京都大学

27. Juli 10

【書評】『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』(京都大学学術出版会)

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 ここ近年,相次いで日本人ノーベル賞学者が誕生したり,先頃の惑星探査衛星「はやぶさ」による世界的快挙などもきっかけで,わが国の科学技術に対する関心が高まっている。NHKが戦後の日本の半導体技術開発を追ったドキュメンタリー『電子立国日本の自叙伝』を放送したのが今からちょうど20年ほど前。この時代は日本のリベラル悲観論者達からは「失われた10年」などと言われつつも,わが国の科学技術,産業技術はグローバル・スタンダードの中で常に高い水準を保ってきた。この時在欧中だった私のもとにも,世界を席巻するジャパン・ブランドの勢いは十分に伝わってきたのである。
しかしこれは何も今日的に達成されたものではなく,例えば麻生太郎の著書『とてつもない日本』(新潮新書)の中でも述べられているとおり,古来よりわが国が連綿と紡いできた技術,伝統,文化の絶え間ない蓄積により形を成したものなのである。
 医学の分野も例外ではない。戦後直後の1950年代から,わが国は再び目覚ましい発展を遂げていく。しかし残念ながら戦時中の資料の中には紛失,焼失してしまったものも多く,この事が,多岐に及ぶ医科学研究分野を近・現代史として俯瞰する際の困難な状況を生んでいる。
 本書『サイトカインハンティング』は,免疫学の分野で世界の最先端のフィールドで戦った,いわば先駆的メジャーリーガーみたいな日本人科学者達の物語である。

 表題にあるサイトカインとは,免疫細胞から分泌されるタンパク質のことで,これまでに数百種が発見されているが,今日の研究者たちによっても新たな物が続々と発見されている。サイトカインの研究は,いわば密林をかき分けて新種の昆虫を発見しに行くような途方もない行為であり,これを追い求める医学者達の目が,時としてハンターの目に豹変するというのは容易に想像がつく。

 免疫学分野は先に挙げた産業開発技術に比べると,抽象的すぎて一般的には馴染みが薄いかもしれない。しかしその概念の歴史は古く,「牛痘法」で有名なジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)の時代にまで遡る事が出来る。
 1796年,ジェンナーは,生まれ故郷のグロスタシャーの農村地帯で古くから農民の間で伝わる伝承――すなわち,「牛痘に一度罹った者は,それより重い天然痘には罹らない」というものを科学的に実証するために,牛痘患者の牛痘疱から採取したリンパ液を健康な少年に接種し,その効果が確認されると,村人に集団接種を行った。そして彼が表した有名な書物が『牛痘の原因及び作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae)である。これがワクチンの始まりである。

 興味深いのは,ジェンナーの発想の源泉が,科学とは程遠いはずの民間伝承を契機としたものであるという事である。わが国においても和名に充てられた「疫」という字は,かつて各地の村落共同体で伝承されていた疱瘡神信仰をも含む「疫病神」と同じである。村落共同体では「病」をカミサマとして祀る事で「病」封じを行った。年に一度の「祭り」では,その「病」のカミサマと交わる事が,いわば「通過儀礼」=すなわち,ワクチネーションであったのだ。それを思えば壮大な物語性をもって捉えることも可能である。

日本インターフェロン・サイトカイン学会編
『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』
(京都大学学術出版会)
【目次】
第1章 プロローグ
第2章 インターフェロン
第3章 インターロイキン-2
第4章 インターロイキン-3,-4,-5
第5章 インターロイキン-6
第6章 IL-12とIL-18
第7章 ケモカイン
第8章 G-CSF,Fas
第9章 遺伝子改変マウス

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【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。

http://twitter.com/JPN_LISA
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01. Februar 09

【京都大学】 宇野邦一 ドゥルーズ講義 『時間と身体』(京都大学吉田南キャンパス)

京都大学 科研費研究プロジェクトのみなさんから講義とシンポジウムのお知らせをいただきました。
下記に詳細を掲載します。
ブログ読者のみなさんも,ふるってご参加下さい。

宇野邦一 ドゥルーズ講義 『時間と身体』 のお知らせ

 2月2日から5日まで、総合人間学部では立教大学教授宇野邦一氏をお招きして、集中講義を行っていただきます。20世紀最大の哲学者の一人ジル・ドゥ ルーズについて、氏がこれまでに重ねられてきた論考が集大成される内容となるはずであり、関心のある学生は学部を問わず参加下さい。受講希望者は、2月 2日(月)午後1時に下記の教室へ集まって下さい。

講義内容:「ドゥルーズの哲学の大きな問題形を、主に時間と身体を焦点として考えてみたい。<身体>は、とりわけスピノザとニーチェの提案を受け、創造 的な生をいかに開放するか、というと問いとして追求される。<身体>は、ドゥルーズ独自の唯物論、権力論の主軸となる。<時間>は、映画論の大きなテー マである以上に、思考、歴史、集団のあり方を問う方向に、裂開してゆく。<身体>と<時間>の交点に、様々な形象や概念が結晶することになる。そこに思 考の創造性を、あらためて発見することが課題である。」
なお最終日5日の午後4時30分からは、吉田南キャンパス・大学院人間・環境学研究科棟地下B23講義室にて、下記のようなワークショップ+対談を開催 します。こちらもふるってご参加下さい。

場所:京都大学吉田南キャンパス・総合人間学部棟・1B07教室


フランス現代思想セミナー(第2回)
『器官なき身体(アントナン・アルトー)再考-ダンスと現代思想の立場から』

日時:2009年2月5日(木)午後4時30分から

(パネラー)
勅使川原三郎(Karas)、佐東利穂子(Karas)、宇野邦一
(司会)
多賀 茂

フランスの詩人・演劇家アントナン・アルトーによってはじめて語られた「器官なき身体」という言葉は、後にジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリに よって取り上げられ、現代における人間の存在を語るためにきわめて重要な言葉となった。日本を代表する舞踊家と思想家の出会い(勅使川原氏によるワー ク・ショップと勅使川原・宇野両氏による対談の2部構成)を通じて、この言葉が宿すさらなる意味を探ってみたい。

場所:京都大学吉田南キャンパス・吉田南総合館北棟共北23教室

主催:科研費研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして ―人文科学・アート・医療をつなぐ問いかけ」
(代表者:京都大学大学院・人間・環境学研究科、多賀 茂)

問い合わせ:科研費研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして ―人文科学・アート・医療をつなぐ問いかけ」
(代表者:京都大学大学院・人間・環境学研究科、多賀 茂
s.taga@hy5.ecs.kyoto-u.ac.jp

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03. Januar 09

【公開セッション】生命という策略(2009・1・25 四谷アート・ステュディウム)

●公開セッションのお知らせ
パネラーの皆さんから公開セッションのご案内をいただきましたので,下記に詳細を掲載します。



【生命という策略】──時間あるいは空間(経済そして政治)のはじまりとしての

2009年1月25日(四谷アート・ステュディウム)



批評を問いつめていくと、結局、空間と時間の体制にぶつかってしまう。しかし、であるならば、批評とは(そして、それが対象とする芸術作品とは)すなわち経済の問題であり政治の問題にすぎないのではないか?
経済と政治という活動を根拠づけているのは、(アダム・スミスの想定した homo economicus というモデルが崩壊してもなお)どのみち主体という単位である。経済も政治も主体(それを体現する有機体、としての人間)を必要とし、その上でそれを操作し、また解決すべきだという問題を捏造しようとする。これらの議論はいずれ、彼らの措定する人間という問題、すなわち「人間の内と外をいかに線引きするか」という問題の変奏でしかない。
人間によらない経済、政治、あるいは空間、時間。別の有機体による(としての)空間・時間の体制の仮構。人間の問題でないのであれば、経済という問題はただちに解決(解体)もされるだろう。それらを考えることは、芸術が人間から離れる(ことを考える)よりはずっと簡単であり、有意義である。
芸術(あるいは批評)に関わる偽の問題を、生命科学、(反)精神分析の方法をもって、再考する(解体、解毒する)シンポジウム。

日程|2009年1月25日[日]
時間|13:30―16:30[13:00開場]
会場|東京国立近代美術館 講堂
定員|130名
参加費|1,500円
主催|近畿大学国際人文科学研究所


[出演]
大橋完太郎[表象文化論]
郡司ペギオ-幸夫[理論生命科学]
三脇康生[精神科医/美術批評家]
岡﨑乾二郎[造形作家/評論家]


[申し込み/問い合わせ先]
近畿大学国際人文科学研究所
東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム
〒160-0004 東京都新宿区四谷1-5
tel. 03-3351-0591(9:30-17:00、日曜・祭日 休)
●お電話でご予約ください。(※1月6日まで冬期休業中ですので、ご了承ください)


[会場案内]
東京国立近代美術館 講堂
〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1(美術館地下1階)[地図]
東京メトロ東西線 竹橋駅1b出口より徒歩3分

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05. September 08

【シンポジウム】「<ひと>を守る――日本の精神医療と制度を使った精神療法」(京大会館)

【シンポジウム要旨】
 病を癒すには、まず医療をめぐる環境を癒してからでなければならない――――。度重なる医療改革や病院機能評価によって、ますます硬直しつつある現在
の医療・社会システムに風穴をあけ、<人>が癒える場所を取り戻すために何が可能なのか。医療実務者と思想研究者が相集って議論することが、今こそ求められている。(『医療環境を変える――制度を使った精神療法の実践と思想』、京都大学学術出版会、20089月刊より)

日時:2008920日(土)午後2時から午後5時まで

場所:京大会館2階 210号室(参加無料)

発言予定者:精神科医師  菅原 道哉(元東邦大学、恵友会)

        精神科医師  和田 央(京都府立洛南病院)

        精神科看護師 吉浜 文洋(神奈川県立保健福祉大学)

        思想研究者  合田 正人(明治大学)

        精神科医師  三脇 康生(仁愛大学)

                           ほか

主催:科研プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして――人文科学・医療・アートをつなぐ問いかけ」

(京都大学大学院 人間・環境学研究科/多賀 茂)

問い合わせ:s.taga@hy5.ecs.kyoto-u.ac.jp

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19. Juli 08

【新刊本】多賀茂・三脇康生編『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』(京都大学学術出版会)

<京都大学学術出版会から新刊本のお知らせ>
多賀 茂・三脇康生編
『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』

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(京都大学学術出版会)
A5上製・400頁・税込 約5,700円
ISBN: 9784876987511
発行年月: 2008/08


【紹介文】
 病を癒すには、まず医療をめぐる環境を癒してからでなければならない――。「制度を使った精神医療」をめぐる日本とフランスを中心としたの医療実践を紹介し、それらのバックボーンたる現代思想を解説する。
 病院機能評価によってますます硬直しつつある現在の医療・社会システムに風穴をあけ、「ひと」が癒える場をとりもどすために集結した、医療実務者と思想研究者による熱気あふれる論陣。

【目次】
第一部 実践編
第1章 制度を使った精神療法の実践
ラ・ボルド病院 多賀 茂、三脇康生
ラ・ボルド病院の日常  ジャン・ウリ、ラ・ボルド病院スタッフ
セクター制度   ティロ・ヘルド、和田 央

第2章 日本の精神医療現場での試み
四つの例
横浜市民団体の運動について 菅原道哉、
京都府南部の救急精神科医療について 和田 央、波床将材、
制度を使った音楽療法 高江洲義英
病院の外から病院を看る制度について 平田豊明、ミシェル・オラシウス、三脇康生 

第3章 身近なところから制度に取り組むために
医師という制度を分析する 菅原道哉、三脇康生、
看護師という制度を分析する ジャン・ウリ、吉浜文洋
デザインという制度を使う 蓮見 孝
写真という制度を使う 田村尚子
建築という制度を使う 高崎正治

第4章 日本の精神医療がなぜ「制度を使った精神療法」を使えなかったのか
三脇康生 

中間部 対話編 制度という論点をめぐって
野沢典子、看護師という制度を分析する
上山和樹 、ひきこもり問題から制度を使うことを考える

第二部 思想編
第5章 制度を使った精神療法の思想
ジャン・ウリ、制度を使った精神療法の思想
三脇康生、ウリとガタリの差異
合田正人、ラカン、マルディネ、トスカイェス
多賀 茂、フーコーとガタリ 

第6章 制度を使った精神療法とその周辺
江口重幸、精神療法の誕生
立木康介、ラカン派の応用精神分析
松嶋 健、イタリアのバザーリア

第7章 根を枯らさないために
多賀 茂

【著者による解説】
本書の表題にある「制度を使った精神療法」と訳された精神療法はフランスで50年以上前に始められ、現在も存続している。三脇は「制度を使った精神療法」について精神医療·保健·福祉·看護の領域で多くの紹介を行ってきた。その切っ掛けとなったのは『精神の管理社会をどう超えるか』(フェリックス·ガタリ他著、松籟社、2000年)という本を編集し論文を書くためにフランスと日本で精神医療の戦後の歴史を調べたことである。しかしその本においては、制度論的精神療法という訳語を三脇は共同編者と相談して用いた。しかしその後、三脇は再度、訳語を変更していた。制度論と言っても、治療の前提として制度を論じることではなく、精神療法のベースになる制度を改編しながら行う精神療法、つまり制度改変がそのまま治療に到達するという意味があるのだから、それがストレートに出るように変換したいと考えたため、制度改編的精神療法と訳を改めていたこともある。しかしこの本ではさらに「制度」に対して積極的で具体的な意味を込めるために「制度を使った精神療法」と改めることにした。
 精神医療の現場では芸術療法や作業療法という名前の療法が存在しているが、それには「芸術を使って」療法を行うとか「作業を使って」療法を行うという意味がある。それと同じように、まさに「制度を使って」精神の病を治していこうという方法が「制度を使った精神療法」である。しかし「制度を使って」ということは、「芸術を使って」とか「作業を使って」ということとはかなり異なった意味を持つ。なぜなら「制度」とは療法が行われる環境それ自体であり、単なる道具としてそれを使うことは決してできないからである。この療法の基本的な考え方は、「病んだ環境では病気を治すことはできない」ということであり、したがって医師や看護師や患者がその中で仕事をして生きている環境がどのような病気に冒されているのかということを、自ら明らかにしていくことがこの療法の中身になる。制度(治療環境)の分析は、常に治療へとフィード·バックされ、両者は常に循環的関係の中にあるとも言えよう。
 この「制度を使った精神療法」がなぜそれほど重要なのだろうか。答えは明確である。精神医療の対象である病の原因は目ではっきりと見えることは少なく、正常と以上の線引きの根拠は科学的には明確にしにくく、症状への知識の蓄積からしてこのような薬を飲んだりこのような休み方をしたりこのような入院の仕方をした方が患者にとっては良いのではないかとほぼ考えられるような、言わば東洋医学的な発想も含み得るものだからである。精神医学全体に科学性が他科と比べて少ないとも言えるだろう。精神医学の科学性を高める必要があるのも事実だろうと思われる。しかし現状では患者にしたら病名を告げられても納得できないことも多いはずである。であるから、病名を告げる側、医療者側が前提にしている思考の枠組みをどの程度柔らかくするのか、つまりどこは再検討しどこは再検討しないままで置くのか、一々判断していかなければ治療が始まらないからである。
 そういうことなら、すべてを柔らかくし遂には枠組みをなくしてしまえば良いと言われるかもしれない。そういう考え方は反精神医学ともよばれたことがある。日本にも政治運動の広がりの中で反精神医学の考え方は(幅はあっただろうが)存在していた。しかしすべてを柔らかくして社会全体で幻覚妄想状態に入ることはできない。しかしすべて固くしてしまうこともできない。このような精神医学と反精神医学の対決状態は、日本にもどこの国にも存在したのだが、フランスはその対立を超えるものとして「制度を使った精神療法」を維持していた感が強い。一方、日本ではその対立の着地点は明確には存在して来なかったと言えるだろう。もちろんそれぞれの素晴らしい試みは存在したのだが、枠組みを制度のどこを緩めてどこを緩めないのか、その判断を明確にしてこなかったのだ。本書では、既に日本に存在している試みも「制度を使った精神療法」という枠組みでとらえ直してみたいと思う。
 ここで精神科医として私の経験した臨床例をあげよう。私の担当していた患者の通うディケア施設に、レベルの高いサッカー経験を持つ若いケースワーカーが働き始め、自然とサッカーチームが作られていった。主に統合失調症の患者22歳から36歳が参加し、常時参加していたのは8人であった。半年ほどたつと、調子が良くなった患者から就労支援を受けたり、作業所に抜けて行った。私の担当した患者は、熱心にサッカーをしていた間に調子の良さを訴えたので薬を減らした。すると丁度、サッカーに参加していたメンバーが社会復帰に向け動き出したことから、人数の面からサッカーを十分には出来なくなり、この患者も仕事を探し始めるようになった。すると幻聴に支配されて2年ぶり再度の入院となった。入院後は、なぜ幻聴にふりまわされたのか考えてもらった。患者は「サッカーこそ生き甲斐という気持ちがした。今までにしたことの無い玉運びをケースワーカーに教えてもらい、ゴールが決まった時はかなりすっきりした。生きていること全てであると思えた」と言う。私は「そのような喜びを働くことや余暇に見つけようとしたのですか?」と聞いた。患者は「そうだと思う。」と振り返った。そこで私は、次のような類別をこの患者に示してみた。「生活·社会の方へ復帰した患者はサッカーの面白みにある程度距離を取れた患者ではないか。むしろ復帰を焦って病状悪化した患者はむしろサッカーの面白みに酔った患者ではないか。」するとその患者は「全くその通りだと思う」と言うのだった。それから薬を増やすと2ヶ月で退院となった。
 生命感を求め過ぎて生命感にのみ込まれてしまったこの患者に対応する時にこそ、制度分析(analyse d’institution)が行われているかが問われることにある。患者との自由な交流に基づくすばらしい治療などを私は求めていたのではない。患者が居心地の良さを感じたのは良いとして、それからどのような着地をしてもらうのか考えねばならないかった。入り口を作れば出口を作らなければならない。
それにこの症例の運営は失敗しているのだ。こんなことが起きないようにまさしく制度を使った精神療法のメッカであるラ·ボルド病院で多くの活動が維持されている。それにより、患者は生命感に飲み込まれるのではなく、生命感を適度に味あう。はっきりこの事例に適応するなら、サッカー以外の活動という制度をこの患者に使ってもらい、複数の活動の間でバランスをとるべきだったということになる。そのために私はスタッフと十分話し合う時間を持つことができなかった。あるいは主治医の私も含めて病院がこのような制度分析を行う体制になかったのだとも言える。このように組織内のミクロな制度使用は、それに応じた制度分析を伴っていなければならず、制度分析の有無は治療の首尾に直結する。それはこの症例でも明らかだろう。
 本書では、まず「制度を使った精神療法」の流派の考え方を十分に知ってもらうことを目指し、それに基づいて、いかにしたら日本というフランスとは全く異なった文化的·政治的風土の中で、「制度を使った精神療法」を日本の精神医療へ導入できるのかを考察したいと思う(本書では、そうした意味で広く理解する場合には「制度を使った精神医療」という言い方をしている)。
 そして、はじめにどうしても言っておかなければならないことが、もう一つある。それはこの流派の考え方が、制度(環境)について議論しながら分析し工夫することを根本とすることから帰結することとして、おそらくこのこともまたフランス文化の独自性ということになるのかもしれないが、単なる実践上のノウ·ハウだけではなく、きわめて哲学的·思想的な志向をもっているということである。現象学、ゲシュタルト理論、ラカン派の精神分析などに由来する様々な概念が、この流派の議論では駆使される。もちろんそれは衒学的な欲求からのものではない。制度という論点を、現場の組織論にしろ、抽象的な哲学にしろ、単一の観点からだけ見てしまうこと自体が、制度の病を生む(例えば<疎外>という重要な用語が指し示しているのはこのことである)ということをこの流派の人々が知りぬいているからである。そして、そうした議論を経た制度についての分析は、精神医療という枠組みを越えて一般的な社会環境に対する療法ともなるだろう。現代社会が私たちにとって「病んでいない」環境であるなどと言えるひとはおそらく一人もいないはずだからである。「制度を使った精神療法」は病院だけの問題ではない。これだけ社会の中でメンタルヘルスの問題が大きく取り上げられ、スクールカウンセリングや産業カウンセリングの重要性が叫ばれている現状がある以上、それは容易に理解していただけるだろう。しかし実は現在の社会構造では、この肝心のカウンセリングが機能しなくなっているのだ。それは結局のところ「制度を使う」ということを日本の組織が試行できないでいるからではないだろうか。
 本書は大きく実践編·思想編という二部構成をとることになった。実践編では、ラ·ボルド病院というフランスの一病院の例と、それと深く関わるセクター制度というフランス独特の地域精神医療制度とをまず詳しく紹介し、次に日本の精神医療の現場での問題点とそれに対する試みを紹介したのち、日本の精神医療の現場で制度分析がどんな形を取りうるのか、身近な制度をとりあげて検討する。思想編では、まず精神療法そのものの歴史やラカン派における試み、そしてイタリアの例など「制度を使った精神療法」の周辺にある問題を取り上げたのち、最後に「制度を使った精神療法」が思想的にどのような問題と繋がっているのかを考察しておきたい

京都大学学術出版会  〒606-8305 京都市左京区吉田河原町15-9 京大会館内
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02. Juni 08

【論文紹介】松嶋 健「フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──」

松嶋 健「フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──」
(『こころと文化』第7巻第1号,2008,2)

 著者の松嶋は,これまでイタリア各地において,医療人類学的アプローチによる地域精神医学のフィールドワークを行ってきた文化人類学者である。今回の論文は,「バザーリア法」の名で知られるイタリアの精神科医フランコ・バザーリアの評伝を読み解きながら,彼の足跡をたどり,精神医療のグローバル化によって起こった様々な功罪を詳細に報告している。
 まず「バザーリア法」についてふれると,これは1978年にイタリアで制定された公衆衛生に基づく法律で,すなわちイタリア全土に存在する精神病院を閉鎖して,そのかわり,精神病者は地域にもどり,コミュニティの中で自律的なケアを受けて共生させていく,というものである。これは精神医学の歴史の中でも画期的な出来事ではある。しかしながら,そのことをもってこれが直ちに「反精神医療」,「反精神病棟」運動といった短絡的な政治的思想闘争と結びつけてしまえるほど,精神医療をとりまく情況は単純ではないことを松嶋も論文中で述べている。
 そのことの一つとして,まず地政学的にイタリアという国家をとらえた場合,その「国民国家」としての近代イタリアが生まれる過程において,実に複雑な民族問題を内包し,それにより地域における文化的差異が厳然として存在していることがあげられる。松嶋は自身のフィールドワークの中でこのことに特に注目し,「バザーリア法」制定以降,イタリアの精神医学において何が起こったのかに注目した。制度の中で,あるインパクトが絶大な改革が起こった場合,その改革の中心あるいは周辺にいるものは改革の主流となっていくのは言うまでもないことであるが,その「場」から少しでも離れたところに存在しているものは,切り離されるか,もしくは従属的に改革による新たな制度に編成されていくわけである。こういった状況下の中で何が起こるかといえば,従来,独自に存在していたはずの「文化的差異」が認められる機会はなくなり,それらはグローバリズムの中に埋没していくのである。
 これは,松嶋がフィールドとしている文化人類学において,旧来の,例えば「狂人」や第三世界の「未開人」を他者化していく見方にもしばしば現れることであるが,松嶋はその点を,患者サイドが苦しんでいる時に外部へとアプローチする方法論の中で,精神病患者が,必ずしも精神科医の助けだけを借りているのではなく,時には友人に話したり,酒を飲んだり,民間療法を試みたりと,精神の開放には多様なイレギュラーが存在していることを上げて,生物医学が民間療法や各地域で伝わる伝承医療などに対して投げかける優越的な眼差しにも疑問を提起している。
 公衆衛生制度のグローバル化の過程で,長らく医療人類学的なフィールドでやってきた松嶋が,このような疑問をなげかけるのは当然なことである。例えば,かつて欧米の文化人類学者が未開の地へ赴き,そこで遭遇した伝承医療などを生物医学的見地から「迷信」や奇異な「呪術」と規定し,そこの場の民俗の中でいかにそれが活き活きと根付いていたかをまったく見てこなかったのが旧来の所謂,“文化人類学”であり,そのことによって,本来は医学というものが古代から哲学,宗教,芸術,体育などと相互補完的に関わってきたというその回路を断絶させてしまったに等しい。その反省から立脚している今日の医療人類学に何か求めるものがあるとすれば,制度の外へとはみだしたもの,患者をとりまくグローバルではないもの,「制度」では計測できない微細なものにさらに注目していく必要があるのではないか。松嶋はそれを<出会い>という言葉で結んでいる。イタリアという土地はもともと,反グローバルから始まった「スローライフ」運動の発祥の地でもあり,近年の大学改革によって合理化が進んでいるとはいえ,医療人類学という学問が,地域精神医療に果たす役割はさらに大きなものになるであろう。

【著者経歴】
松嶋 健(まつしま・たけし)
京都大学大学院 人間・環境学研究科

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