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11. Februar 09

【映画】 堤幸彦監督 『20世紀少年』 第一章、第二章

 この作品は、すでに原作漫画の方に絶大なファン層を形成しており、その登場人物や細かいディテイルに至るまで、それぞれにこだわりをもっている人が多いと聞いている。それゆえに、映画化されたこちらの作品に対しては厳しい評価もあるようである。キャスティングはうまくいっているか? あるいは、昭和30年代の子どもたちが未来に描いた世界観は、スケール通りに描かれているのか? といったことも、厳しい評価にもつながっているのだろう。
 しかし、私がこの映画を観た限りでは、十分に楽しめたのである。ここはひとつ、映画フリークの間では厳しい評価にさらされているこの作品について、あえて、なぜそれが面白かったのかを私なりに説明してみる。
 まずこの映画を観る場合、観る人間の属性によってある程度篩(ふるい)にかけられる。その“篩”とは具体的に言うと、昭和30年代中葉期から昭和40年代初頭に少年時代を過ごした者とそうでない者。そしてその時代に少年だった者の中でも、いわゆる「怪獣ごっこ」や「秘密基地遊び」をやった経験のある者とそうでない者とでは、この映画の中で随所に挿入される細かいアイテムや情景といったものに感じる同時代性や当事者意識に差異が出て当然なのである。
 その中でも、「怪獣ごっご」や「秘密基地遊び」といったものは、実際に経験したことがないと理解できない身体感覚がある。まだ東京のどの場所にも空き地や原っぱがあったあの時代に、ガラクタを集めて作った「秘密基地」は、子どもたちしか入ることが許されない聖域であり、その子どもたちの中でも中に入れてもらえる仲間とそうでない仲間とがいる。
 今となってはもはや死語であるが、いわゆる“ガリ勉”君といわれた優等生は、総じてクラスの人気者になることはできず、何か面白いことがあっても、いつも遠巻きに見ているだけであった。このような級友は思い出の中でも影が薄く、クラス会でも名前さえ思い出してもらえない存在である。その少年時代の疎外感を体現しているのが、後の「ともだち」であろう。だからこの物語は、仲間に入れてもらえなかった「ともだち」の、壮大な仕掛けの復讐劇として見ることもできる。思い出の中では“名無し”の「ともだち」が、その匿名性の象徴として身に付けるマスクも、他人からの借りものにすぎない。
 この「ともだち」が、唯一、かつての「秘密基地」の仲間たちと物語を共有する方法があるとすれば、まだ“空席”としてそこにあった「悪の組織」の首領の役に自ら名乗りを上げることなのである。これは、大人が見る勧善懲悪な時代劇とは多少異なり、悪者にもそれなりに大義があった1970年代の特撮ヒーロー作品の世界観そのままである。
 その「ともだち」が復讐のために奪おうとしたのは、成人したかつての仲間の地位や名誉や資産ではなく、仲間たちが同時代性の中で大切に共有してきた「思い出」ではないだろうか。例えば、「ともだち」が仮装のために被っている「ハットリくん」等のお面や、「ともだち」側の秘密兵器として登場する「ともだちの塔」(太陽の塔)などは、あの頃の子どもたちの共通の思い出であったはずだ。それをあたかも自分だけのもののように振る舞う「ともだち」の態度は、わが国の多くの特撮ヒーロー作品に登場した「悪の組織」が思い描くことと似ている。即ちそれは、圧倒的科学力で歴史改編を行い、自分こそが支配者であることを頑なに演出することと同義のもので、しばしばこれを「世界征服」ともいう。そして「ともだち」がシンボルとして使っているあのマークも、もともとは「秘密基地」仲間のみんなが『少年サンデー』に貼付されたノンブルマークをアレンジして作った独立旗なのであるが、それさえ奪われたケンヂたちは、自分らの拠り所を喪失した植民地の住民のようでもある
 この作品は、「ともだち」という“名無し”のキャラクターをこのように丁寧に描くことによって、「悪の組織」の上の立つものの、ある種の悲哀さも醸し出しているところが良い。
 また、当時の子どもたちが考えた未来の科学のアイテムも、それなりにリアリティを持って描かれている。例えばケンヂが持っていたレーザー銃のデザインがそうであるし、ラストに登場する巨大ロボットも、いかにも大田区あたりの町工場か、あるいは工科大学生がサークル活動で作ったような手作り感がある。現代のインテリジェンス都市・東京のど真ん中にあっては、70年代の最新テクノロジーももはや懐かしいレトロ・フーチャーのロー・テクと化すことへのオマージュである。そしてその巨大ロボから噴射される細菌兵器もまた、子供騙しである。だがそれがかえって良い。本来、ヒトと接触後、潜伏期間も経ずに数秒たらずで発病する細菌やウイルスなど実際には存在しないが、ヒーロー作品の世界ではむしろこれが定番である。我々は、数多の怪獣や怪人が口から吐く細菌や毒ガス兵器で、人間が一瞬にして溶けたり、白骨化したりする様子を見て知っている。「ともだち」が人類に差し向けた細菌兵器もまた、「ショッカー」や「死ね死ね団」のテクノロジーなのである。
 エンドロールでヒーローの必殺技のポーズを決めている9人の「秘密基地」仲間たちは、さながらウルトラ兄弟そのものであり、そのウルトラの兄弟たちが、盗まれた大切なものを取り戻すために新たな戦いを繰り広げる様子が、「第二章」に受け継がれていく。
 冒頭にも述べたが、この作品を素直に楽しめるのは、学校の勉強を放り出して「怪獣ごっご」や「秘密基地遊び」に明け暮れ、今まで一度も優等生と呼ばれることもなくいい大人になった現在も、心の中にその原風景を大切にしまってある人である。もちろん私もその一人である。

 『20世紀少年』の第二章は、昭和の原風景と平成の世の中が、メタ構造の中で複雑に交差していく。このまったく色合い、手触りが異なる二つの時代の断層に、「ともだち」の姿が垣間見える。
 昭和の時代とは、そこを生きたそれぞれの世代ごとに、同時代性を感じられるものがたくさんあった。その大きなものといえば「東京オリンピック」や「大阪万博」になるが、もっと世代別にその時代を象徴しているもの、または原風景を感じられるものがあり、例えばそれが少年たちならば、間違いなく70年代のヒーロー作品や『少年サンデー』であり、その親世代だったものたちはグループサウンズ、家庭の主婦ならば米国ドラマなどである。この頃からわが国の近代住宅には、それまでにはなかった「LDK」という新しい間取りの概念が登場し、米国ドラマに出てくるシステムキッチンが日本の主婦たちのあこがれであった。近代的高層住宅として各地に建てられた「団地」がまさにそれの象徴であり(映画『東京オリンピック』の演出家だった山岸達児が松原団地に住んでいたのも実に象徴的)、子どもたちにとっても「団地」はなぜか恰好が良いものに映っていた。
 歌謡曲にも大ヒット曲があり、本では誰でも知っているベストセラーが生まれ、スポーツ選手にも圧倒的カリスマ・スターがいた。そして、昭和の時代ではこれらのものを総称して“国民的”といった。これはある種、国民国家的な結束や安心感もあったのは事実である。
 一方で、平成の世の中はというと、昭和の時代とうって変わって、個人主義、新自由主義、市場原理主義が台頭し、時代の価値観も「多様性」という名のもとに空中分解した。今や個性や特別な才能を持たない凡庸な人のほうが奇異な存在に見られ、多くの人間が“自分探し”という強迫観念に押しつぶされようとしているのが現在である。このような自分の足場を失った人間は実に脆く、「カルト」、「自己啓発セミナー」、「マルチビジネス」といった疑似家族的集団に吸引されていく。ここに用意周到にして再び現れたのが、あの「ともだち」である。
 この「第二章」では、次第に「ともだち」の過去や悲しみのようなものが明かされていく。その「ともだち」の過去や思いを知れば知るほどに、彼の本当にやりたかったことは「世界征服」や「人類滅亡」なのではなく、このようなものをかつて仲間に入れてもらえなかった仲間たちに見せつけて、ケンヂたちから一度も名前で呼んでもらえなかった“名無し”の自分の存在を知らしめることではないのか。いわばこれは、異形化した代理ミュンヒハウゼンである。
 この章では、当時の「ともだち」の家をそのまま残した「ともだち博物館」が登場する。その内部はごくありふれた昭和の家屋で、部屋にはケンヂたちが大好きだった『少年サンデー』や鉄人28号のフィギュアなどが並んでいる。これは、「ともだち」と、「ともだち」が仲間に入れてもらえなかった「秘密基地」仲間のケンヂたちとの違いは一体何であったのだろうかと、自問自答してしまう場面でもある。おそらくこのシーンを見て、自分の記憶の中にも今でも名前すら思い出せない、そして、あまり仲良く遊んであげられなかったあの友達のことを思い出した人もいるだろう。その友達に対して申し訳ないという気持ちにかられた人は、私だけではないはずである。
 「悪の組織」の首領がこのように、いろいろな形で自分の思いを独白してくれるようなシークエンスは、かつて少年少女たちを魅了した70年代のヒーロー作品にそのまま准えることができる。ヒーローも地球のために戦ったが、悪者には悪者の大義と美学があった。われわれは、遠い昔の正義のヒーローと「悪の組織」との戦いの記憶を手繰り寄せつつ、ケンヂたちと「ともだち」との最後の戦いを複雑な気分で見守ることとなるだろう。
 なお、第三弾の「最終章」は8月に公開予定である。

20
(新宿ピカデリーで売っていたロゴ入りのスケッチブック)

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