医学史

27. Februar 11

【講演】 『輸液史を築いた小児科医たち』(2011年2月22日,国立成育医療研究センター)

Photo_3

 先週の22日(火),成城にある国立成育医療研究センターの講堂で,輸液の歴史についてレクチャーをさせていただいた。
 国立成育医療研究センターは日本で最も規模の大きい先端的な小児科専門の医療センターで,各科診療部,外来救急部に加えて,障害児の療育施設も備えている。その景観は,東京郊外の街の中にマンモス団地か,あるいは学園都市があるような雰囲気で,隣接する空間に対しても開放的な都市設計がなされている。
 このような外界に対する開放的な医療空間の設計は,近年,患者側や街からも求められてきた空間である。患者,障害者,高齢者が社会から孤立してしまう原因の一つとして,その医療空間,介護空間が街の中で閉鎖的空間を作っている事も挙げられる。つまり,ここへ通い,またはここで生活する病者にとっては日常の空間であっても,病者ではない者にとっては「非日常空間」なのである。
 この「日常」と「非日常」という空間の関わり方の差異によって,両者の間に見えない壁を作っている。そこで,外界との境界線にグラデーションを設ける事により,その療育空間が「閉じた」アウトサイダーなものではなく,こちらに向かって開かれたバリアフリーな空間となるのである。
 ジャン・ウリやフェリックス・ガタリによる地域精神医療運動の臨床の舞台となったフランスのラ・ボルド病院もこのような設計である。また,一昨年,全米で賛否両論話題をよんだ精神科病院が舞台の医療ドラマ『MENTAL』に登場するウォートン記念病院も,柵の無い庭をコモンスペースとするバリアフリー設計である。

 私が今回レクチャーを賜ったのは,輸液の歴史を通して小児科医療と公衆衛生の発展を振り返る内容のものだ。
 輸液の歴史に名を残した代表的医学者,リンガーハルトマンギャンブルバトラーダロウ,そして高津忠夫らは全員小児科医である。これは偶然ではない。歴史的に考察しても小児科医療の中で輸液が発展していった必然性が十分にあるのである。
 輸液による効果が初めてエビデンスのもとに提示された最も古い記録が,リースの医師トーマス・ラッタによるものである。1832年ラッタは,英全土に広がりかけていたコレラの治療に際し,0.5%塩化ナトリウムと0.2%重炭酸ナトリウムをコレラ患者の静脈内に大量投与し,症状が回復した事をLancetに報告している。
 これから月日が流れ,リンゲル液を発明したリンガーの登場で,小児科医たちの活躍の舞台が幕を開くのである。

 輸液の歴史を理解する上で,以下の5つのフェーズが基本となる。
1.術式の発達(外科学)
2.器具の開発(外科学)
3.薬剤の開発(小児科学)
4.輸液理論の確立(小児科学)
5.輸液技術の臨床現場への普及 (小児科学,内科学,公衆衛生学)

 これをみても分かるように,静脈確保などの術式,器具の開発以降の輸液の歴史は,小児科学がリードしていく事になる。
 それには以下のいくつかの理由がある。

1.19C~20C初頭にかけての乳幼児の死亡率が高かった。(疫痢,赤痢,その他栄養不良)
2.乳幼児の脱水は,成人の場合よりも危篤になるケースが多い。(感染症による下痢,発熱,嘔吐)
3.小児科医は乳幼児の脱水の症例に多く触れる事により,脱水改善の研究が進んだ。

 このように,小児科医が輸液の適用となる様々な脱水症の症例に多く触れる事により,まずは小児輸液の歴史からスタートしていったのである。
 さらにこれに付け加えれば,リンガー以降の近代の主たる小児科医達が米開拓移民の一族であることから考えて,彼らのフロンティア精神も多少なりとも影響しているといえよう。

 さて,今回私がレクチャーを賜ったこの国立成育医療研究センターでは,月に一度,様々な分野から講師を招き,研修会を行っている。私が登壇させていただいた輸液史のレクチャーもその一環である。
 近年,公立私立に関わらず,文化的行事や教養プログラムを積極的に企画,開催する医療機関が少しずつではあるが増えてきている。壁やフリースペースを利用した絵画や写真展,ロビーでのコンサート,詩の朗読会などが多い。
 これららのものは総じて患者や近隣地域住民に向けて開催されるものが多い。しかしそれだけではなく,病院で働く医療スタッフにとっても大切な事である。
 なぜなら,医師,看護師,介護師その他医療スタッフが一人の患者と接する時,その一個人の背景にある歴史,民俗,共同体,生活史といった文化的差異を理解することから臨床が始まるからである。そのためには,専門領域に隣接する周辺領域,またはまったく異なる学問,芸術,文化に触れる機会は,患者への異文化理解(特に小児科,精神科)の為には必要な事だからである。
 当日の私のレクチャーでも,忙しい診療の合間をぬって,多くの医療チームの皆さま方ににおこしいただく事ができたのも,日本の小児科医療の最先端で仕事をされる方々が,専門分野だけではなく,日頃から異文化,周辺領域に高い関心を持ち診療にあたられている様子がこちらにも伝わってきた。

■国立成育医療研究センター
http://www.ncchd.go.jp/

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

27. Juli 10

【書評】『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』(京都大学学術出版会)

Photo

 ここ近年,相次いで日本人ノーベル賞学者が誕生したり,先頃の惑星探査衛星「はやぶさ」による世界的快挙などもきっかけで,わが国の科学技術に対する関心が高まっている。NHKが戦後の日本の半導体技術開発を追ったドキュメンタリー『電子立国日本の自叙伝』を放送したのが今からちょうど20年ほど前。この時代は日本のリベラル悲観論者達からは「失われた10年」などと言われつつも,わが国の科学技術,産業技術はグローバル・スタンダードの中で常に高い水準を保ってきた。この時在欧中だった私のもとにも,世界を席巻するジャパン・ブランドの勢いは十分に伝わってきたのである。
しかしこれは何も今日的に達成されたものではなく,例えば麻生太郎の著書『とてつもない日本』(新潮新書)の中でも述べられているとおり,古来よりわが国が連綿と紡いできた技術,伝統,文化の絶え間ない蓄積により形を成したものなのである。
 医学の分野も例外ではない。戦後直後の1950年代から,わが国は再び目覚ましい発展を遂げていく。しかし残念ながら戦時中の資料の中には紛失,焼失してしまったものも多く,この事が,多岐に及ぶ医科学研究分野を近・現代史として俯瞰する際の困難な状況を生んでいる。
 本書『サイトカインハンティング』は,免疫学の分野で世界の最先端のフィールドで戦った,いわば先駆的メジャーリーガーみたいな日本人科学者達の物語である。

 表題にあるサイトカインとは,免疫細胞から分泌されるタンパク質のことで,これまでに数百種が発見されているが,今日の研究者たちによっても新たな物が続々と発見されている。サイトカインの研究は,いわば密林をかき分けて新種の昆虫を発見しに行くような途方もない行為であり,これを追い求める医学者達の目が,時としてハンターの目に豹変するというのは容易に想像がつく。

 免疫学分野は先に挙げた産業開発技術に比べると,抽象的すぎて一般的には馴染みが薄いかもしれない。しかしその概念の歴史は古く,「牛痘法」で有名なジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)の時代にまで遡る事が出来る。
 1796年,ジェンナーは,生まれ故郷のグロスタシャーの農村地帯で古くから農民の間で伝わる伝承――すなわち,「牛痘に一度罹った者は,それより重い天然痘には罹らない」というものを科学的に実証するために,牛痘患者の牛痘疱から採取したリンパ液を健康な少年に接種し,その効果が確認されると,村人に集団接種を行った。そして彼が表した有名な書物が『牛痘の原因及び作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae)である。これがワクチンの始まりである。

 興味深いのは,ジェンナーの発想の源泉が,科学とは程遠いはずの民間伝承を契機としたものであるという事である。わが国においても和名に充てられた「疫」という字は,かつて各地の村落共同体で伝承されていた疱瘡神信仰をも含む「疫病神」と同じである。村落共同体では「病」をカミサマとして祀る事で「病」封じを行った。年に一度の「祭り」では,その「病」のカミサマと交わる事が,いわば「通過儀礼」=すなわち,ワクチネーションであったのだ。それを思えば壮大な物語性をもって捉えることも可能である。

日本インターフェロン・サイトカイン学会編
『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』
(京都大学学術出版会)
【目次】
第1章 プロローグ
第2章 インターフェロン
第3章 インターロイキン-2
第4章 インターロイキン-3,-4,-5
第5章 インターロイキン-6
第6章 IL-12とIL-18
第7章 ケモカイン
第8章 G-CSF,Fas
第9章 遺伝子改変マウス

----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
---------------------------------------- 

| | Kommentare (2) | TrackBack (0)

11. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(2) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 一通り採点の終了した学生の最終レポート(「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」)をもう一度読み直している。奇想天外な内容も多いのだが、今日の医療、特に精神医療や難治性疾患患者のターミナルケアに対しての示唆に富んだものが多く、2010年度の集中講義の中でもフィードバックしていきたい。
 今朝再び読み直したのは、サンクト・ガレンという空間を病院と隣接した多目的スペースとして設計し、病院を取り巻く環境をコンパクトシティとして見直していくという内容のものだ。

レポートタイトル:「病院の隣の小社会」(デザイン学部デザイン学科1年)
 ここでサンクト・ガレンに担われた空間的役割とは、入院患者や障害者の日常的生活を全てサポートするオルタナティブ・スペースである。設計書を参照すると、まず礼拝堂正面に当たる吹き抜けの空間がインフォメーション・センターとなっている。中央の空間はギャラリーになっており、キッズスペースと休憩所を隔てた最後部にはミニシアターが設けられている。中央のギャラリー・スペースを中核にして、この他には作品制作用のアトリエ、画材店、書店、メディアショップ、ウェアショップ、ネイルサロン、コスメサロン、フードコート、クッキングスペース、そして野外には植物園が設置されている。
 ここに設けられた空間は、人間が最低限、文化的生活を営むために必要なものである。近年までは、病人や障害者となった途端に、治療やケアのためのアメニティが優先されるため、生活における文化的要素、創造的要素を担う部分は「制度」の中で必然的に削除されるケースが多かった。しかし、病人や障害者のノーマライゼーションという事を考えた場合、例えば介助者、介護者視点での機能性を重視したウェアだけではなく、それを身につける病人や障害者の目からみて、ファッション性を重視したウェアがあってもいいわけである。
 具体的な事例を挙げれば、介助者を必要とする障害者が着用しているウェアは、これまではボタンが大きめのものが多かった。これはウェアの着脱の際、小さくて細かいボタンよりも大きいボタンのほうが作業がし易いからである。また女性であっても髪が短く散髪されているのは、単に衛生的というだけではなく、やはり頭髪の手入れに手間がかからないからである。これをそのまま健常者たる人間に相対させたらどうなるか。このような状況に納得するものは誰もいないであろう。今日ではこのような観点から、病人や障害者であってもそれぞれのライフスタイルやファッション的志向を重視したウェアも製造・販売されるようになってきた。
 このレポートで設計書の中に設置されたウェアサロン、ネイルサロン、コスメサロンなどは、病人や障害者の日常生活において、文化的側面を担うものの一つである。この他にも、劇場、映画館、書店などが併設されており、ここで全てのものが賄える仕組みになっている。この空間概念は、近年、主に限界集落といわれる過疎地において構想されているコンパクトシティとも類似している。町の中の居住区から歩いて行ける距離に学校、役所、病院、公園、その他文化施設を収めた都市計画の事である。少子高齢化が進む中で、住み慣れない都会へ移住するのではなく、住み慣れた街を最後の住処にと考えている集落居住者が増えてくれば、このようなコンパクトシティが実際に増えて行くであろう。歴史を遡れば、ギリシャの都市国家ポリスこそ、ステディウム、コロシアム、ホスピタルという空間をひととこに集結させたコンパクトシティの先駆けであり、この空間では病人も他の市民と一緒に暮らしていたのである。
 学生はこのレポートの中で、この計画の趣旨として、病人、障害者の日常生活におけるノーマライゼーションと、精神的ケアをあげている。ノーマライゼーションについては先ほど述べたとおり、人間が文化的生活を送るために必要最低限な空間やアイテムを用意することで解決を試みている。次に重要な精神的ケアは何によってなされるのかといえば、ここでアートの要素が立ち上がってくる。ギャラリーは、単にそれだけでは鑑賞用の空間にすぎず、病人や障害者、そしてここを訪れる市民たちが能動的に参加する空間には至らない。それを補完するかたちで、アトリエとクッキングスペースが用意されている。アトリエの設置については当たり前に必要なものであるが、むしろクッキングスペースという空間が提示されたことが興味深い。
 この空間は、病院ならば入院患者用の調理室に相当する空間であろう。それがここでは、病人、障害者、市民が利用できるスペースとなっている。入院生活における「食」の要素は、入院生活の根幹を支えているものでもあり、「食」の要素の充実は、そのまま入院生活における充実にもつながる。そこに市民のサポートを受けながら病人や障害者が関わる事によって、「食」という一連の「命」をつなぐ行為の中に、単調な入院生活の中で希薄化・記号化された身体性を再構築するわずかな可能性もみえてくる。
 また、料理はもともとアートと並んで創作的な行為であり、この部分において、命を支えるという医療の要素と、料理を作るという創作的な行為が融合することとなる。またそれだけではなく、病人ならば日常生活へ、そして障害者ならば地域の中での自立した生活に向けてのトレーニングの機会ともなるであろう。
 その他、この空間における有機的な要素としては、植物園が設けられていることである。他の学生の今回のレポートでも、庭園や家庭菜園などを併設する空間設計を提示したものが見受けられるが、いずれもグリーンツーリズムを意識したものである。植物を通して四季を演出し、様々な植物が見せるであろう萌芽、結実といった生命サイクルは、医療システムの中で一律に計量化された患者の身体に、生命力の存在の根本を改めて投げかけることになるだろう。

----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

10. Februar 10

【医学史】 都議会議員・土屋敬之氏が語る『ヒポクラテスの誓い』(ブログ「今日の“つっちー”」より)

 元民主党の都議会議員にして,今や行動する保守政治家のオピニオンリーダーとして国憂う国民からも人気が高い土屋敬之さんが,2月7日付のブログの中で『ヒポクラテスの誓い』を引用するかたちで,自らの生死観や尊厳死,終末期医療のあり方について語っているのに目を惹いた。
 土屋さんは“つっちー”の愛称で親しまれている保守政治家であり,民主党結党当時から民主党に所属していた議員である。当時,土屋さんと意を同じくしていた民主党の仲間たちは一足先に党を飛び出して,今は自治体首長となって活躍されている。そして最後まで残っていた土屋さんも,昨年の街頭演説会にて,“民主党をぶっ壊す!”“機動隊のバリケードを突破して,本会議場に突入するぞ!”との発言が不味かったのであろうか,ついに民主党から除名されてしまったそうだ。しかしその事で萎むどころか最近ますます行動的になっていく土屋さんの人気は上がる一方である。
 「今日の“つっちー”」と題したブログは,土屋さんの一貫した保守政治理念に基づく政策の提言,政局の分析が主たる内容だが,2月7日に目にした記事の内容だけは,今までのものとは明らかに雰囲気が異なる。冒頭からいきなり『ヒポクラテスの誓い』で始まるこの日の日記はかなりのインパクトである。今まで土屋さんのブログを毎日読んできた者にとっては,一体何事かと思うであろう。

 『ヒポクラテスの誓い』は今更説明するまでもないが,古代ギリシャの医学者ヒポクラテスが,医術を学ぶ弟子たちに医道について説いた言葉であり,これが後に彼の弟子たちによって「宣誓」として継承されていった。土屋さんのこの日のブログに貼られている蛇と杖のアイコンは,ギリシャ医学のシンボルであり,ギリシャの医神アスクレピオスが手に持っているものだ。杖に絡みつく蛇は「癒し」「医薬」の象徴である。このシンポルは今日でもWHOをはじめとする医療機関も採用している。(因みにスタートレックに登場する宇宙船の医療室のガラス窓にもこのシンボルが描かれている)
 私も大学の講義では一番最初の講義の中で,必ずこの『ヒポクラテスの誓い』と,蛇と杖のシンボルの意味について学生らに教えている。
 ヒポクラテスが言ってる事は,現代の我々にも通じるところが多々ある。もちろん後のルネサンス以降の医学によって,彼の唱えた説の中には科学的に覆されたものも存在する。例えばアリストテレスやガレノスも採用した「四体液説」が最も有名な例だ。「四体液説」というのは,人間の体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液が存在し,そのバランスを欠くことで人は様々な「病」になる,と考えるものである。これは後にレオナルド・ダヴィンチによる人体解剖学やハーベイの血液循環説によって覆されるが,理念そのものも否定してしまうものではない。「四体液説」は身体のとらえ方の一つの認識であり,この認識は意外にも古来の和漢医学にも繋がるものでもある。つまり人間の身体の有り様を「バランス」で認識したものであり,人間が健やかに暮らすには何事も「バランス」が大事であると考えるのは現代の我々でも同様である。

 さて,土屋さんがこの『ヒポクラテスの誓い』をどのように捉えているのかというと,弟子に医道の理念を説いた誓いについては基本的に賛同はするものの,現代医学の状況――例えばそれを取り巻く終末期医療の問題,尊厳死の問題,介護の問題などを想定していないヒポクラテスの言う事は,今日においては必ずしも万能ではない,とのことである。確かに,もともと『ヒポクラテスの誓い』は,古代ギリシャでは「神」に存在が近かった医学者がギリシャの医神に誓ったものである。翻って今日,土屋さんが言うように,「神」から「人間」となった医師にとっては『ヒポクラテスの誓い』だけではフォローできない問題の方が多いのである。それを何によってフォローするのかを考えるのは政治家の仕事でもある。

 政治家が自分の生死観について語るということがそんなに異例な事かといえば,そうではない。むしろ本来ならば,政治家こそが率先してこのような人間の哲学の根本に関わることも国民に語るべきなのである。近頃,理念無き政治家が多いと言われるのは,何も巨額の脱税や政治資金規正法に抵触するようなことをやっても平然としているような輩がいるからではない。そんなことは表層の問題にすぎない。誰とは具体的には言わないが,政治家の言葉の中に哲学や美学が一向に見えてこないから汚い部分だけが目立って仕方がないのだ。
 今まで政治家が政治の場で自らの人生観,哲学について語った例としては,「がん対策基本法」(平成十八年六月二十三日法律第九十八号)の制定に尽力した故・山本孝史参議院議員のことが思い出される。山本議員は自らが癌に冒されたことで,わが国の癌患者を取り巻く状況があまりにも過酷であることを目の当たりにして,癌における予防医療や癌患者における様々なQOL向上のために超党派で「がん対策基本法」をライフワークとして取り組んだ。
 2月7日のつっちーブログを読んで,土屋さんが山本孝史さんと同じ状況にあるのか否か,あるいは,何らかのきっかけがあって,改めて自分の生死観,医療のあり方について提言されたのかは定かではない。しかし,文章の行間からは,まさに文字通りの「政治生命」を賭けた重大な誓いであることは読み取れるのである。
 今後,土屋敬之という一人の政治家が,『ヒポクラテスの誓い』の理念をどのように「言葉」と「身体」で体現していくのか,私も注視していかねばならないだろう。(※この記事を書き終わった後,土屋さんのブログは『尊厳をもって死ぬ権利・追加版』として加筆,更新されていた。2月10日に書き改められた記事は,さらに深い内容となっている)

都議会議員・土屋敬之公式ブログ「今日の“つっちー”」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/

----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

08. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(1) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 芸術療法講座の2009年度最終レポートをようやく読み終わる。2009年度の最終レポートは,「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」
 芸術大学の学生だけあって,奇想天外な内容のものが多い。最終レポートを取り組むにあたってのガイダンスでは,サンクト・ガレン修道院のもっとも有名な復元図を学生に渡し,これを叩き台にするように説明した。また,古代ギリシャのポリスで誕生したホスピタルという空間が,いわゆる病院の機能を備えた近代的ホスピタルへと分化していくプロセスで,修道院という空間が大きな役割を持っていたことをもう一度振り返り,その象徴としてサンクト・ガレン修道院という空間が存在していることを説明した。
 学生がこのサンクト・ガレンという空間にどのようにアプローチしていくのかも重要であるので,詳しい情報についてはあえて解説していない。したがってこの空間の図書館の設計が非常に特徴的であることなども,学生自らがこの空間について文献をたどるなりして知り得ることである。

 それでは,最終レポートの中で,奇想天外な発想をしながらも,今日的な医療システムなどの問題に深くアプローチしているもの,講義の内容を集大成としてよく理解しているもの,アートの側から医療現場に対して問題を具体的に提起したものなどを順に紹介していく。

レポートタイトル:「ガレンピック」(デザイン学部デザイン学科2年)
 これは,サンクト・ガレンを障害者,病人,市民のための五輪会場にする,という奇想天外なプランである。この学生はまずこの発想にいたった理由として,サンクト・ガレン平面図を最初に見た時に,陸上競技のトラックをイメージしたとある。そして次に,芸術療法講座集中講義の中で見た障害者プロレス「ドッグレッグス」の試合の映像を思い出し,ここの空間を患者と市民のための五輪会場にしようという結論にいたったそうである。
 ここでは「患者」「市民」「障害者」がバリアフリーな空間でコミュニティを形成していく可能性を示唆している。この「ガレンピック」なる五輪大会は市民により作られる五輪であり,その市民の中には病人も医療従事者もそれぞれ役割をもたらされて参加することになる。つまりこの空間では通常の医療空間,または介護空間における「医師」-「患者」,「介護者」-「利用者」(障害者)といった転置が不可能な硬直した関係があるのではなく,市民一人一人が対等に役割を与えられている,ということが重要である。競技に参加できない者は運営委員となり,大会マスコットやポスターの制作といった仕事も与えられている。また,すべてが自治体予算による市民の手作りであるので,この類の街のイベントを喰いものにする起業塾系NPOや広告代理店は一切介入できない仕組みとなっている。つまり五輪に参加する市民一人一人がスポンサーなのであり,近代五輪の基本的精神に立ち返ったものである。

 具体的な競技についてだが,陸上,近代五種,格闘技などである。それぞれ身体の障害によって階級分けされて競技が行われる。このフォーマットはドッグレッグスの世界タイトルマッチで採用されているものだ。もし肢体が不自由な者と健常な者が戦う時には,健常な者の肢体は拘束具で同じ条件に拘束される。そして残存する自由な身体で身体性のポテンシャルの限りを尽くすという戦いになる。会場には天皇や各国首脳のために貴賓席も設けられているので,事実上の天覧試合のようなものが展開されるのであろう。
 障害者の格闘技は,視野狭窄した道徳論からは,“障害者を見せ物にしている”という理由で批判の対象となるが,古代ギリシャまで遡れば,格闘技そのものがサーカスと同等の見せ物であったわけで,そのような興行的なことを障害者が行った時だけこのような批判がもっともらしくおこる事こそ,人間のポテンシャルを無視した障害者に対する差別とはいえないだろうか。

 サンクト・ガレンという空間をこのような身体表現によるバリアフリーなコミュニティに設計したこのレポートは,障害者医療にとどまることなく,多くの示唆に富んでいる。まず第一に,平面図から陸上競技のトラックを発想するという感覚は,芸術大学の学生ならではの感性ではないだろうか。そしてトラック競技からイメージを広げていき,最終的には古代ギリシャ的な五輪までに発想がたどり着くあたりに必然性を感じる。
 学生らが今回取り組んだ最終レポートは,大きくわけて二つの方法論が存在する。その一つは,サンクト・ガレンという空間を美術史的に,あるいは医学史的に定義づけ,その概念から空間設計を試みたもの。そしてもう一つは,例えば「ガレンピック」のように,平面図そのものからビジュアル的に発想を得て設計されたものである。双方の論の展開はまったく異なっているが,講義の大きなテーマである「医療」と「アート」,または「医学」と「芸術」,その関係性の中にあらたなコミュニティを形成していくという試みに挑んだ痕跡が充分に読み取れるものである。

Twitter_logo_header
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

21. Januar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生から最終レポートが届く~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 名古屋芸大の芸術療法講座を履修している学生らから,今年度の最終レポートが届く。
 今回の最終レポートの演習テーマは,サンクト・ガレン修道院平面図をモデルにしたコンセプトワークである。
 サンクト・ガレン修道院は,オテル・デュと並び,いわゆる医療施設としての近代的ホスピタルが形成されていく過程において,医学史の中では象徴的にして非常に重要な空間である。今回は,この平面図を叩き台にしてエスキースを作成し,「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」を設計する,というものである。
 つまり学生らには,このサンクト・ガレン修道院という空間を,博物館や美術館のキュレイターとなったつもりで現代的に設計し直すという試みにトライしてもらった。
 どのような空間として設計し直すかはまったく各人の自由である。壁面や支柱を改変することも可能である。場合によっては新たな空間を増設するのもよい。ただし,その空間が演習テーマのとおり「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」の要件を満たしている必要がある。この根拠を示すため,学生らには設計図のエスキースの他に,コンセプト設計のための「計画書」も4000字にまとめて提出してもらった。
 学生らから手元に届いたレポートを順にざっと素読みしてみたが,こちらが思っていたものよりも,かなり内容の高いものが集まったように思う。中には,実際に制作した簡素なマケットを写真に撮り,エスキースを起こしたものや,再設計されたサンクト・ガレン修道院が,街の中ではどのような空間に位置しているのか等を考察するレポートもあった。また,昨今,「笑い」と「医療」の関係性が注目されているということに鑑み,サンクト・ガレン修道院にM-1上位入賞者を招待し,そこで「お笑いライブ」を開催して患者と市民に「笑い」を提供するといった奇想天外なプランまでいろいろと多かった。
 なお今回の課題は、土木・建築コンペにおける空間設計のプレゼンテーションという形式をとっているが、創作性、それから自由な発想の実験を試みてもらうために、あえて計画案の予算計上までは求めなかった。目的はあくまでも「医療」と「アート」が融合可能な市民空間の模索である。そのためであろうか、どの計画案も自治体予算だけではまかないきれない莫大な予算がかかるものとなったようだ。

 学生らが試みた設計案は以下のとおりである。
「安らぎのある空間設計」
「医療現場で市民と患者がアートを楽しむ空間」
「サンクト・ガレン修道院らくがき計画」
「サンクト・ガレン大浴場計画」
「芸術表現のための施設設計」
「絵と写真の壁のある空間」
「精神の安らぎ空間」
「音楽と絵のある空間設計」
「修道院的空間と展示会」
「ガレンピック」(サンクト・ガレンを五輪会場にするという計画)
「ガラス張りの病院」
「アートが万能薬」
「院内アート」
「受け入れる未来」(人の「死」を自然の摂理として受け入れるという空間)
「楽しい病院」(映画、音楽、アート施設が融合したシネコンのような空間)
「文化祭開催計画」(患者、市民、医療スタッフによる共同開催)
「音楽とふれあい空間」
「人から人への思いを素直に表現する空間づくり」
「患者と市民が掲示板などを通してフォローし合う空間」
「アトリエであるギャラリー」
「市民によって作られるアート空間」
「図書館をモチーフにした医療空間」
「心の芸術診療所」
「ペイシェントネットワークによる『医療』と『アート』の融合」
「理想的な葬儀から考える『生』と『死』、『命』について」(サンクト・ガレンを多様な葬儀空間として設計するという計画)
「病は気から」(本棚を中心としたインスタレーション)
「笑いをおこせ」(サンクト・ガレンでコメディを上演するという計画)
「明るいポップな病院」
「芸術作品のある病室」
「五感を利用したアート空間」
「作品の隠された美術館」
「自然とふれあう庭園空間」
「笑いと医療」(サンクト・ガレンでお笑いライブを開催するという計画)
「視覚的効果を利用した絵画のある空間」
「無意識から生まれる世界のある空間」
「悲しみよりほほえみが多い病院空間」
「みんなの家~個性を認め合う空間」
「医療と芸術の繋がる空間」
「芸術大学と医学大学が融合した空間」
「夜の静かなコンサート」
「患者と市民のための多目的ホール」
「4つの循環型アート」
「気軽にいけるアート空間」
「つながりあう。ふれあう。あたたかな病院」
「患者と市民たちとの交流をはかるための病院」
「アルツハイマーに特化した創作活動空間」
「アートを楽しむことで心を癒す公共施設」
「絵画カラーセラピー空間」
「病院の隣の小都会」
「医療器具によるインスタレーション」
「アート・カフェ」

そして、以下が「書式」である。

名古屋芸術大学 芸術療法講座 「美術史から考察する疾病論・医学概論」
「サンクト・ガレン修道院」平面図を題材とした演習
―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―

【概要】
別紙に示したサンクト・ガレン修道院の平面図を参考にして,「医療」と「アート」が理想的に融合すると考えられる患者と市民のための空間を設計,または演出をして下さい。

【書式】①「計画書」
設計,または演出する空間についての具体的な計画の内容,コンセプトを400字詰め原稿用紙×10枚以上で説明して下さい。
(※必要であれば,「計画書」に図やスケッチ,写真などを添付しても可)

「計画書」には,以下の事も必ず含めて書いて下さい。
1.計画の動機:(なぜこのような計画を思いついたのか)
2.計画の裏付け:この計画は,どのような理由で「医療」と「アート」が融合する空間と思われるか。
3.計画の意義:この空間は,そこを訪れた患者や市民にとって何が期待できるか。

【書式】②「設計書」
別紙「サンクト・ガレン修道院」平面図を使って,計画書のエスキースを制作して下さい。

【提出方法】
表紙に計画案タイトルを記入し,【書式】①と【書式】②を必ず併せて提出して下さい。

Twitter_logo_header
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

24. Dezember 09

【アート】 アン・リンガーさんから来年のカレンダーとクリスマスカードが届く

01_5

02_2

 クリスマスイブのこの日に,すばらしいタイミングでメルボルン在住の友人から来年のカレンダーとクリスマスカードが届く。送り主はアン・リンガーさん(Mrs. Anne Ringer)。名前を見てもわかるとおり,アンさんは,私が医学史領域で一貫して研究を続けているイギリスの生理学者シドニー・リンガー(Dr.Sydney Ringer, 1835-1910)の親族の方である。シドニー・リンガーは,わが国では輸液(点滴)のリンゲル液を発明した医学者としてよく知られるが,彼の医学的業績はこればかりではない。両生類の心筋を使った基礎研究をもとに,近代のカルディオロジーの基礎を作ったのもこのリンガーである。もしこの頃にノーベル賞が創設されていたならば,リンガーは間違いなくノーベル生理学賞を獲っていたであろう。

 アン・リンガーさんと私との出会いは,今から10年以上前にさかのぼる。この頃から私は,医学史研究のため,しばしばイギリスと日本を往復する生活を始めていて,向こうの大学や研究機関に少し遅れるかたちでちょうど日本にもインターネットが普及し始めていた。その時に私が一番最初に開設したサイトが,作品のデータベース・サイトとリンガー研究を中心とした医学史研究サイトである。(参照:リンガー研究ブログ[日本語版]リンガー研究医学史サイト[英語版]
 これは主に,海外の学者との研究交流,意見交換のために開設したもので,現在でもサイトを通して各国の研究者らと活発な交流がある。

 インターネットの特筆すべき点は,今さら言うまでもなく,その双方向性と集合知の構築である。自分がネット上に流したテキストは世界中の人たちが読んでいるわけである。このような状況の中で,ある日サイトを通して1通のメールが私のもとに届いた。
 「私はあなたが研究しているシドニー・リンガーの親族にあたるものです。あなたの研究に非常に興味を持ちました。日本でリンガーの研究をしている学者がいることにたいへん驚きました。」という内容のものだった。このメールを下さったのがアン・リンガーさんである。アンさんは,たまたまネットをサーフィンしていたら私のウェブページにたどりついたそうである。もしインターネットがなかったら,アンさんと出会うこともなかったかもしれない。私がネットというツールを基本的に肯定的に捉えているのは,ネット黎明期にこのようなダイナミズムを実体験したからだ。そして,そのころから,ネットというメディアはグローバルであるばかりではなく,マスメディアを含めたすべての領域をスーパーフラットな空間に作り変えていくであろうと予見していた。
 アンさんとのネットを通してのコンタクト以来,アンさん一家がたいへんな親日家であることから交流はさらに続き,アンさんからは,まだ医学史料としてアーカイヴされていないリンガー家の史料などを研究のためにご提供をいただいている。現在も,日本のある大手企業が進めている医学史関係の資料館開設のためにもいろいろとご協力をいただいているのである。

 そんなアンさんは,毎年この時期になると,クリスマスカードと一緒に必ずカレンダーを送ってきてくれるのである。アンさんから送られてくるカレンダーにはいろいろなメッセージがこめられている。ただ単に,新年を祝うというよりも,お互いにいろいろとあったこれまでの人生を鑑みながら,新しい年に向けての決意を表明するためのものでもあるのだ。私はアンさんのこのとても素敵な計らいに何度となく励まされてきた。失意のただ中にあった時に,ポストにアンさんからのカレンダーを見つけて救われた事もあったし,どのカレンダーも,アンさんと私の歩んできたこれまでの思い出が刻まれているのである。
 今年アンさんから送られてきたカレンダーは,オーストラリア政府のドクター・ヘリのカレンダーである。広大なオーストラリアの救命救急網をカバーするにはドクター・ヘリの活躍が必要不可欠だ。特に山火事などの自然災害が多い山岳地帯には,ドクター・ヘリでないと入っていけない場所もたくさんある。この点は,わが国の救命救急分野も見習うべき部分も多々あるのである。
 私の方からは,アンさんには「ジャパン・ナイトシーン」という,日本の観光地の夜景を集めたカレンダーを,そしてアンさんの長女で,現在大学で経済学を勉強中のアリソンには,山梨県の風景を集めたカレンダーをお送りした。アンさんにお送りした「ジャパン・ナイトシーン」の7月と8月のページは,熱海の海上花火大会の写真である。本当は全部熱海の観光カレンダーが欲しかったのだが見つからず,少しでも熱海の風景が載っているものと思い選んだのがこのカレンダーだ。現在,熱海で「農業・先端医療・アート」を連動させた熱海町づくりプロジェクトに関わっている私の苦肉の策である。
 アリソンに山梨のカレンダーを送ったのは,アリソンが山梨,特に甲府が大好きだからである。まず美しい富士が見えることと,アリソンがかつて交換留学で甲府に暮らしていたことがあって,その時にすっかり山梨を気に入ってしまったそうである。昨年は,不老園の梅園の写真と動画を送ったところ,とても喜んでいたので,今回の山梨のカレンダーも気にいってくれるにちがいない。

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

17. November 08

【医学史】カナダの医学史研究者からメールが届く

 カナダで現在,輸液史(点滴の歴史)に関わった医学者たちの評伝を編集しているというドクターからメールをいただく。その中でリンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)についての資料と写真を借りたいとのこと。おそらく,私が医学史の研究者用に開設しているWebかブログ経由でメールを下さったようだ。

リンガーについては以下のwebページを参照

リンガー研究web日本語版

http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer-J/SydneyRinger-(J).html
リンガー研究web英語版
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer/S.Ringer.html
リンガー研究ブログ日本語版
http://ringer.cocolog-nifty.com/blog/
リンガー研究ブログ英語版
http://ringer.cocolog-nifty.com/biography/

 リンガーは,点滴やその他,医療現場で実にいろいろな分野で汎用されているリンゲル液を発明したイギリスの生理学者である。リンガーについては医学史の分野における私の研究分野の一つであり,リンガーのフィールドワークを始めてからもう足かけ15年近くなる。近年ではネットの普及で,このように各国の研究者が私のwebページを見ていて,いろいろな大学の研究者からたくさんのメールをいただいている。
 私の長年の研究のために史料を提供して下さっているリンガー家のご親族の皆さんも,もともとは私のwebページをグーグルやYahooなどで偶然に見つけて,連絡を下さったのが出会いのきっかけであるから,ネットの創世記からネットに積極的に関わってきた私は,近年なにかと悪い部分が強調されているネットというツールに関しては,「悪い部分」以上の有用性をリアリティをもって感じている。なぜなら,今現在こうして私のwebページが,世界各地にいる輸液史やリンガー研究者らの窓口となりえているからである。これはネットがなかった時代には考えられなかったことであり,お互いの学術交流をワールドワイドにしてくれたのもネットというツールのおかげである。
 もちろん,学会などで渡欧した際に,そこで偶然出会った興味深い研究者たちもたくさんいるわけで,ネットがすべてとは言わないが,確率論的に,ネットを有用に使うことによって,本当に必要な人材や才能とダイレクトに繋がるようになったのも事実である。あとは運用する人間のバランスということだ。
 さて,今回連絡を下さったドクターは,カナダのウィニペグという所に勤務されている。私はまだ一度もカナダへは行ったことがないので,カナダの地理についてはとても疎い。興味があったのでついでにウィニペグについて調べてみると,これがけっこう日本にも馴染みのあるエピソードがあったりして,もし医学史関連で学会か何かが開かれれば,ちょっと行ってみたくなった。
 ウィニペグは,マニトバ州の州都で,ちょうど東部と西部を結ぶ起点にある。日本でもお馴染みの「クマのぷーさん」のモデルになったクマがいたそうである。それから東京の世田谷区と友好都市を結んでいる。またここの町にはテリー・フォックスというカナダの国民的英雄がいて,町に銅像まで建っている。このカナダの英雄テリー・フォックスの生い立ちは実に興味深い。彼は片足を癌のため切断するという不幸に見舞われたが,この癌の研究費を集めるために義足を装着してカナダ横断を試みた人である。残念ながら病気の進行により達成はできなかったが,全国から36億カナダドルの募金が集まったそうだ。テリー・フォックスの,後世の研究のために自らが人柱になるという行為が,多くの国民の共感を生んだのであろう。
 こんなウィニペグという町についての短い印象を添えてこのドクターには,資料の提供の快諾の意を伝えた。

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

15. Juni 08

【テレビON AIR】フジテレビ『いただき+(プラス)』に生理学者シドニー・リンガーの番組資料を提供(6月2日放送分)

1 02

 フジテレビで毎週月曜19時54分~20時で放送中の情報番組『いただき+(プラス)』でカルシウムの特集があり,その際に,私が医学史の分野で長年にわたり研究をしている生理学者シドニー・リンガーの資料が必要ということでフジテレビから問い合わせがあった。そこで,私が研究のために以前からリンガーのご親族であるアン・リンガーさんなどから頂いている資料の一部を番組に提供させていただいた。
(尚,私のリンガーに関する研究については以下のwebを参照に)
 生理学者シドニー・リンガー研究ブログ
http://ringer.cocolog-nifty.com/blog/
 生理学者シドニー・リンガー研究ブログ(英語版)
http://ringer.cocolog-nifty.com/biography/
 生理学者シドニー・リンガー研究Web
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer-J/SydneyRinger-(J).html
 生理学者シドニー・リンガー研究Web(英語版)
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer/S.Ringer.html

 現在関東ローカルで放送中の『いただき+(プラス)』という番組は,全農が提供の番組で,小学生から中学生ぐらいを対象とした食育の情報番組である。放送時間は非常に短いのだが,毎回食べ物を通じて栄養素やその働きについて楽しく学ぶことができる番組だ。
 今回の特集は「カルシウム」ということで,番組ではカルシウムを多く含む食物の紹介とともに,そのカルシウムの働きを発見したことでも知られるリンガーの研究についても少しだが触れられることとなった。
 シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は,19世紀イギリスで主に生理学,内科学,小児科学の分野で活躍した人物で,彼の業績で一番有名なのは,点滴の際に輸液基本液として使用されるリンゲル液を発明したことである。多くの日本人は,リンゲル液をその名前の印象からドイツ医学由来のものだと思っているであろうが,実は発明者のリンガーはイギリスの生理学者なので,リンゲル液も本来はイギリス医学由来のものである。しかしわが国の場合は,時の明治政府が帝大(東京大学医学部)にベルツやミュレルを招聘し,近代医学の基礎はドイツ医学から学ぶという方針を決めたことで,わが国にはドイツ以外の由来の技術も多くはドイツ医学経由で入ってきた。そのような経緯から,本来は英語であるはずの“Ringer”も,「リンガー」とは発音せずに古いドイツ式発音で「リンゲル」といってきた慣例のようなものが医学界には存在している。(しかしながら,“er”の綴りを“エル”と発音するのはかなり古いドイツ語であり,現代ドイツ語による発音ならば,英語と同じく「リンガー」と発音するのが自然である。同じように,しばしば医学用語として登場する“Fieber”(発熱)も,「フィーベル」ではなく「フィーバー」とするのが現代ドイツ語では一般的である。)

 今回の番組ではリンガーのカルシウムに関する実験を取り上げることになった。リンガーがカルシウムの働きについて行った実験というのは,カエルから摘出した心臓にトノメータをつなぎ,生理食塩水を灌流させながら心筋におけるアルカリイオンの作用を詳しく分析するというものである。リンガーはこの実験を通して,カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき,しかもカルシウムが少なすぎたり,カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり,さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう,という歴史的大発見をするのである。
 この時に生理食塩水に偶然混入した多電解質でできた溶液がリンゲル液である。その後リンゲル液は,ヒト血漿用に多電解質が補正されて,現在医療現場で使用されているリンゲル液になった。
 また,リンガーのカルシウムを始めとする多電解質に関する実験とその成果は,現代の医科学にも延々と受け継がれている。例えば心臓外科手術の際、塩化カリウムを注入し一時的に心臓を停止させるという技法や、心室細動の除去などがそれであり,いずれもリンガーの研究がなければ産まれなかったであろうメソードである。
 以下は,Journal of Physiology(英国生理学雑誌)に掲載されているリンガーのカルシウムの研究と,リンゲル液誕生の記録である。
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
(因みに私の書斎には,リンガーが書いたこの2つの論文の表紙を額に入れて飾ってある)

 なお番組では,子どもたちに理解しやすいように,リンガーが研究する様子などがイラストでも登場した。イラストレーターの方が書いて下さったリンガーは,ポートレートに比べるとまだ若いころの印象だ。どことなく俳優の佐々木蔵之介さんにも似ていたりする。

番組Webページhttp://www.fujitv.co.jp/itadaki/

★BSフジで再放送(7月20日 20:55~21:00)

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

05. Mai 08

【展覧会】『病と医療 江戸から明治へ』(国立公文書館)

12_3

 江戸から明治にかけてのわが国の医学史料の一般公開である。史料の説明は、音声ガイドも含めて医学史という学問に初めてふれる初心者向けに作成されているが、史料そのものは貴重なものばかりで見ごたえ十分であり、メモを取りながら1点1点じっくりと見ていたら、2時間近くもかかってしまった。

 ここで公開史料の中から特に興味をひいたもの、貴重なものをいくつかピックアップする。

『官府御沙汰略記』(延享2年~安永2年)
 文京区小石川にあった幕臣小野家の隠居が書いた日記で、本来は幕府内の人事異動などを主に記録したものであるが、その一部に家庭医学書のような民間医療について書かれた項目もしばしば登場するので面白い。
 例えば、肌荒れのひどかった若い娘に対し、クチナシの煎じ汁に塩を入れて炊いた米を食べさせると良い、という記述がある。クチナシの抽出成分は、現在でも美容液に配合されることはしばしばあり、その効能はメラニンコントロールであると言われているが、肌荒れに対して果たして経口摂取で効能があったのかどうかは定かではない。
 また、幕臣の平坂孫二郎が、梅毒の治療のために草津温泉に湯治へ行った記録も記されている。しかしあまり効果はなかったようで、幕臣付きの医者も、もっと長期に滞在して治療する必要があると言っている。
 この当時はまだまだ西洋医療が入ってくる前であるから、疾病の概念も現在とは相当に異なる。すでにコレラ、赤痢、インフルエンザなどが一般的な内科的疾患と異なる伝染病であるとは認識されていたが、後に東京医学校(現、東京大学医学部)にベルツやミュレルが来るまでは、病理学という概念が明確にはなかったので、病気の原因を正確に突き止めることは困難であったのがうかがえる。ヨーロッパでさえ、リスターが登場するまでは「消毒」や「殺菌」という概念がなかったのである。
 それにしても、この頃からすでに温泉の有効性が認められているのが面白い。そして庶民は行楽で楽しむものであったようだが、特権階級のものにとっては、すでに長期滞在型の施設として存在していたようである。
 その温泉の効能については、後に薬学者として来日したオランダ人のゲールツが、日本各地の温泉地をフィールドワークした本を出版している。
 その資料が下記の『日本温泉独案内』である。

『日本温泉独案内』(明治12年)
 薬学者ゲールツが、日本全国の温泉をフィールドワークして、その効能をまとめたもの。タイトルだけを見ると、まるで“お一人様”の独身OL向けに編集した『るるぶ』別冊みたいだが、内容はいたって科学的なものである。
 当時、民間医療の間では、温泉ならどんな病でも効く、というような温泉万能主義が大勢を占めていたようだが、当然温泉成分はそれぞれ異なり、実際にはその効能を知らずに温泉に浸かると、かえって病気を悪くしてしまう場合もあった。そのために薬学者のゲールツが、全国各地の温泉を巡り、その成分と効能を分析したのである。(しかし、彼の文献を読むと、私にはまったり温泉巡りの旅をしているようにしか見えない)
 この文献の中には、熱海、湯河原、修善寺、草津といった現在でも有名どころの温泉の名がたくさんでてくるので面白い。例えば熱海の温泉については、「第4種含塩泉」と正確に分析している。
 この時代にこのような書物が刊行されたのは、長らくわが国では科学的根拠に基づかない民間療法が何の疑問を持たれることなく広がっていたためで、それをあらためて科学的に検証していくことは、医学の近代化においては絶対に必要なことであったといえる。何にしても、すべてに対して「万能」である薬や治療法は霊感商法でもないかぎり存在しないわけで、今日の健康情報番組のひどさをあらためて上げるまでもなく、「万能」という言葉に安易に飛びついてしまう大衆が、いつの時代にもたくさんいたのであろうことを容易に想像できる。

『養生訓』(生徳3年)
 江戸時代に貝原益軒によって書かれた養生のための手引き書。今風に言えば、出せばベストセラーになる「健康マニュアル」本に相当するが、内容そのものは日々の質素なライフスタイルを体現し、それが結果的に養生につながるといった、いわば老子などの道教的な考えに近いものがある。
 その中で、現代の我々がもっとも見習わなければならないと思った一節を書き出す。

   万の事一時心に快き事ハ
   必後にわざわいとなる

 つまり、その時は一時的に快楽を得られることでも、節度を超えるとかえって病気になる、ということを言っているのである。これは、後に『養生訓』の影響を受けて多くの医師や学者が執筆したこの類の書物の中にもしばしば出てくる。
 例えば、幕府の医師だった多紀元徳が書いた『養生大意抄』(天明8年)には次のようなことが書いてある。

  凡(およそ)何事をせしにも 節(ほど)あり
  切なく苦しきを強いてはなせバ
  神気を傷(やぶ)り 又は筋骨を傷める 

 これも、何をやるにもほどほどが良いということを言っていて、その中でも特に飲酒や夜遊びや食事について言及しているものと思われるが、いずれの共通点も、適度に体を休めるのが良い、と言っているわけである。

『老人必用養草』(正徳6年)
 江戸の世でも、現在と同様の老人問題があったようである。これは老人向けに、老人はどう暮すべきかを説いた養生書のひとつである。その項目は健康はもとより、衣服、住まい、色情までにいたっている。そしてこの中の健康に関する項目でも、身体的な健康だけではなく、精神的健康についても「七情」(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)という項目で扱っていて、近年やっとわが国の医療現場でもQOLの向上や、患者や患者の家族の精神的サポートについても言及されだしたことも考えると、実に先見の明があると思った。しかも、高齢者の「色情」については障害者のそれと同じく、介護の現場でも長らくタブーになっていたことでもあり、江戸の医師たちのアヴァン・ギャルドな感性に興味をそそられる。
 その中で思わず笑ってしまったのは、「隠居僻みの原因」という項目だ。これは、若者と高齢者の世代間闘争にもつながることだが、『老人必用養草』の中では、老人が若者の言うことに従わず頑固になる原因は、老人は自分の生きてきた考えに固執し、視野が狭くなるからだと記されている。だから時には庭の片隅に草木でも植えて、心の余裕を持て、などと言っている。
 たしかに、近年の団塊高齢者もこぞって田舎に引っ込み、ロハスやスローライフ志向に移行しようとしている状況をみると、ストレスフルな都会生活の中で、始終若者に八つ当たりするよりも、このほうがよほど心身の養生になる。

『和蘭医事問答』(寛政7年)
 蘭学医の杉田玄白と建部清庵が交わした往復書簡である。その中で清庵が杉田へと宛てた書簡の中で、来日するオランダの医師は外科医ばかりだが、オランダには内科医はいないのか?、と尋ねているものがある。もともと奥羽藩の藩医で和漢医療に携わっていた清庵がこのような質問をしたのは、来日する蘭学医や蘭学に学んだ医師たちが、塗り薬でも済みそうな場合でも、何かと外科的処置をすることに驚いたからである。これに対して杉田は、オランダには内科医も当然いるが、わが国に最初に来日した蘭学医がたまたま外科医だったので、そのような印象がひろまってしまったのだと思う、と清庵に宛てて書いている。

『広恵済急方』(寛政2年)
 江戸で庶民の間に伝承していた民間療法を、多紀元徳が改めて編纂したもの。当時の10代将軍・家治は、都会(江戸)と田舎、そして武士と農民などの身分によって広がった医療格差を是正しようと、誰にでも速やかに役立つであろう家庭医学書のようなものの編纂を元徳に依頼していた。そして各地に伝わる民間療法、とりわけ産中産後の処置、中毒、怪我、嘔吐、発熱などの緊急を要するものを重点にしてまとめられたのが『広恵済急方』である。
 読んでみると、いろいろと面白いことが書かれているが、中には目を疑うものも多々あるのも民間療法のご愛敬である。
 ここでひとつ書き出してみる。

【喉に物が詰まった時】
鼻の中に強い酢を注ぎこめば、むせて吐き出す。

 これを見た時に、私は思わず往年の漫才コンビ「ツービート」のテイストを感じてしまった。「ツービート」のネタの中に民間療法をテーマにしたものがあって、例えば、歯が痛い時にはどうしたらいいか? ということだが、この時には目に釘を刺せばいい、というものである。なぜなら、目の痛さで歯の痛さを忘れるから、というオチが付く。
 これは本当にナンセンスというしかないが、私の個人的記憶を辿ると、小学校の予防接種の時、注射の痛みと恐怖をこらえるために、注射の時に友人に自分の足を踏んでもらっていたことをふと思い出した。これはまさしく、足の痛さを意識することで注射の痛さを忘れるためである。これが意外に効果があったと記憶している。
 『広恵済急方』の中にある民間療法には、このようなばかばかしいとしか思えないようなものも多々あるが、けしてそれが荒唐無稽というわけではなく、誰かによる何らかの成功体験から民間の間で伝承されたものであろう。それは現代の科学のように再現性が認められるものばかりではないが、時には江戸の庶民の命を救ったものもあるのだろう。

『龍驤艦脚気病調査書』(明治18年)
 大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が演習中に海軍兵の中で起こった脚気(ビタミンB1欠乏)について詳細に報告したもの。周知の事であるが、わが国明治政府は、学問、技術、教育などをドイツに学んだ経緯があり、当然陸軍もドイツ式を導入していた。しかし海軍だけは例外で、軍医の高木兼寛がイギリスのセント・トーマス病院医学校に学んだことでもわかるように、伝統的に英国式を採用していた。このことは後に昭和に入っても何かと海軍対陸軍という構造を生じる原因にもなるが、海軍と陸軍が対立したのは単なる権力闘争だけではなく、そこには当然のことながら学問的対立も存在した。具体的に言うと、ドイツ病理学対イギリス臨床学の戦いである。
 海軍軍医の高木がイギリスで臨床医学を学んだのに対し、陸軍軍医の森鴎外(森林太郎)はドイツでコッホらの病理学を学んで帰ってきた。このことは、診断学というフィールドにおいて後々さまざまな対立をすることになるが、その最たるものが、脚気の診断と治療法をめぐる高木と鴎外の対立である。
 脚気の原因は、ビタミンB1欠乏によるものであることは現在は広く知られているが、明治に国民的病として脚気が蔓延した時には、なかなかその原因がわからなかったのである。ビタミンB1を含まない白飯が主食となった軍隊の中でも当然のことながら脚気が蔓延して、明治政府は軍医にその原因を突き止めるように命じた。
 ドイツでコッホ流の病理学を学んできた鴎外は、脚気の原因を病原菌説に求めて、“脚気菌”の特定とそれの同定を試みたがうまくいかなかった。それに対して高木は、かねてから鴎外の病原菌説を否定し、イギリスで学んだ臨床医学にのっとり、脚気にかかった海軍兵士たちの食習慣、生活習慣などを詳細に調査した結果、脚気の原因はやはり食事と生活習慣にあると仮説を立てた。そこで高木は、練習艦「龍驤」での反省をもとに、兵食に従来の白飯だけではなく麦、パンなどを取り入れてみたのだ。その結果、ビタミンを多く含む麦飯でビタミン欠乏が改善されて、脚気に罹る兵士が格段と少なくなったのである。高木のすごいところは、医学史上でまだビタミンの存在が発見されていない時代にこれをやったことではないだろうか。因みにビタミンの存在が発見されるのはずっと後になってからで、1911年にロンドンのリスター研究所にいたフンクによって、初めてビタミンが物質として同定されている。
 しかし、高木が正しく脚気の原因を突き止めても陸軍兵士の脚気の蔓延はしばらく止められなかった。これは、ドイツ医学に学んだ鴎外が、愚かにも最後まで高木の説を否定し続けたからである。そのため陸軍は日露戦争にいたっても相変わらずの白飯主義で、陸軍は戦闘以外にも多くの脚気患者で兵士を失っている。一方、練習艦「龍驤」での教訓を生かした海軍の兵食は戦艦「筑波」にも引き継がれ、脚気患者は激減しているのだ。
 昭和に入っても、兵食が充実していたのは海軍であり、例えば戦艦「大和」の中で食べられていた肉じゃがやカレーは、栄養学的にも理にかなったものである。

| | Kommentare (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧