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15. August 08

【試写会】『マシュー・バーニー:拘束ナシ』(映画美学校第2試写室)

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 美術家マシュー・バーニーのドキュメントフィルム『マシュー・バーニー:拘束ナシ』が京橋の映画美学校の第2試写室で上映された。マスコミ試写であるこの日は,40席ほどの試写室はすべて来場者で埋まり,通路に座布団を並べた桟敷席まで用意するほどの盛況ぶり。マシュー・バーニーの作品が今年の横浜トリエンナーレにも出品されることもあって,各界からの関心の高さがうかがえる。またここの試写室は京橋,銀座界隈に多く残っている老舗の工業ビルの中にある。その地下は船のボイラー室を思わせる堅牢な作りになっており,偶然にも今回上映される作品の雰囲気に見事にマッチしていた。
 マシュー・バーニーの作品を見るのは,私も日本作家の一人として出品していた現代アートの国際展『人間の条件』展(1994年・青山スパイラル,キュレーション=南條史生)で,ビデオアート作品を見て以来,実に約10年ぶりである。当時彼の作品を見たかぎりは,あまり強い印象は残っていなかったが,今回の最新ドキュメントフィルムを見ることによって,彼の当時の作品から一貫してコンセプトにあった「拘束からの解放」というテーマがより鮮明になったように思う。
 『マシュー・バーニー:拘束ナシ』は,スポーツとアートの境界線を横断するようなマシュー・バーニーの「拘束のドローイング」シリーズの9番目にあたる作品の制作過程を追ったドキュメントフィルムである。「拘束のドローイング9」では,彼はパートナーのビョークとともにわが国の調査捕鯨船「日新丸」に乗り込み,撮影スタッフのみならず,捕鯨船船員らの協力も得て,油性樹脂の巨大な抽象彫刻を制作する。この彫刻は,操業中の「日新丸」の甲板に数日間放置された後,樹脂を囲っていた金属の型を外し,その抵抗の開放によって固形化して見えた樹脂の彫刻が自重により変形,崩壊していく様子をカメラに収めている。作品で使用された油性樹脂は,鯨の皮下脂肪組織を暗示しているが,実際には鯨の皮下脂肪組織というよりはヒトの体脂肪組織や,あるいは排卵期を経過した女性器から分泌される粘張度の高いバルトリン腺液やスキーン腺液などの分泌液のようでもある。その樹脂の中にマシュー・バーニーが顔を埋めるパフォーマンスを過去に行ったフィルムを見ていると,その行為自体に彼の個人的な性的行為を連想してしまうのである。このドキュメントフィルムの中には,そのような性的メタファとなり得るような要素が多く登場し,それ自体がマシュー・バーニーが一貫して描いている身体性の認識と繋がっていくのである。
 「拘束からの解放」をテーマに掲げたマシュー・バーニーの一連の仕事の源流はスポーツにある。実際のアートワークでは,アトリエに設置された勾配のある板の上を疾走したり,ジャンプしたり,中吊りになったりしてドローイングを行うが,これら全ては彼のアスリート的視点に立った行為である。つまり,限定された空間と動きが制限された身体で行うアートワークは,彼にとっては困難を超えるための“トレーニング”であり,それは例えばマラソンの高地トレーニングや,水流抵抗をつけたプールでトレーニングする競泳選手と同じである。これらの発想は,けしてアートワークの視点から記号的に立ち上がったものではなく,学生時代は実際にアメフトのプレイヤーであったマシュー・バーニーが,“アスリート”としてスポーツのフィールドに立ってアプローチしたものである。そこで目指しているのは,様々な負荷で拘束された身体がやがて抵抗を解き放ち,そこで一気に爆発するカタルシスの類なのであろうか。もしそうならば,これは一流のアスリートが必ず経験していく通過点の一つであり,それは即ち,例えば阪神タイガースの金本や水泳の北島やフィギュアスケートの浅田真央が求めるような究極の身体の獲得へと必然的に繋がっていくだろう。この時期,奇しくも五輪開催中にこのようなドキュメントフィルムを見れたことは実に興味深い。
 ただそこで問題となってくるのは,拘束から解放されて究極に達した後の身体がどうなるかということである。マシュー・バーニー自身は,それを「身体の崩壊」という言葉で表現している。例えば,サイドスローの速球派のピッチャーが渾身の投球をする時に,その遠心力と抵抗で,腕の血管が切れてしまうことがあるのを彼は知っているだろうか。「日新丸」の中で制作した樹脂彫刻が,金型を外したとたんに自重で崩れていく様子は,まさに彼が言っている「崩壊」という言葉をそのまま描いているように思えた。
 またこの作品の中には,わが国の捕鯨文化に対するマシュー・バーニーの理解や考察も非常に詳細に描かれている。とても意外であったのは,彼が欧米文化圏にありながら,わが国の捕鯨文化を感傷的に捉えることなく,古来からの民俗文化として淡々と受け入れている部分である。『マシュー・バーニー:拘束ナシ』の中では,その捕鯨文化の中で伝承されてきた民俗芸能をベースにしたいろいろなパフォーマンスが見られるが,そこで登場する鯨は動物としての鯨ではなく,あくまでも資源としての鯨なのである。彼は,わが国の資源エネルギー産業に化石資源が台頭してくるまでは,鯨が油などの資源を支えるための重要な役割をしていたことにも言及している。そして彼はしばしばこのドキュメントフィルムの中で自分のことを“客人”と呼び,そして“客人”として船に上がるために,自分も鯨になるというのである。おそらくは鯨のいろいろな部位でできた装身具を身にまとったマシュー・バーニーの姿は生贄のようでもある。確かに,わが国のマタギなどの狩猟民俗文化では,しばしば人間に殺される動物に扮して魂を清めるという行為が伝承されているが,彼がそこまで知っているか否かはさだかではない。
 そしてエンディング近くで,やや混濁したリンパ液が満たされたような有機的なタンクの中で,生贄のように差し出された模造の下半身が切り裂かれるカットが挿入される。そのタンクの中ではCG処理で映像化された少量の血液が凝固しながら浮遊している。人間の身体ももはや単なる油脂と蛋白質の塊でしかないようなことを思わせる効果的なカットである。それはフィルムの中に過去のアーカイブとして焼き付けた船上での実際の鯨の解体シーンや,船上に放置された樹脂彫刻が崩壊していくシーンとも同質の質感であり,これらがみごとに符号してくる。特に鯨の解体シーンの,表面の黒い皮膚を切開すると同時に乳白色のぶ厚い皮下脂肪が露出して,その下の内臓組織が熱気を立てて放出される様子は,マシュー・バーニー的な見方をすれば,それは,皮膚,脂肪組織,筋肉組織の圧力で今まで所定の空間に配置されていた内臓が,切開による体内圧の解放によって一気に外に流れだし,崩壊していくということである。つまりこのカットでようやく,マシュー・バーニーが頭の中で描いた複雑な構造のデッサンの一端──ようするに,マシュー・バーニーが「拘束のドローイング」でコンセプトとしてきた「拘束の解放」という一貫したテーマと,彼がわざわざ「日新丸」へ乗り込んで試みた鯨の身体を物語の中心に据えた船上でのパフォーマンスとの繋がりが見えてくるのである。それは彼の作品の中ではいつにもまして難解な構造であり,この作品に参加した「日新丸」の船員らにも,彼がやりたかったことの意図や意味を理解した人はいないかもしれない。しかし少なくても,完成されたフィルムを見た人たちの中から,“偏見に根差した日本文化の描き方ではなくて,日本文化はそれとしていったん受け入れ,自分なりの理解のうえ,それを表現しているのではないか”という声も聞かれたことも事実である。そういう意味でも,本作品が横浜トリエンナーレという場で多くの日本人の目に留まる機会を得たことは,彼にとっても良いことであろう。

今秋,渋谷ライズXにてロードショー
横浜トリエンナーレにも出品予定

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