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14. Juni 09

【格闘技】 『詩のボクシング』 王者・ねじめ正一VS挑戦者・谷川俊太郎(1998年10月10日,水道橋バリオホール)

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日本朗読ボクシング協会選手権試合
世界ライト級タイトルマッチ(3分10R)
王者・ねじめ正一VS挑戦者・谷川俊太郎
(於:1998年10月10日 水道橋バリオホール)
実況:小林克也
解説:高橋源一郎
ジャッジ:平田俊子,八木忠栄,町田 康
大会コミッショナー:楠かつのり

 衛星放送NHK BS-2では現在,BSアーカイブと銘打って,過去10年間の放送作品から特に視聴者からの反響が大きかった番組を再放送している。昨日(13日)に放送されたのが,『詩のボクシング』である。
 『詩のボクシング』とは,詩を“ことばの格闘技”と捉えて,日本を代表する現代詩の詩人たちが,ボクシングのリングに見立てたステージに上がり,互いに自作詩,即興詩をリングの上で読み合って,ジャッジ3名のもと勝敗を決めるというイベントである。ジャッジ3名の他に,リングアナ,実況,解説者,大会コミッショナーまでこの“試合”に立ち会うので,リングに上がるのがボクサーか詩人であるかの違いだけであり,フォーマットは公式のボクシングルールと何ら変わりはない。
 ふだんから現代詩にも格闘技にも馴染みのない人間にとっては,この詩とボクシングの取り合わせは,まったくもって唐突なものに見えるかもしれない。しかし,そのどちらかに少しでも触れたことのある人間であれば,詩とボクシングとの間に何らかの共通点を見出せるであろう。
 つまり,詩をただ書くだけではなく,自分の声を出して読むという行為は,格闘技がそうであるように,身体的行為なのである。ただ,詩の場合は,多くは格闘技のように他者や観客から客観的なジャッジもされることもなく終わるので,これが,あたかも格闘家のように全身をさらけ出した身体的行為であると気がつかない人間の方が多いだけである。
 大会コミッショナーの楠かつのりは,現代詩が置かれているジャッジ不在の状況に風穴を空けるためにこの企画を思い立ったという。現代詩におけるジャッジとは,すなわち他者による批評のことである。格闘技の場合は,それが判定となり,ジャッジが採点したポイントの差で勝敗が決まる。それは格闘技に限らず,どんな表現媒体でも,世の中に向けて何かを投げかければ,当然そのことに対する反響が返ってくるはずではあるが,コミッショナーの楠かつのりなどが指摘するように,詩人はただ仲間内の同人の詩誌に詩を発表するだけで,広く世の中のジャッジは受けていない。そこに詩檀が抱える閉塞性があるわけだが,楠かつのりやそれに賛同した詩人たちは,詩檀が長らく引きずってきた閉鎖性,閉塞性に風穴を空けるために,リングに立つことを決意したわけである。
 当初はプロの詩人たちだけで行われていた『詩のボクシング』であるが,現在では一般素人を対象としたオープントーナメントも行っている。こちらの方もプロの詩人たちのボクシングと同様に人気があり,下は小学生から上は90歳の高齢者まで参加者がいる。『詩のボクシング』のリングに素人も立たせるのは,実は良いアイディアなのである。これは,例えれば水泳のマスターズ選手権のようなものだ。水泳のマスターズ選手権というのは,五輪選手や実業団の競泳選手ではなく,一般の水泳愛好者たちが集う選手権であり,競技に参加する楽しさとともに,広く地域にスポーツ文化を根付かせていくという要素も担っている。こちらにも現役90歳スイマーがいるのである。
 例えばスポーツや国民体育の在り方について,三島由紀夫は『実感的スポーツ論』という評論集の中でこんなことを書いている。

「たとえば私は空想するのだが,町の角々に体育館があり,だれでも自由にブラリとはいれ,僅少の会費で会員になれる。夜も十時までひらいており,あらゆる施設が完備し,好きなスポーツが気楽にたのしめる。コーチが,会員の運動経験の多少に応じて懇切に指導し,初心者同士を組み合わせて,お互いの引込み思案をとりのぞく。そこでは,選ばれた人たちだけが美技を見せるだけではなく,どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる」(三島由紀夫『実感的スポーツ論』より)

 この三島のエッセイは,東京五輪の開催に合わせて『読売新聞』に5回にわたって連載されたもので,三島はすでにこの時から「体育」と「市民スポーツ」のあり方,そしてそれが地域の文化といかに結びついていくのかを予見していたことになる。『詩のボクシング』の大会コミッショナーである楠かつのりも,詩というものが閉鎖的,選民的な詩檀から離れて,スポーツのように市民文化として広がっていくことに何らかの可能性を求めているのであって,それは現在まずまず成功しているといえる。

 詩の朗読とは,『詩のボクシング』のようにマイクを使った朗読もあれば,詩人の肉声だけで行われる朗読もある。私の良く知る野間明子,坂井のぶこ,伊藤洋子といった女流詩人たちは,マイクを使わず肉声で朗読するタイプの詩人である。一方で,今まで何回か一緒にイベントをこなしたことのある一色真理などは,肉声ではなくマイクごしに自作詩を朗読するタイプの詩人である。また,昨年の6月に亡くなり,間もなく一周忌を迎える故・三須康司は,舞台に立って第三者に向けて自作詩を読むことを一切しなかった詩人である。「二人称画廊」の主人でもあった三須康司は,自分の主宰する画廊の名前にもあるように,“二人称”ということにこだわった詩人だ。彼は,画廊や美術館で出会った評論家,美術作家個人に対して,二人称,つまり「あなた」という個人に向けた詩をノートの切れはしに書き,それを「あなた」たる評論家や美術作家個人へ手渡すという行為を行った詩人である。
 今ここに上げた詩人たちは,詩人の中でも目に見えるかたちでアクティヴに活動している詩人たちであり,その他多くの詩人といわれる人間たちは,依然として仲間うちの詩誌の中に詩を書くという行為にとどまっている。
 詩の朗読形態については賛否両論あり,マイクを使った朗読を認めない詩人ももちろん存在する。このような詩人たちは,詩人の肉声をもってそれを自分自身の身体と捉えているので,自分の肉声と,肉声が届く空間の間に,いかなる媒介者も許さないのである。このストイックな感覚はそれなりに理解はできる。
 例えば作曲家の黛敏郎は,ヴァレーズにインスパイアされて書いた吹奏楽編成の『トーンプレロマス55』という楽曲についてこのように述べている。

「人間の息を利用する管楽器と,手に依る打楽器を生命とする打楽器のアンサンブルが発する音のエネルギーの集積は,トーンプレロマスという言葉に一番相応し,効果をあげてくれることだろう。」

 つまり,弦楽器のように,「楽器」と「身体」との間に「弓」という媒介を通す楽器は,そこで何らかの恣意的要素が生まれてしまうからそれは排除して,「息を吐く」,「手で叩く」という身体的行為が直接音に繋がる管楽器と打楽器を編成に選んだということである。この黛敏郎の吹奏楽に対する身体的なこだわりは,肉声による朗読を行う詩人と共通のものを感じる。

 では一方で,『詩のボクシング』のように,マイクを通した詩の朗読にはいかなる意味や意義があるのかを考察してみる。一連の『詩のボクシング』をテレビ中継やライブ会場で実際に見てきて思ったことは,ここに2つの暗喩が存在するということである。まず一つは,わざわざこれを“ことばの格闘技”と銘打っていることに大きく符号する。つまり詩人がリング上でマイクを掴むという行為は,これまで主にプロレスのリング上でプロレスラーによって行われてきた,いわゆるマイク・パフォーマンスを連想させるのである。
 格闘技のマイク・パフォーマンスとは多分にショーアップ的要素が含まれており,リング上のレスラーが対戦相手個人,あるいは客席にいる演出上は敵対しているレスラーに向かって,言葉で挑発行為を繰り返すのである。そして最後は手に持ったマイクをマットへ叩きつける。すると今度はその挑発に乗ったレスラーがリングの中に上がってきて,マットの上に転がったマイクを拾い上げ,その挑発に受けて立つ,というものである。
 『詩のボクシング』での初代王者・ねじめ正一と挑戦者・谷川俊太郎の戦いを見ていると,両者とも遊び心としてそのことを非常に良く理解しており,終始,緊張感の中にもユーモアのある挑発行為を応酬していた。これだけを見れば,格闘技のフォーマットを実に忠実に遂行しているのがわかる。だから彼らの口から“詩は格闘技である”という言葉がでてきても異論はない。
 『詩のボクシング』におけるマイクを使った詩の朗読に存在するもうひとつの暗喩とは,文字通り,ラッパーたちによるDJバトルである。HIPHOP音楽におけるラッパーやDJたちは,マイクを片手に即興で言葉をあやつり,その技術を互いに競い合うのである。日本では代々木で行われるB-boy ParkのDJバトルが有名で,ここから多数のラッパーやDJたちが誕生している。DJバトルの源流は,古くはニューヨーク,ソーホーの不法居住地区やデトロイトから8マイルの貧困黒人街にあり,ここで貧しい黒人ラッパーたちが日夜マイクを片手にDJバトルを繰り広げているのだ。彼ら黒人ラッパーが題材にするのはドラッグやセックス,そして貧困などに加えて,敵対するグループに対する辛辣な批判である。これはHIPHOP用語では“ディスる”(disrespect)と言い,日本では,ハードコアなHIPHOPユニット「キングギドラ」のメンバーであるZEEBRAが『公開処刑』という曲の中で,Dragon AshやKICK THE CAN CREWという売れ筋のグループをボロクソにディスったことがきっかけで,一時音楽業界でもファンを巻き込んで論争にも発展したことがある。
 また,そこに対戦相手こそ存在しないが,現在は報道番組のキャスターを務める古舘伊知郎の『トーキングブルース』というトークライブこそ,8マイルの貧困黒人街のDJやラッパーの詩的精神を正統に継承しているものではないだろうか。中でも1999年12月31日の夜にミレニアム・カウントダウンのイベントとして浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺で行われたものは,近年の彼の仕事の中では最高峰のものであろう。
 ラッパーやDJたちが手にするマイクは,単に音声を増幅させるための音響機器としてあるのではなく,そのマイクを叩いたり,服や体に擦りつけたりして様々な音を出すための身体と一体化したツールなのである。さらにいえば,KICK THE CAN CREWが『マイクロフォンのテーマ』という曲の中で歌っているとおり,マイクはその形状からして勃起した男性器の象徴であり,このようなことを考えると,マイクを握るという行為自体に身体性が立ち上がってくるのである。以上のような意味合いから考えれば,『詩のボクシング』のようにマイクを使った詩の朗読が,必ずしも肉声だけによる詩の朗読よりも劣っている,または身体性が欠如しているとも言えないのである。
 ただ,現代詩の朗読よりも歴史の長いDJバトルにこそ,真の言葉の戦いがあるようにも思う。詩人たちは熾烈なDJバトルの壇上に上がってこそ,格闘技としての詩の帰結をみるのではないだろうか。

■楠かつのり(日本朗読ボクシング協会コミッショナー)ブログ
http://imageart.exblog.jp/

■詩のボクシング 公式web
http://www.asahi-net.or.jp/~DM1K-KSNK/poetry-boxing.htm

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