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15. März 09

【書評】 麻生太郎著 『とてつもない日本』(新潮新書)

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麻生太郎著
『とてつもない日本』

新潮新書
2007年


 現内閣総理大臣の麻生太郎氏が外務大臣時代に書いた国家論である。この本の面白いところは、政治家の著書でありながら、単に抽象的な政策ではなく、美学、日本文化論的視座からわが国の国家の形を提言したところである。その内容は、産業、工業、芸術、ポップカルチャーなど多岐に及ぶ。
 特に興味深いのが、第二章『日本の底力』の中で論じられている「日本がロボット大国である理由」というくだりである。ここで麻生氏が批評の中心的な俎上にあげているのが、『鉄腕アトム』と『モダンタイムズ』である。そして、欧米文化におけるロボットの存在は、その誕生自体がもともとは強制労働的な要素を含んでおり、先天的に人間社会とは対立せざるを得ない存在であると分析している。それに対してわが国の場合は、ロボットは人間の友達であるという文化が早くから根付いており、対立よりもまずは人間社会での融和が描かれてきた。麻生氏は、その文化的素地を作ってきたのが『鉄腕アトム』をはじめとする日本の優れたマンガやSFアニメーションであるとしている。それによって、例えば欧米が人間の形を成さない工業用ロボットの技術が発達していったのに対してわが国の場合は、介護ロボット、接客ロボット、そして「アイボ」や「アシモ」のようなペットロボットのように、人間の実生活の中で直接関わる存在として、新たなロボット技術が開発される契機となったと指摘している。そして当然のことながら、その技術は単なる実験レベルで終わることなく、近年では、身障者や高齢者用に開発が進むパワードスーツの研究などにも応用されている。麻生氏は、それらの思想の源流は『鉄腕アトム』などにあるという。
 実は私もまったく同じような考えを持っていて、欧米の友人ともこの話題がしばしば上がるのである。彼らは最初、日本の漫画やSFアニメに多く見られる“擬人化”されたロボットに非常に違和感を抱くそうだが、日本の文化を理解するようになると、その違和感が次第になくなるらしい。その時に彼らがしばしば相対的に俎上に上げてくるのが日本の仏像なのである。何もない1本の無垢の木から像が掘り起こされ、そこに魂が注入されていく様は、彼らからすると、『鉄腕アトム』の誕生シーンと同様のものを感じるそうである。また、『鳥獣戯画』についていろいろと調べていくと、日本にはなぜ「怪獣文化」や「妖怪文化」が生まれたのかも理解できるという。
 一方で、麻生氏も著書の中でも指摘しているとおり、もともとは人間の代替的労働力として誕生したロボットという概念は、近年のSF作品でも顕著ではないだろうか。例えば私はここで欧米の有名SF作品に登場する2人のアンドロイド、ビショップ(『エイリアン2』ほか)と、データ少佐(『スタートレックTNG』)を取り上げたい。
 ビショップとデータ少佐は、人間の男性に似せて精巧に作られたアンドロイドである。前者は明らかに工業製品として、後者は宇宙艦隊の士官幹部として人間社会で暮らしている。そして両者は共に、人間の為に自己犠牲的な死を遂げる。もちろんだがロボットやアンドロイドが人間の為に自己犠牲的な死を遂げる作品ならば、日本の作品にもいくらでもある。まず『鉄腕アトム』がそうであるし、『ジャイアントロボ』や、あるいはロボットではないが日本人が非常に感情移入してやまない『宇宙戦艦ヤマト』もまた同様である。
 ではここで、欧米とわが国ではその“人間以外の者”の「死」にいかなる差異があるのかを捉えるには、何をみればよいのかといえば、それは、その“人間以外の者”の「死」を、周囲の人間がどのように受け止めたかをみればよいのである。「死」と「生」というものは本来、シェイクスピアも戯曲に書いているとおり、非常に孤独な個人的作業である。そこに何か社会的意味が付加されるとすれば、それは周囲の人間によるクリティークしかないわけである。
 まずはビショップであるが、彼は例え企業から派遣された工業製品だからとはいえ、人間のために誠実に働き、仲間に対しても思いやりのあるアンドロイドであった。しかし彼がエイリアンとの闘いで致命傷を負って機能停止、即ち「死」を迎えた後の扱いは、あまりにもかわいそうであった。彼の周囲にいたほぼすべての人間は一度たりとも彼に労りの言葉もかけず、いつも彼ともっとも近い場所にいたリプリーでさえ、彼を拒絶することはあっても、仲間の一人として心を開くことはなかったように思う。この様子をみるかぎり、やはりビショップは、トヨタのような一介の企業が量産した工業製品でしかないというのを物語を見ていて目の当たりにしたのである。もしこれが手塚アニメのような日本の作品であったなら、機能停止したビショップの“遺体”にすがって涙を流す仲間もいたであろう。
 このように、同じ自己犠牲的な死であっても、周囲の人間によってそれがどのように認知され、評価されるかによって、「死」の意味がまるでかわってくるのである。その点データ少佐は、遺体こそ消滅したものの、仲間のクルーからも告別式も開いてもらって、若干は人間らしい死に方ができている。
 しかしいずれにしても、人間と彼ら機械による生命体との間には、非常に大きな隔たりが感じられる。これは麻生氏も指摘しているとおり、もともとは代替的労働力として生まれたものと、人間の友達として生まれたものの差異であろう。そして麻生氏は、後者のような感性が、日本の文化的豊かさを育んでいると指摘している。私もこの考えにまったく異論はない。
 それからもう一つ、欧米文化の中で、工業技術として人間型のロボットがなかなか開発されなかった理由として宗教的背景もあげられるであろう。欧米の保守的なキリスト教的世界観では、「神」以外が人間の形をした新たな生命を創造することは禁忌的行為である。このような背景から、ホンダがアシモのプレゼンテーションを開催した時に、欧米メディアは日本の先端技術の素晴らしさを認めると同時に、ある種の恐ろしさも感じたのである。もしもアシモが人間の成人並の大きさであったならば、その受け取られ方は大分変ったであろう。

 『とてつもない日本』の中では、わが国独特の漫画文化についても触れられている。麻生氏が漫画文化の源流として求めているのが『源氏物語絵巻』や『過去現在因果経』などである。これも、私がわが国独自の怪獣文化の源流を『鳥獣戯画』に求めるのと共通していてたいへんに興味深い。つまり、世界に名だたるポップカルチャーのクリエイターたちは、何らかの形で日本古来の文化的源流のDNAを内包していて、それが各世代でもって豊かに開花していっているというふうに、麻生氏は指摘しているのである。それはまさにそのとおりであろう。私とほぼ同世代の雨宮慶太監督など、その最たる存在である。
 ここで例えば昭和の前衛彫刻で活躍した成田亨の作品なども思わず取り上げたくなる。かつて新制作協会彫刻部で小田襄や堀内正和らとともに若手作家として活躍していた成田は、円谷プロのウルトラシリーズをはじめとする数々の特撮作品で、怪獣、星人などのクリーチャー・デザインを手がけてきた。私は生前の成田亨とは何度も会って、熱い芸術論を交わしたことが何度もあるが、その中でも、成田亨が創造する「異形」たちは、ウルトラマンが全宇宙の秩序<コスモス>を象徴するならば、怪獣たちは混沌<カオス>であるという話を何度も伺った記憶がある。そしてその「異形」たちの源流となっているのは日本古来に伝わる「鬼」にあるという。
 その話のとおり、特撮デザインの仕事から離れた晩年の成田亨は、各地に伝わる説話・民話の中の「鬼」をフィールドワークして、それを形にすることをライフワークとしていた。そしてそこで形造られた「鬼」の表情を見れば、世の中に対して睨みを利かせているその目の中に、往年のネロンガやゴモラの姿が浮かぶであろう。
 一連のこのようなものを見ていると、現代のクリエイターやポップカルチャーに対して、単に同時代性を感じるばかりか、はるか昔の連綿と続くわが国独自の文化の源流も同時に感じることができる。『とてつもない日本』は、そのことをまだ知らない日本人が、ポップカルチャーをも含めた日本文化のダイナミズムについて気づくきっかけになるような本である。これは、複雑に細分化していった「近代の病」を克服するものといっても過言ではない。ただしかし残念なのは、私が知る限りでは、海外向けには翻訳本が出版されていないことである。少なくてもこの本の英訳が海外でも出版されれば、現役の総理大臣の著書ということも相まって、今世界で注目を集めている日本文化について知識を深めたい多くの人たちが、間違いなく手に取るだろう(独訳、英訳ならば私がやってもいいですよ、新潮社のみなさん!)

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Kommentare

■麻生首相の著書、「とてつもない」売れ行き ネット掲示板“祭り”呼びかけで―あんまり責められているのを見聞きするとつい助けてあげたくなる?
こんにちは。麻生さんの著書「とてつもない日本」がとてつもなく売れているそうです。これは、ネットの掲示板“祭り”の呼びかけでブレークしたそうですが、それにしても、麻生さん日々批判の的になっていますね。良いことは、あまり報道されず、悪いことばかりこれでもか、これでもかと報道されている印象を受けます。しかし、あまりこういうことをされると、かえって批判の的になっている人を応援したくなってくるから不思議です。私も、もともとは麻生ファンでもなんでもないのですが、最近は、そんな気がしてきました。いずれにせよ、今の野党やマスコミのように、人の欠点、弱みだけをあげつらう人は、幼稚であり、頭が悪い人だと思います。詳細については、是非私のブログをご覧になってください。

Verfasst von: yutakarlson | 15. März 09 10:58 Uhr

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