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Februar 2010

28. Februar 10

【バンクーバー五輪】 世界女王対決・浅田真央VS安藤美姫、超絶技巧的空間と身体

 バンクーバー五輪、注目の女子フィギュアは、2人の世界女王、浅田真央と安藤美姫の頂上決戦の場となった。同じ名古屋出身のこの2人の世界女王たちは、名実ともに世界最高峰である全日本女子フィギュアにおいて、ジュニア時代からの宿命のライバルである。今回2人の女王がショートプログラムで見せた作品は、いずれも「死」が大きなテーマとなったもので、このような重いテーマを作品として完成させることができるのは、高い技術に裏打ちされた表現力があるものだけである。
 フィギュア・スケートというものを「競技」と銘打って五輪種目に加えている以上、我々が求めるのは歓楽街の大衆芸能ではない。持てる肉体の極限を尽くした超絶技巧的な身体性のせめぎ合いで表現される芸術である。男子ではその空間でプルシェンコと高橋大輔が戦い、女子では浅田真央と安藤美姫が持てるポテンシャルの全てをかけて戦った。彼らこそ一流のアスリートであり、真のチャンピオンである。
 それでは、浅田の作品「仮面舞踏会」と安藤の作品「レクイエム」が、技術はもとより、いかに芸術的であったのかを振り返る。

安藤美姫「レクイエム」
 まずこの作品の中には、安藤と個人的に近い存在の様々な人々の思いが込められている。その一人が亡くなった安藤の身内であり、それから、安藤の事を敬愛していた重病の少年である。フリースケーティングで演じたクレオパトラと比べても非常に抑制的な表現は、いつもの情念的な安藤美姫に比べると、やや物足りなく思えるかもしれない。しかし、密度や質量がフルオーバーの演技よりも、指先の扱いまでもが丁寧な今回の作品を見て、スケーターとしてまた一段上のレベルに上がったという印象である。つまり、目まぐるしい動きで全てがフェイクに見えてしまうものよりも、動きに余韻、余白を残すことで、安藤がこの作品のために構築してきた物語が収まる余地があるというわけだ。
 安藤がこの作品を完成させるにあたって、彼女に非常に影響を与えたという人物の存在がある。それが、安藤の事を敬愛してやまなかった病気の少年である。この少年は先天的な多臓器不全で、渡米して移植手術をしたのにも関わらず、安藤の晴れ舞台を見る事もなくこの世を去ってしまったのである。そして生前は安藤と交流を持っていた。
 一見するとスポーツ選手や芸能人にありがちな美談である。そして大抵の凡庸なスポーツ選手や芸能人ならば、ただの美談としてここで終わるのである。しかしそれを美談とせず、自分の作品にまで昇華させることができるのが、安藤美姫のような一流のアスリートなのである。
 安藤と交流を持っていたこの少年は、胃腸、肝臓がほとんど機能しない難病である。それゆえに自分の口から物を食べる事が一切禁じられている。そこで少年は、自分の家族や見舞に来た友人たちに、自分の好きな物を代わりに食べてもらうという行為で、自分の身体の辛さを表現していたように思う。そして安藤が練習のため遠方へ発つ日に少年は、安藤にあるプレゼントを渡したのだ。
 安藤がタクシーの中でそれを開けると少年が安藤のために作ったというおにぎりが1個入っていた。安藤はそれを無言で食べる。この死に際における「食」という行為が、安藤美姫という人物が先天的に持っている「闇」における麗しさ、耽美的なるものを感じさせるのである。余命少ない体力の衰弱した少年が必死に作ったおにぎりは、単なる美談という領域を超え、それは臨死の身体表現として浮かび上がってくる。本来ならば少年自らが食したであろう、いわば少年の身体の一部のようなおにぎりを安藤が様々な思いを込めて体内に取り入れ、自らの血や肉としていくという行為自体に、古くは叡智の継承として存在していたアントロポファジーとしての儀式性があるのだ。まさに安藤が死にゆく少年から「勇者」として選ばれた瞬間なのである。
 安藤美姫が「闇」の中で踊るような「レクイエム」は、このような伏線をもって完成されたものであろう。ジャンプの天才と言われる安藤が、ただ単にサイボーグのような正確なジャンプをしただけでは、ここまで芸術性の高い作品にはならない。もちろん安藤の「レイクエム」に込められたこれらの伏線は、国家予算並みの莫大な金を使ってロビイングでもやらない限り、審判団には伝わらないであろう。しかし、フィギュア・スケートという競技に芸術性を求めていくならば、それはそこで演じられた作品が、審判団だけではなく、芸術作品として後世の人々の記憶にも残っていかねばならない。安藤美姫や浅田真央のプログラムは、技術もさることながら、まさにこのような点においても至高の芸術作品といえるのである。

浅田真央「仮面舞踏会」
 今回の五輪で浅田真央は、ショートプログラムとフリースケーティングの両方で、超高難度の技であるトリプルアクセルを計3回も入れて、自己最高得点を記録した事だけがクローズアップされているが、他の要素も見れば、浅田が単にジャンプだけの選手ではないということが分かる。
 「仮面舞踏会」はヨーロッパでは古くから戯曲や音楽劇としてモティーフにされてきたものだ。そしてどれもが暗殺、毒殺といった謀略がテーマとなっている。浅田がこのテーマを選んだのは昨シーズンからで、その時にはフリースケーティングのプログラムであった。今回はそれをさらにブラッシュアップさせて、ショートプログラムでより完成度の高い作品に仕上げてきた。ショートプログラムに男子でも難しいトリプルアクセルを入れてきたことによって、このプログラムを滑れるのは女子ではもちろん浅田だけだが、あの超絶技巧的なステップの事を考えると、男子でもプルシェンコや高橋大輔でないとこなせないという内容になっている。この一点においても、男子スケーターと比較して語ることが許されるのが、浅田真央だけであるということがわかる。
 浅田が演じるのはニーナという主人公である。夫から不貞の濡れ衣を着せられて、仮面舞踏会の席で毒を盛られて殺されるという役どころだ。浅田のこの作品から見えてくるのは、もちろん「死」と「エロス」であることはいうまでもない。悶絶の表情で難易度の高いステップをこなす浅田真央は、まさに毒を盛られて踊り狂うニーナそのものである。このシークエンスに、プログラムを作成したタラソワ・コーチの「狂気」も垣間見える。タラソワは、足がもつれるようなステップを次々と踏んでいく浅田真央に、死神と一緒に踊る「死の舞踏」を演じさせたのである。その結果、誰の記憶にも後世にわたって残っていくであろう作品として仕上がった。
 浅田が「仮面舞踏会」を2シーズンにわたってテーマにした事によって、我々は浅田真央にいろいろな新しい要素を発見することができた。この作品についてはフリースケーティングの時にも議論の俎上に乗ったことの一つとして、要素の詰め込み過ぎではないか、というものがある。他の凡庸なスケーターならば、プログラムの中に「抜き」の部分を作り、そこで体力を温存するという姑息な戦略も立てたであろうが、浅田真央にとってはそれは許されなかった。私は、終始踊り続ける浅田真央の姿に「狂気」まで感じ、まるで悪魔に魂を売ったパガニーニのような恐ろしさまで見てしまった。その氷上にいたのは、我々が昔から知っていた清廉、可憐な“真央ちゃん”ではなく、まさに「狂人・浅田真央」であったのだ。グリューネヴァルトが描く、屍を越えていく聖アントニウスのようだ。これを狂気と呼ばずに何と呼ぼうか。
 そして、浅田真央の「仮面舞踏会」という作品の中に通底する深くて麗しい欧州の「闇」の世界を、「芸術」として最も理解できるのは、やはりプルシェンコであろう。

 2人の世界女王たち、ほんとうに素晴らしいものを見せてくれて、ありがとう!

■浅田真央、安藤美姫についてのコラム■
【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~今季最後の女王対決~
【フィギュアスケート】  浅田真央VS安藤美姫~必殺技の美学

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27. Februar 10

【メディア】 メディア・パトロール・ジャパン、遂に始動

 2月26日、国民がバンクーバーでの女子フィギュアの2人の世界女王・浅田真央VS安藤美姫の対決に固唾を飲んでいた頃、都内記者クラブでは各界の保守論客が一堂に集まり記者会見が行われていた。本日(27日)夕方6時から始動するポータルサイト「メディア・パトロール・ジャパン」(=以下MPJ)についての会見である。
 会見の席に並んだのは、青山繁晴(独立総合研究所)、西村幸祐(評論家)、すぎやまこういち(作曲家)、三橋貴明(経済評論家)、藤井厳喜(国際問題アナリスト)らの5氏。この会見の模様は産経新聞が伝えている。(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100226/plc1002261826014-n1.htm

 MPJはわが国初の、国民のためのパブリックジャーナリズムを目指すものである。昨今のマスメディアの悪意に満ちた偏向報道、捏造報道、プロパガンダとしての印象操作に加えて、“報道しない自由“に基づく隠蔽、報道拒否などのテロ行為に対し、国民一人一人がマスメディアを厳しく監視し、国民の側が正しい情報を共有するためのものである。
 ここで国民の側に必要とされるのが、メディア・リテラシーである。新聞・テレビから流れる情報の一次ソースを精査、比較し、メディア側の意図的なバイアスを見破るためのクリティカルなスキルだ。これに大きな役割を果たしているのがネットである。ネットというコミュニケーション・ツールが登場する以前、高等教育でメディア・リテラシーについて専門に学ぶ機会のなかったであろう多くの国民は、例えばNHKや朝日新聞が堂々と虚偽や捏造報道をするとは思ってもみなかったのであろう。報道バラエティーの中で断片的に報道される政治・経済のニュースもそのまま垂れ流されていたわけである。
 しかしネットという新しいメディアの登場により、これまで情報の一方的送り手であったマスコミが、今度は自分たちも批評の俎上に晒されるわけである。そしてそれをジャッジするのは国民たるネットユーザーであり、そのネットユーザーの中には当然のことながら各分野の市井のスペシャリストたちが控えている。彼らが報道バラエティーの雛壇に陣取る“自称”有識者やコメンテーターと言われる電波芸者たちの表層を剥離し、裸体を剥き出しにさせる。このような事はかつてなかった事なので、ネットは彼らから恐れられているのである。
 またネットコミュニティの中においては、実社会で通用している権威、肩書き、地位は無効となり、すべての人間は他の多くの市井の市民と同等の座標で並列化される。実はこれが、かつてドイツの思想家ハーバーマスがロンドンのパブ(public house)に例えて言った「公共圏」の事である。この空間は、議員バッジや社章を背広に付けたまま暖簾をくぐる「赤ちょうちん」とは異なるのである。この批評空間においては、そこで情報として提示されたテクストのみが、正しいか否かだけ精査される。その情報の確度が精査されるにあたり、誰の発言であるかという権威は通用しない。
 一方で、大学教授や評論家という肩書でテレビの雛壇に並べられた電波芸者たちは、その肩書によって自らの言説の説得力も担保されると未だに勘違いしている。いわばこの“雛壇”こそ「赤ちょうちん」的世界である。しかし今、これは揺らぎつつある。

 例えば、現在開会中の国会をノーカット生中継で見ている国民は、自民党、共産党の厳しい追及に窮地に立たされる民主党閣僚の姿を知る事が出来る。しかし、民主党を後押しする民放各局の報道バラエティー番組によって編集・加工して制作されたニュースを見れば、不思議と民主党が健闘しているように見える。このあまりにも大きな違いに違和感を覚えたならば、例えば今ならネットで「椿事件」と検索すれば、そのからくりが理解できよう。
 ここでわれわれ国民に求められるのは、情報の一次ソースを辿る技術である。これは参考文献から原典の論文に行きつく行為と同じである。何者かの意図によってバイアスがかけられる前の一次ソースを得て、それを自分で判断し、批評するのがメディア・リテラシーである。それには事実のみを伝えるストレートニュース媒体も必要だ。現在のところそれを担っているのが、Youtubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトである。アカウントをとれば誰でも動画を配信できるこれらのサイトには、テレビでは絶対に伝える事ができない保守系市民団体のデモ行進や抗議集会、政治家の街頭演説の模様も生中継される。エンターテインメントとしてこれらのものを見ても、テレビコンテンツよりも断然に面白いのである。

 MPJは、各界保守系論客のコラムに加えて、フリージャーナリストやネットユーザーにより配信されるストレートニュースやブログと連帯し、テレビ、新聞といったレガシー・メディアに対抗し得る第三極を作り、今現在、絶対的な権力を握るレガシーメディアを国民全員で監視するものである。発起人の一人であるすぎやまこういち氏の言葉を借りれば、「日本という国が大好きな国民一人一人がドラクエの勇者となって、戦って下さい」ということである。この新しいメディアの勃興には、行動する国民の存在が必要なのである。

■メディア・パトロール・ジャパン■(本日午後6時より始動)
http://mp-j.jp/


■「メディア・パトロール・ジャパン」概要■
(発起人・三橋貴明氏のブログから転載)

メディアパトロールジャパン! 前編
メディアパトロールジャパン! 後編
メディアパトロールジャパン! 後記 

「メディア・パトロール・ジャパン」関連記事■
【メディア】 国民によるマスメディア監視サイト 「メディア・パトロール・ジャパン」 設立へ
【トークライブ】 西村幸祐トークライブ 『ああ言えば,こうゆう!』 サブカル戦後史と反日メディア撃退作戦 (2010年1月10日,新宿ロフト・プラスワン)
【トークライブ】 西村幸祐トークライブ
『ああ言えば,こうゆう!』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)

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21. Februar 10

【慶應義塾大学】 『病める舞姫』を秋田弁で朗読する(2010年3月9日、ザムザ阿佐ヶ谷で上演)

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 財団法人東京都歴史文化財団と慶應義塾大学の主催で、土方作品についての新しい解釈と試みが行われようとしている。
 『病める舞姫』は、舞踏家・土方巽が故郷・秋田で過ごした少年時代の記憶を綴ったもので、原典は1977年から1978年にかけて雑誌『新劇』に連載されたものである。この作品は土方の少年時代の記憶を綴ったものではあるが、具体的な地名は登場せず、文体もほぼ標準語で書かれている。今回それを、あえて秋田弁で朗読することで、土方巽の持つ世界観、身体性に肉薄しようという大胆な試みである。
 この企画は、財団法人東京都歴史文化財団が「東京文化発信プロジェクト」の一環で、学生とアーティストによる交流プログラムの中で実現したものである。これに自治体の賛同も加わり、いわば芸術文化活動における産学共同プロジェクトのようなものになっている。
 一時期わが国で企業メセナ・ブームが起こった頃、各地でもっと華やかな文化交流事業が多く立ち上げられた時代もあったが、現在は見る影もない。そのような情況の中で、地道に文化交流プロジェクトを継続している私学もいくつか存在する。例えば多摩美術大学が芸術学部専攻の学生の演習として行っている「TAMA VIVANT」がその一つだ。これは多摩美の学生らが数名でチームを組み、プロとして現役で活動している現代美術作家と各々がコンタクトをとって、学生自らが展覧会の企画・運営をするというものだ。学生はまず、出品依頼する作家の選定作業から入り、次に作家と直接コンタクトをとり、展覧会の趣旨のプレゼンテーション、出品依頼、カタログ作成、作品の搬入・搬出、展示の一切を行う。学生らはこれを通して、実際の展覧会の立ち上げ方を学ぶとともに、プロの現代美術作家の現場も見ることができる。
 今回、慶應義塾大学が中心となって行うこの企画も、プロの劇団員と学生らが共同で上演するものである。舞台に立つ学生の中には、大学の講義で初めて土方の存在を知ったという学生もいる。もちろん秋田弁をしゃべったこともない学生もいる。このような彼らが土方巽の持つ「言葉」と「身体性」に、東北・秋田の深くクローズドされた空間から迫ろうとするものである。

 上演場所のザムザ阿佐ヶ谷という空間は、阿佐ヶ谷では有数の小劇場である。有名なミニシアター「ラピュタ阿佐ヶ谷」が併設され、「山猫軒」という地元グルマンにも評判の小さなレストランもある。向かいの場所には現在は東亞興行が経営・管理するスポーツクラブが立っているが、ここは昔、名画座「阿佐ヶ谷オデヲン座」があった場所だ。
 阿佐ヶ谷という空間は土方巽とも関わりが深い。土方と交流があった暗黒舞踏集団「大駱駝艦」の麿赤児、「情況劇場」の唐十郎、劇団「天井桟敷」の寺山修司らも、もともと阿佐ヶ谷を活動拠点や住まいとしていた。JR阿佐ヶ谷駅の高架線の下には、寺山修司もよく通った定食屋「チャンピオン」があり、居酒屋街には今でも「天井桟敷」の系譜を継ぐ劇団関係者が経営しているバーもある。北口には河北総合病院があり、ここは寺山修司が息を引き取った場所である。
 土方巽が『病める舞姫』を連載していた1970年代中葉期は、暗黒舞踏、小劇団が全盛の時代であり、1975年に寺山修司が上演した市街劇『ノック』は、阿佐ヶ谷南1丁目あたりから五日市街道を越えた成田東1丁目までの広範囲で同時多発的にハプニング、路上劇、パフォーミングアーツが展開されるという野外劇で、「天井桟敷」の一団が荻窪団地付近のマンホールの中から全身包帯だらけの正体不明の姿で登場したことで騒ぎとなり、警察が出動したのは地元では有名な話。阿佐ヶ谷という空間はこのような特異な磁場を持った空間なのである。
 今回、土方の誕生日にあたる3月9日に、阿佐ヶ谷という非常に磁場の強い空間で、秋田弁によるテクストのみで、一体どんな土方の「病める」身体が立ち上がってくるのか、注目したい。

東京文化発信プロジェクト 学生とアーティストによるアート交流プログラム
『「病める舞姫」を秋田弁で朗読する』米山九日生少年に捧ぐ
2010年3月9日(火) PM18:30開場 PM19:00開演
場所■ザムザ阿佐ヶ谷
料金■入場無料(要予約)
予約問い合わせ■慶應義塾大学アートセンター
TEL 03-5427-1621
FAX 03-5427-620

www.art-c.keio.ac.jp
maihime-ac@adst.keio.ac.jp
【主催】
東京都
東京文化発信プロジェクト
財団法人東京都歴史文化財団
慶應義塾大学
【企画】
森下 隆(土方巽アーカイヴ)
【運営】
慶應義塾大学アート・センター

■土方巽関係レヴュー一覧■
【研究会】 土方巽『舞踏大解剖2』(慶応義塾大学日吉キャンパス)
【論集】 『慶応義塾大学アート・センター 年報14』2006/07

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14. Februar 10

【書評】 福本和夫著 『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』教養選書No.83(法政大学出版局)

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 “自称”環境保護団体シー・シェパードによるわが国捕鯨船に対する無差別テロ行為が止む気配がない。国家主権意識、国防意識とも極端に欠如したアマチュア集団の現政権は、困った顔をしてただこの状況を見ているだけである。石破前農水相が提案した海賊対策に関する法案も凍結したままだ。テロリスト相手の戦いにおいては、“9条バリアー”や“原子力潜水艦 「遺憾の伊」号”などは通用しないのだぞ。
 シー・シェパードをめぐる一連の論争の舞台は、単なる環境問題の域を超え、エコ利権、白豪主義による人種差別問題へと広がりつつある。シー・シェパードの日本を標的としたテロ行為を見ていると、捕鯨を行っているのは日本だけと思われてしまうがそうではない。日本に近代的な捕鯨技術を伝えたノルウェーも代表的な捕鯨国である。しかしあのテロ集団がノルウェー捕鯨船を攻撃しているところを見たことがない。それもそのはずで、本来、公海上でテロ行為を行えば、他国ならば間違いなく海軍が出てくるからである。
 わが国は他国のようにただちに海軍兵力を派遣するような事が出来ない。そのことを知っていて、あのテロリストたちは日本を執拗に攻撃しているのである。ここでもしわが国イージス艦が出て行って、ミサイルでも一発放てば、彼らはもう二度とこのようなことはやらない。試しに、ハープーンミサイルであのテロ船を一艇撃沈してみればわかる。

 実は、こんなテロリストどもにぜひ読ませたい本が手元にある。福本和夫が記した捕鯨史に関する本だ。福本和夫はわが国近代思想史の中においてはマルクス主義の本流をいく共産主義思想家として位置づけられているが、思想家としての福本和夫の他に、産業技術史研究家、捕鯨研究家としての顔もある。特に晩年は捕鯨史の研究に膨大な時間を費やし、わが国の捕鯨文化というものを、産業史、工業組合史、常民文化史、漁業史といった実に多岐にわたる視点で考察し、あらためてわが国の捕鯨文化の豊かさを掘り起こすことを試みた人物である。
  『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』と題した福本の研究書は、数年前、私がシーボルトの文献収集のフィールドワークをするために長崎に滞在していた時に地元の古書店で見つけたものである。
 まずこの目次だけでも見ていただきたい。図版や年表といったアーカイヴも網羅したこの研究書は、福本和夫の捕鯨研究における集大成であり、最高傑作であろう。この本の中には、「近世―近代」から「現代」にかけて、鯨文化とともに活き活きと暮らしてきた常民としての近代日本人の姿が描かれているのだ。これを民俗伝統文化と云わずして何と呼ぶのか。捕鯨を単にエコ思想、地球市民思想に置き換えて批判するものどもに、私は反証としてこの本を明示したい。

福本和夫著 『日本捕鯨史話―鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に―』教養選書No.83(法政大学出版局、初版1960年7月15日)
【目次】
第1章 「鯨の生態と効用」

鯨の路―鯨の廻游/上り鯨・下り鯨/象の眼のような鯨の眼/日本で鯨が魚類でないことを説いた先覚者/鯨の尾の威力/森鷗外の鯨の歌/鯨の大敵シャチ/鯨の年齢調査に成功したかくれた研究家天野太輔氏/明治20年代までの鯨の用途/拡大し発展した鯨の利用方法/鯨ヒゲの用途/木綿弾弓の発達と鯨の筋/昔の鯨油の用途と一頭からとれる量/昔の捕鯨の費用と収益/捕鯨に関する藩の課税/アラビア人による竜涎香の東西通商史/捕鯨業の時代区分と鯨の種類別―セミ鯨からマッコウ鯨へ、そして今日はナガス鯨の時代である/鎖国日本を開国させたのはある意味では、アメリカ捕鯨業であった

第2章 「わが捕鯨方法発展の五段階」
わが捕鯨方法発展の五段階/日本捕鯨の発展段階年表/年表附註スヴェン・フォインのこと/突取法以前の捕鯨/日本古代の原始的な網取法/日本は古来から網取が得意であった/原始的形態のワナとアミ/古代日本に原始的な網取捕鯨法のあったこと/網取捕鯨法と鰤追網との類似点/万葉時代の彩色船/突取捕鯨の先駆者が三河、尾張であったわけ/突取捕鯨法初期の規模/日本捕鯨史上における寛文・延宝初期の意義と紀州太地浦の役割/沖網漁船の長桹と勢子船の狩棒/勢子船・砧踊の名称と網取捕鯨法/太地浦の網取捕鯨と西鶴の「日本永代蔵」/捕鯨業はたいてい海賊の盛んだった地に栄えた/捕鯨についての書いた最初期の人々

第3章 「欧米人・中国人・アイヌ人の捕鯨と比較して」
欧米の捕鯨方法発展の五段階/銛の役目とボンブランスの役目/中国の捕鯨方法/アイヌ人の捕鯨方法/わが網取捕鯨技術の六つの特徴点―併せて網取捕鯨法の限界点

第4章 「わが沿岸網取捕鯨業の発展」
網取鯨組マニュファクチュアの規模―製銅に次ぎ製鉄に匹敵する大規模であった/鯨商人とサバ船のこと/九州における捕鯨場の増加/長崎万屋町の鯨の山車と玩具/長崎万屋町の鯨の山車と小林作太郎の自動カラクリ鯨/益富組の漁場数/益富組の紋章/鯨組のマニュファクチュアの人的組織/鯨組主和田、多田、醍醐、深沢、益富等の家系と生活/和田氏系譜中抜粋/刃刺の任務・等級・昇進・修養・生活など/銛の投げ方/銛の役目と劔の役目/手形切り/納屋(鯨体処理工場)/鯨組の生活規律/鯨組の服装/組出の儀式ならびに初穂のこと/鯨供養のこと/刃刺踊とその唄/わが鯨船の種類・特色など/網取法時代の通鯨数と捕鯨数/鯨船を軍船に充用するために新造した吉宗/頼山陽の「水戦論」と捕鯨実習

第5章 「土佐津呂組の捕鯨」
「津呂浦捕鯨誌」の内容項目/「津呂浦捕鯨誌」の参考書目/津呂浦捕鯨組の開祖多田五郎右衛門のこと/万治三年にかけての(すなわち日本近世学芸復興期の始期における)捕鯨復興と津呂組中興の祖多田吉左衛門のこと/捕鯨年代記/津呂浦鯨組の使用人員数/土佐藩と津呂捕鯨組との関係/船頭などの勤続年数と副業/鯨組の階級制と風紀/土佐の捕鯨統計表/器具の二、三について/鯨の汐吹きについて/鯨の交尾について/鯨の長さ測定法/経営主体の変遷

第6章 「ノルウェー式捕鯨法が何故まず日本海方面ではじまったか」
日本海沿岸の捕鯨業/その規模と特徴の二、三/ノルウェー式の採用に長州仙崎が先駆したわけ

第7章 「わが捕鯨図説の四系統」
わが捕鯨図説の四系統/捕鯨図説四系統年表/木崎絵巻の作者は「肥前物産図考」の著者/捕鯨絵巻中の圧巻/捕鯨業の宣伝につとめた平戸藩主/蘭方医大槻磐水の鯨研究/司馬江漢の「生月島捕鯨図説」/わが鯨体解剖学の発達/わが鯨解剖学発達年表/「鯨史稿」の性格・識見とその成立/「勇魚取絵詞」の成立と特色

第8章 「わが漂流船と英米遠洋捕鯨工船との接触」
アメリカ捕鯨の太平洋進出年表/太平洋への漂流船と英米捕鯨工船との接触/太平洋上の遠洋捕鯨船とハワイ/漁夫五郎の視察した水戸沖の英国捕鯨工船/万次郎の救助された米国捕鯨船/米国捕鯨船で乗りまわした万次郎の見聞と体験/帰還後の万次郎は幕府に建議して小笠原へ捕鯨に乗りだした/米国遠洋捕鯨船の規模/彦蔵漂流記とサンドウィッチ島の捕鯨船

第9章 「近代式捕鯨への過渡期」
憲政以後の日本における捕鯨銃法への傾向の発展/漂流記「蕃談」の米国捕鯨工船図/浮世絵師周延の錦絵捕鯨図/太地浦前田兼蔵発明の捕鯨銃/太地浦の末期現象―漂流の一大悲劇/紀州の串本・大島におけるノルウェー式捕鯨業は岡十郎の東洋漁業会社によってはじめられた

第10章 「近代式沿岸捕鯨とは母船式遠洋捕鯨」
日本におけるノルウェー式捕鯨業の開祖、岡十郎/これより先、ロシアが朝鮮近海でノルウェー式捕鯨業を開始した/明治の海事小説家江見水蔭の「実地探検捕鯨船記」/近代式捕鯨資本家としての中部幾次郎と山地土佐太郎/大型鯨を対象とする近代式近海捕鯨/小型鯨を対象とする近代式近海捕鯨/戦後私のみた乙浜・太地浦の近代式小型捕鯨船/近代式近海捕鯨の中心地は北上した/母船式遠洋捕鯨/電気銛の改良/船団作業員の訴え

第11章 「研究余話十三章」
鯨の和名・漢名/鯨・鰉(蝶鮫)と中国文学/鯨を研究した本草家・医家/蘭医シーボルトと日本の捕鯨業/「本朝食鑑」の鯨論/捕鯨と明治の文豪/アイヌの鯨祭とそのうた/鯨捕りをうたった加納諸平/丸山薫の詩「鯨を見る」/鯨の落語/鯨幕のこと、鯨のだんまりのこと/勝間竜水の鯨図/長沢蘆雪の捕鯨図/壱岐の岩窟壁画の捕鯨図

第12章 「本書の特色は日本ルネッサンスとマニュファクチュアの見地からした総合・比較研究にある」

追補
生月島の勇魚取絵図詞と露伴の小説いさなとり

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11. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(2) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 一通り採点の終了した学生の最終レポート(「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」)をもう一度読み直している。奇想天外な内容も多いのだが、今日の医療、特に精神医療や難治性疾患患者のターミナルケアに対しての示唆に富んだものが多く、2010年度の集中講義の中でもフィードバックしていきたい。
 今朝再び読み直したのは、サンクト・ガレンという空間を病院と隣接した多目的スペースとして設計し、病院を取り巻く環境をコンパクトシティとして見直していくという内容のものだ。

レポートタイトル:「病院の隣の小社会」(デザイン学部デザイン学科1年)
 ここでサンクト・ガレンに担われた空間的役割とは、入院患者や障害者の日常的生活を全てサポートするオルタナティブ・スペースである。設計書を参照すると、まず礼拝堂正面に当たる吹き抜けの空間がインフォメーション・センターとなっている。中央の空間はギャラリーになっており、キッズスペースと休憩所を隔てた最後部にはミニシアターが設けられている。中央のギャラリー・スペースを中核にして、この他には作品制作用のアトリエ、画材店、書店、メディアショップ、ウェアショップ、ネイルサロン、コスメサロン、フードコート、クッキングスペース、そして野外には植物園が設置されている。
 ここに設けられた空間は、人間が最低限、文化的生活を営むために必要なものである。近年までは、病人や障害者となった途端に、治療やケアのためのアメニティが優先されるため、生活における文化的要素、創造的要素を担う部分は「制度」の中で必然的に削除されるケースが多かった。しかし、病人や障害者のノーマライゼーションという事を考えた場合、例えば介助者、介護者視点での機能性を重視したウェアだけではなく、それを身につける病人や障害者の目からみて、ファッション性を重視したウェアがあってもいいわけである。
 具体的な事例を挙げれば、介助者を必要とする障害者が着用しているウェアは、これまではボタンが大きめのものが多かった。これはウェアの着脱の際、小さくて細かいボタンよりも大きいボタンのほうが作業がし易いからである。また女性であっても髪が短く散髪されているのは、単に衛生的というだけではなく、やはり頭髪の手入れに手間がかからないからである。これをそのまま健常者たる人間に相対させたらどうなるか。このような状況に納得するものは誰もいないであろう。今日ではこのような観点から、病人や障害者であってもそれぞれのライフスタイルやファッション的志向を重視したウェアも製造・販売されるようになってきた。
 このレポートで設計書の中に設置されたウェアサロン、ネイルサロン、コスメサロンなどは、病人や障害者の日常生活において、文化的側面を担うものの一つである。この他にも、劇場、映画館、書店などが併設されており、ここで全てのものが賄える仕組みになっている。この空間概念は、近年、主に限界集落といわれる過疎地において構想されているコンパクトシティとも類似している。町の中の居住区から歩いて行ける距離に学校、役所、病院、公園、その他文化施設を収めた都市計画の事である。少子高齢化が進む中で、住み慣れない都会へ移住するのではなく、住み慣れた街を最後の住処にと考えている集落居住者が増えてくれば、このようなコンパクトシティが実際に増えて行くであろう。歴史を遡れば、ギリシャの都市国家ポリスこそ、ステディウム、コロシアム、ホスピタルという空間をひととこに集結させたコンパクトシティの先駆けであり、この空間では病人も他の市民と一緒に暮らしていたのである。
 学生はこのレポートの中で、この計画の趣旨として、病人、障害者の日常生活におけるノーマライゼーションと、精神的ケアをあげている。ノーマライゼーションについては先ほど述べたとおり、人間が文化的生活を送るために必要最低限な空間やアイテムを用意することで解決を試みている。次に重要な精神的ケアは何によってなされるのかといえば、ここでアートの要素が立ち上がってくる。ギャラリーは、単にそれだけでは鑑賞用の空間にすぎず、病人や障害者、そしてここを訪れる市民たちが能動的に参加する空間には至らない。それを補完するかたちで、アトリエとクッキングスペースが用意されている。アトリエの設置については当たり前に必要なものであるが、むしろクッキングスペースという空間が提示されたことが興味深い。
 この空間は、病院ならば入院患者用の調理室に相当する空間であろう。それがここでは、病人、障害者、市民が利用できるスペースとなっている。入院生活における「食」の要素は、入院生活の根幹を支えているものでもあり、「食」の要素の充実は、そのまま入院生活における充実にもつながる。そこに市民のサポートを受けながら病人や障害者が関わる事によって、「食」という一連の「命」をつなぐ行為の中に、単調な入院生活の中で希薄化・記号化された身体性を再構築するわずかな可能性もみえてくる。
 また、料理はもともとアートと並んで創作的な行為であり、この部分において、命を支えるという医療の要素と、料理を作るという創作的な行為が融合することとなる。またそれだけではなく、病人ならば日常生活へ、そして障害者ならば地域の中での自立した生活に向けてのトレーニングの機会ともなるであろう。
 その他、この空間における有機的な要素としては、植物園が設けられていることである。他の学生の今回のレポートでも、庭園や家庭菜園などを併設する空間設計を提示したものが見受けられるが、いずれもグリーンツーリズムを意識したものである。植物を通して四季を演出し、様々な植物が見せるであろう萌芽、結実といった生命サイクルは、医療システムの中で一律に計量化された患者の身体に、生命力の存在の根本を改めて投げかけることになるだろう。

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10. Februar 10

【医学史】 都議会議員・土屋敬之氏が語る『ヒポクラテスの誓い』(ブログ「今日の“つっちー”」より)

 元民主党の都議会議員にして,今や行動する保守政治家のオピニオンリーダーとして国憂う国民からも人気が高い土屋敬之さんが,2月7日付のブログの中で『ヒポクラテスの誓い』を引用するかたちで,自らの生死観や尊厳死,終末期医療のあり方について語っているのに目を惹いた。
 土屋さんは“つっちー”の愛称で親しまれている保守政治家であり,民主党結党当時から民主党に所属していた議員である。当時,土屋さんと意を同じくしていた民主党の仲間たちは一足先に党を飛び出して,今は自治体首長となって活躍されている。そして最後まで残っていた土屋さんも,昨年の街頭演説会にて,“民主党をぶっ壊す!”“機動隊のバリケードを突破して,本会議場に突入するぞ!”との発言が不味かったのであろうか,ついに民主党から除名されてしまったそうだ。しかしその事で萎むどころか最近ますます行動的になっていく土屋さんの人気は上がる一方である。
 「今日の“つっちー”」と題したブログは,土屋さんの一貫した保守政治理念に基づく政策の提言,政局の分析が主たる内容だが,2月7日に目にした記事の内容だけは,今までのものとは明らかに雰囲気が異なる。冒頭からいきなり『ヒポクラテスの誓い』で始まるこの日の日記はかなりのインパクトである。今まで土屋さんのブログを毎日読んできた者にとっては,一体何事かと思うであろう。

 『ヒポクラテスの誓い』は今更説明するまでもないが,古代ギリシャの医学者ヒポクラテスが,医術を学ぶ弟子たちに医道について説いた言葉であり,これが後に彼の弟子たちによって「宣誓」として継承されていった。土屋さんのこの日のブログに貼られている蛇と杖のアイコンは,ギリシャ医学のシンボルであり,ギリシャの医神アスクレピオスが手に持っているものだ。杖に絡みつく蛇は「癒し」「医薬」の象徴である。このシンポルは今日でもWHOをはじめとする医療機関も採用している。(因みにスタートレックに登場する宇宙船の医療室のガラス窓にもこのシンボルが描かれている)
 私も大学の講義では一番最初の講義の中で,必ずこの『ヒポクラテスの誓い』と,蛇と杖のシンボルの意味について学生らに教えている。
 ヒポクラテスが言ってる事は,現代の我々にも通じるところが多々ある。もちろん後のルネサンス以降の医学によって,彼の唱えた説の中には科学的に覆されたものも存在する。例えばアリストテレスやガレノスも採用した「四体液説」が最も有名な例だ。「四体液説」というのは,人間の体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液が存在し,そのバランスを欠くことで人は様々な「病」になる,と考えるものである。これは後にレオナルド・ダヴィンチによる人体解剖学やハーベイの血液循環説によって覆されるが,理念そのものも否定してしまうものではない。「四体液説」は身体のとらえ方の一つの認識であり,この認識は意外にも古来の和漢医学にも繋がるものでもある。つまり人間の身体の有り様を「バランス」で認識したものであり,人間が健やかに暮らすには何事も「バランス」が大事であると考えるのは現代の我々でも同様である。

 さて,土屋さんがこの『ヒポクラテスの誓い』をどのように捉えているのかというと,弟子に医道の理念を説いた誓いについては基本的に賛同はするものの,現代医学の状況――例えばそれを取り巻く終末期医療の問題,尊厳死の問題,介護の問題などを想定していないヒポクラテスの言う事は,今日においては必ずしも万能ではない,とのことである。確かに,もともと『ヒポクラテスの誓い』は,古代ギリシャでは「神」に存在が近かった医学者がギリシャの医神に誓ったものである。翻って今日,土屋さんが言うように,「神」から「人間」となった医師にとっては『ヒポクラテスの誓い』だけではフォローできない問題の方が多いのである。それを何によってフォローするのかを考えるのは政治家の仕事でもある。

 政治家が自分の生死観について語るということがそんなに異例な事かといえば,そうではない。むしろ本来ならば,政治家こそが率先してこのような人間の哲学の根本に関わることも国民に語るべきなのである。近頃,理念無き政治家が多いと言われるのは,何も巨額の脱税や政治資金規正法に抵触するようなことをやっても平然としているような輩がいるからではない。そんなことは表層の問題にすぎない。誰とは具体的には言わないが,政治家の言葉の中に哲学や美学が一向に見えてこないから汚い部分だけが目立って仕方がないのだ。
 今まで政治家が政治の場で自らの人生観,哲学について語った例としては,「がん対策基本法」(平成十八年六月二十三日法律第九十八号)の制定に尽力した故・山本孝史参議院議員のことが思い出される。山本議員は自らが癌に冒されたことで,わが国の癌患者を取り巻く状況があまりにも過酷であることを目の当たりにして,癌における予防医療や癌患者における様々なQOL向上のために超党派で「がん対策基本法」をライフワークとして取り組んだ。
 2月7日のつっちーブログを読んで,土屋さんが山本孝史さんと同じ状況にあるのか否か,あるいは,何らかのきっかけがあって,改めて自分の生死観,医療のあり方について提言されたのかは定かではない。しかし,文章の行間からは,まさに文字通りの「政治生命」を賭けた重大な誓いであることは読み取れるのである。
 今後,土屋敬之という一人の政治家が,『ヒポクラテスの誓い』の理念をどのように「言葉」と「身体」で体現していくのか,私も注視していかねばならないだろう。(※この記事を書き終わった後,土屋さんのブログは『尊厳をもって死ぬ権利・追加版』として加筆,更新されていた。2月10日に書き改められた記事は,さらに深い内容となっている)

都議会議員・土屋敬之公式ブログ「今日の“つっちー”」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/

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08. Februar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生の2009年度最終レポートを読む(1) ~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 芸術療法講座の2009年度最終レポートをようやく読み終わる。2009年度の最終レポートは,「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」
 芸術大学の学生だけあって,奇想天外な内容のものが多い。最終レポートを取り組むにあたってのガイダンスでは,サンクト・ガレン修道院のもっとも有名な復元図を学生に渡し,これを叩き台にするように説明した。また,古代ギリシャのポリスで誕生したホスピタルという空間が,いわゆる病院の機能を備えた近代的ホスピタルへと分化していくプロセスで,修道院という空間が大きな役割を持っていたことをもう一度振り返り,その象徴としてサンクト・ガレン修道院という空間が存在していることを説明した。
 学生がこのサンクト・ガレンという空間にどのようにアプローチしていくのかも重要であるので,詳しい情報についてはあえて解説していない。したがってこの空間の図書館の設計が非常に特徴的であることなども,学生自らがこの空間について文献をたどるなりして知り得ることである。

 それでは,最終レポートの中で,奇想天外な発想をしながらも,今日的な医療システムなどの問題に深くアプローチしているもの,講義の内容を集大成としてよく理解しているもの,アートの側から医療現場に対して問題を具体的に提起したものなどを順に紹介していく。

レポートタイトル:「ガレンピック」(デザイン学部デザイン学科2年)
 これは,サンクト・ガレンを障害者,病人,市民のための五輪会場にする,という奇想天外なプランである。この学生はまずこの発想にいたった理由として,サンクト・ガレン平面図を最初に見た時に,陸上競技のトラックをイメージしたとある。そして次に,芸術療法講座集中講義の中で見た障害者プロレス「ドッグレッグス」の試合の映像を思い出し,ここの空間を患者と市民のための五輪会場にしようという結論にいたったそうである。
 ここでは「患者」「市民」「障害者」がバリアフリーな空間でコミュニティを形成していく可能性を示唆している。この「ガレンピック」なる五輪大会は市民により作られる五輪であり,その市民の中には病人も医療従事者もそれぞれ役割をもたらされて参加することになる。つまりこの空間では通常の医療空間,または介護空間における「医師」-「患者」,「介護者」-「利用者」(障害者)といった転置が不可能な硬直した関係があるのではなく,市民一人一人が対等に役割を与えられている,ということが重要である。競技に参加できない者は運営委員となり,大会マスコットやポスターの制作といった仕事も与えられている。また,すべてが自治体予算による市民の手作りであるので,この類の街のイベントを喰いものにする起業塾系NPOや広告代理店は一切介入できない仕組みとなっている。つまり五輪に参加する市民一人一人がスポンサーなのであり,近代五輪の基本的精神に立ち返ったものである。

 具体的な競技についてだが,陸上,近代五種,格闘技などである。それぞれ身体の障害によって階級分けされて競技が行われる。このフォーマットはドッグレッグスの世界タイトルマッチで採用されているものだ。もし肢体が不自由な者と健常な者が戦う時には,健常な者の肢体は拘束具で同じ条件に拘束される。そして残存する自由な身体で身体性のポテンシャルの限りを尽くすという戦いになる。会場には天皇や各国首脳のために貴賓席も設けられているので,事実上の天覧試合のようなものが展開されるのであろう。
 障害者の格闘技は,視野狭窄した道徳論からは,“障害者を見せ物にしている”という理由で批判の対象となるが,古代ギリシャまで遡れば,格闘技そのものがサーカスと同等の見せ物であったわけで,そのような興行的なことを障害者が行った時だけこのような批判がもっともらしくおこる事こそ,人間のポテンシャルを無視した障害者に対する差別とはいえないだろうか。

 サンクト・ガレンという空間をこのような身体表現によるバリアフリーなコミュニティに設計したこのレポートは,障害者医療にとどまることなく,多くの示唆に富んでいる。まず第一に,平面図から陸上競技のトラックを発想するという感覚は,芸術大学の学生ならではの感性ではないだろうか。そしてトラック競技からイメージを広げていき,最終的には古代ギリシャ的な五輪までに発想がたどり着くあたりに必然性を感じる。
 学生らが今回取り組んだ最終レポートは,大きくわけて二つの方法論が存在する。その一つは,サンクト・ガレンという空間を美術史的に,あるいは医学史的に定義づけ,その概念から空間設計を試みたもの。そしてもう一つは,例えば「ガレンピック」のように,平面図そのものからビジュアル的に発想を得て設計されたものである。双方の論の展開はまったく異なっているが,講義の大きなテーマである「医療」と「アート」,または「医学」と「芸術」,その関係性の中にあらたなコミュニティを形成していくという試みに挑んだ痕跡が充分に読み取れるものである。

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