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September 2009

29. September 09

【トークライブ】 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』(2009年9月28日,阿佐ヶ谷ロフトA)

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登壇した本日の論客の皆様(敬称略,向かって左から)
イリハム・マハムティ(日本ウイグル協会)
西村幸祐(ジャーナリスト)
藤井厳喜(国際問題アナリスト)
城内 実(衆議院議員)
吉田康一郎(民主党都議会議員)
三橋貴明(作家,経済評論家)

 西村幸祐トークライブ『ああ言えば,こうゆう』と題したトークライブが阿佐ヶ谷ロフトAで行われた。
 阿佐ヶ谷ロフトAは,JR中央線阿佐ヶ谷駅前のパールセンター商店街の入口から少し入ったところの地下にある,地元マニア行きつけの多目的ライブ空間である。今回のような,『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)や『パック・イン・ジャーナル』(朝日ニュースター)などよりも圧倒的に面白いトークライブを開催する日もあれば,芸人の独演会,音楽ライブ,映画上映,小劇場の舞台公演と,様々なフォーマットに耐えうるという,有機的にして堅牢な空間なのだ。そしてその空間は,高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪エリアのいわゆる中央線アンダーグラウンド文化を象徴するものであり,阿佐ヶ谷ロフトAはその骨格を構成する一角を担っている。
 このようなものに一切の興味がない者にとっては,たとえ地元住民でも周囲の目新しい飲食店に気を取られて,知らない間に前を通り過ぎてしまうだろう。つまり,阿佐ヶ谷ロフトAという空間は,例えばデイヴィッド・リンチが『ツインピークス』で描いたホワイトロッジのような「奈落」であり,それが商店街という日常空間の底辺に,ブラックホールのようにぱっくりと口を開けているのである。幸か不幸か,ご縁があってその空間に誘因されたものは「奈落」に落ちていくという仕掛けである。
 同じく阿佐ヶ谷にはこのようなアンダーグランドな空間がいくつもあり,そこではテレビにはけして登場しない芸人や劇団員,現代美術作家,パフォーマー,ミュージシャンなどの独壇場となっている。ネットがマスメディアに対する一大カウンター・カルチャーとなるならば,阿佐ヶ谷ロフトAのような空間は,ミクロに張り巡らされたシナプスのように双方向的に集合知を構築していくことで,マスメディアに対してゲリラ戦を挑むような空間である。そこで生成されたコンテンツは,例えば無駄な予算をつぎ込み,芸人,役者,コメンテーターを使い回ししている今日のテレビ番組よりも,はるかに独自性があり,クオリティが高い。
 今回のトークライブはニコニコ動画でも生中継されたが,もしこれをライブで見ていたテレビ,マスコミ関係者がいたとしたら,彼らは悔しさの余り,モニター画面の前で歯ぎしりしていたことであろう。彼らにはこのような面白いコンテンツは作れない。なぜならば,彼らはクリエイターではないからだ。

 世の中にこのような面白いコンテンツがあれば,テレビなど見なくなる人が増えても当然である。本日のゲスト・パネラーである三橋貴明は最新の著書『マスゴミ崩壊-さらばレガシーメディア』(扶桑社)や自身のブログの中で,テレビや新聞が産業としてここまで見るも無惨に衰退していったのは,明らかにビジネスモデル構築の手法を誤っているからであると再三にわたって主張しているが,その通りである。
 例えば報道番組についていえば,多くの視聴者が今求めているのが,事実だけを伝えるストレート・ニュースである。ネットメディアの普及によって情報の受け手も一次ソースを精査するスキルを手に入れたことで,テレビのコメンテーターや全共闘崩れの“自称”文化人たち――いわゆる「雛段電波芸者」たちが,いちいちイデオロギー的バイアスをかけて印象操作したようなニュース報道はかえって邪魔である。また,芸人やテレビタレントをたらい回しにしているバラエティにしても,実際の寄席のライブには敵わない。
 こんな下らないものを一体誰のために作っているのかと言えば,スポンサーである。視聴者にコンテンツを提供するのではなく,スポンサーに向けて,広告的付加価値を維持するためにやっているのである。
 こんな状況のなかで,阿佐ヶ谷ロフトAのような面白い空間が近くにあれば,お金を払ってでも人はこちらに集まる。例えば阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベントに月に2,3回ほど行ったとする。それでもプログラムによってはNHKの受信料や新聞購読料よりも安上がりである。同じお金を払うとしたら,そのクオリティの対価としてどちらがコストパフォーマンスに優れているのかは明白である。
 今まで既得権益と新規参入障壁に守られてきたテレビや新聞にとって,もはやネットばかりがコンテンツの競合相手ではない。

 本日ここに集まった先鋭のパネラーたちは一筋縄ではいかないような人たちである。政治,経済,メディア,ジャーナリズムの問題にいたるまで,各人がそれぞれに置かれた立場で言いたい放題である。ウィグル人のイリハム・マハムティが,中国共産党による少数民族弾圧や核実験についての日本の報道姿勢を厳しく糾弾したかと思うと,民主党都議会議員の吉田康一郎は,自分の所属する民主党を徹底的に吊るしあげる。そして彼らの自由放言を途中で遮る田原総一郎のようなアンカーはいない。
 一見するとそれぞれのパネラーが好き勝手なことを言っているようだが,彼らが投げかけた問題は底辺でつながっている。それは,特に,ここ数カ月の間でひどくなったテレビメディアの翼賛報道についてである。これまでの有害テレビ・コンテンツは,「捏造」「誤報」「虚報」が主流であった。これは視聴者の目にも付きやすい。しかし,近年それに,「報道しない自由」という新たな要素が加わった。実はこれこそが,視聴者の精神をもっとも蝕むものである。
 「報道しない自由」とは,本来伝えるべきニュースを,局の一存,即ち「報道の自由」を逆手に行使して,視聴者にあてえ重要なことを伝えない,ということである。これをやられた視聴者は,例えば国際会議などの外交の場で日本が世界各国から評価されているさまざまな事や,新政府が進めている日本や日本国民が不利益を被りそうな法案についても一切知る事が出来ないのである。これはまさに,末梢血管が壊死してしまったような状態であり,やがてそれは全身的な循環不全を起こすであろう。
 三橋貴明のシュミラクル小説『新世紀のビッグブラザーへ』は,国体がまさにこのように循環不全を起こしたような近未来を描いていた。ネット環境も遮断されたその世界では,「日本」という国号さえ存在しないのである。『新世紀のビッグブラザーへ』を“よげんの書”にしないためにはメディアリテラシーで武装することが必要であるというのが,本日のパネラーらの共通する主張だ。そしてお金を払ってこの場に集った多くのアクティヴィストたちを最も恐れているのが,三橋が言うところの“レガシー・メディア”たるマスコミなのである。
 阿佐ヶ谷というアングラの坩堝の魔界で,今回このような夜会が開かれたことは,今後の様々なムーブメントの勃興に火を付けるであろう。


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第1部と第2部の間で,客席にいたHIP HOPユニット「英霊来世」(エーレイライズ)の斉藤俊介が壇上に上がり,ゲリラライブを行うという一幕もあった。
「英霊来世」は,地上波の音楽番組ではおそらくこれからも目にする機会はないであろうHIP HOPユニットである。私の知る限りでは,MXテレビで毎週土曜に放送中の『西部邁ゼミナール』という番組で,前衛美術家・秋山祐徳太子との対談で盛り上がっていたのが記憶に新しい。

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阿佐ヶ谷ロフトA名物「“あの肉”の吉澤精肉店のレバーペースト」
ロフトは食べ物・飲み物も美味しいのがうれしいところ。
これは,阿佐ヶ谷七夕祭りの“あの肉”でお馴染みの吉澤精肉店自家製のペーストである。
“あの肉”とは,七夕祭りで限定販売される大きな肉の塊で,我々が子どもの頃に見た『はじめ人間ギャートルズ』などの漫画・アニメに登場する原始人が持っている骨付きの肉の塊をイメージして作られたものである。

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ロフト入口にあるチラシコーナー。
ここが“魔界”の入口である。

阿佐ヶ谷ロフトA
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/

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27. September 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2009年度後期講座シラバス

名古屋芸術大学 芸術療法講座2009年度後期講座シラバス

芸術療法講座
~美術史から考察する疾病論・医学概論~

【授業目標】
“人はなぜ病むのか?”、“「病」はどこから我々のもとにやってきたのか?”──。
「病」の歴史とアートを通してこんな問いかけを行っていくのが本講座である。
本講座ではまず、多数の図版資料、文献をもとに西洋美術史と西洋医学史を古代ギリシャ時代から同時に学びながら、「芸術」と「医学」の関わり、「表現」という行為と「治療的行為」の相違点を明確にしていく。
さらに、図像学の視点でそれぞれの時代の「病」像を抽出し、芸術というものが、人類史の中でいかに「病」と実践的に関わってきたのかを考察し、今日の芸術療法の現場が抱える問題点を踏まえたうえで、「表現」と「治療的行為」の接点の可能性について再度模索していく。

【授業内容と計画】
1)ガイダンス 美術図像学から疾病論、医学概論を読み解くことの意義、今日の芸術療法との関わりについて
2)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(1)
  ~「病」の起源~
3)古代ギリシャ・ローマ美術とヒポクラテス医学(2)
  ~「ホスピタル」の登場~
4)ルネサンス絵画に描かれた医師像と患者像
5)キリスト教絵画における「病」と「手当て」の概念
  ~ナーシングの確立~
6)戦争群像画におけるカタルシス
  ~回復装置として機能する解毒療法~
7)ラファエル前派に描かれた恍惚の女性像
  ~「卒倒」「昏睡」の美学と麻酔学の関わり~
8)西洋カリカチュアの中の「生・老・病・死」
  ~「死の舞踏」をめぐる「病」観~
9)後期印象派、シュルレアリスム、表現主義における身体表現
10)アウトサイダー・アートをめぐる「表現」と「病」の境界線
11)モダニズムにおける新しい「病」の概念
12)映像表現におけるメタファーとしての「病」
  ~SF、 特撮、ホラー映画における「異形」と空想上の「病」の病理学的分析~
13)身体表現と「病」
  ~舞踏、パフォーミングアーツ、障害者プロレスから見えてくる「表現」としての「病」~
14)映像作品の上映
15)総論、レポート課題についての概説

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23. September 09

【海外ドラマ】『メンタル:癒しのカルテ』#10「人生のやり直し」(FOXチャンネル)

 精神科医療現場の様々なタヴーに真っ向から向き合い,全米では本放送第1話から大きな反響を起こした『メンタル:癒しのカルテ』の第10話は,どの診療科を受診しても原因がまったく分からない精神症状に悩まされている青年ビリーがギャラガーのもとにやってくる。
 ドラマも佳境に入り,ここを訪れる患者だけではなく,実は医師たちも,それぞれに抱えている問題で病んでいることも描かれるようになってきた。
 我々はどこかで,医者だけは病気にならないような幻想を抱くことがしばしばある。それは,白衣を着た医者と,患者用の丸椅子に小さく座らされている患者というフレームの中で医者を見ているからである。つまり患者は,白衣を着ていない時の医者の姿を知らないわけで,もちろん患者になった医者の姿も想像できないわけである。
 私の90年代の代表的現代アート作品『Doctor's Hand』は,そんな「医師」-「患者」関係の固定化されたフレームを取り外し,本来は「患者」の立場にあるものが「医師」の視点で身体を捉えていくというロールプレイを行うインタラクティヴな作品である。この作品『Doctor's Hand』シリーズは,国内外の美術館をはじめ,いろいろなオルタナティブスペースで展示されたが,その中のひとつ,東京オペラシティのICCで開催された「芸術と医学」展におけるシンポジウムでは,私の講演が終わった後,非常に興味深い意見を言って帰られたアメリカ人男性がいた。
 彼の話によると,彼の父は食道外科の権威で,長いこと一線で活躍してきたが,ある時自分が癌になり,病んだ医者をケアしてくれるものが誰もいないことに気がついたのだという。今でもこのアメリカ人の言葉が胸に刺さるが,“患者は病気になれば医者に診てもらえるが,医者が病気になった時は,誰に助けてもらえばいいのか”という事なのである。結局彼の父は,癌は治ったものの,精神はひどく疲弊し,医者を辞めて毎日ぼうっと風景を眺めたり,釣りをしたりしているそうだ。
 また,かつて私が世話になっていた医師2人が,ここ5年の間にやはり癌で亡くなったが,彼らは自分で立てなくなるまで臨床現場を離れなかった。病院で彼らと対面する時には,もちろん私が「患者」で彼らが私を診察する「医師」という立場であるが,明らかに私よりも状態が悪そうな彼らを見て,いつも私の方から“先生,お大事に”,“先生,ちゃんとご飯を召し上がっていますか?”,“先生,今日は顔色が悪いですね”,“寒くなってきたから,先生もインフルエンザには注意して下さいね。”と帰り際に声を掛けるという滅多にない状況となっていた。しかし後から聞いた話によれば,自分が診ている患者の方から,“お大事に”を声を掛けられることが,心から嬉しかったそうである。
 『メンタル:癒しのカルテ』に登場する医師たちを見ていると,このような私の身近にいた医師たちの姿を思い出す。ウォートン記念病院の医療スタッフはみな優秀だが,人間として幸福な人生を歩んでいるのかと言えば,必ずしもそうではないようだ。

 「人生のやり直し」と題した第10話は,ギャラガーを始めとするウォートン記念病院の医療スタッフ自身の紆余曲折の人生模様にもスポットを当てている。そこに描かれるのは白衣を脱いだ医師たちの姿である。病院内の権力闘争で仲間を裏切りながらロビー活動をしたり,夫がいながら病院の医師と不倫を続けるギャラガーの同僚たちは,アメリカ社会に浸透する“満たされない日常”という「病」の縮図である。統合失調症で行方不明になったままの妹の幻覚に苦しむギャラガーもまた,自らに心の闇を抱えていることが大きくクローズアップされている。
 ギャラガーが,ウォートン記念病院に赴任したその日から,様々な医療改革を提言したり,診断や治療の中に医療人類学的な視点でオルタナティヴな多文化共生的な方法論を受け入れているのは,これまでの近代的精神医療というものに限界を感じているからであり,医師にもかかわらず自分の身内(妹)すらも救えない無力さも認識しているのである。
 そして今回は,ギャラガーのそういった考えがより一層に反映されたものである。

 今回ギャラガーのものを訪れたビリーは,工事現場の崩落事故が原因で一見するとPTSDを患っているようにも見える。ビリーが何度も反復的に夢で見る光景は,自分が巻き込まれた崩落事故の様子だが,工事の現場監督とビリーの証言はやや異なっており,ギャラガーは独自に現場検証を始める。そこで分かったことは,ビリーの記憶の中に,自分が体験した崩落事故と,過去に起こった大規模な崩落事故がモザイク状に混在していることであった。自分の工事現場の建物の名前と,古い新聞記事にアーカイヴとして残る歴史的大惨事であった崩落事故の場所の名前が類似していることから,ビリーの脳は時系列上で誤作動を起こし,記憶を書き換えているということだ。
 このような場合は,時間をかけたカウンセリングによって,記憶を正しく修正していけばいいのであるが,ギャラガーが試みたことは,そこに留まらなかった。
 まず,ビリーが誤った記憶としてアーカイヴしている崩落事故についてのルポルタージュを書いた作家のもとを訪れ,当時の事故の様子,生存者の足跡などをフィールドワークし,さらに,前世療法を行っているカウンセラーにもアドバイスを受けるのである。このカウンセラーは,正規の心理療法のトレーニングを受けた者でもないし,もちろん医師免許も持っていない。医療の立場からみれば,これは民間の非正規医療,または,いわゆる代替医療といわれるものだ。
 わが国でも,癌などの難治性疾患の緩和ケアの現場では,さまざまな代替医療が台頭してきているが,これらはすべて患者自身の自己責任によって行われているものであり,その多くは保険医療の対象にはならない。しかし時としてそのようなものの方が,患者自身にとって必要である場合もある。ギャラガーが訪れた前世治療を行うカウンセラーは,呪術医といわれるものであり,確かに今日の医療においては異端ではあるが,このようなものに救われる患者もいるのは事実だ。それは,西洋的世界にはない,異なった文明的背景をもったニューカマーやマイノリティーが,精神医療の現場で異文化,多文化を尊重する地域精神医療を求めていることからも理解できる。
 ギャラガーは,かつての崩落事故の関係者の中に,ビリーの前世の人間がいることをビリーに伝え,ビリーもそれに納得する。これは精神科医の行動としては,おおよそあり得ない行動だが,患者の抱える苦しみを否定せずに,とことんまで向き合うというギャラガーの一貫したこれまでの姿勢をみていれば,それほど奇天烈な方法論とは思えないのである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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15. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#9「血まみれの少女 」(FOX)

 どこまでも精神科医療領域のタヴーに入り込んでいく『メンタル:癒しのカルテ』の第9話は,父の殺害現場を見てしまった自閉症児リーザの物語である。ギャラガーが今回リーザの心の闇に降りていくのに利用したのが音楽である。他人の語りかけに,ただただ同じ言葉を反復的に返すだけのリーザのような症状は,日常生活でもコミュニケーションに困難を極める。彼らの心の内を知る術がないからであろう。ことに今回の場合は,殺人事件の犯罪捜査のためにリーザの目撃証言が必要なのである。
 これには刑事もお手上げといった様子で,ギャラガーの出番となった。今回のエピソードの重要なテーマは「音楽」である。

 実際に,精神医療の現場で導入されているアートセラピーの中でも,近年注目されているのが音楽療法である。聴覚は視覚よりも,より身体的,情動的に作用するからである。したがってこの運用には専門的知識や臨床経験が必要であり,知識がないものが安易な考えのもとに運用することには様々なリスクがともなう。
 一時期,一連の“癒しブーム”の中でヒーリング・ミュージックと称される音楽がもてはやされたが,これはあくまでも日常生活を健常に送る人間が息抜きに楽しむためのものであり,精神疾患を患っている人間に対して「治療」と称して運用するようなものではないと私は考える。
 近年の“癒しブーム”の中で,世の中のありとあらゆるものに“癒し系”というカテゴリ分けができあがり,それによって安易に理解できるもの,ただ単に一時的に快いと感じるもの,口当たり・耳障りが良いとされるものに傾倒することは,かえって,人間の身体性・思考力を奪うようなものであり,感覚の後退や創造力の減退をもたらすというのが私の考え方である。
 特に人間の身体性は,ある程度の抵抗・障壁・摩擦などがあってはじめて認識できるものであり,我々人間はこのような重力や空間に支配された「不自由な身体」を認識することで,はじめて身体というものを様々な知覚にてよりリアルに獲得することができるのである。
 
 様々な表現活動の中でこれを最も認識しているのは,ダンスやパフォーミングアーツなどの身体表現にかかわる者であろう。彼らは,各個体に与えられた身体能力の頂点と衰えを極めて冷静に判断する能力を持っており,やがて衰えていく身体を抱えながらも,不自由な身体の「美」を表すことができる。かつてフィギュアスケートの伊藤みどりが世界的に注目されたのは,単に女子スケータにとっての最難度とされるトリプルアクセルという技ばかりに注目されたのではなく,伊藤の身体の構造は,欧州の選手たちのそれと比較しても明らかに違いがあるにも関わらず,あたかも重力に抵抗するように大技を繰り出すことが衝撃的であったからである。我々は,このような行為を見る時に,人間が生まれ持った不自由な身体性,そして同時に,その重力に拘束された不自由な身体の抵抗から生まれる「美」と「野性」を認識するのである。
 これは勿論身体表現だけに限ったことではなく,大きな画面でドローイングやカリグラフィを描く画家にも同じことが言える。彼らはもっとも「体育」というものから遠い存在に見えるが,日々の体調の変化には敏感であり,身体の衰えとともに,関節の柔軟性,可動範囲,筋力の変化なども作品制作の中で敏感に感じている。彼らがフィールドとする画布のサイズがその時々の身体に相対化されたものであり,身体の衰えとともに縮小していく画布の中でも,なお野性的に作品を描き続けようとする。

 一方で,音楽表現における身体性は,作曲者よりも演奏家に依るところも大きいが,過去に何度も楽曲の中に身体性を意識して取り入れた作曲もいる。その代表的な作曲家が黛敏郎で,黛が1955年に書いた『トーンプレロマス55』という楽曲を一度聞いてみるといい。黛がヴァレーズにインスパイアされて書いたこの楽曲は,吹奏楽編成の持つあらゆる可能性,身体性を試みた作品である。黛は楽曲解説でこのようなことも書いてる。
「人間の息を利用する管楽器と,手に依る打楽器を生命とする打楽器のアンサンブルが発する音のエネルギーの集積は,トーンプレロマスという言葉に一番相応し,効果をあげてくれることだろう。」
 この楽曲で重要なのは吹奏楽編成ということである。つまり,吹奏楽に編成される楽器群は,「息を吐く」,「手で叩く」という身体的行為が直接音に繋がるのである。これを黛が言うと,あたかも原初的男根主義に聞こえてしまいそうだが,ようするに黛は,音楽における根本的な「野性」を描きたかったわけである。

 自閉症児のリーザにとっても音楽は重要な要素である。別居中のヴァイオリニストの母から与えられた玩具のピアノで,いつも音階だけを弾いている様子にギャラガーは注目した。それは,一見同一の調性の音階だけを弾いているようにみえるが,よくよく聴いていると,実は複数の異なる調性の音階を弾いていることが分かる。それは反復的にB-A-D-G-Eというコード進行である。そしてこれを一つに繋げると,「badge」(バッヂ)という単語になる。
 ギャラガーは,リーザが刑事の聞き取り調査の時に,さかんに眩しそうな仕草をしていたのを思い出し,その「badge」という単語から,リーザが父の殺害現場で何か光るようなバッヂのようなものを見たのではないかと推測する。そしてそれは,刑事が身に付けていたバッヂであることがわかった。つまり,薬物の売人だった父と警察は初めからグルになっていたのだが,仲間割れから刑事がリーザの父を殺したのである。
 リーザは,自分からは自発的には発声はしないが,音楽を使って必死に父を殺した犯人の事を伝えようとしていたのである。コードを繋ぎ合わせて単語をあやつる行為は非常に理知的であり,即興ジャズのセッションのようだ。また,言葉として音楽をあやつるシチエーションは,これまでにも,例えば『未知との遭遇』の宇宙人とのセッションが有名であるように,異文化を理解する上で重要なアイテムなのである。我々にとってはまさに“異文化”圏で自閉症児として暮らしているリーザの心の「声」を聞き逃さなかったギャラガーだからできた行為である。音楽で心のコミュニケーションを試みるという,音楽療法の本来のあり方を示してくれたエピソードである。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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09. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#8「自分を探して 」(FOX)

 前回のエピソードを見て,Dr.ギャラガーの診断方法は,医療人類学的であると書いたが,まさにそのことを決定づけるような話が今回のエピソードである。
 ギャラガーのもとに,腕に大やけどを負った少女が運び込まれる。これは事故ではなく,少女自らがガソリンの代わりにアルコールを頭からかぶり,火を放ったのである。つまり自殺未遂だ。これは計画的というよりは,鏡に映った「顔」のない自分の姿に発狂して,突発的に行った行為である。この少女は16歳のヘザー。スポーツ万能で活発な性格だが,ボーイフレンドとはあまりうまくいっていない。
 ヘザーが鏡ごしに見た姿には,なぜ顔が無かったかを探るところからギャラガーの診断は始まる。診断を進めていくうちに,彼女には,幼少時代からポールという精神科の主治医がいることがわかった。このポールという精神科医は,「人間の性的選択は環境によって決まる」という独特の学説を唱える医者である。なぜヘザーの両親がこのような医師のもとを訪れたのかというと,ヘザーは出生時の割礼で誤って男性器を損傷してしまった男児であり,これからどうやってヘザーを育てていけば良いのかカウンセリングを受ける為である。
 ポールが行った計画は,ホルモン補充療法で人工的に女性の身体を作り,人工の女性器も同時に創建することである。つまり,ヘザーに自分は生まれつき女性であると思わせて,そのまま育てることである。ヘザーの両親はポールの言う事に忠実に従い,16歳までヘザーを女性として育ててきたが,“彼女”は成長するに従い,男性である本能が女性である身体を拒否しだして,恋愛も何もうまくいかなくなってしまったのである。
 実際にはこのような事はあってはならないが,ヘザーはまさに,ポールという異端の精神科医の学説の臨床例として,長年にわたり実験台にされていたのである。
 しばしばホラーやサスペンスでは,特異な人格の精神科医が登場するが,これは精神科医の,学者としての探究心や,偏狭な覗き見主義が極端に肥大化した結果もたらされた怪物の姿であり,一種のマッドサイエンティストといえるだろう。
 これに対してギャラガーは,ポールの学説を逆手にとって,ヘザーを救いだそうとする。ギャラガーがヒントを得たのは,未開の部族で伝承されている様々な風習,因習である。

 我々のように近代的な社会に生きている人間は,生まれたその瞬間に「性」が決定され,「名」も与えられるのが当たり前であるが,未開の部族の中には,生まれた時には「性」は決定されず,生活習慣によって「性」を選択する部族もいれば,生まれてからしばらくは「名前」も与えられず,人間なのか動物なのか,またはそれ以外のものなのかも明確にされないまま育てられるものもいる。アマゾン奥地で暮らすヤノマミ族などがそうだ。これらの少数部族の実態は,20世紀になって,多くの人類学者によるフィールドワークによっても明らかにされている。
 ギャラガーもそのような人類学関係の文献をあさり,ヘザーには,“彼女”自身の身体は「男性」であることを告知した上で,これから先の人生をどちらの「性」で生きていくのか選択させる術を探るのである。ギャラガーのこのような精神医療における医療人類学的なアプローチは,実は実際の精神医療現場においても非常に今日的なテーマである。これは,精神医療の世界においても異文化共生,多文化共生といったオルタネイティヴな視点が必要とされるようになったことと無関係ではない。特に欧州では,様々な文化的,宗教的背景を持った移民が増えるようになり,従来の欧米型の精神医療,つまり,あくまでも欧米文化を背景に立脚した医療では,その他の異なる文化を持ったニューカマーの治療には不適合なのである。欧州におけるこのような状況については,京都大学の松嶋 健によるフィールドワーク『フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──』(『こころと文化』第7巻第1号,2008,2)が詳しい。

 ここで一つの映画が思い出される。1978年にアメリカで公開された『マニトウ』である。これは郊外に住む白人女性の背中にネイティヴ・アメリカンの伝説で伝わる悪霊が取り付き,白人医師とネイティヴ・アメリカンの呪術医が協力して,その悪霊と戦う物語である。ここに登場する白人医師は,腫瘍の様に白人女性の背中に寄生した悪霊を排除するために,現代の医療技術を使おうとするがまるで効果がなく,彼に協力を申し出たのがネイティヴ・アメリカンの呪術医である。彼は自然界のあらゆる精霊を降霊し,悪霊と対決するのだが,この時にどういうわけだか病院にある医療機器に宿る精霊も一緒に降りて来て戦うのである。これは万物に精霊が宿るというネイティヴ・アメリカンの視点からそうなるのであろうが,八百万(やおよろず)の神々をいただくわが国日本にも古代神道の時代から同様の概念が存在するので,妙に親近感があるのである。
 今回ギャラガーが試みたのも,近代の精神医学における性同一性障害に適応される治療ではなく,ネイティヴ・アメリカンの呪術医の「術」である。これを導き出したのは,ヘザーが自殺未遂の時に放った火である。ヘザーが衝動的に放った火は,自殺するためではなく,いったん何かをリセットするために行った「儀式」であるとギャラガーは理解したのである。
 ギャラガーは夜の庭にヘザーを連れ出し,蒔きで火を焚いて,その中にいらないものを捨てろと言う。箱の中にはヘザーが生まれた時からの思い出のものがたくさん入っており,その中にはいろいろな「性」を表すものが含まれている。そしてヘザーは,その中から「女性」性を表すものだけを選別し,火に放ったのである。最初の主治医であったポールの学説は,「人間の性的選択は環境によって決まる」というものであったが,ギャラガーはその学説を覆すように,ヘザー自身に自分の「性」を選択させたのである。ギャラガーのフィールドワークがなかったら,おそらくこのような視点で性同一性障害を治療することはできなかったであろう。


『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】
『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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08. September 09

【アート】伊藤洋子個展 『卵巣の雲』(2009年8月31日~9月5日,ギャラリー代々木)

Photo

 詩人・伊藤洋子の個展『卵巣の雲』がギャラリー代々木で開催された。
 伊藤洋子はこれまで約20年にわたり,ポエトリー・リーディングや他のジャンルのアーティストたちとコラボレーションしたパフォーミング・アーツなどのライヴ活動を一貫して行ってきた詩人である。詩人といっても,限定された仲間内の同人活動とは異なり,その活動範囲は複雑な神経系のように多岐に張り巡らされている。
 今回は画家・伊藤洋子としての個展である。表題にある『卵巣の雲』の構想はすでに個展開催の1年ほど前から決まっていた。その時予定していた表題は『卵巣の蜘蛛』であったが,今回の表題に変更されたことには紆余曲折の伊藤自身の身の回りの変化が多少なりとも影響しているといえるだろう。
 実は伊藤は,この個展が開催される直前に,卵巣疾患で入院中であった。卵巣疾患については伊藤の長年の慢性既往症であったが,ここへきて急性転換となり,入院,手術,加療という経過をたどったのである。
 今回出品されたドローイング作品は,1年前から制作していたものに加えて,退院直後に制作された作品も多く出品されている。興味深いのは,1年前から構想して描かれた作品,即ち,一連の『卵巣の蜘蛛』シリーズに集約される作品は,画面の余白が無いほどに細密なタッチで目,口唇,女性器などの身体パーツが断片的かつ反復的に描かれているのに対して,病後に『卵巣の雲』シリーズとして描かれたものは,以前の作品よりも,より自由なストロークを使って描かれている作品が多いのである。
 前者はこれまでの伊藤の作品に特徴的に見られる要素だ。伊藤の作品は詩にしてもそうであるが,人間の(あるいは女性の身体特有の)身体に起こり得る様々な肉体的,精神的不快感を表したような作品が多い。今から20年ほど前に,かつて銀座7丁目にあったギャラリー・ケルビームで行ったポエトリー・リーディングで朗読した作品は,納豆が自分の足に絡みつきながら追いかけてくる,という,実に不可解でいて不条理なものであった。しかし,その不可解さの中にも,納豆などの粘液質のものが自分の身体に付着するという身体的不快感はこちらにも充分に伝わってきたのである。これはホラー映画における魅惑的にして病的なエロスに通じるものがある。目を背けるほどに,その暗黒の陰圧の空間に吸引されてしまいそうなのが伊藤洋子の作品である。したがって,伊藤の作品は昼間から見るものではない。
 絵画表現に見られる伊藤の作品も,そのような要素のものが多く,これまでにも「めまい」,「発熱」といった表題のシリーズ作品を多く制作しており,それらのものは,誰もが感冒などで高熱にうなされた時に見る悪夢や全身で感じる不快感を想起させるようなものである。画面いっぱいに細密に書き込まれた身体パーツは,遠目にはウイルス感染して崩壊していく不定形の細胞膜のようにも見えてくる。この細胞,DNAレベルで起こるミクロな身体的カタストロフィーは,抗体と外部侵入者との間で日夜我々の身体内部で繰り広げられていることでもある。
 一方で,今回新たに『卵巣の雲』シリーズとして制作された作品群は,伊藤自身の身に起こった「卵巣喪失」という出来事とも大いに関わりが深い。卵巣という女性特有の臓器は,細い卵管で空洞の子宮と繋がっているだけで,不安定に子宮の両極に浮遊するように存在している。周囲に卵巣を圧迫,保定する臓器がないので,たとえ病変が出来ても早期のうちには症状がでない場合も多々ある。つまり,月経不順や不正出血といったホルモン異常でもないかぎり,その存在は日頃から他の臓器ほどは意識されない沈黙の臓器なのである。女性の下腹部で空中に浮遊するように存在している卵巣は,伊藤が言うように,まさに『雲』のようなものだ。そしてひとたび病変を抱えると,我々の意志とは別に,まるでエイリアンの胎児のように際限なく肥大化していくのである。
 伊藤が描く,下腹部で大きく展開された手術野から離脱するように空中に浮かぶ不定形の肥大化した卵巣は,ヘリウムガスが充満した風船のように今にも伊藤の身体からも去っていきそうな勢いである。片方の卵巣喪失によって容積が減少した伊藤の下腹部は,胎児の産出とバーターされたものではなく,むしろ化学者ラボアジェが提唱した「質量保存の法則」すら満たすことのない喪失感が漂っているのである。
 このような複雑な身体感覚を視覚化する行為について伊藤は,「病」やストレスによって起こる様々な身体的不快感を描くことで,それを昇華しているのだという。私は伊藤の一連の作品をドローイングと規定したが,伊藤からこのような話を聞くと,それはむしろ身体に起こる不快感という抽象的でしかも目に見えざるモティーフを,「身体」という有機端末を使ってデッサンしていく行為に見えてならない。それは,かつて古代医学で主流であった呪術性や憑依性をもって現れるものであり,身体の神秘の深部へ向かってソナーを向けて「病」を探査するような伊藤の行為は,「ことば」と「身体」という伊藤の表現世界にさらに一定の強度を持たせることになる。そのような意味では,今回の伊藤自身に起こった「卵巣喪失」という一大事は,今後の伊藤の表現活動に何らかの展開を与えることになるだろう。

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01. September 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#7「君に首ったけ 」(FOX)

 精神科医療現場の様々な人間関係やタブーを描き,放送当初から全米で大きな反響を巻き起こしてきた『メンタル』の第7話は,おそらく精神科医療に関わる者にとっては一番触れられたくない領域,いわば負の遺産としてその歴史に名を刻んでいるロボトミー術を連想させるものである。
 現在はあえて使われなくなった「精神外科」,即ち,精神疾患を投薬やカウンセリングではなく外科的に治療する分野のことであるが,今回はこのような言葉も本編で登場する。わが国でも,患者の人権が確立される以前の古い時代の用語が慣習としていくつか残っている。それの多くは法律用語や行政用語においてであり,その言葉が実社会で運用されることはほとんどない。その中でもやや差別的な印象をもたれる言葉等は,順次,「言い換え」が行われている。
 一般に最も知られるのは,精神分裂病を統合失調症として言い換えることが定着したことであろう。また前出の「精神外科」という言葉も誤解を招くということで今ではほとんど使用されない。その代替用語として運用されているのが「脳神経外科」である。同様にして,昔は日常会話の中でも良く聞かれた「精神病院」という言葉も好ましくないものとされ,「神経科」「精神科」「心療内科」などと言われるようになっている。

 今回,このドラマの主人公の精神科医ギャラガーに対してライバルとして登場する女医のザンは,精神外科医である。2人はチック症と強迫性障害が起因する潔癖症を患っている患者,クレイグの治療をめぐって激しく対立する。ザンは脳の帯状回切除を行うことでクレイグの症状は治まるというが,患者にとってもリクスが大きく,治療法の主流にもなっていないこの手術をクレイグに行うことを拒否するのである。帯状回切除術は,癲癇などに現れる情動運動を制御に有効とされるが,それはかつて多くの精神病患者に実験的に行われたロボトミー術を想起させるようなものであり,確かに,帯状回切除の副作用によって患者の性格まで変わってしまう事があれば,患者の基本的人権にも大きく抵触することにもなる。ギャラガーは,このことを懸念したと思われる。
 この時の2人のやりとりが興味深い。精神外科医のザンは,クレイグの妻が夫の介護からも早く解放されて,昔のような夫婦関係に戻るためには,効果が目に見えてわからない投薬やカウンセリングよりも脳の手術を施した方が良いという考え方である。ザンは,自分の臨床実績をあげるための功名心からではなく,彼女なりに患者のことを考えて選択した結果がこれなのである。そして,日本の医療ドラマではあまりにもタブーすぎて描かれることがない精神外科医と精神科医の対立も鮮明に描かれている。この両者の対立はしばしば外科医と内科医が対立をするのに非常に良く似ていて,精神外科医が精神科医を見る眼差しが,外科医が内科医を見る眼差しに類似している。外科医も精神外科医も,ともに根治治療を目指すものであり,そんな彼らからすると,患者に長々と付き合ってカウンセリングをするような精神科医や内科医は,まどろっこしい存在に見えるようだ。
 しかもザンは,ギャラガーをはじめとする精神科医のことを,患者の人生相談にのるカウンセラー程度にしか見ておらず,自分の事を称して“本物の医者”と言い,“本物の医者”に任せておけ,などと言うのである。
 これに対するギャラガーの診療スタイルは,これまでのエピソードを見ても分かるとおり,患者の立場に立ち,自らもその視点で患者の周辺をフィールドワークすることである。なんとしてでもクレイグの脳手術だけは避けたいギャラガーはクレイグの妻と面談することになるが,ここで妻のミミにこそ,重大な病が隠れていることを発見する。それは腫瘍による異常性行動であった。もちろんミミにはまったくそのような病識はなく,潔癖症になった夫クレイグとの夫婦関係が破綻したので,その性的欲求を紛らわすために,いろいろな男性と関係を持っていたわけである。しかし,そのあまりにも異常な性欲に何か病的なものを感じたギャラガーは,機能的,器質的な脳疾患を疑ったのである。そしてなんとギャラガーはザンに診断を依頼した。
 このようなことができるのは,ギャラガーが患者本位に動いているからであり,そうでなければ自分と対立する医師に診断を依頼することなどプライドが許さないであろう。ここの部分に,2人の医師の間に芽生えた信頼関係のようなものが垣間見えるのだ。例えば,『白い巨塔』の中での財前と里見の2人の意思を思い出す。医師としての姿勢ばかりか医事裁判においても対立関係になった外科医の財前が,自分の医局の人間ではなく,かつての同僚の里見医師に自分の病について診断を仰ぐ様子も,立場を超えた互いの信頼や友情があったように思う。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)『メンタル:癒しのカルテ』#6(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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