学会・研究会・講演会

27. Februar 11

【講演】 『輸液史を築いた小児科医たち』(2011年2月22日,国立成育医療研究センター)

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 先週の22日(火),成城にある国立成育医療研究センターの講堂で,輸液の歴史についてレクチャーをさせていただいた。
 国立成育医療研究センターは日本で最も規模の大きい先端的な小児科専門の医療センターで,各科診療部,外来救急部に加えて,障害児の療育施設も備えている。その景観は,東京郊外の街の中にマンモス団地か,あるいは学園都市があるような雰囲気で,隣接する空間に対しても開放的な都市設計がなされている。
 このような外界に対する開放的な医療空間の設計は,近年,患者側や街からも求められてきた空間である。患者,障害者,高齢者が社会から孤立してしまう原因の一つとして,その医療空間,介護空間が街の中で閉鎖的空間を作っている事も挙げられる。つまり,ここへ通い,またはここで生活する病者にとっては日常の空間であっても,病者ではない者にとっては「非日常空間」なのである。
 この「日常」と「非日常」という空間の関わり方の差異によって,両者の間に見えない壁を作っている。そこで,外界との境界線にグラデーションを設ける事により,その療育空間が「閉じた」アウトサイダーなものではなく,こちらに向かって開かれたバリアフリーな空間となるのである。
 ジャン・ウリやフェリックス・ガタリによる地域精神医療運動の臨床の舞台となったフランスのラ・ボルド病院もこのような設計である。また,一昨年,全米で賛否両論話題をよんだ精神科病院が舞台の医療ドラマ『MENTAL』に登場するウォートン記念病院も,柵の無い庭をコモンスペースとするバリアフリー設計である。

 私が今回レクチャーを賜ったのは,輸液の歴史を通して小児科医療と公衆衛生の発展を振り返る内容のものだ。
 輸液の歴史に名を残した代表的医学者,リンガーハルトマンギャンブルバトラーダロウ,そして高津忠夫らは全員小児科医である。これは偶然ではない。歴史的に考察しても小児科医療の中で輸液が発展していった必然性が十分にあるのである。
 輸液による効果が初めてエビデンスのもとに提示された最も古い記録が,リースの医師トーマス・ラッタによるものである。1832年ラッタは,英全土に広がりかけていたコレラの治療に際し,0.5%塩化ナトリウムと0.2%重炭酸ナトリウムをコレラ患者の静脈内に大量投与し,症状が回復した事をLancetに報告している。
 これから月日が流れ,リンゲル液を発明したリンガーの登場で,小児科医たちの活躍の舞台が幕を開くのである。

 輸液の歴史を理解する上で,以下の5つのフェーズが基本となる。
1.術式の発達(外科学)
2.器具の開発(外科学)
3.薬剤の開発(小児科学)
4.輸液理論の確立(小児科学)
5.輸液技術の臨床現場への普及 (小児科学,内科学,公衆衛生学)

 これをみても分かるように,静脈確保などの術式,器具の開発以降の輸液の歴史は,小児科学がリードしていく事になる。
 それには以下のいくつかの理由がある。

1.19C~20C初頭にかけての乳幼児の死亡率が高かった。(疫痢,赤痢,その他栄養不良)
2.乳幼児の脱水は,成人の場合よりも危篤になるケースが多い。(感染症による下痢,発熱,嘔吐)
3.小児科医は乳幼児の脱水の症例に多く触れる事により,脱水改善の研究が進んだ。

 このように,小児科医が輸液の適用となる様々な脱水症の症例に多く触れる事により,まずは小児輸液の歴史からスタートしていったのである。
 さらにこれに付け加えれば,リンガー以降の近代の主たる小児科医達が米開拓移民の一族であることから考えて,彼らのフロンティア精神も多少なりとも影響しているといえよう。

 さて,今回私がレクチャーを賜ったこの国立成育医療研究センターでは,月に一度,様々な分野から講師を招き,研修会を行っている。私が登壇させていただいた輸液史のレクチャーもその一環である。
 近年,公立私立に関わらず,文化的行事や教養プログラムを積極的に企画,開催する医療機関が少しずつではあるが増えてきている。壁やフリースペースを利用した絵画や写真展,ロビーでのコンサート,詩の朗読会などが多い。
 これららのものは総じて患者や近隣地域住民に向けて開催されるものが多い。しかしそれだけではなく,病院で働く医療スタッフにとっても大切な事である。
 なぜなら,医師,看護師,介護師その他医療スタッフが一人の患者と接する時,その一個人の背景にある歴史,民俗,共同体,生活史といった文化的差異を理解することから臨床が始まるからである。そのためには,専門領域に隣接する周辺領域,またはまったく異なる学問,芸術,文化に触れる機会は,患者への異文化理解(特に小児科,精神科)の為には必要な事だからである。
 当日の私のレクチャーでも,忙しい診療の合間をぬって,多くの医療チームの皆さま方ににおこしいただく事ができたのも,日本の小児科医療の最先端で仕事をされる方々が,専門分野だけではなく,日頃から異文化,周辺領域に高い関心を持ち診療にあたられている様子がこちらにも伝わってきた。

■国立成育医療研究センター
http://www.ncchd.go.jp/

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11. Januar 10

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ 『ああ言えば,こうゆう!』 サブカル戦後史と反日メディア撃退作戦 (2010年1月10日,新宿ロフト・プラスワン)

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《第一部》 サブカルチャーから見た戦後日本
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
杉原志啓(音楽評論家)
但馬オサム(ライター)
《ミニライブ》
出演:英霊来世-AreiRaise-
《第二部》 もう許せない!反日マスコミへの宣戦布告
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
三橋貴明(作家・経済評論家)
すぎやまこういち(作曲家)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)

 昨年,阿佐ヶ谷ロフトAで行われて大きな反響をよんだ西村幸祐トークライブの第2弾である。今回も二部構成で,途中にHIP HOPグループ英霊来世-AreiRaise-による新曲のライブも披露された。

 第一部の『サブカルチャーから見た戦後日本』では,音楽評論家の杉原志啓が洋楽とJ-POPの変遷という立場から,そしてライターの但馬オサムはサブカル史という視座から,戦後に思想史として一旦リセットされてしまった日本文化の断片を,戦前,戦中,戦後と連綿と紡がれてきた民族文化として再構築を試みた内容であった。この両者の主張によれば,日本の民族文化に一貫して通底しているのは,「オタク」というわが国特有の創意工夫の精神であり,それが例えば世界最強の工芸品である戦艦大和や円谷特撮や手塚アニメを産んでいったというわけである。
 私はクリエイターという立場からも,この二人の主張には同意する。戦前・戦中・戦後という一連の流れの中で,戦前・戦中の日本だけが「悪」であると切り捨ててリセットしようとする事自体がそもそも不自然であり,それはすなわち,日本人としての当事者性を放棄することにつながる。昨今,欧州から流入したコスモポリタン思想がリベラル層で広がりつつあり,これが「地球市民」,「地球共和国」という珍妙な畸形化言語を形成している。このような畸形化したコミュニティの住人たちは,近代的国民国家を否定しているわけだ。それゆえに,彼らが日本という国家や社会を批判する時に,批判している自分もその国家や社会を構成している国民の一人である,という当たり前の視点が欠如しているのである。
 現在,世界を席巻している日本のポップカルチャー,とりわけ,アニメ,コミック,ゲームといったコンテンツは,何も戦後に降って湧いてきた新たなムーブメントではなく,その源泉は,あきらかにわが国古来の伝統文化の中にある。そのことをよく表した本が,麻生太郎の『とてつもない日本』である。 この本は政治家が書いた本としてはたいへんに珍しく,日本文化論,現代思想に深く言及したものである。この中で麻生太郎は,日本のアニメやコミックの源流は『源氏物語絵巻』や『過去現在因果経』にあると言っている。この見方は,例えば「怪獣」というわが国が独自に産んだ異形の原点を『鳥獣戯画』などに求めるという私の考え方にほど近い。そしてこの文化の源泉は,戦前と戦後の間で断絶されたものではなく,繋がっているものであるというのが,本日のライブの第一部に登壇したパネラー諸氏の共通する主張でもある。
 また第一部では,パネラー諸氏持参による貴重な映像アーカイブも上映された。まず,杉原志啓は,パフィのPV。そして但馬オサムは戦時中に制作されたディズニーの国策アニメと,戦後にフィルムが発見された松竹映画のアニメである。但馬オサムの解説によると,ディズニーは戦時中でも莫大な時間とコストをかけ,日本アニメとは比較にならないほどにコマ数が多いそうである。それゆえに,生き物の滑らかな動きを実写のようにリアルに表現できたわけだが,だからといって日本アニメが技術的にも芸術的にも劣っていたのかというとそうではない。日本アニメは限られたコマ数の中で動きに余白を作ることで,独自の動画表現を確立してきたのである。それが後に金田伊功のような実に個性的な動画絵師が誕生する契機にもなっているということだ。
 杉原志啓により上映されたパフィのPVは,「BEEF」という楽曲のインパクトの強さに圧倒された。杉原志啓も解説で述べているが,J-POPが非常にクオリティ高く完成されたものだ。洋楽という形式をとりながらも基本的には日本文化に根ざしたグルーヴ感は,その他大勢の量産型J-POPとは明らかに異なるのがわかった。「BEEF」の最後に“外国産なんてすっこんでろ!”で終わることろが実に痛快である。

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 続く第二部は,作曲家のすぎやまこういち,経済評論家の三橋貴明,国際問題アナリストの藤井厳喜らと西村幸祐の座談会である。ここでは昨年に阿佐ヶ谷ロフトAで行われたトークライブに引き続き,日本の腐敗した昨今のマスメディアの問題が取り上げられた。
 現在のマスメディアの情況をみると,一次ソースを恣意的に編集・加工した偏向報道,捏造報道が昨年よりもましてひどくなっている。極端に特定政党に加担するような報道をする民放の朝の情報バラエティは言うまでもなく,公共放送であるNHKもその信頼は完全に失いつつある。この悪しき状況に加えて,いわゆる「報道しない自由」の行使が顕著になってきた。これは,特定政党や番組スポンサー,株主である外国企業に都合の悪いことは一切報道しない,ということである。
 例えば,実際にあった例をあげると,団塊世代の視聴者が多い民放の報道バラエティは,この心情的左翼である団塊世代に親和性のある左翼系デモは,たった20人30人規模のものでも頻繁にニュースとして取り上げるが,一方で,政治家の身に起こった献金事件や,公約違反をする政党に対する1000人規模の保守系市民団体による大規模デモは意地でも取り上げないわけである。
 このような事態の中,西村幸祐,すぎやまこういち,三橋貴明の3氏が共同で,マスメディアを国民全員で監視,検証するポータルサイト「メディア・パトロール・ジャパン」を設立するはこびとなった。本日のトークライブはその発表も兼ねたものである。サイトの本格始動は2月からで,現在は鋭意準備中であるとのこと。このサイトが,かつてハーバーマスが「公共圏論」で提唱した,市民による市民のためのパブリック・ジャーナリズム萌芽の契機になるのではないかと私は期待している。

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 前回の阿佐ヶ谷ロフトAのライブと同様に,第一部と第二部の間に,英霊来世-AreiRaise-の新曲『開戦』が披露された。英霊来世-AreiRaise-については,後日,「現代日本にHIP HOPは存在するか」という論考であらためて言及することにする。

■文中関連コラム■
【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)
【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)
【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)
【書評】 三橋貴明著 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

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25. November 09

【緊急声明集会】 行政刷新会議「事業仕分け」関連緊急声明集会(東京大学)

 政府が進める行政刷新会議が様々な分野で波紋を呼んでいる。マスメディアでは所謂“仕分け人”と言われる人間らを,あたかも悪人に審判を下す絶対正義のヒーローのごとく面白おかしく脚色しているが,見ていて非常に不快である。“仕分け人”を煽動する国会議員らも,どれほどまでにわが国の文化・芸術,科学技術について精通しているのかも甚だ疑問である。
 このたびの一方的ともいえる事業仕分けは,文化・芸術のみならず,わが国の科学技術・産業技術の衰退をもまねきかねない愚かな行為である。これは,長きにわたり世界に誇る「技術立国」として繁栄してきたわが国の国家的アイデンティティーをも崩壊せしめるものであり,私もクリエイター,研究者双方の立場から,政府に対して断固異論を申し上げたい。

 下記は,複数の大学の理化学系研究者の方々からお知らせいただいた【緊急集会】の案内である。ノーベル賞,フィールズ賞受賞者の方々をはじめ,多くの研究者らが【声明】を寄せるそうである。理系研究者の皆様は,東京大学小柴ホールにぜひご参集されたし!

ネット中継
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/event/debate.html


【緊急声明集会】 行政刷新会議「事業仕分け」関連緊急声明集会
日時:2009年11月25日(水)18:30~19:30
場所:東京大学本郷キャンパス理学部1号館2階小柴ホール
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_00_25_j.html

発表者
江崎玲於奈氏(1973年ノーベル物理学賞受賞者)
利根川 進氏(1987年 ノーベル生理学・医学賞受賞者)
森 重文氏 (1990年 フィールズ賞受賞者)
野依 良治氏(2001年 ノーベル化学賞受賞者)
小林 誠氏 (2008年ノーベル物理学賞受賞者)

18:30~18:50 経緯説明
          声明発表
          ノーベル賞受賞者・フィールズ賞受賞者のコメント
18:50~19:10 記者質問
19:10~19:30 教員・学生からの質問

世話人 石井 紫郎氏 東京大学名誉教授
       勝木 元也氏 自然科学研究機構
       藤野 陽三氏 工学系研究科社会基盤学専攻

事務局 横山広美氏 東京大学大学院理学系研究科

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29. September 09

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)

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登壇した本日の論客の皆様(敬称略,向かって左から)
イリハム・マハムティ(日本ウイグル協会)
西村幸祐(ジャーナリスト)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)
城内 実(衆議院議員)
吉田康一郎(民主党都議会議員)
三橋貴明(作家,経済評論家)

 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』と題したトークライブが阿佐ヶ谷ロフトAで行われた。
 阿佐ヶ谷ロフトAは,JR中央線阿佐ヶ谷駅前のパールセンター商店街の入口から少し入ったところの地下にある,地元マニア行きつけの多目的ライブ空間である。今回のような,『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)や『パック・イン・ジャーナル』(朝日ニュースター)などよりも圧倒的に面白いトークライブを開催する日もあれば,芸人の独演会,音楽ライブ,映画上映,小劇場の舞台公演と,様々なフォーマットに耐えうるという,有機的にして堅牢な空間なのだ。そしてその空間は,高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪エリアのいわゆる中央線アンダーグラウンド文化を象徴するものであり,阿佐ヶ谷ロフトAはその骨格を構成する一角を担っている。
 このようなものに一切の興味がない者にとっては,たとえ地元住民でも周囲の目新しい飲食店に気を取られて,知らない間に前を通り過ぎてしまうだろう。つまり,阿佐ヶ谷ロフトAという空間は,例えばデイヴィッド・リンチが『ツインピークス』で描いたホワイトロッジのような「奈落」であり,それが商店街という日常空間の底辺に,ブラックホールのようにぱっくりと口を開けているのである。幸か不幸か,ご縁があってその空間に誘因されたものは「奈落」に落ちていくという仕掛けである。
 同じく阿佐ヶ谷にはこのようなアンダーグランドな空間がいくつもあり,そこではテレビにはけして登場しない芸人や劇団員,現代美術作家,パフォーマー,ミュージシャンなどの独壇場となっている。ネットがマスメディアに対する一大カウンター・カルチャーとなるならば,阿佐ヶ谷ロフトAのような空間は,ミクロに張り巡らされたシナプスのように双方向的に集合知を構築していくことで,マスメディアに対してゲリラ戦を挑むような空間である。そこで生成されたコンテンツは,例えば無駄な予算をつぎ込み,芸人,役者,コメンテーターを使い回ししている今日のテレビ番組よりも,はるかに独自性があり,クオリティが高い。
 今回のトークライブはニコニコ動画でも生中継されたが,もしこれをライブで見ていたテレビ,マスコミ関係者がいたとしたら,彼らは悔しさの余り,モニター画面の前で歯ぎしりしていたことであろう。彼らにはこのような面白いコンテンツは作れない。なぜならば,彼らはクリエイターではないからだ。

 世の中にこのような面白いコンテンツがあれば,テレビなど見なくなる人が増えても当然である。本日のゲスト・パネラーである三橋貴明は最新の著書『マスゴミ崩壊-さらばレガシーメディア』(扶桑社)や自身のブログの中で,テレビや新聞が産業としてここまで見るも無惨に衰退していったのは,明らかにビジネスモデル構築の手法を誤っているからであると再三にわたって主張しているが,その通りである。
 例えば報道番組についていえば,多くの視聴者が今求めているのが,事実だけを伝えるストレート・ニュースである。ネットメディアの普及によって情報の受け手も一次ソースを精査するスキルを手に入れたことで,テレビのコメンテーターや全共闘崩れの“自称”文化人たち――いわゆる「雛段電波芸者」たちが,いちいちイデオロギー的バイアスをかけて印象操作したようなニュース報道はかえって邪魔である。また,芸人やテレビタレントをたらい回しにしているバラエティにしても,実際の寄席のライブには敵わない。
 こんな下らないものを一体誰のために作っているのかと言えば,スポンサーである。視聴者にコンテンツを提供するのではなく,スポンサーに向けて,広告的付加価値を維持するためにやっているのである。
 こんな状況のなかで,阿佐ヶ谷ロフトAのような面白い空間が近くにあれば,お金を払ってでも人はこちらに集まる。例えば阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベントに月に2,3回ほど行ったとする。それでもプログラムによってはNHKの受信料や新聞購読料よりも安上がりである。同じお金を払うとしたら,そのクオリティの対価としてどちらがコストパフォーマンスに優れているのかは明白である。
 今まで既得権益と新規参入障壁に守られてきたテレビや新聞にとって,もはやネットばかりがコンテンツの競合相手ではない。

 本日ここに集まった先鋭のパネラーたちは一筋縄ではいかないような人たちである。政治,経済,メディア,ジャーナリズムの問題にいたるまで,各人がそれぞれに置かれた立場で言いたい放題である。ウィグル人のイリハム・マハムティが,中国共産党による少数民族弾圧や核実験についての日本の報道姿勢を厳しく糾弾したかと思うと,民主党都議会議員の吉田康一郎は,自分の所属する民主党を徹底的に吊るしあげる。そして彼らの自由放言を途中で遮る田原総一郎のようなアンカーはいない。
 一見するとそれぞれのパネラーが好き勝手なことを言っているようだが,彼らが投げかけた問題は底辺でつながっている。それは,特に,ここ数カ月の間でひどくなったテレビメディアの翼賛報道についてである。これまでの有害テレビ・コンテンツは,「捏造」「誤報」「虚報」が主流であった。これは視聴者の目にも付きやすい。しかし,近年それに,「報道しない自由」という新たな要素が加わった。実はこれこそが,視聴者の精神をもっとも蝕むものである。
 「報道しない自由」とは,本来伝えるべきニュースを,局の一存,即ち「報道の自由」を逆手に行使して,視聴者にあてえ重要なことを伝えない,ということである。これをやられた視聴者は,例えば国際会議などの外交の場で日本が世界各国から評価されているさまざまな事や,新政府が進めている日本や日本国民が不利益を被りそうな法案についても一切知る事が出来ないのである。これはまさに,末梢血管が壊死してしまったような状態であり,やがてそれは全身的な循環不全を起こすであろう。
 三橋貴明のシュミラクル小説『新世紀のビッグブラザーへ』は,国体がまさにこのように循環不全を起こしたような近未来を描いていた。ネット環境も遮断されたその世界では,「日本」という国号さえ存在しないのである。『新世紀のビッグブラザーへ』を“よげんの書”にしないためにはメディアリテラシーで武装することが必要であるというのが,本日のパネラーらの共通する主張だ。そしてお金を払ってこの場に集った多くのアクティヴィストたちを最も恐れているのが,三橋が言うところの“レガシー・メディア”たるマスコミなのである。
 阿佐ヶ谷というアングラの坩堝の魔界で,今回このような夜会が開かれたことは,今後の様々なムーブメントの勃興に火を付けるであろう。


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第1部と第2部の間で,客席にいたHIP HOPユニット「英霊来世」(エーレイライズ)の斉藤俊介が壇上に上がり,ゲリラライブを行うという一幕もあった。
「英霊来世」は,地上波の音楽番組ではおそらくこれからも目にする機会はないであろうHIP HOPユニットである。私の知る限りでは,MXテレビで毎週土曜に放送中の『西部邁ゼミナール』という番組で,前衛美術家・秋山祐徳太子との対談で盛り上がっていたのが記憶に新しい。

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阿佐ヶ谷ロフトA名物「“あの肉”の吉澤精肉店のレバーペースト」
ロフトは食べ物・飲み物も美味しいのがうれしいところ。
これは,阿佐ヶ谷七夕祭りの“あの肉”でお馴染みの吉澤精肉店自家製のペーストである。
“あの肉”とは,七夕祭りで限定販売される大きな肉の塊で,我々が子どもの頃に見た『はじめ人間ギャートルズ』などの漫画・アニメに登場する原始人が持っている骨付きの肉の塊をイメージして作られたものである。

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ロフト入口にあるチラシコーナー。
ここが“魔界”の入口である。

阿佐ヶ谷ロフトA
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/

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05. Januar 09

【座談会】1月9日 「若者で考える新JICA」(メコンウォッチ・インターン企画)


●座談会のお知らせ
東京大学、茨城大学の皆さんから座談会のご案内をいただきましたので、下記に詳細を掲載します。

メコンウォッチ・インターン企画
座談会 「若者で考える新JICA」


こんにちは!皆さんは、今年10月にJICAJBICが統合し、二国機関世界最大の援助新JICAが誕生したのをご存知ですか?メコンウォッチでは国際開発・メコン研究をしている学生の皆さんを対象に、新JICAで援助がどう変わったのかについて学習会を開催すると共に、これからの援助について学生の視点で考える座談会を行います。国際協力に興味のある学部生の皆さん、研究や提言に取り組んでいる院生の皆さん、日本の援助についてみんなで語り合いませんか!?
 
また、このイベントの開催に合わせて、学生の方々が新JICAに聞きたいこと・望むことについてメッセージを募集しております。是非info@mekongwatch.orgまでお送りください。

■日時:200919日(金)18:30開場、19:00開始

■内容

・学習会「JICAの何が変わったの?」新旧援助体制の変化:19:00-19:30

・これからの援助を語り合う座談会:19:30-20:30

・交流会

■場所:メコン・ウォッチ事務所(JR御徒町駅より徒歩5分)

 台東区東上野1-20-6 丸幸ビル2F1Fがローソン)

 地図:http://www.mekongwatch.org/images/map.png

※会場の場所が少々わかりにくくなっております。地図をよくご確認の上お越しください。

■参加費:無料(ご参加の方には座談会を記事にした機関誌フォーラムメコン最新号を後日贈呈致します。)

■参加申込:事前にご連絡下さい。お申込みの際には、お名前、ご所属、連絡先、および新JICAについて知りたいことがあれば、お送りください。

■申し込み・問い合わせ:(特活)メコン・ウォッチ(担当:内山、大垣)

 Tel: 03-3832-5034 Fax: 03-3832-5039

 Eメール: event@mekongwatch.org

 Website: http://www.mekongwatch.org

皆様のご参加を心よりお待ちしております。

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03. Januar 09

【公開セッション】生命という策略(2009・1・25 四谷アート・ステュディウム)

●公開セッションのお知らせ
パネラーの皆さんから公開セッションのご案内をいただきましたので,下記に詳細を掲載します。



【生命という策略】──時間あるいは空間(経済そして政治)のはじまりとしての

2009年1月25日(四谷アート・ステュディウム)



批評を問いつめていくと、結局、空間と時間の体制にぶつかってしまう。しかし、であるならば、批評とは(そして、それが対象とする芸術作品とは)すなわち経済の問題であり政治の問題にすぎないのではないか?
経済と政治という活動を根拠づけているのは、(アダム・スミスの想定した homo economicus というモデルが崩壊してもなお)どのみち主体という単位である。経済も政治も主体(それを体現する有機体、としての人間)を必要とし、その上でそれを操作し、また解決すべきだという問題を捏造しようとする。これらの議論はいずれ、彼らの措定する人間という問題、すなわち「人間の内と外をいかに線引きするか」という問題の変奏でしかない。
人間によらない経済、政治、あるいは空間、時間。別の有機体による(としての)空間・時間の体制の仮構。人間の問題でないのであれば、経済という問題はただちに解決(解体)もされるだろう。それらを考えることは、芸術が人間から離れる(ことを考える)よりはずっと簡単であり、有意義である。
芸術(あるいは批評)に関わる偽の問題を、生命科学、(反)精神分析の方法をもって、再考する(解体、解毒する)シンポジウム。

日程|2009年1月25日[日]
時間|13:30―16:30[13:00開場]
会場|東京国立近代美術館 講堂
定員|130名
参加費|1,500円
主催|近畿大学国際人文科学研究所


[出演]
大橋完太郎[表象文化論]
郡司ペギオ-幸夫[理論生命科学]
三脇康生[精神科医/美術批評家]
岡﨑乾二郎[造形作家/評論家]


[申し込み/問い合わせ先]
近畿大学国際人文科学研究所
東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム
〒160-0004 東京都新宿区四谷1-5
tel. 03-3351-0591(9:30-17:00、日曜・祭日 休)
●お電話でご予約ください。(※1月6日まで冬期休業中ですので、ご了承ください)


[会場案内]
東京国立近代美術館 講堂
〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1(美術館地下1階)[地図]
東京メトロ東西線 竹橋駅1b出口より徒歩3分

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24. September 08

【上映会】 映像でメコンを渉る 第3回 『水の恵みと人々、カンボジア』(メコン・ウォッチ事務所・御徒町)

 メコン・ウォッチでは、これまで収集してきた映像資料や作成したドキュメンタリーを皆さまと一緒に鑑賞する会を定期的に開催していきます。第3回は、カンボジアの川や湖での漁業に関する作品をご覧いただきます。英語字幕の作品ですが、カンボジアや漁業に関心のある方は英語が苦手でも十分興味を持って見られると思います。皆さまのお越しをお待ちしています。

■日時:2008年10月3日(金)18:30開場、19:00上映開始、終了予定20:30
■場所:メコン・ウォッチ事務所(JR御徒町駅より徒歩5分)
 台東区東上野1-20-6 丸幸ビル2F(1Fがローソン)
 地図:http://www.mekongwatch.org/images/map.png
※会場の場所が少々わかりにくくなっております。地図をよくご確認の上お越しください。
■参加費無料
■参加申込:事前にご連絡下さい。お申込みの際には、お名前、ご所属、緊急連絡先、メコン・ウォッチ会員の方はその旨もお伝えください。定員25名(先着順)。定員を超えた場合のみ、こちらからお断りの連絡をさせていただきます。
■申し込み・問い合わせ:(特活)メコン・ウォッチ(担当:木口、木村)
 Tel: 03-3832-5034 Fax: 03-3832-5039
 Eメール: event@mekongwatch.org
 Website: http://www.mekongwatch.org

【上映作品】
「洪水が引いたあと」(原題:"When the floods recede") 55分
 監督 Peter Degen, Pocho Alvarez
 制作 Peter Degen, Peter Swift

 カンボジアには「水のあるところには魚がいる」ということわざがあります。人々は季節によって溢れかえる水の中で暮らしていますが、「洪水」は人々に豊かな漁業資源をもたらすものでもあるのです。
 上映作品は、トンレサップ湖周辺を中心に、漁業や人びとの生活の風景を生き生きと鮮やかに描いています。特にさまざまな形の漁具を使って魚を捕る風景や、農民が牛車を連ね、プラホックという魚の発酵食品を作りに水辺に向かう映像は一見の価値があります。しかし、このような生活も近年の様々な社会変化により変容を強いられており、住民は過酷な現実に直面しています。
 制作者のPeter Degen氏はメコン河委員会漁業プログラムの元職員であり、現在もカンボジアで漁業の専門家として活躍しています。Degen氏の深い洞察と美しい映像、住民の語りをお楽しみください(カンボジア語・英語、一部英語字幕つき。音声には多少雑音が入ります。)

■メコン・ウォッチには活動の中で収集した映像資料や、プロジェクトで制作したドキュメンタリーなどの蓄積があります。人々の暮らしを紹介したもの、社会・環境問題を取り上げた作品、研究機関の制作した資料など、作られた背景や内容、視点は様々です。これらは商業ベースにのる可能性が低く、一般の方の目に触れる機会はほとんどありません。メコン圏への理解を深めていただくため、これらの資料を生かして定期的に鑑賞会を開催していきます。

※この会では、上映作品の選定・準備のお手伝いをしてくださるボランティアを募集しています。月に2回ほど事務所に集まっていただけることが条件です。ご関心の方はメコン・ウォッチまでご連絡ください。

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26. Juli 08

【トークショーのお知らせ】林家しん平×螢雪次朗×雨宮慶太×金子修介×井上リサ(司会)~池袋・新文芸坐で8月2日(土)

 落語家で,インディーズ特撮怪獣映画の監督としても知られる林家しん平監督の最新怪獣映画 『深海獣レイゴー』の上映に併せて,下記の通り,オールナイトでトークショーを開催いたします。また今回は,林家監督の作品の他に,監督が自身の作品の中でもっとも影響を受けたといわれる 『ゴジラ』(1954年版)と,平成ガメラ3部作の中でも評価の高い金子修介監督の 『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』も併せて上映されます。
 怪獣映画が大好きな方は,皆様ふるってご来場ください!

第2回「深海獣レイゴー祭り」
~大怪獣・オールナイトでぶっ壊せ!~

8月2日(土)22:30スタート
(★トークショーは深夜2時からスタート予定です)

東京・池袋・新文芸坐
http://www.shin-bungeiza.com/
『深海獣レイゴー』公式web
http://www.reigo.jp/

●スケジュール予定
22:30~ 『ゴジラ』(本多猪四郎・円谷英二,1954年)上映・約98分
00:05~ 休憩・約15分
00:20~ 林家しん平監督トーク・約5分   
00:30~ 『深海獣レイゴー』(林家しん平,2008年)上映・81分
01:50~ 休憩・約15分
02:05~ 上映後トークショー・約60分
03:05~ 休憩・約15分
03:20~ 『ガメラ3邪神(イリス)覚醒』(金子修介,1999年)上映・108分
05:10  終了予定

●トークショーゲスト予定
林家しん平監督 (本作品監督)
螢 雪次朗 さん(俳優・大迫登役)
雨宮慶太監督 (映画監督・深海獣レイゴーデザイン)
金子修介監督 (映画監督)
井上リサ~司会 (現代美術作家・医学史・医学概論研究者)

林家しん平監督公式サイト
http://shinpei.net/

螢雪次朗さん公式サイト
http://www.tribeca99.com/artists/hotaru.shtml

雨宮慶太監督公式サイト
http://www.crowdinc.com/

金子修介監督公式サイト
http://www.shusuke-kaneko.com/
金子修介監督公式ブログ
http://blog.livedoor.jp/kaneko_power009/

【『深海獣レイゴー』 レビュー】再掲
 自主制作映画と銘打ちながら,約1億の製作費をかけ,しかも完成までに足かけ4年を要した作品である。一言申し上げると,こんなことをやらかして,まったくバカじゃないかと思うのは私だけではないだろう。しかし,バカにならなければ怪獣映画などは撮れないという今日の映画業界の情況を理解することで,この作品が紆余曲折の末,完成に至り,商業映画として公開へと踏み切った監督以下スタッフの方々にまず敬意を表したい。

 『深海獣レイゴー』の制作の話題がちらほら聞こえてきたのは,今から3年ほど前である。詳しくは以前のエントリー(http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/03/index.html)でも書いたが,ちょうど東映の大ヒット作品『男たちの大和』の公開時期と重なっていたのである。そして,それを意識するかのごとく,この作品のタイトルも当初は『レイゴー対大和』であったと思う。今回完成した作品を改めて見ると,初期の原案どおり,『レイゴーVS大和』の体は成していた。つまり,我々が子供の頃,ゴジラやガメラの映画に強そうな新怪獣が登場するたびに,この“ゴジラVS─”または“ガメラVS─”という未知の対決に胸を躍らせた怪獣映画における期待値は十分に満たしているということである。
 今回,このレイゴーなる大怪獣が戦う相手は旧帝国海軍の最大にして最強の戦艦大和である。林家監督によると,このような奇想天外なプロットが出来上がった経緯は,もともとは自分が好きなゴジラ的世界観とガメラ的世界観のミッシングリンクを仕掛けることから広がっていったらしい。つまり,この2つの世界観に何らかの接点を持たせるとすれば,設定に様々な拘束がかけられるであろう現代や未来を舞台にするよりも,ゴジラ,ガメラがこの世に姿を現す以前の近代を舞台にすることで,その空洞の空間で自由に大怪獣を暴れさせることができるのである。

 ゴジラ,ガメラは文字通りわが国を代表する二大怪獣であり,その人気も二分している。そこで2つの世界観にニアミスが起これば,必然的にゴジラとガメラは戦いざるを得なくなり,そこで展開されるであろう“ゴジラとガメラはどちらが強いのか”といった論争は,例えば「エイリアンVSプレデター」のように大人の思惑もからんだ不毛な結果になることは目に見えているわけである。そこであえてゴジラもガメラもまだ姿を表わさない近代に舞台を設定したのは正解である。しかも,全編を通して,ゴジラ,ガメラはそこにはいないが,いずれ我々の前に現れるであろうことをによわせる演出が随所になされ,この二大怪獣をあえて登場させることなく,ゴジラ的世界観とガメラ的世界観の融合を果たしている。例えば,怪獣が現れる予兆として,最初にその怪獣の餌である別の生物が現れたり,怪獣と思われる未確認生物の目撃が特定の人物に限られたりする。また,土着の住民に警告をされたり,別の場所で被害にあった人物と偶然に接触したりといったシークエンスは,怪獣映画の伝統的な様式美である。この作品でも,レイゴーに自分の艦がやられたとされる敵国の水兵が大和に救助されるという重要なシーンがある。ただ一点だけ残念なのは,この敵国の水兵からは被害にあった自分の艦や僚艦の名前が具体的には出てこないことである。ここでもし敵国の艦の名にアイオワ級戦艦の名でも上がれば,それだけでもレイゴーという未知の大怪獣がいかに強大であるのかを印象づけられたであろう。また同時に,そのレイゴーに対し,航空兵力ではなく艦に搭載された重火器のみで迎え撃つ大和が文字通り史上最強戦艦であることを揺るぎない事実として描けたであろう。

 では,今回登場するレイゴーなる大怪獣は一体いかなるものかといえば,それは監督に言わせると,“ゴジラになる前のゴジラ”である。円谷監督の初代ゴジラの設定を踏襲するとすれば,ゴジラは中生代の生物が放射性物質によって変異をきたして誕生した怪獣であるから,当然ゴジラ以前の何者かがそこに存在していたはずである。実はこの“ゴジラになる前のゴジラ”という着想は,以前にも大森一樹監督の『ゴジラVSキングギドラ』でも出てくるが,ここでは南方に展開していたはずの連合艦隊と,島に生息していたゴジラ以前の巨大な爬虫類が戦うことはなかった。そのかわりにその巨大な爬虫類は米帝の艦砲射撃によってあっけなく倒されるのである。それに比べてもレイゴーは,例え“ゴジラ以前のゴジラ”であるとしてもいささか強暴である。人を好んで喰うあたり,捕食動物として食物連鎖の最頂点に君臨している様子がうかがえる。これに対する大和も,スペック上は世界最強戦艦である。史実ではそのスペックを活かす場がなかったが,そのことがかえって,大和亡き後の今日でも,様々な所謂「架空戦記」といわれるものに幾度となく登場する経緯となっている。
 レイゴーと大和との戦いで面白いのは,大和は史実に沿った姿で忠実に登場することである。したがって巨大怪獣と対する時には当然のことながら94式三連装46サンチ砲をはじめとする重火器で戦う。ゴジラやガメラでは自衛隊のオーバーテクノロジーによる超兵器に見慣れているせいか,これは非常に新鮮であるとともに,大和に搭載された重火器の威力をあらためて感じさせるアイディアだ。
 また,この作品においておそらくは議論の俎上に上がるであろうと思われる“これは「怪獣映画」なのか「戦争映画」なのか”という問題提起であるが,私は個人的にそのどちらにも当てはまらない,まったく新しいジャンルの作品であると位置づけることにする。なぜならばこれは,一見すると怪獣映画や戦争映画に見えそうなのだが,実はその両者に通底している伝統的様式美により「日本」というものの強さと美を再構築することを試みた作品だからである。監督自身はこれをジャパネスク怪獣ロマンと呼ぶ。強いものにも“ものの哀れ”が存在するわが国独自の世界観である。
 昨今,わが国に古くからある怪獣映画にインスパイアされたと思われる外国産の怪獣映画を見る機会が多々あるが,そこに登場するものは,怪獣ではなくただの化け物である。生物的リアリズムを求めすぎるあまり,単なる嫌悪感に満ちた「魂」のない物体がそこに存在するだけだ。翻って,林家監督が作り出した世界観は,怪獣にも「魂」が宿るという世界観である。この主題は,監督がインスパイアされたという金子修介監督の平成ガメラ3部作や,また大森一樹監督の『ゴジラVSキングギドラ』にも一貫して通底している。レイゴーと大和の戦いでも,主砲で一撃を喰らわしたレイゴーに向かってなおも銃座から一斉掃射をする水兵に対し,それを制止した大和の艦長もまた,そんな美意識を持った人物に描かれている。駆逐艦の円陣の中で展開されるこのシーンが非常に凄惨であるだけに,日本海軍の伝統的なシーマンシップがより際立つ。
 ラストは,死闘の末,大和以下連合艦隊が,再び昭和20年4月7日の史実世界へと戻ってい行くという演出が違和感なくなされている。その後大和がどういう運命をたどったかということは,我々日本人なら誰でも知っているだけに,大和という艦が持つもう一つの側面,つまり悲劇性が怒涛の海に展開されていくのである。この部分はそれを感じさせるのに十分なシークエンスなので,賛否両論あると思うが歌舞伎パートの演出は,やや過剰ではないかと思った。(井上リサ)

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29. Juni 08

【トークショーのお知らせ】竹藤佳世監督×井上リサ(7月17日(木)池袋・シネマ・ロサ)

7月5日より公開される映画『半身反義』(公式サイトhttp://www.hanshinhangi.com/)の竹藤佳世監督と,映画の公開に合わせたトークショーを下記の通り開催します。皆様ふるってご来場下さい。

「竹藤佳世×井上リサ」トークショー
日時●7月17日(木)
    21:00~ 映画『半身反義』上映
    22:30~ トークショー
場所●池袋シネマ・ロサ
    http://www.cinemarosa.net/index.htm

 竹藤佳世監督は,8mmによるインディーズ作品の時代から,一貫して身体性やそれに基づく不条理な世界を,主に女性が抱える身体論の断片として描いてきた。これまでの作品の中でも『骨肉思考』(1998)や『殻家KARAYA』(2000)などがその代表的な作品である。
 今回初めて上映される作品『半身反義』は,脳疾患で半身麻痺になり,現在も療養中の演出家・山岸達児の半生を追ったドキュメンタリーである。

【作品紹介】再掲
 竹藤佳世監督の最新作『半身反義』をTCC試写室で見る。監督の作品を見るのは2002年の『彼方此方』以来だ。
 今回の作品『半身反義』は、『東京オリンピック』(1964)、『大阪万国博』(1971)などの演出を手掛けた演出家・山岸達児へのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリー作品である。

 山岸達児は1929年に上野で生まれ、日大芸術学部を卒業した後に毎日映画社に入り、そこで数多くの展示映像の演出を手掛けてきたパイオニア的存在である。特に、展示映像や映画の世界に「企画」という概念を持ち込んだのは当時としては非常に画期的なことであり、それが当時はただちにビジネスモデルとして成り得なかったとしても、後の映画界や、また映像表現を志すものに対して多大な影響を与えていったことは間違いないであろう。その山岸は、2003年に脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたものの半身不随となり、現在も施設で療養中である。そこで山岸と以前から個人的に親交のあった監督の竹藤は、ほぼ寝たきりになってしまった山岸の病床へと通い続け、4年かけてこのドキュメンタリーを完成させた。

 試写の前に、監督から次のような舞台挨拶があった。
 まず、この作品を撮ろうと思った経緯について、自分が今まで生きてこれたのはいろいろな人々との出会い、支えがあったからであって、創作活動を通して出会った人々にも“縁”のようなものを感じている。自分は山岸達児の世代が作ってきた戦後、昭和の日本というものの上に立って生きてきたことは否定できないことであり、自分とは縁も所縁もなさそうな山岸の世代の人々とも、“縁”やつながりのようなものを感じている。戦後の日本を作ってきた人々への感謝の気持ちも込めて、自分は何ができるだろうかと考えた時に、今回の作品の構想が生まれたそうである。

 私は監督のこのコメントに多々共感する部分があった。特に、何かの“縁”により自分の日々の営みが続いているということや、昭和という時代へのこだわりや自分との関わりである。
 監督の竹藤のこういったコメントからも現れるように、今回の作品『半身反義』は、山岸へのインタビューを中心に昭和の断片を映像で切り取りながら、山岸が見てきた昭和と、竹藤の見聞きした昭和という時代が、まるで今まで深い地層の中に埋もれていたかのように、その巨体を持ち上げてくる。
 まず冒頭では、山岸の少年時代と思われる役の人物が、場所が明らかでない海岸を彷徨っており、やがて穴の明いたポリタンク様の漂着物を見つけ、その中を覗き込むシーンから病床の山岸へのシーンへと移行していく。冒頭の海岸のシーンはラストにも登場する重要なシーンで、人が誰もいない海岸に放置されて朽ちた家電等の廃棄物、あるいは漂着物は、まさに「高度経済成長時代」という地層の中から顔を出した匿名の堆積物に他ならない。あるいは、老いて朽ちていく、今ではかつての著名なクリエイターから一個人となった山岸達児の骨格にも見える。
 私があえて、一時代を築いてきたクリエイター、山岸達児に対して「一個人」という言葉を使ったかと言えば、それは、竹藤がこの作品の中で掲げる「老い」というもう一つのテーマを受けてのことである。

 竹藤がインタビューのために通いつめた山岸の病室は、著名人らがしばしば利用する差額ベッド代がかかるような個室ではなく、一般病棟の大部屋であった。したがって、竹藤が山岸に対して回しているカメラの中にも、当然のことながら他の患者の見舞客の声、遠方で響く医療スタッフの声なども入っている。また、おそらく竹藤や周囲の関係者から話を聞かない限り、他の入院患者や見舞客、そして医療スタッフまでも、かつて日本で「東京オリンピック」や「万国博覧会」があったことは知っていても、山岸達児がどんな人物かを知らないであろう。つまり医療スタッフからみれば、山岸が過去にどんなに偉大な功績をあげようとも、その一線を離脱してしまった後、今は医療空間にいるのだから、「一患者」として均一化されてしまうのは当然である。もちろんこれは、「生・老・病・死」という宿命を等分に持って生まれてきた我々にもいつか必ず訪れることではあるのだが、山岸のようにかつて栄華を極め、市井の市民とは異なった華やかな人生を送ってきたように見える人間であればあるほど、一人になって「老い」を迎えた時の落差は、あまりにも大きい。
 竹藤もそのようなことを感じてなのか、映像の中では病床の山岸との対話と並行して、山岸に所縁のある人物を訪ね歩くフィールドワークの様子も出てくる。ここで竹藤が訪れたのは、毎日映画時代の同僚や大学関係者、『東京オリンピック』や『万国博覧会』の制作に一緒に関わった当時のスタッフなどである。そして彼らの話の断片から山岸達児像を構築していく。ここで興味深かったのは、山岸を語る人々よりも、むしろ山岸が現役時代に残した膨大な資料の数々である。その資料を竹藤自ら倉庫から出すシーンがあるが、軽く1000は超えるであろう蔵書、自著、台本、コンテ等の数々は、竹藤が「1人の人間の(もちろん山岸のことを言っている)のキャパシティーを超えている」と感嘆の声を上げたように、それは圧倒的な質量である。
 また、竹藤のフィールドワークはこれに留まらず、山岸が1964年、つまり「東京オリンピック」の年から住まいにしていた松原団地の部屋なども訪れている。かつての空間はほぼ空き部屋状態となっているが、それでも、膨大な資料や蔵書で底が抜けかけていた床や、部屋の随所に残る生活臭のあるシミなどは、その時代から生きてきた山岸の痕跡などがはっきりとうかがえる。そしてもうひとつ重要なのは、この団地に今も住んでいる壮年の夫婦が登場することである。彼らはいわば市井の市民として山岸と関わってきた人々であり、したがって、クリエイターとしての山岸のことはよく知らなくても、そのかわりに山岸の日常と等身大でつきあってきたような人々である。言いかえれば、このような名も無き人々も山岸とともに戦後の昭和を作ってきた人々ともいえる。冒頭で監督がコメントした一連のメッセージは、このようなところからも良く伝わってくるのだ。

 それにしても、山岸の一番の代表作といえる『東京オリンピック』が、人類の肉体の究極的表現の場であり、それに相応しいアスリートの姿をフィルムに焼き付けた山岸の肉体は今、「老い」と「病」で自由を失い、さらにそれは、「人類の調和と進歩」というテーマを掲げた『万国博覧会』からすでに30年以上経過した現在でも、その「老い」と「病」から救われることはない科学の限界を見せつけられる思いである。
 1981年の『ポートピア81』でマルチビジョンのブースを手掛けた山岸は、来るべき情報化社会とそれに象徴されるマルチメディアの台頭をすでに予見していた。その14年後に、その人工の埋め立て地が阪神淡路大震災で液状化現象を起こす。美しく舗装されたフィールドの下からは、まるで内臓のように、あるいは地層の堆積物のように泥や液体が染み出し、かつての未来都市が脆くも崩壊していった。
 山岸の一連の仕事を時系列で見ていくと、この未来都市の足元に露出したものは、今まで地下に封印されていた昭和の身体の一部そのものではないかと思えてくる。映像でもそれを感じさせるように、山岸のインタビューとともに、「東京オリンピック」、「マンモス団地」、「新幹線」、「万博」、「高層ビル」、「モノレール」といった昭和の象徴が次々と挿入され、その映像の彼方に、これらのものを作ってきた名も無き昭和の人々の姿が群像になって浮かんでくる。それに対し我々は、何事もなかったように「平成」を迎え、そこで“失われた10年”に行き詰まるのだが、私はむしろ、山岸達児のように戦後の昭和を作ってきた人々の姿を胸に刻みながら、“失われなかった10年”の中に、「昭和」との“縁”を求めてみたい、と思える作品であった。(井上リサ)


 

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02. März 08

金子雅和監督×井上リサ トークショー(渋谷UPLINK X)

 先日、渋谷のUPLINK Xで行った金子雅和監督のトークショーの模様を少し報告したいと思う。
 現在UPLINK Xでは、先週も当ブログでレビューとして紹介した金子監督の『すみれ人形』がレイトショーで好評上映中である(3月7日まで)。上映と併せて連日各界から多彩なゲストを招いての金子監督のとのトークショーも好評のようで、『すみれ人形』という作品を様々な可能性から多面的に捉えていくというこの試みは、次の作品を制作する時のイメージの発露となるであろう。

 今回は私は29日(金)の回に、ゲストとしてトークショーに招かれて、そこで「身体と心」というテーマで少し話させていただいた。
 私はこのトークショーがきっかけで、かなり突っ込んで、映画製作に対する金子監督の姿勢、そしてテーマなどについて話すことで、はっきりとわかったことがある。それは金子監督独特の映画方法論であり、前回(2002年)に拝見した8mmフィルムの作品『那美の瀬』とも大いに関連する。
 私はかねてから、金子監督の作品を見た後に、なおも強く印象に残っている自然の風景が、月日が経ても色あせずに残っているということが不思議でたまらなかった。例えば、『那美の瀬』に登場する郊外を流れる二級河川、ダム河口付近の道幅が極端に狭くなった林道、ほの暗い源流といった風景なのだが、これらの風景は、単に登場人物の心理の中にアーカイブされた、いわば“通り過ぎていく”忘却の景色ではなく、それとは反対に、登場人物の身体が、その五感をもって肉体的に記憶している風景なのである。
 私がここの部分を話に振ってみたところ、監督からは実に興味深い答が返ってきた。監督いわく、自分がシナリオの段階から映画を作りこんでいく過程で、シナリオのセオリーである登場人物の「心理」から描いていくのではなく、あくまでも出発点は「身体」にあるのだそうだ。そしてその「身体」そのものを、監督が自ら作品の恒久的テーマとしている「人間感情の発生の起源」の発露とし、「身体、肉体」→「精神」というベクトルで描いていくということだそうだ。
 『すみれ人形』には、随所に猟奇的な場面が多く挿入されているが、それが単に多くのサイコホラーと異なる点はここなのである。サイコホラーの場合、精神心理学、分析学、精神医学などの知識があれば、その展開が、例えばフロイトなどの既存のアーカイブのバリエーションであることに容易に気づくことができ、その物語で登場する風景や身体も、その展開を説明するツールでしかないことが理解できる。すなわちサイコホラーの場合、その秀逸にして職人技とも思えるバリエーションを楽しむことに価値を見出すことができるのである。だから映画に限らず昨今のホラーゲームなどは、それに特化したものが人気を得ているのは納得できるのである。
 では金子監督の作品はどうかというと、「人間感情の発生の起源」を身体に求めるというテーマのとおり、登場人物の猟奇的な行為は精神心理学的な「病」として帰結するのではなく、人間の身体が原初的に持っている感覚や機能、たとえば欠損組織の再生機能、自己治癒機能などが暴走した結果、猟奇的な事態が発生するということだ。金子監督がしばしばインスパイアされたという塚本晋也監督の作品や、舞踏家・土方巽の作品(特に、石井輝男監督による『恐怖奇形人間』)なども、たしかに共通するものがある。また、たとえば癌細胞の発生・増殖、そして増大に見られる血管新生という現象も、言うなれば大いに猟奇的な事態であり、ここには人間の意思という、いわば「精神」をコアにした秩序もないままに暴走していく身体の姿が存在する。

 次に、『すみれ人形』の登場人物たちについて話が及んだが、ここに登場する主要人物たちは、何らかの事情で、身体の一部を欠損しているのだ。まず主人公の文月はもともと腎疾患であり、妹・すみれから腎臓をドネーションされることで身体の欠損を補填した。当然のことながら、妹・すみれはそれによって片方の腎臓を失い、さらに猟奇殺人の被害者となり、右腕までも欠損する。見世物小屋のストリッパーも右腕が欠損しており、その治療のために義手を制作している螢介のもとへと通っている。この人間関係の中で共通して希求されるのが、失われた身体再生の物語である。しかし、この身体再生の物語には従来のヒューマニズムは存在するはずもなく、それぞれが肉体の赴くままに、猟奇的行為を繰り返していくのだ。この点について監督は、“切り離された身体へのいとおしさ”という言葉で表現してくれた。かくして秩序のないヒューマニズムの中で希求される「身体再生」は、結果的に美しい破滅を成し遂げるのであるが、これは精神心理学的「病」による仕業ではないことが明確に理解できるのである。

 後日監督からいただいたメールの中で、次回作はさらに「生命の機能」と「精神」の関係に深く関わった作品を撮りたいとのメッセージがあって、当然のことながら、その中で重要なテーマとなってくるのが「切り離された肉体に対しての執着」だそうである。次回作へのモティベーションも高まっており、ブログ読者の皆さんにも、随時トレーラー情報などをお伝えしたいと思う。

なお、上映最終日まで、連日イベントが盛りだくさんである。

3/2 日 本編上映後 山田キヌヲさん(女優)×綾野剛さん(俳優)×オガワシンジさん(キャスティングディレクター)によるトーク
3/3 月 ドラァグクイーン・ レイチェル・ダムールのステージを記録した短編ドキュメンタリー『La Nuit D'Amour』(16分)上映+ レイチェル・ダムールさんによるミニステージ 
3/4 火 古澤健監督×金子監督によるトーク 
3/5 水 竹久圏さん×山川冬樹さんミニライブ
(※この回のみ上映料金一律¥1,500となります) 前売り・他割引券をお持ちの方も受付にて+¥500お願いいたします。
3/6 木 柳下毅一郎さん(特殊翻訳家・映画評論家)×金子監督によるトーク
3/7 金 本編上映前 小谷建仁さん、山田キヌヲさん(予定)、松岡龍平さん、金子雅和監督による最終日舞台挨拶
     本編上映後 沢則行さん(人形劇作家)×金子監督によるミニトーク
詳しくは
http://www.sumireningyo.com/ (すみれ人形公式HP)
http://www.uplink.co.jp/x/log/002413.php (アップリンクHP)

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