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31. Juli 09

【訃報】 演出家・山岸達児氏,逝去(2009年7月29日,享年80歳)

 去る7月29日,わが国を代表する演出家,山岸達児氏が入院先の病院で亡くなったとのご連絡をいただいた。享年80歳。密葬は8月2日に親族のみで行われる。
 山岸氏は,『東京オリンピック』(1964年)や『大阪万博』(1971年),そして後にはマルチビジョンを駆使した『ポートピア81』などの演出を手掛けるなど,わが国の映像文化に多大なる貢献をしてきた人物の一人である。
 山岸氏の訃報についての連絡を下さったのは,昨年,山岸氏の半生と今日を追ったドキュメンタリー映画『半身反義』を撮った竹藤佳世監督。竹藤監督のお話によると,山岸氏の最後を看取ったのは,ご親族,竹藤監督,そして日本大学芸術学部の宮崎氏。皆さんが病室に集まり,山岸氏を囲んで会話をしている中で,穏やかに旅立たれたとのこと。
 昨年の試写会で竹藤監督から,山岸氏が脳梗塞の後遺症で体が不自由になりながらも,またかつてのように創作活動を続けたいという気持ちがある事を直接伺っていただけに,残念な気持ちでいっぱいである。今日いたるところで目にするようになったマルチメディアという概念の基礎を映像において築いたのは他でもない山岸達児である。彼のことを知らない世代でも,皆なんらかの形で山岸達児が遺した仕事の断片を享受しているということだ。
 本日は,そんな演出家・山岸達児の仕事ぶりを振り返るために,昨年掲載したレビューを2本,改めて再掲する。一つは,山岸達児の半生と今日を追った竹藤佳世監督の映画 『半身反義』について,そしてもう一つは,山岸達児が演出を手掛けた市川崑監督の『東京オリンピック(1964)』ディレクターズ・カット版についてのレビューである。この2本の記事を再掲し,ご冥福をお祈りしたい。

(再掲)竹藤佳世監督 『半身反義』
 竹藤佳世監督の最新作『半身反義』をTCC試写室で見る。監督の作品を見るのは2002年の『彼方此方』以来だ。
 今回の作品『半身反義』は、『東京オリンピック』(1964)、『大阪万国博』(1971)などの演出を手掛けた演出家・山岸達児へのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリー作品である。

 山岸達児は1929年に上野で生まれ、日大芸術学部を卒業した後に毎日映画社に入り、そこで数多くの展示映像の演出を手掛けてきたパイオニア的存在である。特に、展示映像や映画の世界に「企画」という概念を持ち込んだのは当時としては非常に画期的なことであり、それが当時はただちにビジネスモデルとして成り得なかったとしても、後の映画界や、また映像表現を志すものに対して多大な影響を与えていったことは間違いないであろう。その山岸は、2003年に脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたものの半身不随となり、現在も施設で療養中である。そこで山岸と以前から個人的に親交のあった監督の竹藤は、ほぼ寝たきりになってしまった山岸の病床へと通い続け、4年かけてこのドキュメンタリーを完成させた。

 試写の前に、監督から次のような舞台挨拶があった。
 まず、この作品を撮ろうと思った経緯について、自分が今まで生きてこれたのはいろいろな人々との出会い、支えがあったからであって、創作活動を通して出会った人々にも“縁”のようなものを感じている。自分は山岸達児の世代が作ってきた戦後、昭和の日本というものの上に立って生きてきたことは否定できないことであり、自分とは縁も所縁もなさそうな山岸の世代の人々とも、“縁”やつながりのようなものを感じている。戦後の日本を作ってきた人々への感謝の気持ちも込めて、自分は何ができるだろうかと考えた時に、今回の作品の構想が生まれたそうである。

 私は監督のこのコメントに多々共感する部分があった。特に、何かの“縁”により自分の日々の営みが続いているということや、昭和という時代へのこだわりや自分との関わりである。
 監督の竹藤のこういったコメントからも現れるように、今回の作品『半身反義』は、山岸へのインタビューを中心に昭和の断片を映像で切り取りながら、山岸が見てきた昭和と、竹藤の見聞きした昭和という時代が、まるで今まで深い地層の中に埋もれていたかのように、その巨体を持ち上げてくる。
 まず冒頭では、山岸の少年時代と思われる役の人物が、場所が明らかでない海岸を彷徨っており、やがて穴の明いたポリタンク様の漂着物を見つけ、その中を覗き込むシーンから病床の山岸へのシーンへと移行していく。冒頭の海岸のシーンはラストにも登場する重要なシーンで、人が誰もいない海岸に放置されて朽ちた家電等の廃棄物、あるいは漂着物は、まさに「高度経済成長時代」という地層の中から顔を出した匿名の堆積物に他ならない。あるいは、老いて朽ちていく、今ではかつての著名なクリエイターから一個人となった山岸達児の骨格にも見える。
 私があえて、一時代を築いてきたクリエイター、山岸達児に対して「一個人」という言葉を使ったかと言えば、それは、竹藤がこの作品の中で掲げる「老い」というもう一つのテーマを受けてのことである。

 竹藤がインタビューのために通いつめた山岸の病室は、著名人らがしばしば利用する差額ベッド代がかかるような個室ではなく、一般病棟の大部屋であった。したがって、竹藤が山岸に対して回しているカメラの中にも、当然のことながら他の患者の見舞客の声、遠方で響く医療スタッフの声なども入っている。また、おそらく竹藤や周囲の関係者から話を聞かない限り、他の入院患者や見舞客、そして医療スタッフまでも、かつて日本で「東京オリンピック」や「万国博覧会」があったことは知っていても、山岸達児がどんな人物かを知らないであろう。つまり医療スタッフからみれば、山岸が過去にどんなに偉大な功績をあげようとも、その一線を離脱してしまった後、今は医療空間にいるのだから、「一患者」として均一化されてしまうのは当然である。もちろんこれは、「生・老・病・死」という宿命を等分に持って生まれてきた我々にもいつか必ず訪れることではあるのだが、山岸のようにかつて栄華を極め、市井の市民とは異なった華やかな人生を送ってきたように見える人間であればあるほど、一人になって「老い」を迎えた時の落差は、あまりにも大きい。
 竹藤もそのようなことを感じてなのか、映像の中では病床の山岸との対話と並行して、山岸に所縁のある人物を訪ね歩くフィールドワークの様子も出てくる。ここで竹藤が訪れたのは、毎日映画時代の同僚や大学関係者、『東京オリンピック』や『万国博覧会』の制作に一緒に関わった当時のスタッフなどである。そして彼らの話の断片から山岸達児像を構築していく。ここで興味深かったのは、山岸を語る人々よりも、むしろ山岸が現役時代に残した膨大な資料の数々である。その資料を竹藤自ら倉庫から出すシーンがあるが、軽く1000は超えるであろう蔵書、自著、台本、コンテ等の数々は、竹藤が「1人の人間の(もちろん山岸のことを言っている)のキャパシティーを超えている」と感嘆の声を上げたように、それは圧倒的な質量である。
 また、竹藤のフィールドワークはこれに留まらず、山岸が1964年、つまり「東京オリンピック」の年から住まいにしていた松原団地の部屋なども訪れている。かつての空間はほぼ空き部屋状態となっているが、それでも、膨大な資料や蔵書で底が抜けかけていた床や、部屋の随所に残る生活臭のあるシミなどは、その時代から生きてきた山岸の痕跡などがはっきりとうかがえる。そしてもうひとつ重要なのは、この団地に今も住んでいる壮年の夫婦が登場することである。彼らはいわば市井の市民として山岸と関わってきた人々であり、したがって、クリエイターとしての山岸のことはよく知らなくても、そのかわりに山岸の日常と等身大でつきあってきたような人々である。言いかえれば、このような名も無き人々も山岸とともに戦後の昭和を作ってきた人々ともいえる。冒頭で監督がコメントした一連のメッセージは、このようなところからも良く伝わってくるのだ。

 それにしても、山岸の一番の代表作といえる『東京オリンピック』が、人類の肉体の究極的表現の場であり、それに相応しいアスリートの姿をフィルムに焼き付けた山岸の肉体は今、「老い」と「病」で自由を失い、さらにそれは、「人類の調和と進歩」というテーマを掲げた『万国博覧会』からすでに30年以上経過した現在でも、その「老い」と「病」から救われることはない科学の限界を見せつけられる思いである。
 1981年の『ポートピア81』でマルチビジョンのブースを手掛けた山岸は、来るべき情報化社会とそれに象徴されるマルチメディアの台頭をすでに予見していた。その14年後に、その人工の埋め立て地が阪神淡路大震災で液状化現象を起こす。美しく舗装されたフィールドの下からは、まるで内臓のように、あるいは地層の堆積物のように泥や液体が染み出し、かつての未来都市が脆くも崩壊していった。
 山岸の一連の仕事を時系列で見ていくと、この未来都市の足元に露出したものは、今まで地下に封印されていた昭和の身体の一部そのものではないかと思えてくる。映像でもそれを感じさせるように、山岸のインタビューとともに、「東京オリンピック」、「マンモス団地」、「新幹線」、「万博」、「高層ビル」、「モノレール」といった昭和の象徴が次々と挿入され、その映像の彼方に、これらのものを作ってきた名も無き昭和の人々の姿が群像になって浮かんでくる。それに対し我々は、何事もなかったように「平成」を迎え、そこで“失われた10年”に行き詰まるのだが、私はむしろ、山岸達児のように戦後の昭和を作ってきた人々の姿を胸に刻みながら、“失われなかった10年”の中に、「昭和」との“縁”を求めてみたい、と思える作品であった。(2008年4月19日)

(再掲)市川崑監督『東京オリンピック(1964)』ディレクターズ・カット版
 折しも、長野で北京五輪の聖火リレーが行われるこの日に、少々へそ曲がりの私はあえて、市川崑監督の『東京オリンピック(1964)』ディレクターズ・カット版をDVDで見る。
 この作品を見ようと思ったきっかけは、先日、試写で演出家・山岸達児の半生を追った竹藤佳世監督の『半身反義』(7月5日より、シネマ・ロサにて公開)を見たことがもともとの発端である。すでに先日の最新レビューでも内容にもふれたが、山岸達児は「東京五輪」(1964)や「大阪万博」(1970)、「神戸ポートピア博」(1981)などの演出を手掛けた草分け的存在で、特に博覧会や企業展などの映像展示、つまり今日的にいうと、マルチメディアや映像インスタレーションの分野で、斬新な仕事を次々に手掛けてきた人物である。
 実際に、『半身反義』の本編中にも、市川崑が撮影した『東京オリンピック(1964)』の映像が随所に挿入されている。そこで、2016年に再び五輪を迎える(かもしれない)に当たり、改めて『東京オリンピック(1964)』を見てみようと思ったわけである。

 『東京オリンピック(1964)』は、単なるスポーツ記録映画ではない。監督の市川があえて後からディレクターズ・カット版をDVDに焼き直したことも考えると、これは、「国民体育」としての象徴の昭和のスポーツ──即ち、力道山、読売巨人軍、大相撲などをポピュリズムの頂点として──の集大成と、日本の復興と来るべき産業大国・ニッポンへの夜明けを明示した映画であると言ってよい。その意味でも1964年という年は、新幹線やモノレールが開通し、また、当時日本人向けの住宅としては初めて「LDK」という概念を取り入れたマンモス団地も登場したという象徴的な年なのである。

 まずイントロで、朝焼けを背景に、やや半円の昇りかけた太陽が映り、次のカットでそのイメージは解体工事用の鉄球に引き継がれる。この鉄球を見た時に、年代によって何を想像するかは様々であろうと思う。この場面では、古い建物を破壊する様が映し出され、そこで戦後の焼け野原から復興していく日本の姿を演出していることがすぐに理解できる。そして、タイトル・カットインの後、日本へ聖火が到着して、各地を縦断していく聖火リレーパートへと向かう。
 『東京オリンピック(1964)』は、男子マラソンの円谷、女子バレーの東洋の魔女、体操ニッポンなど、競技パートでも見どころが盛りだくさんであるが、一番印象に残ったのは、実は聖火リレーなのである。
 この聖火リレーは静かなナレーションとともに、日本の名所を通過し、最後は“聖地”国立競技場の聖火台へと向かう。この中で非常に興味深かったのが、聖火ランナーが日本の名所だけではなく、古い木造の民家の路地を駆け抜けるシーンである。そこには、「式典」といった厳かな雰囲気とは対極をなす、日常の普段着の日本人の姿があった。つまり、このような市井の市民もフィルムに焼きこむことで、日本という国が、戦後、底辺からも確実に復興していく姿を表現しているのだ。
 そして、この聖火リレーでもっとも印象的だったのは、被爆地ヒロシマを背景にして駆け抜ける聖火ランナーの姿である。ヒロシマの原爆ドームに到着した聖火は、ランナーとともにドームの広場から直線通路を駆け抜けるが、この時にはドーム前の広場だけではなく沿道にも数千、あるいは数万人の群衆がいて、時折、小さな日の丸や五輪旗もはためいている。その代わりに視界を遮る政治的横断幕は一切ない。しかも聖火ランナーと沿道の群衆は至近距離であるのだが、コースを誘導する警備人員以外は、ランナーをガードするような警備は行っていない。聖火リレーを見るために集まった人々も、適度に遠慮がちな距離を保ちながら、聖火ランナーに近づくといった程度で、外国人観光客も含めて皆とても楽しそうである。聖火に集まる群衆の表情も含めて撮影されたこのような演出には、あえて政治的メッセージなど必要ないということか。
 このようなシーンを原爆ドームを背景にして俯瞰で撮影していて、群衆の中を割って入る聖火ランナーが、画面下方へと駆け抜けていくシーンが実に壮観である。手に持った聖火の燃え具合も良く、ほど良い白煙をたなびかせている。その白煙が聖火ランナーの軌跡を描いていくのも実に美しい。こんな素晴らしい映像を見てしまうと、本日長野で行われた北京五輪の聖火リレーの滑稽さがより際立つ。こちらの方はというと、沿道で起こっている流血の騒乱も画面から意図的にフレームアウトさせているばかりか、メディア総出で白々しい虚構の友好ムードを演出していて、まるで茶番劇にしか見えないのである。画面からトリミング処理でデリートされた日本人やチベット人たちも、それぞれ言いたいことはたくさんあっただろう。これは民主主義のジャーナリズムのやることではない。

 五輪が商業的スポーツイベントとなり、それによって優れたアスリートの育成のために運動生理学などが発展したのは喜ばしいことではあるが、同時に五輪ビジネスモデルの構築による企業スポンサーのグローバル的展開が、本来はアスリートと市民のためにあったはずの五輪を、どこか遠くへ持って行ってしまたようにこの頃は感じるのである。

 一方、東京五輪の聖火はやがて国立競技場へと向かう。近年ではサッカー日本代表の聖地となっているこの場所が、長い祭壇状に設けられた聖火台と並んで、あんなにも奥行きのある空間であったのかとあらためて気が付かされる。それはおそらく、東京五輪の点火式、および開会式が夜ではなく日中の開催であったこと。これによって、普段はサッカーの試合で夜の風景の方が見慣れている空間のディテイルが、日中の方がよく見えること、そして、会場に入った各国の群衆の顔やしぐさを一人一人克明にフレームに収めていることが、空間の奥行きを生んでいる。また意外にも観客席が急勾配なのも確認できた。これも山岸の演出の妙なのか、ランナーが一段一段駆け上がりながら聖火台へと向かうシーンは、ロス五輪以降、過剰で奇をてらった演出が主流となった点火式を見慣れているせいなのか、非常に臨場感あふれるものとなっている。つまり、クライマックスに向けての“タメ”が十二分にあるのである。
 そして聖火が点火されると昭和天皇の開会宣言があり、そのあと鳩が空へと放たれる。柔らかい日差しの中で会場では日の丸や五輪旗に加えて、各国の万国旗が一斉に振られている。この万国旗の中には当時もそして現在も、わが国との関係があまりよくない国々もあるのだが、この世界との一瞬の一体感が、当時の日本人たちの万感の思いを表しているようでならない。
 来るべき2016年、聖火が再びこの地へやってくることを願う。(2008年4月26日)
 

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