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Dezember 2008

27. Dezember 08

【アート】藍画廊クロージング・パーティー

藍画廊クロージングパーティーの様子

 12月24日に行われた京橋・藍画廊でのクロージング・パーティーには,藍画廊と関わりの深い作家たちが閉廊を惜しむように多数訪れた。前の週のオープニング・パーティーの時よりも倍近い人数が詰めかけ,狭い空間内には常に100人以上の人たちで膨れ上がり,廊下や外の道路まで人で埋まるような状況であった。
 このような光景は,60年代,70年代には毎週あちらこちらの画廊のオープニング・パーティーなどでも見られたかもしれないが,今ではこのように大勢の人たちが集まるというのはあまりというか,ほとんど見られなくなった。むしろ現在ならば,表参道,六本木界隈のアート空間でこのような光景が見られるだろう。
 かつて最新の実験的な現代アートの発信地が神田,銀座界隈であった時代には,美術作家やギャラリストはもとより,美術館学芸員,美術ジャーナリストもここに集まってきていた。もしブログ読者の中で,70年代,あるいは少なくても80年代初頭から銀座の画廊を中心に作家活動を続けてきたという美術作家の人がいるならば,ぜひその頃の芳名帳を引っ張り出してきて,そこに記された名前を見てほしい。当時,神田,銀座界隈がいかに現代アートの中心地であったのかがわかるであろう。

 しばしば政治の世界では,“お金のあるところには人が集まる”と言われるが,アート業界も同様のことが言えるのである。ただもちろんアート業界の場合には,“お金”というより“人脈”,“メディア”ということになる。つまり,東京のアートシーンにおいては80年代後期から90年代にかけて,これまでわが国独自のアンデパンダン的空間であった神田界隈の画廊や,一方で,オルタネイティヴであった銀座界隈の所謂“レンタル・ギャラリー”という文化に,メディアとコラボレーションした欧米型のコマーシャル・ギャラリーが対抗するようになり,そちらに作家も人も流れていった,ということが言えるのである。このようなムーブメントの中では,「批評」よりも,作品をいかにマーケットで流通させるかということの方が重要である。
 今回の藍画廊のクロージング・パーティーでの稀に見る現象は,例えれば,すでに消滅してしまったプロ野球球団「近鉄バファローズ」や閉館が決まった名画座に群がるファンのようなものである。
 かつて近鉄球団が経営危機に陥って,買収・合併話が持ち上がった時に,心配した多くのファンが連日球場へかけつけた。しかし私は問いたいのだが,今までそのファンの人たちは何をやっていたのかということなのである。パ・リーグの試合で時折目にするガラ空きの球場の収容人数は,たかだか4万~5万人程度である。言っておくが50万人や500万人ではなくて5万である。これぐらいの人数であるならば,ファン総出で毎日球場を満員にすることだってできたはずである。経営困難で潰れていく名画座にしても同じことが言えて,いくらレンタルDVDやwebで動画が見れる時代になったからと言って,本当の映画ファンならば映画館に足を運べと言いたいのだ。それでいて,いざそれが無くなるとなると慌てて集まるという愚行を,我々は何回も繰り返してきた。それによって失ったものは大きい。銀座界隈でもいつの間にか消えて無くなってしまった画廊もたくさんあるのである。
 「3-3-8」展の終了とともに閉廊する藍画廊は,老朽化したビルの建て替えのためで,幸運にも来年からの移転先も決まっている。しかし藍画廊が移転してまで再び銀座界隈で再開するという事に至ったのは,ここと古くから関わってきた作家や,この空間に関心をよせ続けてきた人々の思いが,画廊オーナーの気持ちを動かしたという側面も否定できない。
 藍画廊は京橋時代での約20年の歴史の中で,現代アートの最前線に実に多くの作家たちを送り出してきた。『美術手帖』のバックナンバーをめくれば,今は有名になった作家たちが,藍画廊で様々な実験的試みをしていた頃の記録を辿ることができる。「3-3-8」展の出品作品や出品作家の名前を見てもそれがわかるだろう。それだけでも藍画廊は一定の役割を果たしたといえるわけである。そしていったん閉廊が決まってからも再び移転先で再開することになったのは,まだこのような空間を必要としている多くの人たちがいるということである。我々も,常にこのような空間に関心を持ち続けることが大切であるのだ。

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24. Dezember 08

【アート】藍画廊出品作品『Das Knochenmark<骨髄>』

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井上リサ『Das Knochenmark<骨髄>』2008
ミクストメディア(骨髄穿刺用注射器・ワイヤー・アクリル)
300×210×80mm
2008 藍画廊 「3-3-8」展

 藍画廊の京橋時代最後になる展覧会に新作のエスキースを1点出品した。身体各部の再生をテーマとした一連のシリーズであり,形成外科領域や移植医療,再生医療の最新の論点からインスパイアされて,ここ近年制作している一連のシリーズである。
 今回の作品の素材に使用した金属製の骨髄穿刺用注射器は,現在のものではなく,古い時代のものである。本来はこの中心の部分にガラス製の注射器が装着されるが,今回はその部分を取り外し,空洞となるようにした。タイトル『Das Knochenmark<骨髄>』にあるとおり,この空洞部分がヒトの骨髄のイメージである。
 この身体再生の作品テーマを視覚的にも大きく導くきっかけを作ったのは,薬学,再生医療の現場で仕事をしている知人の学会発表用のレジュメである。
 昨年のことになるが,海外での研究発表を控えたこの知人のレジュメの英訳を少しやらせてもらった時,Power Pointで使用する資料や実験データの中に,scaffoldという言葉がしばしば登場するのを発見した。scaffoldとは,建築用語としても使用される<足場>のことである。それが彫塑ならば,針金や棕櫚縄で作る骨組みに相当する。この言葉が再生医療の現場でも使用されていることに興味を持ち,他の論文にも目を通してみた。すると,このscaffoldとは,高分子繊維で立体的に作られたものであり,それが生体移植組織の<足場>になるというものであった。そのscaffoldに生態組織を効率的に誘導するためには新たに受容体が必要であり,その受容体となりうる物質の合成を試みているのが友人たちの研究チームである。
 知人が仕事をしているラボは日本有数の繊維会社の一部門であり,近年では再生医療の現場での注目を集めているのは知っていたが,その研究の一端を詳しく知ることで,再生医療の分野についてもますます興味を覚えたというわけである。特に,ミクロの単位の再生医療が,まるで彫塑を作る時と同じようなことをやっているのが興味深い。
 今後この作品は,その他,身体各部位のパーツと構成をして,インスタレーションやドローイングとして展開していく予定である。

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22. Dezember 08

【アート】加島祥造『求めないカレンダー』(小学館)

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 そろそろ来年のカレンダーを用意する時期になった。居間には毎年オーストラリアに在住のリンガー家の友人から届く素敵なカレンダーと決めている。書斎にも何か良いカレンダーが欲しいと思っていたところ,信州の詩人で英米文学者の加島祥造さんのところからとても良いカレンダーが届いた。
 『求めないカレンダー』と題した12枚綴りのカレンダーには,加島さんが今年出版してベストセラーとなった詩集『求めない』の中からピックアップした言葉が簡素に添えられている。
 ちなみに1月は,「求めない,それは自分を大切にすることだ」という言葉が添えられている。新年を迎えるに相応しい言葉である。

 最近テレビでは,朝から“不況だ!不況だ!”,“景気が悪い”と煽りまくっているようだ。派遣労働者が解雇されたとか,トヨタが業績赤字を出したなど,悪いニュースばかりを面白がって選別しているところを見ると,これは一種のプロパガンダではないのかと思えてくる。すると人間とは不思議なもので,自分自身はそのことをさして実感しなくても,世の中はとてつもない不景気なのかも知れないと,次第に思わされてくる。
 おまけにその“大不況”がいつの間にか麻生さんや自民党のせいにされている。これはちょっと気の毒だ。民放テレビの視聴者も,たまには日経新聞やブルームバーグのストレート・ニュースでもオンタイムで見て,メディア・リテラシーを身につけた方が精神衛生上良いだろう。

 実は「景気」と「病気」は非常によく似ていて,その気になれば「景気」も悪くなれば,「病気」にもなる。臨床の現場でも,医者の一言で「元気」になったり「病気」にもなったりする。免疫機構もそれに大いに作用される。
 時々株価チャートなどを覗いてみると,明らかにパニック売りの相場が存在する。自分がマクロ経済的な観点から分析した結果,自信を持ってホールドしようと思った銘柄にも関わらず,市場の「雰囲気」に左右されて冷静さを失う投資家がたくさんいる。つまり「言葉」や「態度」が,世の中の「景気」をいっそう悪くしているのである。
 こういう時は,お金を持っている人は遠慮せずにどんどん使うべきである。心不全を起こしている日本経済には,可及的速やかな循環改善が必要なのである。
 先日も知人らが1億のリゾートマンションをキャッシュで5000万ずつ出して買った。大いに結構なことだ。こういう景気の良い話をたくさん聞いたほうが,俄然元気が出て気持も明るくなる。

 しかし,加島さんに言わせれば,こんな今の日本の状況も滑稽に映るだろう。
 ベストセラーになった詩集『求めない』は,あまりにもいろいろなものを求めたがる我々に対して,求めるのを止めた時に見えてくる境地について書いたものである。これは加島さんのライフワークである老子の『道徳経』の中に出てくる「知足」という考え方と同じだ。
“求めない すると 今持っているもので十分であることに気がつく”
“求めない人は 顔がしっかりしている”
 と,このように自由律の散文が続いていく詩集『求めない』では,“人間は本来は求めたがるものである”という視座に立ちながらも,あえて“求めない”で生きてみることを我々に問いかけているのだ。
 加島さんはしばしば,“今ほど良い時代はないよ”と言う。連日のようにテレビでネガティヴな報道を見せられている我々からすれば,とても今は良い時代などとも思えないのであるが,老子の「知足」の思想に立ち返れば,寝床とその日の食べ物があれば幸福であると考えることもできる。その上,言論の自由があって,職業選択の自由があって,友人や家族や猫が元気でと,これで十分ではないかと加島さんは言う。そして,我々が幸福感を実感できないのは,多くのことを求めすぎているからだ,という結論に達する。
 それでも多くを求めてしまうのが人間なのだが,多くを求めた結果,それを手に出来なかった時に,今のテレビの煽り報道のように,人や世の中のせいにするような人間にだけはなりたくないものである。
 かつて“社畜”(所収:佐高信)と言われるのが格好悪くてイヤで,自分自身でニート,派遣,フリーターを選択して,“自分の夢”のために毎日を生きていた人もいるはずである。こういう人たちのことを谷口正和をはじめとする業界メディアは“高等遊民”といってもてはやした時代もあった。その人たちは今一体どこへ行ってしまったのだろう。
 

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20. Dezember 08

【フィギュアスケート】浅田真央VS安藤美姫~必殺技の美学

 先日行われたフィギュアスケートGPF(グランプリ・ファイナル)では,浅田真央が女子では史上初となる3A(トリプルアクセル)を2回ともクリーンに成功させるという男子選手並みの圧倒的な内容で優勝した。
 今回の浅田真央の優勝については,そのプログラムの中に入れられた2回の3Aのことが特筆すべき内容として大きく取り上げられているが,すごいのはそれだけではない。もともとこの『仮面舞踏会』というプログラム自体が,男子フィギュア選手並みの構成なのである。今後このプログラムに更なる改編を加え,例えば後半に3Aのコンビネーションジャンプを持ってくるようになれば,得点は200点を軽く超え,男子選手並みの点数をマークするだろう。
 かつて伊藤みどりという1人の天才が現れたことによって,フィギュアスケートという採点競技にアスレティカルな要素が加わり,それが採点競技の枠をはるかに超えて,人間の身体の極限を垣間見ることとなった。軸がまったくぶれずに高速回転する高いジャンプは,伊藤みどりが疑いもなくアスリートであることを認識した瞬間である。
 その後しばらく女子フィギュアは,伊藤の後継者といえるような大技をトライする選手は現れることはなく,従来のような古典的採点競技として落ち着いていた。その流れを壊すように現れたのが浅田真央である。浅田の存在自体が,まさに採点競技に政治的に孕んでいる悪しき曖昧さに対するアンチテーゼだ。そのことを鮮明にしたのが今回のGPFである。

 スポーツの世界にも政治がつきものである。古代ギリシャまでさかのぼれば,もともとスポーツとは,「争い」のメタファとして存在していたものだ。したがってそこにはスポーツとしてのアスレティカルな美学の他に,様々な政治力学が働くのは当たり前のことだ。一方でわが国は,古くより定着した劇画文化により,スポーツを性善説に基づいて美しく語ってきた文化がある。それはもちろんわが国が世界に誇る素晴らしい文化に他ならないが,時としてそれが,外国勢のロビー活動の前に無力なこともある。
 柔道に始まり,バレーボール,水泳,スキーのノルディック競技などで日本勢が強くなると,日本勢に明らかに不利になるようなルール改正がなされてきた。フィギュアスケートも例外ではなく,現在の新採点ルールでは,「加点」という曖昧な要素が加わったことによって,誰にでも出来る容易な技を見栄えよく演技する凡庸な選手が毎回不可解な高得点を稼ぎ,反対に,アスリートとして人跡未踏の技にトライし続ける日本選手には不遇の時代が到来したかに思われた。しかし,浅田の3A×2の成功が世界に衝撃を与えたことによって,改正ルールのもとでも“伊藤みどりの系譜”は生きていることを,アジアの地から世界に向けて知らしめたこととなった。
 GPFにおける浅田真央のインパクトとは,浅田だけでなし得たものではないであろう。ここは浅田とともにGPFに日本代表として出場した安藤美姫,中野友加里にも注目しなければならない。この2人の存在は浅田の快挙の影に隠れてしまいがちであるが,安藤は4S(クワドサルコー)を,そして中野は浅田と同じく3Aにトライしたことも忘れてはいけない。日本が浅田を含めてこのような選手を3人も送り込んだ事が,浅田のインパクトをより一層強調するのである。

 世界の女子フィギュア界において浅田ひとりだけ突出した状況だが,今もっとも浅田のライバルとして相応しいのは,やはり安藤美姫である。日本人の多くは,やはりこの2人の頂上決戦を再び夢見ているのではないだろうか。前年の世界選手権で『シェエラザード』を演じて一時は女王の座に就いた安藤は,浅田を迎え撃つには十分なポテンシャルを持っている。そして浅田の3Aと双璧の4Sという武器もあるのだ。
 昔から我々日本人は,とにかく“必殺技”が好きである。それは前段でも述べたとおり,長らくは野球,格闘技などを題材とした劇画文化,おいては怪獣・ヒーロー文化で構築されてきた「エロス/タナトス」が表裏一体となったフェティシズムに由来する。この空間では器用に平均的な生き方をするよりも,必殺技とともに散っていったものたちがリスペクトされる。そして必殺技使いのものは,強力なライバルがいてこそより輝く。そのライバルの座にいるのに相応しいのが安藤である。浅田の『仮面舞踏会』の中に現れる,これまでの浅田にはない踊り狂うような死の香りは,安藤が前年の世界選手権で見せた『シェエラザード』における「死の舞踏」的な暗黒性とも共通するものがある。
 今の安藤に欠けているものがあるとすれば,それはメンタルタフネスのただ一点である。
 今回のGPFで,圧倒的なアウェーの空間で,観衆が静まりかえるような演技を見せつけ,なおかつこの地ではけして祝福されることのないセンターポールに上がった「日の丸」を見つめながら「君が代」を歌い,勝利後のインタビューでは,「日本のお客さんも韓国のお客さんも,たくさん応援してくれて嬉しかったです!」と平然と言ってのける浅田真央の憎々しい図太さが,安藤にも欲しいのである。
 まもなく始まる全日本選手権では,浅田と安藤のどちらが勝つかはこのさい問題ではない。2人とも最高のコンディションと最高のポテンシャルで,「トリプルアクセル」VS「クワドサルコー」の必殺技勝負を見たいのだ。

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14. Dezember 08

【アート】藍画廊『3-3-8』展オープニング・パーティー

12月13日の藍画廊『3-3-8』展オープニング・パーティーの様子(動画)

 建物の老朽化により,京橋時代の空間に幕を下ろす藍画廊の最後の展覧会が開催されている。
 展覧会タイトルの「3-3-8」とは,現在の藍画廊の所在地に因んだもので,1989年以降に藍画廊で個展を開いたことのある現代美術作家たちの小品が展示されている。
 出品作家は150名ほどで,その出品作家のリストを見ると,60年代~70年代にかけて,日本のアートシーンで作品を作り続けてきた歴史の長い作家の名前も多くある。これらの作家は,かつて現代美術の中心が銀座,神田界隈で賑わっていた頃,常に前衛的な役割を果たしてきた作家たちである。
 80年代後期から90年代にかけて,アートシーンの中心がメジャー・メディアとのコラボレーションで青山・六本木界隈にシフトしていく中で,いわゆる現代美術画廊のレンタル・ギャラリーとしてアンデパンダン的な役割を果たしてきた銀座界隈の画廊のあり方について疑問を感じつつも,あえてそこに表現の重心を置いてきた作家たちは,グローバルなコマーシャリズムにシフトしていくアートシーンの中でも,今もって批評的な存在感を表している。
 京橋では最後になる藍画廊の『3-3-8』展のオープニング・パーティーでは,60年代,70年代を生きてきた作家たちにもたくさん会うことができた。そして,彼らの話の中で,この時代のことを同時代として批評し続けてきた二人称画廊の三須康司さんと神田の真木画廊の山岸さんが亡くなっていたことを知った。また現在,病気療養中で作家活動から遠ざかっている方も何名かいることもわかった。
 これを“ひとつの時代の終わり”と簡単には片付けられないであろう。少なくても60年代,70年代に何があったのかを今生きている我々が掘り起こして批評していく必要がある。なぜならそれを怠ると,日本の現代美術というものが美術の歴史の中で連綿として連なっているものなのか,あるいは過去の事は無かったこととしてリセットされた上で,今日のアートシーンが成り立っているのかを一層曖昧にするからである。

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