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11. März 10

【舞台公演】 慶應義塾大学公演 『土方巽 「病める舞姫」 を秋田弁で朗読する』(2010年3月9日、ザムザ阿佐ヶ谷)

 2010年3月9日、夕刻。雨から雪に変わったこの日、阿佐ヶ谷の小劇場「ザムザ阿佐ヶ谷」で、慶應義塾大学学生とプロの劇団員のコラボレーションによる『土方巽「病める舞姫」を秋田弁で朗読する』という試みの舞台が上演された。これは、原典では標準語で書かれた土方巽の幼少時代の自伝的エッセイ『病める舞姫』を、あえて秋田弁で朗読し、そのテクストから土方の身体に迫ろうとするものである。
 この企画は、先日も告知記事で紹介したが、財団法人東京都歴史文化財団が「東京文化発信プロジェクト」の一環で、学生とアーティストによる交流プログラムの中で実現したものである。これに自治体の賛同も加わり、いわば芸術文化活動における産学共同プロジェクトのようなものとして結実したものだ。
 まず、この「ザムザ阿佐ヶ谷」という空間自体が東北の古民家のような作りで、四方は土壁と年季の入った太い梁で囲まれている。板の間の床も、神経質に研磨されたものではなく、人間の顔や目玉に見える木の節が剥き出しになっている。かつて「田舎」と言われた地方に故郷を持つ人ならば、子供時代、薄暗い「離れ」や「くみ取り便所」、そして、夜になると何者かに見えてくる柱や床の木の節が怖かった事を思い出すであろう。この隠遁として、しかも湿気に満ちた内臓的空間こそが、土方巽の幼年期を育ててきたものである。
 舞台には、無造作に丸められた新聞紙が一面に散らかっており、人が座れるほどの黒い四角い炭のようなオブジェが配置されている。背面には土方巽がスイカを囓りながらこちらを凝視する巨大なポートレイト。まさに、土方巽のフォルクロア的空間である南秋田の旭川村に閉じこめられたようなモノトーンの世界だ。
 ここで作られた空間の持つ雰囲気は、私にとっては1970年代後期から80年代にかけて、現代美術作家の竹内博が神田の真木画廊で盛んに発表していた新聞紙や廃物によるインスタレーション作品を忘却の彼方から久しぶりに思い起こされるような空間である。竹内もやはり、東北、盛岡の滝沢村で、野外に廃物や日用品のインスタレーションを放置し、それがやがて朽ちて土に同化していくプロセスそのものを作品として提示した。極力自分で恣意的な動作による手を加えない禁欲的に限定された不自由な表現は、凍てつく乾いた大地に横たわる土方の姿と重なったわけである。
 
開演前のこの会場では、すでに秋田の民謡もBGMで流れており、まるで古びたムラの公民館のようである。舞台と客席も同じ質感で繋がっており、そこに14人の朗読者が現れて、肉声による秋田弁の朗読が始められるのである。
 
この14人の朗読者の中には秋田弁のネイティヴの山谷初男がいる。その山谷初男をまるで火鉢を囲むようにその他の朗読者たちが位置に付いている。彼らのほとんどは秋田弁どころか秋田にも所縁がない。そんな彼らが秋田弁を修得するためにUstreamでライブ回線を繋げ、土方と所縁のある「場」をフィールドワークしながら秋田弁を身体内部へと取り込んでいった。今回その試みの意図が明快に理解できる舞台であった。

 今回の、原典を改編した試みについてのひとつの解釈として、土方巽が生前の身体表現活動において、自らの身体運動をすべてメソッド化していったことを考えれば答えがでよう。つまり、土方にとっては身体運動も「語学」と同様に、他の者も修得出来得るものとして理性的にメソッドが作られた。我々はそれによって土方亡き今も、土方にまつわる「言葉」と「身体」を、実はそう違和感はなく同一のものとして捉えることができるのである。原典の改編は、いわば「教本」として書かれたテクストに、14人の朗読者による肉声で色・艶を載せて再現された土方巽の肉体そのものであるということである。
 
14人の朗読者は、まるで田舎の大家族の集合写真の様に全員が客席に対面している。そこから時折ヒアリングが困難な秋田弁が飛び交い、イレギュラーとして標準語が挿入される。この秋田弁と標準語との揺り戻しがとてつもない緊張感を生んでいる。土方の誕生から生涯を閉じるまでの年代記とインタラクションして現れる秋田弁と標準語との間で繰り広げられる言葉の格闘は、肉声による朗読であるからこその迫力である。
 
圧巻だったのは、朗読者たちが一斉に立ち上がって床を踏み鳴らしながら童歌を歌うところである。

 「ツンボにメクラ、ヘビ、ねずみ!」

 このリズムで反復される童歌は、床を伝わって内臓まで響いてくる。この地の底からわき出すような土俗的エネルギーは、かつて自分が生まれた空間から乖離してしまった身体の記憶を蘇らせるものである。人間が直感的、生理的に身を乗り出すようなこのリズムは、左脳が極端に肥大化し、右脳が著しく退化した我々にはあまりに刺激的すぎる。
 
それは、作曲家・伊福部昭が北海道の辺境でアイヌの舞楽に出会った時のように、病者も虫も五穀豊穣を喜び、そしてやがては共々に土へと朽ちて帰っていくような生けるものたちの一生を垣間見た瞬間であった。その生けるものたちの中心に、確かに土方巽の肉体が鎮座していた。
 
舞台の幕が下りてからもこの日ならではの演出がなされた。土方巽の誕生日に因んで本日の舞台の朗読者14人、公演スタッフ、客席の来場者全員で記念写真を撮影したのである。土方と所縁のある雪の降りしきる武蔵野の辺境・阿佐ヶ谷の夜に、我々はまんまとこの「気配」のある空間に取り込まれてしまったのであった。

■土方巽関係レヴュー一覧■
【慶應義塾大学】 『病める舞姫』を秋田弁で朗読する(2010年3月9日、ザムザ阿佐ヶ谷で上演)

【研究会】 土方巽『舞踏大解剖2』(慶応義塾大学日吉キャンパス)
【論集】 『慶応義塾大学アート・センター 年報14』2006/07

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