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April 2009

29. April 09

【演奏会案内】 金管バンドで贈るスウェアリンジェンの世界(東京ブラスソサエティ第33回定期演奏会)

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 世の中にはいろいろなご縁というものが転がっているものである。先日ブログの記事で思い出したようにアメリカの吹奏楽の作曲家・スウェアリンジェンのことを書いたら,なんと近々そのスウェアリンジェンの作品だけを集めた演奏会があるとの情報を,ブログの読者の方からいただいた。
 演奏を行うのは東京ブラスソサエティという英国スタイルの楽団である。私の知る限りでは,プロの楽団が全曲スウェアリンジェンのプログラムを企画するのは本邦初めてではないかと思う。言い方は悪いが,どうもスウェアリンジェンは,あまりにも親しみがありすぎるためであろうか,不本意にもバーンズやリードの大曲に添えられた刺身のツマ扱いされているような気がしてならない。学生バンドの練習曲用に作曲された作品も多いので,演奏するほうは楽しいが,音楽として鑑賞するには物足りないと考えるものもいる。
 それだけに,全曲スウェアリンジェンのプログラムがいかに前例がなく画期的であるかがわかるだろう。この楽団が英国スタイルというのもスウェアリンジェンの作品と非常に相性が良い。
 スウェアリンジェンはアメリカの作曲家である。作風は時としてジャズやロック風の変拍子も多用するが,複合三部形式の中間部の,いわばスウェアリンジェンの「魂」ともいえるパートは,イギリス近代の作曲家エルガーやウォルトン風の美しく荘厳なハーモニーで構成されている。これをいつもは大規模なウインドオーケストラで聞くことが多いが,もともとは救世軍の軍楽隊にルーツを持つ英国スタイルにこだわった楽団の演奏も聴いてみたい。
 曲目は以下のとおり,第一部と第二部に分かれていて,コンクールやアマチュアバンドの演奏会でも人気が高い『狂詩曲ノヴェナ』,『センチュリア』,『ロマネスク』,『インヴィクタ序曲』といった不朽の名作がうまく二部構成でバランスよくプログラムされている。
 それにしても,全曲スウェアリンジェンのコンサートが聴ける日が来ようとは想像もしていなかった。
 楽団員のみなさま,アンコールはぜひ『チェスフォード・ポートレート』でお願いいたします。
 
【金管バンドで贈るスウェアリンジェンの世界】
東京ブラスソサエティ第33回定期演奏会
(第一部)
シルバークレスト
狂詩曲ノヴェナ
河ながれるところ
センチュリア
レット・ザ・スピリット・ソア
語りつがれる栄光
勝利の時

(第二部)
管楽器と打楽器の為のセレブレーション
ロマネスク
インヴィクタ序曲
新しい日が明ける
栄光のすべてに
不滅の光

2009年6月28日(日)
1:30開場(2:00開演)
場所:ティアラこうとう大ホール
入場料2000円(小・中学生1000円)
チケット取扱い:ティアラこうとう 03-5624-3333

【スウェアリンジェン関連記事】
【コラム】スウェアリンジェンは,なぜインテリ・サヨクから小バカにされるのか?

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27. April 09

【DVD】 坂井のぶこ 詩語りライブ 『有明戦記』

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 坂井のぶこの『有明戦記』詩語りライブのDVDを鑑賞する。このライブは,2008年9月16日にStar Poets Galleryで行われたものをノーカットで収録したものである。
 一般に「詩語り」という表現ジャンルは馴染みの少ないものである。それどころか,「現代詩」というもの自体がますます特異で,それを書いた詩人以外は理解不可能との印象を持たれているのだから当たり前である。そんな詩人が自作の詩を朗読するという「詩語り」にわざわざお金を払って聞きに行くのは,相当に奇特な人間ということになる。
 しかしこの,坂井のぶこの『有明戦記』は面白い。詩としても完成度は高いが,それよりも,まず他の分野,例えば映画やジャズライブや舞台公演といったエンターテインメントのジャンルに入れても遜色がないほどに楽しめる作品である。現代詩でこのような作品に出会うことはまさに奇跡に近い。
 『有明戦記』は坂井のぶこの第十詩集で,この詩集に収められている詩は全18章からなる1扁の長大な詩である。
 長野県の松本出身の坂井のぶこが,安曇野の有明地区に伝わる「八面大魔王」の説話・伝承から着想を得た作品である。この作品を読むには,この地域のことを民俗学的,および地政学的に知っておく必要があるだろう。
 まず,旧国名では信濃であったこの場所は,四方を錚々たる山々と盆地に囲まれて海がない。海がない代わりに木曽川や天竜川が横断し,川沿いの集落では魚だけではなく,川底に生息するトビゲラやカワゲラの幼虫,地蜂(クロスズメバチ)の幼虫も食すという独特の食文化が形成されてきた。
 近世までの人々の貧しい暮らしぶりは,松本市や伊那市などが編纂した市制史を紐解けば,当時の集落の人々の困窮した暮らしぶりも知ることができよう。
 そして『有明戦記』のプロットになっている「八面大魔王」の物語とは,坂上田村麻呂の北征の際,信州の貧しい農民が年貢を強要されているのを見かねた八面大魔王が,農民のために田村麻呂と戦ったというこの地方に伝わる伝説である。現在,安曇野市内のいたるところに,田村麻呂に成敗された八面大魔王の胴体,首,足などが祀られた神社などがある。

 『有明戦記』で描かれている世界は,現代詩にしばしばみられる実験的なコンテクストの試みでもなければ,随想的なスケッチでもない。全18編からなるこの長大な作品は,古代-近世-近代-現代と時系列につながった,ある一族を主軸にした年代記である。
 この一族とは,作品の中では具体的には言及されてはいないが,想像するに,例えばそれは,佐々木守が『ウルトラQ ザ・ムービー』の中で描いたワダツジンや,金城哲夫が『ウルトラセブン』の中で描いたノンマルトのような存在である。つまり,これらの一族や,有明のかの一族に共通していえることは,日本の国土,風土の中で生活しながらも,それとは系譜の異なる異質の文明・文化を秘めて暮らしてきた人々,ということだ。
 佐々木守が描いたワダツジンの伝承に登場する神獣・薙羅(ナギラ)や,金城哲夫が描いたノンマルトの神獣ガイロスが八面大魔王に相当するものである。

 詩人,坂井のぶこによって紡ぎだされる『有明戦記』は,壮大な神話世界の中で描かれる「戦い」,「略奪」,「陵辱」の繰り返しの荒々しい歴史が一族の末裔に瘢痕のように記憶されて,それが現世人と交わることでエロスが一気に開封されていくような,濃縮された野性を感じる作品である。
 自分の身体に刻印されたDNAによって発情させられた身体が,神の思惑で生け贄のような肉塊になっていく様子は,劇画家・前田俊夫の代表作『うろつき童子』にみられる暴力的,かつ「死」と「エロス」の領海を快楽をもって行き来する凄まじさと同様のものを感じるのである。それは後半にかけて,震えるような肉声でたたみ掛けてくる坂井のぶこの情念で一層に増幅される。その肉声は,鮮血が充満した器官のようにてらてらとした艶と張りがあり,まるでばらばらに切断された八面大魔王の身体を呼び戻すかのような悲哀に満ちた声である。
 坂井のぶこは20代から詩作を始め,30代になった頃から肉声による詩語りを本格的に始めるようになった。現在も続けている詩語りは年代的にも円熟味を増し,またこれまで活動をともにしてきた末期癌の田川紀久雄の「死」と「エロス」を共有しているであろう今だからこそ,もう一度この状況で『有明戦記』の詩語りを聞いてみたい。

DVD 坂井のぶこ 詩語りライブ 『有明戦記』(漉林書房)
頒価2200円
注目は漉林書房まで
〒210-0852
川崎市川崎区鋼管通3-7-8 2F
TEL 044-366-4658

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26. April 09

【格闘技】 ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)

 ドッグレッグスの試合を今回もリングサイドで観戦した。今回で78回目を迎える興行は,他団体のリングで活躍するレスラーたちも加わり,華やかで新鮮なものとなった。
 ドッグレッグスという格闘技団体は,もう何度も言うようだが,障害者プロレス団体である。彼らがそのことを堂々と名乗り,リングにあがるレスラーたちも全員バーリトゥーダーである。例えばどんなレスラーがいるかといえば,もともとは学生アマレス界で全国大会の出場経験があったのだが糖尿病で片足を切断し,プロレスの道を断たれた者。あるいは,生れながらの全盲柔道家。その他にも鬱,引きこもり,癌患者,脳性麻痺といったつわものたちが,総合格闘技のルールで戦うのである。
 もちろんこれを「見世物」だと言って批判するものは当然いるであろう。また,こんな“見世物”を毎回喜んで見ているわれわれに対しても,悪趣味な差別主義者として眉をひそめるものも当然いるのはわかっている。昨年と一昨年に,私が医学史・医学概論研究者として教壇に立っている大学の講義の中で,学生たちにドッグレッグスの試合を映画とDVDで見せた時も,実際ものすごい論議に発展した。
 しかし彼らのやっていることを「見世物」と言う者たちよ,何を今さら言っているのだと言いたい。古くは古代ギリシャにまで遡る格闘技とは,その円形闘技場の構造からして,「見世物」の他何物でもないのである。私は,そのようなものも含めて批評の俎上に上げて是非を問うならばまだ理解できるが,ドッグレッグスだけをことさら道徳的見地から取り上げることには些か違和感を覚えるのである。こういう輩は,かつてドッグレッグスのレスラーたちを養護施設の体育館から追い出そうとした福祉関係者や,障害者の自立を謳った福祉番組で,絶対にドッグレッグスの試合を放送しないテレビ局関係者と通底するものがある。

 今回の興行は,ドッグレッグス・ファンにとって,特に注目される出来事が開催前からあった。一つは,看板レスラーであるE.T.選手が引退してしまうこと。それから,中嶋有木選手が,試合当日までリングに上がれるかどうか分からないということであった。
 試合に先立ち本日の対戦カードが順に読み上げられていく中,果たして中嶋のカードが読み上げられるか否か,詰めかけたファンも気をもんだが,予定通り中嶋のカードも読み上げられ,試合は始まった。
 それでは今回特に印象が強かったカードについて書く。

第3試合 E.T.VSよっこいしょ(3分3R)
 もし中嶋の件がなければ,今回ファンが一番注目したカードであろう。これが長らくドッグレッグスの看板レスラーとして活躍してきたE.T.選手の引退試合である。彼はドッグレッグスの中ではもっとも重度の障害レスラーと言ってもいい。もちろん立つこともできなければ,安定した座位でファイティングポーズをとることもできない。だが,彼の身体のいたるところに施されたテーピングが,彼もまたバーリトゥーダーであることを物語っている。
 どんな優れたアスリートでも必ず「衰え」がやってくる。それは例えば阪神タイガースの化け物アスリートの金本にしても例外ではない。寂しいが,いつかは金本が老いていく姿を見なければならない。ドッグレッグスに所属する身体各部位に障害を持ったレスラーたちは,そもそもその体で格闘技をやるという過酷な状況に身を置いているぶん,その「衰え」や「老い」も早いような気がする。しかも,彼らが一度リングから降りたら,もう二度と彼らの姿を公の場で見ることはできなくなるので,通常のスポーツ選手が引退するのとはまた異なった意味を含んでいる。彼らにはリングを降りた後の,例えばプロ野球解説者やコーチングスタッフや芸能コメンテーターというステージは用意されてはいない。
 仮に,障害者スポーツというもののマーケットが大きく広がれば,リングを降りた彼らにも新たな活動場所が与えられるであろう。しかし,名だたる団体が主催しているプロレス中継ですらゴールデンタイムで放送しなくなった状況では,これ以上マーケットが広がるということは,しばらくの間は期待できない。
 このような状況にあるからこそ,ドッグレッグスの選手が引退する時には独特の寂しさを感じるのであるが,同時に,存在しながらももう二度と公式の場には出ないという状況が,例えば山口百恵のようなアイドル的神秘性ももたらしているのである。今回のE.T.選手の引退試合も文字通り“障害宇宙人,宇宙に帰る”というような演出がなされていたが,この演出には納得せざるを得ないのである。

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E.T. VS よっこいしょ


第7試合 アンチテーゼ北島VS激・大玉(3分3R)
 もともとはアマレスで全国大会に出場するほどレスラーとして高いポテンシャルを持っていた激・大玉が,今回はかつて糖尿病で切断した足に義足を付けて,両足で立つスタイルで戦いに挑んだ。対戦相手のアンチテーゼ北島は,ドッグレッグスの中ではいわば“化け物”金本のような存在かもしれない。ドッグレッグスの中では珍しい健常者レスラーだがもう40代である。しかしキックの切れはあるし,打撃も強力である。激・大玉には相応しい対戦相手だ。
 試合序盤は本当に良い試合だった。今回初めて義足をつけて立位で健常者レスラーに挑んだ激・大玉は,やはり時折姿勢が不安定になることがあり,そこを北島に付け込まれたかっこうだ。こういう所にも容赦しないのが北島の良い所で,その非情さが,これはお涙頂戴の福祉事業ではなく,決死のバーリトゥードの世界であることを再認識させてくれるのである。
 今回は北島の速攻に付いていけずに激・大玉が敗れたが,今後の可能性が期待できる試合内容であった。
 ドッグレッグスの試合は,対戦相手によってルールや対戦形式が異なるという総合格闘技の持つ本来の面白さや可能性を存分に発揮している。このような空間ではいわゆる「障害」というものは一つの様式,あるいは形式に過ぎない。試合が始まればそれを「障害」と思わせないほどに面白いのである。このような空間こそ,バリアフリーと呼ぶのではないだろうか。

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アンチテーゼ北島VS激・大玉

新人レスラー紹介
 ドッグレッグスのリングを去っていく者もいれば,新たに加わってくる新人レスラーたちもいる。近年は彼らの存在が実に華やかである。

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新人・大阪デビル
今回は大阪からわざわざドッグレッグスのリングに現れ,いきなり王者・鶴園との対戦となった。
普段は大阪の総合格闘技の道場でトレーニングに励んでいる。またぜひドッグレッグスのリングにも上がって欲しい。



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新人・霊子
40代で筋萎縮症を発症した一児の母。看護師のコスチュームは,病気になる前は看護関係の仕事をしていたことに由来する。初登場で見事その巨体でドッグレッグスの看板スターである愛人(ラ・マン)選手をマットに押し潰した。


【ドッグレッグス次回興行 「きっと生きている」】
2009年8月1日(土) 17:30開場 18:00試合開始
場所:成城ホール(成城大学隣)
全指定席3,000円

【ドッグレッグス公式ページ】

http://homepage3.nifty.com/doglegs/

【井上リサによるドッグレッグス関連記事】
「【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる」
「ドッグレッグス第77回興行レビュー」
「ドッグレッグス第76回興行レビュー」
「映画批評:天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」

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25. April 09

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 2008年度学生のフィールドワークを振り返る

 現在,今年度(2009年)の名古屋芸術大学の集中講義の準備に向けて,昨年の学生の授業内のミニ・レポートや後期集中講義の最終レポートなどを振り返りながら毎日再読しているところである。
 私が受け持つ講座は「芸術療法」で,毎回シラバスの冒頭には次のような文言を必ず入れている。

【名古屋芸術大学芸術療法講座──美術史から考察する疾病論・医学概論】
“人はなぜ病むのか?”、“「病」はどこから我々のもとにやってきたのか?”──。
「病」の歴史とアートを通してこんな問いかけを行っていくのが本講座である。
本講座ではまず、多数の図版資料、文献をもとに西洋美術史と西洋医学史を古代ギリシャ時代から同時に学びながら、「芸術」と「医学」の関わり、「表現」という行為と「治療的行為」の相違点を明確にしていく。
さらに、図像学の視点でそれぞれの時代の「病」像を抽出し、芸術というものが、人類史の中でいかに「病」と実践的に関わってきたのかを考察し、今日の芸術療法の現場が抱える問題点を踏まえたうえで、「表現」と「治療的行為」の接点の可能性について再度模索していく。(2009年度シラバスより)

 これをみても分かるとおり,私の講義は,医学と芸術を大きく横断するような内容となっている。具体的には,美学,西洋美術史,医学史,医学概論,医療人類学を骨子とした内容である。これを芸術学部の学生たちに学ばせている。
 また,私の講義はインターシップ方式を採用しているので,学外の学生や社会人が聴講生や履修生として講義を聞くことも可能である。私の講義で得た「単位」は,在学している大学の「単位」にも加算される。因みに昨年は,社会人履修生の参加があった。これからも特に医学部の学生らには門戸を広げておきたい。
 昨年度(2008年度)の最終レポートは,「医療空間におけるアートの役割」と題したフィールドワークであった。
 ちなみに一昨年(2007年度)は,絵画・映画などの視覚表現の中から表現病理を考察していく「疾病論」であった。こちらの方は,毎回講義を聞いていればレポート・テーマのヒントになる題材は比較的探しやすく,学生の方も取り組みやすかったことと思う。そこで,前年度「芸術療法講座」を受講した学生のレポートのクオリティから判断して,昨年度(2008年度)は,さらに踏み込んだ内容で,フィールドワークの課題を設定した。
 具体的には,学生それぞれが個人でいろいろな医療機関を訪ね歩き,そこで見つけた芸術作品や,医療機関が患者のために試みているアート・プログラムなどをレポートするというものである。
 私の「芸術療法講座」の講義は,いわゆる初めから“癒し”を前提としてアートの有用性を考察するものでもなければ,実技としてアート・セラピーを施すものでもない。実際に創作の現場に関わっている芸術学部の学生らにとっては,それらがいかに制度の中で形骸化されてきたものであるかが分かっているからである。
 そのような理由も含めて,私の講義では,西洋医学史と西洋美術史を古代ギリシャ時代から同時進行で学び,その双方,つまり「医学」(西洋美術史)と「芸術」(西洋美術史)の間にはどんな接点があったのか,また,人類は長い歴史の中で「病」というものをどのように捉え,そして「癒し」というものをどのように実践してきたのかを毎回考察している。そして最終的には,現代の医療空間と芸術表現の間に,何らかの接点の可能性を示唆できるのであれば,それを試みていこうとするものである。したがって,最初から前提として<「芸術」=「癒し」>と定義するものではない。
 これは,現在世の中にある流行のように氾濫する“癒しブーム”や,昨今の芸術表現がいとも安易に医療の領域に結びつこうとする危うい情況に対して,批評的態度を表したものでもある。
 昨年度の最終レポートは,まさにそれの集大成である。
 学生らの目から見て,彼らが独自のフィールドワークで見つけてきた様々な芸術作品が,医療空間の中でどのような存在に映ったのか。あるいは,芸術作品があえて医療空間に存在することで,芸術以上の意義が存在するのか否かをあらためて考察するこのレポートは,ややハードルの高い内容にも思えたが,学生が仕上げたこのレポートの内容を見るかぎり,なかなか意欲的に取り組んでいる学生も多くいるので,このフィールドワークは正解だったといえる。
 その中から,今日の芸術療法が抱えるざまざまな情況に対する問題提起となり得るものを,これから時間が許す限り順次触れていくこととする。

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23. April 09

【コラム】スウェアリンジェンは,なぜインテリ・サヨクから小バカにされるのか?

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 わが街にはここをホームタウンとするプロ・オーケストラが2つもある。一つは日本フィルハーモニー,そしてもう一つは東京佼成ウインドオーケストラだ。
 近年わが街は,「トトロの家」や「ガンダム商店街」,それから区長が町興しのために肝入りで作ったアニメーションミュージアムの存在が内外に知られるようになって,すっかり“アニメの町”として有名になった。
 もともとわが街はその歴史を紐解けば,古くは数多の文豪たちが邸宅を構え,1960年代から70年代にかけてはフォークや暗黒舞踏の発祥の地としてカウンター・カルチャーをリードしてきたという文化的土壌がある。
 それに加えて現在では2つのプロ・オーケストラを区内に擁するのだから,こんな小さな街によくぞこれだけクオリティーの高いものが集まったものだと関心する。おまけに緑も多くて,まるで欧州の都市のようなので,海外から来客があった時も街の中を一緒に散策するだけでも好評なのである。
 区内にホームタウンを置く2つのオーケストラのうち,東京佼成の方は長らくわが国の吹奏楽の発展と向上に尽力してきた楽団である。ここのホームグラウンドである「普門館」というホールは,吹奏楽に携わる者にとってはまさに甲子園球場と同じだ。毎年全国の学校,団体で組織された吹奏楽団が全国コンクールの本戦で顔を合わせるのがこの「普門館」という巨大なホールである。ここでは出場者全員に,「甲子園の土」ならず,“普門館の床”という記念品を贈呈している。こういうところも極右猛虎党の私としても気に入っているところだ。

 ところで,吹奏楽と聞くと多くの人は何を連想するのだろうか? おそらくは,それこそ甲子園の応援で活躍するブラスバンドや,自衛隊や警視庁の皆さんの軍楽隊などを想起するのだろうか。
 その昔は部活でブラスバンドをやっているというと,もっぱらレパートリーは映画音楽やクラシック音楽の編曲モノが圧倒的に多かった。クラシックの世界でも,近代までは弦楽器が編成に入ったオーケストラ作品が多かったのだからこれは仕方がない。吹奏楽のために書かれた演奏会用の作品としては,私の知る限りではベルリオーズが書いた弦楽器が一切加わらない吹奏楽編成の楽曲『葬送と勝利の大交響曲』という作品があるぐらいではないか。
 これに対して現代の作曲家たちは吹奏楽編成の作品も多数書くようになったので,演奏会のレパートリーも格段に広がったのだ。最近ではコンクールの常連校などが,プロの作曲家にわざわざ作品を依頼することもある。因みに何年か前の都立西校吹奏楽部の演奏会では,天野正道が委嘱作品を書き下ろしている。
 これまでに,特にアメリカで発展してきた現代吹奏楽にも吹奏楽の楽曲を専門に書いてきた作曲家たちがたくさんいる。その王道は間違いなくアルフレッド・リードであろう。しかし,もっとも愛されている作曲家は誰かと言えば,やはりスウェアリンジェンやジェームス・バーンズではないだろうか。
 彼らはしばしば来日し,わが国の吹奏楽の普及に東京佼成とともに尽力してきた作曲家である。吹奏楽を習い初めの頃,スウェアリンジェンの『狂詩曲ノヴェナ』や『インヴィクタ序曲』などを練習した人は多くいると思う。そして,だんだん仲間が集まってきて大編成になってくると,バーンズの『アルヴァーマー序曲』でもやってみようかというはなしになる。
 彼らはいわば吹奏楽の入り口にいる作曲家であり,その楽しみを我々に与えてくれた人たちでもある。
 『狂詩曲ノヴェナ』や『インヴィクタ序曲』はコンクールの課題曲にもなるぐらいなので,練習曲としても優れているが,プロの楽団が演奏すれば演奏会用楽曲としても何ら遜色はない。こういったシンプルな構造の楽曲の方が,実は「作品」として完成させるのは難しいのである。うちには東京佼成が演奏したものと,アメリカのプロの楽団・ワシントン・ウインズが演奏したものと2種類の音源があるが,どちらも素晴らしい演奏である。

 しかし世の中どういうわけか,スウェアリンジェンを小バカにしている輩もいるようだ。その理由はだいたいのところ察しがつく。ようするに,スウェアリンジェンは弦楽器が編成に入る正式なオーケストラ作品を書いていないじゃないか,ということだろう。実はこの言葉の意味の中には,インテリ・クラシック音楽ファンから見た吹奏楽というジャンルに対する少々の偏見めいたものが含まれているのである。もっとはっきり言えば,“吹奏楽ってブラスバンドじゃん”ということだ。
 こういうことを言う輩は,黛敏郎が吹奏楽編成で書いた『トーンプレロマス55』という楽曲を一度聞いてみるといい。黛がヴァレーズにインスパイアされて書いたこの楽曲は,吹奏楽の持つあらゆる可能性,身体性を試みた作品である。黛は楽曲解説でこのようなことも書いてる。
「人間の息を利用する管楽器と,手に依る打楽器を生命とする打楽器のアンサンブルが発する音のエネルギーの集積は,トーンプレロマスという言葉に一番相応し,効果をあげてくれることだろう。」
 つまり,弦楽器のように,「楽器」と「身体」との間に「弓」という媒介を通す楽器は,そこで何らかの恣意的要素が生まれてしまうからそれは排除して,「息を吐く」,「手で叩く」という身体的行為が直接音に繋がる管楽器と打楽器を編成に選んだということであろう。これを黛が言うと,あたかも原初的男根主義に聞こえてしまいそうだが,ようするにそういうことだ。本来明快なことをあたかも難しいことのように捏ねくりまわすのが好きなインテリ・サヨクとは対極にある態度である。
 スウェアリンジェンを小バカにする輩はインテリ・サヨクとは言わないまでも,旧態依然のアカデミズムで吹奏楽というものを見ていることだけはわかる。だから歴史上の大家とスウェアリンジェンを並べて語ることなど絶対に許さない。スウェアリンジェンの,あの明朗で親しみやすいポピュリズムが許せないのであろう。しかし私は何と言われようとも聞くだけで大西洋の広大な海が浮かんでくるスウェアリンジェンは愛すべき作曲家であると思っている。葉山界隈でヨット遊びをした日には,海に沈む夕日を見るたびに彼の名曲『チェスフォード・ポートレート』のサビの部分が頭の中で鳴るのである。

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19. April 09

【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~今季最後の女王対決~

 フィギュアスケート国別対抗戦で、浅田VS安藤の今季最後の女王対決を見た。浅田は3A(トリプルアクセル)を2回入れたプログラムで挑み、対する安藤は4S(クワドサルコウ)を入れたプログラム。ともに男性スケーターでも難しいとされる超難度の技である。
 結果は浅田がやや回転不足でダウングレードをされたものの、3Aを2回決めて200点超えという驚異の高得点で安藤の上をいった。一方安藤の方は4Sの失敗がプログラム全体に響き、思った以上に得点が伸びなかった。しかしこの2人の選手たちは、現行のルールの中でも難度の最も高い技に唯一チャレンジし続けたというだけでも十分に尊敬に値する。
 “現行のルール”とわざわざ書いたのは、これがまだまだ発展途上のものであり、必ずしもフェアな判定基準になっていないという問題を数多くはらんでいるからだ。その現行ルールの問題とは、フィギュア・スケートをスポーツと定義していながらも、人跡未踏の技にチャレンジする選手を正しく評価しようとしない部分である。浅田や安藤のように男子でも難しい技を試みた時、少々のミスでも大きく減点される。その一方で、ジャッジの主観ひとつで得点が左右される曖昧な「加点」方式が加わった。
 それによってここ近年フィギュア界で何が起こったかと言えば、本来、浅田や安藤のように高いポテンシャルを秘めた可能性のある主に欧米の若い世代の選手が、リスクを恐れて大技に挑まなくなったり、一方で、まるでジュニア構成のような何の変哲もない容易なプログラムを滑る凡庸な選手が高得点を得るというような好ましくない事態が起こっているのである。
 国際スケート連盟としては、浅田や安藤のような突出した選手以外にもチャンスを与えて興行的に盛り上げようという政治的な意図があるのだろうが、このような方向性は、おおよそスポーツとは言えない。
 競技としてのフィギュアスケートと、ショービズとしてのプロ・アイスショーを明確に差別化している以上、五輪や世界選手権を競う、“競技”としてのフィギュアスケートにおいて、ジャッジの下した得点にわだかまりが残るようなことをしてはいけない。またこの場に「芸術性」などという荒唐無稽なクリティークを持ち出すのもナンセンスである。
 しかしこのような状況の中で一つだけ朗報がある。来季より、一部採点について再びルール改正がなされるのである。今回改正されるのは、ジャンプでダウングレードの判定を受けた時、現行ルールよりは減点を少なくするというものである。これによって考えられるのは、浅田や安藤はさらに高いレベルのプログラム構成に挑むモティベーションが高まり、今期よりもさらにパーソナルベストを伸ばしてくるという期待が持てる。一方で、凡庸な技と要素しか持っていない選手は、ジャッジによる不可解な裁量によっていくら加点を得ても、もともとのポテンシャルに格段の差がある浅田や安藤、そしてこれから2人の女王のライバルとなっていくであろうジャン(米)やナガス(米)には追いつけないだろう。
 これが本来のスポーツのあり方である。彼らが我々から尊敬されるのは、人類の持つ究極の身体性をさらけ出し、選ばれた人間しか到達できないもっとも高いレベルで競い合うからである。そこで初めて“美”というものが、その究極の身体によって体現されるのである。
 せかっくなので、今期のしめくくりに2人の女王の作品についても少しふれておきたい。

浅田真央『仮面舞踏会』
 この作品は、浅田真央がただ“かわいい”と言われていた時代から確実に脱皮するに至った作品である。衣装もさることながら、後半のステップは、苦しみながら踊り狂う主人公の気持ちがこちらにも伝わってくる。浅田真央は、男子でも難しい技を軽々とやってしまうので、今までならば全体的に明朗で爽快なイメージしか作り出せていなかったのだが、この『仮面舞踏会』に限っていえば、そこにあるのはただただ「狂気」である。西洋絵画におけるカリカチュアで表された魅惑的な「死の舞踏」だ。それが浅田真央という究極の身体によって「エロス/タナトス」の領海を行ったり来たりするのである。
 当初、他の楽曲に比べると「緩」/「急」の抑揚に乏しいこの楽曲は、プログラム構成でも“サビ”の部分を作るのが困難とされていた。しかし、一定のリズムに乗って、後半怒涛のように押し寄せる「狂気」のステップは、ジャンプよりもむしろ高く評価されてもいいぐらいである。そしてこの時の浅田の表情も良い。ここは無理に笑顔を作る場面ではない。何かに憑かれて「死」の瞬間まで踊り続ける苦悶の表情こそ必要なのである。1年かけてようやく完成の域に達した実にすばらしいプログラムであった。

安藤美姫『オルガン』
 安藤美姫のサルコウは美しい。このプログラムではついに4回転のサルコウが見られなかったのは残念だ。劇伴に使用された『オルガン』は、サンサーンスの交響曲第3番の最終楽章である。この最終楽章の途中からオーケストラにパイプオルガンが加わるのでこのタイトルがついている。しかし残念なことに編曲がややぶつ切りであまりよくなかった。安藤の持つ、可憐かつ豪快な特徴を表現するには、オーケストラにパイプオルガンが加わって大フーガが展開されていくサビの部分を大々的に使って欲しかったのだ。そうすれば、もっと格段に安藤美姫の持つ良さを引き出せたであろう。そのような意味で、各要素のスケーティングは実に美しいのだが、プログラムとしては未完成に終わってしまったように思う。
 やはり安藤美姫には、前季にショートプログラムで滑った『シェヘラザート』のように、「緩」/「急」が明快で、途中、キャッチーな“サビ”がある楽曲がふさわしいのではないか。
 これは私の個人的希望だが、例えば安藤美姫には宮川泰の作曲したピアノとオーケストラ編成の『ゴルバのテーマ』などが似合うと思う。『ゴルバのテーマ』とは『宇宙戦艦ヤマト~新たなる旅立ち』に登場する敵要塞のテーマ曲である。威圧的にして死の香りのする魅惑的なイントロは、安藤の「動機」にぴったりだ。そして羽田健太郎が超絶技巧的に奏でる速いピアノパートは、安藤の高速スピンと合わせたら実に美しいであろう。衣装も敵要塞のゴルバの質感を引用して、偏光性のある限りなく黒に近い緑や藍をベースにシースルーの素材を重ねた衣装が作れるだろう。
 もっともこれは私個人の空想の域をでないものだが、安藤美姫の魅力とは、こういった想像力で人を楽しませてくれるところにもある。来季のルール改正が、安藤のような一流のアスリートにとってアドバンテージとなることを願っている。

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14. April 09

【論文紹介】 齊藤基生「カブリモノのみんぞく」(名古屋学芸大学研究紀要 教養・学際編 第5号)

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 何年か前に行われた冬季五輪の表彰式で,日本のある若い金メダリストが帽子を被ったまま国歌斉唱をしていて,後から識者たちに“けしからん”と叩かれたことがあった。私もライブで表彰式の模様を見ていたが,会場が雪が降り注ぐ屋外で,しかもスキー競技とあって,この選手が着帽したままの姿にはそんなに違和感は感じなかった。むしろユニフォームの一部にさえ見えたぐらいである。
 先日,名古屋芸術大学の会合で同席した考古学が専門の齊藤基生氏から頂いた『カブリモノのみんぞく』という論文は,まさにそんな当世の若者の行動から見えてくる現代風俗から着想を得て,「帽子」という装身具と,またそれを身につけるという行為の中に,どんな民俗が存在するのかを歴史・民族を横断して考察したものである。
 齋藤氏は名古屋学芸大学でも大講義を行っており,講義室に入ってくる学生らの中に,室内でも着帽のままの学生もいることに着目し,全学生に対してアンケートを行った。その結果,「帽子」という装身具はファッションとして常に身体に身につけるものであり,それを室内で,しかも大学の講義中にも着帽したままの状態に対して,「礼節を欠いた行為」とは思っていない学生もいることがわかってきた。
 現代学生のこのような風俗について,どのような歴史的経緯を経て学生間にこのような風俗が成立していったのかを,「帽子を被る」という行為の意味も含めて,古代の遺跡から現代に至るまでを例に挙げて分析するものである。

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08. April 09

【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる

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 ドッグレッグスの第78回興行の案内ハガキが届いた。
 このハガキを見て、また一人、ドッグレッグスを支えてきたレスラーが引退することを知った。
 今回引退してしまうのは、“障害宇宙人”と異名を取る看板レスラーのE.T選手である。
 ドッグレッグスは、自らがそう名乗っているとおり、障害者プロレス団体である。心身にさまざまな障害を抱えた格闘家たちがリングで戦う格闘技団体だ。団体名のドッグレッグスも、米語のスラングでは「役立たず」、「かたわ」などを意味する。
 団体が結成されたのは90年代初頭で、西暦2000年頃から本格的な興行を行うようになった。結成当初は養護学校の体育館などで、主に障害児の父兄や関係者のためにイベントの“出し物”として試合を行っていた。それが近年では、一般来場者からそれなりの入場料を徴収し、プロ格闘技団体として興行を行うまでに成長している。試合会場となる空間も、かつての養護施設ではなく、格闘技専門の小屋にリングを設営して行っている。
 私は天願大介監督のドキュメンタリー映画でドッグレッグスの試合を見て以来、気がついたらドッグレッグスの常連になっていて、毎回試合が近くなってくると対戦カードの記載された案内ハガキが届くのである。
 近年のドッグレッグスを見ていると、他団体と交流試合をやるなど、なかなか華やかになってきている一方で、引退していく選手たちも多くなってきた。健常な肉体を持ったスポーツ選手でさえ、トップアスリートとして第一線で競技生活を送れるのは、人生のうちのほんのわずかな時間である。アスリートたちは、その限られた時間の中で「心・技・体」を磨き、持てる力を燃焼させる。だからこそ美しいわけであるが、それゆえに彼らが年齢とともに衰えてくる様子を見るのは残酷なのである。
 それはドッグレッグスのレスラーたちも同様であり、彼らは心身に様々なハンディキャップを抱えているが故に、その選手生命も比較的短い。そして毎回何人かのレスラーが、ひっそりとリングの上から去っていくのである。その選手たちの中には、ドッグレッグス黎明期を支えてきたものたちも多く、彼らがドッグレッグス結成当時から夢として語ってきた格闘技の聖地・後楽園ホールでの興行を実現することなくリングを去ることは、実に無念であろう。
 アスリートに怪我はつきものだが、ドッグレッグスのレスラーたちは、それが単なる怪我や故障では終わらずに、「二次障害」を併発しかねないという大きなリスクを抱えてリングに上がっている。彼らの肉体は、その健常な部位は凶器のようにビルドアップされているが、それと相対するかたちで障害部位は脆弱である。試合中のちょっとしたアクシデントが大きな事故につながることさえある。いくらトレーニングを重ねても、その障害を持った脆弱な部位は変わることはない。そしてそれをカバーするために健常な部位に過度な負担がかかるのである。だから肉体の衰えも他のアスリートと比較しても早いように感じる。
 ここで引き際を与えてやるのもトレーナーの仕事なのであろう。今回引退するE.T選手は、“障害宇宙人”と異名を取る人気レスラーである。階級は恐らくスーパーヘビー級にカテゴライズされるようなレスラーである。
 ここでひとつ断っておくが、ドッグレッグスでいう“スーパーヘビー級”とは、従来の格闘技のような重量別のカテゴリーではない。では何かというと、障害の重度によって階級分けされたカテゴリーである。然るにドッグレッグスのスーパーヘビー級とは、もっとも身体障害の重いクラスという意味である。

 それにしても彼らのようなアスリートの引き際は実に難しい。その他のアスリートのように、引退後もコーチや解説者に転職できる機会はまずないであろう。ドッグレッグスのレスラーということで、社会におけるインデペンデンシー、自己実現を成してきた彼らがリングから去るということは、再び一介の障害者に戻ることをも同時に意味する。彼らには、例えば元プロ野球選手のようなポジションはない。
 社会の制度によって、それを好むと好まざると与えられてきた役割をただこなす事に違和感を持った彼らが行きついたのがドッグレッグスのリングであった。その空間は、彼らの隠れたポテンシャルか何かを誘発する有機性を持っている。そこの空間から去るということは、また社会の制度の枠組みの中に戻されてしまうことにもつながるかもしれない。あるいは、格闘技生活の中で痛めた体のために、施設での療養生活に入っていくものもいるであろう。
 それゆえに、ドッグレッグスの試合を観戦する時は、もう二度と彼らの姿はリングで見られないかもしれないという気持ちがこみ上げてくるのである。
 今回届いた対戦カードには、前回の興行でメイン・イベンターだった癌患者レスラーの中嶋有木の名前がない。彼の消息も気になるところである。

井上リサによるドッグレッグスのレビュー記事一覧
「ドッグレッグス第77回興行レビュー」
http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/11/77self120081st-.html

「ドッグレッグス第76回興行レビュー」
http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/05/76517face_3d5c.html

「映画批評:天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」
http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/05/1993_b9a7.html

ドッグレッグス公式webページ
http://homepage3.nifty.com/doglegs/

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