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August 2009

31. August 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#6「雨の日の記憶 」(FOX)

 精神医療の現場におけるタヴーを堂々と描き,その第1話からして全米で大きな反響を呼んだ『メンタル:癒しのカルテ』(FOX)の第6話のエピソードは,ギャンブル依存症のレオナルド,鬱病の敏腕検事クレイン,そして彼女によって殺人事件の被告にされた妄想性障害のハンセンをめぐる物語である。
 これまでのエピソードでは,1人のゲスト患者を主軸に物語が展開されていく構成であったが,今回からは複数の主要人物にそれぞれ別の伏線を張らせ,最後にそれが一つのテーマとして集約されていくという,アメリカの群像ドラマでは昔からスタンダードな構成に変わったようだ。このようなフォーマットは,私が全シリーズにわたって視聴しているスタートレック・シリーズにもしばしば見られるもので,脚本家によっては片方の伏線で暗喩を示唆するような様式美も見せてくれる。

 このドラマの主人公であるDr.ギャラガーは,鳴り物入りでウォートン記念病院の精神科部長に抜擢されて,この地にやってきたユニークな精神科医である。日本語で“ユニーク”と表現すると,“個性的”であるとか,“特質的”であるといった具合に,無条件で好意的に受け取られる場合が多いが,英米語でこれを表現した場合,必ずしもそうではない。むしろ,特異で異質で異例な人のことをユニークというのだ。その中には,“理解し難い人格”という要素も当然含まれている。同じように「ナイーブ」なる言葉も日本語では“繊細な”とか“朴訥な”といった比較的良きイメージの表現として使われるが,これも英米語圏では,悪い意味で繊細な,つまり,通常の社会生活において誰しもが日常的に受ける微細なストレスにも耐えられない人が,“ナイーブ”な人なのである。例えば,“あいつはナイーブなヤツだ”と言った場合,日本語では繊細で純朴で芸術家のような人物となろうが,英米語圏では,単に社会不適合者として見られる場合も多々ある。
 『メンタル』は,そんなナイーブな人々と,それをあらゆる手を尽くして救おうとするユニークな医師ギャラガーの物語なのである。

 第6話のエピソードに登場する3人の患者に共通するテーマは「死」のあり様である。ギャンブル依存症から人生が破綻し,自殺願望が強くなったレオナルドは,自らの手で人生というギャンブルに終止符を打とうとする。自殺願望者が暴走しだした場合,無理に止めようとすると,かえって悪い結果を導くことは良く知られたことだ。そこで,屋上から飛び降りようとするレオナルドに向かってギャラガーが試みたのは,自分が旨そうに食べているアメリカンドッグをレオナルドにも薦めたことである。
 自殺願望者にとって,究極の欲求は言うまでもなく「死」であるが,その前に,人間としての基本的欲望が存在するはずである。その欲望の中の一つに「食欲」というものがある。ギャラガーはレオナルドに対して,理性により「死」について説くよりも,本能に対し「生の欲求」でアプローチしたのである。今にも屋上から飛び降りようとしている人間に対して,それを止めるそぶりも見せず,ただ旨そうにアメリカンドッグを食らうギャラガーの行為は一見すると常識を逸脱している。しかしギャラガーは,アメリカンドッグを旨そうに食らう自分のことをチラチラと見るレオナルドの様子を見て勝負ありと思ったのであろう。
 ギャラガーが旨そうに食べているアメリカンドッグから漂ってくるピクルスやケチャップや香ばしいソーセージの香りは,我々日本人がラーメンやカレーライスの香りにどことなく郷愁を感じてしまうのと同様に,アメリカ人にとっては心の故郷のようなものなのだ。その香りで子供の頃父親と一緒に行ったメジャーリーグのボールパークのことを思い出すも者もいれば,家族と行った遊園地のことを思い出す者もいるだろう。アメリカンドッグの香ばしい風味は,どんなアメリカ人の心の中にも原風景として存在するものだ。
 人生を破綻してしまったレオナルドの原風景にもこのアメリカンドッグの残像は焼き付いていたとみえて,彼は自分の五感によって死をとどまったのである。

 今回,レオナルドの物語と並行して描かれているのが女性検事クレインと,彼女によって刑事被告人にされてるハンセンの物語である。クレインは裁判を「勝ち」「負け」のゲーム感覚で捉えているところがあり,それはアメリカにおける訴訟社会を垣間見るようなキャラクターである。
 そもそも日本に「勝ち組」「負け組」というあまり好ましくない言葉が流入してきたのも,北米格差社会の影響によるものだと私は認識している。1980年代に,日本でも欧米の経済紙の日本版が発行されるようになってから,この言葉が様々なメディアで散見するようになった。在欧中に夜の酒場で「勝ち」「負け」話で盛り上がっているグループと私はしばしば同席した事があるが,彼らはたいてい北米出身のファンドマネージャーや起業家である。彼らが「勝ち」「負け」と得意満面に言っているのは,自分が運営しているファンドの評価額がインデックス(平均株価)よりも勝ったか負けたかという事なのである。女性検事クレインの気質はまさにこれに近く,裁判は,数字で見る株価とは違って,そこに人間がいるにもかかわらず,自分自身の勝負事として「勝ち」「負け」だけにこだわっているのである。そして勝つためならばどんなことでもやる。
 今回被告にされたハンセンは,たまたま殺人現場に居合わせただけの人間だが,事は厄介で,ハンセンは事件の犯人ではないのだが,クレインの巧みな弁論によって自分が殺人犯ではないかと思うようになってしまったのである。クレインは,ハンセンの抱える妄想性障害という病を逆手にとって,殺人犯に作り上げようとしたのだ。
 日本では,知的障害や精神障害を持った人間を,裁判の証人として法廷に立たせることについて慎重な意見があるのは,実は知的障害者たちを差別しているのではなく,無用な冤罪を生む可能性を懸念して慎重論を唱える法学者もいるのである。このような状況で患者の利益や人権を最大限護るのが精神科医の立場である。
 ギャラガーとクレインは法廷で対決することになるが,事件の真犯人の存在が明らかになったことで,クレインは敗れるのである。これはクレインにとって,人生における最大の挫折だったようで,人格崩壊にもなりかねない重い鬱状態になってしまう。彼女がもし,今度は患者としてギャラガーのもとを訪れれば,鬱病患者として扱われるであろうが,彼女の根本的な病はそこにあるのではない。リーマンショック以降もやはり「勝ち組」「負け組」理論がいまだに優位性を保っている北米社会そのものに病の起源があるのではないか。

 今回のエピソードでは,3人の患者たちがそれぞれに人生のやり直しのスタートラインに立ったわけだが,この中でもっとも立ち直るのが困難なのはクレインであろう。彼女が抱える鬱病を根治しても,それは感冒における対症療法でしかなく,病の根本は米国社会そのものにある。米国社会という制度そのものを治療しなければ,クレインのような患者は後を絶たない。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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24. August 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#5「人気スターの苦悩」(FOXチャンネル)

 毎週火曜にFOXチャンネルで好評放送中の『メンタル:癒しのカルテ』第5話の患者は,映画スターのリーアムという男性。物語の中でリーアムは,トム・クルーズ並に全米で人気のスターという設定である。この日も彼は自分が主役を務める新作映画のプロモーションのために,生番組のトークライブに出演していた。
 このトークライブは見た感じでは,私がいつもCNNの生放送で見ているラリーキング・ライブのようなものだ。番組の看板アンカーマンのラリーキングが,毎回スターや起業家,政治家など多彩なゲストを招き,結構言いたい放題突っ込みを入れる番組である。リーアムがこのようなトークライブに呼ばれるのは,スターとしてそれなりにステイタスを築いてきた証拠である。
 リーアムは新作映画についていろいろとアンカーマンに尋ねられると,最初はまじめに作品の事や,この作品についての意気込みなどを“スターらしく”語っていたのだが,なぜか途中から女性や性的マイノリティーに対する差別発言を繰り返すようになり,慌てたアンカーマンの制止も振り切り,会場にいる女性客にも暴言を浴びせかけるという生放送前代未聞の大失態をやってしまった。その後彼は心神喪失状態となって病院に収容されることとなる。
 当然これはパパラッチたちの格好の餌食になり,彼は“休養”という名目で,Dr.ギャラガーが精神科部長を務めるウォートン記念病院に身を隠したのである。ギャラガーのもとに来たリーアムは,自分が生放送のトークライブで行った行為については記憶がある様子で,これは「役造り」のために意図的にやったことだと弁明する。そして突然病院を舞台に見立てて一人芝居を始めるのだ。
 それはまるでリーアムの身体に様々な「役」が入れ替わり立ち替わり憑依するような不条理劇である。「リチャード3世」に始まり,怪奇映画,アクション映画,戦争映画などのありとあらゆる登場人物がリーアムの身体を乗っ取り,独白を続けるのである。ギャラガーの同僚たちはこのリーアムの様子を見て,ただただ“役者は凄い!”と感心をする。どうやらリーアムのことを非常に芸術家肌の強い作家的志向の役者であると評価したようで,彼は注目を集める映画の公開前に精神的なプレッシャーで不安定になっているだけだと思っているようだ。
 ギャラガーたちがリーアムによって見せられた行為は,まさに誰もが知る映画スターというポピュリズムとは対極にあるもので,言うならば,長らく舞台を中心に活動をしてきた小劇場の役者が時としてポピュリズムに対して向ける攻撃的な憎悪と嫉妬に類似している(1980年代のわが国の小劇場ブームの時に,小劇場の劇団が『劇団四季』などを小バカにしていたように)。そして自分の苦悩をまったく理解しない愚衆に対し,悪態をついているのである。
 この状態があまりにも突発的に起こったものであるから彼は精神科で診断を受けることになったのである。そして今回の物語は,リーアムの行為は「芸術」なのか「病」なのかという表現病理における根本的問題が通底しているように思える。

 ギャラガーの見立てでは,リーアムは「詐病」(虚偽性障害)と診断される。
 詐病の定義は非常に複雑で,読んで字のごとく,近年までは確かに“「病」を装った「病」”として定義されることも多かった。この場合の偽装“詐病患者”は,生活苦,金銭的困難などを回避するために意図的に「病」を装ったもので,近年わが国でも,身体障害,心身障害などを偽装して生活保護を不当に受給したり,障害者手帳を不当な方法で取得するという悪質な事例がしばしば報告されるようになった。このような事例は「病」に当たるものではなく,明らかに犯罪であるから除外するとして,リーアムが陥った詐病とは,「病」になることによって医師や看護師を始めとする多くの人から大切に扱われたいとするミュンヒハウゼン症候群に相当するものだ。
 これはいつの時代にもセレブリティは孤独であることを物語っているのである。先月亡くなったマイケル・ジャクソンもそうであった。特にリーアムのように非常に芸術家肌の強い役者は,世間とは乖離し過ぎたその極端なハイアート思考が社会との「溝」をますます作り,孤立していくのである。一時期,日本の往年の俳優である錦野明(にしきのあきら)が,自ら「スター錦野」というキャラクターを名乗り,多くの大衆が抱くスターという虚構を逆手に取って様々なバラエティ番組に登場していたのは,中々巧妙なアイロニーを含んでいて面白かった。

 ギャラガーはリーアムの治療にも薬を処方する事はなかった。その代わりにギャラガーがリーアムに施したのは,病室を独白劇の舞台にして,リーアムに心の内を語らせる事である。その際ベッドに拘束されたリーアムはさながらキリスト磔刑図のようである。そしてギャラガーの催眠療法に堕ちたリーアムは,スターという看板によって作られた虚像に苦しめられている事,過去に性的虐待を受けた事などを告白する。いずれもスターとしては公言することはできないことなのである。
 リーアムはこういった過去のトラウマを覆い隠すようにスターという虚像を装ってきたが,それももう限界に来たということである。その虚像を破壊するために彼が行った行為が加速して,それが病的な領域にまで達したと理解できる。
 毎回ギャラガーの診断方法や治療方法を見ていて思うのだが,とことんまでに患者に寄り添うギャラガーのモティベーションは一体どこからきているのか非常に興味深い。それがだんだんと明確になりつつある。ギャラガーが患者に施している行為とは,物語の再構築ではないのか。それは心の「闇」の空間の中で断片的になってしまった「記憶」や「時間」や「身体」をひとつに繋ぎ合わせることであり,それは失われた自尊心の回復にも繋がる。それには典型的な医療空間よりも,それぞれの患者にフィットした有機的空間が必要なのである。
 それが,前回の患者であるコナー少年に与えられた仮想RPG空間であり,その前の患者である大作家ギデオンに与えられた神による審判の場面である。このような空間が作れるのはギャラガーが芸術家のごとくクリエイティヴな医者であるからである。多くの精神科医が「表現」という行為の中に「病理」を見出そうとするのに対してギャラガーは,患者固有の「病理」の中から「表現」を導き出そうとするのである。このギャラガーのアプローチは,今日の精神科医療領域でも特に,芸術療法や病跡学といった分野に大いなる疑問を投げかけるものであろう。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#4(FOXチャンネル)

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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17. August 09

【海外ドラマ】『メンタル:癒しのカルテ』#4「少年の空想ゲーム」(FOXチャンネル)

 毎週FOXで放送中の『メンタル:癒しのカルテ』第4話の患者は,テレビゲームの世界に自閉している選択性無言症と診断された少年コナー。
 両親に連れられて,ウォートン記念病院の精神科医Dr.ギャラガーのもとを訪れたコナーは,診察中も下を向いたまま,両手がまるでゲームのコントローラーを操作しているかのように忙しない不随意運動により反復的な動きをしている。
 ギャラガーが精神科部長を務めるウォートン記念病院は,ギャラガーが新たに赴任してから体制も変わりつつある。それは,精神科医療における閉鎖性,患者不在の「制度」を内部から改革しようとしているギャラガーや彼の理解者たちの試みが徐々にだが功を奏してきているからだ。彼は赴任早々に,絵画療法室に閉じこめられていた患者たちを庭に出して,自由に遊ばせたり,患者と医師で運動会をやらせたりと,現場の医療スタッフも当惑するようなことを次々とやってきた。
 今回のエピソードの冒頭でも,さっそく患者たちを病院の壁に自由に落書きをさせている。これに困っているのは病院の事務職員で,患者の落書きを消すのにかかる費用のことを心配しているのだ。しかし実際には病院の医療スタッフも,楽しそうに落書きをする患者たちを制止する様子はない。
 絵画療法室ではいやいやながら小さな画用紙に絵を描かされていた患者たちが,いざ病院の壁に自由に絵を描いても良いとなったら,何故にこうも見違えるほどに活き活きしているのであろうか。それは,「落書き」という行為そのものが,「制度」からの開放を意味しているからである。そのインプロヴィゼーションは,全身を使って大きな画面で自由に絵を描くことで体現される。それは同時に自身の身体性を再認識することにも繋がるのである。
 これは実際にフランスのラボルド病院で,創設者のジャン・ウーリによって何度も試みられた舞踏家や音楽家と入院患者たちの即興的セッションとも方向性を同じくするものに思える。つまり,「制度」から解放された空間には,「制度」の中でコントロールする指導者はいない。そのかわり,病者による表現の「共感者」がいるのである。
 狭い部屋に閉じこめられて,療育カリキュラムとして施される絵画療法などは,確かにフォーマットの上ではアートという要素が組み込まれてはいるが,実は,そのあり方自体にはアートの本質がどれほどまでに理解された上で臨床現場にフィードバックされているのかは甚だ疑問である。この点は,今日の芸術療法が抱える問題でもあるのだ。
 また「落書き」という行為は,「制度」から開放されるとともに,その開放された空間で行われた「行為」が,直接社会とも関わることをも意味する。かつてバスキアらにも影響を与えたグラフィティというゲリラ的アートも,「落書き」から派生したものである。これがもしアートの制度で守られた空間で制作されたものならば,それはパブリック・アートとなり,その行為や作品はアートの制度の中で守られることになるが,無許可の空間で「落書き」をした場合には,それがいかにアートであっても,法的には公共物における器物破損として罰せられる。したがって,この懲罰というリアクションで社会と深く関わることになるのである。
 しかし今回ギャラガーたちは,病院の壁に勝手に落書きを始めた患者たちを制止することはしなかった。患者の赴くままに行動させてみるというギャラガーの考えは,彼のもとを訪れたコナー少年の治療方法でも一貫している。

 選択性無言症と診断されてギャラガーのもとにやってきたコナーは,あきらかに両親,特に父親からの抑圧を受けている様子が見てとてる。コナーは誰とも目を合わせることもなく,言葉も発する事無く,ゲームの世界に自閉している。彼がこのようになってしまったのは,精神障害者の家系であることを妻に隠している父が,その贖罪意識からコナーを必要以上に優秀で模範的な子供に育てようとして抑圧してきた結果である。彼はそれによって,「躁」状態の激しい躁鬱病となってしまったのだ。
 コナーが妄想の中で見ている世界は,ポリゴンで3D加工された仮想空間である。そこで得体の知れないクリーチャーと毎日戦っているのだ。彼の手が激しく不随意運動を起こす時は,彼が仮想のゲーム・コントローラーを必死に操作している時である。
 ギャラガーはコナーを無理矢理ゲームの空間から呼び戻すのではなく,コナーの妄想空間に自ら入り,武器(アイテム)を使って迫り来る敵を自力で倒せとコナーに命令する。コナーはそれに従い,アイテムの袋から次々と武器を取り出し,クリーチャーを倒していく。そして最終ステージに現れた巨大なラスボスは,明らかに父を象徴するような存在であった。コナーはラスボスから逃げようとするが,武器を持って戦い,やっとの思いでラスボスを倒した瞬間に,コナーの妄想にあった仮想空間が崩壊していくのである。
 ギャラガーが今回コナーに行った治療は,仮想ゲームの中でラスボスを倒させることである。コナーを取り巻く妄想空間は,コナーの「病」そのものが作り出したものであり,本来ならばすぐにでも排除したい空間であるが,病根を断つには,この空間でコナー自身がトラウマを克服しなければならないと考えたギャラガーは,あえてゲームオーバーとなる最終ステージまでコナーを進ませたのである。
 テレビゲームにおけるRPGには,一定の共通するフォーマットがある。それは,「戦い」-「挫折」-「旅」-「帰郷」-「克服」-「成長」というのもだ。ドラゴンクエストなどがそうであるが,未熟な勇者は必ず旅に出て,そこで賢者と出会い,いろいろな経験をついでから逞しくなって故郷へ帰り,リベンジを果たすという大きなプロットがある。ギャラガーは,このRPGにおける勇者の成長の過程をコナーに経験させたのである。
 一人の少年の妄想空間をRPGにおける成長の物語として組み立てた今回の脚本は,なかなか秀逸であった。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

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16. August 09

【格闘技】コミックマーケットにドッグレッグス参上!(8月16日,東京ビッグサイト)

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 東京ビッグサイトで開催されたコミックマーケット(通称コミケ)で,今年はドッグレッグスもブースを構えて団体のPRとともに,先日の試合のDVDも限定発売された。
 ドッグレッグスは,障害者の格闘家たちで結成されたプロレス団体である。このブログでも試合の模様は毎回レビュー記事にしているが,試合以外にもいろいろな活動を積極的に行っている。
 この日はドッグレッグスの看板レスラーであるサンボ慎太郎選手もブースの受付に座り,DVDを購入したファンにサインをしたり,記念撮影をしたりと,ファンサービスをしてくれた。
 今回限定発売されたDVDは,先日の「8・1 成城ホール大会」の模様を収録したものである。この成城ホール大会は,今まで無敵を誇っていた王者・鶴園が王座陥落したり,引退宣言をしたサンボ慎太郎がタイトルを奪取したりと,何かと波乱含みの大会であった。その時の会場の様子が蘇ってくるような内容のDVDである。

 サンボ慎太郎選手がDVDにサインをしてくれたメッセージの中に,“橋をかける障害者”という言葉があった。これはあえて説明するまでもないが,ドッグレッグス結成時からリングに上がってきた慎太郎選手の生き様そのものを表している言葉である。
 “橋をかける”とは,障害者と世の中との間に「橋」をかけたい,ということであろう。このような表現は福祉活動ではよく目にするヒューマニズムにあふれている。しかし,言葉にするほど生やさしいことではない。そこで起こってくる様々な困難な状況を,身体をもって世の中に表現しているのが慎太郎選手をはじめとするドッグレッグスのパイオニアたちである。
 私はイデオロギーだけで「福祉」「平和」「エコ」などを唱える職業左翼やプロ市民活動家たちのことはまったくもって信用しないが,自らの言葉と身体をもって何かを必死に表現しようとしているドッグレッグスの選手たちから発せられたこのような言葉には,クリエイターとして重みを感じている。
 不自由な身体をもってDVDに刻印された慎太郎選手の直筆の文字は,慎太郎選手の身体の現在の可動範囲,僅かに残る柔軟性,衰えかけている筋力すべてが集約されたカリグラフィーである。DVDディスクの無色の盤面が,あたかもドッグレッグスの白いマットの様に蘇ってくるのである。

【ドッグレッグス公式ページ】
http://homepage3.nifty.com/doglegs/

【井上リサによるドッグレッグス関連記事】
ドッグレッグス第79回興行 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)
ドッグレッグス第79回興行 「きっと生きている」の対戦カード第一弾が発表される
ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)
「ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる」
「ドッグレッグス第77回興行レビュー」
「ドッグレッグス第76回興行レビュー」
「映画批評:天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」

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14. August 09

【アート】“街角アンデパンダン”としての 『阿佐ヶ谷七夕まつり』

 8月5日~9日にかけて,毎年恒例の「阿佐ヶ谷七夕まつり」が阿佐ヶ谷パールセンター商店街で開催された。これは高円寺阿波踊りと並んで,東京23区では昔から良く知られた夏祭りのひとつである。
 「阿佐ヶ谷七夕まつり」の歴史は古く,今年で56回目を迎える。かつて昭和の時代に毎年七夕まつりを見て育った地元の子供たちが,家業の商店を継いだものや,また,阿佐ヶ谷という街を気に入り,ここで店を構えるようになった新規の商店主たちが,毎年工夫を凝らしたオブジェを一堂に飾り,その出来や人気を競い合うという昔ながらの町内対抗の祭りだ。
 その様式は昔と今ではさほど変わっていないが,商店街の風景にはあきらかな変化が見られる。

 かつて,「大店法」の改正によって(2000年「新大店法」),商店街が隣接する地方都市にも大規模マーケットが容易に進出できるようになった。これにより,週末に車で郊外に出かけて買い物をするという新たな消費者動向が見られるようになる。言い替えればこれは,消費者は,かつてのように地元の商店街では買い物をしなくなったということである。この結果,消費者の生活圏の変化とともに地方都市の商店街は軒並み潰れていったのである。町の商店街の衰退の理由は,他の要素として少子高齢化による後継者不足,不況なども上げられるが,それに拍車をかける形となったのは,間違いなく「大店法」である。
 規制緩和とともに進められた新たな大店法は,建前上は,近隣商店街との相乗効果を謳ってはいたのだが,実際には,商店街から多くの客が奪われたかっこうとなり,廃業せざるを得ない店が後を絶たなかったのである。近年しばしば目にするシャッターが降りた地方都市の商店街はその象徴である。仮に,「経済」というものをバイタルサインと規定し,「物流」というものを血液に例えた場合,町の多くの商店街は循環器不全により末端部分で壊死を起こしているような状態である。「金」「人」「物」の全てが滞っているのである。
 「大店法」と並び,わが国の産業構造を大きく変えてしまったのは,ガット・ウルグアイラウンドの「ミニマム・アクセス」から始まった,一連の「米・牛肉・オレンジ」輸入自由化問題である。これにより,昔からあった町の八百屋も姿を消したのである。そしてここへきて,「農産物FTA」(農産物自由化貿易)を堂々とマニフェストに入れている野党まで現われたことで,農業という,いわばわが国の骨格に相当する部分まで,なし崩しになる可能性をもはらんでいる。「大店法」「ミニマム・アクセス」「農産物FTA」は,国を支えてきた地域産業の中に,「文化」を見いだせなかった人,あるいは地域産業もアートと並び「文化」であると認識できなかった発想の貧しい起業家や政治家の感性によって立ち上がったものである。こういう方々は,当事者である漫画家の里中満智子氏らもその有用性を訴えていた「国立メディア芸術センター」のことを“国営漫画喫茶”などと的外れな事を平気で言ってしまうのである。

 「阿佐ヶ谷七夕まつり」は,このような商店街にとっての激動の時代もくぐり抜けてきたものである。それだけに,この祭り自体がその時の世相を反映しているのは言うまでもなく,商店主たちが腕を競い合うハリボテのオブジェは,その年に話題になった人物やキャラクターをモティーフにされることが多い。そしてこれらの作品は来場者の投票によって各賞が決められる。
 毎年定番となっているのは,ジブリ作品やポケモンのキャラクターである。これらのものは毎年どこかの商店主が必ず作っているものだ。その中で,今年“新顔”として目についたのは漫画『もやしもん』のキャラクターとオバマ大統領だ。実在の人物がモティーフとされる場合は,これまでは圧倒的にスポーツ選手が多かったが,政治家がモティーフにされるのは異例である。パールセンター商店街の中には地元選出の石原のぶてる衆議院議員の事務所もあるので,今後,地元阿佐ヶ谷から総理誕生とでもなれば,石原議員のハリボテ人形も登場するのであろう。
 近年,地方都市で町の一角や商店街をひとつの空間に見立てたアート展がしばしば開催されているが,近頃は企業塾出身のイベント屋や広告代理店がこれらのものに参入するようになってから,とたんにつまらないものになってきた。なにがつまらないのかといえば,それらのものは一律に“東京的”なのである。体裁や見栄えは良いものの,その町を隅々まで身体的に捉えていく視点が欠けているので,地元に馴染まないのである。その点「阿佐ヶ谷七夕まつり」は,“あか抜けない”とは言われるが,その独特のアナーキーさがイベント屋や広告屋の食い物にされずにすんでいるのである。この独特のアンデパンダン的な雰囲気が,「阿佐ヶ谷七夕まつり」の面白いところだ。

 長年続いてきた「阿佐ヶ谷七夕まつり」はいつの時代も安泰であったかといえばそうではない。阿佐ヶ谷の昔を良く知る地元の人たちに言わせると,やはり一昔前の方が展示内容も華やかであったそうである。今とは比較にならないほどのもっと多くの空中展示物がひしめき合い,力作も多かったらしい。言われてみれば,年々展示物の数は減っているようにも見える。それは,近年目につく商店街の様変わりとも無縁ではない。
 まずパールセンターの入口から青梅街道に抜けるまでの出口を歩いてみて感じることは,昔は個人商店であった店舗のほとんどがビルになり,店をたたんで外食チェーンや携帯電話屋,コンビニなどにフロアを間貸ししているところが増えている。昔ながらの店舗も代が変わり,かつては町興しのために頑張っていた第一世代が引退してしまっている。このことが原因なのか,商店街で店を構える人の中には阿佐ヶ谷とは縁もゆかりもない人たちもいて,祭りに対するこだわりにも相当の温度差があるのは事実だ。そして当然のことながら,祭りとは義務でやるものではないので,商店主の中には出し物を出品しない人たちもいる。七夕まつりでこのような店の前を通ると,そこだけ唐突に空洞のような空間が現れるのである。
 その一方で,地域の中に溶け込もうと積極的に参加している新規参入者たちもいる。かれらの多くは主に外国人商店主である。阿佐ヶ谷には中華を筆頭に,インド,地中海,東南アジアなど,あらゆる多国籍の料理店が並んでいる。その中で,地元商店街の一員として町づくりに積極的に関わるために,露店で品物を出品する外国人商店主も増えてきているのである。七夕まつりのもう一つの目玉である露店が,旧来の露店とは異なって,多国籍の美味しい食べ物が並ぶと評判なのは,自慢の郷土料理を持ち寄る外国人商店主の貢献も無視できない状況となっている。
 阿佐ヶ谷の町からパールセンター商店街が無くならない限り,七夕まつりはこれからも続いて行くとは思われるが,地方都市の商店街と比べて郷土色が鮮明に出しにくい都市型の商店街が今後どのように変容していくのかは,まだまだ観測の余地はあるであろう。

02
パールセンター中ほどに来て,突然現れたオバマ大統領
子供たちにも良く知られているようで,いたるところで「オバマ! オバマ!」という声が聞こえていた。

03
炉端焼屋が作ったホッケの親子
完成される前からこれを見た人たちの間では,鯵だ,鯖だといろいろ議論をよんだらしいが,ホッケの親子だそうである。

01
もやしもん
アニメ化をされて,一昨年からひそかなブームをよんでいる「もやしもん」の菌類のキャラクター。
露店がひしめく中でこのようなものが天井からぶら下がっている構図は,ほんとうにシュールである。0-157の姿も確認。

Photo
清志郎のキャラ風
七夕まつりの作品は,おおくの場合キャプションが付いていない。したがってこちらは,“たぶんアレを作ったのであろうな”と密かに思いながら見るのが楽しいのである。
この作品にも,特にキャプションは付いていなかったが,これは忌野清志郎がサインに使っていたキャラクターではないであろうか。

 

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06. August 09

【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#3「罪の意識と 神の審判」(FOXチャンネル)

 先月からFOXで放送がスタートした精神科医療の現場を舞台にした医療ドラマ。ここの物語の舞台となっているウォートン記念病院は,精神科の他に内科,外科,産科をも備えた郊外の総合病院である。緑の多いその庭は,患者にとっても市民にとっても開放的であり,この空間がまるで海と河川とをバイパスするニュートラルな汽水域のような役割を果たしている。精神科医療の制度改革を試みたジャン・ウーリによってパリ郊外に創立されたラボルド病院も,ちょうどこんな感じの病院である。森や林や庭が,医療空間を閉鎖させることなく町の中で繋がっているのである。
 ウォートン記念病院の精神科部長のDr.ギャラガーは,鳴り物入りでここの病院に移籍してきた。移籍早々,これまでの精神科医療の常識を覆すような治療を試みたり,病院経営や医療体制にも口を出しながら,あくまでも臨床の現場で医療制度改革をやろうとしている。
 例えばギャラガーは,カンファレンスの場に患者も同席させるように提案したり,患者たちを庭に出し,好きなように遊ばせたり,同僚たちを招集し,いきなり患者たちと一緒に庭で運動会をやらせたりと,やりたい放題である。しかしこれは単に思いつきでやられたことではなく,ギャラガーの臨床医としての信念と理論に基づくものなのだ。だから反発するものは当然いるが,彼のことを理解する人間もいるのである。
 そして今回のエピソードでは,おそらく日本のテレビドラマではタブーとなってなかなか触れることができないであろうと思われる製薬会社のプロパーと病院経営陣の癒着ぶりがあからさまに描かれていて,これには驚いた(日本の医療ドラマは製薬会社や医療関連メーカーが番組スポンサーになることがしばしばあるので,脚本家もここの部分には気を遣うのであろう)。プロパーとしては新薬承認のために自分のところの薬を使ってもらいたくて病院経営陣に売り込みをかけにくるのだが,なんとギャラガーはこのプロパーを追い出してしまったのである。これに激怒した経営陣は,大切な“財源”(すなわち臨床試験への見返り)が無くなってしまうではないかと大騒ぎだが,ギャラガーは簡単な始末書を書かされただけで部長として居座るのである。彼が優れた臨床医であることを経営陣も認めているので,なかなか首を切れないところが実に痛快である。

 『メンタル』第3話の患者はギデオンという初老の男性。彼は世界的に知られるノーベル文学賞クラスの高名な作家という設定である。彼は妻と外出中に落雷に遭い,その衝撃で緊張病の症状を示し,ギャラガーの所に運ばれてきた。この落雷の事故で一命はとりとめたギデオンであったが,一緒にいた妻は失った。
 ギデオンの症状は,肉体は回復して覚醒しているが,外見上は意識レベルが低下しているという奇妙な状態である。言い換えれば,実際には意識は鮮明であるが,外界の刺激に対しての反応が極端に希薄な状態であるといえる。これは統合失調症の中でも予後は比較的良好な経過をたどるので,ギャラガーは積極的な治療を試みることになる。
 しかしギャラガーの様々な試みもむなしくギデオンの症状は一向に回復する気配がない。そして手詰まりかと思われたギャラガーは,ギデオンの著書『審判』を読みながら治療の糸口をつかんでいく。
 ギデオンの最後の著書『審判』は,実は彼の長年の愛人に献呈して書かれたものなのだ。さらに,この著書はギデオンが「神」の視点に立って書かれたものであるらしい。ギャラガーはこの『審判』をもとに,ギデオンの病室を娘の反対を押し切って模様替えをしてしまうのである。それまでのギデオンの病室は家族や娘の写真であふれていた。ギャラガーはそういった家族の思い出を全てはぎ取って,何もない空間にしてしまったのだ。そこはさながら神の前に差し出された法廷のような空間である。ギャラガーはこの法廷と化した空間で,ギデオンのトラウマの核心に迫るのである。
 そもそもギデオンは,落雷も予想される悪天候の日に妻を無理矢理外へ連れだし,雷恐怖症の妻に雷の恐怖を克服させるというとんでもない行為を行った結果,落雷で妻を失ったわけである。ギャラガーはこのギデオンの行った行為について,“あなたは妻に対しても神である自分の存在を誇示したのだ”,“あなたは神ではない”と激しく責め立てる。まさに法廷と化した病室で,ギデオン自身が裁かれているのである。このシーンは,スタートレック・ネクスト・ジェネレーションのピカード艦長と宇宙の全能な生命体「Q」との対決をも彷彿とさせる。
 そして,ギデオンが一向に目覚めようとしないのは,長年自分は妻を裏切り続けてきたこと,そしてその妻を自分のせいで失ったことを認めたくないが為に,「病」から回復するのをギデオン自らが拒否しているのだと理解したギャラガーは,さらにギデオンを厳しく責め立てる。そして妻への贖罪を背負って生きていくことを選択したギデオンは,やっと自らの意思で「病」を回復させて,現実の世界へと戻ってくるのである。
 ギデオンという人物は,自分は神の目で世の中を厳しく審判する一方で,自らの家族には神に背く不貞行為を行っていたわけだ。こういう状況は,我々人間社会ではよく目にする光景である。人間が聖人たり得ない証拠である。例えば,人権や平和を謳う文学者が実は家では自分の妻を虐待していたり,「男女共同参画」などと言いながら何故か自分の家庭内がうまくいっていなかったりする職業左翼やプロ市民活動家はよく目にする。物事や世の中を俯瞰して見るのは結構であるが,その視点があまりにも現実から浮遊しすぎてしまうと,たかが人間が神にでもなったように錯覚してしまうのであろう。ギデオンに内在する「病理」とは,まさにこれである。

 ギャラガーが掘り下げた問題は,病でいることで救われている,あるいは許されている人間の存在である。これは人間社会で生成されるあらゆるストレスからの防御反応が働いてそうさせている,という好意的な見方も出来るが,同時にいわゆる“弱者”という絶対権力をも生む。この状況下でギャラガーが行ったのは,「病者」といういわゆる“弱者”としてではなく,一個人の人間として,ギデオンを裁くことである。これは実に厳しいことであるが,制度における「病者」が,固有の人格を持った「一個人」として人間性を回復していくためには必要なことなのである。
 第3話にして,いきなり精神科領域のタブーにふれてしまったような『メンタル』の世界は次週も目が離せなくなってきた。スポンサーや各種圧力団体の目を気にして腑抜けになった日本のテレビドラマ界で,このようなドラマを作ることができる気骨のあるテレビマンはもういないだろう。

『メンタル:癒しのカルテ』
毎週火曜日 夜10:00~11:00 FOXチャンネル

■『メンタル:癒しのカルテ』 これまでのレビュー■
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#2(FOXチャンネル)
【海外ドラマ】 『メンタル:癒しのカルテ』#1(FOXチャンネル)

 

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02. August 09

【格闘技】 ドッグレッグス第79回大会 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)

 世田谷区の成城ホールで,ドッグレッグスの第79回大会が催された。近年は格闘技専門の小屋で興行を行うことが多くなったドッグレッグスであるが,この,一見すると格闘技興行とはイメージがかけ離れている空間も,ドッグレッグスの古くからの本拠地であるといってもいい小田急線沿線の下北沢からもそんなに遠くはない。いわばドッグレッグスのホームタウン的空間であるともいえる。
 さて今回の79回大会は,いろいろと波乱含みな展開も多々あり,試合を見に行くたびに,いろいろな新たな発見があるドッグレッグスの魅力を存分に出した大会であった。
 まず冒頭で,ドッグレッグスの結成当時からそのリングに立ってきた看板選手のサンボ慎太郎から引退宣言があった。慎太郎は,気が付いてみたらもう40歳である。確かに,天願大介監督のドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』に登場していた当時の慎太郎が,肉体的にも格闘家としてのピークであったのかもしれない。それ以降も歴戦の強者とリングで戦い続けてきた慎太郎も,そろそろリングを去る時がきたのかと思うと,寂しい気持ちでいっぱいになる。それと同時に,全国各地からドッグレッグスのリングに乗り込んでくる新人レスラーたちの姿を見ていると,日々進化し,変わりゆく,有機的なドッグレッグスの断片も見ることができる。
 どんなに優れたアスリートでも,必ずそこから去る日がいつか来るのであって,それは,現在も連続フルイニング試合出場という世界記録を更新中の,まさに“化け物”と言われる阪神の金本選手であっても例外ではない。我々は,この有限の空間に命を燃やす彼らだからこそ,それを美しいと思うわけである。
 慎太郎は当然,引退試合の対戦相手にはアンチテーゼ北島を指名するであろう。ファンもそれを望むであろうから,ぜひ再び実現してもらいたいカードである。

 それから,今回衝撃的であったのは,長らく無差別級で世界王者の座を守ってきた鶴園誠が陽ノ道に敗れて王座を明け渡したことである。私はドッグレッグスの試合を観戦するようになって初めて,鶴園が敗れる瞬間を目撃したわけである。“人間凶器”としてその両腕をギリシャ兵が手に持つ斧やハンマーや鉄球のようにビルドアップされた肉体を持つ鶴園が,全ラウンドにわたって苦戦を強いられる相手が現れたことは,これまで鶴園のまさに独壇場であった無差別級に,俄然目が離せなくなる事態となった。

 それでは,本日の試合で特に印象に残った試合をレポートする。

第4試合(3分3R)
○永野V明VS激・大玉

 永野V明は福岡県の障害者プロレス団体「フォース」代表。対する大玉選手は,糖尿病で失った左足に義足を装着し,今回もスタンディング・スタイルでそれを迎え撃つ。激・大玉のこのスタイルは,前回の試合から試みられたことであり,以前のように座位でのファイトよりも格段に幅が広がった。しかしそれと同時に,片足が義足ということは相当のハンディであり,まず安定した姿勢が非常に取りにくい。その上糖尿病により片目も失明しているので,相手との距離感がつかみにくい様子である。
 そのような状況の中でも前半は大柄な永野V明と迫力ある打撃戦を展開し,楽しませてくれたのだが,やはり,その激しい動きに左足の義足が耐えられなかったようで,試合途中に義足が外れるというアクシデントがあった。その際,試合を中断して何度か義足の再装着を試みたのだが,切断面と装着部分が壊れてしまったらしく,この時点で試合終了となってしまった。
 現在広く普及している義足や義手は,人間がごく普通の日常生活を送るためにサポートとしてあるものであり,当たり前だがこれを装着して格闘技のリングに上がることなど想定されてはいない。義足や義手の強度,可動範囲,柔軟性ともに,人間があくまでも日常の行動をすることをもとに設計されている。しかし近年,障害者スポーツというものがだんだんと認知されていくようになってからは,障害者アスリートの存在も,もうそんなに珍しい存在ではなくなった。しかしこの急速に変化してきた状況に制度のほうが追い付いて行かず,障害者アスリートをサポートする福祉機器の開発もまだまだ遅れている。これまでの福祉機器制作の現場に,運動生理学,さらなる今日的な人間工学に精通したスタッフが入ることによって,この問題は解決されていくのであろうが,障害者アスリートのマーケットが無い以上はまだまだ道は険しい。
 また一方で,障害者アスリートが広く認知されていくことによって,前回の五輪で物議を醸した義足ランナーをめぐるさまざまな問題も浮上してくるだろう。つまりどういうことかというと,以前ならばパラリンピックに出場していた障害者アスリートが,義足,義手などの技術革新によって,健常者の肉体よりもそのポテンシャルが高まってしまった時,本来ならばハンディであったはずのその義足や義手を,アスリートの身体の一部として認めるか否かということである。もしこの装着具が,ポテンシャルの向上に一役をかっているとしたら,それを装着していない健常者アスリートにとっては新たなハンディが生まれるという,非常に複雑な問題を生むことにもなるのである。
 激・大玉のリングにおける様々な試みは,単に格闘技の世界にとどまらず,運動生理学,人間工学,おいてはサイバネティクスといった先端科学分野にも繋がっていく問題を提起しているのである。
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第5試合 タッグマッチ(10分1本勝負)
○アンチテーゼ北島・中嶋有木VS虫けらゴロー・ロリろり太

 前回の試合で不本意な敗戦を喫した中嶋が,今度はアンチテーゼ北島とタッグを組んでリングに上がった。中嶋の事実上の復帰戦といったところである。
 中嶋有木は,現在鬱病を患い,しかも大腸癌の経過観察中の身である。中嶋の試合を初めて観戦したのは一昨年で,その時には癌再発の恐怖と闘っている最中であったと記憶している。この時は,リングインする際に癌患者に向けたメッセージが書かれた横断幕を広げて会場の観客にアピールした。格闘技興行という場においてのこのようなパフォーマンスは非常にインパクトが強いもので,その時の様子は今でも脳裏に焼き付いている。そして今現在もこの中嶋のスタイルは基本的には変わっていない。横断幕こそ今はないが,リングインする際に誰にともなく手を合わせて深々と会釈する様子は,神聖なるリングに対する敬意と並んで,中嶋の目の先にある何者かのために祈りを捧げているようにも見える。
 古くは古代ギリシャまで格闘技のルーツを遡った場合,そこには試合を行うという行為自体に祭事的,儀礼的意味が込められており,それは往々にして神やその土地の王に対して捧げられたものだ。わが国における神道でも同様で,神社で催される様々な祭りやイベント興行は,ただの楽しい集まりではなく,やはり神(カミサマ)に対して奉納されるものである。それを考えると,中嶋の毎回の行為は,リングに上がる格闘家として,至極まっとうなものなのである。
 今回,再び中嶋をリングに上げてくれた北島にも感謝しなければならない。実は前回の試合のあと鬱が重くなった中嶋は,もしかしたらこのまま引退してしまうのではないかと多くのファンを心配させていた。私もその一人であり,けしてあせる必要はないからゆっくりと休養してほしいと思っていたのである。だから今回の試合では中嶋がリングに上がることは全く期待していなかったわけだ。もし復帰するとしても,そのプレッシャーに押し潰されて,また苦しむだろうとも思っていた。そんな状況の中,北島が自らタッグ相手を務めるタッグマッチの場に中嶋を上げてくれたことは,中嶋にとっても絶好の機会であったといえる。これはかつて,リングの上で人気者になって少し調子に乗りすぎていたサンボ慎太郎の根性を叩き直すために,自らがレスラーとなって慎太郎と壮絶な3本勝負をした北島ならではの素晴らしいマッチメイクである。
 今回,その風貌に似合わずインサイドワークが得意な虫けらゴロー・ロリろり太組と,力勝負を挑んだ中嶋の必死な形相は鬼気迫るものがあり,癌や鬱と戦うために絶対に必要な自分の場所,即ちリングの上で生き残るために,死ぬ気で戦ったわけである。ドッグレッグスのリングに上がる選ばれしバーリトゥーダーたちは,例えいかなるハンディを抱えようとも,それを甘んじて受けなければならない。そこは,見知らぬ人々の圧倒的な善意に包まれた,世の中でしばしば目にする牧歌的な闘病空間とは異なる。中嶋は癌や鬱になりながらも自らでこの厳しい空間を選んだのだから,戦いの中に現れる「野性」において「病」と戦っていくしかないのである。
 それにしても,やはりタッグを組んだ北島の存在は大きかった。北島はかつてこのようにして何度もドッグレッグスの名レスラーを育ててきたのである。今回も,前回の試合について自問自答を続けていた中嶋に対して,あえてリングに上げたことは,様々なリスクやアクシンデントも想定されたと思うが,結果的に死に物狂いの中嶋の姿を見れたのはよかったのではないか。
 試合を終えた中嶋も野獣のように興奮していた。この「野性」こそ,「病」に打ち勝つのに必要なのである。近年の生暖かい“癒しブーム”や,その空間でクローズアップされた数多の病者とは対極にあるものである。そして病者は何かと「制度」の中で抑制される存在であるが,かつてその硬直化した「制度」に異議を唱えたのが,パリ郊外のラボルド病院の創始者ジャン・ウーリであり,その正統なる後継者のフェリックス・ガタリであった。彼らは病者の身体や感覚にアプローチして,抑圧された「制度」を解放することを試みた。中嶋が試みているのは,ウーリやガタリの概念を身体的に表したものだ。
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第6試合
世界障害者プロレスヘビー級選手権試合(3分3R)

障害王・天才まるボンVS挑戦者・サンボ慎太郎○

 今回の大会はまったくもって波乱含みである。長らく王者の座についていた者たちが,あっけなくその座から引きずり下ろされるようなカードが多々あった。このカードもその一つである。
 挑戦者のサンボ慎太郎は,ドッグレッグス結成当時からリングに上がってきた看板選手である。そのやや衰えた肉体には歴戦の記憶が刻み込まれている。それを物語るかのように,試合前に近い将来に引退を考えているということがファンに伝えられた。毎回多くの新人レスラーを迎い入れて,ますます華やかになっていくドッグレッグスであるが,その華やかな舞台からひっそりといなくなっていく者たちもいる。
 サンボ慎太郎とは,まさにドッグレッグスを象徴するようなレスラーであり,慎太郎の歴史を語ることは,即ちドッグレッグスの歴史そのものを語る事なのである。その,やがてリングを去っていくであろう慎太郎の対戦相手は障害王・天才まるボンである。打撃戦が得意な選手で,慎太郎もそれを受けてか途中から打撃戦の様相を呈してきた。筋トレとドレッドミルでビルドアップされた堅牢な慎太郎の肉体とは対照的に,まるボンの肉体はその名が表すように全身,特に胴周りが厚い脂肪の装甲で覆われている。これではいくら打撃を受けても,その衝撃吸収材のような肉体ではさほどのダメージすら与えられないであろうという感じである。この双方の異なった身体のコントラストが実に面白い。同じ人間の肉体にも関わらず,まったく異なった種の生き物に見えてしまうのである。もっとも,ドッグレッグスのリングに上がるレスラーたちは,一つとして同じ肉体的特徴を持ったものはいないわけで,我々はその世界に一つだけの異形の超人の登場を毎回心待ちにしているわけである。
 打撃戦が得意な天才まるボンは,終始,慎太郎を責めるのだが,一瞬の隙を突かれてなんと王座陥落となってしまった。今回の大会は本当にこんな試合が多い。引退宣言の後に王座に就いた慎太郎も,その王座を引退まで守りきれるのであろうか。
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第7試合
世界障害者プロレス無差別級選手権試合(3分3R)

障害王・鶴園誠VS挑戦者・陽ノ道○

 今回,世界王者・鶴園に挑んだのは聴覚障害者レスラーの陽ノ道である。陽ノ道は試合前のインタビューで,いつもどのような気持ちで試合に臨んでいるかを語っていた。それは自分の意気込みを話すというよりは,まるで陽ノ道が相手レスラーにインタビューするように,そのレスラーを浮き立たせるようなものであった。
 聴覚障害である陽ノ道は,手話や筆談によってコミュニケーションをとる。手話に慣れていない相手とはそのコミュニケーション手段もぎこちないものとなる。試合中には会場の熱気とは裏腹の,まったくの静寂空間で戦ってる。このことによって純粋なる自分の空間を作ることが可能なのである。そして陽ノ道の言葉の中で非常に象徴的なのは,しばしばレスラーと対した時に出てくる“会話”という言葉である。例えば,“誰それとはいろいろな会話ができた。”,“誰それと戦ってみて,こんな人だったのかと理解が深まった”という具合である。つまり陽ノ道は,その身体自身のぶつかり合いで対戦相手と会話しているということである。
 そして今回は,下肢に重度の障害がある鶴園の目線を意識するために,聴覚障害以外は何ら身体的な障害のない陽ノ道も,鶴園と同じく車イスに乗って登場したのである。こんな発想がでてくるのは,陽ノ道がレスラーとしてだけではなく,クリエイターとしても自分の世界を持ちつつある証拠である。実は陽ノ道は,ドッグレッグス所属の格闘家という顔の他に,写真家として創作活動をしているという顔も併せ持っている。彼の被写体に収まる者は身体障害者,精神障害者,性的マイノリティーなどいろいろな状況の者たちである。彼は創作活動を通じても,音のない世界においてこの者たちとの会話を試みているのである。
 以前,純粋なる格闘技とプロレスは異なる,という話を格闘技関係の方から聞いたことがある。現在流行の総合格闘技は,ただ純粋にどちらが強いかを戦って決めるものだが,プロレスの場合は,お互いの技を出し合い,お互いの持ち味を引き出しながら戦うものである,という話である。かつてK-1などのリングに現役のプロレスラーが多数参戦した時に,ただ馬力と腕力だけが勝る外国人格闘家にまったく歯が立たなかった状況を指して,“プロレスは弱い”という印象が持たれてしまった時期があるが,ただ殴り合うだけの者たちと,お互いの華やかな技をかけ合うプロレスが,そもそも同じリングの上で戦うこと自体が間違っていたのではないかという論調もある。
 それを考えると,陽ノ道のセンスはまさにプロレス的である。それは名打者が名投手を育てるような関係である。陽ノ道と戦った者は,勝っても負けてもリング上では全ての持ち味を出し切るのだ。そして今回の選手権試合もそうであった。
 今までいかなる対戦相手も寄せ付けなかった鶴園は下肢に重度の障害があるために,上半身でしか戦えない。陽ノ道にもそれと同等の負荷を与えるために,下肢は動かないように拘束具で固定されている。この状態でお互いに至近距離で打撃戦を行うのである。しかも陽ノ道がからむ試合は実況解説もあえて入れない静寂な空間で行われるために,両者の骨や肉がぶつかり合う鈍い音がリングサイドまでクリアーに聞こえてくるのである。
 百戦錬磨の鶴園は,クレバーでありつつもラフプレーも得意であり,最初はやはり王者・鶴園が圧倒的に優位かとも思われたが,陽ノ道が良い勝負をしたので,延長戦へともつれ込んだ。延長戦の前のインターバルでは,鶴園の打撃を受けて顔面がやや赤く晴れあがった陽ノ道の姿があった。しかしそれ以上に鶴園の身体は,随所に打撃瘢があり,王者がこのように相手の攻撃をノーガードで受けることを考えても,この試合が見た目以上にいかに壮絶であったかがわかるであろう。
 試合はなんと延長戦でも勝負がつかず,判定の末,陽ノ道が王座を奪取したのである。その瞬間に会場からもどよめきの声があがったが,陽ノ道も新王者に相応しい戦いをしたのである。試合後の鶴園の悔しそうなコメントを聞く限り,リベンジマッチはそう遠くはない時期に組まれるであろう。
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第8試合
結婚記念3WAYマッチ(3分無制限R)
愛人VSミセス愛人VSプチ愛人○

 現在,海外ドキュメンタリー放送局アニマルプラネットで『ビッグキャット・ダイアリー』という番組が好評放送中である。この番組は,ライオン,ヒョウ,チーターなどの野生の肉食獣の生活をたんたんと追ったドキュメンタリーである。愛人一家の3WAY変則マッチを見ていて,思わずこれを思い出してしまった。
 野生の世界は厳しい。時には兄弟でも親子でも殺し合いや奪い合いを平気でする。そこに「情」が入るすきはない。親子3人の格闘家一家による変則マッチは,まさに肉の奪い合いをする肉食獣のごときすごいものであった。格闘家の父と母のDNAを受け継ぐプチ愛人選手は,小学6年生の現役アマレス選手である。彼は肢体不自由の父と戦うために,両手,両足を拘束具で固定された状態で寝技で戦うのである。普段は愛人選手のセコンドを務める母・ミセス愛人は健常レスラーであり,やはり息子のプチ愛人と同じく拘束具を付けて夫の愛人選手に挑んだ。これが結婚記念マッチというのだから,メインイベントにとんでもない鬼畜的なカードをもってきたものだと思ったが,実はこれは,人間の身体とはここまで凶器に成り得るのかとあらためて思い知らされたカードなのである。
 何しろ両手は後ろ手に,そして両足も関節,足首と拘束されているので,寝たまま戦うしかない。しかもその状態で繰り出せる技といったら,両足を揃えたまま大きく振り上げて,その反動で相手を叩きつける他ない。これはダイエット中の婦人がヨガのエキソサイズでしばしば取り入れている動きにも近く,インナーマッスルを鍛え上げたものでないと,連続してこんな技を繰り出すのは無理である。まるで1本の鞭のようになった身体は,それが父であろうが母であろうが息子であろうが容赦なく叩きつける。その動きだけを見れば実に滑稽であり,思わず笑いが漏れてしまいそうにもなるが,選手たちの真剣な表情を見ると,リング上ではいかに壮絶な状況が展開されているかがわかる。
 普段我々が映画などで目にする戦いの現場は,派手に格好良く演出されたものだが,実際の戦いとは,人間の身体の動きの,ある種の滑稽さをも持って体現されるものではないのかとも思えてくる。その「真剣」と「滑稽」との間の差異に,人間の身体が本来持つ不自由さ,ぎこちなさが内在しているのである。
 この野生動物の肉の奪い合いみたいなファイトに,ドッグレッグスの原点を見たのである。
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■ドッグレッグス,コミケに登場!■
来る8月16日に東京ビッグサイトで開催されるコミックマーケットにドッグレッグスも出店します。
ここでは今回の成城ホールでの試合を収録したDVD(1枚500円)が発売されます。
ブース:東地区M-12a


【ドッグレッグス公式ページ】
http://homepage3.nifty.com/doglegs/

【井上リサによるドッグレッグス関連記事】
ドッグレッグス第79回興行 「きっと生きている」の対戦カード第一弾が発表される
ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)
「ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる」
「ドッグレッグス第77回興行レビュー」
「ドッグレッグス第76回興行レビュー」
「映画批評:天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」

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