映画・ドキュメンタリー

25. Juli 11

【民俗】東日本大震災復興・相馬野馬追(福島県南相馬市)~シリーズ・カミサマを訪ねる(2)

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12. Mai 11

【映画】団鬼六原作/石井隆監督『花と蛇』(杉本彩主演)

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 わが国の大衆官能小説の巨匠・団鬼六逝去につき,監督と主演が異なる同名の作品を2本見る。
 『花と蛇』は,ブラック企業の妻が借金のかたに売り飛ばされ,そこで拷問,凌辱の限りを受けるという,官能小説の古典的様式美。この辺りは永田守弘の『官能小説用語表現辞典』に詳しいが,数々の耽美的にして密度の高い字面,その質感によって表現される官能文学を,隠密性と余白を失わずに映像化できるのかが,いわゆるAV作品とポルノグラフィーの大きな違いである。
 主演を務めるのは女優の杉本彩だ。杉本はアイドル時代から確かにセックスシンボルとなりえていたようであるが,この様な成人映画で裸体を晒すのは初めてであり,石井版『花と蛇』が公開当時から話題になったのはこのような理由もある。

 団鬼六文学の様式美で忘れてならないのは,その代名詞でもある「縄」である。生贄となった女の身体が,数人の男たちによって縄で縛られていく。縄の圧迫による鬱血,各部位への食い込み具合の描写などから女の身体の膨らみと柔らかさが表現されるのである。こうして自分の意思に反した限界領域にまで折り曲げられ,畳まれ,不自由に変形した身体が完成する。この1つの異形となったオブジェは,性愛の対象としてではなく,ありきたりの人間性も排除された有機端末として,数々の凌辱的な入力信号にエロティカルに反応するのである。

 映画の見所は,ブラック企業主催の秘密クラブに売り飛ばされた杉本彩が,裸体を晒しながら縄で宙釣りの柱に磔刑されていく場面である。不安定に揺れる杉本の裸体と,縄で軋む音は,文学的世界とはまた異なった美しさがある。この怪しさや隠密性は,古くは円形小屋のサーカスや見世物小屋で受け継がれてきたものだ。暗幕で覆われたこの空間は,その数ミリの僅かな布の被膜に覆われただけの脆弱な空間である。そこに充満する悪趣味な見物人たちの想念,情念は,今にも破裂しそうにこの空間を膨張した高圧環境に仕立て上げる。
 ここで奴隷となった杉本は,呼吸,排尿といった生理的行為の自由も奪われ,その恍惚の表情が,次第に人格が崩壊していく「知性」を見事に演じている。口には開口弁が設けられた猿轡が施され,天井から吊り下げられたガラス製のイルリガートルから,やや白濁した液体を無理やり注がれる。このぬらぬらとしたイルリガートルの質感と形状は,この場にいれば誰しもが男性器を想起するものである。そして暫くしないうちに膀胱に満たされたその液体が,杉本の裸体を伝わって床に滴り落ちる仕掛けである。この時,この縄で磔刑された女の身体は,1本の管の様な,あるいは,蛭やミミズのような実にシンプルな環形動物の様にも見えてくる。
 おそらく何百年も続いてきたであろう,人間の想像力と欲望の限りを尽くした鬼六文学の美しさを映像で表現した作品であった。

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05. März 11

【映画】 齊藤潤一監督『平成ジレンマ』(2011年,配給・東海テレビ)

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 かつて1980年代に社会問題となっていた校内暴力,非行,登校拒否の未成年達を,厳しいヨットの訓練で更生させる施設として注目されていた戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長の半生を追ったドキュメンタリー作品。
 この作品は,昨年東海テレビの制作でテレビ放映されると大きな反響を呼び,今回はテレビ放送では未公開だったシーンを加え,新たに再編集して1本のドキュメンタリー映画として公開された。
 冒頭で私があえて“戸塚宏校長の半生を追ったドキュメンタリー”と書いたのは,この作品が,単に戸塚ヨットスクールと戸塚宏の教育論に「是・非」を問うだけの作品ではないからだ。
 まずファーストカット導入部では,いわゆる戸塚宏と数名のコーチが「犯罪者」として裁かれた戸塚ヨット事件の当時のニュース映像が挿入される。当時この映像を見た記憶がある者は,恐らくは戸塚宏という人物がこの世の「鬼」か「化け物」に見えたであろう。報道番組で連日繰り返し流されるセンセーショナルな体罰シーンだけを見せられた我々は,そこに至るまでの理由も知る事もなく,戸塚宏をマスメディアの中で「化け物」に仕立て上げて,一方的に批判してきたともいえる。

 これは意外に世間ではあまり知られていないようであるが,戸塚ヨットスクールは,開校当時から今のような更生施設であったわけではない。もともとは世界的ヨットマンであった戸塚宏が,地元市民や子供たちにヨットの楽しさを教えるために開いたヨット教室が前身である。そこにたまたま不登校や非行などの問題を抱えた子供が入校してきて,ヨットの厳しい訓練を受けるうちに立ち直っていったという口コミが全国に広がり,やがて非行の子供達だけの更生施設となっていったのである。
 映画の中で戸塚宏は再三にわたって「こんな子供にしたのは誰なんだ?どんな世の中がこういう子達を作ったんだ?」と問いかける。
 金属バット殺人事件を象徴とする家庭内暴力や校内暴力という言葉がしばしば聞かれるようになった70年代後半から80年代にかけて,様々な教育評論家や,今でいうプロ教師達がテレビに出る中で,ひと際異彩を放っていたのが戸塚宏である。親にも学校の教師にも制止する事ができない問題児の暴走はいったい誰が止めるのか。それは「社会で育てましょう」などと言う評論家の生ぬるい言葉に託すより,当時の世の中は戸塚宏を待望したのではなかったのか。

 実は,『平成ジレンマ』が制作される以前,過去に戸塚ヨットスクールを題材にした映画がもう一つある。西河克己監督『スパルタの海』(1983)だ。これは当時,『東京新聞』に連載されていた同名のルポルタージュを同名映画化したもので,伊東四郎が戸塚宏の役をやって当時から話題になった。
 そして数年後,ヨット訓練生が事故死するという戸塚ヨット事件が起こると,この作品はいつのまにか封印されてしまった。それ以降,ほぼ全てのメディアが掌を返すように一斉に戸塚宏を叩きだしたのだ。今のようなネットの無い時代である。当時の我々は戸塚宏の生の声を直接聞く機会もなく,彼を「化け物」にしてしまったのである。
 『平成ジレンマ』では,これまで当時のマスメディアによって長らく封印されていた戸塚宏の「言葉」を少しずつ紐解いていく。その言葉一つ一つは戸塚宏によって肉体言語化されたものであり,非常に重い。あの事件後“戸塚被告”,そして“戸塚受刑者”となり,刑期を終えて再びヨットスクールに戻ってきた戸塚宏は現在70代である。そして,かつて「暴力」「体罰」とまで言われた厳しい訓練法は封印されてしまっている。70代になったこの「化け物」は,両手の手錠こそは外されたが,再び暴れないように見えない足枷がつけられている。
 しかし,この手負いの「化け物」戸塚宏のもとにやってくる者は後を絶たない。マスメディアと世論と権力によって抹殺されたかにみえたこの空間は,現代の教育の歪み――即ち,ニート,引きこもり,不登校,薬物依存,そして集団での協調性がなく問題を起こす情緒障害児の漂流地点となっていたのである。
 入学金は315万円で月々の月謝は寮での生活費込みで11万円。一度卒業しても社会復帰出来ず,再びここへ戻ってきた時は新たに入学金を取る事はない。コーチ,スタッフの年金や退職金ももちろん無く,現在は赤字経営である。そのうえ,スクール内で少しでも問題が起きるとどこからともなくハエの様なマスコミが一斉にたかってくる。そして故意に「化け物」を挑発し,「化け物」が狂って暴れ出すシャッターチャンスをうかがっているのだ。
 こんな状況について戸塚宏は,先日の公開討論会の中でこのように述べている。
「情報にはインフォメーションとインテリジェンスの2種類ある。何らかの意図をもって編集されたものがインフォメーションである。」
 これは日本のマスメディアが長らく抱えている問題そのものである。当時,戸塚ヨット事件にふれた我々は,編集されたインフォメーションによって,訓練生や訓練生の親,そして戸塚宏自身からこぼれ落ちた声を拾い集める手段を持っていなかった。今回『平成ジレンマ』という作品を通してその断片を拾い,海に面した「化け物」のアジトを,外と中から見る機会を得た。
 現在,新生・戸塚ヨットスクールには常に10名程の訓練生が寝泊まりしている。脱走する者,卒業しても何度も戻って来る者,鬱が治りかけたとたんに屋上から飛び降りて自殺する者がいる一方で,1人では何もできなかった引きこもりの少女が,寮生活でヨットの楽しさに目覚め,「将来の夢は五輪選手」とまで言うようになる。
 私はこのような状況も踏まえても,戸塚宏を無批判に是認するつもりはない。しかし,戸塚宏と同じく長い間ヨットやウインドサーフィンをやってきた人間の立場から言うと,世の中で生き抜いて行けない人間が海の上に出たら,確実に死ぬ,という事である。
 かつて戸塚宏という「化け物」を生んでしまった現代社会を構成する一人として,誰もが一度は見ておくべき作品である。

■『平成ジレンマ』ポレポレ東中野で現在上映中
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

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シアターの正面には中央総武線「東中野」駅構内からも見える大きな垂れ幕がかかっている。

■『平成ジレンマ』公式web
http://www.heiseidilemma.jp/

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13. November 10

【映画】 岩名雅記監督『夏の家族』(2010・UPLINK X)

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 フランスを拠点に身体表現活動を続ける舞踏家・岩名雅記の第2回監督作品。作品の随所に男女の性器が明瞭に映されたハードコアな性交シーンがあるため、日本ではR18指定作品として上映された。

 監督の岩名雅記は1945年東京生まれ。暗黒舞踏集団『大駱駝艦』や北方舞踏派、土方巽らの日本の舞踏黎明期を同時代として生きてきた舞踏家である。他のジャンルとのコラボレーションも多く試みており、筆者とは、画家・梅崎幸吉が主宰していた銀座7丁目のギャラリー・ケルビームで即興演奏の舞台に立っていたチェリストの入間川正美を通じて接点がある。
 また岩名は、TVの声優としての顔もあり、その多くは『イナズマン』、『キカイダー01』、『正義のシンボル コンドールマン』、『秘密戦隊ゴレンジャー』などの特撮番組で悪の組織の首領役をやっていたという特異な一面も持つ監督だ。

 本作『夏の家族』は、ノルマンディの辺境の村に暮らす62歳の舞踏家カミムラと、2人の女性(47歳の妻のアキコ、35歳の愛人のユズコ)をめぐる物語が、ノルマンディの淡い光の中で寓話的に描かれている。物語の中には8歳の娘マユも登場するが、その姿は最後まで現さない。手、足、後ろ姿、そして声のみが断片的に描かれ、その身体性は全編を通じてのマユ視点のカメラワークで表される。冒頭の手振れがするたどたどしい歩み、階段を一段ずつ用心深く昇る様は、口はませているが足元が覚束ない少女である事がわかる。
 ここで描かれる日常とは、ノルマンディにアトリエを構える舞踏家カミムラを中心に行きかう人々の、一見するとありふれた情況ではあるが、それは閉鎖されたスモールタウン(村落共同体)の中で起こる「狂気」と常に隣接している。そして鮮やかな色彩をも感じさせるノモクロームの初夏の風景の中に投げ出されるのは、枯れ枝のように渇ききって軋む男女の身体である。
 その身体は、禁欲的なまでの機能美のみを残し削ぎ落とされた、大地への生贄の様だ。それらは渇きを癒すように交わり、僅かに残された互いの粘液によって一瞬の潤いを得る。自分のあるがままの「性」をさらけ出すことの出来るカミムラと35歳の愛人のユズコ、そして、自らの衰えた身体と、その不自由な身体に抑圧された「性」の前で苦しむ47歳の妻のアキコとのコントラストがあまりにも残酷である。
 この2人の女性の間にある静かな闘争は、不倫などという俗世間の道徳に括られるものではなく、女が女であるために向き合わなければならない根本的な問題の中で展開されるのである。
 カミムラの書斎でカミムラが撮影したユズコの性器のクローズアップ写真を偶然見つけ、動揺するのではなく、自身の身体に静かに沸き起こる性欲に困惑する妻アキコの姿は、更年期を迎えた既婚女性の、けして人には知られたくない一面を覗き見した様な感覚に陥る。

 冒頭で述べたとおり、『夏の家族』は日本ではR18指定である。性器をクローズアップで映されたハードコアな性交シーンは、ややもすれば巷に溢れるポルノグラフィよりも明瞭かもしれない。血管が浮き出た男性器と、それを受け入れる幾重にも複雑な襞を形成している女性器は、男性の指や舌や性具によって様々な形状に変容し、まるで一つの自立した人格を持つ新たな器官にさえ見えてくる。その弾力を持った生き物の様な襞は、性具として加工された西洋ナスや生牡蠣まで呑み込んでしまう。そしてその襞の奥から溢れる粘液で、枯れ枝の様に朽ちていた男性器も潤うのである。このシーンは大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976)へのオマージュも感じさせる。
 しかしモノクロームの長回しで記録されるこれらの男女の性器は卑猥に映るものではなく、例えば、枯れ葉の透けた葉脈、植物の種子、鳥の羽根、鏡に付着した水滴、壁のシミやひび割れと同じく、風景の中で同化された静物画として存在するのである。それはカラヴァッジョの静物画に描かれた、やがて朽ちる前の潤いを貯めた果実そのものである。
 カミムラは、その果実をいつまでも愛でながら、身の上話のように唐突に東京五輪の話をするのだが、カミムラのこんな台詞。
「東京五輪のあと、円谷が命を絶った時に、潮を引くように日本人の中にあった精神の佇まいも消えてしまったように思う。」──から、かつての復興の象徴であった東京五輪に映し出された様々な近代的身体──ある意味カミムラの、あるいは監督である岩名自身の身体、すなわち僅かな代謝活動により生き存え、やがては土に還る土俗の身体とは対極を成しているものが、戦後の繁栄の残像とともに人々の忘却の中へと消えていくような侘しさが感じられる。60余年、風雪に耐えてきたカミムラの身体とも象徴的に重なるシーンでもある。

 カミムラがノルマンディーのスモールタウンで愛人を抱きながらも、この寓話的世界に唐突に割って入る東京の風景は、妻アキコの情念で満たされた郷土の呪縛そのものである。造形的には禁欲的な身体をこしらえ、それと相反するように野性のままに生きてきたカミムラは、その罰を受けるべく、村の小さな沼に身を投じる。それは見る者によってはいろいろな姿に見えるだろう。例えばイタリア・ルネサンスの磔刑図、ミレーの描いた瀕死のオフィーリア、または高山地帯に住む少数民族の鳥葬である。高所から急降下する鳥に身体をえぐられるカミムラは、無抵抗に身体を投げ出したまま朽ちた屍となっていく。
 この時初めて娘のマユが姿を現すが、それは少女ではなく、朽ちた枝で作られた醜い異形であった。この異形がみつめていたのは、2人の女、ユズコとアキコが一つ屋根の下に暮らす歪な家の中で繰り返される枯渇した日常である。その「渇き」は、男女の身体のみならず、8歳の少女すら奪っていったとも解釈がとれる猟奇的な結末であった。

■『夏の家族』公式Web http://natsunokazoku.main.jp

■岩名雅記監督来日予定
舞踏とワークショップ
2011年1月17日(月)~21日(金) 16:00~21:00
1日2500円(5日通し10000円)
舞踏公演
2011年1月22日(土)18:30会場 19:00開演
23日(日)14:30会場 15:00開演
2500円
会場
キッド・アイラック・アート・ホール
http://www.kidailack.co.jp/

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05. Juni 10

【ドキュメンタリー】『未確認モンスターを追え!~チュパカブラ編』(ヒストリー・チャンネル)

 現在CS放送ヒストリー・チャンネルで好評放送中の秘境ドキュメンタリー番組。
 まずは今週の番組紹介から。

1995年、プエトリコの農場の家畜が血を抜かれて死んでいるのが次々と発見された。これはチュパカブラの仕業なのだろうか。
目撃者によるとそれは2本足の鋭い爪と牙を持った爬虫類のような怪物だという。しかし最近テキサスで目撃されたのは奇形の犬のような生き物だった。番組はテキサスのチュパカブラを追う。そしてテレビではじめて、プエトリコとテキサスの目撃現場からDNA鑑定を行い、チュパカブラの正体に迫る。(ヒストリー・チャンネル番組紹介)

 これを見て何かを思い出さないだろうか。
 これこそ、最新の撮影機材と最高の撮影スタッフで挑む、現代に蘇った『川口浩探検隊スペシャル』なのである。1970年代に日本のお茶の間を席巻した川口浩探検隊についてはすでにレビューで取り上げた通りだが、(→【コラム】「水曜スペシャル川口浩探検隊シリーズにおける映像民俗学的考察」)この『未確認モンスターを追え!』という番組は、川口浩探検隊を正統に受け継ぐものである。番組では、まだ誰も見た事がない化け物を求めて秘境を探検し、事件の現場の模様を地元の人々のインタビューを交えて紹介する。
 ここに登場するのは、今回のチュパカブラをはじめ、人食いワニ、人食いチンパンジー、ビッグフッド、巨大ブタなど、人間の想像力を刺激するものばかりである。そして当然の事ながら、これらの化け物が番組の中で姿を現す事はない。我々は、番組内で証言をする被害者の村人の話や、化け物が残した足跡や歯形、暗視カメラに映る不鮮明な画像の断片を繋ぎ合せ、なんとか化け物の正体に迫ろうとする。
 実はこの、「空間」と「身体」を共有するような臨場感こそが、この類の番組の面白いところなのである。断定的ではなく余白を提示する行為、そして多少演出紛いのカメラワークは、佐藤真がそうであったように、「そもそもドキュメンタリーとは何か」、という根本的な問題も同時に提起している事に彼ら探検隊の面々は果たして気が付いているであろうか。(→参照コラム【映画】佐藤真監督『阿賀の記憶』
 つまりこの類の番組を見るにあたっての心得として、頭ごなしに「やらせ」と否定するのではなく、ドキュメンタリーというコンテクストの中にノイズとして必ず発生する揺らぎや恣意的表現も、化け物との遭遇を楽しむための「見世物小屋」的演出として認識する事なのである。

 今回登場する化け物のチュパカブラとは一体どんな化け物かといえば、その特徴は川口浩探検隊の頃から変わっていない。今でこそ、この化け物の名前はよく知られるようになったが、川口浩探検隊は、実に40年近くも前からこの化け物を追い続けていた事になる。番組を見る我々も、今度こそはと思いつつ、誰もその全容が明らかになるとは信じていない。チュパカブラに襲われた家畜の死骸や足跡などを見せられても、どうせ最後は何も出てこないだろうな、という事も分かっている。
 この予定調和的に微妙な心理は、これまで伝説として信じられてきたものに対して現代科学の視座が入り、事が明確に明示されてしまう事に対するささやかな恐れと抵抗でもあると私は認識している。これは古くは村落共同体において共有されてきた空間が何者かによって侵犯される事への不安でもある。
 一つの事例を上げれば、妖怪漫画家の水木しげるが常々言っている事だが、「現代日本には妖怪が棲める所が少なくなった」との言葉が重要である。つまりかつての汲み取り便所から水洗便所に変わり、日本家屋から「離れ」が無くなり、そして夜になっても24時間煌々と灯りが点いている空間には妖怪の棲める「闇」がないのである。「闇」のない世界とは同時に「ケ」の無い世界でもあり、我々は常に騒がしさを強要される「ハレ」の世界で生きているともいえる。言ってみれば、この「ハレ」のグローバル・スタンダートが、我々に対して多大な心身的ストレスをも与えているのだ。
 本来、この喧騒から心身を鎮めるためにも「闇」や「ケ」の空間が必要であり、その「闇」や「ケ」の空間の中で広がりを持ってきたのが説話、伝説の中で伝承されてきた化け物や八百万神の世界なのである。『遠野物語』に登場するカミサマも、太陽が照りつく空間に現れるものではない。未確認モンスターの宝庫である中米、南米ではそれに相当するのが一連のチュパカブラ伝説である。

 さて今回も、もちろんだが我々の前に、闇の中でも赤い目が光り、2本の鋭い牙を持ち、家畜の血を最後の一滴まで吸い尽くす怪物チュパカブラは正体を現さなかった。いつものとおり、村人の体験談と暗視カメラに映る不鮮明な映像と足跡だけである。最後に出てきたチュパカブラの死骸なるものも、専門家の判定の結果、疥癬症に罹り全身脱毛し、皮膚が硬化したピットブルの様な雑種犬である可能性が高い事が分かった。おそらく村の住人達も、このようなモノをチュパカブラとは認めたくはないであろう。
 そしてチュパカブラはまた伝説の闇の中に姿を消していったのである。

 次回は、アーカンソー州テキサカナの湿地帯に潜む人食いモンスターの探索である。乞うご期待!

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29. April 10

【映画】パク・シンホ(朴信浩)監督『かん天な人』、『てんせいな人』~韓流アンダーグラウンドのハードエッジ(2010年4月26日、渋谷UPLINK)

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 今からちょうど10年ほど前、イメージフォーラムでキム・ジウンという韓国人監督による問題作『Bad Movie』が試写で上映された。スラムにたむろする不良たちがおやじ狩りや障害者狩りをして盛り上がる、というとてつもない内容である。しかもどこまでがフィクションなのか、そしてどこからがドキュメンタリーなのか分からないようなメタ構造となっており、映画撮影中に警察に捕まったり行方不明になるスタッフも続出という触れ込みの作品であった。これを契機に、アジアに新しいアンダーグラウンド・シーンが起こるのではと少々期待はしたのだが、その後に押し寄せた、かつての大映映画の焼き直しの様なメロドラマに席巻されて、韓流地下映画はすっかり影も形も無くなってしまったのだ。
 あれから実に10余年。こんな前衛的な監督が、日本という地の地下に潜伏していたとは、世の中まだまだ知らない事ばかりだ。このような作品と出会うたびに、人生とはまさに楽しむべきものだとつくづく思うのである。

 今回、話題になりながらもなかなか上映の機会がなかった『かん天な人』、『てんせいな人』(ACT FACTORY TOPIX)を手掛けたパク・シンホ監督は、いわゆる在日である。この二つの作品も、韓国、北朝鮮、日本というそれぞれの立場で揺れ動いていた頃のパク監督の心象風景と寓話からなる実験的作品だ。そしていずれも、在日の帰化問題や外国人参政権、それから韓国民潭と朝鮮総聯の長きにわたる抗争といったタブーを掘り下げている。それでいながらイデオロギー的ではない。
 パク監督自らが、「これは政治映画ではなくエンターテインメント映画。製作費がもっとあれば『レッドクリフ』みたいな殺陣もやりたかった」と言うように、政治的なものをモティーフにしながらも、それをはるかに超えたところで「作品」として成立しているのである。見ようによっては非常に前衛的な実験映画にも見えるし、あるいはブレヒトの様な不条理劇にも見えてくる。
 パク監督の作品の中にこのようなものを感じるのは、パク監督自身が、南北問題、あるいは日韓問題で起こる様々な感情を、長い年月をかけてすでにアウフヘーベンしているからに他ならない。反対に言えば、ここを超えなければアートの領域には一向に達しない事を監督自身がよく認識している。もともとは舞台が活動の中心であったパク監督は、脚本だけでも3年間煮詰めたそうである。その煮詰まったテクストは禁欲的な装置を背景にして、肉体言語として映像に現れるのである。

 『かん天な人』は、元在日で、北朝鮮による日本人拉致被害者救出運動を行っている国会議員・荒木勝竜と、彼を政治家として敬愛する藤原武雄という日本人青年の物語。冒頭で藤原が、演説中の荒木を暗殺しに来た朝鮮聯盟(明らかに朝鮮総聯をモデルにしている)の工作員の凶弾に倒れるところから物語は始まる。表題にもなっている「かん天」とは、神からのミッションを受けて地上に降りた天使の事。藤原は、ボーダー・ホスピタルという、いわば関所のような空間で、そこの番人から、このまま死を受け入れるか、「かん天」となって、自分が下界で果たせなかった事に再チャレンジするかを尋ねられる。
 このボーダー・ホスピタルという空間設定がなかなか面白い。まだ完全な死者とは言えない藤原が置かれたアンバランスな立場が、パク監督自身の心象風景や半生と繋がるのである。しかしそれは、しばしばありがちなネガティヴで憎悪に満ちた感情が充満した空間ではなく、ありのままの情況を細密に描いた素描のようなものだ。少し目の粗いキャンソン紙に木炭で描かれた様なモノクロームの空間は、それを見る我々の中にも蓄積された偏見やフィクションと、強いコントラストを持って超然と対峙しているのである。つまりこの空間は、藤原にとってもパク監督にとっても、そして我々にとっても、アウフヘーベンという行為を突きつけられた厳しい空間なのだ。例えばブレヒトは、肉体言語の集積と解体でそれをやり、ドーフマンは1本の「線」にそれを託したわけである。
 このような舞台空間で藤原はボーダー・ホスピタルの番人と、「答え」のけして出ない問答を繰り返すのである。そして藤原に与えられたミッションは、「かん天」となって、しがない会社員・平一造の身体を借り、自殺志願者を救う事なのだ。そして全てのミッションが完了したら、荒木勝竜との再会が果たせるというものである。
 藤原がミッションで出会う自殺志願者の事情は様々。中野区在住のパク監督が、自らのホームグラウンドである中野の路地裏や雑踏で繰り広げる人間ドラマは、普段我々が気にも留める事もないような無名の人々の断片にすぎない。彼らの事はしばしば「一般市民」、または「一般人」という曖昧な枠組みで括られるが、ひとたび彼らの視点に立ってものを考えた場合、皆それぞれに、当事者にとっては“一般的”とは言えない事情を抱えている。
 これは、例えば臨床医の立場から見たら全く同様の症例が手元にあるとして、だがしかし、それが個別の当事者にとってはそれぞれ異なったものに見える、という情況と同様である。この視点のずれ、差異が、舞台出身のパク監督の人間観察に表れているように考えさせられた。
 不条理な情況が反復するこのような空間で厳しいミッションをこなす藤原は、果たして荒木勝竜との再会を果たせるのかはここではあえて触れない。そのプロセスまでの出来事をも含めて藤原武雄という一人の男の人生について見て欲しい作品である。

 『かん天な人』と同時上映された『てんせいな人』は、『かん天な人』から何十年も時が経過している世界で描かれるドラマである。ここでもあの藤原が、ボーダー・ホスピタルで不条理な審判にかけられる。今度は女性の番人と、長い机を隔てて問答が繰り返される。その長い机の上には2つの領域を仕切る様に布がかけられており、これは、ドーフマンの戯曲『THE OTHER SIDE/線のむこう側』で演出家・ソン・ジンチェクが作った舞台空間をも彷彿とさせるインスタレーションである。この映画のもっとも象徴的なシーンであり、実は『てんせいな人』の中には様々なボーダーラインがメタ構造で仕掛けられている。
 時代背景は近未来、しかし現代とさほど変わらない空間で、フィクションと実録が交差しているのである。ここで番人の許しを得て人間界に再び戻った藤原は、姿を変えて人間界に身を置くこととなる。この時代は一見すると南北問題や日韓問題はすでに過去のものとなり、非常に牧歌的な空気が漂っているかに見えたが、「外国人参政権」というまさに今日の我々にとっての実録的コンテクストが大きな「楔」を打ち込んでいるのである。
 「外国人参政権」に反対、賛成、双方の論客を集めての討論会のシーンでは、アンカーマンとして桜井と名乗る市民運動家の男が登場する。この桜井という男を演じているのは、実は桜井誠という実在の市民運動家自身なのである。そして、映画の中に登場する「在日特権を許さない市民の会」(在特会)という市民団体も、実在の市民団体であり、現在も「外国人参政権」反対の立場で市民デモや街頭演説の活動を続けている。ここで我々が見せられている映像は、フィクションとしてスクリーンに映し出される「在特会」の幟や桜井誠なのだが、一方で、You Tubeや、ニコニコ動画、あるいは海外ニュース映像などで実録として流される「在特会」の幟や桜井誠の姿も、デジタル映像の記憶の中ではフラット化される。つまり、映像そのものがボーダーを超えてしまっているという現象が起こるのである。
 このパク監督の、実にインタラクティヴな映像の仕掛けは、かつて、「ドキュメンタリー」という言語自体に疑いを持っていた佐藤真が、『阿賀の記憶』や『阿賀に生きる』で試みた、「ドキュメンタリー」の言語そのものを解体していく行為に通じるものがある。佐藤真は、『阿賀の記憶』の中で、かつて第二水俣病が発生して取り残された辺境の集落の人々の生活を記録しながら、最後は森の中に設置したスクリーンにその映像を投射し、それも含めて『阿賀の記憶』という映像作品に収めたのである。パク監督の『かん天な人』が肉体言語によりボーダーを超える試みならば、『てんせいな人』は、映像言語によってボーダーを超えていく試みではなかったのかと思える、前衛的にして興味深い作品であった。

■ACT FACTORY TOPIX『かん天な人』、『てんせいな人』公式ブログ
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05. Januar 10

【映画】 キムタク主演の実写版・宇宙戦艦ヤマト 「Space Battleship YAMATO」(予告編)

 年が明けてから一斉に,今年12月に公開予定の宇宙戦艦ヤマト実写版のCMが流れるようになった。私が確認したのは,大晦日にテレビ東京で放送されたジルベスター・コンサートの年が明けてからの一発目のCMである。そこでヤマト実写版の30秒の短い映像を確認した。このテレビ東京の番組自体が今回は「宇宙」をテーマにしたもので,カウントダウンの曲にはホルストの組曲『惑星』の「ジュピター」が演奏された。「惑星」で年が明けてからは宇宙飛行士の野口さんの宇宙からのライブ中継もあり,うまい番組にCMを入れきたものだ。(因みに,野口さんからはJ.シュトラウスのドナウがリクエストされた。これはウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番の曲でもあり,キューブリックの『2001年』でも使われた曲でもある。)

 今回初めて公開されたヤマト実写版CMの映像には,いろいろな要素,メッセージが込められている。映画好きの人ならば,そこからいろいろなイメージが広がるだろう。ファーストカットはセピア調に赤茶けた大地に,主演の木村拓哉と思われる人物が核防護服のような宇宙服を着用して立っているシーンが遠景で登場する。そしてカメラがズームして古代進(木村)のアップ。
 遠景のシーンでもしこのままさらにカメラをズームアウトするか,もしくは左右に振れば,そこにはガミラスの遊星爆弾による核汚染で干上がった海底に埋まっている帝國海軍の戦艦大和の姿があるはずだ。一瞬映る古代(木村)の呆然とした表情は,海底に埋まる戦艦大和を発見したからではないかと想像できる。
 CMの映像は,この後すぐに,ヤマト艦内を早足で歩く古代(木村)のカット,続いて第一艦橋の様子が映り,古代(木村)の背後には沖田艦長(山崎務)の姿がある。そして戦闘シーンでは女性パイロットの黒田メイサの姿が一瞬だけ映る。この一連のシークエンスを見る限り,その暗く硬質な質感は,『バトルスター・ギャラクティカ』や,『スタートレック』シリーズにおける一連のボーグ戦のような雰囲気である。ヤマト第一作をベースにストーリーを組み立てるのであれば,我々地球人類の敵となるのはガミラス人というヒューマノイド型異星人だが,ここでガミラス人の代わりにサイロンやボーグなどの機械生命体が登場してもまったく違和感がない。ただし一点において,ギャラクティカやUSSエンタープライズ号とヤマトが異なることは,前者はまったくの空想上の宇宙船であるが,ヤマトはその前身として戦艦大和という骨格を持っていることである。ヤマトの物語は遠い未来を設定として描かれているが,物語の根幹は西暦1941年,即ち,帝國海軍に戦艦大和が誕生した時に存在しているのである。この点が極めて特異なのである。
 また,ファーストカットの干上がった大地のシーンは,色調といい,古代(木村)が着用している防護服といい,リンチが映像化した『デューン砂の惑星』の雰囲気もある。浦達也の言うところの“レトロフューチャー”な雰囲気だが,これは山崎貴の作るCGが得意とするところだ。古代(木村)が佇む赤茶けた大地も,もちろん九州南端のはずであるが,このシーンで日本の地名が唐突に登場してもさほど違和感はない。つまり良い意味でワールドワイドな世界観が作られており,後は脚本次第で長らく日本映画が苦手としてきた「宇宙」を舞台にしたSF映画の完成された姿を初めて見ることができるかもしれない。

 なんだかんだと,わずか30秒の映像について長々と書いたが,ようするに,キムタク主演の実写版ヤマトもなかなか良くなりそうじゃないか,ということが言いたかったのである。
 ヤマトには昭和時代からのうるさ方のファンがたくさんおり,その中にはアニメ第一作原理主義のものたちも多く存在する。彼らは現在劇場公開中のアニメ版新作『宇宙戦艦ヤマト復活篇』すら認めたがらないのは当然だ。またそれに加えて,我々日本人にとってはヤマトの前身である戦艦大和にもいろいろな思いがあって,それぞれの日本人の心の中に大和は眠っているわけである。“これぞヤマトだ”というものがそれぞれにあるのであるから,誰が監督をやっても,誰が脚本を書いても,誰が古代進を演じても,“それは違う!”という声は必ずどこからか出てくるのは当たり前である。
 この状況を克服するためには,二つの方法しかない。まず一つ目は,ヤマトが時を経て,バッハやシェイクスピアのような「古典」になることである。そうすれば,蜷川マクベスのような事をやっても怒る人はいない。新しいヤマトの芸術表現として認知されるわけである。そして,二つ目として,旧来のヤマトスタッフではなく,ヤマトを見て育った若いクリエイターに制作を任せることである。かつて子供時代,『仮面ライダー』初期シリーズを見て育った雨宮慶太が,後に優れた造形作家,特撮監督になっていったように,ヤマトにもこのような新たな才能の注入が必要なのである。
 このような意味では,ヤマト実写版の監督に山崎貴が名を連ねていることは,ヤマトにとっては良い選択であったといえる。何故ならば,山崎貴がその先鞭をつけてくれたことによって,今後いろいろなクリエイターたちがヤマトを制作する可能性が広がったからである。私は個人的に,庵野秀明版ヤマトも見てみたいし,なんならばリドリー・スコットやジェームス・キャメロンらの外国人監督でも良い。ヤマトの前身が戦艦大和であるという身体性さえ崩さなければ,あとはいかに表現するかは監督自身の“センス・オブ・ワンダー”次第である。

■井上リサの書き下ろしヤマト・コラム■
【映画】 西崎義展監督 『宇宙戦艦ヤマト復活篇』~昭和歌謡からハードロックへのワープアウト
【CS放送】 石破茂大臣,宇宙戦艦ヤマトを熱く語る(CS放送ファミリー劇場 『アニメ問わず語り』)
【映画】 『宇宙戦艦ヤマト』 復活篇,今度の敵は国連軍だ
【映画】 『宇宙戦艦ヤマト』 の新作「復活篇」が今年12月に公開~波動砲6連射をめぐる是非~

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28. Dezember 09

【映画】 泉水隆一監督 『凛として愛』(2009年12月27日,九段会館で自主上映)

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(写真は,上映開始前から多くの人々が並んでいる様子)

 わが国の中で年間に制作される映画の数は,インデペンデント作品も入れたら1000本は軽く超えるであろう。映画館以外の空間で自主上映される作品などは,スタッフ,関係者以外の人間にはなかなか情報が上がってこないので,正確な実数は不明である。
 そしてこの中から劇場公開にまで漕ぎつけることができるのは僅かに一握りである。特にインデペンデント映画は制作の段階でスポンサーを探せても,映画の完成した後に配給元が決まらず公開できずにいる作品も相当数ある。我々が幸運にも劇場で目にすることができる映画はまさに氷山の一角である。

 映画は完成したものの,いわゆる“お蔵入り”となってしまったものの中には,冒頭で述べたスポンサーや配給元の問題だけではなく,政治的圧力で上映禁止になった作品も存在する。
 先日九段会館で自主上映された泉水隆一監督の『凛として愛』もそんな作品である。
 『凛として愛』は,明治開国から大東亞戦争までのわが国の近代史を,戦没者遺族,元兵士,元従軍看護婦,そして列強からのアジア独立のために日本民族とともに戦った南方の少数民族らのインタビュー,それに歴史史料で綴ったドキュメンタリー作品である。例えれば,列強との戦争を戦い抜いた日本民族の視点で制作された「NHKスペシャル」といったディテイルの作品である。
 監督の泉水隆一は,アニメ『新造人間キャシャーン』や『うる星やつら』の制作スタッフとしてのほうが一般的には著名であるかもしれない。ドキュメンタリーとアニメ制作との間には,途方もない距離を感じてもしまうのだが,泉水隆一の生きてきた人生,年代を考えれば,止むに止まれずに制作したのが,この『凛として愛』という作品であろう。
 泉水隆一はいわゆる戦中派に入る監督であろう。この年代のクリエイターは,戦前,戦中,戦後と時代に翻弄されてきた戦争実体験者である。そして戦争実体験者と,それを歴史的に定義づけようとする後世の批評家とでは,視点や主張が異なって当然なのである。しかし我々はややもすると先の大戦を,後世の批評家視点でしか見てこなかったのかもしれないと,いろいろと考えさせられるのがこの作品である。後世の批評家視点というのは即ち,戦後の多くの日本人が歴史教科書で学ばされてきた見方,ということである。そこでは戦争の悲惨さは詳細に語られるが,なぜこのような事態に至ってしまったのかという事については,多角的視点からは述べられていない。
 私は子供時代からいろいろな国の教科書で学ぶ機会に恵まれたが,一つの事象についてもまったく視点が異なるのが他国の歴史教科書である。本来はこのような様々な視点から歴史は学ぶべきものであるが,わが国の多くの歴史教科書は,その視野狭窄ぶりをもってして,まるで共産主義者の指導書のようで気持ちが悪い。

 泉水隆一の『凛として愛』における仕事とは,共産主義者たちにかき消されたマイノリティーの声をつぶさに拾い,大東亞戦争における欠落した断片を丁寧に縫合していく作業だ。私は個人的に,泉水隆一の視点がクリエイターとして特異であるとは思わない。なぜならば,私がこれまで出会ってきた泉水隆一とほぼ同世代のクリエイターたちの多くは,少なからず泉水隆一と価値観を同じにするようなものを持っているからだ。例えば,ウルトラマンなどの特撮美術でも知られた前衛彫刻家の故・成田亨や,現在も第一線で活動している現代美術作家の浅野庚一らがそうなのである。その浅野庚一は,銀座のある画廊でのパーティーの席で私にこのようなことを話してくれたことがある。
「戦争については私も言いたいことはたくさんある。もちろん日本がやってきたことの全部を肯定しようとも否定しようとも思わない。」
「だけども,あの戦争を実際に戦った当事者以外の者が,後からあれこれと言うことに,いつも辛い思いでいた。」
 そしてこの後に浅野庚一は,「今まで誰にもこのことが言えなかった。今日あなた(井上)に初めて話したんだよ。あなたがはじめて自分(浅野)の話を聞いてくれたんだよ。」と言って,涙ぐんで手を握ってきたのである。
 この話の流れは,浅野庚一と古くから顔見知りの美術作家から,「反戦」をテーマにした美術展の出品を依頼されて,浅野がそれを断ったという話題からでてきたものだ。浅野が断るぐらいだから,これは「反戦」を普遍的に訴えるというものではなく,日本を侵略戦争の首謀者と既定して,その総括を促すようなものだったのであろう。
 同じく,生前親しく交流の機会があった彫刻家の成田亨とも,浅野庚一と同様の会話をした記憶が残っている。その成田亨はしばしば私に,「子供の頃は軍国少年でね。軍艦の絵をカッコ良く書くのが楽しみだった。」と語っている。成田亨が特にお気に入りだったのは,重巡洋艦「愛宕」。成田亨が言うには,帝國海軍の艦船が美しい理由は,その艦影と艦橋の構造にあるそうだ。戦後,成田が前衛彫刻家から特撮美術への道へ進んでからも,成田が遺した数々のデザインワーク,コンセプトワークの中には,成田が最も美しい艦といっていた重巡「愛宕」のDNAも受け継がれているといっても過言ではない。成田と良きライバルだった小田襄や堀内正和らの抽象彫刻と常に切磋琢磨していた成田亨の作品は,単に昭和の前衛彫刻として括るにはもったいない。後の数多くの異星人デザインに継承されていった曲線と直線を融合させたフォルムや,放射状の線で構成されたマチエールなどに,私は成田が愛した「愛宕」の面影が見えてしまうのである。
 そして,このようなクリエイターたちとも個人的に親交の機会があった私には, ドキュメンタリー映画作家としての泉水隆一のメッセージも自然に受け取ることができた。実は,本当にマイノリティーとして戦後に抑圧されてきたのは,『凛として愛』にインタビューで登場したような人たちなのである。彼らは戦後の“善良的”マスメディアによって形成された「世論」という圧倒的に大きな「声」の前に,その存在をかき消されてきた人たちなのである。今回,『凛として愛』という作品を通して今まで歴史の中で埋もれてきた人々の声を聞けた意義は大きい。

 今回上映された『凛として愛』は,九段会館を間借りしての1日だけの自主上映である。上映を企画したのは「日本女性の会 そよ風」という女性の市民グループだ。
 私はかねがね不思議に思っているのだが,今回の作品のように,何らかの政治的圧力により上映や公開が禁止された芸術作品に対し,本来ならば「表現の自由」,「言論の自由」という問題にもっとも敏感であるはずの左翼や市民団体がいっこうに沈黙していることである。今回の自主上映に際して協力を名乗り出たこのような団体はまったくいなかったそうである。同じような不思議な現象が他にもたくさんあって,例えば,日頃から「人権」や「平和」をアピールしている団体が,なぜか中国共産党によるチベット人やウイグル人に対する民族虐殺には抗議の声を上げなかったり,「反核」や「憲法9条」を唱える団体が,アメリカの核については文句を言うのに,なぜか中国や北朝鮮の核には何も言わなかったりする。こういう人たちは,自分と思想信条や主張を異にするものたちの「人権」,「表現の自由」,「言論の自由」などは認めないと言っていると思われても仕方がない。

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12. Dezember 09

【映画】 西崎義展監督 『宇宙戦艦ヤマト復活篇』~昭和歌謡からハードロックへのワープアウト

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 宇宙戦艦ヤマトの新シリーズ第1作目が公開された。この作品は,すでに先に行われた試写会で一度見ているが,2つの異なるラストシーンが設定されていたこともあって,映画としての完全なる完成品を見るのは今回が初めてということになる。
 宇宙戦艦ヤマトの世界は映画の設定書では西暦2192年,すなわちガミラス帝国が地球に向けて遊星爆弾による攻撃を開始した年からスタートしているが,ヤマトの前身が帝國海軍の戦艦大和なわけであるから,本来ならばその大和が誕生した西暦1941年からすでに物語はスタートしているといえる。
 また,しばしば映画ファン,アニメファンの間では,“ヤマトは一度死んだ乗組員が生き返る”と揶揄されることがあるが,それは映画シリーズの第2作『さらば宇宙戦艦ヤマト』と,同じキャストによるテレフューチャー版の『宇宙戦艦ヤマト-2』とを混同しているがために起こる誤解である。確かに,劇場版『さらば宇宙戦艦ヤマト』は多くの主役級の登場人物がたくさん死んだが,テレフューチャー版では『さらば-』で死んだ登場人物でも生き残る者もいる。そしてこれ以降制作されたヤマトの新作の映画やテレビシリーズは,多くの登場人物が生き残るヴァージョンの『宇宙戦艦ヤマト-2』の続編である。したがって,“ヤマトは一度死んだ乗組員が生き返る”と言われるのは言い過ぎであり,まずはこの誤解から解いていきたい。

 さて,今回制作された『復活篇』は,前作の『完結編』から26年を経た作品である。物語の中ではヤマトがアクエリアスの海に沈没してから17年後の世界として描かれている。実はこの間に,米国人スタッフをたくさん投入した『YAMATO2520』というOVAが途中まで制作されている。これはタイトルでもわかるとおり,西暦2520年のヤマトの物語であり,乗組員も馴染みの者はおらず,ここに登場するヤマトはシド・ミードによりデザインされたもので,もはや帝國海軍の戦艦大和の面影はない。いわば,『スタートレック』に登場する歴代のエンタープライズ号と同様な,ネームシップとしてのヤマトが登場する。このような理由から,ファンの中には,この作品だけはヤマトの正史に入れたがらない人も多々存在するようである。
 しかし今回,26年ぶりに制作された『復活篇』には,シド・ミード版『YAMATO2520』から受け継いだ良い要素もたくさんあり,結果的に『YAMATO2520』が劇場版の『完結編』と『復活篇』を橋渡ししたかっこうとなっているのは映画を見れば一目瞭然である。

 26年の時の流れは,スタッフの大幅な入れ替えをも余儀なくされた。当時ヤマトの制作に関わっていた方々で,すでに故人となられた方も多くいる。その中でもヤマトの音楽では絶対に欠かすことができない宮川泰や羽田健太郎がもうこの世にいないことが残念でならない。ヤマトの世界で魅力的なものの一つに,敵国の音楽的世界観というものがある。中でもパイプオルガンの大フーガで展開される白色彗星のテーマや,宮川泰や羽田健太郎がまるでパガニーニのように悪魔に魂を売って作ったのではないかとさえ思う自動惑星ゴルバのテーマは,おそらくわが国アニメ史上に残る敵国音楽の頂点に君臨するものであろう。
 今回新たに登場する敵国は一国ではなく,連合国で構成された“国連軍”だ。もし宮川泰が今も健在ならば,既存のクラシック音楽を劇伴にすることなく,一国ずつそれぞれに,素晴らしいスコアを書いたであろう。
 しかし,新たに加わったスタッフのおかげで,ヤマトの新しい世界観を楽しめる要素も十分にある。その中で特筆すべきは主題歌とエンディングテーマを歌っているTHE ALFEEの存在である。今だから言えるが,この作品が作られると聞いた時,主題歌を歌う候補のミュージシャンにTHE ALFEEの名が上がっていることを知って,正直に言って大きな違和感を覚えたのは事実である。「さらば地球よ~」で始まるあの主題歌は,絶対にささきいさおでなければダメだと勝手に決め付けていた私自身の中に眠る原理主義的な態度が表出した瞬間である。
 つまり,『完結編』までのヤマトの世界観は,言うなれば,昭和歌謡そのもなのだ。音楽スタッフの名を見れば宮川泰や阿久悠といった歌謡界の大御所が並んでいるのだから,当たり前である。ストーリーも,どこか日本人の琴線に触れる要素が随所にあった。そして金田伊功という不世出の作画師によって作られる質量のこもった動画は,密度の濃い昭和歌謡の世界観とも見事に符号していたのである。
 しかし,デジタル処理された『復活篇』を見た時に,そのスピーディーさやシド・ミード版のヤマトを受け継ぐような鋭敏な空間は,むしろロックがもつ疾走感や華やかさが似合う。これが意外に大発見であったことだ。悲哀に満ちた昭和歌謡,もしくは昭和演歌の世界から,ロックというカタルシスが生む空間にヤマトはワープアウトしたのである。

■SUS星間国家連合は,やっぱり「国連軍」だった
 以前は私は,『復活篇』の全容が明らかになる前に,今回の作品にはSUS(スーパー・ユナイテッド・スター)という新たな敵国が登場すると聞いて,これは「国連軍」ではないのか? という内容のコラムを書いた。(このコラムを参照→『宇宙戦艦ヤマト』 復活篇,今度の敵は国連軍だ
 スーパー・ユナイテッド・スターとは,つまり,ユナイテッド・ネイション=「国連」を想像させるということである。
 ヤマトはもともと米帝に沈められた帝國海軍の戦艦大和であったこと,それから,ヤマトも他の架空戦記と同様に,宇宙空間を太平洋に見立てて,そこで仮想の太平洋戦争を日本人視点で描く,というコンセプトも抽出できる。実際に,『さらば宇宙戦艦ヤマト』に登場する敵国の都市帝国ガトランティスは,NYの摩天楼を意識したものであるとプロデューサーの西崎義展も述べている。このような複線を考えると,どうみてもSUSは国連軍のメタファなのが容易に想像できたのである。
 そして,実際に完成された作品を見終わって思ったことは,SUS国家連合は,やはり国連軍だったということである。しかも,石原慎太郎が脚本に関わっているので,SUS司令官がマイケルムーアの『華氏911』のブッシュみたいな人殺しの悪者に描かれており,SUSから同盟を離脱する資源産出国のアマール国は,中東アラブの小国に見える。さすが,かつてシド・ミードがせっかくデザインしたエンタープライズ号みたいなヤマトを西崎義展の目の前で堂々とケチをつけた石原慎太郎だ。

■エトス軍の戦艦は大理石調のイタリアモダン
 新たな敵国「SUS星間国家連合」は,複数の同盟国から成り立つ国連軍である。美術的演出として,各国の艦船は異なるデザインで識別されている。これは単に国を識別するだけではなく,文化・文明の違いをも表現しているものだ。この要素はシド・ミード版『YAMATO2520』で試みられたことである。『YAMATO2520』では,対立する二つの文明世界が描かれていた。一つは我々地球人類を祖とする文明世界で,この世界は波動エネルギーが文明の中心となっている。そしてそれと100年以上対立しているセイレーン連邦は,モノポール文明という独自の文明と技術を持っており,生活様式も我々とは異なる。シド・ミードは,単にこれを力学的対立だけで表現するのではなく,潜在的美意識の対立として描くことに成功したのである。セイレーン連邦の居住空間は,左右非対称であり,5角形,7角形といった,我々が実生活ではあまり馴染みのない空間で構成されている。我々地球人からしたら,こんな歩くだけで眩暈がしそうな空間は,とてもじゃないが居心地が悪い。これは美意識の差異に他ならないことであり,きっとセイレーン連邦の人々にとっては落ち着く空間なのであろう。
 『復活篇』に登場する艦船も,地球文明から見れば非常に特異なフォルムをしているものばかりであるが,これは宇宙物理学に基づくリアリズムよりも,「美学」を優先させたことからくる面白さである。
 その中でも,エトス軍の艦船は白い大理石調で,今流行りのデザイナースマンションのようなゴージャスな質感をしている。その内部もまるで洗練されたイタリアモダンであり,一度でいいからこんな所に住んでみたい,というような感じなのである。

■SUS軍の連合艦隊は安藤美姫の衣装みたい
 『復活篇』では,要所のBGMは旧作からの音楽を引き継いでいるが,新たに登場した敵国SUSでは,クラシックのオーケストラ作品を多数使用している。どの楽曲も大編成の作品で華やかさもあり,SUS艦隊もそのBGMに乗って,赤と黒の色調が,刺さるような強烈なイメージを放っている。
 この雰囲気は,どこかで見たことがあるなと思っていたが,これぞまさしくフィギュアスケートの世界女王・安藤美姫のイメージにぴったりなのである。彼女の往年のライバルである,同じく世界女王・浅田真央が精錬かつ可憐なのに対して,安藤の作り出す空間は,妖艶かつ鋭敏なイメージである。SUS艦隊の雰囲気は,安藤美姫がフリープログラムで身にまとう衣装の雰囲気にそっくりなのだ。ラストに時空の壁を突き破って登場するSUSの巨大潜宙艦は,浅田真央の浮遊感あふれるジャンプとは対照的に,突き刺さるような鋭敏なジャンプを飛ぶ安藤美姫を彷彿とさせるのである。

■やっぱり白色彗星の方が強そうだ
 見どころ満載の『復活篇』だが,ふとここで,SUS国家連合の眼前にあの白色彗星ガトランティスが登場していたら,どちらが強いだろうかと,楽しいことを空想してしまった。銀河系に展開する艦隊規模から判断すれば,SUSは他国を凌駕する一大勢力であることはわかる(何しろ国連様だからな!)。しかし,映画におけるセンス・オブ・ワンダーすら持ちえている彗星帝国の方が圧倒的に強そうに見えるのは私だけであろうか。あの上空から威圧するような絶対的和声で書かれたパイプオルガンの大フーガとともに我々の頭上に現れる彗星帝国は,我々に何度も何度も絶望的な思いを抱かせてくれた。彗星帝国にあってSUSにないのは,この「絶望感」なのである。それは,『ウルトラマン』の最終話に登場したゼットンに対し地球人類が抱いた絶望感とも似ている。つまり,ヤマトでもどうにもならないという「絶望感」がSUSには今のところないのである。
 今回の『復活篇』第一部に登場したSUS軍の連合艦隊は,その尖兵部隊なのであろう。その背後には何者が控えているのかはまだ明らかにはされていないが,今度こそ我々人類を絶望の淵に叩きこんでくれるようなラスボスを26年ぶりに見てみたい。

 何かと賛否両論が予想される『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にあえて点数を付けるとしたら,私は75点だ。
 それなりに楽しんだので,DVDが出たら買う予定である。次回作も必ず見に行くだろう。来月はメルボルンから友人らが来日するので,映画館に見に連れて行く予定である。ついさっき,この友人らにはAri Mailにて復活篇のフライヤーDVDを送ったところである。

■井上リサの書き下ろしヤマト・コラム
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20. Juli 09

【プレス試写会】 脱出ゲームTHE MOVIE 『大脱出!』(渋谷UPLINK X)

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 現在モバイルサイトで話題になっている脱出ゲーム「脱出ゲーム@ガットメール」からスピンオフ企画で生まれた11本のショート・ムービーからなるオムニバス映画である。
 上映時間各10分のこの作品は,主に自主映画やコンペなどで実績を重ねてきた若手監督たちが,スピンオフの発端となった脱出ゲームの中の密室という空間を,独自のフォーマットと映像表現で描いている。
 ここに表された密室とは実に様々で,学校,幼稚園,ライブハウス,Barといった具体的空間から,霊界の想念に閉じ込められた人物,面接試験会場に通う人物,事件現場から脱出できない人物,追いかられる人物といった具合に,空間の展開は変化するものの,登場人物たちが状況的に拉致監禁されているような密室空間まで登場する。短編作品として10分というほど良い尺の中で繰り広げられる世界は,そこに一応の起承転結は存在するが,例えば,タモリがストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』と同様に,実際には完結しない不条理劇という内容となっている。
 密室空間というと,我々が普通に想起するのは,事件性の高い非日常的な状況であろう。しかしこのオムニバス・ムービーを見る限り,その空間といい状況といい,特に取り立てて特異な状況ではなく,我々が普段生活している日常空間でも十分に起こり得る状況である。例えば就職の面接会場が舞台の河村康平監督の『ROOKIE YEAR』や都会のコーポが舞台の新垣一平監督の『たぶん悪魔が夜来る』などは,まさに現代に暮らす我々が,毎日特に変化もなく,しかも特にクリエイティヴでもない凡庸な日々を送っている中で,その空間のわずかな歪みに落ちた時に体験するような悪夢であろう。
 また短編の不条理劇でやはり面白いのは,そこに登場する人物や場所や物の匿名性にある。まず10分という尺の中で登場人物たちの複雑な複線を張る必要はない。この空間を舞台に例えればその構造が明快になるが,唐突に画面に現れる人物たちはタモリと同様のストーリーテラーなのである。このストーリーテラーの案内によって彼らが体験した不思議な空間を我々は追体験するのである。したがって,場所も名前もたぶんこの世界のどこかにマジョリティーとして存在する不特定多数のものであり,そこにブラックホールのように存在するその密室は,匿名としてのその広い間口から,最終的には我々個々の様々な時代・履歴・背景へと繋がっていくのである。
 連続少女誘拐事件を題材にした吉田雄一郎監督の『NO MERCY』という作品では,想像するに,北関東近辺の寂れた地方都市の新興住宅地を相対化するような空間で物語が展開されていく。日中でも人を滅多に見かけることはなさそうなこの場所は,事件が起きたとしてもそれを外に知らしめる手段もないので,高台から眼下に広がる風景も含めて,ここの場所は十分に密室と言えるのである。伊藤裕満監督の『Honey Moon』は,事件現場から逃避しようとする者たちの話だが,この場所もまた,吉田雄一郎監督の作品で描かれていたような,その場所が特定できないような匿名性のある町である。こういった空間で展開されていく物語は,そこの場所を特定できるランドマークをまったく登場させないことで,見ているものを不安にさせるのである。この感覚は,例えばNHKアーカイブや60年代,70年代のテレビドラマ,特撮ヒーロー番組などで映る過去の風景の映像を見て,ノスタルジーを感じつつも,今は変わってしまった風景やそこで暮らしていた人々の情念うずまく世界に不安をかられるのと同様である。
 ここまでふれた作品は,空間や状況で密室というものを描いてきたが,最後に上映された金子雅和監督の『こなごな』は,これとは少し異なった面白い方法で密室的状況を描いていた。
 『こなごな』は,2人の男女が目の前で顔を合わせながらも携帯電話だけで会話をするという特異なコミュニケーションをとる。画面には実際の男女の会話ではなく,携帯メールで送信されたテキストのみがセリフとして羅列されていく。この状況の中で,人間がその身体性の発露である「肉声」を持って目の前の人間と有機的かつ,様々なノイズが入ったアナログ的な関係を持つという原初的な行為まで否定しているのである。
 昨今,子供時代から兄弟ごとに個室を与えられることがスタンダードになったのを一つの象徴として,このような他者との関わりを拒絶するかのごとく,自分と部外者の境界が明確な空間を公的空間でも無意識に求めるような状況が見て取れるようになってきた。電車の中で,まるで自分の部屋にいる時と同じように堂々と化粧をする女性,同じく通勤電車の座席で菓子や弁当を食べる中高生,日中から車内で吊革につかまったまま焼酎を飲む作業服の労働者,そして友人たちと食事中も目の前にいる友人を無視して携帯電話で他の友人と会話をする人間など,こういった人々の公共空間における特異な行動の病理は,過剰なストレスから身を守る自衛手段として極端に内面に自閉した結果生まれてきたものであるか,あるいは,彼らにはもはやパブリックという概念は存在せず,その代わりにいかなる空間であっても自分のルールに即した「個室」だけを求めてきた結果生まれてきた状況とも言えるであろう。
 金子監督の『こなごな』は,一見すると若い男女のありふれた日常を描きつつも,その不安定な距離感で生じた互いのストレスがラストへの狂気の展開に繋がっていく。金子監督の作品は,これまで短編の『那美の瀬』,そして長編の『すみれ人形』を見てきたが,ここに登場する人物たちはどれもこれも他者に操られた生き人形のようであり,それがもはや簡単に身体の断片と化してしまうような描き方は金子監督の映像表現の特徴ともいえる。今回の短編『こなごな』も,ラストで密室という空間を人間の身体内部に閉じ込めたのも面白い映像表現である。人間の身体内部で青白く発光する携帯電話の光源がとても美しい。

 『大脱出!』は,モバイルゲームという限定的な空間から映画へとスピンオフされた作品である。ゲーム,アニメーション,漫画といったわが国のコンテンツ産業が世界から注目を集めて久しいが,モバイルゲームからインスパイアされたクリエイターが11人集まり,彼ら独自の映像表現でゲームの世界を広げていく試みは,閉塞空間を切開し,そこに新たなバイパスをインスタレーションするような行為である。そしてその新たな回路として増設されたバイパスがゲームという限定されたコンテンツの,文字通りの“脱出口”となっているのである。
 一般公開は今年の秋の予定。その際にはAプログラム,Bプログラムと二部構成で上映を分ける予定だが,私は個人的に11本このまま連続で上映した方が,このプロジェクトの企画コンセプトを満たすのではないかと考えている。つまり,日常におけるあらゆる不条理な出来事が連続して起こり,その不条理な状況が解決することもなく集積されていくわけだが,そこで全作品の上映が終わってようやくこちら側もこの迷宮から脱出できたという実感がわいてくるような,インタラクション・ムービーともいえるものだからである。それには,1時間50分というボリュームはけして長すぎるものではない。むしろこれぐらいの長さがあって,しかも全く作品の質が異なる作品が11本並ぶことは,観客を飽きさせることはない。

『大脱出!』 上映作品リスト
西山洋市監督 『勝手に逃げろ』
尾畑信輔監督 『ネオ・モラトリアム』
河村康平監督 『ROOKIE YEAR』
山田広野監督 『未完成の絵』
遅塚勝一監督 『LOST SONG』
吉田雄一郎監督 『NO MERCY』
伊藤裕満監督 『Honey Moon』
寿時利夫監督 『教室』
永澤杏奈監督 『(無題)』
新垣一平監督 『たぶん悪魔が夜来る』
金子雅和監督 『こなごな』

■モバイルゲーム『脱出ゲーム@ガットメール』■
www.gotmail.jp

■『大脱出!』 公式サイト■
www.daidasshutsu.com

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