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10. Mai 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2008年度学生のフィールドワークを読む~医療空間における風景画の作用~

 2008年度芸術療法講座のフィールドワークで,病院のロビー等でよく見かける風景画について興味深い考察をしている学生のレポートがある。(フィールドワークの概要や私の大学での講義の内容はこちらを参照に→http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2009/04/2008-9fc0.html
 この学生は近隣のK市にある内科クリニック(仮にA医院とする)を訪ね,そこで院長にインタビューを試みている。
 まずこの学生は,A医院に展示されている油彩画が,すべて風景画であることに注目したようだ。そこでこの点について詳しい経緯を尋ねてみると,意外な理由があることがわかったそうである。
 普段われわれが病院で目にする絵画は,たしかに風景画や静物画などが多い。近年では,あえてアートと医療の空間的繋がりを意識し,病院関係者自らが作品や芸術家の主張を理解したうえで,現代アート作品を積極的に展示しているケースも散見するようになった。名古屋芸大の近隣病院でも,わざわざギャラリースペースを設けて現代アート作品を展示してあるところもある。しかしこれらのケースはまだまだ例外であり,多くの医療機関ではオーソドックスな油彩画などを展示してあるところの方が多い。それは今回,様々な医療機関で作品を見てきた学生のレポートでもわかる。
 そのような状況の中,何の変哲もない風景画だけが並んだ空間にこの学生は興味を持ったようで,あえて風景画だけをセレクトしているのか,たまたまそのような状況になったのかを院長に尋ねている。そこでわかったのは,風景画だけを並べたのは院長の意図としてやっているということである。その理由は,例えば人物画などを置くと,その絵の中で描かれている人物の喜怒哀楽の表情が,時としてそれを見た患者に精神的に不安を与えてしまう場合があるかもしれない,という配慮からだそうである。
 今まで特に気がつかなかったが言われてみれば確かにそうである。人物画には必ずそこに描かれた人物の「視線」が存在する。その絵を眺めることは,即ち作品に描かれた人物の「視線」とも対峙することにもなる。その「視線」が鋭いものならば,精神も同時に弱っていると考えられる患者に対して,不安な気持ちを与えることも多々あるだろう。それでなくてもポスターや観光写真と違って,画家の手により描かれた作品は,それだけでも画家の思いが強くこもっているものであるから,そこから見る側に発せられるであろう時として過剰なメッセージは,病人にとっては精神的に負担になることもあるであろう。

 この学生のレポートを読んでいてある一人の人物のことを思い出した。それは,一昨年ひっそりと亡くなった詩人で二人称画廊の主人だった三須康司のことである。三須康司は,生涯にわたって現代アートにおけるレディメイドによる立体作品やインスタレーションという表現形態を「作品」としては認めなかった人物である。その理由は簡単で,作家(美術作家)自らがそれ(素材)を自分の手で作っていないからという事である。サルトル的思考を大前提にした三須康司らしい考え方である。
 そして,三須康司のような考え方でいけば,結局のところ「作品」と言えるのは,絵画,彫刻,版画という表現形態に集約されてくる。だから当然私の作品に対しても,絵画やデッサンについては批評の俎上に乗せるのだが,一方で,1980年代から多数制作してきて私の代表作になっている野外のアースワークや,1990年代から制作している最新医療機器を使用したメディアワークやインスタレーション作品は「作品」とは認めないわけである。(→私のアートワークはこちらのデータベースを参照にhttp://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/
 これらの私の作品を美術館に見にきた三須康司はいつも決まって言うことがあった。それは,「器具や機械も自分で作れ」,「あなた(井上)が,作品の素材にしている器具や機械も自分で作ることによって,初めてその中にあなたの“怨念”が宿って作品になる」という文言である。つまり,メディアワークやインスタレーションで作品のユニットとして配置している心電図モニターや超音波診断装置等の電子医療機器から,人工呼吸器,全身麻酔器,人工透析器,輸液ユニットにいたるまで,全部自分で作れというのである。
 三須康司からのこの問いに対して答えるために,私は東京大学の物理学者の友人に技術協力をしてもらい,私の作品コンセプトをベースに彼が書いた回路設計図をもとに,電子医療機器メーカーにオーダーメイドで私の作品と同期する心電図の波形シミュレータなどを制作してもらったことがある。これは私の作品のためだけに制作されたものであり,生産ラインにのせて工業製品として作られたものとは異なる。しかし三須康司はそれを見ても,「いくら作品のためのオーダーメイドでも,あなたが自分の手て作らなかったら意味がない」と言ったのである。
 ようするに三須康司は,PC改造が趣味の与謝野馨大臣がバラックから部品を集めてきて自作PCを作るように,何でも自分で作れと言うのである。それを言うならば,刷り師に外注している版画家や,図面を引くだけで自分では作らない彫刻家たちはどうなるのかと尋ねたところ,そんなものは芸術家とは認めないと切って捨てたのである。
 三須康司の考え方では,いろいろな「記号」を配置して「コンセプト」というものを表現した芸術は,もはや芸術とは認めないというこのなのである。この点については,足かけ10年以上にわたり三須康司と議論を交わしてきたが,ついに決着をつけることはできなかった。その議論の中で,たびたび三須康司の口から出てくるのは“怨念”という言葉であった。
 「作品は作家の“怨念”が込められてこそ,作品である」ということである。そして三須康司はこんなことも言っていた。

 「現代アートの小品が手ごろな値だからといって,画商でもないのに喜んで買っていく人がいるが,“怨念”がこもった本物の作品ならば,そんなものは気味が悪くて家には飾れないはずだ」

 詩人でもあった三須康司の口から出たこの強烈な言葉が,実は前出の学生のレポートにもフィードバックしてくるのである。つまり,この学生が訪ねた院長は,絵画という表現形態の中でも人物画が一番“怨念”がこもりやすいと判断したのではないか,ということである。人物の表情に描かれた「喜怒哀楽」という言葉がまさにそれを表している。
 そして,そんなものは精神的にも重い気分の患者たちにどんな影響を与えるかわからないので,風景画や静物画を展示するほうが,患者にとっても心が安らぎ,余計な不安感を与えないであろうとの患者に対する配慮である。
 他の学生のレポートの中にも,医療空間に展示された絵画の種類,技法について,同様の考察をしたものがいるが,医療関係者側のこのような患者の視点に立った配慮とは正反対に,元気がない時はむしろ静かな作風の作品よりも,生命感や躍動感があふれる激しい作品の方が患者に元気を与えるのではないかと結論づけた学生もいる。
 同じ問題をテーマにしながらも,このコントラストは実に興味深いので,また後日取り上げることにする。(名古屋芸術大学芸術療法講座2008年度フィールドワークより)

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