名古屋芸術大学

11. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(2) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 一通り採点の終了した学生の最終レポート(「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」)をもう一度読み直している。奇想天外な内容も多いのだが、今日の医療、特に精神医療や難治性疾患患者のターミナルケアに対しての示唆に富んだものが多く、2010年度の集中講義の中でもフィードバックしていきたい。
 今朝再び読み直したのは、サンクト・ガレンという空間を病院と隣接した多目的スペースとして設計し、病院を取り巻く環境をコンパクトシティとして見直していくという内容のものだ。

レポートタイトル:「病院の隣の小社会」(デザイン学部デザイン学科1年)
 ここでサンクト・ガレンに担われた空間的役割とは、入院患者や障害者の日常的生活を全てサポートするオルタナティブ・スペースである。設計書を参照すると、まず礼拝堂正面に当たる吹き抜けの空間がインフォメーション・センターとなっている。中央の空間はギャラリーになっており、キッズスペースと休憩所を隔てた最後部にはミニシアターが設けられている。中央のギャラリー・スペースを中核にして、この他には作品制作用のアトリエ、画材店、書店、メディアショップ、ウェアショップ、ネイルサロン、コスメサロン、フードコート、クッキングスペース、そして野外には植物園が設置されている。
 ここに設けられた空間は、人間が最低限、文化的生活を営むために必要なものである。近年までは、病人や障害者となった途端に、治療やケアのためのアメニティが優先されるため、生活における文化的要素、創造的要素を担う部分は「制度」の中で必然的に削除されるケースが多かった。しかし、病人や障害者のノーマライゼーションという事を考えた場合、例えば介助者、介護者視点での機能性を重視したウェアだけではなく、それを身につける病人や障害者の目からみて、ファッション性を重視したウェアがあってもいいわけである。
 具体的な事例を挙げれば、介助者を必要とする障害者が着用しているウェアは、これまではボタンが大きめのものが多かった。これはウェアの着脱の際、小さくて細かいボタンよりも大きいボタンのほうが作業がし易いからである。また女性であっても髪が短く散髪されているのは、単に衛生的というだけではなく、やはり頭髪の手入れに手間がかからないからである。これをそのまま健常者たる人間に相対させたらどうなるか。このような状況に納得するものは誰もいないであろう。今日ではこのような観点から、病人や障害者であってもそれぞれのライフスタイルやファッション的志向を重視したウェアも製造・販売されるようになってきた。
 このレポートで設計書の中に設置されたウェアサロン、ネイルサロン、コスメサロンなどは、病人や障害者の日常生活において、文化的側面を担うものの一つである。この他にも、劇場、映画館、書店などが併設されており、ここで全てのものが賄える仕組みになっている。この空間概念は、近年、主に限界集落といわれる過疎地において構想されているコンパクトシティとも類似している。町の中の居住区から歩いて行ける距離に学校、役所、病院、公園、その他文化施設を収めた都市計画の事である。少子高齢化が進む中で、住み慣れない都会へ移住するのではなく、住み慣れた街を最後の住処にと考えている集落居住者が増えてくれば、このようなコンパクトシティが実際に増えて行くであろう。歴史を遡れば、ギリシャの都市国家ポリスこそ、ステディウム、コロシアム、ホスピタルという空間をひととこに集結させたコンパクトシティの先駆けであり、この空間では病人も他の市民と一緒に暮らしていたのである。
 学生はこのレポートの中で、この計画の趣旨として、病人、障害者の日常生活におけるノーマライゼーションと、精神的ケアをあげている。ノーマライゼーションについては先ほど述べたとおり、人間が文化的生活を送るために必要最低限な空間やアイテムを用意することで解決を試みている。次に重要な精神的ケアは何によってなされるのかといえば、ここでアートの要素が立ち上がってくる。ギャラリーは、単にそれだけでは鑑賞用の空間にすぎず、病人や障害者、そしてここを訪れる市民たちが能動的に参加する空間には至らない。それを補完するかたちで、アトリエとクッキングスペースが用意されている。アトリエの設置については当たり前に必要なものであるが、むしろクッキングスペースという空間が提示されたことが興味深い。
 この空間は、病院ならば入院患者用の調理室に相当する空間であろう。それがここでは、病人、障害者、市民が利用できるスペースとなっている。入院生活における「食」の要素は、入院生活の根幹を支えているものでもあり、「食」の要素の充実は、そのまま入院生活における充実にもつながる。そこに市民のサポートを受けながら病人や障害者が関わる事によって、「食」という一連の「命」をつなぐ行為の中に、単調な入院生活の中で希薄化・記号化された身体性を再構築するわずかな可能性もみえてくる。
 また、料理はもともとアートと並んで創作的な行為であり、この部分において、命を支えるという医療の要素と、料理を作るという創作的な行為が融合することとなる。またそれだけではなく、病人ならば日常生活へ、そして障害者ならば地域の中での自立した生活に向けてのトレーニングの機会ともなるであろう。
 その他、この空間における有機的な要素としては、植物園が設けられていることである。他の学生の今回のレポートでも、庭園や家庭菜園などを併設する空間設計を提示したものが見受けられるが、いずれもグリーンツーリズムを意識したものである。植物を通して四季を演出し、様々な植物が見せるであろう萌芽、結実といった生命サイクルは、医療システムの中で一律に計量化された患者の身体に、生命力の存在の根本を改めて投げかけることになるだろう。

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08. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(1) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 芸術療法講座の2009年度最終レポートをようやく読み終わる。2009年度の最終レポートは,「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」
 芸術大学の学生だけあって,奇想天外な内容のものが多い。最終レポートを取り組むにあたってのガイダンスでは,サンクト・ガレン修道院のもっとも有名な復元図を学生に渡し,これを叩き台にするように説明した。また,古代ギリシャのポリスで誕生したホスピタルという空間が,いわゆる病院の機能を備えた近代的ホスピタルへと分化していくプロセスで,修道院という空間が大きな役割を持っていたことをもう一度振り返り,その象徴としてサンクト・ガレン修道院という空間が存在していることを説明した。
 学生がこのサンクト・ガレンという空間にどのようにアプローチしていくのかも重要であるので,詳しい情報についてはあえて解説していない。したがってこの空間の図書館の設計が非常に特徴的であることなども,学生自らがこの空間について文献をたどるなりして知り得ることである。

 それでは,最終レポートの中で,奇想天外な発想をしながらも,今日的な医療システムなどの問題に深くアプローチしているもの,講義の内容を集大成としてよく理解しているもの,アートの側から医療現場に対して問題を具体的に提起したものなどを順に紹介していく。

レポートタイトル:「ガレンピック」(デザイン学部デザイン学科2年)
 これは,サンクト・ガレンを障害者,病人,市民のための五輪会場にする,という奇想天外なプランである。この学生はまずこの発想にいたった理由として,サンクト・ガレン平面図を最初に見た時に,陸上競技のトラックをイメージしたとある。そして次に,芸術療法講座集中講義の中で見た障害者プロレス「ドッグレッグス」の試合の映像を思い出し,ここの空間を患者と市民のための五輪会場にしようという結論にいたったそうである。
 ここでは「患者」「市民」「障害者」がバリアフリーな空間でコミュニティを形成していく可能性を示唆している。この「ガレンピック」なる五輪大会は市民により作られる五輪であり,その市民の中には病人も医療従事者もそれぞれ役割をもたらされて参加することになる。つまりこの空間では通常の医療空間,または介護空間における「医師」-「患者」,「介護者」-「利用者」(障害者)といった転置が不可能な硬直した関係があるのではなく,市民一人一人が対等に役割を与えられている,ということが重要である。競技に参加できない者は運営委員となり,大会マスコットやポスターの制作といった仕事も与えられている。また,すべてが自治体予算による市民の手作りであるので,この類の街のイベントを喰いものにする起業塾系NPOや広告代理店は一切介入できない仕組みとなっている。つまり五輪に参加する市民一人一人がスポンサーなのであり,近代五輪の基本的精神に立ち返ったものである。

 具体的な競技についてだが,陸上,近代五種,格闘技などである。それぞれ身体の障害によって階級分けされて競技が行われる。このフォーマットはドッグレッグスの世界タイトルマッチで採用されているものだ。もし肢体が不自由な者と健常な者が戦う時には,健常な者の肢体は拘束具で同じ条件に拘束される。そして残存する自由な身体で身体性のポテンシャルの限りを尽くすという戦いになる。会場には天皇や各国首脳のために貴賓席も設けられているので,事実上の天覧試合のようなものが展開されるのであろう。
 障害者の格闘技は,視野狭窄した道徳論からは,“障害者を見せ物にしている”という理由で批判の対象となるが,古代ギリシャまで遡れば,格闘技そのものがサーカスと同等の見せ物であったわけで,そのような興行的なことを障害者が行った時だけこのような批判がもっともらしくおこる事こそ,人間のポテンシャルを無視した障害者に対する差別とはいえないだろうか。

 サンクト・ガレンという空間をこのような身体表現によるバリアフリーなコミュニティに設計したこのレポートは,障害者医療にとどまることなく,多くの示唆に富んでいる。まず第一に,平面図から陸上競技のトラックを発想するという感覚は,芸術大学の学生ならではの感性ではないだろうか。そしてトラック競技からイメージを広げていき,最終的には古代ギリシャ的な五輪までに発想がたどり着くあたりに必然性を感じる。
 学生らが今回取り組んだ最終レポートは,大きくわけて二つの方法論が存在する。その一つは,サンクト・ガレンという空間を美術史的に,あるいは医学史的に定義づけ,その概念から空間設計を試みたもの。そしてもう一つは,例えば「ガレンピック」のように,平面図そのものからビジュアル的に発想を得て設計されたものである。双方の論の展開はまったく異なっているが,講義の大きなテーマである「医療」と「アート」,または「医学」と「芸術」,その関係性の中にあらたなコミュニティを形成していくという試みに挑んだ痕跡が充分に読み取れるものである。

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21. Januar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生から最終レポートが届く~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 名古屋芸大の芸術療法講座を履修している学生らから,今年度の最終レポートが届く。
 今回の最終レポートの演習テーマは,サンクト・ガレン修道院平面図をモデルにしたコンセプトワークである。
 サンクト・ガレン修道院は,オテル・デュと並び,いわゆる医療施設としての近代的ホスピタルが形成されていく過程において,医学史の中では象徴的にして非常に重要な空間である。今回は,この平面図を叩き台にしてエスキースを作成し,「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」を設計する,というものである。
 つまり学生らには,このサンクト・ガレン修道院という空間を,博物館や美術館のキュレイターとなったつもりで現代的に設計し直すという試みにトライしてもらった。
 どのような空間として設計し直すかはまったく各人の自由である。壁面や支柱を改変することも可能である。場合によっては新たな空間を増設するのもよい。ただし,その空間が演習テーマのとおり「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」の要件を満たしている必要がある。この根拠を示すため,学生らには設計図のエスキースの他に,コンセプト設計のための「計画書」も4000字にまとめて提出してもらった。
 学生らから手元に届いたレポートを順にざっと素読みしてみたが,こちらが思っていたものよりも,かなり内容の高いものが集まったように思う。中には,実際に制作した簡素なマケットを写真に撮り,エスキースを起こしたものや,再設計されたサンクト・ガレン修道院が,街の中ではどのような空間に位置しているのか等を考察するレポートもあった。また,昨今,「笑い」と「医療」の関係性が注目されているということに鑑み,サンクト・ガレン修道院にM-1上位入賞者を招待し,そこで「お笑いライブ」を開催して患者と市民に「笑い」を提供するといった奇想天外なプランまでいろいろと多かった。
 なお今回の課題は、土木・建築コンペにおける空間設計のプレゼンテーションという形式をとっているが、創作性、それから自由な発想の実験を試みてもらうために、あえて計画案の予算計上までは求めなかった。目的はあくまでも「医療」と「アート」が融合可能な市民空間の模索である。そのためであろうか、どの計画案も自治体予算だけではまかないきれない莫大な予算がかかるものとなったようだ。

 学生らが試みた設計案は以下のとおりである。
「安らぎのある空間設計」
「医療現場で市民と患者がアートを楽しむ空間」
「サンクト・ガレン修道院らくがき計画」
「サンクト・ガレン大浴場計画」
「芸術表現のための施設設計」
「絵と写真の壁のある空間」
「精神の安らぎ空間」
「音楽と絵のある空間設計」
「修道院的空間と展示会」
「ガレンピック」(サンクト・ガレンを五輪会場にするという計画)
「ガラス張りの病院」
「アートが万能薬」
「院内アート」
「受け入れる未来」(人の「死」を自然の摂理として受け入れるという空間)
「楽しい病院」(映画、音楽、アート施設が融合したシネコンのような空間)
「文化祭開催計画」(患者、市民、医療スタッフによる共同開催)
「音楽とふれあい空間」
「人から人への思いを素直に表現する空間づくり」
「患者と市民が掲示板などを通してフォローし合う空間」
「アトリエであるギャラリー」
「市民によって作られるアート空間」
「図書館をモチーフにした医療空間」
「心の芸術診療所」
「ペイシェントネットワークによる『医療』と『アート』の融合」
「理想的な葬儀から考える『生』と『死』、『命』について」(サンクト・ガレンを多様な葬儀空間として設計するという計画)
「病は気から」(本棚を中心としたインスタレーション)
「笑いをおこせ」(サンクト・ガレンでコメディを上演するという計画)
「明るいポップな病院」
「芸術作品のある病室」
「五感を利用したアート空間」
「作品の隠された美術館」
「自然とふれあう庭園空間」
「笑いと医療」(サンクト・ガレンでお笑いライブを開催するという計画)
「視覚的効果を利用した絵画のある空間」
「無意識から生まれる世界のある空間」
「悲しみよりほほえみが多い病院空間」
「みんなの家~個性を認め合う空間」
「医療と芸術の繋がる空間」
「芸術大学と医学大学が融合した空間」
「夜の静かなコンサート」
「患者と市民のための多目的ホール」
「4つの循環型アート」
「気軽にいけるアート空間」
「つながりあう。ふれあう。あたたかな病院」
「患者と市民たちとの交流をはかるための病院」
「アルツハイマーに特化した創作活動空間」
「アートを楽しむことで心を癒す公共施設」
「絵画カラーセラピー空間」
「病院の隣の小都会」
「医療器具によるインスタレーション」
「アート・カフェ」

そして、以下が「書式」である。

名古屋芸術大学 芸術療法講座 「美術史から考察する疾病論・医学概論」
「サンクト・ガレン修道院」平面図を題材とした演習
―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―

【概要】
別紙に示したサンクト・ガレン修道院の平面図を参考にして,「医療」と「アート」が理想的に融合すると考えられる患者と市民のための空間を設計,または演出をして下さい。

【書式】①「計画書」
設計,または演出する空間についての具体的な計画の内容,コンセプトを400字詰め原稿用紙×10枚以上で説明して下さい。
(※必要であれば,「計画書」に図やスケッチ,写真などを添付しても可)

「計画書」には,以下の事も必ず含めて書いて下さい。
1.計画の動機:(なぜこのような計画を思いついたのか)
2.計画の裏付け:この計画は,どのような理由で「医療」と「アート」が融合する空間と思われるか。
3.計画の意義:この空間は,そこを訪れた患者や市民にとって何が期待できるか。

【書式】②「設計書」
別紙「サンクト・ガレン修道院」平面図を使って,計画書のエスキースを制作して下さい。

【提出方法】
表紙に計画案タイトルを記入し,【書式】①と【書式】②を必ず併せて提出して下さい。

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13. November 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 演習 「現代の社会病理を象徴するクリーチャーを制作する」

 名古屋芸術大学芸術療法講座の講義では,「病」と「アート」の関係,「医学」と「芸術」の歴史的結びつきなどを,学生らとともに多角的に考察している。
 毎回の講義では,西洋医学史と美術史を平行して学びながら,その時代,状況によって,人類にとって「病」という存在がどのように変容をしてきたのか,という命題についても深く探っている。
 「病」と定義できるものには,大凡以下のように分類できる。
 1)内科的疾患
 2)外科的疾患
 3)精神疾患
 そしてこれに,「死の舞踏」を系譜とするメタファ(暗喩)としての美学上の「病」,それに,「社会病理的“病”」も概念として含めることができる。

 先日の芸術療法の講義では,この中で「社会病理的“病”」を取り上げた。上の動画は,その時に学生が制作した演習のスケッチをまとめたものである。

 講義ではまず,「社会病理的“病”」とはいかなるものなのかを理解するために,1970年代の日本の特撮ヒーロー番組をいくつか紹介した。
 1970年代は高度成長時代として語られることが多いが,国民全員がだんだんと豊になっていく中で,様々な社会的歪みが生まれていったという「負」の側面もある。例えば「公害」「受験地獄」「交通戦争」などという言葉が社会問題として新聞の見出しを飾るようになったのもこの時代だ。教育関係では,「ママゴン」「教育ママ」などという言葉も生まれている。
 この時代に放送された子供向けの特撮ヒーロー番組でも,この時代の社会的背景の影響を色濃く受けている作品が多々あるが,特に,『スペクトルマン』(1971~1972)や『コンドールマン』(1975)などはその最たるものである。ここに登場する数々の異形(怪獣,怪人,宇宙人,改造人間)たちは,この時代の社会病理から生まれたようなものたちが多い。
 例えば,『スペクトルマン』に登場する公害怪獣ヘドロン,交通事故怪獣クルマニクラス,地震怪獣モグネチュードン,ゴミ怪獣ダストマンなどは,同時期に放送していた円谷作品の怪獣たちとは一線を画している。
 また,ストーリーそのものがポリティカルな風刺で構成されている『コンドールマン』には,金の亡者のゼニクレージー,アラブの石油利権を独り占めにしているオイルスネーク,食肉利権まみれの政治屋の権化であるサタンガメツク,バーベQといった異色の面々が,日本国家壊滅のために暗躍する。そしてその首領であるキングモンスターはなんとアジトをNYのエンパイア・ステートビルに構えているハゲタカである。
 このような異形たちは文字通り,時代の怨念や病理が実体化したものである。

 これを踏まえて,学生らとともに『スペクトルマン』の公害怪獣ヘドロン編を視聴した後に,現代の社会病理が実体化した異形をスケッチしてもらった。怪獣,怪人のネーミングも学生自ら考えたものである。
 ネーミングをみても分かるとおり,「ニート」「ひきこもり」「鬱」「不況」「自殺」といった世相をリアルに反映したものが多く,政治家を風刺したものや,ネット環境をテーマにしたもの,行きすぎたエコロジー思想に批判を加えたものまで,実に多種多様,多彩な異形たちが勢揃いした。
 これは現代社会における「死の舞踏」,あるいは「メメント・モリ(Memento mori)」といえるであろう。

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18. Oktober 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2009年度後期集中講座演習01

ワークショップ(動画)
疒(やまいだれ)に任意の記号・文字を加えて新しい文字を作成する




 芸術療法の講義では,西洋医学史,美術史を学びながら,それに関連した様々なワークショップを実施している。
 このワークショップは集中講義の初日に必ず毎年実施しているもので,文字をとおして「病」を身体的に認識する試みの一つである。古代ギリシャ医学について概説したこの日の講義では,古代ギリシャの医学者,哲学者の人間の身体についてのとらえ方,「病」というものについての特徴的な考え方などにふれ,「病」が示す様々な身体の症状もまた,身体自身が表したひとつの「表現」といえることについて解説した。
 このワークショップはそれを踏まえて,身体症状や身体感覚,心身の状態を示す新しい記号を創作するものである。学生らには,あらかじめフォーマットされた疒(やまいだれ)の中に任意の記号や文字を加えて,新しい文字を作ってもらった。

 これを見る限り,毎年様々な面白い作品が出てくるが,「心」に主軸をおいた感覚的な記号が多いのが特徴的である。また,それぞれに解釈は異なるが,同一の作品が複数出ているのも興味深い。

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27. September 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2009年度後期講座シラバス

名古屋芸術大学 芸術療法講座2009年度後期講座シラバス

芸術療法講座
~美術史から考察する疾病論・医学概論~

【授業目標】
“人はなぜ病むのか?”、“「病」はどこから我々のもとにやってきたのか?”──。
「病」の歴史とアートを通してこんな問いかけを行っていくのが本講座である。
本講座ではまず、多数の図版資料、文献をもとに西洋美術史と西洋医学史を古代ギリシャ時代から同時に学びながら、「芸術」と「医学」の関わり、「表現」という行為と「治療的行為」の相違点を明確にしていく。
さらに、図像学の視点でそれぞれの時代の「病」像を抽出し、芸術というものが、人類史の中でいかに「病」と実践的に関わってきたのかを考察し、今日の芸術療法の現場が抱える問題点を踏まえたうえで、「表現」と「治療的行為」の接点の可能性について再度模索していく。

【授業内容と計画】
1)ガイダンス 美術図像学から疾病論、医学概論を読み解くことの意義、今日の芸術療法との関わりについて
2)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(1)
  ~「病」の起源~
3)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(2)
  ~「ホスピタル」の登場~
4)ルネサンス絵画に描かれた医師像と患者像
5)キリスト教絵画における「病」と「手当て」の概念
  ~ナーシングの確立~
6)戦争群像画におけるカタルシス
  ~回復装置として機能する解毒療法~
7)ラファエル前派に描かれた恍惚の女性像
  ~「卒倒」「昏睡」の美学と麻酔学の関わり~
8)西洋カリカチュアの中の「生・老・病・死」
  ~「死の舞踏」をめぐる「病」観~
9)後期印象派、シュルレアリスム、表現主義における身体表現
10)アウトサイダー・アートをめぐる「表現」と「病」の境界線
11)モダニズムにおける新しい「病」の概念
12)映像表現におけるメタファーとしての「病」
  ~SF、 特撮、ホラー映画における「異形」と空想上の「病」の病理学的分析~
13)身体表現と「病」
  ~舞踏、パフォーミングアーツ、障害者プロレスから見えてくる「表現」としての「病」~
14)映像作品の上映
15)総論、レポート課題についての概説

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10. Mai 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2008年度学生のフィールドワークを読む~医療空間における風景画の作用~

 2008年度芸術療法講座のフィールドワークで,病院のロビー等でよく見かける風景画について興味深い考察をしている学生のレポートがある。(フィールドワークの概要や私の大学での講義の内容はこちらを参照に→http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2009/04/2008-9fc0.html
 この学生は近隣のK市にある内科クリニック(仮にA医院とする)を訪ね,そこで院長にインタビューを試みている。
 まずこの学生は,A医院に展示されている油彩画が,すべて風景画であることに注目したようだ。そこでこの点について詳しい経緯を尋ねてみると,意外な理由があることがわかったそうである。
 普段われわれが病院で目にする絵画は,たしかに風景画や静物画などが多い。近年では,あえてアートと医療の空間的繋がりを意識し,病院関係者自らが作品や芸術家の主張を理解したうえで,現代アート作品を積極的に展示しているケースも散見するようになった。名古屋芸大の近隣病院でも,わざわざギャラリースペースを設けて現代アート作品を展示してあるところもある。しかしこれらのケースはまだまだ例外であり,多くの医療機関ではオーソドックスな油彩画などを展示してあるところの方が多い。それは今回,様々な医療機関で作品を見てきた学生のレポートでもわかる。
 そのような状況の中,何の変哲もない風景画だけが並んだ空間にこの学生は興味を持ったようで,あえて風景画だけをセレクトしているのか,たまたまそのような状況になったのかを院長に尋ねている。そこでわかったのは,風景画だけを並べたのは院長の意図としてやっているということである。その理由は,例えば人物画などを置くと,その絵の中で描かれている人物の喜怒哀楽の表情が,時としてそれを見た患者に精神的に不安を与えてしまう場合があるかもしれない,という配慮からだそうである。
 今まで特に気がつかなかったが言われてみれば確かにそうである。人物画には必ずそこに描かれた人物の「視線」が存在する。その絵を眺めることは,即ち作品に描かれた人物の「視線」とも対峙することにもなる。その「視線」が鋭いものならば,精神も同時に弱っていると考えられる患者に対して,不安な気持ちを与えることも多々あるだろう。それでなくてもポスターや観光写真と違って,画家の手により描かれた作品は,それだけでも画家の思いが強くこもっているものであるから,そこから見る側に発せられるであろう時として過剰なメッセージは,病人にとっては精神的に負担になることもあるであろう。

 この学生のレポートを読んでいてある一人の人物のことを思い出した。それは,一昨年ひっそりと亡くなった詩人で二人称画廊の主人だった三須康司のことである。三須康司は,生涯にわたって現代アートにおけるレディメイドによる立体作品やインスタレーションという表現形態を「作品」としては認めなかった人物である。その理由は簡単で,作家(美術作家)自らがそれ(素材)を自分の手で作っていないからという事である。サルトル的思考を大前提にした三須康司らしい考え方である。
 そして,三須康司のような考え方でいけば,結局のところ「作品」と言えるのは,絵画,彫刻,版画という表現形態に集約されてくる。だから当然私の作品に対しても,絵画やデッサンについては批評の俎上に乗せるのだが,一方で,1980年代から多数制作してきて私の代表作になっている野外のアースワークや,1990年代から制作している最新医療機器を使用したメディアワークやインスタレーション作品は「作品」とは認めないわけである。(→私のアートワークはこちらのデータベースを参照にhttp://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/
 これらの私の作品を美術館に見にきた三須康司はいつも決まって言うことがあった。それは,「器具や機械も自分で作れ」,「あなた(井上)が,作品の素材にしている器具や機械も自分で作ることによって,初めてその中にあなたの“怨念”が宿って作品になる」という文言である。つまり,メディアワークやインスタレーションで作品のユニットとして配置している心電図モニターや超音波診断装置等の電子医療機器から,人工呼吸器,全身麻酔器,人工透析器,輸液ユニットにいたるまで,全部自分で作れというのである。
 三須康司からのこの問いに対して答えるために,私は東京大学の物理学者の友人に技術協力をしてもらい,私の作品コンセプトをベースに彼が書いた回路設計図をもとに,電子医療機器メーカーにオーダーメイドで私の作品と同期する心電図の波形シミュレータなどを制作してもらったことがある。これは私の作品のためだけに制作されたものであり,生産ラインにのせて工業製品として作られたものとは異なる。しかし三須康司はそれを見ても,「いくら作品のためのオーダーメイドでも,あなたが自分の手て作らなかったら意味がない」と言ったのである。
 ようするに三須康司は,PC改造が趣味の与謝野馨大臣がバラックから部品を集めてきて自作PCを作るように,何でも自分で作れと言うのである。それを言うならば,刷り師に外注している版画家や,図面を引くだけで自分では作らない彫刻家たちはどうなるのかと尋ねたところ,そんなものは芸術家とは認めないと切って捨てたのである。
 三須康司の考え方では,いろいろな「記号」を配置して「コンセプト」というものを表現した芸術は,もはや芸術とは認めないというこのなのである。この点については,足かけ10年以上にわたり三須康司と議論を交わしてきたが,ついに決着をつけることはできなかった。その議論の中で,たびたび三須康司の口から出てくるのは“怨念”という言葉であった。
 「作品は作家の“怨念”が込められてこそ,作品である」ということである。そして三須康司はこんなことも言っていた。

 「現代アートの小品が手ごろな値だからといって,画商でもないのに喜んで買っていく人がいるが,“怨念”がこもった本物の作品ならば,そんなものは気味が悪くて家には飾れないはずだ」

 詩人でもあった三須康司の口から出たこの強烈な言葉が,実は前出の学生のレポートにもフィードバックしてくるのである。つまり,この学生が訪ねた院長は,絵画という表現形態の中でも人物画が一番“怨念”がこもりやすいと判断したのではないか,ということである。人物の表情に描かれた「喜怒哀楽」という言葉がまさにそれを表している。
 そして,そんなものは精神的にも重い気分の患者たちにどんな影響を与えるかわからないので,風景画や静物画を展示するほうが,患者にとっても心が安らぎ,余計な不安感を与えないであろうとの患者に対する配慮である。
 他の学生のレポートの中にも,医療空間に展示された絵画の種類,技法について,同様の考察をしたものがいるが,医療関係者側のこのような患者の視点に立った配慮とは正反対に,元気がない時はむしろ静かな作風の作品よりも,生命感や躍動感があふれる激しい作品の方が患者に元気を与えるのではないかと結論づけた学生もいる。
 同じ問題をテーマにしながらも,このコントラストは実に興味深いので,また後日取り上げることにする。(名古屋芸術大学芸術療法講座2008年度フィールドワークより)

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25. April 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2008年度学生のフィールドワークを振り返る

 現在,今年度(2009年)の名古屋芸術大学の集中講義の準備に向けて,昨年の学生の授業内のミニ・レポートや後期集中講義の最終レポートなどを振り返りながら毎日再読しているところである。
 私が受け持つ講座は「芸術療法」で,毎回シラバスの冒頭には次のような文言を必ず入れている。

【名古屋芸術大学芸術療法講座──美術史から考察する疾病論・医学概論】
“人はなぜ病むのか?”、“「病」はどこから我々のもとにやってきたのか?”──。
「病」の歴史とアートを通してこんな問いかけを行っていくのが本講座である。
本講座ではまず、多数の図版資料、文献をもとに西洋美術史と西洋医学史を古代ギリシャ時代から同時に学びながら、「芸術」と「医学」の関わり、「表現」という行為と「治療的行為」の相違点を明確にしていく。
さらに、図像学の視点でそれぞれの時代の「病」像を抽出し、芸術というものが、人類史の中でいかに「病」と実践的に関わってきたのかを考察し、今日の芸術療法の現場が抱える問題点を踏まえたうえで、「表現」と「治療的行為」の接点の可能性について再度模索していく。(2009年度シラバスより)

 これをみても分かるとおり,私の講義は,医学と芸術を大きく横断するような内容となっている。具体的には,美学,西洋美術史,医学史,医学概論,医療人類学を骨子とした内容である。これを芸術学部の学生たちに学ばせている。
 また,私の講義はインターシップ方式を採用しているので,学外の学生や社会人が聴講生や履修生として講義を聞くことも可能である。私の講義で得た「単位」は,在学している大学の「単位」にも加算される。因みに昨年は,社会人履修生の参加があった。これからも特に医学部の学生らには門戸を広げておきたい。
 昨年度(2008年度)の最終レポートは,「医療空間におけるアートの役割」と題したフィールドワークであった。
 ちなみに一昨年(2007年度)は,絵画・映画などの視覚表現の中から表現病理を考察していく「疾病論」であった。こちらの方は,毎回講義を聞いていればレポート・テーマのヒントになる題材は比較的探しやすく,学生の方も取り組みやすかったことと思う。そこで,前年度「芸術療法講座」を受講した学生のレポートのクオリティから判断して,昨年度(2008年度)は,さらに踏み込んだ内容で,フィールドワークの課題を設定した。
 具体的には,学生それぞれが個人でいろいろな医療機関を訪ね歩き,そこで見つけた芸術作品や,医療機関が患者のために試みているアート・プログラムなどをレポートするというものである。
 私の「芸術療法講座」の講義は,いわゆる初めから“癒し”を前提としてアートの有用性を考察するものでもなければ,実技としてアート・セラピーを施すものでもない。実際に創作の現場に関わっている芸術学部の学生らにとっては,それらがいかに制度の中で形骸化されてきたものであるかが分かっているからである。
 そのような理由も含めて,私の講義では,西洋医学史と西洋美術史を古代ギリシャ時代から同時進行で学び,その双方,つまり「医学」(西洋美術史)と「芸術」(西洋美術史)の間にはどんな接点があったのか,また,人類は長い歴史の中で「病」というものをどのように捉え,そして「癒し」というものをどのように実践してきたのかを毎回考察している。そして最終的には,現代の医療空間と芸術表現の間に,何らかの接点の可能性を示唆できるのであれば,それを試みていこうとするものである。したがって,最初から前提として<「芸術」=「癒し」>と定義するものではない。
 これは,現在世の中にある流行のように氾濫する“癒しブーム”や,昨今の芸術表現がいとも安易に医療の領域に結びつこうとする危うい情況に対して,批評的態度を表したものでもある。
 昨年度の最終レポートは,まさにそれの集大成である。
 学生らの目から見て,彼らが独自のフィールドワークで見つけてきた様々な芸術作品が,医療空間の中でどのような存在に映ったのか。あるいは,芸術作品があえて医療空間に存在することで,芸術以上の意義が存在するのか否かをあらためて考察するこのレポートは,ややハードルの高い内容にも思えたが,学生が仕上げたこのレポートの内容を見るかぎり,なかなか意欲的に取り組んでいる学生も多くいるので,このフィールドワークは正解だったといえる。
 その中から,今日の芸術療法が抱えるざまざまな情況に対する問題提起となり得るものを,これから時間が許す限り順次触れていくこととする。

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30. März 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座講義】 広告批評 「IMAGINATION」(2002年・AC制作)

 私が講義を行っている芸術療法講座では、学生に様々なワークショップを取り組ませるために、それの動機付けとなるような映像資料もたくさん見せている。映像資料は上映時間が1時間を超える長いドキュメンタリー映画の場合もあるが、1、2分程度の広告を見せる場合もある。
 今回学生に見せた広告は、AC(公共広告機構)が2002年に制作した「IMAGINATION」という作品である。この作品は、人間の本来持つ表現欲求と、それを「表現病理」として捉えようとした時に浮上してくる精神医療の偏見、固定観念を訴えかけた広告である。ACは、これまでにも覚せい剤、DV、育児放棄などといった社会問題を数多く扱い、その映像広告は強烈なインパクトを持って、それを一度でも見たことのある人の記憶の中に焼き付いているであろう。その中でも、私の講義の内容と関わりの深い「表現病理」について扱った「IMAGINATION」という作品は、そのインパクトでは群を抜いている。
 「IMAGNATION」はストーリー仕立ての広告である。まず小学生たちが教室で絵を描いているシーンから始まる。多くの児童は、花や風景や動物といった、いわゆる大人から見て“子供らしい”といわれる絵を、“好ましい”とされる明るい色調で描いている。しかしその中に一人だけ、画用紙を黒いクレヨンで必死に塗りつぶしている児童がいて、担任の教師はその児童を奇異の目で見ているのである。その児童は来る日も来る日も、ひらすら画用紙を黒く塗りつぶすことに熱中しているので、他の児童とは明らかに様子が違って変だと思った担任は、カウンセラーに相談したようである。その児童は彼の意に反して精神科病棟のようなところに連れて行かれて、彼を取り囲んだ精神科医たちから様々な尋問を受ける。
 これが、「IMAGINATION」の前半部分である。もしこのまま終わってしまっても、それなりにいろいろなメッセージを残す作品となるのだが、後半のラストに思わぬ展開がある。その思わぬ展開というのは、誰もいない放課後の教室で、おそらく精神科病棟に隔離されてしまったであろうあの児童の残した黒い画用紙を見つけた担任が、それを床の一面に並べると、大きなクジラの絵が完成するというものである。そして「子供から、想像力を奪わないで下さい」というメッセージが最後に挿入される。
 この広告は、このようにアートにおける「表現」と、心理学・精神分析学・精神医療、そして近年になってメジャー領域に台頭してきた「病跡学」における「表現病理」の問題とも深く関わる作品であり、その部分が学生たちにも相当のインパクトをあたえたようである。

 まず、このACの広告を観てのレポートとして一番多かったのが、自分が子供のころに学校で同じような嫌な思いや経験をしたことを例に挙げて、心理学や精神医療からのアートへのアプローチに対して疑問を呈したものである。具体的には、他の多くの児童とは異なった色合い、題材などの図画を描いて担任から偏見を持たれたり、また、学内・学外の絵画コンクールで“お手本”として選ばれる作品は、大人が喜びそうな、どこか定型化したものばかりで、それが非常に不愉快であったことなどである。
 学生から話を聞いてみても、自分の進路に芸術系の大学を選択した学生は、子どもの頃に、少なからずこのような思いをしたものが多く、それゆえに、心理テストや精神分析学の分野で絵画をツールとして使用することについて、否定的意見を持つ学生もいる。つまり彼ら、クリエイターの立場からして見れば、心理テストや精神分析は過去の統計に過ぎず、自分の制作したものまでそれによって規定化されるのを拒むわけである。しかも性格診断や病理診断に利用されるとなれば、それはクリエイションという行為に対する最大の屈辱ということになるわけだ。
 ACの広告をみて、過去のこのような嫌な体験を思い出してしまった学生は、無意識ながらもアートにおける「表現」と、そこに病理を見出す「病跡学」という学問の意義、あるいはやや踏み込んで、それらの是非について問題提起したといえる。そのことが、この分野に対する疑いと、「反精神医学」的な精神医学批判につながってくるのである。そして、学生の中には、この広告の途中までは自分も精神科医と同様の視点で、画用紙を黒く塗っている児童のことを「異常」であると固定観念で見てしまったことを強く自己批判しているものも多い。それらの学生のレポートの中には、心理学や精神医学は誰もが信頼できる「科学」ではなく、あれは「文学」にすぎない、という批判も出てくるのである。

 また別の視点で学生が注目したのは、映像学から見た高い技術である。学生の中には、将来は広告クリエイターを目指しているものも多数いるので、彼らからしてみれば、1分30秒という短い時間に、あれだけ明快なメッセージが込められている点や、無駄のないカメラワークに感心したようである。しかし同時に、映像による広告が、紙媒体の広告よりも数段にインパクトが高いことに注目して、時と場合によって、それがプロパガンダとなり得る危うさにも言及している。このことは、テレビや新聞といった近代的マスメディアに見られる情動的な報道よりも、スーパーフラットなネットのストレートニュースに真理を見出そうとするネット世代のリテラシーなどが垣間見えて、この点も非常に興味深かった。(2008年9月27日の講義レポートより)

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17. Februar 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】学生のレポートを読む~『マイアミ美容整形外科』

 私が現在講義を行っている名古屋芸術大学の芸術療法講座では、芸術療法の歴史や理論とならんで、西洋医学史、西洋美術史なども学生に学ばせている。毎回の講義では、前半はだいだい歴史の講義、そして後半はそれに関連する具体的なトピックスをあげて、学生には授業内でミニ・レポートを書かせている。
 私が講義を受け持つクラスは一般大学の美学や教養課程などとは異なり、将来は何らかのかたちでクリエイターとして仕事にかかわっていくような学生たちのクラスで、他の学生たちとは異なり、いわば「アート」における当事者である。
 その当事者として、アートが社会とどのような関係を保ってきたのか、もっと専門的にいえば、ひところの「癒し」ブームで「アート」と「癒し」の関係が注目されだした時に、当事者として感じた違和感は無かったのだろうか、ということを同時に考えていくことも、講義の重要なテーマである。そのうえで、医学と芸術の双方の長い歴史の中で、そこに何か美学的接点を見いだせれば、それを探っていくものである。遠回りをするようだが、これらの行為を経てようやく、「アート」と「癒し」についての関係性を考えるスタートラインにたどりつけるのである。
 私の講義ではさまざまなワークショップを行い、またそれの動機づけとなるような映像資料もたくさん使用している。AC(公共広告機構)から借りた短い広告や、時には上映時間90分ほどの長いドキュメンタリー作品を上映する場合もある。その映像資料の中で、昨年特に学生たちから反響が高かったのが、海外ドキュメンタリー専門局のディスカバリー・チャンネルが制作した『マイアミ美容整形外科』というドキュメンタリー作品である。
 ひとつ補足しておくが、この作品は、全米で放送されている同名のTVドラマとは異なり、実際にマイアミで美容クリニックを開業している3人の美容外科医たちの日常を追ったドキュメンタリーである。
 このドキュメンタリー作品を見た学生たちが、なかなか興味深い問題提起などもしているので、作品の内容にふれながら、学生たちのレポートも少し振り返る。

 『マイアミ美容整形外科』を訪れる患者たちはさまざまである。わが国では、美容外科といえば若年層が中心的ターゲットであるという印象が長らく持たれてきた。しかし、専門的には形成外科という領域になるこの診療科目は、本来は美容だけに特化されたものではない。例えば乳癌で乳房を切除した女性のために行う乳房再建術や、軟部肉腫や大きな怪我などで顔を損傷した場合の顔面再建術も形成外科の領域である。また近年では、中高年富裕層がアンチエイジングのために形成外科を訪れることも珍しくはない。
 形成外科は、もともとは中世イタリアの医師、タリアコッツィ(Gaspare Tagliacozzi, 1545-99)によって、損傷した鼻や口唇を復元、再生させるために施術された当時としては前衛的な試みであったが、後にカール・ティールシュ(Karl Thiershe, 1822-95)らによって外科学の中に体系づけられていくことで、今日のように発展してきたわけで、基本的には身体部位の復元、再生という意味合いをもっている。
 この『マイアミ美容整形外科』のドキュメンタリーは、ここを訪れる患者たちの人生模様と、医師たちへの長いインタビューで構成されている。先ほども述べたが、ここを訪れるのは若年層とは限らない。私がもっとも印象に強く残ったのは、乳癌で乳房を失った中高年女性が、アンチエイジングのカウンセリングに訪れた場面である。この女性はまず自分のこれまでの人生を医師に語り始める。医師も黙ってその話を聞いている。要約すると、女性が医師に語っはことは、自分の今までの人生とは、子育てと夫に尽くす毎日を送ってきて、それが終わると今度は癌との闘病の日々。いつの間にか年だけをとっていた。つまり、今までの自分の人生には自分の時間も自分の自己実現もなかったと語っているのである。そして、今までの自分とは区切りをつけて新しい残りの人生を歩んでみたいとの理由で、顔面の若返り手術を望んでいるのである。しかしこの女性には若干の躊躇があって、それを医師にまた相談をする。
 彼女が抱いていた躊躇とは、癌患者が乳房再建術の他にも顔の美容整形をするなんておかしいのではないか、ということである。それに対して担当の医師は、どんな人間にだって幸せになる権利と資格があるのだから、過去の病気のことで負い目を感じることなんてまったくないよと声をかけてやるのである。
 また別のケースでは、身体のある部分に強いコンプレックスを持っている若い女性が訪れた時、その担当医師は、自分は必ずしもあなたにすぐに整形を勧めるものではない。何度も良く考えて、まず自分の思い込みが原因で辛くなっていることも理解したほうがいいとアドバイスする。
 これを見てもわかるとおり、マイアミ・クリニックの美容整形外科医たちは、患者の精神的な領域にまでふみ込んでサポートしているのがわかる。基本的にはクライアントの要求に応えるのがここの医師たちの役目ではあるが、外見を修正することはひとつの方法でしかなく、後の自分の人生をいかに充実させていくかは自分次第であることも患者に説明するのである。
 このような医師たちの態度には、最初は美容整形というものに若干の偏見を持っていた学生たちも、好感を持ったようである。多くの学生が、「マイアミのドクターたちは、一見すると患者の体を治しているようでいて、実際には心を治療している」、「安易に整形を勧めるのではなく、そのリスクについても説明している」、「患者の人生に丁寧に耳を傾けている」と、診療に臨む態度については好評価である。
 その一方で、学生からも異論が噴き出たのは、クリニックの医師たちがインタビューにおいて、自分が担当した患者のことをさかんに自分の「作品」であると言い、医師自らが自分はクリエイターだと思っているというくだりである。やはりアートにおける当事者である芸術大学の学生たちには、ここの部分が相当の違和感をもって浮かび上がったようである。

 学生たちからはこのような意見が寄せられた。まず多かったのが、「患者の身体を作品に例えるのは医師としていかがなものか」という意見である。この意見の背景には、「患者の身体が、まるで彫塑などの素材みたいに扱われている」という嫌悪感と、「作品」というからには医師と患者の共同作業でなければならないのに、医師自身はその「作品」についてリクスを負っていないではないか、という制作態度についての疑問である。一方でこれに対して、「美を追求することにおいてはアートも医学も関係ないのではないか」という意見もある。また、テレビドラマなどで、医師が手術時間の短さや、出血量の少なさをゲームのように競う事例をあげて、「医師にももともと自己顕示欲が強い人たちもいて、その気持ちが自然に言葉になって表れただけで、けして患者のことをモノ扱いしているわけではない」といった意見や、「自分の仕事に自信があるから作品と言うことができる。」、「職人に近いプロフェッショナルである」という意見も寄せられた。
 どのレポートも、このマイアミ・クリニックの医師たちの日常や患者の人生模様をとおして、人間の「美」の本質について考察されたものだが、この中で非常に興味深かったのが、「人間の美しさは若さだけでなない」、「年を重ねた女性の美しさもある」といった意見である。これは実に少数派の意見であったが、20歳前後の、まだ世の中でいろいろなことを経験していない学生たちからこのような意見が出てくる理由にも注目したい。これは、アンチエイジングという潮流に対して、老齢学のような学問が台頭してきたことも多少の影響はあるであろう。例えば数年前にベストセラーになった赤瀬川源平の『老人力』や、五木寛之のエッセイ集『不安の力』などは、老いてく身体、弱い自分をとことん容認していくような内容である。詩人で英米文学者の加島祥造訳による自由律による『老子』が今もってロングセラーとなっているのは、この世の中は、強くて美しいアスリートのような人間たちだけが暮らしているのではない、ということを気づかせてくれるからである。
 最後に、自分なら美容整形をしてみたいかと学生に尋ねたところ、やはり自分のこととなると抵抗があるようである。その理由は、「病気ではないところにメスを入れるのに抵抗がある」というものであった。医療とは本来、健康を害した部分に施しをして、健全な身体にもどす、ということならば、人よりも劣ると見える顔や身体は、果たして「病」なのかという問いもここで生まれてくるのである。だから、“病気ではないところにメスを入れる”という言葉にはなかなか重みがあると思った。(2008年10月18日の講義レポートより)
 
 

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