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März 2010

30. März 10

【格闘技】 「船木誠勝VS鈴木みのる」~デスマッチの美学、情念熟成装置としてのワイアー・キューブ~(3・21 全日本プロレスin両国国技館大会)

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 先日、おおよそ何十年振りかに全日本プロレス(以下、全日)の試合を升席で観戦する機会を得た。記憶を辿れば子供時代、父と友人の家族と一緒にリングサイドで観戦したのが全日の試合であった。今でも鮮明に思い出すのは、サーベルを口にくわえたタイガージェット・シンがリングサイドに乱入し、自分だけ1人逃げ遅れてタイガーから追いかけられた事である。今となってはいにしえの昭和の断片を語る時に無くてはならない思い出であり、このエピソードによって馳浩さんからも王道プロレスファンのお墨付きまでいただいてしまった。
 今回戦いの舞台となったのは、後楽園ホールと並び「聖地」と称される両国国技館。すり鉢状の円形空間は、古代ギリシャのコロシアムと同じだ。殺気立った観客の声援、怒号に包まれながら、異形のバーリトゥーダー達が入場してくる。この場面は、数年前から試合を見るようになったドッグレッグスでも同様だが、観客がサーカスに並ぶ善良な人々から狂気へと変わる瞬間なのである。恐ろしい群集心理と暴走するカタルシスは、ギリシャの医神でも止める事はできない。

 しばしばプロレスと総合格闘技を比較して、「総合格闘技はリアルファイトだが、プロレスはショーである」という言説がいまだにまかり通っているようだ。しかし、これは正しくない。それを言うならば、総合もプロレスも、どちらもリアルファイトであり、どちらもショー、すなわち「見世物」である。ただ両者が求めているリアリズムの質が異なるだけだ。プロレスは、ただ単にパワーゲームで勝敗を決めるものではないのだ。リングに上がった選手の怒り、憎しみ、狂気、それらのものが、情念として凝縮されていく。対戦選手同士、その情念を相手の肉や骨に叩きつける。技をかけられたら、肉が切れてもそれを受けなければならない。
 これはまさに、「言葉」を「身体化」した行為であり、観客もその痛みを分かち合うのである。この「場」と「空間」の共有において展開されるのがプロレスの世界でいうリアルファイトだ。相手を殴って倒すだけがリアルファイトではない。

 今回のカードで一番印象に残ったのが、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチだ。実は金網デスマッチをやる事に関して、ファンの間からは相当の異論が出ていた事を後で知った。試合終了後、選手を囲んでの懇親会の席での話だが、このカードが発表された時、ファンの多くは「なぜ今さら、昭和のプロレスの様な邪道をやるのか」と思ったそうだ。「こんな事をやっているから“パッケージ・プロレス”などと言われてしまうのだ」などという厳しい意見もあった。しかし試合を見た後にその思いは払拭されたのである。
 後半の第一試合であった、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチは、休憩時間を利用して特設空間の設置が行われた。これはテレビのプロレス中継では恐らく見る機会はないであろう。柔軟なロープで覆われたオープンエアの空間が、ガシャガシャと無機質な音を立てながら徐々に金網に覆われていく。これはまるで自分の意思で自由に動く身体を、四方から拘束具を装着されて矯正されていくような情況を想像せざるを得ない。全ての身体の自由を奪われて、己の身に起こるあらゆる凌辱を受けなければならないという恐ろしい空間にさえ見えた。そしてこの金網で覆われたキューブの中に両選手が入り、出入り口が完全に密閉されると、試合のゴングは鳴ったのである。
 そこにはこれまでの試合とは明らかに異なる空気が流れていた。金網のキューブの中は、重力、気圧、密度、何をとっても客席とは異なる情況が存在していた。その情況を作っているのが船木と鈴木の間にある積年の怒り、憎しみなどといった情念なのである。本来ならばこれらの情念は、リングからオープンエアな客席に伝わって、そこでリングと客席との間で「場」の共有が保たれる。しかし、金網のキューブの中ではその両者の情念がこの空間に封じ込まれたまま、息苦しい緊張感を作っている。両者互いに金網に身体を叩きつける時に聞こえる金属音は、アナーキーなストリートファイトで耳にする音だ。互いが血だらけになり、どちらかがKOするまで戦い続けなければならないこのデスマッチは、まるで二頭の土佐闘犬が殺し合いをしているような凄まじい光景である。そこで何が起こっても、誰も手を出せないという究極の格闘空間と言えるかもしれない。
 この光景を見て、このデスマッチを組んだ意図、そして意味は、私には十分に伝わったわけである。少なくてもそれは、単にショーアップの為に用意された茶番ではなく、あの金網のキューブは、「言葉」と「身体」を究極の領域にまで熟成させるための装置であったといえる。試合開始から19分。流血したままOKされた鈴木の身体はボロ布のように横たわっていた。それはまるで、南秋田の暗く凍てつく乾いた大地に野ざらしになって朽ちていく土方巽のように美しく見えた。(3・21、両国国技館、観衆8200人)

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28. März 10

【フィギュア世界選手権】 絶対狂人・浅田真央~『鐘』に隠されたメメント・モリを考察する~

 今年で実に100回目を迎えるフィギュア・スケート世界選手権は、男子は高橋大輔、女子は浅田真央の優勝で終わった。今シーズン最後の舞台で日本人選手が男女ともに表彰台の中央に上がった事は、誰もが納得できる結果であったといえよう。特に素晴らしかったのは浅田真央の作品であり、1年間かけて、ついにこの作品を完成させたわけである。
 この『鐘』という浅田の作品は、フリー・スケーティングだけで独立したプログラムではない。実は、ショート・プログラムでさらにブラッシュ・アップされた『仮面舞踏会』とは通底したテーマがある。それは、浅田にとっての「死」を意識したメメント・モリ(Memento mori)的空間を身体化する行為だ。それを浅田はショート・プログラムでは『仮面舞踏会』の音楽と物語に乗せて、死にゆく人間の「死の舞踏」的狂気、乱舞、錯乱を、グリューネヴァルトのタブローのように、狂おうしくも美しく見事に演じ切り、これまでの清廉、可憐なフィギュアの妖精から、何者をも寄せ付けない“絶対狂人”としての浅田真央になったのである。
 フリー・スケーティングの『鐘』は、まずはこのようなショート・プログラムの背景、伏線があってこその作品であり、『仮面舞踏会』並びに『鐘』の2つの作品は、今回も論争になった単なる政治的な採点基準の問題だけではなく、2つの独立したプログラムがそれぞれ表裏の関係として如何に重層的に表現されるべきかという非常にレベルの高い問題を提起しているのである。
 つまり浅田は、ショート・プログラムとフリー・スケーティングという各章に分離され独立した要素を、一つの交響楽で表すという事をやってのけたのである。この2つの分離された章に、それぞれ浅田の武器であるトリプルアクセルを楔として打ち込むという行為は、例えれば、ロマン主義以降の近代的交響楽にメタ構造で現れる「動機」そのものなのである。タラソワがショート・プログラムから終始一貫してトリプルアクセルを要素に入れる事にこだわったのは、このような「芸術」を表現するためだからだ。
 しばしばフィギュア等の採点競技では、「芸術性」をめぐって論争が起きる。しかしながらこれは、基本的ルーティーンが未熟な者から発せられる恣意的にして、かつ政治的な言説であり、「芸術」そのものをめぐって論争をするというレベルのものではない。そのような点において、本来ならば我々は、タラソワが4年がかりで仕掛けた、この計算されつくしたメタ的構造のプログラムにこそ驚愕し、浅田の作品ただ1点において芸術論争が起こるべきなのである。少なくても、寂れた歓楽街の大衆芸能のようなものとは同じ座標で語るものではない。

 浅田にとって『鐘』とは、どんなプログラムであったのかと言えば、それは限りなくメメント・モリを意識したものだが、言い換えれば、この4年間の間に浅田の身に起こった様々な出来事が情念として堆積したものであると言ってもいい。当初、浅田の新プログラムでこの『鐘』が発表された時、フィギュアファンからも概ね不評であったようだ。ジャンプを華麗に飛ぶ軽快な浅田真央のイメージと、この『鐘』が持つ、暗く重苦しい雰囲気が馴染まないという理由である。だが、浅田真央のこれまでの道程を振り返れば、そんな演奏会用の明るく華やかな楽曲を選んだところで、浅田が胸に秘めた思いなど到底表現しきれなかったであろう。
 『鐘』が表す世界とはどんな世界であるのか。これは中世暗黒時代の欧州の歴史とともに欧州人の記憶の中に潜在的に刷り込まれたものである。それは時に大災害や疫病や戦争であったり、または神の逆鱗にふれる出来事であったり、このような鬼気迫る状況の中でけたたましく鳴らされるのが『鐘』なのである。浅田真央はまさに、このような状況の中で、誰からも守られる事もなくたった一人で戦い続けたアスリートなのである。そして浅田が戦うべき敵はあまりにも多すぎた。
 赤を基調とした衣装で颯爽とリンクに登場した浅田真央は、その胸の内に堆積した怒り、悲しみ、叫び、様々な情念を、まるで観客の我々までも焼き尽くすかの如く迫力で「死」のダンスを始めたのである。浅田が『鐘』で表した空間は、リンクの内も外も炎で包まれたような空間であり、その炎の輪の中を、人々の怒りの情念で召喚された魔物が焼け焦げた屍を蹴散らしながらぐるぐると旋回しているのである。欧州人が時に見る悪夢とはこのようなものなのだ。
 そしてこの阿鼻叫喚の状況の中でその“魔物”と化した狂人・浅田真央は、全ての物を焼き尽くした後、終曲に向けて自らもその炎の中へと突っ込んで行った。何もかも焼き尽くされて昇華される事で、やっと我々人間の穢れた魂は浄化され、ようやく福音書(EVANGELION)の1ページをめくる事が許される――これが4年間の「場」と「空間」の共有の中で完成された、浅田真央の『鐘』という作品なのだ。

■浅田真央、安藤美姫についてのコラム■
【バンクーバー五輪】 世界女王対決・浅田真央VS安藤美姫、超絶技巧的空間と身体
【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~今季最後の女王対決~
【フィギュアスケート】  浅田真央VS安藤美姫~必殺技の美学

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27. März 10

【格闘技】 格闘家国会議員によるプロレス・ティー・パーティー(3・21 両国国技館)

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 先日、アメリカ連邦議会で医療保険改革法案が可決された。強制加入が前提のこの法案は国論を二分するものであり、下院上程後の直近の世論調査でも、法案に賛成=45%、反対=48%であるとCNNの中で紹介された。
 多くの米国民が反対の声を上げているのにはそれなりに理由がある。まず米国憲法に沿って考えてみた場合、合衆国政府が権限を大きく拡大して州の自治に対し介入してくる可能性があり、これが州法に違反するという考え方がある。これはわが国でも論争になっている「子供手当法案」や「外国人参政権法案」でも言えることだが、地方自治はどこまで国に対してインデペンデンスな立場が守られるか、という問題の提起である。
 実際に、オバマ大統領が法案可決後に署名した後に、全米14州が「医療保険改革法案は憲法違反」として訴えを起こしたのである。
 またこの法案をめぐっては、そもそもアメリカという国の建国の精神そのもの、すなわち、「自由」とは何かという根本的なものを問うきっかけにもなっている。確かに、わが国の「国民皆保険制度」に比べると、これまでのアメリカの医療制度はすべての国民を十分にフォローするものではなかった。しかし、それがアメリカであると言えばそのとおりなのである。自主独立、自立自助の国、アメリカ。皆はそれが分かってアメリカに暮らしているはずだ。だから共和党支持者を中心とした保守層は、国が国民の福祉に大きく介入してくるであろうこの法案に対して、まるで社会主義的だとして生理的な嫌悪感を抱いている。
 かつてアメリカ大手の協同組合であったバークレー生協が潰れるぐらいだから、アメリカ人には社会主義、共産主義を連想させるようなものは、未だに受け付けないのである。
 そしてこの法案とともに全米で草の根的に立ち上がったのが、いわゆるティー・パーティーと言われる保守市民運動である。最初は共和党のコアな支持層だけであったティー・パーティーが、今や無党派や中道左派にまで広がり、その模様はCNNよりも早く、在米の共和党員の友人達からのメールや動画で私のもとへ届けられる。まるでスタジアムのボールパークにでも来たような楽しい雰囲気で多くの市民が集まり街宣やデモを行っている。

 ティー・パーティーの発祥とは、少し古い話になるが、1773年にイギリスが制定した茶税に関する法律に反対したボストン市民が行った一連の抗議行動から名づけられた市民運動である。それが現在では草の根保守の市民運動に対し、このように呼ばれるようになった。パーティーとはある共通する属性の集まりのことで、もちろん政党の事もパーティーと呼ばれる。
 そして興味深い事に、わが国でもこのティー・パーティーとも言うべきムーブメントが徐々に広がりつつある。発端はアメリカと同様で、政権交代によって社会主義、あるいは社民主義的なリベラル政権が誕生した事に異を唱える潜在的な保守市民による様々な市民運動がそれである。
 最近、その中でもこれぞティー・パーティーと言えるような集まりがいくつかあった。その中でも特に盛り上がったのは格闘家国会議員らによるプロレス・ティー・パーティーである。これは馳浩衆議院議員と、神取忍参議院議員とともに、『3・21 全日本プロレス両国国技館大会』を升席で観戦した後、鍋を囲んで政治談議、プロレス談議を楽しむというものである。
 当日このティー・パーティーに集まったのは全国公募から抽選で選ばれた約50名。年齢は様々だが熱狂的プロレス・ファンばかり。好きなプロレス団体の地方巡業を見て回っている人もいれば、選手と自分の人生を重ね合わせてしまっている人もいる。そんな人たちが、政治とプロレスについて熱く語り合って緩やかな連帯を深めたのがこの日のティー・パーティーである。
 ここに集った人たちは、プロレス好きというただ一点の属性で結ばれた人たちである。それ以外の日常の様々な経歴、肩書、地位などは関係ない。言うならばここはハーバーマス的なパブのような市民空間であり、誰か特定の著名人によって権威付けられたものではない。これがこれまでの日本になかった文化なので面白いのである。
 実はこのプロレス・ティー・パーティーを企画したのは自民党なのだが、蓋を開けてみれば参加者の中には自民党党員など1人もおらず、その代わりに全国から熱狂的プロレスファンがつめかけた、という図式だ。この点も全米発の反オバマのティー・パーティーと実によく似ていて興味深い。

 日本のこれまでの「公共圏」は、言ってみれば「赤ちょうちん」文化だ。つまりは、議員バッジや社章を着けたまま暖簾をくぐる文化である。この「赤ちょうちん」的公共圏では、年収の差、経歴、学歴、年齢、職業などの実社会におけるヒエラルキーがそのままスライドされる。たとえ無礼講と言われても、上司や先輩や総理大臣を批判する事はなかなかできない。
 しかし、パブの文化は異なる。個人の経歴、肩書よりも、どんな会話を交わすかに価値がある。誰が発言したのかという権威主義ではなく、その発言内容のクオリティそのものが問われる。この情況はネット・メディアとも親和性がある。なぜならこの空間ではインテリゲンチャのブランド化がまったく通用しない。このような空間において潜在的な保守市民が行動しだしたという事の方が、後々歴史を振り返った時、“政権交代”よりもはるかに歴史的な出来事であったかが分かるであろう。

 政治とプロレス。このいかにも唐突と思われるような組み合わせであるが、この両者の在り方を突き詰めて考えれば、結局は「言葉」と「身体」の関係性に行きつくのである。すなわち、政治もプロレスも、「言葉」を身体化していく行為だからだ。政治は政策をリアリズムによって遂行なされるべきものであり、その時に政治家は自身の「言葉」と「行動」を以って国民に伝えなければならない事がある。「言葉」だけで政策を語っても、国民に投げかけられた「言葉」は単なる選挙のための「記号」として空虚に空中を徘徊するだけなのだ。
 この言説をめぐってTwitter上で面白いやりとりがあった。今の政治は「言葉」を全然「身体化」できていない、というものである。ではそんな政治を担う、“「言葉」を身体化できない政治家”とはどういうものなのかというと、自分で汗をかかない。人の痛みを受け止めない。相手の立場も受け止めることができないから信頼関係も築けない、というような政治家の事であるという。
 これは全てプロレスにも当てはまる事なのである。プロレスには昨今の総合格闘技とはまた異なった美学が存在する。それは単にパワーゲームだけで勝敗が華麗に決まるものではない。リングから聞こえてくる双方の選手の肉や骨のぶつかり合う音や、積年の因縁、恨み、辛みその他の情念が、対戦相手に向かって叩きつけられる世界なのである。相手が技を繰り出したら、逃げずにそれを受けなければならない。自分が不利だからと言って党首討論から逃げて回っているような人間はこのリングに上がる資格はないのである。
 そしてそれを見る我々も、真剣に戦う者たちの痛みを感じ、偽善者の振る舞いも衆人のもとに晒されるのである。この「場」と「空間」の共有こそ、まさに今の政治にも求められているリアリズムなのであろう。国家の骨格作りはまず体育にありとした三島由紀夫もまた、今の日本の情況をもし見たら、同じ事を思ったにちがいない。

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22. März 10

【パラリンピック】 アイススレッジ・ホッケー日本代表、死力を尽くして堂々の銀メダル

 パラリンピックのアイススレッジ・ホッケー決勝が日本時間午前4時に行われた。結果は残念ながら0-2でアメリカに敗れ、金メダルとはならなかった。しかし今回の日本代表の活躍は、2つの画期的な事をもたらした。その一つは、まず準決勝で地元の優勝候補だったカナダを破り、なんと決勝まで駒を進めたことである。これが如何にすごいことなのかは、アイスホッケーというスポーツの根本を考えてみればわかる。
 先日まで行われていたバンクーバー五輪で上位に勝ち上がってきたチームの体格、スピードの中で、果たしていつも日本リーグで戦っているチームが太刀打ちできるだろうか。アイススレッジ・ホッケーは通常のホッケーと同様の過酷さを極めた競技なのである。こんな状況の中で決勝まで駒を進めただけでも歴史的快挙なのだ。
 そしてもう一つ異例だったのは、この快挙を受けて、放送権を持っているNHKは急遽、早朝に生放送を決定した事である。先日のコラムでも、メディアのパラリンピックの扱いがあまりにも貧しい状況に触れたが、これまでNHKは、日本選手がアルペンやノルディック競技で金メダルを獲っても競技の模様を完全放送する事はなく、夜の教育テレビで25分程度のダイジェスト版で競技の結果を伝えただけである。しかも、表彰式の様子も流さない。完全に福祉番組枠で制作されたようなお粗末な放送内容だったのである。
 この事について不満に思っていた視聴者も相当数いたようで、おそらくは多くの要望がNHK側に届いたのであろう。NHKは決勝の3日前に急遽生放送を決定したのである。急に決まった放送であるからネットのテレビ欄では前日まで掲載される事はなかったので、視聴者の多くはTwitterなどの口コミで生放送の件を知ったようだ。
 本来、パラリンピックをスポーツ競技と捉えるならば、最初からこうあるべきなのである。競技の結果だけ伝えられるよりも、やはり実況解説とともに、第一ピリオドから勝負の行方をライブで楽しむ方がよいに決まっている。障害者スポーツが、いわゆる「福祉」の領域から一歩も二歩も世界と戦う場に出ていけば、迎い入れる環境もこのように変わっていく。アイススレッジ・ホッケー日本代表は世界の頂点の場で、その競技の過酷さ、そして面白さをアピールする事で、一つ歴史を作ったことになる。

 さて、アイススレッジ・ホッケーを競技として振り返って見る。日本とアメリカでは、チームにどのような差があったのか。日本に全く勝算はなかったのか。
 まず試合を観戦してて圧倒的だなと思ったのは、アメリカチームのスピードと身体機能の高さであった。ゴール前では双方乱れて肉弾戦必至になるが、この時に体格の大きいアメリカ人選手に日本人選手は弾き飛ばされてしまう場面を何度も見た。それでも日本人選手はすぐに大勢を立て直し、フォーメーションを組み直す。しかし後半はやはり体力が尽きたようだ。
 それに加えてアメリカチームは、日本チームの正確なフォーメーションを徹底的に研究済みで、例えれば、かつてサッカー加茂JAPANがやったようなゾーン・プレスを一斉に仕掛けてくる。これでフリーな「空間」をことごとく潰されると、結局ロングパスに頼らざるを得なくなり、カナダ戦の時のような日本チームの良さが出し切れていなかったように思う。
 日本チームとアメリカチームの差は結局のところ、アイスホッケーというスポーツの文化的土壌の成熟度と、障害者スポーツに関する社会的認知度の差が現れた結果なのかもしれない。これらの差は競技環境にも影響を及ぼし、一方のチームは十分な数の指導者と時間と資金をバックボーンに最高のポテンシャルを発揮し、他方のチームは厳しい競技環境の中で死力を尽くして挑んだ結果だという事である。
 プロレス・ティーパーティーで同席する機会があった馳浩衆議院議員の話によれば、パラリンピックに予算を出しているのは文科省ではなく厚労省とのことであり、そのことの一点をとっても、国はこれを未だに福祉の一環として捉えているのがわかる。

 試合前日の選手の言葉で印象的なものがあった。番組アナウンサーに決勝への抱負を聞かれて、「自分たちは2番になるためにここへ来たわけではない」と答えた選手がいた。スタジオのアナウンサーも、それに呼応するように手を叩いて「そうですよね! 2番になるためじゃない!」と興奮した表情で言った。
 どこかで聞き覚えのある言葉ではないか。昨年の事業仕分けで、「メダルが取れないようなマイナー競技にお金をかけても無駄だ」、「世界の中で2番ではダメなんですか」などと得意満面でこのような事を言ってのけた民主党議員の顔を数人思い浮かべた人も多いだろう。さすがにあの総理もアルペンやノルディックで日本人選手が金メダルを獲ったのに驚いてか、国からの援助が十分ではない事を電話で詫びたそうだが、遅すぎる。
 日本チームが今回世界の頂点の舞台で戦って、銀メダルを獲れたのは、最初から世界の2番を目指して戦ったからではない。1番を目指したからこそこのような快挙を成し遂げる事が出来たのである。
 昨年の事業仕分けを華々しく演出したメディアも少しは反省して、障害者スポーツの最前線で世界と戦う彼らの競技環境の向上のために、ジャーナリズムは何をやるべきかを今こそ考えるべきである。そもそもスポーツ担当の記者が、パラリンピックの予算が厚労省から出ている事に、まずは疑問を持たなくてはならないだろう。そして、こんな過酷な環境にありながら、このような快挙を成し遂げた日本代表のことを記憶の中に刻んでほしい。

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20. März 10

【パラリンピック】 スキークラシカルで新田が金,アルペン・スーパー大回転で狩野が金,森井が銅

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 バンクーバー・パラリンピックで,連日にわたり日本人選手の活躍が続いている。昨日の男子スキー・クラシカルで新田佳浩選手が金メダルを獲得したのに続き,本日早朝にはアルペン競技で日本人選手が金メダルと銅メダルを獲得したという嬉しいニュースも入ってきた。
 まことに喜ばしい事であるが,残念なのは日本国民の多くがこの事をあまり知らないという事である。
 まず,五輪とパラリンピックを別の大会として分けて開催しているという事もあるが,テレビの放送体制にも大いに問題がある。先に開催したバンクーバー五輪は各局が早朝から生放送を何時間も行い,夜にはそのダイジェストを再び放送するという体制をとっていた。スポーツ紙の一面も五輪一色になる。
 一方で,パラリンピックの方はというと,NHK教育テレビで午後8時からたったの25分間のダイジェスト放送という貧しさである。しかもこの時間帯は福祉・教養番組枠であり,パラリンピックという競技が世間的にはどのように認識されているのかがこれでわかる。
 このような状態では,現在パラリンピックが開催中であるという事さえ知らない国民がいても不思議ではない。実際に,早朝にTwitter上で新田選手の金メダルのニュースを流したら,フォロワーの数も急増し,大反響であった。フォロワーのTL(タイムライン)を追っていくと,「なぜ生放送しないのか」,「たった25分の放送では競技の面白さがわからない」という意見がやはり多く,中には私のTweetで日本人選手の金メダルの件を知ったフォロワーや,また,自分自身が障害者アスリートであるというフォロワーからも,もっと競技の事を注目して欲しいという声が届けられた。
 これを見る限り,パラリンピックを競技として完全中継で見たいと思っている人がそれなりにいるという事がわかる。実際にNHKにも視聴者からの反響が届いているようで,21日早朝に行われる金メダルをかけたアイススレッジホッケー決勝「日本×アメリカ」の試合をNHK総合テレビで午前3時45分から急遽生中継する事に決まったようだ(電話確認済み)。Twitterではこちらの生中継の件も非常に反響が大きく,皆さん喜ぶとともに,本来こうあるべきだという意見がたくさん並んでいる。

 障害者アスリートが競技を続けていく中で最も困難なのは,競技環境の過酷さ,即ち具体的には指導者不足,国や自治体からの支援の少なさに加えて,選手自身が常に二次障害のリスクを負いながら競技を続けている事である。
 どんなアスリートでも故障や事故はつきものだが,障害者アスリートのように身体の脆弱な部分を元から抱えている者の方がリスクが高まるのである。それは時に二次障害とも言われ,競技中の事故によって,先天的に抱えている障害に加えてさらに障害の度合いが高くなったり,別の障害を抱えてしまう状態の事だ。
 私が普段から交流を持っている障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の障害者レスラーの中でも,二次障害のリスクを抱えながらリングに上がっている者もいる。
 つまり,障害者がいわゆる「福祉」の領域から飛び出して,競技者として世界と戦う場合,彼らは我々が想像する以上に,非常に多くの困難を抱えながら競技に挑んでいるのである。その事を考えても、競技生活を続けるだけでも金メダルに値する。
 スキー・クラシカルで金メダルを獲得した新田佳浩選手は左腕が肘から欠損している。したがってスキーのスティックを右手だけで持って過酷なノルディック競技に挑んだのである。もともと重心が不安定な上に,わずかなバランスの崩れで転倒してしまう危険もある。前回のトリノ大会の時にはそれで悔しい思いをした。
 スーパー大回転で金メダルを獲得した狩野亮選手,銅メダルを獲得した森井大輝選手は肢体に障害があり,まるで1本の杖で板まで連結されたような小さな空間に上体を乗せたまま急斜面を滑降する。万一コースアウトすれば大惨事にもなる。選手の上体の重心移動に呼応して舵を取るようにしなやかに雪を蹴散らすスキー板それ自体が選手の拡張された「身体」であり,これはもう極限状態で表現される奇跡的ともいえるような美しさなのである。
 先日のコラムでも書いたが,障害者スポーツの世界こそ,運動生理学,人間工学における日本の最先端の技術分野がどんどん活かされるべきなのである。ここで構築された技術は福祉医療分野はもとより,他の競技へのフィードバックが可能なのだ。障害者アスリートたちが残していく足跡は、何も福祉分野に限定されて評価されるものではない。それは、残された肉体が、重力、遠心力、空気抵抗、その他様々な物理作用と壮絶に戦いながら身体運動の可能性を極めた先駆者たちの表現として、我々の記憶に永久にとどめていくべきものなのである。

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14. März 10

【スポーツ】バンクーバー・パラリンピック開幕

 昨日より、先日まで行われていたバンクーバー五輪に引き続いて冬季パラリンピックが始まった。TVのハイライトでは開会式の様子と、颯爽と登場する日本選手団の入場行進に加えて、主な競技種目の解説も行われた。
 五輪が開催されるたびに起こる議論として、「なぜパラリンピックも同時に開催しないのか」というものがある。これは多くの人たちが未だに抱いている疑問でもある。私の考えとしても、五輪とパラリンピックをあえて分離することなく同時に開催するという案に賛同する。しかし誤解してもらっては困るのだが、私は何も、「障害者差別になるから」とか、「スポーツの世界もバリアフリーやノーマライゼーションの思想を示せ」といった類の、いわゆる“弱者”視点の情緒的な理由から言っているではない。パラリンピックの各競技、特に冬季の種目などは、スポーツ、そして身体表現としてそれを見ても、非常に高度な身体能力が必要とされるものであり、もはや一つの競技のジャンルとして洗練、尚且つ確立されているからである。
 例えば、肢体が不自由な者が出場するアルペン競技は、杖のような1本脚のスキーに上体を乗せて急斜面を滑降するのである。バランスをとるのは上体の重心移動と両手だけである。最高速度に乗った時の選手の体の傾斜角度も雪面ぎりぎりになり、ものすごい迫力である。またソリのような物体に乗ったまま行われるアイススレッジホッケーなるものは、通常のホッケーよりもさらにスピーディーであり、肉弾戦で遠くに飛ばされる選手の姿を見ていると、危険極まりない競技であるということがわかる。“お前もやってみろ”と言われても、なかなかできるものでもない。それはトリプル・アクセルのコンビネーションジャンプを浅田真央しかできないのと同様に、生まれ持った身体能力とセンスと日々のトレーニングの結果であり、その点から考えても彼ら、パラリンピックの選手たちも選りすぐられたアスリートなのである。
 このような白熱した競技の様子を見ていると、あえて“障害者の”という言葉で形容することの方がナンセンスだ。しかしTVのスポーツ中継でも未だ扱いが小さい。パラリンッピックの選手たちをニュースで取り上げる時には、必ずと言っていいほど、障害者のドキュメンタリーになってしまう。彼らをアスリートとして扱うならば、競技内容やその競技が抱える困難な競技環境について、もっと詳しく伝えるべきなのだ。昨日のNHK-BSの放送でも、ゴールデンタイムには先に行われたバンクーバー五輪の再放送を長々とやっており、パラリンピックの放送は地上波のNHK教育テレビで1時間枠ダイジェストで放送されただけである。そもそも教育テレビで放送するというのがまったくもって恣意的ではないか。
 パラリンピックの競技が、このように「福祉」の一つとして扱われている限り、選手たちの競技環境が今よりも改善される可能性は低いのではないか。国がパラリンピックの強化費用に充てた費用が、たったの数億円程度ときく。わが国は、これほどまでに、文化的に貧しい国だったのか。

 スポーツの発展は、競技に携わる選手たちの身体能力の向上もあるが、もうひとつ、運動生理学や人間工学に基づく競技アイテムの開発も欠かせない。例えば競泳の水着やスピードスケートのシューズ、砲丸投げの鉄球など、あげればきりがない。そして実は、障害者スポーツの世界ほど、このようなテクノロジーの可能性をもっとも秘めている。
 パラリンピックの選手たちが身に付ける競技アイテムの多くは、障害のある身体を補うものであり、いわばそれは拡張された身体の一部ともいうことができる。この点において開発者は、いかに効率的で安全性が高く、しかも競技者の身体にフィットしたものを作るのかを要求される。そしてここで得た技術は、障害者スポーツの分野に留まることなく、他のスポーツへも技術のフィードバックが可能なのである。そのことに創造力を働かせれば、障害者スポーツの世界にも、様々な可能性が広がっているのが理解できるであろう。それを考えれば、国はこのような分野にも、もっと集中的に技術開発費をつぎ込むべきなのである。(とは言っても、創造性と美意識に欠ける現政府にそんなことを言ったところで無意味だが)

 障害者スポーツとその技術開発の可能性の問題について、いろいろと考えさせられる出来事が私の身近であった。私は日頃から、何人かの障害者格闘家の方々と交流を持っている。天願監督のドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』がきっかけで彼らの試合を実際に見に行くようになったのが始まりである。その彼らとは、障害者プロレス団体「ドッグレッグス」のレスラーたちである。
 「ドッグレッグス」は、身体障害に限らず、鬱、癌患者、ひきこもり、ニートといった、様々な「障害」または「障壁」を抱える者たちが集う格闘技団体である。彼らの試合を初めて見に行った人は、「障害者プロレス」という、どこか昭和風情の興行的な響きにたかをくくっていると、実際には全く異なる壮絶な世界を見せられて、卒倒しそうになるであろう。彼らが表現するのは、残された肉体で倒れるまで戦い尽くす、究極のバーリトゥードなのである。
 その「ドッグレッグス」の試合で思わぬアクシデントが発生した事がある。私もリングサイドで観戦した「8・1 成城ホール大会」における「永野V明VS激・大玉」のシングルマッチでのことである。永野V明は、福岡の障害者プロレス団体「フォース」も主宰しているドッグレッグスの看板レスラーであり、対する激・大玉は、元アマレス・チャンピオンで、現在は糖尿病の後遺障害で左足が切断されている。したがって、いつもは座位のまま試合をしていたのだが、この試合では初めて義足を装着して、立位のまま永野V明と打撃戦を展開した。しかしその際に義足の接合部が壊れてしまったため、試合続行不可能となり、良い試合を展開していただけに悔しい思いをしたのだ。この時激・大玉が装着していたのは、競技用に作られたものではなく、日常の生活に使用している義足であった。義足とはもともとは、障害者の日常生活を補助するためのものであり、格闘家がリングに上がって相手と激しく殴り合ったり、蹴り合ったりする動作や負荷に耐えられるものではない。そこで必要になってくるのが先ほども述べた運動生理学や人間工学に基づく技術開発なのである。
 パラリンピックの選手や、激・大玉のような格闘家の存在は、間違いなくスポーツの技術開発分野における問題提起となりうるのである。そしてそこで開発された技術は、やがて他のスポーツ競技にも汎用され、第二の浅田真央やイチローや北島康介のような、世界で勝てるアスリートたちを誕生さえていくのである。
 パラリンピックは競技である以上、相手と競い合って上位の成績を求めるのももちろんだが、彼らがスポーツにおける技術開発分野にいかなる足跡を残していくのか、といった事にも期待しながら、これからの10日間の戦いを楽しもうではないか。

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■障害者スポーツに関する記事■
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【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる
【格闘技】ドッグレッグス第77回興行レビュー
【格闘技】ドッグレッグス第76回興行レビュー
【映画批評】天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」

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11. März 10

【舞台公演】 慶應義塾大学公演 『土方巽 「病める舞姫」 を秋田弁で朗読する』(2010年3月9日、ザムザ阿佐ヶ谷)

 2010年3月9日、夕刻。雨から雪に変わったこの日、阿佐ヶ谷の小劇場「ザムザ阿佐ヶ谷」で、慶應義塾大学学生とプロの劇団員のコラボレーションによる『土方巽「病める舞姫」を秋田弁で朗読する』という試みの舞台が上演された。これは、原典では標準語で書かれた土方巽の幼少時代の自伝的エッセイ『病める舞姫』を、あえて秋田弁で朗読し、そのテクストから土方の身体に迫ろうとするものである。
 この企画は、先日も告知記事で紹介したが、財団法人東京都歴史文化財団が「東京文化発信プロジェクト」の一環で、学生とアーティストによる交流プログラムの中で実現したものである。これに自治体の賛同も加わり、いわば芸術文化活動における産学共同プロジェクトのようなものとして結実したものだ。
 まず、この「ザムザ阿佐ヶ谷」という空間自体が東北の古民家のような作りで、四方は土壁と年季の入った太い梁で囲まれている。板の間の床も、神経質に研磨されたものではなく、人間の顔や目玉に見える木の節が剥き出しになっている。かつて「田舎」と言われた地方に故郷を持つ人ならば、子供時代、薄暗い「離れ」や「くみ取り便所」、そして、夜になると何者かに見えてくる柱や床の木の節が怖かった事を思い出すであろう。この隠遁として、しかも湿気に満ちた内臓的空間こそが、土方巽の幼年期を育ててきたものである。
 舞台には、無造作に丸められた新聞紙が一面に散らかっており、人が座れるほどの黒い四角い炭のようなオブジェが配置されている。背面には土方巽がスイカを囓りながらこちらを凝視する巨大なポートレイト。まさに、土方巽のフォルクロア的空間である南秋田の旭川村に閉じこめられたようなモノトーンの世界だ。
 ここで作られた空間の持つ雰囲気は、私にとっては1970年代後期から80年代にかけて、現代美術作家の竹内博が神田の真木画廊で盛んに発表していた新聞紙や廃物によるインスタレーション作品を忘却の彼方から久しぶりに思い起こされるような空間である。竹内もやはり、東北、盛岡の滝沢村で、野外に廃物や日用品のインスタレーションを放置し、それがやがて朽ちて土に同化していくプロセスそのものを作品として提示した。極力自分で恣意的な動作による手を加えない禁欲的に限定された不自由な表現は、凍てつく乾いた大地に横たわる土方の姿と重なったわけである。
 
開演前のこの会場では、すでに秋田の民謡もBGMで流れており、まるで古びたムラの公民館のようである。舞台と客席も同じ質感で繋がっており、そこに14人の朗読者が現れて、肉声による秋田弁の朗読が始められるのである。
 
この14人の朗読者の中には秋田弁のネイティヴの山谷初男がいる。その山谷初男をまるで火鉢を囲むようにその他の朗読者たちが位置に付いている。彼らのほとんどは秋田弁どころか秋田にも所縁がない。そんな彼らが秋田弁を修得するためにUstreamでライブ回線を繋げ、土方と所縁のある「場」をフィールドワークしながら秋田弁を身体内部へと取り込んでいった。今回その試みの意図が明快に理解できる舞台であった。

 今回の、原典を改編した試みについてのひとつの解釈として、土方巽が生前の身体表現活動において、自らの身体運動をすべてメソッド化していったことを考えれば答えがでよう。つまり、土方にとっては身体運動も「語学」と同様に、他の者も修得出来得るものとして理性的にメソッドが作られた。我々はそれによって土方亡き今も、土方にまつわる「言葉」と「身体」を、実はそう違和感はなく同一のものとして捉えることができるのである。原典の改編は、いわば「教本」として書かれたテクストに、14人の朗読者による肉声で色・艶を載せて再現された土方巽の肉体そのものであるということである。
 
14人の朗読者は、まるで田舎の大家族の集合写真の様に全員が客席に対面している。そこから時折ヒアリングが困難な秋田弁が飛び交い、イレギュラーとして標準語が挿入される。この秋田弁と標準語との揺り戻しがとてつもない緊張感を生んでいる。土方の誕生から生涯を閉じるまでの年代記とインタラクションして現れる秋田弁と標準語との間で繰り広げられる言葉の格闘は、肉声による朗読であるからこその迫力である。
 
圧巻だったのは、朗読者たちが一斉に立ち上がって床を踏み鳴らしながら童歌を歌うところである。

 「ツンボにメクラ、ヘビ、ねずみ!」

 このリズムで反復される童歌は、床を伝わって内臓まで響いてくる。この地の底からわき出すような土俗的エネルギーは、かつて自分が生まれた空間から乖離してしまった身体の記憶を蘇らせるものである。人間が直感的、生理的に身を乗り出すようなこのリズムは、左脳が極端に肥大化し、右脳が著しく退化した我々にはあまりに刺激的すぎる。
 
それは、作曲家・伊福部昭が北海道の辺境でアイヌの舞楽に出会った時のように、病者も虫も五穀豊穣を喜び、そしてやがては共々に土へと朽ちて帰っていくような生けるものたちの一生を垣間見た瞬間であった。その生けるものたちの中心に、確かに土方巽の肉体が鎮座していた。
 
舞台の幕が下りてからもこの日ならではの演出がなされた。土方巽の誕生日に因んで本日の舞台の朗読者14人、公演スタッフ、客席の来場者全員で記念写真を撮影したのである。土方と所縁のある雪の降りしきる武蔵野の辺境・阿佐ヶ谷の夜に、我々はまんまとこの「気配」のある空間に取り込まれてしまったのであった。

■土方巽関係レヴュー一覧■
【慶應義塾大学】 『病める舞姫』を秋田弁で朗読する(2010年3月9日、ザムザ阿佐ヶ谷で上演)

【研究会】 土方巽『舞踏大解剖2』(慶応義塾大学日吉キャンパス)
【論集】 『慶応義塾大学アート・センター 年報14』2006/07

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08. März 10

【書評】 三橋貴明×八木秀次 『テレビ政治の内幕』(PHP)

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 経済評論家の三橋貴明と、ラジオ日本『ラジオ時事対談』のコメンテーターとしても知られる高崎経済大学教授の八木秀次による政治とメディアをテーマとした対談本である。同様のテーマでは昨年、三橋貴明が単著で『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』を上梓している。こちらの方は、メディアと政治の関係性をビジネスモデルという観点から批評したものだ。
 今回の対談本は、今現在、実際に起こっている情況とインタラクションして書かれたもので、昨年に民主党政権が誕生した直後から、小沢一郎の秘書であった石川知裕議員が逮捕される今年1月まで、全5回に分けて対談されたものが収録されている。
 これを読むと恐ろしいのは、三橋、八木の両論客が政局を分析しながら、当時あらかじめ予想していた事がほぼ的中していることである。例えば現政権は、デフレが進行しているのにも関わらず財政出動もせずに緊縮財政に舵を切った点、また、「夫婦別姓法案」、「外国人参政権」といった近代的な国民国家の形態を根本から変えてしまうような法案、そして将来的にはネット言論規制にもつながっていくであろう様々なネット・メディア関連法案、言論・表現の自由を規制しかねない「人権擁護法案」などを上程しようとしてる点なども見事に予想が的中している。
 このように書くと、まるでこの本がノストラダムスの預言書か、『20世紀少年』の「よげんの書」よりも恐ろしいということになってしまうが、何ていうことはない。新聞・テレビ等のマスメディアが、普段から国民に対して正しい情報を正確に伝えていたならば、これらの事は誰でも簡単に予測できた事なのである。
 例えば現在問題となっている北教組(北海道教職員組合)と民主党・小林千代美議員の事にしても、選挙の前に民主党という大衆政党が、どんな支持母体で成り立っているのかをマスメディアがきちんと正確に国民に伝えていれば、国民も今さらこんな程度の事で大騒ぎはしなかったのであろう。つまり、「子供手当」、「母子加算」、「農家戸別補償」、「高速道路無料化」のからくりも含めて正確な情報が与えられたうえで国民が民主党を選択したというのならば、そこで初めて「民意」によって政権交代がなされたということができる。今になって“こんなはずではなかった”と言っても、それは全部自分自身で選択してきた結果なのである。
 最近になって私の周囲では、先の衆院選で民主党に投票した方々が、“なぜ選挙の前に本当の事を教えてくれなかったんだ”、“本当は自民党に入れたかったが、自民党がだらしがないからいけないんだ”と言って私のせいにしているが、こういう方々は、一生かかってもデモスクラティアの理念を理解できないのであろう。
 ではなぜ、同じ日本という国に住み、自由に情報を享受できる環境にいながら、本書 『テレビ政治の内幕』の論客と、その他多くの大衆との間に、このような情報格差が生じてしまったのであろうか。それは何度も言うが、メディアリテラシーと情報検索スキルの差に他ならない。マスメディアから日夜流れる情報に疑いを持って行動をしてきた集団と、マスメディアの情報に疑いを抱くこともなく、ポピュリズム政治に煽動された集団との間に差異や落差が生じたのである。だから、この点においては民主党には罪はないのである。

●ポピュリズム政治の功罪
 現在の大衆的な政治状況を予見していたともいうべき本がいくつか手元にある。その一つが渡辺恒雄の『ポピュリズム批判』と、もう一つが西部邁の『貧困なる過剰』だ。『ポピュリズム批判』は、ちょうどパソコン通信に代わりネットの登場によって、徐々にネット論壇が形成されていった頃に「This is 読売」掲載コラム集としてまとめられたもので、『貧困なる過剰』の方は、西部が論客としてテレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出ていた頃に上梓されたものである。
 この2つの著書の中で、知識階級以外の多くの国民は「大衆」、あるいは「愚民」と定義され、この愚民が世の中を跋扈するようになれば恐ろしいことになるという、大胆な論陣を展開しているが、今あらためて読み返してみると、納得せざるを得ない部分も多々あるのである。西部はしばしば、デモスクラティア自体が制度疲労をおこしており、少々語弊があるかもしれないが、「バカにも1票、賢い者にも1票」という制度自体が如何なものかと言っている。これはなかなか思っていても口にはできない言葉だが、現在パーソナリティーを務める東京MXテレビの『西部邁ゼミナール』でも同様の事をしばしば主張しているから驚いた。
 では、西部が言うところの「バカ」から「賢い者」になるにはどうしたらいいのかというと、それは三橋貴明らが著書で何度もふれているとおり、メディアリテラシーを身につける事なのである。現在の情況をフィードバックしてからあらためて当時の西部邁の著書を読み返してみると、これが単に選民的知識階級至上主義の本ではないことが分かってくる。西部邁がこの世で最も醜いものとして忌み嫌っているのは「バカ」そのものではなくて、煽動された「バカ」がとる喧騒たる行動なのだ。

●「民主人権党」と「友だち民主党」のゆくえ
 冒頭で、本書 『テレビ政治の内幕』は、まるで『20世紀少年』の「よげんの書」のようであると書いたが、実は三橋貴明は、もっと以前にこれよりもさらにスリリングなかたちで未来を予見した本を書いている。それが三橋の人気ブログのタイトルにもなっている『新世紀のビッグブラザーへ』である。これは全くのフィクションではあるが、登場人物や国や政党は、我々がよく知る実在のものが全てモデルとなっている。ここに登場する国家社会主義政党である「民主人権党」や、『20世紀少年』に登場する「友だち民主党」とはまさに、民主党的なるものを感じるのである。
 物語の中で、「民主人権党」や「友だち民主党」は、マスメディアを味方につけて大衆心理を巧みに操り、テロや革命ではなく、あくまでも憲法に基づいて合法的に政権の座につくのである。そして一度政権の座についてから、徐々に国家を解体していった。『新世紀のビッグブラザーへ』の世界では、すでに「日本」という国号さえこの世に存在しないことになっている。
 この本が上梓された時、多くの読者は荒唐無稽なSF小説として読んだであろうが、今もう一度読み返してみると、きっと背筋が寒くなるだろう。何しろ、我々が子供の頃に特撮番組の世界で見ていた「ショッカー」やら「死ね死ね団」やら「ヤプール」やらが、政治家となって“大人帝國”にも存在しているのが『新世紀のビッグブラザーへ』の世界なのである。
 しかしこの物語でも最後に風穴を開けたのは、やはりメディアリテラシーを身につけた若者である。これは現在の愚衆政治の中で、唯一国民が武装できるツールなのである。
 一方で、昭和の残滓で生成されたキメラ的大衆政党は、もうデモスクラティアを党名に名乗るのは辞めにして、一層のこと「テレビ党」とでも名乗ればよかろう。

■井上リサによる書評■
【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)

【書評】 三橋貴明著 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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06. März 10

【書評】 上田篤著 『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』(岩波新書)

 少し前の話になるが、「日本は『神』の国」と言って批判を浴びた総理大臣がいた。「日本は『神』の国」という発言の一体どこが悪いのであろうか。
 欧州キリスト教社会のような国教の存在しないわが国・日本は、神仏混交の「八百万神」(やおよろずのかみ)と共存してきた。これは「神」であっても西洋のGODのように帰依するものではなく、村落共同体の中でカミサマとして祀ってきたものである。神話に基づけば、日本にはその名のごとく800万ものカミサマが存在しているのだ。まさに「神の国」ではないか。
 日本にいるカミサマの中には、他国の土着信仰にも見られる海、山、川などの自然物を司るカミサマももちろんいれば、茶碗、農機具などの物を司るカミサマもいる。物に何者かが宿るという「物の怪(け)」という感覚は西洋人にはなかなか理解できない。例えば「針供養」。これはもともと裁縫道具である縫い針を供養するものだが、今日実際に「針供養」の会場に行くと、時折注射針を供養に持ってきている医療関係者の姿を見かけることがある。その他にも、日本全国に無数にある神社・仏閣の中には航空機を祀る神社まで存在する。
 また、柳田國男の『遠野物語』に登場する男性器の形状をしたコンセイサマ(金勢様)や、山形、新潟地方で伝承されている「ツツガムシ」信仰などは、村落共同体における五穀豊穣や疫病退散という生活に密接した部分で役割を果たしている。
 つまり我々日本人は、それを意識しなくても、実に多くのカミサマに囲まれて暮らしているのである。文化人類学においては、ながらくこのような信仰的概念は、未開文明の原初的なるものとして低位に扱われてきたが、むしろ、このカオスの中で熟成された豊かさがあるからこそ、 わが国は他に類のない多くの創造的なものを生み出してきたとも言えのである。それは例えば宮崎駿が描く『もののけ姫』の世界観であり、または古くは『鳥獣戯画』に源流を求めることができる「怪獣」という文化もわが国独自のものだ。円谷特撮に代表されるわが国の「怪獣」は、単に既存の生物が巨大化しただけの西洋の「化け物」とは明らかに異なる。
 そんな豊かに暮らしてきたはずの日本人が、都市の生活の中ではどんなカミサマと共存しているのであろうか。そんなカミサマの源流を探ったのが本書、『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』である。

 著者の上田篤は小松佐京や羽仁五郎らとも親交がある戦中派である。この時代特有の、戦前、戦後の断絶した世界を生きてきた人物である。戦争が終わると、戦前の教育が全て否定され、今度は、戦後民主主義の中で興った学生運動にも挫折していった世代だ。京大闘争の時には毛沢東の農民蜂起を習った「山村工作」で農村に入ってはみたものの、それは単に闘争のためのイデオロギーであって、そこには血の通った農村との交流がなかった事に深く傷ついて、運動から離脱していった1人である。
 ちょうどこの頃に上田がたまたま出会った本が、文化人類学者きだみのるの『にっぽん部落論』であった。上田はこの本との出会いによって、農村集落における常民としての暮らしに深く関わりながら、日本の生活文化全般を都市論も踏まえ、地政学的に考察していくという上田の研究スタイルを導くきっかけともなった。
 本書、『都市と日本人―「カミサマ」を旅する―』は、都市の中で暮らす現代日本人の中にいきづくカミサマ、そして都市と隣接する空間に存在するカミサマについてフィールドワークしている。その対象は、日本人が古くから特に信仰の対象としてきた名山や参道、そして公園、山の学校、地方都市の私鉄沿線、町屋、甲子園球場と多岐にわたり、カミサマのいそうな場所を訪ねている。この本を読むと、やはり「日本は『神』の国」と思えてしまう。ちなみに、著者は特段に阪神ファンではないが、仮に甲子園球場が神殿であらば、そこには超分散的極小集団における「神のネットワーク」が存在し(すなわち阪神ファン)、そのカミサマは六甲山であろうと締めくくっている。

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« Februar 2010 | Start | April 2010 »