スポーツ・身体表現

12. Mai 11

【映画】団鬼六原作/石井隆監督『花と蛇』(杉本彩主演)

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 わが国の大衆官能小説の巨匠・団鬼六逝去につき,監督と主演が異なる同名の作品を2本見る。
 『花と蛇』は,ブラック企業の妻が借金のかたに売り飛ばされ,そこで拷問,凌辱の限りを受けるという,官能小説の古典的様式美。この辺りは永田守弘の『官能小説用語表現辞典』に詳しいが,数々の耽美的にして密度の高い字面,その質感によって表現される官能文学を,隠密性と余白を失わずに映像化できるのかが,いわゆるAV作品とポルノグラフィーの大きな違いである。
 主演を務めるのは女優の杉本彩だ。杉本はアイドル時代から確かにセックスシンボルとなりえていたようであるが,この様な成人映画で裸体を晒すのは初めてであり,石井版『花と蛇』が公開当時から話題になったのはこのような理由もある。

 団鬼六文学の様式美で忘れてならないのは,その代名詞でもある「縄」である。生贄となった女の身体が,数人の男たちによって縄で縛られていく。縄の圧迫による鬱血,各部位への食い込み具合の描写などから女の身体の膨らみと柔らかさが表現されるのである。こうして自分の意思に反した限界領域にまで折り曲げられ,畳まれ,不自由に変形した身体が完成する。この1つの異形となったオブジェは,性愛の対象としてではなく,ありきたりの人間性も排除された有機端末として,数々の凌辱的な入力信号にエロティカルに反応するのである。

 映画の見所は,ブラック企業主催の秘密クラブに売り飛ばされた杉本彩が,裸体を晒しながら縄で宙釣りの柱に磔刑されていく場面である。不安定に揺れる杉本の裸体と,縄で軋む音は,文学的世界とはまた異なった美しさがある。この怪しさや隠密性は,古くは円形小屋のサーカスや見世物小屋で受け継がれてきたものだ。暗幕で覆われたこの空間は,その数ミリの僅かな布の被膜に覆われただけの脆弱な空間である。そこに充満する悪趣味な見物人たちの想念,情念は,今にも破裂しそうにこの空間を膨張した高圧環境に仕立て上げる。
 ここで奴隷となった杉本は,呼吸,排尿といった生理的行為の自由も奪われ,その恍惚の表情が,次第に人格が崩壊していく「知性」を見事に演じている。口には開口弁が設けられた猿轡が施され,天井から吊り下げられたガラス製のイルリガートルから,やや白濁した液体を無理やり注がれる。このぬらぬらとしたイルリガートルの質感と形状は,この場にいれば誰しもが男性器を想起するものである。そして暫くしないうちに膀胱に満たされたその液体が,杉本の裸体を伝わって床に滴り落ちる仕掛けである。この時,この縄で磔刑された女の身体は,1本の管の様な,あるいは,蛭やミミズのような実にシンプルな環形動物の様にも見えてくる。
 おそらく何百年も続いてきたであろう,人間の想像力と欲望の限りを尽くした鬼六文学の美しさを映像で表現した作品であった。

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17. April 11

【舞台】シアター・ブロック公演Vol.31『昔話と狂言 オマージュTOSHIHIRO HAYANO』(2011年3月27日,ザムザ阿佐ヶ谷)

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 シアター・ブロックによる秋田の民話と狂言を題材とした舞台である。言葉はあえて全編ネイティヴな秋田弁により上演された。
 まず上演に先立ち,この舞台の演出家である新城聡から異例の口上があった。要約すると次の通りだ。
「今回の事は我々にとっても大変な事態であるが,この事態がきっかけで,世の中で誰が偽物の人間で,誰が本物の人間かがよくわかったと思う。これでかえってすっきりした。むしろ,この時期だからこそ上演する意味が我々にはある。」
 この“大変な事態”とはもちろん今回,東北,北関東を襲った大地震の事である。それを踏まえたうえで新城聡は,震災の影響で被災地以外の地域でもイベントが相次いで自粛される中で,今回あえて予定通り公演に踏み切ったのは,どんな批判に晒される事も厭わない舞台に立つ人間の覚悟であるとも語った。
 そして,都内も計画停電などで大混乱の中,この舞台に方々から駆け付けた来場者とこの「場」を共有し,連帯できた事を喜んだ。

 私がこの舞台公演について知ったのは昨年の夏ごろ,本公演で板に立つ舞台俳優の岩田真を通してである。ちょうどその頃,知人の劇作家や演劇プロデューサーらも,集落に伝わる説話・伝承から現代の舞台を作るという試みをしていたので,舞台表現,身体表現における「方言」という記号がどのように「場」に作用するのか興味深いところでもあった。
 また,このザムザ阿佐ヶ谷という空間は,まるで東北の古民家から資材を移築して作った様な空間であり,舞台天井を横断する大きな梁や,床,壁の無数の「傷」,「歪み」,「くすみ」は,たしかにこの「家」に誰かが棲んでいた気配すら感じる。舞台と客席がまったく同室の質感で繋がったこの空間は,まさに名も無き東北集落の「家」そのものである。
 一昨年はこの舞台で慶應義塾大学アートセンターが,もともとは標準語で書かれた土方巽の『病める舞姫』を秋田弁で上演をするという試みを行い,今もなお,その土方の気配が残像として残るこの空間で,再び秋田弁による舞台が試みられたわけである。

 上演されたものは,秋田民話の「へっぴりじい」,「にぎりままとじさま」,「なくてななくせ」の3編と,狂言「濯ぎ川」である。どの物語も,人間の業と我欲を面白おかしく語ったものであり,近世から口承により語り継がれてきたものである。
 舞台ではまず演者が中央に登場し,その他黒子となった左右両翼に脇を固める複数の演者たちが,様々な民具を打ち鳴らす音と肉声で物語の効果音を入れる。本舞台の効果音はこれで全てであり,いわゆる電気的に予め合成された音響効果は存在しない。そして全編にわたりネイティヴな秋田弁である。
 一昨年,慶應義塾大学アートセンターにより上演された秋田弁による土方巽の『病める舞姫』では,標準語圏の人間には聞き取りにくい秋田弁の会話の中に,ときおり標準語に翻訳された会話が挿入された。要所要所で掛け合う秋田弁と標準語がまるで即興ジャズのセッション,あるいは,言葉同士の格闘の様で,それはそれなりに面白かった。(『病める舞姫』についての批評はこちら→ http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2010/03/post-b4d4.html http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2010/03/post-b4d4.html

 翻って今回の舞台ではそれが一切ない。ふだん標準語圏で暮らす我々は,聞き馴染みのない秋田弁と対峙することとなる。まず,会話の内容が聞き取れるのがおおよそ60%。あとは演者の表情,身体表現により,理解できなかった秋田弁の断片を補完する。「言葉」とは意味が正確に伝わってこそ,記号の役割を果たすが,この空間ではそれは困難である。だがその事,つまり,単純明快に記号化できない「言葉」の存在があるからこそ,演者から発せられる肉声が,強い身体感覚を得てこちらに伝わってくるのである。

 実は,中央線アンダーグラウンド文化を築いてきた阿佐ヶ谷,高円寺という土地は,東北と非常にゆかりが深い。60年代,70年代にアングラが栄えたこの地に地方から集まってきた者たち,例えば土方もそうだが,寺山修司や北方舞踏派の面々,伝説の音楽喫茶『ムービン』に集った無名のフォークゲリラたち,彼らのルーツを辿っていくと東北と繋がる。東北の人間は朴訥で辛抱強いと言われるが,実はそんな単純な事ではなく,外界と一切閉ざされた冬の長い豪雪の中で,酒と肉体と唄で濃密な人間関係が熟成され,その結果,土俗的身体を獲得してきたのである。
 秋田弁の舞台に立つ演者たちは,地下足袋で板の間の舞台を踏み鳴らし,その重心は地面に限りなく近い。これはまさに「田植えの舞い」であり,舞台上で展開される幾重もの物語は,東北の名も無き集落の日常なのである。
 冒頭でこの舞台の演出家である新城聡が言った,「この時期だからこそ上演する意味が我々にはある。」という言葉は,震災と大津波で喪失した東北の集落の記憶と民俗を,その「言葉」と「身体」でふたたび集落再建していく行為と繋がる舞台であった。

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13. November 10

【映画】 岩名雅記監督『夏の家族』(2010・UPLINK X)

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 フランスを拠点に身体表現活動を続ける舞踏家・岩名雅記の第2回監督作品。作品の随所に男女の性器が明瞭に映されたハードコアな性交シーンがあるため、日本ではR18指定作品として上映された。

 監督の岩名雅記は1945年東京生まれ。暗黒舞踏集団『大駱駝艦』や北方舞踏派、土方巽らの日本の舞踏黎明期を同時代として生きてきた舞踏家である。他のジャンルとのコラボレーションも多く試みており、筆者とは、画家・梅崎幸吉が主宰していた銀座7丁目のギャラリー・ケルビームで即興演奏の舞台に立っていたチェリストの入間川正美を通じて接点がある。
 また岩名は、TVの声優としての顔もあり、その多くは『イナズマン』、『キカイダー01』、『正義のシンボル コンドールマン』、『秘密戦隊ゴレンジャー』などの特撮番組で悪の組織の首領役をやっていたという特異な一面も持つ監督だ。

 本作『夏の家族』は、ノルマンディの辺境の村に暮らす62歳の舞踏家カミムラと、2人の女性(47歳の妻のアキコ、35歳の愛人のユズコ)をめぐる物語が、ノルマンディの淡い光の中で寓話的に描かれている。物語の中には8歳の娘マユも登場するが、その姿は最後まで現さない。手、足、後ろ姿、そして声のみが断片的に描かれ、その身体性は全編を通じてのマユ視点のカメラワークで表される。冒頭の手振れがするたどたどしい歩み、階段を一段ずつ用心深く昇る様は、口はませているが足元が覚束ない少女である事がわかる。
 ここで描かれる日常とは、ノルマンディにアトリエを構える舞踏家カミムラを中心に行きかう人々の、一見するとありふれた情況ではあるが、それは閉鎖されたスモールタウン(村落共同体)の中で起こる「狂気」と常に隣接している。そして鮮やかな色彩をも感じさせるノモクロームの初夏の風景の中に投げ出されるのは、枯れ枝のように渇ききって軋む男女の身体である。
 その身体は、禁欲的なまでの機能美のみを残し削ぎ落とされた、大地への生贄の様だ。それらは渇きを癒すように交わり、僅かに残された互いの粘液によって一瞬の潤いを得る。自分のあるがままの「性」をさらけ出すことの出来るカミムラと35歳の愛人のユズコ、そして、自らの衰えた身体と、その不自由な身体に抑圧された「性」の前で苦しむ47歳の妻のアキコとのコントラストがあまりにも残酷である。
 この2人の女性の間にある静かな闘争は、不倫などという俗世間の道徳に括られるものではなく、女が女であるために向き合わなければならない根本的な問題の中で展開されるのである。
 カミムラの書斎でカミムラが撮影したユズコの性器のクローズアップ写真を偶然見つけ、動揺するのではなく、自身の身体に静かに沸き起こる性欲に困惑する妻アキコの姿は、更年期を迎えた既婚女性の、けして人には知られたくない一面を覗き見した様な感覚に陥る。

 冒頭で述べたとおり、『夏の家族』は日本ではR18指定である。性器をクローズアップで映されたハードコアな性交シーンは、ややもすれば巷に溢れるポルノグラフィよりも明瞭かもしれない。血管が浮き出た男性器と、それを受け入れる幾重にも複雑な襞を形成している女性器は、男性の指や舌や性具によって様々な形状に変容し、まるで一つの自立した人格を持つ新たな器官にさえ見えてくる。その弾力を持った生き物の様な襞は、性具として加工された西洋ナスや生牡蠣まで呑み込んでしまう。そしてその襞の奥から溢れる粘液で、枯れ枝の様に朽ちていた男性器も潤うのである。このシーンは大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976)へのオマージュも感じさせる。
 しかしモノクロームの長回しで記録されるこれらの男女の性器は卑猥に映るものではなく、例えば、枯れ葉の透けた葉脈、植物の種子、鳥の羽根、鏡に付着した水滴、壁のシミやひび割れと同じく、風景の中で同化された静物画として存在するのである。それはカラヴァッジョの静物画に描かれた、やがて朽ちる前の潤いを貯めた果実そのものである。
 カミムラは、その果実をいつまでも愛でながら、身の上話のように唐突に東京五輪の話をするのだが、カミムラのこんな台詞。
「東京五輪のあと、円谷が命を絶った時に、潮を引くように日本人の中にあった精神の佇まいも消えてしまったように思う。」──から、かつての復興の象徴であった東京五輪に映し出された様々な近代的身体──ある意味カミムラの、あるいは監督である岩名自身の身体、すなわち僅かな代謝活動により生き存え、やがては土に還る土俗の身体とは対極を成しているものが、戦後の繁栄の残像とともに人々の忘却の中へと消えていくような侘しさが感じられる。60余年、風雪に耐えてきたカミムラの身体とも象徴的に重なるシーンでもある。

 カミムラがノルマンディーのスモールタウンで愛人を抱きながらも、この寓話的世界に唐突に割って入る東京の風景は、妻アキコの情念で満たされた郷土の呪縛そのものである。造形的には禁欲的な身体をこしらえ、それと相反するように野性のままに生きてきたカミムラは、その罰を受けるべく、村の小さな沼に身を投じる。それは見る者によってはいろいろな姿に見えるだろう。例えばイタリア・ルネサンスの磔刑図、ミレーの描いた瀕死のオフィーリア、または高山地帯に住む少数民族の鳥葬である。高所から急降下する鳥に身体をえぐられるカミムラは、無抵抗に身体を投げ出したまま朽ちた屍となっていく。
 この時初めて娘のマユが姿を現すが、それは少女ではなく、朽ちた枝で作られた醜い異形であった。この異形がみつめていたのは、2人の女、ユズコとアキコが一つ屋根の下に暮らす歪な家の中で繰り返される枯渇した日常である。その「渇き」は、男女の身体のみならず、8歳の少女すら奪っていったとも解釈がとれる猟奇的な結末であった。

■『夏の家族』公式Web http://natsunokazoku.main.jp

■岩名雅記監督来日予定
舞踏とワークショップ
2011年1月17日(月)~21日(金) 16:00~21:00
1日2500円(5日通し10000円)
舞踏公演
2011年1月22日(土)18:30会場 19:00開演
23日(日)14:30会場 15:00開演
2500円
会場
キッド・アイラック・アート・ホール
http://www.kidailack.co.jp/

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17. Mai 10

【アート】格闘写真家・齋藤陽道の空間と身体

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鶴園誠(ドッグレッグス所属)=撮影・齋藤陽道

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霊子(ドッグレッグス所属)=撮影・齋藤陽道

 昨年、新人写真家の登竜門である『写真新世紀』で齋藤陽道という写真家の作品が入選した。作品は日常の心象風景を撮影したものだった。そして先日、その齋藤の新作が、あるプロ格闘技団体の会場にポストカードとして並べられていた。この2点の作品が齋藤の作品である。
 写真家・齋藤陽道には、実は写真家とは別の格闘家という顔もある。そして現在も創作活動と平行し、格闘家・「陽ノ道」として障害者プロレス団体ドッグレッグスのリングに上がっているのだ。彼は聴覚障害者である。リングに上がる時も他の選手たちのような派手な入場テーマもなければ実況解説もない。それは陽ノ道自身が、観客も自分と同じ静寂な空間で肉体と肉体がぶつかり合う情況を体感して欲しい、という意図から考えたものでる。
 これまで3度ほどリングサイドで陽ノ道の試合を観戦したが、そこにはたしかに静寂の中で広がった創造力をかきたてる空間が存在した。「音」が無い空間は他のものに注意が向けられる。それは選手がマットに倒れた時の振動や、打撃で赤く腫れあがっていく選手の身体などだ。陽ノ道が他の選手とタッグを組む時は、タッグの選手もマットを必死に叩き、その振動によってリングの上にいる陽ノ道に様々な情報を伝え、レフェリーも小さなホワイトボードで試合の経過を伝える。
 この空間にはいわゆる健常者といわれる我々には計り知れない未知の身体性が広がっているのである。ドッグレッグスの試合はいつも様々な工夫を凝らし、その面白さを伝えている。例えば、立位が可能な選手と下肢に障害がある選手が試合をやる場合、立位が可能な選手の下肢は拘束具で固定され、全く同じ条件で戦う事となる。この場合双方足を使って移動ができないため、必然的に接近戦でのノーガードの殴り合いになるのだ。それは見た者でないとなかなか伝わりにくいとは思うが、ボクシング・ヘビー級の様な迫力なのである。選手たちの身体の中で僅かに残された健常な部位が究極なまでにビルドアップされ、まさに人間凶器となった彼らがギリシャ兵の如く戦うのである。これはもはや“ハンディキャップ”として我々の目に提示されるものではなく、異能の身体を持った者どもの究極のバーリトゥードなのだ。
 聴覚障害者の齋藤陽道は、格闘家・陽ノ道として毎回このようなリングに上がり続けてきた。ここに紹介した2点の作品もドッグレッグス所属の格闘家達を被写体にしたものだ。
 車イスに片足で乗っている鶴園誠は、世界障害者プロレス・スーパーヘビー級障害王のタイトルを持つレスラー。実は鶴園は、昨年開催されたドッグレッグス「8・1成城ホール大会」で、ここで紹介する陽ノ道と無差別級選手権試合を戦って、なんとこの王座は陽ノ道に譲り渡してしまったのだ。現在ドッグレッグスの中では一番のライバル関係である。そしてもう1点の作品は、同じくドッグレッグス所属の女性レスラー霊子である。彼女は昨年の「4・25北沢タウンホール大会」で初めてリングに上がった新人レスラー。40代で筋委縮症を発病し、子育てをしながら格闘家活動を続けている。
 『写真新世紀』でデビューを果たして以来、齋藤陽道の被写体は専ら彼らの様なマイノリティと言われる人々である。齋藤は兼ねてから、このような人々を被写体に収めたいと言っていた。彼はそこに「尊厳」を焼き付けたいと言う。しかしそれはいわゆる社会的弱者の尊厳を意味するものではなく、もっと普遍的なものである。音の無い世界にいる齋藤は、リングでは無言で相手と殴り合う。自分よりも強い相手との指名試合も積極的に行うのだ。この行為は文字どおり、齋藤にとってのプロレス的「肉体言語」の帰結であり、言葉を交わす事のできない相手との唯一のコミュニケーション手段なのである。
 そんな齋藤陽道にとって写真という表現媒体は、相手を殴る事ではなく、別の方法論で、言葉を交わせない選手の「言葉」と「身体」の内部に肉薄するための新たな試みである。そして齋藤は、身体障害、精神障害、知的障害、性的マイノリティといったあらゆるマイノリティと写真表現の現場で向き合っている。リングの上で殴られるのと同様に、被写体からは相当なリアクションが当然あるであろう。聴力と言語を持つ我々は、そのようなリアクションは全てノイズとして処理してしまいがちであるが、齋藤は逆に、そのノイズとして日常空間にこぼれていく声無き「声」を一つ一つ丁寧に拾い上げて被写体に焼きつける。そうして焼きあがった作品は、もはや“ハンディキャップ”とは到底言う事は出来ない超然とした彼らの姿を映し出すのである。

■齋藤陽道公式サイト■
http://www.saitoharumichi.com/

■障害者プロレス『ドッグレッグス』に関する記事■
【格闘技】コミックマーケットにドッグレッグス参上!(8月16日,東京ビッグサイト)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 「きっと生きている」の対戦カード第一弾が発表される
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる
【格闘技】ドッグレッグス第77回興行レビュー
【格闘技】ドッグレッグス第76回興行レビュー
【映画批評】天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」

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13. April 10

【ライブ・パフォーマンス】 詩人・伊藤洋子+ナガッチョ (銀座・ギャラリースペースQ)

 東京・銀座のギャラリースペースQで、詩人で画家の伊藤洋子とパフォーマー・ナガッチョの即興ライブが行われた。このライブは伊藤洋子の個展『私の8つの太陽』のオープニング・イベントとして急遽開催されたものだ。
 伊藤洋子は、1980年代から銀座、新橋、神田界隈の画廊を中心に、肉声によるポエトリー・リーディングを続けてきた詩人である。近年は現代詩の同人活動に加えて、画家としての活動も精力的に行っている。
 画家としての伊藤の作品は詩と同じく、自分の家族や自分自身の身体を題材とした寓話的な作品が多く、マイクロフォンを通さない肉声によるポエトリー・リーディングにこだわるのも、自分の身体から発した「言葉」も肉体の一部であると考える伊藤の表現を裏付けるものである。
 また近年制作されたタブローは、画面から以前のような余白が無くなり、細かい異形細胞のような模様がテクスチャーとして画面を覆っている。
 昨年、池袋の協栄ジムの近くにある伊藤洋子のアトリエを訪ねてインタビューを試みた時、この作風の変化について、昨年患った卵巣腫瘍で片側の卵巣を全摘出した事が発端となっている事を初めて知った。つまりどういう事かと言うと、伊藤が無心になって画面の余白をテクスチャーで塗り込めていく行為は、片側の卵巣を失った事による喪失感を埋めるための代替行為なのである。
 それは、片側の卵巣が無くなった事で,伊藤自身があたかもその場所が未だ空洞であるかのように感じる空間に何かを補填し,質量を卵巣摘出以前と同等に保つ事を表している。そして、伊藤が卵巣腫瘍を患った年齢が、自分の母親が乳癌を患った時と同じ年齢なのである。
 今回、パフォーマーのナガッチョと試みたライブ・パフォーマンスはこの事を念頭において見ると、伊藤洋子自身の非常に複雑な年代記が寓話となって構成されている事が分かるであろう。

 伊藤洋子がナガッチョの即興演奏をバックに朗読しているのは全て伊藤の自作の詩である。これは、若くして自分を残して乳癌でこの世を去った母に対する憎悪、悲哀、様々な感情が複雑に反復する作品である。自分を残して癌で死んだ母を自分の胎内に宿し、その母を自ら産み落とす事で母と再会して、自分が母を失った時の悲しさ、自分を残して死んでいった母に対する恨み、辛みの気持ちを母にぶつける、という寓話的な物語が展開されていく。
 「お母さん、お腹が空いたよ」、「お母さん、痒いよ」と暗がりで悲痛に訴える伊藤洋子の声は、病で床に伏した母が自分の事を十分に構ってくれなかった事に対する残酷な怒りだ。

 ライブで競演したナガッチョは、伊藤洋子と同じく1980年代から銀座、神田界隈の画廊を中心に活動を続けてきたパフォーマーで、笛、ハーモニカ、身近な小型の打楽器をリュックに詰めて、方々の美術作家の個展やグループ展会場を大道芸人のように渡り歩いてきた。その表現スタイルは、まず美術作家の展示作品からインスピレーションを得て、ライブを組み立てていくというものである。インスピレーションが降りてくるまでは相当の時間がかかる事もある。その時の会場の雰囲気、空間によっても内容が自在に変化する。
 この日のライブは告知が遅れたために、ナガッチョのライブを知らずに伊藤洋子の個展会場に来た来場者もたくさんいた。そこでライブを最初から見る機会が無かった者のために、異例ではあるがアンコールで短めのライブも行われた。私が録画で記録したのがこのアンコールのものである。伊藤洋子が肉声でぶつける母への憎悪、悲哀を、音と自らの身体で表現を試みたものである。(伊藤洋子個展『私の8つの太陽』2010年4月12日(月)~17日(土)まで。ギャラリースペースQ・銀座)

■ギャラリースペースQ
http://12534552.at.webry.info/

■伊藤洋子作品レビュー■
【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 詩人・伊藤洋子インタビュー(芸術療法演習)
【アート】伊藤洋子個展 『卵巣の雲』(2009年8月31日~9月5日,ギャラリー代々木)

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30. März 10

【格闘技】 「船木誠勝VS鈴木みのる」~デスマッチの美学、情念熟成装置としてのワイアー・キューブ~(3・21 全日本プロレスin両国国技館大会)

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 先日、おおよそ何十年振りかに全日本プロレス(以下、全日)の試合を升席で観戦する機会を得た。記憶を辿れば子供時代、父と友人の家族と一緒にリングサイドで観戦したのが全日の試合であった。今でも鮮明に思い出すのは、サーベルを口にくわえたタイガージェット・シンがリングサイドに乱入し、自分だけ1人逃げ遅れてタイガーから追いかけられた事である。今となってはいにしえの昭和の断片を語る時に無くてはならない思い出であり、このエピソードによって馳浩さんからも王道プロレスファンのお墨付きまでいただいてしまった。
 今回戦いの舞台となったのは、後楽園ホールと並び「聖地」と称される両国国技館。すり鉢状の円形空間は、古代ギリシャのコロシアムと同じだ。殺気立った観客の声援、怒号に包まれながら、異形のバーリトゥーダー達が入場してくる。この場面は、数年前から試合を見るようになったドッグレッグスでも同様だが、観客がサーカスに並ぶ善良な人々から狂気へと変わる瞬間なのである。恐ろしい群集心理と暴走するカタルシスは、ギリシャの医神でも止める事はできない。

 しばしばプロレスと総合格闘技を比較して、「総合格闘技はリアルファイトだが、プロレスはショーである」という言説がいまだにまかり通っているようだ。しかし、これは正しくない。それを言うならば、総合もプロレスも、どちらもリアルファイトであり、どちらもショー、すなわち「見世物」である。ただ両者が求めているリアリズムの質が異なるだけだ。プロレスは、ただ単にパワーゲームで勝敗を決めるものではないのだ。リングに上がった選手の怒り、憎しみ、狂気、それらのものが、情念として凝縮されていく。対戦選手同士、その情念を相手の肉や骨に叩きつける。技をかけられたら、肉が切れてもそれを受けなければならない。
 これはまさに、「言葉」を「身体化」した行為であり、観客もその痛みを分かち合うのである。この「場」と「空間」の共有において展開されるのがプロレスの世界でいうリアルファイトだ。相手を殴って倒すだけがリアルファイトではない。

 今回のカードで一番印象に残ったのが、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチだ。実は金網デスマッチをやる事に関して、ファンの間からは相当の異論が出ていた事を後で知った。試合終了後、選手を囲んでの懇親会の席での話だが、このカードが発表された時、ファンの多くは「なぜ今さら、昭和のプロレスの様な邪道をやるのか」と思ったそうだ。「こんな事をやっているから“パッケージ・プロレス”などと言われてしまうのだ」などという厳しい意見もあった。しかし試合を見た後にその思いは払拭されたのである。
 後半の第一試合であった、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチは、休憩時間を利用して特設空間の設置が行われた。これはテレビのプロレス中継では恐らく見る機会はないであろう。柔軟なロープで覆われたオープンエアの空間が、ガシャガシャと無機質な音を立てながら徐々に金網に覆われていく。これはまるで自分の意思で自由に動く身体を、四方から拘束具を装着されて矯正されていくような情況を想像せざるを得ない。全ての身体の自由を奪われて、己の身に起こるあらゆる凌辱を受けなければならないという恐ろしい空間にさえ見えた。そしてこの金網で覆われたキューブの中に両選手が入り、出入り口が完全に密閉されると、試合のゴングは鳴ったのである。
 そこにはこれまでの試合とは明らかに異なる空気が流れていた。金網のキューブの中は、重力、気圧、密度、何をとっても客席とは異なる情況が存在していた。その情況を作っているのが船木と鈴木の間にある積年の怒り、憎しみなどといった情念なのである。本来ならばこれらの情念は、リングからオープンエアな客席に伝わって、そこでリングと客席との間で「場」の共有が保たれる。しかし、金網のキューブの中ではその両者の情念がこの空間に封じ込まれたまま、息苦しい緊張感を作っている。両者互いに金網に身体を叩きつける時に聞こえる金属音は、アナーキーなストリートファイトで耳にする音だ。互いが血だらけになり、どちらかがKOするまで戦い続けなければならないこのデスマッチは、まるで二頭の土佐闘犬が殺し合いをしているような凄まじい光景である。そこで何が起こっても、誰も手を出せないという究極の格闘空間と言えるかもしれない。
 この光景を見て、このデスマッチを組んだ意図、そして意味は、私には十分に伝わったわけである。少なくてもそれは、単にショーアップの為に用意された茶番ではなく、あの金網のキューブは、「言葉」と「身体」を究極の領域にまで熟成させるための装置であったといえる。試合開始から19分。流血したままOKされた鈴木の身体はボロ布のように横たわっていた。それはまるで、南秋田の暗く凍てつく乾いた大地に野ざらしになって朽ちていく土方巽のように美しく見えた。(3・21、両国国技館、観衆8200人)

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■格闘技に関する記事■
【格闘技】格闘家国会議員によるプロレス・ティー・パーティー(3・21 両国国技館)

【格闘技】コミックマーケットにドッグレッグス参上!(8月16日,東京ビッグサイト)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)
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28. März 10

【フィギュア世界選手権】 絶対狂人・浅田真央~『鐘』に隠されたメメント・モリを考察する~

 今年で実に100回目を迎えるフィギュア・スケート世界選手権は、男子は高橋大輔、女子は浅田真央の優勝で終わった。今シーズン最後の舞台で日本人選手が男女ともに表彰台の中央に上がった事は、誰もが納得できる結果であったといえよう。特に素晴らしかったのは浅田真央の作品であり、1年間かけて、ついにこの作品を完成させたわけである。
 この『鐘』という浅田の作品は、フリー・スケーティングだけで独立したプログラムではない。実は、ショート・プログラムでさらにブラッシュ・アップされた『仮面舞踏会』とは通底したテーマがある。それは、浅田にとっての「死」を意識したメメント・モリ(Memento mori)的空間を身体化する行為だ。それを浅田はショート・プログラムでは『仮面舞踏会』の音楽と物語に乗せて、死にゆく人間の「死の舞踏」的狂気、乱舞、錯乱を、グリューネヴァルトのタブローのように、狂おうしくも美しく見事に演じ切り、これまでの清廉、可憐なフィギュアの妖精から、何者をも寄せ付けない“絶対狂人”としての浅田真央になったのである。
 フリー・スケーティングの『鐘』は、まずはこのようなショート・プログラムの背景、伏線があってこその作品であり、『仮面舞踏会』並びに『鐘』の2つの作品は、今回も論争になった単なる政治的な採点基準の問題だけではなく、2つの独立したプログラムがそれぞれ表裏の関係として如何に重層的に表現されるべきかという非常にレベルの高い問題を提起しているのである。
 つまり浅田は、ショート・プログラムとフリー・スケーティングという各章に分離され独立した要素を、一つの交響楽で表すという事をやってのけたのである。この2つの分離された章に、それぞれ浅田の武器であるトリプルアクセルを楔として打ち込むという行為は、例えれば、ロマン主義以降の近代的交響楽にメタ構造で現れる「動機」そのものなのである。タラソワがショート・プログラムから終始一貫してトリプルアクセルを要素に入れる事にこだわったのは、このような「芸術」を表現するためだからだ。
 しばしばフィギュア等の採点競技では、「芸術性」をめぐって論争が起きる。しかしながらこれは、基本的ルーティーンが未熟な者から発せられる恣意的にして、かつ政治的な言説であり、「芸術」そのものをめぐって論争をするというレベルのものではない。そのような点において、本来ならば我々は、タラソワが4年がかりで仕掛けた、この計算されつくしたメタ的構造のプログラムにこそ驚愕し、浅田の作品ただ1点において芸術論争が起こるべきなのである。少なくても、寂れた歓楽街の大衆芸能のようなものとは同じ座標で語るものではない。

 浅田にとって『鐘』とは、どんなプログラムであったのかと言えば、それは限りなくメメント・モリを意識したものだが、言い換えれば、この4年間の間に浅田の身に起こった様々な出来事が情念として堆積したものであると言ってもいい。当初、浅田の新プログラムでこの『鐘』が発表された時、フィギュアファンからも概ね不評であったようだ。ジャンプを華麗に飛ぶ軽快な浅田真央のイメージと、この『鐘』が持つ、暗く重苦しい雰囲気が馴染まないという理由である。だが、浅田真央のこれまでの道程を振り返れば、そんな演奏会用の明るく華やかな楽曲を選んだところで、浅田が胸に秘めた思いなど到底表現しきれなかったであろう。
 『鐘』が表す世界とはどんな世界であるのか。これは中世暗黒時代の欧州の歴史とともに欧州人の記憶の中に潜在的に刷り込まれたものである。それは時に大災害や疫病や戦争であったり、または神の逆鱗にふれる出来事であったり、このような鬼気迫る状況の中でけたたましく鳴らされるのが『鐘』なのである。浅田真央はまさに、このような状況の中で、誰からも守られる事もなくたった一人で戦い続けたアスリートなのである。そして浅田が戦うべき敵はあまりにも多すぎた。
 赤を基調とした衣装で颯爽とリンクに登場した浅田真央は、その胸の内に堆積した怒り、悲しみ、叫び、様々な情念を、まるで観客の我々までも焼き尽くすかの如く迫力で「死」のダンスを始めたのである。浅田が『鐘』で表した空間は、リンクの内も外も炎で包まれたような空間であり、その炎の輪の中を、人々の怒りの情念で召喚された魔物が焼け焦げた屍を蹴散らしながらぐるぐると旋回しているのである。欧州人が時に見る悪夢とはこのようなものなのだ。
 そしてこの阿鼻叫喚の状況の中でその“魔物”と化した狂人・浅田真央は、全ての物を焼き尽くした後、終曲に向けて自らもその炎の中へと突っ込んで行った。何もかも焼き尽くされて昇華される事で、やっと我々人間の穢れた魂は浄化され、ようやく福音書(EVANGELION)の1ページをめくる事が許される――これが4年間の「場」と「空間」の共有の中で完成された、浅田真央の『鐘』という作品なのだ。

■浅田真央、安藤美姫についてのコラム■
【バンクーバー五輪】 世界女王対決・浅田真央VS安藤美姫、超絶技巧的空間と身体
【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~今季最後の女王対決~
【フィギュアスケート】  浅田真央VS安藤美姫~必殺技の美学

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27. März 10

【格闘技】 格闘家国会議員によるプロレス・ティー・パーティー(3・21 両国国技館)

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 先日、アメリカ連邦議会で医療保険改革法案が可決された。強制加入が前提のこの法案は国論を二分するものであり、下院上程後の直近の世論調査でも、法案に賛成=45%、反対=48%であるとCNNの中で紹介された。
 多くの米国民が反対の声を上げているのにはそれなりに理由がある。まず米国憲法に沿って考えてみた場合、合衆国政府が権限を大きく拡大して州の自治に対し介入してくる可能性があり、これが州法に違反するという考え方がある。これはわが国でも論争になっている「子供手当法案」や「外国人参政権法案」でも言えることだが、地方自治はどこまで国に対してインデペンデンスな立場が守られるか、という問題の提起である。
 実際に、オバマ大統領が法案可決後に署名した後に、全米14州が「医療保険改革法案は憲法違反」として訴えを起こしたのである。
 またこの法案をめぐっては、そもそもアメリカという国の建国の精神そのもの、すなわち、「自由」とは何かという根本的なものを問うきっかけにもなっている。確かに、わが国の「国民皆保険制度」に比べると、これまでのアメリカの医療制度はすべての国民を十分にフォローするものではなかった。しかし、それがアメリカであると言えばそのとおりなのである。自主独立、自立自助の国、アメリカ。皆はそれが分かってアメリカに暮らしているはずだ。だから共和党支持者を中心とした保守層は、国が国民の福祉に大きく介入してくるであろうこの法案に対して、まるで社会主義的だとして生理的な嫌悪感を抱いている。
 かつてアメリカ大手の協同組合であったバークレー生協が潰れるぐらいだから、アメリカ人には社会主義、共産主義を連想させるようなものは、未だに受け付けないのである。
 そしてこの法案とともに全米で草の根的に立ち上がったのが、いわゆるティー・パーティーと言われる保守市民運動である。最初は共和党のコアな支持層だけであったティー・パーティーが、今や無党派や中道左派にまで広がり、その模様はCNNよりも早く、在米の共和党員の友人達からのメールや動画で私のもとへ届けられる。まるでスタジアムのボールパークにでも来たような楽しい雰囲気で多くの市民が集まり街宣やデモを行っている。

 ティー・パーティーの発祥とは、少し古い話になるが、1773年にイギリスが制定した茶税に関する法律に反対したボストン市民が行った一連の抗議行動から名づけられた市民運動である。それが現在では草の根保守の市民運動に対し、このように呼ばれるようになった。パーティーとはある共通する属性の集まりのことで、もちろん政党の事もパーティーと呼ばれる。
 そして興味深い事に、わが国でもこのティー・パーティーとも言うべきムーブメントが徐々に広がりつつある。発端はアメリカと同様で、政権交代によって社会主義、あるいは社民主義的なリベラル政権が誕生した事に異を唱える潜在的な保守市民による様々な市民運動がそれである。
 最近、その中でもこれぞティー・パーティーと言えるような集まりがいくつかあった。その中でも特に盛り上がったのは格闘家国会議員らによるプロレス・ティー・パーティーである。これは馳浩衆議院議員と、神取忍参議院議員とともに、『3・21 全日本プロレス両国国技館大会』を升席で観戦した後、鍋を囲んで政治談議、プロレス談議を楽しむというものである。
 当日このティー・パーティーに集まったのは全国公募から抽選で選ばれた約50名。年齢は様々だが熱狂的プロレス・ファンばかり。好きなプロレス団体の地方巡業を見て回っている人もいれば、選手と自分の人生を重ね合わせてしまっている人もいる。そんな人たちが、政治とプロレスについて熱く語り合って緩やかな連帯を深めたのがこの日のティー・パーティーである。
 ここに集った人たちは、プロレス好きというただ一点の属性で結ばれた人たちである。それ以外の日常の様々な経歴、肩書、地位などは関係ない。言うならばここはハーバーマス的なパブのような市民空間であり、誰か特定の著名人によって権威付けられたものではない。これがこれまでの日本になかった文化なので面白いのである。
 実はこのプロレス・ティー・パーティーを企画したのは自民党なのだが、蓋を開けてみれば参加者の中には自民党党員など1人もおらず、その代わりに全国から熱狂的プロレスファンがつめかけた、という図式だ。この点も全米発の反オバマのティー・パーティーと実によく似ていて興味深い。

 日本のこれまでの「公共圏」は、言ってみれば「赤ちょうちん」文化だ。つまりは、議員バッジや社章を着けたまま暖簾をくぐる文化である。この「赤ちょうちん」的公共圏では、年収の差、経歴、学歴、年齢、職業などの実社会におけるヒエラルキーがそのままスライドされる。たとえ無礼講と言われても、上司や先輩や総理大臣を批判する事はなかなかできない。
 しかし、パブの文化は異なる。個人の経歴、肩書よりも、どんな会話を交わすかに価値がある。誰が発言したのかという権威主義ではなく、その発言内容のクオリティそのものが問われる。この情況はネット・メディアとも親和性がある。なぜならこの空間ではインテリゲンチャのブランド化がまったく通用しない。このような空間において潜在的な保守市民が行動しだしたという事の方が、後々歴史を振り返った時、“政権交代”よりもはるかに歴史的な出来事であったかが分かるであろう。

 政治とプロレス。このいかにも唐突と思われるような組み合わせであるが、この両者の在り方を突き詰めて考えれば、結局は「言葉」と「身体」の関係性に行きつくのである。すなわち、政治もプロレスも、「言葉」を身体化していく行為だからだ。政治は政策をリアリズムによって遂行なされるべきものであり、その時に政治家は自身の「言葉」と「行動」を以って国民に伝えなければならない事がある。「言葉」だけで政策を語っても、国民に投げかけられた「言葉」は単なる選挙のための「記号」として空虚に空中を徘徊するだけなのだ。
 この言説をめぐってTwitter上で面白いやりとりがあった。今の政治は「言葉」を全然「身体化」できていない、というものである。ではそんな政治を担う、“「言葉」を身体化できない政治家”とはどういうものなのかというと、自分で汗をかかない。人の痛みを受け止めない。相手の立場も受け止めることができないから信頼関係も築けない、というような政治家の事であるという。
 これは全てプロレスにも当てはまる事なのである。プロレスには昨今の総合格闘技とはまた異なった美学が存在する。それは単にパワーゲームだけで勝敗が華麗に決まるものではない。リングから聞こえてくる双方の選手の肉や骨のぶつかり合う音や、積年の因縁、恨み、辛みその他の情念が、対戦相手に向かって叩きつけられる世界なのである。相手が技を繰り出したら、逃げずにそれを受けなければならない。自分が不利だからと言って党首討論から逃げて回っているような人間はこのリングに上がる資格はないのである。
 そしてそれを見る我々も、真剣に戦う者たちの痛みを感じ、偽善者の振る舞いも衆人のもとに晒されるのである。この「場」と「空間」の共有こそ、まさに今の政治にも求められているリアリズムなのであろう。国家の骨格作りはまず体育にありとした三島由紀夫もまた、今の日本の情況をもし見たら、同じ事を思ったにちがいない。

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22. März 10

【パラリンピック】 アイススレッジ・ホッケー日本代表、死力を尽くして堂々の銀メダル

 パラリンピックのアイススレッジ・ホッケー決勝が日本時間午前4時に行われた。結果は残念ながら0-2でアメリカに敗れ、金メダルとはならなかった。しかし今回の日本代表の活躍は、2つの画期的な事をもたらした。その一つは、まず準決勝で地元の優勝候補だったカナダを破り、なんと決勝まで駒を進めたことである。これが如何にすごいことなのかは、アイスホッケーというスポーツの根本を考えてみればわかる。
 先日まで行われていたバンクーバー五輪で上位に勝ち上がってきたチームの体格、スピードの中で、果たしていつも日本リーグで戦っているチームが太刀打ちできるだろうか。アイススレッジ・ホッケーは通常のホッケーと同様の過酷さを極めた競技なのである。こんな状況の中で決勝まで駒を進めただけでも歴史的快挙なのだ。
 そしてもう一つ異例だったのは、この快挙を受けて、放送権を持っているNHKは急遽、早朝に生放送を決定した事である。先日のコラムでも、メディアのパラリンピックの扱いがあまりにも貧しい状況に触れたが、これまでNHKは、日本選手がアルペンやノルディック競技で金メダルを獲っても競技の模様を完全放送する事はなく、夜の教育テレビで25分程度のダイジェスト版で競技の結果を伝えただけである。しかも、表彰式の様子も流さない。完全に福祉番組枠で制作されたようなお粗末な放送内容だったのである。
 この事について不満に思っていた視聴者も相当数いたようで、おそらくは多くの要望がNHK側に届いたのであろう。NHKは決勝の3日前に急遽生放送を決定したのである。急に決まった放送であるからネットのテレビ欄では前日まで掲載される事はなかったので、視聴者の多くはTwitterなどの口コミで生放送の件を知ったようだ。
 本来、パラリンピックをスポーツ競技と捉えるならば、最初からこうあるべきなのである。競技の結果だけ伝えられるよりも、やはり実況解説とともに、第一ピリオドから勝負の行方をライブで楽しむ方がよいに決まっている。障害者スポーツが、いわゆる「福祉」の領域から一歩も二歩も世界と戦う場に出ていけば、迎い入れる環境もこのように変わっていく。アイススレッジ・ホッケー日本代表は世界の頂点の場で、その競技の過酷さ、そして面白さをアピールする事で、一つ歴史を作ったことになる。

 さて、アイススレッジ・ホッケーを競技として振り返って見る。日本とアメリカでは、チームにどのような差があったのか。日本に全く勝算はなかったのか。
 まず試合を観戦してて圧倒的だなと思ったのは、アメリカチームのスピードと身体機能の高さであった。ゴール前では双方乱れて肉弾戦必至になるが、この時に体格の大きいアメリカ人選手に日本人選手は弾き飛ばされてしまう場面を何度も見た。それでも日本人選手はすぐに大勢を立て直し、フォーメーションを組み直す。しかし後半はやはり体力が尽きたようだ。
 それに加えてアメリカチームは、日本チームの正確なフォーメーションを徹底的に研究済みで、例えれば、かつてサッカー加茂JAPANがやったようなゾーン・プレスを一斉に仕掛けてくる。これでフリーな「空間」をことごとく潰されると、結局ロングパスに頼らざるを得なくなり、カナダ戦の時のような日本チームの良さが出し切れていなかったように思う。
 日本チームとアメリカチームの差は結局のところ、アイスホッケーというスポーツの文化的土壌の成熟度と、障害者スポーツに関する社会的認知度の差が現れた結果なのかもしれない。これらの差は競技環境にも影響を及ぼし、一方のチームは十分な数の指導者と時間と資金をバックボーンに最高のポテンシャルを発揮し、他方のチームは厳しい競技環境の中で死力を尽くして挑んだ結果だという事である。
 プロレス・ティーパーティーで同席する機会があった馳浩衆議院議員の話によれば、パラリンピックに予算を出しているのは文科省ではなく厚労省とのことであり、そのことの一点をとっても、国はこれを未だに福祉の一環として捉えているのがわかる。

 試合前日の選手の言葉で印象的なものがあった。番組アナウンサーに決勝への抱負を聞かれて、「自分たちは2番になるためにここへ来たわけではない」と答えた選手がいた。スタジオのアナウンサーも、それに呼応するように手を叩いて「そうですよね! 2番になるためじゃない!」と興奮した表情で言った。
 どこかで聞き覚えのある言葉ではないか。昨年の事業仕分けで、「メダルが取れないようなマイナー競技にお金をかけても無駄だ」、「世界の中で2番ではダメなんですか」などと得意満面でこのような事を言ってのけた民主党議員の顔を数人思い浮かべた人も多いだろう。さすがにあの総理もアルペンやノルディックで日本人選手が金メダルを獲ったのに驚いてか、国からの援助が十分ではない事を電話で詫びたそうだが、遅すぎる。
 日本チームが今回世界の頂点の舞台で戦って、銀メダルを獲れたのは、最初から世界の2番を目指して戦ったからではない。1番を目指したからこそこのような快挙を成し遂げる事が出来たのである。
 昨年の事業仕分けを華々しく演出したメディアも少しは反省して、障害者スポーツの最前線で世界と戦う彼らの競技環境の向上のために、ジャーナリズムは何をやるべきかを今こそ考えるべきである。そもそもスポーツ担当の記者が、パラリンピックの予算が厚労省から出ている事に、まずは疑問を持たなくてはならないだろう。そして、こんな過酷な環境にありながら、このような快挙を成し遂げた日本代表のことを記憶の中に刻んでほしい。

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20. März 10

【パラリンピック】 スキークラシカルで新田が金,アルペン・スーパー大回転で狩野が金,森井が銅

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 バンクーバー・パラリンピックで,連日にわたり日本人選手の活躍が続いている。昨日の男子スキー・クラシカルで新田佳浩選手が金メダルを獲得したのに続き,本日早朝にはアルペン競技で日本人選手が金メダルと銅メダルを獲得したという嬉しいニュースも入ってきた。
 まことに喜ばしい事であるが,残念なのは日本国民の多くがこの事をあまり知らないという事である。
 まず,五輪とパラリンピックを別の大会として分けて開催しているという事もあるが,テレビの放送体制にも大いに問題がある。先に開催したバンクーバー五輪は各局が早朝から生放送を何時間も行い,夜にはそのダイジェストを再び放送するという体制をとっていた。スポーツ紙の一面も五輪一色になる。
 一方で,パラリンピックの方はというと,NHK教育テレビで午後8時からたったの25分間のダイジェスト放送という貧しさである。しかもこの時間帯は福祉・教養番組枠であり,パラリンピックという競技が世間的にはどのように認識されているのかがこれでわかる。
 このような状態では,現在パラリンピックが開催中であるという事さえ知らない国民がいても不思議ではない。実際に,早朝にTwitter上で新田選手の金メダルのニュースを流したら,フォロワーの数も急増し,大反響であった。フォロワーのTL(タイムライン)を追っていくと,「なぜ生放送しないのか」,「たった25分の放送では競技の面白さがわからない」という意見がやはり多く,中には私のTweetで日本人選手の金メダルの件を知ったフォロワーや,また,自分自身が障害者アスリートであるというフォロワーからも,もっと競技の事を注目して欲しいという声が届けられた。
 これを見る限り,パラリンピックを競技として完全中継で見たいと思っている人がそれなりにいるという事がわかる。実際にNHKにも視聴者からの反響が届いているようで,21日早朝に行われる金メダルをかけたアイススレッジホッケー決勝「日本×アメリカ」の試合をNHK総合テレビで午前3時45分から急遽生中継する事に決まったようだ(電話確認済み)。Twitterではこちらの生中継の件も非常に反響が大きく,皆さん喜ぶとともに,本来こうあるべきだという意見がたくさん並んでいる。

 障害者アスリートが競技を続けていく中で最も困難なのは,競技環境の過酷さ,即ち具体的には指導者不足,国や自治体からの支援の少なさに加えて,選手自身が常に二次障害のリスクを負いながら競技を続けている事である。
 どんなアスリートでも故障や事故はつきものだが,障害者アスリートのように身体の脆弱な部分を元から抱えている者の方がリスクが高まるのである。それは時に二次障害とも言われ,競技中の事故によって,先天的に抱えている障害に加えてさらに障害の度合いが高くなったり,別の障害を抱えてしまう状態の事だ。
 私が普段から交流を持っている障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の障害者レスラーの中でも,二次障害のリスクを抱えながらリングに上がっている者もいる。
 つまり,障害者がいわゆる「福祉」の領域から飛び出して,競技者として世界と戦う場合,彼らは我々が想像する以上に,非常に多くの困難を抱えながら競技に挑んでいるのである。その事を考えても、競技生活を続けるだけでも金メダルに値する。
 スキー・クラシカルで金メダルを獲得した新田佳浩選手は左腕が肘から欠損している。したがってスキーのスティックを右手だけで持って過酷なノルディック競技に挑んだのである。もともと重心が不安定な上に,わずかなバランスの崩れで転倒してしまう危険もある。前回のトリノ大会の時にはそれで悔しい思いをした。
 スーパー大回転で金メダルを獲得した狩野亮選手,銅メダルを獲得した森井大輝選手は肢体に障害があり,まるで1本の杖で板まで連結されたような小さな空間に上体を乗せたまま急斜面を滑降する。万一コースアウトすれば大惨事にもなる。選手の上体の重心移動に呼応して舵を取るようにしなやかに雪を蹴散らすスキー板それ自体が選手の拡張された「身体」であり,これはもう極限状態で表現される奇跡的ともいえるような美しさなのである。
 先日のコラムでも書いたが,障害者スポーツの世界こそ,運動生理学,人間工学における日本の最先端の技術分野がどんどん活かされるべきなのである。ここで構築された技術は福祉医療分野はもとより,他の競技へのフィードバックが可能なのだ。障害者アスリートたちが残していく足跡は、何も福祉分野に限定されて評価されるものではない。それは、残された肉体が、重力、遠心力、空気抵抗、その他様々な物理作用と壮絶に戦いながら身体運動の可能性を極めた先駆者たちの表現として、我々の記憶に永久にとどめていくべきものなのである。

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