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Januar 2010

31. Januar 10

【コミック】 田中圭一 『ドクター秩父山』

Photo_2
 
 ここ最近になって、障害者医療の現場を視察する仕事が増えてきた。今月も何件かの施設を視察する予定が入っている。
 障害者医療を考える上で欠かせないのは、ここに存在する様々な<禁忌=タブー>についてもオープンに語り合う環境を整えることである。特にこれまでわが国では、障害者の全人的な社会的自立やQOLにともなう「性」の問題、「表現」と「差別」の問題などを公開の場で考えることは特に禁忌とされてきた。特に扱いにくい「性」の問題は、障害者にはあたかもそのようなものは存在しないと否定することにより、彼らから人間性のもっとも大切な一端を偏見のもとに黙殺してきたともいっても過言ではない。
 また、「表現」と「差別」の問題にしても困難である。いわゆるアウトサイダー・アートといわれる障害者による芸術作品に対して、他の作品と同様に批評の俎上にあげて作品の批評の機会を得る、ということも難しくさせている。批評する側のほうが、アウトサイダー・アートに踏み込むことに恐れているのである。賞賛の批評は書けても厳しい批評は書けないのである。
 これは何もアートに限らず、格闘技などの身体表現についても付いてまわる。私が個人的に交流を持っている障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の格闘家たちも、毎回このような社会的な偏見とも闘いながらリングに上がっているのである。当初、福祉イベントの余興として、仲間うちの福祉施設でプロレスごっこをやっていた時代から、プロの団体として格闘技専門の小屋を借りて興行を打つようになった今日でも、彼らの行為を“障害者を見世物にする”といったつまらない論理で彼らを社会の制度によって作られた道徳的規範に閉じ込めようとする人間は後をたたない。ようするに、スポーツライターの乙武洋匡さんは民放のドキュメンタリーに登場できても、お笑い芸人・ホーキング青山は『エンタの神様』に登場することはない。同様に、ドッグレッグスの試合も格闘技番組として中継されることはない。彼らの目指す究極のバーリトゥードは、世の中の「制度」の中では存在しないこととなっている。

 さて、書斎の本棚を整理していたら、まさにこんな硬直した道徳的制度をブラックな笑いで吹き飛ばしてしまうようなコミックが出てきたので紹介する。田中圭一の『ドクター秩父山』だ。
 この作品は4コマからなるギャグマンガ。主人公はドクター秩父山という怪しい外科医だ。彼が遊び心満載で患者にいろいろな戯れを仕掛けるという内容なのだが、これがタブーそのものなのである。
 表現において問題になるタブーとしてあげられる最たるものが、「病気」と「身体障害」であろう。仮に病人自らが自分の病気を笑い物にする場合には特例的に免責されるが、第三者がこれをやった場合には、しばしば作品や行為の批評は店晒しにされて、「差別」の問題と議論が置き換えられる。従って、売れ筋のお笑い芸人であっても今日では意図的に避けている領域である。
 しかし、その「笑い」の中に非常に根本的かつ今日的なテーマが通底していた場合、それは破壊力満点の批評性を以って制度を無効にするのである。
 『ドクター秩父山』の第1巻に「車イスの少年」という作品がある。車イスに乗った運動神経抜群な少年がスキー・ノルディック複合のジャンプのように崖からジャンプして、見事に着地を決めるというものだ。技が決まった少年がドクター秩父山に“見てくれましたか! 先生!”というと、次のコマで、“歩く練習をせんか! このアホ!!”と秩父山のツッコミが入るというオチである。これは、制度の中においていわゆる障害者といわれる人が持っている個別のポテンシャルを表現することによって、「制度」側、つまりインサイダーに立つ我々の道徳的常識を笑い飛ばしたものである。
 しかも、他の四コマ作品と比較しても異例なのは、普段は脱「制度」的な戯れを患者に仕掛けるはずのアウトサイダーなドクター秩父山のほうが、「そんなことより歩く練習をしろ」というまことに常識的な発言をすることで、我々と同様のインサイダー側に立ってしまっていることである。つまり、ここで秩父山自身に起こった<アウトサイダー>⇔<インサイダー>のロールプレイが非常に面白いのである。
 まさにこれは今流行りの「友愛」などという偽装のペルソナを被った我々に、踏み絵を踏ませるような作品だ。

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21. Januar 10

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 学生から最終レポートが届く~「サンクト・ガレン修道院平面図を題材とした演習―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―」

 名古屋芸大の芸術療法講座を履修している学生らから,今年度の最終レポートが届く。
 今回の最終レポートの演習テーマは,サンクト・ガレン修道院平面図をモデルにしたコンセプトワークである。
 サンクト・ガレン修道院は,オテル・デュと並び,いわゆる医療施設としての近代的ホスピタルが形成されていく過程において,医学史の中では象徴的にして非常に重要な空間である。今回は,この平面図を叩き台にしてエスキースを作成し,「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」を設計する,というものである。
 つまり学生らには,このサンクト・ガレン修道院という空間を,博物館や美術館のキュレイターとなったつもりで現代的に設計し直すという試みにトライしてもらった。
 どのような空間として設計し直すかはまったく各人の自由である。壁面や支柱を改変することも可能である。場合によっては新たな空間を増設するのもよい。ただし,その空間が演習テーマのとおり「医療とアートが理想的に融合する患者と市民のための空間」の要件を満たしている必要がある。この根拠を示すため,学生らには設計図のエスキースの他に,コンセプト設計のための「計画書」も4000字にまとめて提出してもらった。
 学生らから手元に届いたレポートを順にざっと素読みしてみたが,こちらが思っていたものよりも,かなり内容の高いものが集まったように思う。中には,実際に制作した簡素なマケットを写真に撮り,エスキースを起こしたものや,再設計されたサンクト・ガレン修道院が,街の中ではどのような空間に位置しているのか等を考察するレポートもあった。また,昨今,「笑い」と「医療」の関係性が注目されているということに鑑み,サンクト・ガレン修道院にM-1上位入賞者を招待し,そこで「お笑いライブ」を開催して患者と市民に「笑い」を提供するといった奇想天外なプランまでいろいろと多かった。
 なお今回の課題は、土木・建築コンペにおける空間設計のプレゼンテーションという形式をとっているが、創作性、それから自由な発想の実験を試みてもらうために、あえて計画案の予算計上までは求めなかった。目的はあくまでも「医療」と「アート」が融合可能な市民空間の模索である。そのためであろうか、どの計画案も自治体予算だけではまかないきれない莫大な予算がかかるものとなったようだ。

 学生らが試みた設計案は以下のとおりである。
「安らぎのある空間設計」
「医療現場で市民と患者がアートを楽しむ空間」
「サンクト・ガレン修道院らくがき計画」
「サンクト・ガレン大浴場計画」
「芸術表現のための施設設計」
「絵と写真の壁のある空間」
「精神の安らぎ空間」
「音楽と絵のある空間設計」
「修道院的空間と展示会」
「ガレンピック」(サンクト・ガレンを五輪会場にするという計画)
「ガラス張りの病院」
「アートが万能薬」
「院内アート」
「受け入れる未来」(人の「死」を自然の摂理として受け入れるという空間)
「楽しい病院」(映画、音楽、アート施設が融合したシネコンのような空間)
「文化祭開催計画」(患者、市民、医療スタッフによる共同開催)
「音楽とふれあい空間」
「人から人への思いを素直に表現する空間づくり」
「患者と市民が掲示板などを通してフォローし合う空間」
「アトリエであるギャラリー」
「市民によって作られるアート空間」
「図書館をモチーフにした医療空間」
「心の芸術診療所」
「ペイシェントネットワークによる『医療』と『アート』の融合」
「理想的な葬儀から考える『生』と『死』、『命』について」(サンクト・ガレンを多様な葬儀空間として設計するという計画)
「病は気から」(本棚を中心としたインスタレーション)
「笑いをおこせ」(サンクト・ガレンでコメディを上演するという計画)
「明るいポップな病院」
「芸術作品のある病室」
「五感を利用したアート空間」
「作品の隠された美術館」
「自然とふれあう庭園空間」
「笑いと医療」(サンクト・ガレンでお笑いライブを開催するという計画)
「視覚的効果を利用した絵画のある空間」
「無意識から生まれる世界のある空間」
「悲しみよりほほえみが多い病院空間」
「みんなの家~個性を認め合う空間」
「医療と芸術の繋がる空間」
「芸術大学と医学大学が融合した空間」
「夜の静かなコンサート」
「患者と市民のための多目的ホール」
「4つの循環型アート」
「気軽にいけるアート空間」
「つながりあう。ふれあう。あたたかな病院」
「患者と市民たちとの交流をはかるための病院」
「アルツハイマーに特化した創作活動空間」
「アートを楽しむことで心を癒す公共施設」
「絵画カラーセラピー空間」
「病院の隣の小都会」
「医療器具によるインスタレーション」
「アート・カフェ」

そして、以下が「書式」である。

名古屋芸術大学 芸術療法講座 「美術史から考察する疾病論・医学概論」
「サンクト・ガレン修道院」平面図を題材とした演習
―「医療」と「アート」が理想的に融合する患者と市民のための空間を設計する―

【概要】
別紙に示したサンクト・ガレン修道院の平面図を参考にして,「医療」と「アート」が理想的に融合すると考えられる患者と市民のための空間を設計,または演出をして下さい。

【書式】①「計画書」
設計,または演出する空間についての具体的な計画の内容,コンセプトを400字詰め原稿用紙×10枚以上で説明して下さい。
(※必要であれば,「計画書」に図やスケッチ,写真などを添付しても可)

「計画書」には,以下の事も必ず含めて書いて下さい。
1.計画の動機:(なぜこのような計画を思いついたのか)
2.計画の裏付け:この計画は,どのような理由で「医療」と「アート」が融合する空間と思われるか。
3.計画の意義:この空間は,そこを訪れた患者や市民にとって何が期待できるか。

【書式】②「設計書」
別紙「サンクト・ガレン修道院」平面図を使って,計画書のエスキースを制作して下さい。

【提出方法】
表紙に計画案タイトルを記入し,【書式】①と【書式】②を必ず併せて提出して下さい。

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13. Januar 10

【メディア】 国民によるマスメディア監視サイト 「メディア・パトロール・ジャパン」 設立へ

 ロンドンの下町を歩いていると,夕刻を迎えた頃から町の小さなパブが次々と店の灯りを点ける。地元のロンドン市民は馴染みのパブに集い,政治談義から芸術談義,サッカー談義で花が咲く。日本のいわゆる「赤ちょうちん」や学生が集まる駅前居酒屋のような騒がしさはない。パブでの酒の肴はそこに集う面々が持ち寄ったその日の話題である。
 ご存じの通り,パブ(Pub)とはパブリックハウス(Public House)の事である。もともとは公共の社交場という意味合いを持った空間だ。この社交場に酒場やミニ・クリケット場や,スポーツ観戦用のテレビなどが置いてあるのがイギリス発祥のパブである。
 今日では日本でもサッカーや野球に特化した居酒屋を町の中で時々見かけるようになった。わが町にも,サッカーセリエAを専門に観戦するサッカー・バーもある。近年では池袋に開店した「猪木酒場」もなかなかの人気である。これは猪木を中心とした昭和のプロレスファンが集う店である。しかし何と言ってもこのようなスポーツ・コミュニティとしての酒場の歴史を辿るならば,関西地区に古くから数多く存在する阪神ファンの店であろう。この空間は,文字通り阪神ファンしか足を踏み入れてはいけない空間であり,このような店で讀賣の話題など出そうものならば,罵声とともにつまみ出されるという,昔ながらのイギリスのような,厳しい“階級社会”が存在しているところを見ると,これぞ正統のパブの継承者だとは思う。

 さて,パブという言葉はもう一つ,パブリシティ(publicity)という言葉とも大きく関わっている。パブリシティとは公共性・社会性をもった情報媒体を通して第三者に向けて発信される素材のことだ。これが新聞・テレビといったいわゆるマスコミを通して発信されるものがニュース・パブリシティである。すなわち,パブリック・ハウスもパブリシティも,もとを辿れば「公共圏」という観点からは同様の性質を持ったものであることがわかる。
 このパブの観点から「公共圏」論を提唱したのがドイツの社会学者ハーバーマスである。彼はデリダやニクラス・ルーマンとの永年にわたる論争をしたことでも有名。同じようにアーレントが古代ギリシャの都市国家ポリスにおける市民空間を「公共領域」として提唱した“パブリック”の概念を,現代において可能性を模索したのがこのハーバーマスである。
 そして,ハーバーマスが言うように,各人の身分,階級,政治的立場によることなく自由な議論が可能な言論空間という理念から発展したのがパブリック・ジャーナリズムである。パブリック・ジャーナリズムとは,既存のマスメディアによるものではなく,国民(または,ハーバーマスが公共圏論の中で定義している市民)による国民のためのジャーナリズムなのである。

 少々前置きが長くなったが,このたび,このパブリック・ジャーナリズムの理念を担っていくであろう新しいメディアが立ち上がる運びになった。その名も「メディア・パトロール・ジャパン」である。発起人は,ジャーナリストの西村幸祐,作曲家のすぎやまこういち,経済学評論家の三橋貴明の3氏である。
 私は昨年に関係者から直接この情報を頂いていたが,先日,新宿のロフトプラスワンの西村幸祐トークライブの席で正式に発表があった。
 「メディア・パトロール・ジャパン」は,その名の通り,現在,新聞・テレビなどのマスメディアにより日々暴力的に行われている偏向報道,捏造報道,特定の政治勢力に荷担したプロパガンダ報道を国民全員で監視,検証していくサイトである。「メディア・パトロール・ジャパン」は,いかなる政治的,経済的拘束も受けない。「日本が大好き」な国民一人一人が主役である。
 発起人の一人であるすぎやまこういち氏はこのような事を述べられた。
「君たちも一人一人力を合わせて,ドラクエの勇者になって,日本に跋扈する巨悪を倒して欲しい!」
 「メディア・パトロール・ジャパン」は,まさに,日本が大好きな国民一人一人がドラクエの勇者,あるいは公安9課の草薙少佐となってレガシー・メディアたるマスゴミと戦っていくものである。このようなものが,文字通りパブ的空間であるロフトで告知されたことは,実に象徴的な出来事である。

 「メディア・パトロール・ジャパン」は2月から始動する。
 日本が大好きなドラクエの勇者たち,そして我こそは草薙少佐と思う国民は,ここに集結されたし!

■「メディア・パトロール・ジャパン」概要■
(発起人・三橋貴明氏のブログから転載)
メディアパトロールジャパン! 前編
メディアパトロールジャパン! 後編
メディアパトロールジャパン! 後記

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11. Januar 10

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ 『ああ言えば,こうゆう!』 サブカル戦後史と反日メディア撃退作戦 (2010年1月10日,新宿ロフト・プラスワン)

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《第一部》 サブカルチャーから見た戦後日本
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
杉原志啓(音楽評論家)
但馬オサム(ライター)
《ミニライブ》
出演:英霊来世-AreiRaise-
《第二部》 もう許せない!反日マスコミへの宣戦布告
西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
三橋貴明(作家・経済評論家)
すぎやまこういち(作曲家)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)

 昨年,阿佐ヶ谷ロフトAで行われて大きな反響をよんだ西村幸祐トークライブの第2弾である。今回も二部構成で,途中にHIP HOPグループ英霊来世-AreiRaise-による新曲のライブも披露された。

 第一部の『サブカルチャーから見た戦後日本』では,音楽評論家の杉原志啓が洋楽とJ-POPの変遷という立場から,そしてライターの但馬オサムはサブカル史という視座から,戦後に思想史として一旦リセットされてしまった日本文化の断片を,戦前,戦中,戦後と連綿と紡がれてきた民族文化として再構築を試みた内容であった。この両者の主張によれば,日本の民族文化に一貫して通底しているのは,「オタク」というわが国特有の創意工夫の精神であり,それが例えば世界最強の工芸品である戦艦大和や円谷特撮や手塚アニメを産んでいったというわけである。
 私はクリエイターという立場からも,この二人の主張には同意する。戦前・戦中・戦後という一連の流れの中で,戦前・戦中の日本だけが「悪」であると切り捨ててリセットしようとする事自体がそもそも不自然であり,それはすなわち,日本人としての当事者性を放棄することにつながる。昨今,欧州から流入したコスモポリタン思想がリベラル層で広がりつつあり,これが「地球市民」,「地球共和国」という珍妙な畸形化言語を形成している。このような畸形化したコミュニティの住人たちは,近代的国民国家を否定しているわけだ。それゆえに,彼らが日本という国家や社会を批判する時に,批判している自分もその国家や社会を構成している国民の一人である,という当たり前の視点が欠如しているのである。
 現在,世界を席巻している日本のポップカルチャー,とりわけ,アニメ,コミック,ゲームといったコンテンツは,何も戦後に降って湧いてきた新たなムーブメントではなく,その源泉は,あきらかにわが国古来の伝統文化の中にある。そのことをよく表した本が,麻生太郎の『とてつもない日本』である。 この本は政治家が書いた本としてはたいへんに珍しく,日本文化論,現代思想に深く言及したものである。この中で麻生太郎は,日本のアニメやコミックの源流は『源氏物語絵巻』や『過去現在因果経』にあると言っている。この見方は,例えば「怪獣」というわが国が独自に産んだ異形の原点を『鳥獣戯画』などに求めるという私の考え方にほど近い。そしてこの文化の源泉は,戦前と戦後の間で断絶されたものではなく,繋がっているものであるというのが,本日のライブの第一部に登壇したパネラー諸氏の共通する主張でもある。
 また第一部では,パネラー諸氏持参による貴重な映像アーカイブも上映された。まず,杉原志啓は,パフィのPV。そして但馬オサムは戦時中に制作されたディズニーの国策アニメと,戦後にフィルムが発見された松竹映画のアニメである。但馬オサムの解説によると,ディズニーは戦時中でも莫大な時間とコストをかけ,日本アニメとは比較にならないほどにコマ数が多いそうである。それゆえに,生き物の滑らかな動きを実写のようにリアルに表現できたわけだが,だからといって日本アニメが技術的にも芸術的にも劣っていたのかというとそうではない。日本アニメは限られたコマ数の中で動きに余白を作ることで,独自の動画表現を確立してきたのである。それが後に金田伊功のような実に個性的な動画絵師が誕生する契機にもなっているということだ。
 杉原志啓により上映されたパフィのPVは,「BEEF」という楽曲のインパクトの強さに圧倒された。杉原志啓も解説で述べているが,J-POPが非常にクオリティ高く完成されたものだ。洋楽という形式をとりながらも基本的には日本文化に根ざしたグルーヴ感は,その他大勢の量産型J-POPとは明らかに異なるのがわかった。「BEEF」の最後に“外国産なんてすっこんでろ!”で終わることろが実に痛快である。

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 続く第二部は,作曲家のすぎやまこういち,経済評論家の三橋貴明,国際問題アナリストの藤井厳喜らと西村幸祐の座談会である。ここでは昨年に阿佐ヶ谷ロフトAで行われたトークライブに引き続き,日本の腐敗した昨今のマスメディアの問題が取り上げられた。
 現在のマスメディアの情況をみると,一次ソースを恣意的に編集・加工した偏向報道,捏造報道が昨年よりもましてひどくなっている。極端に特定政党に加担するような報道をする民放の朝の情報バラエティは言うまでもなく,公共放送であるNHKもその信頼は完全に失いつつある。この悪しき状況に加えて,いわゆる「報道しない自由」の行使が顕著になってきた。これは,特定政党や番組スポンサー,株主である外国企業に都合の悪いことは一切報道しない,ということである。
 例えば,実際にあった例をあげると,団塊世代の視聴者が多い民放の報道バラエティは,この心情的左翼である団塊世代に親和性のある左翼系デモは,たった20人30人規模のものでも頻繁にニュースとして取り上げるが,一方で,政治家の身に起こった献金事件や,公約違反をする政党に対する1000人規模の保守系市民団体による大規模デモは意地でも取り上げないわけである。
 このような事態の中,西村幸祐,すぎやまこういち,三橋貴明の3氏が共同で,マスメディアを国民全員で監視,検証するポータルサイト「メディア・パトロール・ジャパン」を設立するはこびとなった。本日のトークライブはその発表も兼ねたものである。サイトの本格始動は2月からで,現在は鋭意準備中であるとのこと。このサイトが,かつてハーバーマスが「公共圏論」で提唱した,市民による市民のためのパブリック・ジャーナリズム萌芽の契機になるのではないかと私は期待している。

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 前回の阿佐ヶ谷ロフトAのライブと同様に,第一部と第二部の間に,英霊来世-AreiRaise-の新曲『開戦』が披露された。英霊来世-AreiRaise-については,後日,「現代日本にHIP HOPは存在するか」という論考であらためて言及することにする。

■文中関連コラム■
【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)
【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)
【書評】 三橋貴明著 『民主党政権で日本経済が危ない! 本当の理由』(アスコム)
【書評】 三橋貴明著 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)
【書評】 三橋貴明著 『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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09. Januar 10

【特撮】 ジミンガーZ(作者不詳)

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 特撮界隈で仕事をしている知人が,また何やら得体のしれないものをネットで拾ってきた。こちらも気になって仕方がない。
 その名も「ジミンガーZ」。
 何となくどこかで見たことのあるキャラクターなのだが,けしてマジンガーではない。「ジミンガー」なのである。昔,どこの町でも学校の帰り道に必ずあった駄菓子屋で売っていたウルトラ怪獣のプロマイドやライダーのメンコのような雰囲気である。これは世に言う“パチモン”キャラといわれる類のものだ。地域によってはバッタモノとも呼ばれている。ようするに,版権をとらずに有名キャラクターに似せて作られたニセモノキャラである。
 これらのパチモノは,近年では近隣特亜三国などで,主に車や電化製品ではよく見られるようになった。有名どころでは,「SONY」ではなく「SQNY」とか。
 我々はこれらのものを見て今は笑っているが,昭和の昔はこのようなものが駄菓子屋にたくさんあったのである。例えば,なぜか角があるゴジラとか,羽が2枚しかないガイガンとか,聞いたことのないウルトラ怪獣風の絵がついたメンコなど,誰でも一度は見た記憶があるであろう。そして子供心に何か騙されたような微妙な気持ちになりながらも,このようなものどもを大事にガラクタとして机の中にしまっていたりしたのだ。
 現在では,あえてこのようなパチモン怪獣をコレクションしている愛好家サークルもたくさん存在する。

 そして,「ジミンガーZ」である。ベースになっているのはもちろんマジンガーZだ。しかしその顔が微妙に変だ。実はこれ,何でもかんでも世の中の悪い事や,自分の身に起こった良くないことを自民党のせいにするミンス党支持者たちの負の想念が異形として実体化したもののようだ。
 “就職できないのは自民が悪い”
 “給料が安いのは自民が悪い”
 “結婚できないのは自民が悪い”
 “自分がモテないのは自民が悪い”
とこのように,何かにつけ年がら年中“だって自民が~”,“だって自民が~”と言っている人たちは私の周囲でもたまに見かける。そのうちに,“うちの猫が布団の上にウンチをしちゃったのも自民が悪い”と言っても私はまったく驚かない。この人たちの会話を聞いていると,そこには当事者性がまったく感じられないのである。つまり,「給料が安いこと」や「結婚できないこと」には社会的要因もあるのであろうが,自分にも何か問題があるであろうという発想には絶対にならない。
 実はこれはとても恐ろしいことである。なぜなら,物事において当事者性を失うということは,自分の人生を100%他者に移譲してしまうことだからである。そして目下のところ,ジミンガーたちの人生移譲先の「他者」とは,ミンス党なのであろう。これは自分の全財産を全てファンドマネージャーに渡して資産運用してもらうようなものだ。半分ぐらいは自分の手元に置いておけと思う。そこにはリスクヘッジという発想もないのだ。ミンス党がコケたら人生お終いである。
 私はこのような母集団を,「無党派層」に対抗して「浮遊層」と既定することとする。「無党派層」というのは,自分自身のポリシーは持ちつつ,その結果あえて「支持政党無し」という態度を明確に提示している人々である。それに対して「浮遊層」は,当事者性と身体性が極端に欠如した状態の人々である。「気体」「気圧」の変化によって,あっちに行ったりこっちに行ったりする浮遊体だ。この「気体」「気圧」というのが,まさにマスメディアによって作り出される世の中の「空気」ということになる。
 これも一種の社会病理が生んだ現象であろう。いわゆる「自己責任」論から大きく振り子が振れた状態だ。

 もし仮に,ヤプールみたいな輩が日本のどこかにしのび込んでいたならば,その負のエネルギーから超獣ジミンガーが誕生するだろう。ミンス党支持者の家の箪笥や押し入れの中に,ジミンガー妖怪が棲んでいるかもしれない。
 なんなら私も「ジミンガーZ」にならって一度だけ言ってみたいことがある。

 “阪神が優勝できなかったのは自民が悪い!”

 これで私も立派なジミンガーの仲間入りだ。パイルダー オ~~~ン!

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08. Januar 10

【特撮】 シー・シェパードの超高速抗議船アディ・ギル号が沈没

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 環境保護団体を名乗るシー・シェパード所有の自称“超高速抗議船”アディ・ギル号が,わが国の調査捕鯨船「第二昭南丸」に衝突したのち沈没した。この船は100万ドルもするそうで,なんとも金のかかるオモチャを海賊たちに渡したものだ。“海の警察”または“海の番犬”を自ら名乗ってしまう彼らの純化したヒロイズムの矛先は,目下のところわが国の捕鯨に向けられている。
 この船の艤装を見るかぎり,何か特殊装備でもしているのかと思ったら,ただ単に見た目だけのハリボテだった模様。
 シー・シェパードの面々は,さぞかし007の秘密兵器に乗り込むように“ぼくたちのかんがえた,さいきょうのせんかん”というノリで,得意満面になっていたようだ。しかし,当の我々日本人から見たら,このヘタレぶりは残念ながら,どこか出来損ないの“今週のビックリドッキリメカ”にしか見えない。呆気なく壊れてしまうのも『ヤッターマン』のマヌケキャラにそっくりではないか。こんな事ではドクロベエ様におしおきをされてしまうぞ。

 捕鯨をめぐっては,これまでにもわが国は欧米から理不尽な圧力を受けている。環境保護団体や動物愛護団体の言い分は,どれもこれも情緒的なものだ。彼らは道徳的優位に立つことにより,わが国古来の食文化を語ることすら許さないのである。彼らは,クジラは知的生物で人間に近い動物だから虐殺は許さないという。しかし我々日本人は,単にクジラを食用にするだけではなく,かつて化石燃料が台頭する以前はその油を資源として利用していたという歴史的経緯もある。そんな我々が,なぜUSSエンタープライズ号の言うような資源大国のグローバリズムに批准しなければならないのか理解に苦しむ。
 我々日本人が鯨漁をやるのは,例えば,わざわざ食べる必要もなく殺す必要もないのにレジャーとして野生動物をハンティングして楽しむ欧米貴族文化とは明らかに異なるのである。わが国の捕鯨文化は,資源もなく国土も限られた中で連綿と続いてきたものだ。
 幕末に長崎に居留していたイギリス商人トーマス・グラバーの「グラバー商会」から暖簾分けした「ホーム・リンガー商会」のオーナー,フレデリック・リンガーは,わざわざノルウェーから捕鯨の道具と一緒に技師も招聘し,わが国に近代的な捕鯨の技術を伝えたという記録も残っている。捕鯨をただ単に動物愛護という一面的な観点から語ることはできない。

 意外にも,欧米人ながらこのことを非常によく理解している人物を私は知っている。マシュー・バーニーという現代美術作家だ。彼は現・森美術館の南條史生によりキュレーションされた『人間の条件』展(1994年・青山スパイラル)の出品作家である。昨年は映画美学校でマシュー・バーニーのこれまでの活動を記録した映画『マシュー・バーニー:拘束ナシ』が上映された。
 この映画の中でメインとなっているのが,マシュー・バーニーによる工業用樹脂を素材にした巨大なインスタレーションである。彼は,調査捕鯨船「日新丸」にカメラとスタッフを携えて乗り込み,そこで「日新丸」の乗組員らとともに寝食をともにしながら,船の甲板や船室でわが国の捕鯨文化にインスパイアされたインスタレーションやパフォーミングアーツを展開する。
 船の甲板上で金属の型で拘束された巨大な樹脂の固まりは,その金属の型を外すと同時に自重でその安定した構造を失って甲板全体に流れ出てくる。この樹脂はまさしく鯨の脂のメタファであり,マシュー・バーニーは捕鯨船で横たわるクジラの身体を,生き物としてではなく巨大な資源として描いたのである。
 このインスタレーションを完成させたマシュー・バーニーは,今度はクジラの皮やヒゲで作った装身具を身にまとい,捕鯨文化の中で伝承されてきた民俗芸能演示の中に自ら加わるのである。
 この記録映画の中では,ナレーションとして“かつて資源が少なかった日本は,化石燃料が台頭する以前は捕鯨も重要な資源確保の手段であった”という文言が語られる。マシュー・バーニー自体が,まず日本の捕鯨という伝統文化に興味を持ち,それを欧米の環境団体のように感傷的に捉えるのではなく,異国の文化としてありのままを受け入れる姿が非常によく表現されているのである。だからといって彼がわが国側に立ち,捕鯨を擁護しているのかといえば,そうではない。
 このような態度こそ異文化,多文化理解であって,反対に,シー・シェパードのようなテロ行為は,ますます双方の立場,意見を対立させるだけである。

 しばしば欧米の動物愛護団体の主張にでてくる文言で傲慢さを感じるのは,“知的で愛らしい生物だから殺して食べてはいけない”という主張である。一見まともに聞こえるが,さて,この“知的で愛らしい”という基準はどこからきて,誰が決めているのであろうか。
 フリーアナウンサーの古舘伊知郎のトークライブ『トーキングブルースVol.12~お経~』(1999年12月31日,浄土宗禅林寺・京都)の中で,こんなくだりがあったのを思い出した。ある水族館で大型魚のエサとして金魚をあげていたところ来場者から「金魚がかわいそう」という苦情がたくさん来たので,次の日から金魚の代わりにドジョウをエサにしたら誰も文句を言わなくなった,というくだりである。
 そこで古舘はこう言う。
「おいおい,ドジョウの立場はどうなるんだ! ドジョウだってかわいそうじゃないか!」
 これは古舘の話のネタなのか,実際にあった話なのかは定かではないが,ありがちな話ではある。
 古舘はここで仏教思想の理念に基づき,全ての生き物の「命」には優劣はなく,互いが生きていくために仕方なく「命」のやりとりをしているのだ,ということを説いている。これは確かにキリスト教社会の中で生きている欧米人には理解し難いのであろう。
 私が知る限りでは,食事をする前に「頂きます」という言葉があるのは日本語だけだ。この「頂きます」というのは,皿の上に盛られたものどもの「命」を「頂きます」ということである。これは,我々人間も含めた全ての生き物が「命」のやりとりのサークルの中にいるのであって,キリスト教の「神」のような絶対的な存在の裁量でそれが取り決めされているわけではないということである。

 今回の捕鯨をめぐる一連の騒動は,シー・シェパードの船が大破して,そこに積載されていた抗議用武器の化学薬品が海に垂れ流されただけである。
 南極の海を粗大ゴミと有害な化学薬品で汚したシー・シェパードは,おしおきだべー。

■文中関連コラム■
【試写会】『マシュー・バーニー:拘束ナシ』(映画美学校第2試写室)
【アーカイヴ】 古舘伊知郎 『トーキングブルースVol.12~お経~』(1999年12月31日,浄土宗禅林寺・京都)

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05. Januar 10

【映画】 キムタク主演の実写版・宇宙戦艦ヤマト 「Space Battleship YAMATO」(予告編)

 年が明けてから一斉に,今年12月に公開予定の宇宙戦艦ヤマト実写版のCMが流れるようになった。私が確認したのは,大晦日にテレビ東京で放送されたジルベスター・コンサートの年が明けてからの一発目のCMである。そこでヤマト実写版の30秒の短い映像を確認した。このテレビ東京の番組自体が今回は「宇宙」をテーマにしたもので,カウントダウンの曲にはホルストの組曲『惑星』の「ジュピター」が演奏された。「惑星」で年が明けてからは宇宙飛行士の野口さんの宇宙からのライブ中継もあり,うまい番組にCMを入れきたものだ。(因みに,野口さんからはJ.シュトラウスのドナウがリクエストされた。これはウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番の曲でもあり,キューブリックの『2001年』でも使われた曲でもある。)

 今回初めて公開されたヤマト実写版CMの映像には,いろいろな要素,メッセージが込められている。映画好きの人ならば,そこからいろいろなイメージが広がるだろう。ファーストカットはセピア調に赤茶けた大地に,主演の木村拓哉と思われる人物が核防護服のような宇宙服を着用して立っているシーンが遠景で登場する。そしてカメラがズームして古代進(木村)のアップ。
 遠景のシーンでもしこのままさらにカメラをズームアウトするか,もしくは左右に振れば,そこにはガミラスの遊星爆弾による核汚染で干上がった海底に埋まっている帝國海軍の戦艦大和の姿があるはずだ。一瞬映る古代(木村)の呆然とした表情は,海底に埋まる戦艦大和を発見したからではないかと想像できる。
 CMの映像は,この後すぐに,ヤマト艦内を早足で歩く古代(木村)のカット,続いて第一艦橋の様子が映り,古代(木村)の背後には沖田艦長(山崎務)の姿がある。そして戦闘シーンでは女性パイロットの黒田メイサの姿が一瞬だけ映る。この一連のシークエンスを見る限り,その暗く硬質な質感は,『バトルスター・ギャラクティカ』や,『スタートレック』シリーズにおける一連のボーグ戦のような雰囲気である。ヤマト第一作をベースにストーリーを組み立てるのであれば,我々地球人類の敵となるのはガミラス人というヒューマノイド型異星人だが,ここでガミラス人の代わりにサイロンやボーグなどの機械生命体が登場してもまったく違和感がない。ただし一点において,ギャラクティカやUSSエンタープライズ号とヤマトが異なることは,前者はまったくの空想上の宇宙船であるが,ヤマトはその前身として戦艦大和という骨格を持っていることである。ヤマトの物語は遠い未来を設定として描かれているが,物語の根幹は西暦1941年,即ち,帝國海軍に戦艦大和が誕生した時に存在しているのである。この点が極めて特異なのである。
 また,ファーストカットの干上がった大地のシーンは,色調といい,古代(木村)が着用している防護服といい,リンチが映像化した『デューン砂の惑星』の雰囲気もある。浦達也の言うところの“レトロフューチャー”な雰囲気だが,これは山崎貴の作るCGが得意とするところだ。古代(木村)が佇む赤茶けた大地も,もちろん九州南端のはずであるが,このシーンで日本の地名が唐突に登場してもさほど違和感はない。つまり良い意味でワールドワイドな世界観が作られており,後は脚本次第で長らく日本映画が苦手としてきた「宇宙」を舞台にしたSF映画の完成された姿を初めて見ることができるかもしれない。

 なんだかんだと,わずか30秒の映像について長々と書いたが,ようするに,キムタク主演の実写版ヤマトもなかなか良くなりそうじゃないか,ということが言いたかったのである。
 ヤマトには昭和時代からのうるさ方のファンがたくさんおり,その中にはアニメ第一作原理主義のものたちも多く存在する。彼らは現在劇場公開中のアニメ版新作『宇宙戦艦ヤマト復活篇』すら認めたがらないのは当然だ。またそれに加えて,我々日本人にとってはヤマトの前身である戦艦大和にもいろいろな思いがあって,それぞれの日本人の心の中に大和は眠っているわけである。“これぞヤマトだ”というものがそれぞれにあるのであるから,誰が監督をやっても,誰が脚本を書いても,誰が古代進を演じても,“それは違う!”という声は必ずどこからか出てくるのは当たり前である。
 この状況を克服するためには,二つの方法しかない。まず一つ目は,ヤマトが時を経て,バッハやシェイクスピアのような「古典」になることである。そうすれば,蜷川マクベスのような事をやっても怒る人はいない。新しいヤマトの芸術表現として認知されるわけである。そして,二つ目として,旧来のヤマトスタッフではなく,ヤマトを見て育った若いクリエイターに制作を任せることである。かつて子供時代,『仮面ライダー』初期シリーズを見て育った雨宮慶太が,後に優れた造形作家,特撮監督になっていったように,ヤマトにもこのような新たな才能の注入が必要なのである。
 このような意味では,ヤマト実写版の監督に山崎貴が名を連ねていることは,ヤマトにとっては良い選択であったといえる。何故ならば,山崎貴がその先鞭をつけてくれたことによって,今後いろいろなクリエイターたちがヤマトを制作する可能性が広がったからである。私は個人的に,庵野秀明版ヤマトも見てみたいし,なんならばリドリー・スコットやジェームス・キャメロンらの外国人監督でも良い。ヤマトの前身が戦艦大和であるという身体性さえ崩さなければ,あとはいかに表現するかは監督自身の“センス・オブ・ワンダー”次第である。

■井上リサの書き下ろしヤマト・コラム■
【映画】 西崎義展監督 『宇宙戦艦ヤマト復活篇』~昭和歌謡からハードロックへのワープアウト
【CS放送】 石破茂大臣,宇宙戦艦ヤマトを熱く語る(CS放送ファミリー劇場 『アニメ問わず語り』)
【映画】 『宇宙戦艦ヤマト』 復活篇,今度の敵は国連軍だ
【映画】 『宇宙戦艦ヤマト』 の新作「復活篇」が今年12月に公開~波動砲6連射をめぐる是非~

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03. Januar 10

【訃報】 公害Gメン・蒲生譲二氏,肺がんのため逝去(65歳),ネヴィラの星に還る。

 新年早々に,とても残念なお知らせが入ってきた。1970年代に,特撮ヒーロー番組『スペクトルマン』の主役・蒲生譲二役をつとめた俳優の成川哲夫さんが1月1日に肺がんのために逝去された。まだ65歳と若かった。成川さんは近年俳優業を休業されてからは,空手の指導者として活動をされていたので,成川さんのもとへ空手を習いに行く人以外には,最近の活動の様子などが伝わってくることはあまりなかっただけに寂しい気持ちでいっぱいである。
 いみじくも,表題で“公害Gメン・蒲生譲二氏”と思わず書いてしまったのは,例えば我々の記憶の中では寅さんと渥美清の人格が一体なのと同じく,蒲生譲二と成川哲夫も一体なのである。
 成川さんが『スペクトルマン』の中で演じた蒲生譲二の役どころは,ネヴィラ星から地球に派遣されたサイボーグで,人間の姿でいる時には,東京都の公害Gメン(後に怪獣Gメンに改編)のメンバーとして都民のために公害処理の仕事を行っている。そしてそれに対する侵略者・ゴリ博士が地球に送り込んだ怪獣たちと戦う時には,スペクトルマンに変身するのである。
 人間体の時の蒲生譲二は,公害Gメンの仲間たちの中に溶け込んでいるようにも見えるが,どこか悲哀に満ちている。怪獣番組だとバカにするなかれ。この作品は,人間ドラマや当時の社会問題も深く掘り下げて描いているので,ますます蒲生譲二という魅力的な人物像が浮かび上がってくるのである。一見間が抜けた陽気な性格は,周囲を明るくするばかりではなく,誰とでもすぐに仲間になれるという社交性も持っている。その上に礼儀が正しく紳士的なのだ。
 蒲生譲二のドラマの中で設定されたこのような性格を見ていると,きっと成川さんもそんな人物だったのだろうなあと想像してしまうのである。特に,礼儀が正しくて紳士的というのは,実際には武道家としての顔もあった成川さんのイメージそのものなのである。

 一昨年,CS放送の日本映画専門チャンネルで『スペクトルマン』全話放送がされた。これは,その他のピープロ作品とタイアップで企画されたもので,この放送は大反響であった。なにしろこの作品は,今日日の小奇麗なイケメン特撮番組に見慣れている人たちにとってはかなり衝撃的である。ストーリーや登場する怪獣はもとより,まずはエンディングに流れる『ネヴィラの星』の歌詞に驚かされる。みすず児童合唱団の可愛い子供たちの歌声で,「憎い怪獣,ぶっ殺せ!」である。いたいけな少年少女たちが「ぶっ殺せ!」なのである。この一点だけをみても,当時のテレビ映画業界が,今よりもおおらかであったことがうかがえる。
 実は私も,名古屋芸術大学の芸術療法講座の集中講義の中で,2007年,2008年,2009年と続けて,『スペクトルマン』を上映している。2007年度に上映したのは第48話「ボビーよ怪獣になるな!」と第49話「悲しき天才怪獣ノーマン」である。この作品は,ダニエル・キースの「アルジャーノンに花束を」をオマージュして制作された作品と言われている名作である。この時の蒲生譲二は,一度心を通わせた怪獣を,どうしても倒さねばならないことに苦悩するのである。翌年の2008年には第23話「交通事故怪獣クルマニクラス」,そして2009年には第2話「公害怪獣ヘドロンを倒せ!」を上映した。いずれも私の講義における,「病」を社会学的メタファ,および身体表現として捉えるというテーマの中で『スペクトルマン』を取り上げたのである。(けして怪獣映画を上映して学生と一緒に遊んでいるわけではない)
 この時,『スペクトルマン』を視聴した学生のレポートは,どれもこれも非常に面白い。

 本日は成川哲夫さんのご冥福をお祈りし,これからおとそ気分でいる近隣の友人たちを急きょ我が家に集めて『スペクトルマン』全話上映イベントをレイトショーで行うことになった。このDVDコンポジットボックスには,『スペクトルマン』全話に加えて,『怪傑ライオン丸』のスピンオフ企画で蒲生城太郎というサムライ役で成川さんが出演している第3話「魔の森わくらんば」,第5話「地獄から来た死神オボ」の一部も収録されている。

 成川哲夫さん,ネヴィラの星で安らかにお眠りください。

■井上リサの『スペクトルマン』コラム■
【名古屋芸術大学・芸術療法講座】学生のレポートを読む~スペクトルマンについて
【名古屋芸術大学・芸術療法講座】第14回「スペクトルマン48話・49話」上映

Dvd_2
『スペクトルマン』コンポジットDVDボックス

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