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27. Juli 08

【映画】河崎実監督 『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』

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 河崎実監督の最新作『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』が封切された。一言で言うと,この夏最高のバカ映画である。私はこういうバカ映画はそれなりにカタルシスがあって大好きだ。
 今回の作品は,かつて1969年に松竹で制作された『宇宙大怪獣ギララ』を,設定も一新してリメイクされたものである。前作同様にギララが宇宙怪獣であるということや,ギララの細胞核が宇宙胞子という未知のおそらく真菌類なんかで構成されているということは改変されていない。
 また,物語の設定や公開時期を先のG8洞爺湖サミットにターゲットしてきたのも,かつての昭和の怪獣映画の伝統的様式にのっとっており,今は大人になった往年の怪獣映画ファンも喜んでいることだろう。この部分だけでも河崎実監督のやる気まんまんなところがうかがえる。
 “昭和の怪獣映画の伝統的様式”というのは何かというと,この場合,スクリーンに登場する新怪獣が,旧来の名所旧跡のみならず,新たにお目見えした観光スポットや話題の建物を壊したり,世界的に注目が集まる行事の会場に怪獣が襲来したりすることである。例えば,大阪万博が舞台となった『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970)や,新都庁舎が派手に壊された『ゴジラ対キングギドラ』(1991),横浜みなとみらいが舞台となった『ゴジラ対モスラ』(1992)などがそれに相当する。このような場合,壊されるビルの一部のオーナーから歓迎されなかった1984年版の『ゴジラ』は例外として,怪獣映画の舞台となった町からはおおよそ喜ばれることの方が多い。その理由の一つとして,怪獣に壊されることで,その建物に観光資源としての一種の“箔”がつくと考えられているからだ。だから,今度はぜひわが街へ怪獣が来て欲しいと考えている自治体もあると聞く。
 昭和時代よりも怪獣映画がめっきりと少なくなった現在でもその伝統は続いていて,例えば近年では,Vシネマとして制作された変身ヒーロー『星間特捜アサルトマン』が,静岡県熱海市を舞台にロケを行ったのが私の記憶には新しい。これは熱海市民には大変好評で,今年8月6日・7日の両日に熱海市で開催される『あたみ初川納涼市』という地元の祭りで,アサルトマンがヒーローショーのゲストとして熱海市から招待されている。(問合せ/熱海市役所産業振興課0557-86-6203,http://www.ataminews.gr.jp/news/news0.html
 また怪獣映画の伝統的様式として次にあげられるのは,怪獣がこの世に存在しているという約束された虚構空間で展開される数々の場面である。防衛隊から任命された科学者が,オシロスコープなどの非常にアナログな装置を使っていて,その装置からまるで意味不明な不思議な音がしていたり,厳重なセキュリティ・システムをすり抜け,政府の中枢機関にいとも簡単に潜り込んでいる子供がいて,その子供が勝手に怪獣の名前を命名したりする。(今回の場合は,目がギラギラしているからギララだそうだ)また,なくてはならないのは,怪獣と非常に関わり深い未開の集落があって,そこにたまたま迷い込んだ記者が,ものすごい形相をした集落の人々から怒りを買うが,そこの子供とは仲良くなり,怪獣退治の糸口を発見するといった場面である。これらの場面は怪獣映画の荒唐無稽な作りもの感を際立たせるものであると同時に,われわれ見る側が,この虚構空間で,いかに物語の世界観に浸れるかという「余白」を提供しているのだ。このようなシークエンスで,“こんなことあるわけない”,“こんな展開は都合よすぎる”などと「正気」に戻ってしまった不幸な人は,怪獣映画の様式美を味わう前に,それが作り出す壮大な虚構空間からただちに脱落していくだろう。

 怪獣映画には,社会風刺などの強いメッセージが込められることも多い。それはシリアスに社会性を帯びたメッセージであったり,またはコメディーの手法で表現される場合もある。今回の本作品の俳優陣も,ビートたけし,ザ・ニュースペーパーといった芸人を重要な役どころで起用したのも興味深い。わが国の怪獣映画において物語の中でコメディー的シークエンスが挿入される時,多くの場合それは芸人ではない映画俳優の演技が担ってきた。今回はその役目をまさに「笑い」や「風刺」や「ナンセンス」のプロである芸人に与えているところに,河崎監督の狙いがある。
 以前私はこの作品がクランクインされたニュースを耳にした時,そのキャスティングを見てある種の不安を覚えたと書いた。それは,社会風刺コント集団であるザ・ニュースペーパーを指してのことだ(参照:http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/04/post_306a.html
 お笑い界には,彼らの他にも社会風刺をネタとした芸人たちが何人もいて,例えば松尾貴史や鳥肌実などはよく知られている。彼らがザ・ニュースペーパーと断然に異なる部分は,松尾貴史や鳥肌実は,「お笑い」という虚構の中で際どい芸をやることである。特に,『朝まで生テレビ』の各パネラーの形態模写ならぬ思想模写を演じた松尾貴史の芸を見た時に,これはナンセンスの頂点だとも思った。これに対してザ・ニュースペーパーは,ネタが社会風刺であるのは良いとして,彼らから派生したユニットのグループが,サヨクのリアル集会にも実際に登壇し,そのサヨク集会の主張に沿った芸を披露するということを過去にやっているのである。わが国には表現の自由があるので主義主張についてはとやかく言うつもりはないが,そういう行為自体が「お笑い」として面白くないと言ったのだ。なぜなら,社会風刺というのは「芝居」や「お笑い」という完全なる虚構空間でこそ,そのナンセンスさやバカバカしさが発揮されるものであり,それを同じ思想の者だけが集まった実際のサヨク集会でやってしまったら,それはもはやギャグでも笑いでもなく,単なるプロパガンダに成り下がるからである。本来ならばここで,例えばパンク・ロッカーの忌野清志郎が,かつて歌番組生放送中にゲリラ的に歌った“FM東京はオマ○コ野郎!”みたいに,そのサヨク集会にまじめな顔をしてぞろぞろと集まってくる“自称”文化人やら“自称”教養家庭の主婦やらプロ市民,さらには集会責任者らをもコケにして,笑い飛ばしてしまうのが「お笑い」としてのスタンスではないかと思うからだ。しかし,本作品に限り,私が心配していたことは杞憂であることがわかった。やはりザ・ニュースペーパーのような芸風の芸人たちは,映画や芝居という完全なる虚構空間でこそ,その力とギャグセンスが絶大に発揮されるからだ。今回は松下アキラが演じる小泉さんや福本ヒデが演じる安倍さんが,良い味を出しながら随所で笑わしてくれる。脚本自体も非常に際どく,G8首脳たちの腹黒さも十分に表現している。特に,この時期に北朝鮮のテポドン・ミサイルもお笑いにしてしまったり,そもそもギララが地球に飛来した原因が中国にあり,G8に参加していない中国が,各国首脳にまるで欠席裁判のように叩かれまくる様子はよくやったと思う。
 俳優陣ではなんといっても「東スポ」記者役の加藤真希が良い演技をしている。(余談だが,私のPCは,「とうすぽ」を一括変換すると「東スポ」とちゃんと出るのにも,今驚いた)
 怪獣映画における「良い演技」とは,もちろん非常に真剣にバカを演じることである。演じる人間側に,少しでも照れや恥ずかしさがあったら,怪獣映画はたいてい失敗する。しばしばエキストラを大勢使った一般人の避難シーンなどにおいて,怪獣から逃げている人たちが,なぜかスクリーンの中では照れ隠しなのか半笑いしていることがある。これから怪獣に踏み殺されるかもしれないという時に,あの表情はないだろう。怪獣が存在しているという虚構空間にいるのだから,その狂気を失ってはいけないのである。今回,その人間の狂気の源となっているのは集落の守り神・タケ魔人に捧げるアイヌ風の「舞い」である。密林の中にひっそりと佇む神社の庭で,家長制度の中で生きてきた集落民が輪になって踊る様は,「祭り」というものが本来持っている原初的かつ男根原理主義的な「野生」が感じられ,それが洗練されたグローバリズムを標榜するG8サミットとは対極をなしているので面白い。このような空間の境界に加藤真希が迷い込み,真剣な演技をみせるのだから,面白くてしかたがない。特に防衛隊のジープの後方から身を乗り出して「タケ魔人サマー!」と叫ぶシーンは,今思い出しても笑いがこみあげてくる。ほんとうに,よくここまで演じてくれたと思う。彼女の“名演”なくして,「ギララVSタケ魔人」のカタルシスは得られなかっただろう。
 音楽もこれがまた良い。オープニングから変拍子でたたみかけるテーマが伊福部マーチを思い出させる。リズムの後半にアクセントがくるマーチは,伊福部昭もおそらくインスパイアされたであろう力強いアイヌの舞曲のようだ。

 さて 『ギララの逆襲』と銘打っているとおり,この作品の主役であるギララについてもふれることにする。
 今回のリメイク版で改めて見ても,ギララのデザインはやはり秀逸であると思った。宇宙怪獣の名に相応しく,地球上のいかなる既存の生物からもイメージを由来されることはない。頭頚部の鋭角的なフォルムや頭頂部にあるセンサー状の感覚器官が,当時の昭和の時代の我々が,宇宙的なるものに対してイメージしたデザインである。これを見ると怪獣映画というものが,わが国固有の文化であることがわかる。
 怪獣,すなわち空想上の化け物は,もちろん西洋世界でも古代から登場し,キリスト教絵画でも画家ウッチェロなどが聖ゲオルギウスと竜の戦いをモティーフにした作品を描いている。
 怪獣は大航海時代を迎えても,文明を持った人類にとって未開の地が無くならない限り,イメージが枯渇することなく描かれてきた。そこでわが国の怪獣文化がすごかったのは,科学文明が発達して先端情報時代を迎えて以降,その想像の源は,伝説や史記ではなく,一人一人その才能が突出したクリエイターたちが担ってきたことである。ウルトラシリーズの怪獣や宇宙人のデザインを手掛けた成田亨や池谷仙克,等身大の変身ヒーロー作品で実に多彩で魅惑溢れる悪役キャラを描いてきた出渕裕や雨宮慶太らがまさにそうである。これは他の国には類を見ないことであるから,私は怪獣映画をわが国固有の文化と呼ぶのである。
 近年,わが国の怪獣映画に多大にインスパイアされたと思われる化け物映画がいくつか公開されてきた。『クローバーフィールド』(2008)や『グエムル』(2006)などが記憶に新しい。しかしここに登場する制作者たちがいわゆる“怪獣”と称しているものは,実は怪獣ではなくただの醜い化け物である。設定もデザインもリアリズムを求めすぎる余り,地球上にすでに存在する既知の生物の奇形としか映らない。そして存在そのものが初めから人類の敵である。これは西洋文化における「病」のとらえ方と実によく似ていて,「病」も「化け物」も基本的には外部から侵略してくる「他者」であり,容赦なく駆逐する対象なのである。わが国の神社が,例えば山形地方の「ツツガムシ」の事例のように,「病」も「カミサマ」として擬人化して祀ることで,なんとか「病」と「人間」との間に講和を築こうとしてきた日本人の気質とは明らかに異なるのである。そのような理由から,私は『クローバーフィールド』や『グエムル』に登場する化け物にはまったく感情移入できない。むしろ東宝が北朝鮮と合作した『プルガサリ』(1985)の方が,よほど怪獣映画としてのカタルシスを感じる。こちらはまさしく「怪獣」である。人間よりもプルガサリを思わず応援してしまいたくなる。
 今回のギララも同様で,G8首脳もそこそこがんばれ! ギララはもっとがんばれ! とギララも応援したくなる映画だ。昔,テレビでウルトラマンを見ていて,尻尾が半分焼け焦げながら大阪城を壊して暴れるゴモラを見て,ゴモラがんばれ! ウルトラマンなんて倒してしまえ! と思った人は1人や2人,必ずやいるはずだ。怪獣映画の原点はここにある。怪獣が一方的に悪者になるのは化け物映画であって怪獣映画ではない。

 最後に,怪獣映画を楽しく見る方法をひとつ提案する。それはエンドロールが流れるまでは,けして「正気」に戻るな,ということである。閉塞感ただよう今の世の中で,せめて夏休みだけでも怪獣映画を見て,日本人にはカタルシスを感じて欲しい。

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