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Oktober 2009

28. Oktober 09

【アート】 『親子でつくる教育ぬりえ』(はあもにい教育研究会編)

01

 先日,ある自治体首長の講演会に出席した際に,帰りがけにこのようなものを頂いた。
 『親子でつくる教育ぬりえ』という子供のための「ぬり絵」の冊子である。
 「ぬり絵」といえば,私が子供の頃の記憶を振り返ってみると,動物,乗り物,草花などを題材とした幼児教育の場で使うものと,親が買い与えてくれたテレビの特撮ヒーローや,女子ならば着せ替え人形のような少女漫画のヒロインを題材としたものが思い起こされる。
 先日は,近所のスーパーの階段踊り場の壁に,子供たちが塗ったディズニー・キャラクターのぬり絵がたくさん掲示されていた。
 おおよそ「ぬり絵」といえば,本来このようなものがイメージされるであろう。

 『親子でつくる教育ぬりえ』と題した「ぬり絵」のページをめくると,他の「ぬり絵」とは明らかに異なっている雰囲気がある。そこに表された「ぬり絵」には,親子3世代の一家団欒で食卓を囲む風景や,自分の生まれてきた系図を辿る図,そして日本人が昔から毎日口にしてきた食物などが描かれている。
 この「ぬり絵」は「教育ぬり絵」と名乗っているとおり,子供たちを楽しく「ぬり絵」で遊ばせながら,「食育」や「道徳」について学ばせる,というものである。私にも経験があるが,このようなものは,学校の教師から指導要領に沿ってただ聞かされる何ら工夫のない話では,子供たちにとっても退屈で仕方がない。そこにもってきて,親子で「ぬり絵」をしながらいろいろな事を学ばせるとは,なかなか良いアイディアだ。

 各家庭には,それぞれに家庭の雰囲気や情景があり,これは子供時代からの人間形成,人格形成にも身体的に関わっているものである。そしてこれは成人した後も,子供時代の記憶の中の身体的知覚として残るのである。
 つまり,自分が「ぬり絵」で遊んでいる時に,キッチンから漂ってきた夕飯の香りや,食事の支度の時に聞こえてくるキッチンの音,といったものは,自分が親や,またはそれに準ずる者から大切に育てられたという記憶を五感をもって身体的に記憶することになるのである。このような養育の記憶を育むことは,ただ単に頭ごなしに「親を大切にしろ」,「目上の人間を敬え」,「歴史や文化を大切にしろ」などと言われるよりも,よほど説得力がある。

 ここに表されたものは,まさに良き昭和――即ち『サザエさん』的な日本の原風景なのであろう。そして今もって『サザエさん』が国民的人気なのは,時代は変わりつつも,このような一家団欒の風景が日本人の記憶の中に残っているからだ。
 そしてページをめくると,ひときわ目につくユニークな「ぬり絵」のページがある。それは男の子の体を使った人体解剖図である。人体解剖図といってもレオナルド・ダ・ヴィンチのような本格的なものではなく,かなりイラストとして簡略されたものである。しかしそれでも内臓器官の名前,正確な位置関係などを学ぶことができる。
 しかも面白いのは,子供が自分の身体の解剖図を塗りながら身体の器官について学ぶことである。一つずつ内臓を塗り,やがて全体の解剖図が完成していく仕組みである。
 実は医学の解剖実習でもそうなのだが,解剖図や文献をただ漠然と眺めているよりも,実際に自分で解剖に立ち会った箇所については,それがまるで自分自身の身体であるかのように鮮明に記憶に残り,二度と忘れないものなのである。『教育ぬりえ』もまさに同様であり,様々な異なるフォルムの内臓を「塗る」という行為から,自分の身体構造を,まさに身体的に認識していくことに繋がるのである。

02

 かつてギリシャの医神は,人間の身体各部位を夜空の天体に相対化させて認識したが,それは,例えルネサンス以降の科学的解剖学によって刷新された旧来のものであったとしても,本来は表からは見ることができない身体内部構造を天体に相対化させることで,常に具体性とリアリティをもって身体というものを捉えることができたのである。
 また,別のページでは,「解毒」と称して「排便」「排尿」「泣く」「笑う」「汗をかく」といった人間の身体的行為を子供に分かりやすく説明している。そしてもちろんこれも「ぬり絵」となっているわけだ。
 実はこの,排泄という生理現象や,「泣く」「笑う」といった感情表現を「解毒」と捉えてきたのは,古代ギリシャ医学であり,これを「カタルシス」といったのである。これはどういう事かというと,「排泄」「発熱」といった生理現象はもとより,「笑う」「泣く」といった豊かな感情表現は,体内に滞留した毒素を体外に排出させるために必要な行為であると古代ギリシャの医学者たちは考えていたのである。
 この『親子でつくる教育ぬりえ』を見て,少なからずの古代ギリシャ医学との共通点をも発見した思いである。

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19. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#13「満月の夜に(最終話)」(FOXチャンネル) 

 毎週火曜日にFOXチャンネルで放送していた画期的な精神医療ドラマ『メンタル:癒しのカルテ』が最終話を迎えた。ここでよくあるアメリカドラマならば,物語の伏線が全て繋がり,登場人物たちがそれぞれ新しい人生へと旅立つという明るいパターンで締めくくられるのであるが,このドラマはこのような安易な終わり方をしなかったことで,視聴者を裏切らなかったといってもいいであろう。その代わりと言っては何だが,見るものには大きな失望感を残したまま,主人公のDr.ギャラガーは我々のもとから姿を消してしまったという感じである。

 そもそも,鳴り物入りで赴任してきたギャラガーは,ウォートン記念病院というオーソドックスで規律正しい病院を,例えばラカン派のフェリックス・ガタリやジャン・ウーリが始めたフランスのラボルド病院のような,異文化理解,多文化共生的な地域精神医療的空間に変革していこうとしていたわけである。そしてそれにともなう病院側の抵抗勢力と闘いながら,患者の自立と自由,すなわちアンデパンダンを勝ち取ったわけである。
 まず精神病棟の入院患者にも自由時間が与えられるようになり,ギャラガーの同僚も彼に理解を示し,患者のバックボーンにある文化的背景,民族的背景にまで気を配るようになっていった。これは大きな進歩ではあるが,ギャラガーがその場にいてこそ動機付けされるものであり,彼がその場からいなくなってしまえば,おそらくこの体制も空中分解してしまうであろう。なぜなら,ギャラガーの同僚たちは,ギャラガー自身を理解しているのであって,彼が実践しようとした精神医療における新しい試み自体を,どれほど深く認識していたかは不明だからである。
 実際に,ギャラガーも,患者とのコミュニケーションには多くの時間を割くが,同僚との関わりには一定の距離を置くという個人主義を徹底しているように見えたのである。チーム医療でありながら個人主義を貫くギャラガーの姿に,少々の違和感を覚えることもあった。今回,ギャラガーが最後に視ることになった狼化妄想障害の患者とのやりとりも,彼の独断で遂行されたものであり,周囲の同僚はそれを取り巻くように見守ることしかできないのである。

 そして今回の最終話で,彼自身も実は心の「病」を抱えていたことが暴露され,納得せざるを得なかったのである。
 ギャラガー自身が抱えていた「病」とは,統合失調症である。そしてもちろん彼にはその「病識」がある。彼が時折患者の人格をそのままトレースしたように,患者の内面に入っていく様子は,ギャラガーの別人格がなせる技だったということか。また,彼がスピリチュアルな代替医療にも積極的にコンタクトしていたのは,医師としての限界を感じているのとともに,自分自身も「病」で苦しんでいたとも理解できる。
 ギャラガーが,別人格のもう一人の自分をカウンセラーに見立てて対話するシーンがたびたび登場するが,この対話の相手は自分の全てを知っているような全能な存在であり,スタートレック『ネクストジェネレーション』シリーズに登場する全能な知的生命体Qとピカード艦長との間で繰り広げられる哲学的な対話と類似している。スタートレックでは,いまだにQの存在が明らかにされてはいないが,Qの存在とは,自分の中に内在する「自分が考え得る理想的で全能な人格」が,別人格として自分から分離した状態に表れるモノであると私は認識している。つまりこれこそが統合失調症である。
 ギャラガーは,自分から分離された人格と対話することによって,医師を辞めて,ウォートン記念病院を去ることを決意する。彼は,病院改革の途上でそこを去り,家族との軋轢,妹の病やケアについても何ら解決できずに去るわけである。彼が多くの難しい症例の患者に試みた数々の画期的治療法,診断法は,その患者に対してだけ有効なオーダーメード医療であり,これをスタンダードなルーティーンとして転用することは出来ない。したがって,ギャラガーが去ったこの空間では,それを実践することはできないのである。
 常に患者の立場に立って行動していたギャラガーは,見ようによっては多くの患者を途中で投げ出したことになるが,このスタンスにも,ある実在した人物の行動と重なるところが多々ある。ギャラガーのこの選択は,肝臓癌で亡くなった作家で元医師であった永井明を彷彿とさせるのである。
 永井明は『ボクが医者をやめた理由』という医療エッセイで文壇デビューした作家であった。彼の研修医時代の自伝的エッセイを読むと,永井明もギャラガーと同様に非常に患者思いであり,時には自分を犠牲にしてでも患者のことを真剣に考えているのがわかる。しかし,研修医時代を終えて実際に医療現場に関わっていくうちに,このがんじがらめの制度の中で疲弊していき,ついには医師を辞めてしまうわけである。そして医師を辞めた永井明は,作家,医療ジャーナリストという立場で文筆活動を続ける中で,医療制度の諸問題を提起するとともに,病人とも医師としてではなく人間として付き合っていこうとしたわけである。その永井明も最後は重い病に倒れるのだが,しばしば著名人にみられるような,所謂「闘病記」などでそれを表すこともなく,誰も知らないうちにひっそりと亡くなっていくのである。
 永井明が亡くなる前に最後に残したエッセイが,何かから自分が逃亡するような内容であった。自分は全てのものから逃げるぞ,というようなことが綴られている。彼も元臨床医として,自分の癌がかなり進行していたことを冷静に認識していた。そして闘病を表明することなく文筆活動を続けながら,「病」から静かに撤退をしていったのだと私は理解している。
 ギャラガーがわずかな荷物だけをまとめて一人でたたずむ姿は,他の仲間のように,新天地に挑むという印象は受けない。むしろ,全ての空間,状況,人間関係からいったん撤退を決めた,ひとりの元・精神科医の姿がそこにあった。形式的な医療批判を繰り広げる社会派医療ドラマよりも,深い示唆に富んだラストである。


『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#12(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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18. Oktober 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2009年度後期集中講座演習01

ワークショップ(動画)
疒(やまいだれ)に任意の記号・文字を加えて新しい文字を作成する




 芸術療法の講義では,西洋医学史,美術史を学びながら,それに関連した様々なワークショップを実施している。
 このワークショップは集中講義の初日に必ず毎年実施しているもので,文字をとおして「病」を身体的に認識する試みの一つである。古代ギリシャ医学について概説したこの日の講義では,古代ギリシャの医学者,哲学者の人間の身体についてのとらえ方,「病」というものについての特徴的な考え方などにふれ,「病」が示す様々な身体の症状もまた,身体自身が表したひとつの「表現」といえることについて解説した。
 このワークショップはそれを踏まえて,身体症状や身体感覚,心身の状態を示す新しい記号を創作するものである。学生らには,あらかじめフォーマットされた疒(やまいだれ)の中に任意の記号や文字を加えて,新しい文字を作ってもらった。

 これを見る限り,毎年様々な面白い作品が出てくるが,「心」に主軸をおいた感覚的な記号が多いのが特徴的である。また,それぞれに解釈は異なるが,同一の作品が複数出ているのも興味深い。

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12. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#12「不要な身体」(FOXチャンネル)

 以前のエピソードで,いわゆる「精神外科」,すなわち,精神疾患を外科的処置により根治を目指すという立場の医師がクローズアップされた。この場合,例えば帯状回切除など,主に脳の葉切除が適用されることから,しばしば人道上の問題が浮上してくる。
 今回本エピソードで登場する病は,「身体統合同一性障害」である。これは,類似した疾患である「性同一性障害」と同様に,精神と身体の統合に障害が生じる病である。「性同一性障害」については社会的な認知も進み,わが国でも,治療の一環である性転換術や,戸籍の変更などにも理解が広まりつつある。
 特定の「性」を持って生まれた自分の身体に違和感を覚え,それを拒絶してしまうのが「性同一性障害」であるとするならば,「身体統合同一性障害」はさらに複雑である。この場合は,自分の固有の「性」ではなく,身体そのものに違和感を覚え,それを拒絶する行動の表れとして,自分の四肢を意図的に傷つけたり,時には切断する場合もある。この場合特にパラフィリア(この場合「四肢切断愛」)とも呼ばれ,先天的な身体障害に対するフェティシズムが引き起こす,一種の偏執気質と捉えられる場合もあり,医師は非常に困難な選択を迫られることが多い。パラフィリアを単に偏執的趣向と捉えるのか,病的事例として捉えるかは判断が難しいところである。しかし実際に,このパラフィリアが病的に移行した場合は,空想の範囲内であった「四肢切断愛」が,それを実際に遂行することで,甚大な外科的侵襲をもたらす結果となる。
 ギャラガーのもとに運ばれてきた工場労働者の青年は,まさに身体統合同一性障害の患者である。彼は作業中に指を誤って切断したという名目でギャラガーのいるウォートン記念病院の救急外来に運ばれてくる。本来ならば事故による怪我であるから外科医が対応するところであるが,この青年の言動に不自然な点が多々あり,精神科部長のギャラガーが対応することとなった。
 まずこの青年の言動で一番不自然な点は,手術を頑なに拒否している点である。彼は,麻酔が怖いという一貫した理由で手術を拒否しているので,ギャラガーは,麻酔措置は安全に行うことを何度もカウンセリングで説明する。しかし一向に納得しない青年に対して,ギャラガーはある精神疾患を疑ったのである。それが身体統合同一性障害である。そして,青年が働く工場経営者によって,この青年が意図的に自分の指を切断したという証言がなされたことで,信憑性はますます高まったのである。
 身体統合同一性障害の患者は,一度傷が癒えても,その傷が癒えた身体を受け入れることができなければ,また同様のことを反復的に繰り返すこともある。そのこと考慮して,慎重にカウンセリングを進めるギャラガーと,一刻も早く手術を開始することを望む上司のカール医師とは意見が対立するのである。
 カールが手術を急ぐ理由は,切断された指の切断面がきれいに残っており,このまま組織が壊死する前に切り落とした指を縫合すれば,青年の指が元通りになるからである。もちろん,このまま放置して,青年の指が元通りにならなくても命に別条はない。しかし青年のこれからの労働者としてのハンディなどを考えると,なるべくなら最良の形での身体の回復に努めるのが医師の仕事であり,カールの立場は十分に理解できる。
 一方でギャラガーの立場は,青年の切断された指の復元にはカールや他の同僚ほどはこだわっていない。それは,この青年が切断された指の復元を望んでいないこと,ギャラガーが疑った身体統合同一性障害という精神疾患の特異性を理解しているからだ。
 ギャラガーはここでいつものように,患者の身辺のフィールドワークを独自に始める。そして,青年が密かに画きためていた数点のスケッチを発見する。そこに描かれたものは,手足が欠けた人物の姿であった。それはクリーチャーとして躍動的に描かれている。これは青年が求める理想の身体でもある。
 普段我々は,「五体満足」という言葉で身体の健全性を表現するが,この「五体満足」という感覚に違和感を持ってしまうのが身体統合同一性障害である。通常我々には「正常」「健全」に見える「五体満足」な身体が,彼らには「五体満足」な身体としては映らないのである。この青年も同様で,先天的に身体障害を持つ者に対して,子どもの頃から憧れを持っていたこと,そして電車の窓から手を出して,自分の腕が切断される瞬間を何度も空想していたことなどをギャラガーに告白する。この青年の告白によって,彼が,麻酔に対する恐怖で手術を拒否していたのではなく,手術によって,もとの「五体満足」な身体に復元されてしまうことを恐れたのである。この青年にしてみれば,四肢切断を実行したことで,自分の身体と感覚の間に折り合いをつけようとしているわけである。
 そしてギャラガーは,他の医師の反対を押し切り,結局青年の希望を受け入れて,切断した指の復元術は行わずに退院させたのである。そして青年は,自らの希望で身体障害者となったのである。
 ここで命題として浮上してくるのが,人間の身体における「正常」と「異常」の認識と定義である。常識的に照らし合わせれば,指が欠損した手は「障害」とみなされ,わが国でもその障害の度合いに応じて障害者手帳が発給される。医学的に「障害」,または「異常」とみなされたものは治療の対象となる。これは当り前のことではあるが,この健全あるいは健康至上主義的な考え方は,時として極端な健康志向を生むことにもなる。例えば,自治体が行っている成人検診の検査結果で,「異常」「正常」の誤差の範囲内の数値を見て,必要以上に一喜一憂したり,テレビの健康情報番組を疑いもなく信じ込み,そこで薦められていた健康食品に多くの視聴者が一斉に群がる姿も,「健康」という幻想に取り付かれた一種のファシズム的思考を見ることができる。身体統合同一性障害とは,このような健全主義と対極をなすものであろう。
 患者をあえて治療せずに帰したギャラガーの言葉は印象的である。彼は,「患者の身体を治すのが医者の仕事ではない。患者を苦しみから救うのが医者の仕事である」と言っている。このギャラガーの言葉を鑑みれば,例え青年の切断された指を外科的に復元できたとしても,そのことで青年がまた苦しめば,彼を本当に救ったことにはならないということであろう。
 今回の場合は指を切断しただけで,すぐさま命に関わるような状況ではなかったが,これが生命維持に直結するような場合であったならば,ギャラガーは果たして同じような行動をとったであろうか,興味深いところである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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05. Oktober 09

【書評】 三橋貴明 『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア~』 (扶桑社)

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 作家で若手経済評論家の三橋貴明によるメディア論である。メディア論と言うと,一時期ポストモダニズム領域でもてはやされた現代思想史における身体論,時間論を連想される方もいるかと思うが,この論集の中にはドゥルーズもデリダも登場しない。では何かというと,ビジネスモデルから実数字をもとに分析されたメディア論なのである。
 タイトルにある挑発的な「マスゴミ」という文言は,文字通り,ゴミのような今日のマスメディアのことを言い表している。このような皮肉と嘲笑を込めた言い回しは,近年は三橋自身もそう呼ぶように,“ネット・スラング”として数多く存在している。
 例えば,読売巨人軍のことを「ゴミ売り虚塵軍」,NHKを「犬HK」(または日本反日協会),テレ朝(テレビ朝日)を「テロ朝」(テロリストのような報道局),民主党を「ミンス党」(「民主」を朝鮮語風で読んでいる。実際に日本の民主党は「永住外国人参政権付与」や「東アジア共同体」を党是として掲げるなど,幸か不幸か親韓親北政党というイメージが定着してしまった),といったものをしばしば見かける。誰が最初に言い出したのかは分からぬが,総じて言いえて妙なのである。
 さて今回,三橋貴明が本書で袋叩きにしているのが,今日の翼賛的マスメディアである。単にそれが翼賛的であるとか,巨悪の象徴であるというのならば,こういう評論を書くのは本来は立花隆あたりの仕事であろう。しかし事はそんなに単純ではなく,三橋が言うことろの“マスゴミ”が,経営悪化の一途を辿っているのにもかかわらず,相変わらず現体制を改善する様子が見られないところに,この巨悪の病理が存在しているのである。
 作家の三橋貴明は,経済評論家でもあり,中小企業診断士というライセンスも持っている。中小企業診断士というのは,企業の財務状況を,まるでDr.Houseのような厳しい臨床医の視点で隈なく精査し,改善すべき点を挙げて,ただちにそれを「根治」に向けて指導するという役割を持っている。その中小企業診断士でもある三橋の目から見ても,地上波テレビの軒並みの視聴率の低下,新聞の売り上げ部数の減少,そして広告費売上はネットに猛追されるという状況の中にあって,何らビジネスモデルを変えようとしない旧態依然とした“マスゴミ”の存在が,不思議でしょうがないのであろう。
 例えば,現在ほぼ横並びのニュース番組を見て,異様に思うのは私だけであろうか。テレビ局は電波は自分たちの所有物と勘違いをしているようだが,あれは国民の財産であり,各テレビ局はそれを国民から借り受けているだけである。それを独占している民放が,どれも横並びの同じような論調のニュースを流すという状況がまず異常なのである。
 そのような理由から私は,余程の事――(たとえば阪神タイガース日本シリーズ優勝,金本涙の現役引退,浅田真央金メダル,東海地震で熱海水没,テポドン大阪に着弾,その他大災害,有事など)がない限り,ばかばかしいし,何ら緊急性もないので日本の放送局の番組はほとんど見ることはない。そのかわり有料チャンネルで海外ニュース,海外ドキュメンタリー,海外医療ドラマ,海外マイナー・スポーツ中継三昧の日々である。最近はテロ朝がどこのチャンネルかも忘れてしまった。(でも全然困らないが)
 一方で,私が毎日見ているアメリカの放送局は,例えばCNNやABCはややリベラル色が強いのに対してFOXは堂々と共和党支持を表明しており,視聴者に対してあらかじめそのようなアカウンタビリティを表明することで,健全性,透明性を確保している。日本の放送局のように,一見すると中立・公正を装いながら,あざとい印象操作やカット&ペーストをやってごまかすよりも,よほど健全である。
 ひとつの放送局が堂々と特定の政党の支持表明を行うというのは,日本の放送法では考えられないことであるが,少なくても米メディアでは,必ずそれに対抗するメディアも存在するので視聴者は各自のメディアリテラシーに基づき,取捨選択すれば良いのである。もしスポーツ新聞が報知新聞だけであったならば大変なことになってしまうが,阪神極右プロパガンダ紙「デイリースポーツ」も存在するからいいのである。

■テレビ・新聞なしに現代人は生きていけるか
 三橋貴明が詳細なデータをもとに分析した結果,過去の遺物であるマスコミが恐竜のような最後を迎えるとして,我々は,テレビ・新聞なしで生きて行けるだろうか?
 答えは「Yes!」である。
 現在テレビで放送されている番組は,ニュース,報道バラエティー,お笑い,スポーツ中継,そして深夜の通販番組などであり,こんなものはわざわざテレビでやらなくてもいいようなものばかりだ。では,テレビ局は 「誰のために放送しているのか」という命題に行きつくわけだが,これは視聴者ではなくスポンサーに対して,費用対効果としての裏付けや,広告的価値を維持するために放送しているのである。そこで問題になってくるのが視聴率なわけだが,各局ともいろいろと手は打っているようではあるが,まったく改善される兆しがない。それは視聴者が求めているものと,放送局がスポンサーの意向を受けて制作している番組とに大きな隔たりがあるからだ。その隔たりについては本書の著者である三橋貴明をはじめ,いろいろなものが指摘しているのにもかかわらず,テレビは相変わらず死んだふりをしているようである。
 例えば過去に放送された麻生首相と鳩山代表の討論会の模様をノーカット生放送したのはネットであり,テレビ局はそれを短く編集して流しただけである。ここでもし1局でも“抜けがけ”してノーカット中継をしたならば,視聴者はその局だけに釘づけになったであろう。また毎日報道されるニュースにしても視聴者が求めているのは,今日起こった事実だけを伝えるストレートニュースである。そこにキャスターや評論家や御用学者たちが出てきて,いちいち自分の個人的なイデオロギーを語られてもこちらは迷惑だ。ワイドショーや報道バラエティ番組しかりである。我々国民は,このような方々の個人的なイデオロギー発露の装置として貴重な電波を貸してやっているのではない。
 こうした視聴者のテレビメディアに対する不満を解消する形で賑わっているのがニコニコ動画やスティカムなどのネットライブ中継である。これは,一般ユーザーが自分の部屋やペットの様子を中継した極めてプライベートなものから,選挙の街頭演説会,デモ行進,集会といった政治的な内容のものまで実に多岐にわたる。これらの膨大なコンテンツは既存のテレビ番組の内容を完全に代用するようなものであり,こちらのネット映像の方が新聞・テレビを差し置いて,一次ソースになる事もある。
 この点は三橋もすでに指摘しているが,三橋が言うところのいわゆる旧態依然とした“レガシーメディア”たるテレビ・新聞は,ネットという競合相手を甘く見ていたということなのである。ネット上で一次ソースが流れた場合,それをもとにテレビ・新聞の情報の正確さ,公正さがネット・ユーザーたちによって厳しく精査されることになる。今までは世の中を批評・論説している立場であったマスメディアが,今度は自分たちも批評の俎上に乗せられることになるのである。これは未だかつて経験しなかった事態であり,だから慌てているのである。
 私のように,普段から学問・芸術のフィールドにいる人間にとっては,こんなことは当り前のことなのだが,マスコミの人間にとっては思いもがけなかった出来事である。時折散見する,まるで議論にもならないようなマスコミ側の人間の失敬な態度は,自分が作ったものに対してディベートから逃げているというクリエイターとしてはあるまじき行為なのである。碌な番組も作らず,碌な記事も書かず,それによってネットユーザーから批判された時に発現するヒステリックな症状は,まさに前時代的である。

■“恐竜”は滅び,環境の変化に対応した身体を持つ“昆虫”は生き残る
 しかしここでただ1点だけ,そんなレガシーメディアでも有用であると思うものがある。それは独立採算型の地域新聞である。
 私は大手新聞社が発行する新聞は購読していないが,伊豆の地域新聞である『熱海新聞』は年間購読している。販売所は伊豆にあるので他の新聞のように新聞配達で届けてもらうわけにはいかない。まさか「クレヨンしんちゃん」の映画みたいに,自転車で熱海峠を越えることなどできないであろう。そこで,販売店と相談して,毎月の購読料1430円の他に1か月分の送料1000円を上乗せして払うという約束で,毎日伊豆の販売店から東京の自宅まで郵便で送ってもらっているのである。
 少々へそ曲がりと思われるかも知れないが,私が『熱海新聞』を購読しているのには理由がある。実は数年前から私は,熱海で「農業」「先端医療」「アート」の3本柱による地域活性化事業,町づくり活動を行っており,東京にいながら熱海の政治経済を含めた隅々の事について知るためには『熱海新聞』を毎日読むのが一番いいのである。この紙面には中央の大メディアがけしてフォーカスしないような町の手触り,息づかいを感じる事が出来る。
 例えば昨年,麻生内閣の「定額給付金」がマスコミから一斉に“バラ撒き”だと叩かれていたとき,2月20日付の『熱海新聞』では,伊豆半島6市6町首長会議が2月19日,「定額給付金の早期支給に関する要望書」を鳩山邦夫総務大臣に提出した,との記事を伝えている。またその「要望書」の中には,“消費喚起を促し,地域活性化が図られる定額給付金の財源を確保する関連法案の速やかな成立を”,“定額給付金のめどが立たない状況にあることは誠に遺憾”といった趣旨の意見が盛り込まれている,と詳しく報じている。そして,いわば新聞の顔であるコラム「潮の響」では,“「定額給付金」は都会では微々たる経済支援にしかならないが,そのお金を使って伊豆に来てくれるお客さんもいるだろうことを考えると,一概に「バラ撒き」とはいえない”,という主張も書いている。
 私もそれを受けて,私が個人的趣味の範囲で気楽に運営している熱海の観光PRブログで“定額給付金で熱海に行こう!”キャンペーンをやったところ,熱海市役所観光課の職員の皆さんもたくさんブログをご覧なっていて,後からとても喜ばれたのである。
 熱海の斎藤栄市長も民主党系の市長だが,政局よりも地域経済や住民の生活を第一に考えているような市長なので,このような,国会審議を邪魔するような民主党を牽制する「要望書」のとりまとめも速やかにできたのである。
 『熱海新聞』のようなきめ細かい記事のフォローは,地域新聞ならではの持ち味である。私が在欧中に愛読していたFrankfurter Allgemeine ZeitungやSüddeutsche Zeitungなどの独紙にも同じようなことがいえるわけで,三橋が本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』で述べているように,「需要」と「供給」が健全に結ばれれば,レガシーメディアでも生き残る余地はあるのである。
 『熱海新聞』のような地域新聞は,いわば限定された環境で身体を対応させながら生き延びてきた小回りの利く“昆虫”のようなもので,このようなものはあえてネットと競合することなく,読者の足元を大切にしていけばよいである。

■バカにつける薬
 本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』では,ありがたいことに,中小企業診断士でもある著者の三橋貴明が,レガシーメディアの生き残り策として,経営体質改善のための処方箋をいくつか提示している。その中でも「放送免許更新制度の撤廃」,「放送法改正」(処分規定の盛り込み)など,今すぐにでも緊急に取り組まなければならない課題もたくさん含まれている。
 しかし果たして今の“マスゴミ”が,謙虚にこのようなものに対して聞く耳を持つかどうかは疑問である。なぜなら“マスゴミ”にこのような謙虚な姿勢があるならば,ここまでひどい状況にはならなかったからだ。
 例えば,『毎日新聞』が新春企画した特集「ネット君臨」は,ネットの匿名性といった彼ら“マスゴミ”が言うところのネットの「負」の部分ばかりをクローズアップするという非常にヒステリックな内容であった。取材記者は新聞社というバックボーンに隠れることができるのに対して,取材対象には実名の開示を求めるというバランスを欠いた取材姿勢に疑問を持ったフリージャーナリストの佐々木俊尚もこの点をするどく突っ込んでいるが,毎日新聞の記者はこの疑問に真摯な態度で答えてはいない。そればかりか,ネットメディアの有用性すらも,冷静に分析することから逃げているのである。実は“マスゴミ”こそ,究極のモラトリアム人間の集合体であったのだ。
 このような状況からみても,“マスゴミ”がレガシーメディアとして衰退していくのは時間の問題である。彼らのために最良の処方箋を提案した三橋も,当然そのことは分かっているとは思うが,これは,中小企業診断士の三橋貴明の,臨床家としての良心か好奇心がそうさせたのであろう。本書『マスゴミ崩壊~さらばレガシーメディア』は,今まさに滅び行く“恐竜”に向けてのラストメッセージだ。

■三橋貴明のその他のレビュー■
【書評】三橋貴明著『新世紀のビッグブラザーへ』(PHP研究所)

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04. Oktober 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#11「戦場に眠る記憶」(FOXチャンネル)

 精神医療のこれまでの常識からは考えられないような独創的な診断法や治療法を試みる異端の精神科医ギャラガーのもとを今回訪れたのは,イラク帰還兵の夫を持つ妻と彼女の子供である。妻は,夫がイラクから帰って来てから奇行が目につくようになり,ついに家族である自分たちにも銃口を向けるようになったとギャラガーに訴える。
 イラクに限らず,戦地からの帰還兵が何らかのかたちでPTSD(心的外傷性ストレス障害)を受けることは,今ではよく知られるようになった。古くはベトナム帰還兵の中にもこうした症状は多く見られたが,当時は個別の鬱病として処理されるケースもあった。また戦地で障害を負った帰還兵に対する社会保障も十分ではなく,退役してからの生活に馴染めないなど,社会生活を健全に送れなくなる者も出てきている。パトリオティズムを大きく掲げるアメリカ社会において,このような事を他言することは,ややもすると反米・反戦主義者とも受け取られかねない。だから退役軍人あるいは帰還兵を抱えている家族たちは近隣に気軽に相談できるコミュニティもなく,孤立してしまうことになる。
 ギャラガーのもとを訪れたこの家族も,まさにこの典型であろう。

 イラク帰還兵クレイが赴いていたのがもっとも地上戦の戦闘が激しかったバグダットである。戦地から帰還後,クレイは自宅の地下室に閉じこもり,そこで大がかりな戦場ディオラマを黙々と作り続けていた。家族の話からも,クレイがこのような趣味を以前から持っていたという様子はなく,突然このようなものを作りだしたこと,そして家族にも銃を向け出したことに異常な状態を感じた妻は,夫から逃げるようにしてギャラガーの所にきたのである。
 クレイが地下で制作に没頭していたのは,バグダットの町を忠実に再現したディオラマである。そこに田宮模型にあるような米兵フィギュアが転がっている。この状況はまさにクレイが戦地で体験した状況そのものであり,そこに転がる米兵フィギュアの中に,自分を表すものがいるのであろう。こんな,患者の心象風景を素描したようなものにギャラガーが注目しないはずがない。ギャラガーはカメラを持参してクレイが作ったバグダットのディオラマを覗きに行くのである。
 ディオラマで表された建物と建物の間からしゃがんでカメラを構えるギャラガーはさながら戦場カメラマンといったところである。ギャラガーはそこで何十枚という写真を撮影し,クレイの心の中にどのような心的外傷があるのか探ろうとするのである。これは言ってみれば規模の拡大した「箱庭療法」のようなもので,そこに形作られた風景,配置された物などは,制作者の想念を身体化したものなのである。
 通常の「箱庭療法」では,座ったまま両手の幅に収まる程度のサイズ,つまり文字通り「箱庭」としてのキャパシティーで行われるが,クレイが制作していたのは鉄道模型のNゲージを部屋の中いっぱいに走らせるような規模のものであり,そのまま特撮自主映画のセットとして使っても遜色はないほどのものである。
 ギャラガーは撮影したディオラマをただちに現像し,病院内の自分のオフィスの壁に並べてさっそく検証作業にはいる。そこへ突然入ってきたのがギャラガーの義理の父である。
 実はこのように,ギャラガーの家族が実際に姿を現すのは今回が初めてである。しかも,ギャラガー自身も家族とうまくいってはいない。物語が終盤にきて,ギャラガー自身が抱える苦悩も明らかになったわけだ。4人の家族,すなわち母,義理父,統合失調症の妹,そしてギャラガーは,まったくもって家族のの体を成していない。母と義理父は愛情で結ばれているようであるが,母の愛情は家族にではなく義理父にだけ向いており,妹とギャラガーが孤立している状態である。しかも今まで行方不明で,やっとギャラガーと再会を果たした妹・ベッキーの介護方針をめぐっても,義理父の意向が大きく反映されている。このような状況にあるので,母との関係も妙によそよそしいのである。
 欧米,特にアメリカでは,子連れで再婚した家族のことを「ステップ・ファミリー」と呼び,このような家族形態は何ら珍しいものではないのだが,突然“他人”が加わった家族がすべてうまくやっていけるわけではない。ギャラガー一家の場合は,ギャラガーに対する母の無関心な態度が,より一層彼を苦しめているのである。
 精神科医としてのギャラガーの診断方法や治療方法が,患者の置かれた環境,文化,成育歴にも深く関わっていくのは,このようなギャラガーが今現在も置かれている立場から立ち上がってきたものであろう。

 やや支配的な性格の義理父は,それでも軍事関係の知識を駆使してギャラガーにヒントを与えてやる。それによると,どうやらクレイが戦場でトラウマになった原因は,同じ部隊にいた人間にあるのではないかということが分かってきた。義理父は,ギャラガーの写真に写る前線部隊の配置を見ただけで,この部隊を指揮する人間は有能な指揮官ではないと分かったようだ。
 ギャラガーはそれを頼りに,クレアが一体戦場で何を見たのかを探ることにする。それによって明らかになったのは,無能な指揮官の存在だけではなく,彼らが武器を持たない民間人にも銃を向けていたことである。クレアがディオラマを制作しながら家族に発作的に銃を向けてしまったのは,妄想の中で仲間が戦場で行った残忍な行為とオーバーラップしてしまったからだ。そしてその罪悪感からか,自分自身の手を撃ち抜こうとして大けがを負ったのである。クレアが何かに憑かれるように自分で制作を始めた戦場ディオラマは,結果的に大規模な箱庭療法として完結したわけである。そしてこれに助言を与えたのは間違えなくギャラガーの義理父である。もちろん性格も美意識もギャラガーとはまったく異なる,ある意味では俗世間的なこの男とギャラガーの積年のもとに乖離した関係が,すぐさま氷塊するとは思えないが,家族再生への可能性を含ませる内容であった。このような複雑なキャラクター作りにかけては,米国ドラマはやはり上手いと言わざるを得ない。日本のドラマに出てくるようなスーパードクターがいない分,我々は,その解決できない問題についていろいろと考えさせられるのである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#10(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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