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12. Mai 09

【CS放送】 『ルードの昆虫記』~昆虫たちの生態を通して退化した「五感」,「身体感覚」を再構築する~

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 CS放送アニマルプラネットでミーアキャットやワオキツネザルのドキュメンタリーと並んで人気が高いのが,生態学者ルード・クラインパストがパーソナリティーをつとめる『ルードの昆虫記』である。毎回虫好きのルードがいろいろな秘境を訪ねて,そこに生息する虫などの生き物たちの生態を紹介する番組である。
 声の吹き替えをやっているのが『ちびまる子ちゃん』のおじいちゃんの声でお馴染みの青野武氏。これが実に良い味を出している。虫が可愛くて可愛くてしかたがないルードの人柄がこちらにも伝わってくる。
 この番組は,同じく虫好きで有名な解剖学者の養老孟司氏も推薦する質の高いドキュメンタリーである。単なるネイチャリング番組というのではなく,養老氏ご自身も「脳化する社会」で批判している文明社会と人間の在り方についても問題提起している優良な科学教養番組である。
 しかしそれはわかるのだが,ルードの虫を愛するあまりのユニークな行動に毎回釘付けになり,科学教養番組ということさえこちらは忘れてしまうのだ。
 この番組を見たことがない方は,ルードとは一体どんな人物なんだろうと思うかもしれないが,昆虫好きのムツゴロウさんと言えばイメージがわくだろうか。動物王国のムツゴロウさんは,どんな獰猛な動物でも怖がらずに仲良くしようとする。例えば,オーストラリアに生息する肉食の有袋類タスマニアデビルの群れの中に入り,いろいろなところを血が出るほどに噛まれているのにもかかわらず,「よーしよーし,良い子だ,良い子だ」といって平気で顔を近づけたりする。お笑い芸人がネタにするほどにムツゴロウさんの行動はインパクトが強い。いつかムツゴロウさんは動物に喰われてしまうのではないかと思っているのは私だけではないはずである。
 『ルードの昆虫記』のルードもまったく同様である。ルードにとってはクモもサソリも可愛い友達であり,平気で顔に近づけたりする。番組のオープニングタイトルでは顔を近づけすぎてカマキリに鼻を噛まれるシーンがあり,「あっ!やられた!」という声も吹き替えでちゃんと入っている。実際に番組内ではもう何回も毒虫に噛まれており,その解毒のための血清の置いてある病院を探しに行くところでその日の番組が終わってしまった回もあるので,笑いごとではすまないのである。
 しかしルードの好奇心はとどまるところを知らない。
 ルードは,虫たちがわれわれ人間よりもすぐれた能力を持っていることを証明するために,体を張った実験もたくさん試みている。例えば,重量が軽いために高所から落下してもさほど致命傷にはならない虫の能力を実感するために,虫とスケールを合わせた高所から自分もマットレスを敷いた地面に飛び降りたり,高速で空中を飛び回る虫の体に負荷される重力を体感するために,戦闘機に同乗してアクロバット飛行を体験したりしたこともある。

 虫好きのルードにとって一番辛いのは,文明や文化が異なる部族を訪ねた時であろう。いくら今流行りの“多文化共生”などという,どことなくプロ市民臭い言葉を出してきても,食文化だけはどうしても生理的に受け入れられない場合が多々あるのである。ルードは世界各国をフィールドワークしている生態学者なので基本的には多文化理解のある人物で,どんなものを出されてもたいていのものは美味しそうに食べるのだが,虫を喰う食習慣がある部族から招待を受けた時はさすがに泣きそうになっていた。
 文明から隔てた森林で暮らす部族にとって,虫は重要なタンパク源である。彼らの中にはカブトムシやカミキリムシの幼虫を蒸して食べたり,クモを焼いて食べるという食習慣を持っている者たちもいる。ルードがそのような食習慣のあるベネズエラの熱帯雨林のある部族を訪ねた時に,大きなタランチェラを焼いた料理が出てきて涙目になったことがある。「この人たちにとっては“食べ物”なのはわかるけど,ボクにとってはクモは食べ物ではなくて友達なんだよ」と泣きそうな顔で視聴者に語りかけ,料理される前のクモをこっそりと一,二匹逃がしてやったのを私は見逃さなかった。

 ルードの一連の行動を見ていると,その虫に対するエスカレートしたフェテッシュに近い感覚を垣間見て,それを例えば多くの人がムツゴロウさんに対して向ける面白おかしい眼差しと同様に,そのユニークさだけをついつい楽しんでしまいがちであるが,この番組を毎回見ているうちにある事にきがついてくる。
 その“ある事”とは,虫の生態を通して,われわれ人間が文明社会で退化してしまった五感や身体感覚を改めて認識するということである。
 かつて,都心にも土がたくさんあって,子どもたちは学校が終わった後は塾や習い事をハシゴするのではなく,大勢で川遊びや虫採りをして過ごしていた時代,その時代の子どもたちは,森や川で遊ぶ時に生き物のいる「気配」のようなものを感じることができる野性的な感覚が今よりも備わっていたのではないかと思うことがある。
 具体的には,森や林でクワガタ採りやセミ採りに出かけた時,その姿を見る前から,なんとなくあの木の枝の裏側にセミが止まっていそうだな,とか,この石をひっくり返すと虫が出てきそうだなと肌で感じる独特の感覚である。これは自然の中で遊ぶうちに身についたものであり,私の場合は今でもこの感覚を失わずに持っている。
 真夏に木々が茂る路地を歩いている時に,シルエットだけでセミが止まっているのがわかるし,木の肌に擬態したニイニイゼミやミンミンゼミの斑紋も,一目見ただけで見分けられる。アブラゼミやミンミンゼミの鳴き声にかき消されたニイニイゼミの鳴き声も聴き分けることができるし,草原の中で隠れているカマキリも簡単に見つけられる。
 こういった五感や身体感覚は,都会の日常生活では実際には役に立つことはないであろうが,実は大切なものであると認識している。例えば,去年までは庭に来ていた虫たちが,ある日忽然と消えたりしたら,一体何が起こったのかと思うだろう。それは,虫や野生生物が感じる環境の変化を彼らと同様に察知することにもつながり,結果的に自分を取り巻く小さな生態系から大きな地球環境にも目を向けるようになる。
 これは自分の足もとにいる虫たちが教えてくれることであり,まずは安全な虫から手で触ってみることから彼らとのコミュニケーションが生まれるのである。子どもの頃,一度でも虫と遊んだ経験があれば,虫を手に持った時の虫から伝わってくる感覚が記憶に残っているはずである。
 例えば,高村光太郎はこんな詩を書いている。

 飛びたつとき わが掌を掻きてゆきし蝉の翅の力の忘らえなくに

 わが家の書斎には,この高村光太郎の詩を「書」で表した詩人で英米文学者の加島祥造さんの作品が飾ってある。一昨年,信州の伊那谷にある加島さんのアトリエを訪れた際に頂いたものだ。
 この「書」を見るたびに,子どもの頃に虫を掴んだ時の記憶や,その時に感じた虫の力強さ,そして伊那谷の加島さんのアトリエで出会った虫たちのことなどが鮮明に思い出される。人間に抵抗するように強い力で指にしがみついたクマゼミやノコギリクワガタたちである。
 このような自分と虫との来歴を振り返ると虫を目に入れても痛くないほど愛情を注ぐルードの行動も,次第に理解できるようになるのである。その反対に,虫も素手で触れないくせに,エコだのロハスだのと叫んでいるプロ市民の女性たちはまったく信用ならない。チョウやバッタが背中に止まったぐらいで何が“キャー! 虫が怖い”だ。自分たちも生態系のサークルの中にいることを忘れるなと言いたい。

 現在,生物工学の分野でも虫の存在は注目されている。『ルードの昆虫記』でも,自然観察だけではなく,医学などのさまざまな臨床研究の現場でも虫たちが役に立っていることをレポートするシリーズがある。この時いろいろな研究施設を訪れるルードは,「お前たちはすごいねえ」とまるでわが子を見るように鼻高々なのである。
 世界各地をフィールドワークをしているルードは,残念ながらまだ日本には来たことがないようだ。日本は古来より虫の音を楽しんだり,その美しさを見て楽しむという固有の虫の文化を持っている。パラワンオオクワガタやヘラクレスオオカブトもK-1のバーリトゥーダーのようで格好がいいが,日本のカブトムシやノコギリクワガタも小振りだがなかなか味わいがあって良いものである。ぜひルードには,そんな日本の虫たちの素晴らしさについても知ってもらいたいものである。

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