなものが,文字通りパブ的空間であるロフトで告知されたことは,実に象徴的な出来事である。

 「メディア・パトロール・ジャパン」は2月から始動する。
 日本が大好きなドラクエの勇者たち,そして我こそは草薙少佐と思う国民は,ここに集結されたし!

■「メディア・パトロール・ジャパン」概要■
(発起人・三橋貴明氏のブログから転載)
メディアパトロールジャパン! 前編
メディアパトロールジャパン! 後編
メディアパトロールジャパン! 後記

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11. Januar 10

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ 『ああ言えば,こうゆう!』 サブカル戦後史と反日メディア撃退作戦 (2010年1月10日,新宿ロフト・プラスワン)

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《第一部》 サブカルチャーから見た戦後日本
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
杉原志啓(音楽評論家)
但馬オサム(ライター)
《ミニライブ》
出演:英霊来世-AreiRaise-
《第二部》 もう許せない!反日マスコミへの宣戦布告
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
三橋貴明(作家・経済評論家)
すぎやまこういち(作曲家)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)

 昨年,阿佐ヶ谷ロフトAで行われて大きな反響をよんだ西村幸祐トークライブの第2弾である。今回も二部構成で,途中にHIP HOPグループ英霊来世-AreiRaise-による新曲のライブも披露された。

 第一部の『サブカルチャーから見た戦後日本』では,音楽評論家の杉原志啓が洋楽とJ-POPの変遷という立場から,そしてライターの但馬オサムはサブカル史という視座から,戦後に思想史として一旦リセットされてしまった日本文化の断片を,戦前,戦中,戦後と連綿と紡がれてきた民族文化として再構築を試みた内容であった。この両者の主張によれば,日本の民族文化に一貫して通底しているのは,「オタク」というわが国特有の創意工夫の精神であり,それが例えば世界最強の工芸品である戦艦大和や円谷特撮や手塚アニメを産んでいったというわけである。
 私はクリエイターという立場からも,この二人の主張には同意する。戦前・戦中・戦後という一連の流れの中で,戦前・戦中の日本だけが「悪」であると切り捨ててリセットしようとする事自体がそもそも不自然であり,それはすなわち,日本人としての当事者性を放棄することにつながる。昨今,欧州から流入したコスモポリタン思想がリベラル層で広がりつつあり,これが「地球市民」,「地球共和国」という珍妙な畸形化言語を形成している。このような畸形化したコミュニティの住人たちは,近代的国民国家を否定しているわけだ。それゆえに,彼らが日本という国家や社会を批判する時に,批判している自分もその国家や社会を構成している国民の一人である,という当たり前の視点が欠如しているのである。
 現在,世界を席巻している日本のポップカルチャー,とりわけ,アニメ,コミック,ゲームといったコンテンツは,何も戦後に降って湧いてきた新たなムーブメントではなく,その源泉は,あきらかにわが国古来の伝統文化の中にある。そのことをよく表した本が,麻生太郎の『とてつもない日本』である。 この本は政治家が書いた本としてはたいへんに珍しく,日本文化論,現代思想に深く言及したものである。この中で麻生太郎は,日本のアニメやコミックの源流は『源氏物語絵巻』や『過去現在因果経』にあると言っている。この見方は,例えば「怪獣」というわが国が独自に産んだ異形の原点を『鳥獣戯画』などに求めるという私の考え方にほど近い。そしてこの文化の源泉は,戦前と戦後の間で断絶されたものではなく,繋がっているものであるというのが,本日のライブの第一部に登壇したパネラー諸氏の共通する主張でもある。
 また第一部では,パネラー諸氏持参による貴重な映像アーカイブも上映された。まず,杉原志啓は,パフィのPV。そして但馬オサムは戦時中に制作されたディズニーの国策アニメと,戦後にフィルムが発見された松竹映画のアニメである。但馬オサムの解説によると,ディズニーは戦時中でも莫大な時間とコストをかけ,日本アニメとは比較にならないほどにコマ数が多いそうである。それゆえに,生き物の滑らかな動きを実写のようにリアルに表現できたわけだが,だからといって日本アニメが技術的にも芸術的にも劣っていたのかというとそうではない。日本アニメは限られたコマ数の中で動きに余白を作ることで,独自の動画表現を確立してきたのである。それが後に金田伊功のような実に個性的な動画絵師が誕生する契機にもなっているということだ。
 杉原志啓により上映されたパフィのPVは,「BEEF」という楽曲のインパクトの強さに圧倒された。杉原志啓も解説で述べているが,J-POPが非常にクオリティ高く完成されたものだ。洋楽という形式をとりながらも基本的には日本文化に根ざしたグルーヴ感は,その他大勢の量産型J-POPとは明らかに異なるのがわかった。「BEEF」の最後に“外国産なんてすっこんでろ!”で終わることろが実に痛快である。

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 続く第二部は,作曲家のすぎやまこういち,経済評論家の三橋貴明,国際問題アナリストの藤井厳喜らと西村幸祐の座談会である。ここでは昨年に阿佐ヶ谷ロフトAで行われたトークライブに引き続き,日本の腐敗した昨今のマスメディアの問題が取り上げられた。
 現在のマスメディアの情況をみると,一次ソースを恣意的に編集・加工した偏向報道,捏造報道が昨年よりもましてひどくなっている。極端に特定政党に加担するような報道をする民放の朝の情報バラエティは言うまでもなく,公共放送であるNHKもその信頼は完全に失いつつある。この悪しき状況に加えて,いわゆる「報道しない自由」の行使が顕著になってきた。これは,特定政党や番組スポンサー,株主である外国企業に都合の悪いことは一切報道しない,ということである。
 例えば,実際にあった例をあげると,団塊世代の視聴者が多い民放の報道バラエティは,この心情的左翼である団塊世代に親和性のある左翼系デモは,たった20人30人規模のものでも頻繁にニュースとして取り上げるが,一方で,政治家の身に起こった献金事件や,公約違反をする政党に対する1000人規模の保守系市民団体による大規模デモは意地でも取り上げないわけである。
 このような事態の中,西村幸祐,すぎやまこういち,三橋貴明の3氏が共同で,マスメディアを国民全員で監視,検証するポータルサイト「メディア・パトロール・ジャパン」を設立するはこびとなった。本日のトークライブはその発表も兼ねたものである。サイトの本格始動は2月からで,現在は鋭意準備中であるとのこと。このサイトが,かつてハーバーマスが「公共圏論」で提唱した,市民による市民のためのパブリック・ジャーナリズム萌芽の契機になるのではないかと私は期待している。

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 前回の阿佐ヶ谷ロフトAのライブと同様に,第一部と第二部の間に,英霊来世-AreiRaise-の新曲『開戦』が披露された。英霊来世-AreiRaise-については,後日,「現代日本にHIP HOPは存在するか」という論考であらためて言及することにする。

■文中関連コラム■
【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)
【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)
【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)
【書評】 三橋貴明著 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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05. Oktober 09

【書評】 三橋貴明 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)

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 作家で若手経済評論家の三橋貴明によるメディア論である。メディア論と言うと,一時期ポストモダニズム領域でもてはやされた現代思想史における身体論,時間論を連想される方もいるかと思うが,この論集の中にはドゥルーズもデリダも登場しない。では何かというと,ビジネスモデルから実数字をもとに分析されたメディア論なのである。
 タイトルにある挑発的な「マスゴミ」という文言は,文字通り,ゴミのような今日のマスメディアのことを言い表している。このような皮肉と嘲笑を込めた言い回しは,近年は三橋自身もそう呼ぶように,“ネット・スラング”として数多く存在している。
 例えば,読売巨人軍のことを「ゴミ売り虚塵軍」,NHKを「犬HK」(または日本反日協会),テレ朝(テレビ朝日)を「テロ朝」(テロリストのような報道局),民主党を「ミンス党」(「民主」を朝鮮語風で読んでいる。実際に日本の民主党は「永住外国人参政権付与」や「東アジア共同体」を党是として掲げるなど,幸か不幸か親韓親北政党というイメージが定着してしまった),といったものをしばしば見かける。誰が最初に言い出したのかは分からぬが,総じて言いえて妙なのである。
 さて今回,三橋貴明が本書で袋叩きにしているのが,今日の翼賛的マスメディアである。単にそれが翼賛的であるとか,巨悪の象徴であるというのならば,こういう評論を書くのは本来は立花隆あたりの仕事であろう。しかし事はそんなに単純ではなく,三橋が言うことろの“マスゴミ”が,経営悪化の一途を辿っているのにもかかわらず,相変わらず現体制を改善する様子が見られないところに,この巨悪の病理が存在しているのである。
 作家の三橋貴明は,経済評論家でもあり,中小企業診断士というライセンスも持っている。中小企業診断士というのは,企業の財務状況を,まるでDr.Houseのような厳しい臨床医の視点で隈なく精査し,改善すべき点を挙げて,ただちにそれを「根治」に向けて指導するという役割を持っている。その中小企業診断士でもある三橋の目から見ても,地上波テレビの軒並みの視聴率の低下,新聞の売り上げ部数の減少,そして広告費売上はネットに猛追されるという状況の中にあって,何らビジネスモデルを変えようとしない旧態依然とした“マスゴミ”の存在が,不思議でしょうがないのであろう。
 例えば,現在ほぼ横並びのニュース番組を見て,異様に思うのは私だけであろうか。テレビ局は電波は自分たちの所有物と勘違いをしているようだが,あれは国民の財産であり,各テレビ局はそれを国民から借り受けているだけである。それを独占している民放が,どれも横並びの同じような論調のニュースを流すという状況がまず異常なのである。
 そのような理由から私は,余程の事――(たとえば阪神タイガース日本シリーズ優勝,金本涙の現役引退,浅田真央金メダル,東海地震で熱海水没,テポドン大阪に着弾,その他大災害,有事など)がない限り,ばかばかしいし,何ら緊急性もないので日本の放送局の番組はほとんど見ることはない。そのかわり有料チャンネルで海外ニュース,海外ドキュメンタリー,海外医療ドラマ,海外マイナー・スポーツ中継三昧の日々である。最近はテロ朝がどこのチャンネルかも忘れてしまった。(でも全然困らないが)
 一方で,私が毎日見ているアメリカの放送局は,例えばCNNやABCはややリベラル色が強いのに対してFOXは堂々と共和党支持を表明しており,視聴者に対してあらかじめそのようなアカウンタビリティを表明することで,健全性,透明性を確保している。日本の放送局のように,一見すると中立・公正を装いながら,あざとい印象操作やカット&ペーストをやってごまかすよりも,よほど健全である。
 ひとつの放送局が堂々と特定の政党の支持表明を行うというのは,日本の放送法では考えられないことであるが,少なくても米メディアでは,必ずそれに対抗するメディアも存在するので視聴者は各自のメディアリテラシーに基づき,取捨選択すれば良いのである。もしスポーツ新聞が報知新聞だけであったならば大変なことになってしまうが,阪神極右プロパガンダ紙「デイリースポーツ」も存在するからいいのである。

■テレビ・新聞なしに現代人は生きていけるか
 三橋貴明が詳細なデータをもとに分析した結果,過去の遺物であるマスコミが恐竜のような最後を迎えるとして,我々は,テレビ・新聞なしで生きて行けるだろうか?
 答えは「Yes!」である。
 現在テレビで放送されている番組は,ニュース,報道バラエティー,お笑い,スポーツ中継,そして深夜の通販番組などであり,こんなものはわざわざテレビでやらなくてもいいようなものばかりだ。では,テレビ局は 「誰のために放送しているのか」という命題に行きつくわけだが,これは視聴者ではなくスポンサーに対して,費用対効果としての裏付けや,広告的価値を維持するために放送しているのである。そこで問題になってくるのが視聴率なわけだが,各局ともいろいろと手は打っているようではあるが,まったく改善される兆しがない。それは視聴者が求めているものと,放送局がスポンサーの意向を受けて制作している番組とに大きな隔たりがあるからだ。その隔たりについては本書の著者である三橋貴明をはじめ,いろいろなものが指摘しているのにもかかわらず,テレビは相変わらず死んだふりをしているようである。
 例えば過去に放送された麻生首相と鳩山代表の討論会の模様をノーカット生放送したのはネットであり,テレビ局はそれを短く編集して流しただけである。ここでもし1局でも“抜けがけ”してノーカット中継をしたならば,視聴者はその局だけに釘づけになったであろう。また毎日報道されるニュースにしても視聴者が求めているのは,今日起こった事実だけを伝えるストレートニュースである。そこにキャスターや評論家や御用学者たちが出てきて,いちいち自分の個人的なイデオロギーを語られてもこちらは迷惑だ。ワイドショーや報道バラエティ番組しかりである。我々国民は,このような方々の個人的なイデオロギー発露の装置として貴重な電波を貸してやっているのではない。
 こうした視聴者のテレビメディアに対する不満を解消する形で賑わっているのがニコニコ動画やスティカムなどのネットライブ中継である。これは,一般ユーザーが自分の部屋やペットの様子を中継した極めてプライベートなものから,選挙の街頭演説会,デモ行進,集会といった政治的な内容のものまで実に多岐にわたる。これらの膨大なコンテンツは既存のテレビ番組の内容を完全に代用するようなものであり,こちらのネット映像の方が新聞・テレビを差し置いて,一次ソースになる事もある。
 この点は三橋もすでに指摘しているが,三橋が言うところのいわゆる旧態依然とした“レガシーメディア”たるテレビ・新聞は,ネットという競合相手を甘く見ていたということなのである。ネット上で一次ソースが流れた場合,それをもとにテレビ・新聞の情報の正確さ,公正さがネット・ユーザーたちによって厳しく精査されることになる。今までは世の中を批評・論説している立場であったマスメディアが,今度は自分たちも批評の俎上に乗せられることになるのである。これは未だかつて経験しなかった事態であり,だから慌てているのである。
 私のように,普段から学問・芸術のフィールドにいる人間にとっては,こんなことは当り前のことなのだが,マスコミの人間にとっては思いもがけなかった出来事である。時折散見する,まるで議論にもならないようなマスコミ側の人間の失敬な態度は,自分が作ったものに対してディベートから逃げているというクリエイターとしてはあるまじき行為なのである。碌な番組も作らず,碌な記事も書かず,それによってネットユーザーから批判された時に発現するヒステリックな症状は,まさに前時代的である。

■“恐竜”は滅び,環境の変化に対応した身体を持つ“昆虫”は生き残る
 しかしここでただ1点だけ,そんなレガシーメディアでも有用であると思うものがある。それは独立採算型の地域新聞である。
 私は大手新聞社が発行する新聞は購読していないが,伊豆の地域新聞である『熱海新聞』は年間購読している。販売所は伊豆にあるので他の新聞のように新聞配達で届けてもらうわけにはいかない。まさか「クレヨンしんちゃん」の映画みたいに,自転車で熱海峠を越えることなどできないであろう。そこで,販売店と相談して,毎月の購読料1430円の他に1か月分の送料1000円を上乗せして払うという約束で,毎日伊豆の販売店から東京の自宅まで郵便で送ってもらっているのである。
 少々へそ曲がりと思われるかも知れないが,私が『熱海新聞』を購読しているのには理由がある。実は数年前から私は,熱海で「農業」「先端医療」「アート」の3本柱による地域活性化事業,町づくり活動を行っており,東京にいながら熱海の政治経済を含めた隅々の事について知るためには『熱海新聞』を毎日読むのが一番いいのである。この紙面には中央の大メディアがけしてフォーカスしないような町の手触り,息づかいを感じる事が出来る。
 例えば昨年,麻生内閣の「定額給付金」がマスコミから一斉に“バラ撒き”だと叩かれていたとき,2月20日付の『熱海新聞』では,伊豆半島6市6町首長会議が2月19日,「定額給付金の早期支給に関する要望書」を鳩山邦夫総務大臣に提出した,との記事を伝えている。またその「要望書」の中には,“消費喚起を促し,地域活性化が図られる定額給付金の財源を確保する関連法案の速やかな成立を”,“定額給付金のめどが立たない状況にあることは誠に遺憾”といった趣旨の意見が盛り込まれている,と詳しく報じている。そして,いわば新聞の顔であるコラム「潮の響」では,“「定額給付金」は都会では微々たる経済支援にしかならないが,そのお金を使って伊豆に来てくれるお客さんもいるだろうことを考えると,一概に「バラ撒き」とはいえない”,という主張も書いている。
 私もそれを受けて,私が個人的趣味の範囲で気楽に運営している熱海の観光PRブログで“定額給付金で熱海に行こう!”キャンペーンをやったところ,熱海市役所観光課の職員の皆さんもたくさんブログをご覧なっていて,後からとても喜ばれたのである。
 熱海の斎藤栄市長も民主党系の市長だが,政局よりも地域経済や住民の生活を第一に考えているような市長なので,このような,国会審議を邪魔するような民主党を牽制する「要望書」のとりまとめも速やかにできたのである。
 『熱海新聞』のようなきめ細かい記事のフォローは,地域新聞ならではの持ち味である。私が在欧中に愛読していたFrankfurter Allgemeine ZeitungやSüddeutsche Zeitungなどの独紙にも同じようなことがいえるわけで,三橋が本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』で述べているように,「需要」と「供給」が健全に結ばれれば,レガシーメディアでも生き残る余地はあるのである。
 『熱海新聞』のような地域新聞は,いわば限定された環境で身体を対応させながら生き延びてきた小回りの利く“昆虫”のようなもので,このようなものはあえてネットと競合することなく,読者の足元を大切にしていけばよいである。

■バカにつける薬
 本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』では,ありがたいことに,中小企業診断士でもある著者の三橋貴明が,レガシーメディアの生き残り策として,経営体質改善のための処方箋をいくつか提示している。その中でも「放送免許更新制度の撤廃」,「放送法改正」(処分規定の盛り込み)など,今すぐにでも緊急に取り組まなければならない課題もたくさん含まれている。
 しかし果たして今の“マスゴミ”が,謙虚にこのようなものに対して聞く耳を持つかどうかは疑問である。なぜなら“マスゴミ”にこのような謙虚な姿勢があるならば,ここまでひどい状況にはならなかったからだ。
 例えば,『毎日新聞』が新春企画した特集「ネット君臨」は,ネットの匿名性といった彼ら“マスゴミ”が言うところのネットの「負」の部分ばかりをクローズアップするという非常にヒステリックな内容であった。取材記者は新聞社というバックボーンに隠れることができるのに対して,取材対象には実名の開示を求めるというバランスを欠いた取材姿勢に疑問を持ったフリージャーナリストの佐々木俊尚もこの点をするどく突っ込んでいるが,毎日新聞の記者はこの疑問に真摯な態度で答えてはいない。そればかりか,ネットメディアの有用性すらも,冷静に分析することから逃げているのである。実は“マスゴミ”こそ,究極のモラトリアム人間の集合体であったのだ。
 このような状況からみても,“マスゴミ”がレガシーメディアとして衰退していくのは時間の問題である。彼らのために最良の処方箋を提案した三橋も,当然そのことは分かっているとは思うが,これは,中小企業診断士の三橋貴明の,臨床家としての良心か好奇心がそうさせたのであろう。本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』は,今まさに滅び行く“恐竜”に向けてのラストメッセージだ。

■三橋貴明のその他のレビュー■
【書評】三橋貴明著『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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29. September 09

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)

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登壇した本日の論客の皆様(敬称略,向かって左から)
イリハム・マハムティ(日本ウイグル協会)
西村幸祐(ジャーナリスト)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)
城内 実(衆議院議員)
吉田康一郎(民主党都議会議員)
三橋貴明(作家,経済評論家)

 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』と題したトークライブが阿佐ヶ谷ロフトAで行われた。
 阿佐ヶ谷ロフトAは,JR中央線阿佐ヶ谷駅前のパールセンター商店街の入口から少し入ったところの地下にある,地元マニア行きつけの多目的ライブ空間である。今回のような,『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)や『パック・イン・ジャーナル』(朝日ニュースター)などよりも圧倒的に面白いトークライブを開催する日もあれば,芸人の独演会,音楽ライブ,映画上映,小劇場の舞台公演と,様々なフォーマットに耐えうるという,有機的にして堅牢な空間なのだ。そしてその空間は,高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪エリアのいわゆる中央線アンダーグラウンド文化を象徴するものであり,阿佐ヶ谷ロフトAはその骨格を構成する一角を担っている。
 このようなものに一切の興味がない者にとっては,たとえ地元住民でも周囲の目新しい飲食店に気を取られて,知らない間に前を通り過ぎてしまうだろう。つまり,阿佐ヶ谷ロフトAという空間は,例えばデイヴィッド・リンチが『ツインピークス』で描いたホワイトロッジのような「奈落」であり,それが商店街という日常空間の底辺に,ブラックホールのようにぱっくりと口を開けているのである。幸か不幸か,ご縁があってその空間に誘因されたものは「奈落」に落ちていくという仕掛けである。
 同じく阿佐ヶ谷にはこのようなアンダーグランドな空間がいくつもあり,そこではテレビにはけして登場しない芸人や劇団員,現代美術作家,パフォーマー,ミュージシャンなどの独壇場となっている。ネットがマスメディアに対する一大カウンター・カルチャーとなるならば,阿佐ヶ谷ロフトAのような空間は,ミクロに張り巡らされたシナプスのように双方向的に集合知を構築していくことで,マスメディアに対してゲリラ戦を挑むような空間である。そこで生成されたコンテンツは,例えば無駄な予算をつぎ込み,芸人,役者,コメンテーターを使い回ししている今日のテレビ番組よりも,はるかに独自性があり,クオリティが高い。
 今回のトークライブはニコニコ動画でも生中継されたが,もしこれをライブで見ていたテレビ,マスコミ関係者がいたとしたら,彼らは悔しさの余り,モニター画面の前で歯ぎしりしていたことであろう。彼らにはこのような面白いコンテンツは作れない。なぜならば,彼らはクリエイターではないからだ。

 世の中にこのような面白いコンテンツがあれば,テレビなど見なくなる人が増えても当然である。本日のゲスト・パネラーである三橋貴明は最新の著書『マスゴミ崩壊-さらばレガシーメディア』(扶桑社)や自身のブログの中で,テレビや新聞が産業としてここまで見るも無惨に衰退していったのは,明らかにビジネスモデル構築の手法を誤っているからであると再三にわたって主張しているが,その通りである。
 例えば報道番組についていえば,多くの視聴者が今求めているのが,事実だけを伝えるストレート・ニュースである。ネットメディアの普及によって情報の受け手も一次ソースを精査するスキルを手に入れたことで,テレビのコメンテーターや全共闘崩れの“自称”文化人たち――いわゆる「雛段電波芸者」たちが,いちいちイデオロギー的バイアスをかけて印象操作したようなニュース報道はかえって邪魔である。また,芸人やテレビタレントをたらい回しにしているバラエティにしても,実際の寄席のライブには敵わない。
 こんな下らないものを一体誰のために作っているのかと言えば,スポンサーである。視聴者にコンテンツを提供するのではなく,スポンサーに向けて,広告的付加価値を維持するためにやっているのである。
 こんな状況のなかで,阿佐ヶ谷ロフトAのような面白い空間が近くにあれば,お金を払ってでも人はこちらに集まる。例えば阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベントに月に2,3回ほど行ったとする。それでもプログラムによってはNHKの受信料や新聞購読料よりも安上がりである。同じお金を払うとしたら,そのクオリティの対価としてどちらがコストパフォーマンスに優れているのかは明白である。
 今まで既得権益と新規参入障壁に守られてきたテレビや新聞にとって,もはやネットばかりがコンテンツの競合相手ではない。

 本日ここに集まった先鋭のパネラーたちは一筋縄ではいかないような人たちである。政治,経済,メディア,ジャーナリズムの問題にいたるまで,各人がそれぞれに置かれた立場で言いたい放題である。ウィグル人のイリハム・マハムティが,中国共産党による少数民族弾圧や核実験についての日本の報道姿勢を厳しく糾弾したかと思うと,民主党都議会議員の吉田康一郎は,自分の所属する民主党を徹底的に吊るしあげる。そして彼らの自由放言を途中で遮る田原総一郎のようなアンカーはいない。
 一見するとそれぞれのパネラーが好き勝手なことを言っているようだが,彼らが投げかけた問題は底辺でつながっている。それは,特に,ここ数カ月の間でひどくなったテレビメディアの翼賛報道についてである。これまでの有害テレビ・コンテンツは,「捏造」「誤報」「虚報」が主流であった。これは視聴者の目にも付きやすい。しかし,近年それに,「報道しない自由」という新たな要素が加わった。実はこれこそが,視聴者の精神をもっとも蝕むものである。
 「報道しない自由」とは,本来伝えるべきニュースを,局の一存,即ち「報道の自由」を逆手に行使して,視聴者にあてえ重要なことを伝えない,ということである。これをやられた視聴者は,例えば国際会議などの外交の場で日本が世界各国から評価されているさまざまな事や,新政府が進めている日本や日本国民が不利益を被りそうな法案についても一切知る事が出来ないのである。これはまさに,末梢血管が壊死してしまったような状態であり,やがてそれは全身的な循環不全を起こすであろう。
 三橋貴明のシュミラクル小説『新世紀のビッグブラザーへ』は,国体がまさにこのように循環不全を起こしたような近未来を描いていた。ネット環境も遮断されたその世界では,「日本」という国号さえ存在しないのである。『新世紀のビッグブラザーへ』を“よげんの書”にしないためにはメディアリテラシーで武装することが必要であるというのが,本日のパネラーらの共通する主張だ。そしてお金を払ってこの場に集った多くのアクティヴィストたちを最も恐れているのが,三橋が言うところの“レガシー・メディア”たるマスコミなのである。
 阿佐ヶ谷というアングラの坩堝の魔界で,今回このような夜会が開かれたことは,今後の様々なムーブメントの勃興に火を付けるであろう。


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第1部と第2部の間で,客席にいたHIP HOPユニット「英霊来世」(エーレイライズ)の斉藤俊介が壇上に上がり,ゲリラライブを行うという一幕もあった。
「英霊来世」は,地上波の音楽番組ではおそらくこれからも目にする機会はないであろうHIP HOPユニットである。私の知る限りでは,MXテレビで毎週土曜に放送中の『西部邁ゼミナール』という番組で,前衛美術家・秋山祐徳太子との対談で盛り上がっていたのが記憶に新しい。

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阿佐ヶ谷ロフトA名物「“あの肉”の吉澤精肉店のレバーペースト」
ロフトは食べ物・飲み物も美味しいのがうれしいところ。
これは,阿佐ヶ谷七夕祭りの“あの肉”でお馴染みの吉澤精肉店自家製のペーストである。
“あの肉”とは,七夕祭りで限定販売される大きな肉の塊で,我々が子どもの頃に見た『はじめ人間ギャートルズ』などの漫画・アニメに登場する原始人が持っている骨付きの肉の塊をイメージして作られたものである。

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ロフト入口にあるチラシコーナー。
ここが“魔界”の入口である。

阿佐ヶ谷ロフトA
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/

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15. März 09

【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)

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麻生太郎著
『とてつもない日本』

新潮新書
2007年


 現内閣総理大臣の麻生太郎氏が外務大臣時代に書いた国家論である。この本の面白いところは、政治家の著書でありながら、単に抽象的な政策ではなく、美学、日本文化論的視座からわが国の国家の形を提言したところである。その内容は、産業、工業、芸術、ポップカルチャーなど多岐に及ぶ。
 特に興味深いのが、第二章『日本の底力』の中で論じられている「日本がロボット大国である理由」というくだりである。ここで麻生氏が批評の中心的な俎上にあげているのが、『鉄腕アトム』と『モダンタイムズ』である。そして、欧米文化におけるロボットの存在は、その誕生自体がもともとは強制労働的な要素を含んでおり、先天的に人間社会とは対立せざるを得ない存在であると分析している。それに対してわが国の場合は、ロボットは人間の友達であるという文化が早くから根付いており、対立よりもまずは人間社会での融和が描かれてきた。麻生氏は、その文化的素地を作ってきたのが『鉄腕アトム』をはじめとする日本の優れたマンガやSFアニメーションであるとしている。それによって、例えば欧米が人間の形を成さない工業用ロボットの技術が発達していったのに対してわが国の場合は、介護ロボット、接客ロボット、そして「アイボ」や「アシモ」のようなペットロボットのように、人間の実生活の中で直接関わる存在として、新たなロボット技術が開発される契機となったと指摘している。そして当然のことながら、その技術は単なる実験レベルで終わることなく、近年では、身障者や高齢者用に開発が進むパワードスーツの研究などにも応用されている。麻生氏は、それらの思想の源流は『鉄腕アトム』などにあるという。
 実は私もまったく同じような考えを持っていて、欧米の友人ともこの話題がしばしば上がるのである。彼らは最初、日本の漫画やSFアニメに多く見られる“擬人化”されたロボットに非常に違和感を抱くそうだが、日本の文化を理解するようになると、その違和感が次第になくなるらしい。その時に彼らがしばしば相対的に俎上に上げてくるのが日本の仏像なのである。何もない1本の無垢の木から像が掘り起こされ、そこに魂が注入されていく様は、彼らからすると、『鉄腕アトム』の誕生シーンと同様のものを感じるそうである。また、『鳥獣戯画』についていろいろと調べていくと、日本にはなぜ「怪獣文化」や「妖怪文化」が生まれたのかも理解できるという。
 一方で、麻生氏も著書の中でも指摘しているとおり、もともとは人間の代替的労働力として誕生したロボットという概念は、近年のSF作品でも顕著ではないだろうか。例えば私はここで欧米の有名SF作品に登場する2人のアンドロイド、ビショップ(『エイリアン2』ほか)と、データ少佐(『スタートレックTNG』)を取り上げたい。
 ビショップとデータ少佐は、人間の男性に似せて精巧に作られたアンドロイドである。前者は明らかに工業製品として、後者は宇宙艦隊の士官幹部として人間社会で暮らしている。そして両者は共に、人間の為に自己犠牲的な死を遂げる。もちろんだがロボットやアンドロイドが人間の為に自己犠牲的な死を遂げる作品ならば、日本の作品にもいくらでもある。まず『鉄腕アトム』がそうであるし、『ジャイアントロボ』や、あるいはロボットではないが日本人が非常に感情移入してやまない『宇宙戦艦ヤマト』もまた同様である。
 ではここで、欧米とわが国ではその“人間以外の者”の「死」にいかなる差異があるのかを捉えるには、何をみればよいのかといえば、それは、その“人間以外の者”の「死」を、周囲の人間がどのように受け止めたかをみればよいのである。「死」と「生」というものは本来、シェイクスピアも戯曲に書いているとおり、非常に孤独な個人的作業である。そこに何か社会的意味が付加されるとすれば、それは周囲の人間によるクリティークしかないわけである。
 まずはビショップであるが、彼は例え企業から派遣された工業製品だからとはいえ、人間のために誠実に働き、仲間に対しても思いやりのあるアンドロイドであった。しかし彼がエイリアンとの闘いで致命傷を負って機能停止、即ち「死」を迎えた後の扱いは、あまりにもかわいそうであった。彼の周囲にいたほぼすべての人間は一度たりとも彼に労りの言葉もかけず、いつも彼ともっとも近い場所にいたリプリーでさえ、彼を拒絶することはあっても、仲間の一人として心を開くことはなかったように思う。この様子をみるかぎり、やはりビショップは、トヨタのような一介の企業が量産した工業製品でしかないというのを物語を見ていて目の当たりにしたのである。もしこれが手塚アニメのような日本の作品であったなら、機能停止したビショップの“遺体”にすがって涙を流す仲間もいたであろう。
 このように、同じ自己犠牲的な死であっても、周囲の人間によってそれがどのように認知され、評価されるかによって、「死」の意味がまるでかわってくるのである。その点データ少佐は、遺体こそ消滅したものの、仲間のクルーからも告別式も開いてもらって、若干は人間らしい死に方ができている。
 しかしいずれにしても、人間と彼ら機械による生命体との間には、非常に大きな隔たりが感じられる。これは麻生氏も指摘しているとおり、もともとは代替的労働力として生まれたものと、人間の友達として生まれたものの差異であろう。そして麻生氏は、後者のような感性が、日本の文化的豊かさを育んでいると指摘している。私もこの考えにまったく異論はない。
 それからもう一つ、欧米文化の中で、工業技術として人間型のロボットがなかなか開発されなかった理由として宗教的背景もあげられるであろう。欧米の保守的なキリスト教的世界観では、「神」以外が人間の形をした新たな生命を創造することは禁忌的行為である。このような背景から、ホンダがアシモのプレゼンテーションを開催した時に、欧米メディアは日本の先端技術の素晴らしさを認めると同時に、ある種の恐ろしさも感じたのである。もしもアシモが人間の成人並の大きさであったならば、その受け取られ方は大分変ったであろう。

 『とてつもない日本』の中では、わが国独特の漫画文化についても触れられている。麻生氏が漫画文化の源流として求めているのが『源氏物語絵巻』や『過去現在因果経』などである。これも、私がわが国独自の怪獣文化の源流を『鳥獣戯画』に求めるのと共通していてたいへんに興味深い。つまり、世界に名だたるポップカルチャーのクリエイターたちは、何らかの形で日本古来の文化的源流のDNAを内包していて、それが各世代でもって豊かに開花していっているというふうに、麻生氏は指摘しているのである。それはまさにそのとおりであろう。私とほぼ同世代の雨宮慶太監督など、その最たる存在である。
 ここで例えば昭和の前衛彫刻で活躍した成田亨の作品なども思わず取り上げたくなる。かつて新制作協会彫刻部で小田襄や堀内正和らとともに若手作家として活躍していた成田は、円谷プロのウルトラシリーズをはじめとする数々の特撮作品で、怪獣、星人などのクリーチャー・デザインを手がけてきた。私は生前の成田亨とは何度も会って、熱い芸術論を交わしたことが何度もあるが、その中でも、成田亨が創造する「異形」たちは、ウルトラマンが全宇宙の秩序<コスモス>を象徴するならば、怪獣たちは混沌<カオス>であるという話を何度も伺った記憶がある。そしてその「異形」たちの源流となっているのは日本古来に伝わる「鬼」にあるという。
 その話のとおり、特撮デザインの仕事から離れた晩年の成田亨は、各地に伝わる説話・民話の中の「鬼」をフィールドワークして、それを形にすることをライフワークとしていた。そしてそこで形造られた「鬼」の表情を見れば、世の中に対して睨みを利かせているその目の中に、往年のネロンガやゴモラの姿が浮かぶであろう。
 一連のこのようなものを見ていると、現代のクリエイターやポップカルチャーに対して、単に同時代性を感じるばかりか、はるか昔の連綿と続くわが国独自の文化の源流も同時に感じることができる。『とてつもない日本』は、そのことをまだ知らない日本人が、ポップカルチャーをも含めた日本文化のダイナミズムについて気づくきっかけになるような本である。これは、複雑に細分化していった「近代の病」を克服するものといっても過言ではない。ただしかし残念なのは、私が知る限りでは、海外向けには翻訳本が出版されていないことである。少なくてもこの本の英訳が海外でも出版されれば、現役の総理大臣の著書ということも相まって、今世界で注目を集めている日本文化について知識を深めたい多くの人たちが、間違いなく手に取るだろう(独訳、英訳ならば私がやってもいいですよ、新潮社のみなさん!)

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01. Februar 09

【京都大学】 宇野邦一 ドゥルーズ講義 『時間と身体』(京都大学吉田南キャンパス)

京都大学 科研費研究プロジェクトのみなさんから講義とシンポジウムのお知らせをいただきました。
下記に詳細を掲載します。
ブログ読者のみなさんも,ふるってご参加下さい。

宇野邦一 ドゥルーズ講義 『時間と身体』 のお知らせ

 2月2日から5日まで、総合人間学部では立教大学教授宇野邦一氏をお招きして、集中講義を行っていただきます。20世紀最大の哲学者の一人ジル・ドゥ ルーズについて、氏がこれまでに重ねられてきた論考が集大成される内容となるはずであり、関心のある学生は学部を問わず参加下さい。受講希望者は、2月 2日(月)午後1時に下記の教室へ集まって下さい。

講義内容:「ドゥルーズの哲学の大きな問題形を、主に時間と身体を焦点として考えてみたい。<身体>は、とりわけスピノザとニーチェの提案を受け、創造 的な生をいかに開放するか、というと問いとして追求される。<身体>は、ドゥルーズ独自の唯物論、権力論の主軸となる。<時間>は、映画論の大きなテー マである以上に、思考、歴史、集団のあり方を問う方向に、裂開してゆく。<身体>と<時間>の交点に、様々な形象や概念が結晶することになる。そこに思 考の創造性を、あらためて発見することが課題である。」
なお最終日5日の午後4時30分からは、吉田南キャンパス・大学院人間・環境学研究科棟地下B23講義室にて、下記のようなワークショップ+対談を開催 します。こちらもふるってご参加下さい。

場所:京都大学吉田南キャンパス・総合人間学部棟・1B07教室


フランス現代思想セミナー(第2回)
『器官なき身体(アントナン・アルトー)再考-ダンスと現代思想の立場から』

日時:2009年2月5日(木)午後4時30分から

(パネラー)
勅使川原三郎(Karas)、佐東利穂子(Karas)、宇野邦一
(司会)
多賀 茂

フランスの詩人・演劇家アントナン・アルトーによってはじめて語られた「器官なき身体」という言葉は、後にジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリに よって取り上げられ、現代における人間の存在を語るためにきわめて重要な言葉となった。日本を代表する舞踊家と思想家の出会い(勅使川原氏によるワー ク・ショップと勅使川原・宇野両氏による対談の2部構成)を通じて、この言葉が宿すさらなる意味を探ってみたい。

場所:京都大学吉田南キャンパス・吉田南総合館北棟共北23教室

主催:科研費研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして ―人文科学・アート・医療をつなぐ問いかけ」
(代表者:京都大学大学院・人間・環境学研究科、多賀 茂)

問い合わせ:科研費研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして ―人文科学・アート・医療をつなぐ問いかけ」
(代表者:京都大学大学院・人間・環境学研究科、多賀 茂
s.taga@hy5.ecs.kyoto-u.ac.jp

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05. September 08

【シンポジウム】「<ひと>を守る――日本の精神医療と制度を使った精神療法」(京大会館)

【シンポジウム要旨】
 病を癒すには、まず医療をめぐる環境を癒してからでなければならない――――。度重なる医療改革や病院機能評価によって、ますます硬直しつつある現在
の医療・社会システムに風穴をあけ、<人>が癒える場所を取り戻すために何が可能なのか。医療実務者と思想研究者が相集って議論することが、今こそ求められている。(『医療環境を変える――制度を使った精神療法の実践と思想』、京都大学学術出版会、20089月刊より)

日時:2008920日(土)午後2時から午後5時まで

場所:京大会館2階 210号室(参加無料)

発言予定者:精神科医師  菅原 道哉(元東邦大学、恵友会)

        精神科医師  和田 央(京都府立洛南病院)

        精神科看護師 吉浜 文洋(神奈川県立保健福祉大学)

        思想研究者  合田 正人(明治大学)

        精神科医師  三脇 康生(仁愛大学)

                           ほか

主催:科研プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして――人文科学・医療・アートをつなぐ問いかけ」

(京都大学大学院 人間・環境学研究科/多賀 茂)

問い合わせ:s.taga@hy5.ecs.kyoto-u.ac.jp

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19. Juli 08

【新刊本】多賀茂・三脇康生編『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』(京都大学学術出版会)

<京都大学学術出版会から新刊本のお知らせ>
多賀 茂・三脇康生編
『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』

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(京都大学学術出版会)
A5上製・400頁・税込 約5,700円
ISBN: 9784876987511
発行年月: 2008/08


【紹介文】
 病を癒すには、まず医療をめぐる環境を癒してからでなければならない――。「制度を使った精神医療」をめぐる日本とフランスを中心としたの医療実践を紹介し、それらのバックボーンたる現代思想を解説する。
 病院機能評価によってますます硬直しつつある現在の医療・社会システムに風穴をあけ、「ひと」が癒える場をとりもどすために集結した、医療実務者と思想研究者による熱気あふれる論陣。

【目次】
第一部 実践編
第1章 制度を使った精神療法の実践
ラ・ボルド病院 多賀 茂、三脇康生
ラ・ボルド病院の日常  ジャン・ウリ、ラ・ボルド病院スタッフ
セクター制度   ティロ・ヘルド、和田 央

第2章 日本の精神医療現場での試み
四つの例
横浜市民団体の運動について 菅原道哉、
京都府南部の救急精神科医療について 和田 央、波床将材、
制度を使った音楽療法 高江洲義英
病院の外から病院を看る制度について 平田豊明、ミシェル・オラシウス、三脇康生 

第3章 身近なところから制度に取り組むために
医師という制度を分析する 菅原道哉、三脇康生、
看護師という制度を分析する ジャン・ウリ、吉浜文洋
デザインという制度を使う 蓮見 孝
写真という制度を使う 田村尚子
建築という制度を使う 高崎正治

第4章 日本の精神医療がなぜ「制度を使った精神療法」を使えなかったのか
三脇康生 

中間部 対話編 制度という論点をめぐって
野沢典子、看護師という制度を分析する
上山和樹 、ひきこもり問題から制度を使うことを考える

第二部 思想編
第5章 制度を使った精神療法の思想
ジャン・ウリ、制度を使った精神療法の思想
三脇康生、ウリとガタリの差異
合田正人、ラカン、マルディネ、トスカイェス
多賀 茂、フーコーとガタリ 

第6章 制度を使った精神療法とその周辺
江口重幸、精神療法の誕生
立木康介、ラカン派の応用精神分析
松嶋 健、イタリアのバザーリア

第7章 根を枯らさないために
多賀 茂

【著者による解説】
本書の表題にある「制度を使った精神療法」と訳された精神療法はフランスで50年以上前に始められ、現在も存続している。三脇は「制度を使った精神療法」について精神医療·保健·福祉·看護の領域で多くの紹介を行ってきた。その切っ掛けとなったのは『精神の管理社会をどう超えるか』(フェリックス·ガタリ他著、松籟社、2000年)という本を編集し論文を書くためにフランスと日本で精神医療の戦後の歴史を調べたことである。しかしその本においては、制度論的精神療法という訳語を三脇は共同編者と相談して用いた。しかしその後、三脇は再度、訳語を変更していた。制度論と言っても、治療の前提として制度を論じることではなく、精神療法のベースになる制度を改編しながら行う精神療法、つまり制度改変がそのまま治療に到達するという意味があるのだから、それがストレートに出るように変換したいと考えたため、制度改編的精神療法と訳を改めていたこともある。しかしこの本ではさらに「制度」に対して積極的で具体的な意味を込めるために「制度を使った精神療法」と改めることにした。
 精神医療の現場では芸術療法や作業療法という名前の療法が存在しているが、それには「芸術を使って」療法を行うとか「作業を使って」療法を行うという意味がある。それと同じように、まさに「制度を使って」精神の病を治していこうという方法が「制度を使った精神療法」である。しかし「制度を使って」ということは、「芸術を使って」とか「作業を使って」ということとはかなり異なった意味を持つ。なぜなら「制度」とは療法が行われる環境それ自体であり、単なる道具としてそれを使うことは決してできないからである。この療法の基本的な考え方は、「病んだ環境では病気を治すことはできない」ということであり、したがって医師や看護師や患者がその中で仕事をして生きている環境がどのような病気に冒されているのかということを、自ら明らかにしていくことがこの療法の中身になる。制度(治療環境)の分析は、常に治療へとフィード·バックされ、両者は常に循環的関係の中にあるとも言えよう。
 この「制度を使った精神療法」がなぜそれほど重要なのだろうか。答えは明確である。精神医療の対象である病の原因は目ではっきりと見えることは少なく、正常と以上の線引きの根拠は科学的には明確にしにくく、症状への知識の蓄積からしてこのような薬を飲んだりこのような休み方をしたりこのような入院の仕方をした方が患者にとっては良いのではないかとほぼ考えられるような、言わば東洋医学的な発想も含み得るものだからである。精神医学全体に科学性が他科と比べて少ないとも言えるだろう。精神医学の科学性を高める必要があるのも事実だろうと思われる。しかし現状では患者にしたら病名を告げられても納得できないことも多いはずである。であるから、病名を告げる側、医療者側が前提にしている思考の枠組みをどの程度柔らかくするのか、つまりどこは再検討しどこは再検討しないままで置くのか、一々判断していかなければ治療が始まらないからである。
 そういうことなら、すべてを柔らかくし遂には枠組みをなくしてしまえば良いと言われるかもしれない。そういう考え方は反精神医学ともよばれたことがある。日本にも政治運動の広がりの中で反精神医学の考え方は(幅はあっただろうが)存在していた。しかしすべてを柔らかくして社会全体で幻覚妄想状態に入ることはできない。しかしすべて固くしてしまうこともできない。このような精神医学と反精神医学の対決状態は、日本にもどこの国にも存在したのだが、フランスはその対立を超えるものとして「制度を使った精神療法」を維持していた感が強い。一方、日本ではその対立の着地点は明確には存在して来なかったと言えるだろう。もちろんそれぞれの素晴らしい試みは存在したのだが、枠組みを制度のどこを緩めてどこを緩めないのか、その判断を明確にしてこなかったのだ。本書では、既に日本に存在している試みも「制度を使った精神療法」という枠組みでとらえ直してみたいと思う。
 ここで精神科医として私の経験した臨床例をあげよう。私の担当していた患者の通うディケア施設に、レベルの高いサッカー経験を持つ若いケースワーカーが働き始め、自然とサッカーチームが作られていった。主に統合失調症の患者22歳から36歳が参加し、常時参加していたのは8人であった。半年ほどたつと、調子が良くなった患者から就労支援を受けたり、作業所に抜けて行った。私の担当した患者は、熱心にサッカーをしていた間に調子の良さを訴えたので薬を減らした。すると丁度、サッカーに参加していたメンバーが社会復帰に向け動き出したことから、人数の面からサッカーを十分には出来なくなり、この患者も仕事を探し始めるようになった。すると幻聴に支配されて2年ぶり再度の入院となった。入院後は、なぜ幻聴にふりまわされたのか考えてもらった。患者は「サッカーこそ生き甲斐という気持ちがした。今までにしたことの無い玉運びをケースワーカーに教えてもらい、ゴールが決まった時はかなりすっきりした。生きていること全てであると思えた」と言う。私は「そのような喜びを働くことや余暇に見つけようとしたのですか?」と聞いた。患者は「そうだと思う。」と振り返った。そこで私は、次のような類別をこの患者に示してみた。「生活·社会の方へ復帰した患者はサッカーの面白みにある程度距離を取れた患者ではないか。むしろ復帰を焦って病状悪化した患者はむしろサッカーの面白みに酔った患者ではないか。」するとその患者は「全くその通りだと思う」と言うのだった。それから薬を増やすと2ヶ月で退院となった。
 生命感を求め過ぎて生命感にのみ込まれてしまったこの患者に対応する時にこそ、制度分析(analyse d’institution)が行われているかが問われることにある。患者との自由な交流に基づくすばらしい治療などを私は求めていたのではない。患者が居心地の良さを感じたのは良いとして、それからどのような着地をしてもらうのか考えねばならないかった。入り口を作れば出口を作らなければならない。
それにこの症例の運営は失敗しているのだ。こんなことが起きないようにまさしく制度を使った精神療法のメッカであるラ·ボルド病院で多くの活動が維持されている。それにより、患者は生命感に飲み込まれるのではなく、生命感を適度に味あう。はっきりこの事例に適応するなら、サッカー以外の活動という制度をこの患者に使ってもらい、複数の活動の間でバランスをとるべきだったということになる。そのために私はスタッフと十分話し合う時間を持つことができなかった。あるいは主治医の私も含めて病院がこのような制度分析を行う体制になかったのだとも言える。このように組織内のミクロな制度使用は、それに応じた制度分析を伴っていなければならず、制度分析の有無は治療の首尾に直結する。それはこの症例でも明らかだろう。
 本書では、まず「制度を使った精神療法」の流派の考え方を十分に知ってもらうことを目指し、それに基づいて、いかにしたら日本というフランスとは全く異なった文化的·政治的風土の中で、「制度を使った精神療法」を日本の精神医療へ導入できるのかを考察したいと思う(本書では、そうした意味で広く理解する場合には「制度を使った精神医療」という言い方をしている)。
 そして、はじめにどうしても言っておかなければならないことが、もう一つある。それはこの流派の考え方が、制度(環境)について議論しながら分析し工夫することを根本とすることから帰結することとして、おそらくこのこともまたフランス文化の独自性ということになるのかもしれないが、単なる実践上のノウ·ハウだけではなく、きわめて哲学的·思想的な志向をもっているということである。現象学、ゲシュタルト理論、ラカン派の精神分析などに由来する様々な概念が、この流派の議論では駆使される。もちろんそれは衒学的な欲求からのものではない。制度という論点を、現場の組織論にしろ、抽象的な哲学にしろ、単一の観点からだけ見てしまうこと自体が、制度の病を生む(例えば<疎外>という重要な用語が指し示しているのはこのことである)ということをこの流派の人々が知りぬいているからである。そして、そうした議論を経た制度についての分析は、精神医療という枠組みを越えて一般的な社会環境に対する療法ともなるだろう。現代社会が私たちにとって「病んでいない」環境であるなどと言えるひとはおそらく一人もいないはずだからである。「制度を使った精神療法」は病院だけの問題ではない。これだけ社会の中でメンタルヘルスの問題が大きく取り上げられ、スクールカウンセリングや産業カウンセリングの重要性が叫ばれている現状がある以上、それは容易に理解していただけるだろう。しかし実は現在の社会構造では、この肝心のカウンセリングが機能しなくなっているのだ。それは結局のところ「制度を使う」ということを日本の組織が試行できないでいるからではないだろうか。
 本書は大きく実践編·思想編という二部構成をとることになった。実践編では、ラ·ボルド病院というフランスの一病院の例と、それと深く関わるセクター制度というフランス独特の地域精神医療制度とをまず詳しく紹介し、次に日本の精神医療の現場での問題点とそれに対する試みを紹介したのち、日本の精神医療の現場で制度分析がどんな形を取りうるのか、身近な制度をとりあげて検討する。思想編では、まず精神療法そのものの歴史やラカン派における試み、そしてイタリアの例など「制度を使った精神療法」の周辺にある問題を取り上げたのち、最後に「制度を使った精神療法」が思想的にどのような問題と繋がっているのかを考察しておきたい

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