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Juli 2008

27. Juli 08

【映画】河崎実監督 『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』

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 河崎実監督の最新作『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』が封切された。一言で言うと,この夏最高のバカ映画である。私はこういうバカ映画はそれなりにカタルシスがあって大好きだ。
 今回の作品は,かつて1969年に松竹で制作された『宇宙大怪獣ギララ』を,設定も一新してリメイクされたものである。前作同様にギララが宇宙怪獣であるということや,ギララの細胞核が宇宙胞子という未知のおそらく真菌類なんかで構成されているということは改変されていない。
 また,物語の設定や公開時期を先のG8洞爺湖サミットにターゲットしてきたのも,かつての昭和の怪獣映画の伝統的様式にのっとっており,今は大人になった往年の怪獣映画ファンも喜んでいることだろう。この部分だけでも河崎実監督のやる気まんまんなところがうかがえる。
 “昭和の怪獣映画の伝統的様式”というのは何かというと,この場合,スクリーンに登場する新怪獣が,旧来の名所旧跡のみならず,新たにお目見えした観光スポットや話題の建物を壊したり,世界的に注目が集まる行事の会場に怪獣が襲来したりすることである。例えば,大阪万博が舞台となった『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970)や,新都庁舎が派手に壊された『ゴジラ対キングギドラ』(1991),横浜みなとみらいが舞台となった『ゴジラ対モスラ』(1992)などがそれに相当する。このような場合,壊されるビルの一部のオーナーから歓迎されなかった1984年版の『ゴジラ』は例外として,怪獣映画の舞台となった町からはおおよそ喜ばれることの方が多い。その理由の一つとして,怪獣に壊されることで,その建物に観光資源としての一種の“箔”がつくと考えられているからだ。だから,今度はぜひわが街へ怪獣が来て欲しいと考えている自治体もあると聞く。
 昭和時代よりも怪獣映画がめっきりと少なくなった現在でもその伝統は続いていて,例えば近年では,Vシネマとして制作された変身ヒーロー『星間特捜アサルトマン』が,静岡県熱海市を舞台にロケを行ったのが私の記憶には新しい。これは熱海市民には大変好評で,今年8月6日・7日の両日に熱海市で開催される『あたみ初川納涼市』という地元の祭りで,アサルトマンがヒーローショーのゲストとして熱海市から招待されている。(問合せ/熱海市役所産業振興課0557-86-6203,http://www.ataminews.gr.jp/news/news0.html
 また怪獣映画の伝統的様式として次にあげられるのは,怪獣がこの世に存在しているという約束された虚構空間で展開される数々の場面である。防衛隊から任命された科学者が,オシロスコープなどの非常にアナログな装置を使っていて,その装置からまるで意味不明な不思議な音がしていたり,厳重なセキュリティ・システムをすり抜け,政府の中枢機関にいとも簡単に潜り込んでいる子供がいて,その子供が勝手に怪獣の名前を命名したりする。(今回の場合は,目がギラギラしているからギララだそうだ)また,なくてはならないのは,怪獣と非常に関わり深い未開の集落があって,そこにたまたま迷い込んだ記者が,ものすごい形相をした集落の人々から怒りを買うが,そこの子供とは仲良くなり,怪獣退治の糸口を発見するといった場面である。これらの場面は怪獣映画の荒唐無稽な作りもの感を際立たせるものであると同時に,われわれ見る側が,この虚構空間で,いかに物語の世界観に浸れるかという「余白」を提供しているのだ。このようなシークエンスで,“こんなことあるわけない”,“こんな展開は都合よすぎる”などと「正気」に戻ってしまった不幸な人は,怪獣映画の様式美を味わう前に,それが作り出す壮大な虚構空間からただちに脱落していくだろう。

 怪獣映画には,社会風刺などの強いメッセージが込められることも多い。それはシリアスに社会性を帯びたメッセージであったり,またはコメディーの手法で表現される場合もある。今回の本作品の俳優陣も,ビートたけし,ザ・ニュースペーパーといった芸人を重要な役どころで起用したのも興味深い。わが国の怪獣映画において物語の中でコメディー的シークエンスが挿入される時,多くの場合それは芸人ではない映画俳優の演技が担ってきた。今回はその役目をまさに「笑い」や「風刺」や「ナンセンス」のプロである芸人に与えているところに,河崎監督の狙いがある。
 以前私はこの作品がクランクインされたニュースを耳にした時,そのキャスティングを見てある種の不安を覚えたと書いた。それは,社会風刺コント集団であるザ・ニュースペーパーを指してのことだ(参照:http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/04/post_306a.html
 お笑い界には,彼らの他にも社会風刺をネタとした芸人たちが何人もいて,例えば松尾貴史や鳥肌実などはよく知られている。彼らがザ・ニュースペーパーと断然に異なる部分は,松尾貴史や鳥肌実は,「お笑い」という虚構の中で際どい芸をやることである。特に,『朝まで生テレビ』の各パネラーの形態模写ならぬ思想模写を演じた松尾貴史の芸を見た時に,これはナンセンスの頂点だとも思った。これに対してザ・ニュースペーパーは,ネタが社会風刺であるのは良いとして,彼らから派生したユニットのグループが,サヨクのリアル集会にも実際に登壇し,そのサヨク集会の主張に沿った芸を披露するということを過去にやっているのである。わが国には表現の自由があるので主義主張についてはとやかく言うつもりはないが,そういう行為自体が「お笑い」として面白くないと言ったのだ。なぜなら,社会風刺というのは「芝居」や「お笑い」という完全なる虚構空間でこそ,そのナンセンスさやバカバカしさが発揮されるものであり,それを同じ思想の者だけが集まった実際のサヨク集会でやってしまったら,それはもはやギャグでも笑いでもなく,単なるプロパガンダに成り下がるからである。本来ならばここで,例えばパンク・ロッカーの忌野清志郎が,かつて歌番組生放送中にゲリラ的に歌った“FM東京はオマ○コ野郎!”みたいに,そのサヨク集会にまじめな顔をしてぞろぞろと集まってくる“自称”文化人やら“自称”教養家庭の主婦やらプロ市民,さらには集会責任者らをもコケにして,笑い飛ばしてしまうのが「お笑い」としてのスタンスではないかと思うからだ。しかし,本作品に限り,私が心配していたことは杞憂であることがわかった。やはりザ・ニュースペーパーのような芸風の芸人たちは,映画や芝居という完全なる虚構空間でこそ,その力とギャグセンスが絶大に発揮されるからだ。今回は松下アキラが演じる小泉さんや福本ヒデが演じる安倍さんが,良い味を出しながら随所で笑わしてくれる。脚本自体も非常に際どく,G8首脳たちの腹黒さも十分に表現している。特に,この時期に北朝鮮のテポドン・ミサイルもお笑いにしてしまったり,そもそもギララが地球に飛来した原因が中国にあり,G8に参加していない中国が,各国首脳にまるで欠席裁判のように叩かれまくる様子はよくやったと思う。
 俳優陣ではなんといっても「東スポ」記者役の加藤真希が良い演技をしている。(余談だが,私のPCは,「とうすぽ」を一括変換すると「東スポ」とちゃんと出るのにも,今驚いた)
 怪獣映画における「良い演技」とは,もちろん非常に真剣にバカを演じることである。演じる人間側に,少しでも照れや恥ずかしさがあったら,怪獣映画はたいてい失敗する。しばしばエキストラを大勢使った一般人の避難シーンなどにおいて,怪獣から逃げている人たちが,なぜかスクリーンの中では照れ隠しなのか半笑いしていることがある。これから怪獣に踏み殺されるかもしれないという時に,あの表情はないだろう。怪獣が存在しているという虚構空間にいるのだから,その狂気を失ってはいけないのである。今回,その人間の狂気の源となっているのは集落の守り神・タケ魔人に捧げるアイヌ風の「舞い」である。密林の中にひっそりと佇む神社の庭で,家長制度の中で生きてきた集落民が輪になって踊る様は,「祭り」というものが本来持っている原初的かつ男根原理主義的な「野生」が感じられ,それが洗練されたグローバリズムを標榜するG8サミットとは対極をなしているので面白い。このような空間の境界に加藤真希が迷い込み,真剣な演技をみせるのだから,面白くてしかたがない。特に防衛隊のジープの後方から身を乗り出して「タケ魔人サマー!」と叫ぶシーンは,今思い出しても笑いがこみあげてくる。ほんとうに,よくここまで演じてくれたと思う。彼女の“名演”なくして,「ギララVSタケ魔人」のカタルシスは得られなかっただろう。
 音楽もこれがまた良い。オープニングから変拍子でたたみかけるテーマが伊福部マーチを思い出させる。リズムの後半にアクセントがくるマーチは,伊福部昭もおそらくインスパイアされたであろう力強いアイヌの舞曲のようだ。

 さて 『ギララの逆襲』と銘打っているとおり,この作品の主役であるギララについてもふれることにする。
 今回のリメイク版で改めて見ても,ギララのデザインはやはり秀逸であると思った。宇宙怪獣の名に相応しく,地球上のいかなる既存の生物からもイメージを由来されることはない。頭頚部の鋭角的なフォルムや頭頂部にあるセンサー状の感覚器官が,当時の昭和の時代の我々が,宇宙的なるものに対してイメージしたデザインである。これを見ると怪獣映画というものが,わが国固有の文化であることがわかる。
 怪獣,すなわち空想上の化け物は,もちろん西洋世界でも古代から登場し,キリスト教絵画でも画家ウッチェロなどが聖ゲオルギウスと竜の戦いをモティーフにした作品を描いている。
 怪獣は大航海時代を迎えても,文明を持った人類にとって未開の地が無くならない限り,イメージが枯渇することなく描かれてきた。そこでわが国の怪獣文化がすごかったのは,科学文明が発達して先端情報時代を迎えて以降,その想像の源は,伝説や史記ではなく,一人一人その才能が突出したクリエイターたちが担ってきたことである。ウルトラシリーズの怪獣や宇宙人のデザインを手掛けた成田亨や池谷仙克,等身大の変身ヒーロー作品で実に多彩で魅惑溢れる悪役キャラを描いてきた出渕裕や雨宮慶太らがまさにそうである。これは他の国には類を見ないことであるから,私は怪獣映画をわが国固有の文化と呼ぶのである。
 近年,わが国の怪獣映画に多大にインスパイアされたと思われる化け物映画がいくつか公開されてきた。『クローバーフィールド』(2008)や『グエムル』(2006)などが記憶に新しい。しかしここに登場する制作者たちがいわゆる“怪獣”と称しているものは,実は怪獣ではなくただの醜い化け物である。設定もデザインもリアリズムを求めすぎる余り,地球上にすでに存在する既知の生物の奇形としか映らない。そして存在そのものが初めから人類の敵である。これは西洋文化における「病」のとらえ方と実によく似ていて,「病」も「化け物」も基本的には外部から侵略してくる「他者」であり,容赦なく駆逐する対象なのである。わが国の神社が,例えば山形地方の「ツツガムシ」の事例のように,「病」も「カミサマ」として擬人化して祀ることで,なんとか「病」と「人間」との間に講和を築こうとしてきた日本人の気質とは明らかに異なるのである。そのような理由から,私は『クローバーフィールド』や『グエムル』に登場する化け物にはまったく感情移入できない。むしろ東宝が北朝鮮と合作した『プルガサリ』(1985)の方が,よほど怪獣映画としてのカタルシスを感じる。こちらはまさしく「怪獣」である。人間よりもプルガサリを思わず応援してしまいたくなる。
 今回のギララも同様で,G8首脳もそこそこがんばれ! ギララはもっとがんばれ! とギララも応援したくなる映画だ。昔,テレビでウルトラマンを見ていて,尻尾が半分焼け焦げながら大阪城を壊して暴れるゴモラを見て,ゴモラがんばれ! ウルトラマンなんて倒してしまえ! と思った人は1人や2人,必ずやいるはずだ。怪獣映画の原点はここにある。怪獣が一方的に悪者になるのは化け物映画であって怪獣映画ではない。

 最後に,怪獣映画を楽しく見る方法をひとつ提案する。それはエンドロールが流れるまでは,けして「正気」に戻るな,ということである。閉塞感ただよう今の世の中で,せめて夏休みだけでも怪獣映画を見て,日本人にはカタルシスを感じて欲しい。

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26. Juli 08

【トークショーのお知らせ】林家しん平×螢雪次朗×雨宮慶太×金子修介×井上リサ(司会)~池袋・新文芸坐で8月2日(土)

 落語家で,インディーズ特撮怪獣映画の監督としても知られる林家しん平監督の最新怪獣映画 『深海獣レイゴー』の上映に併せて,下記の通り,オールナイトでトークショーを開催いたします。また今回は,林家監督の作品の他に,監督が自身の作品の中でもっとも影響を受けたといわれる 『ゴジラ』(1954年版)と,平成ガメラ3部作の中でも評価の高い金子修介監督の 『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』も併せて上映されます。
 怪獣映画が大好きな方は,皆様ふるってご来場ください!

第2回「深海獣レイゴー祭り」
~大怪獣・オールナイトでぶっ壊せ!~

8月2日(土)22:30スタート
(★トークショーは深夜2時からスタート予定です)

東京・池袋・新文芸坐
http://www.shin-bungeiza.com/
『深海獣レイゴー』公式web
http://www.reigo.jp/

●スケジュール予定
22:30~ 『ゴジラ』(本多猪四郎・円谷英二,1954年)上映・約98分
00:05~ 休憩・約15分
00:20~ 林家しん平監督トーク・約5分   
00:30~ 『深海獣レイゴー』(林家しん平,2008年)上映・81分
01:50~ 休憩・約15分
02:05~ 上映後トークショー・約60分
03:05~ 休憩・約15分
03:20~ 『ガメラ3邪神(イリス)覚醒』(金子修介,1999年)上映・108分
05:10  終了予定

●トークショーゲスト予定
林家しん平監督 (本作品監督)
螢 雪次朗 さん(俳優・大迫登役)
雨宮慶太監督 (映画監督・深海獣レイゴーデザイン)
金子修介監督 (映画監督)
井上リサ~司会 (現代美術作家・医学史・医学概論研究者)

林家しん平監督公式サイト
http://shinpei.net/

螢雪次朗さん公式サイト
http://www.tribeca99.com/artists/hotaru.shtml

雨宮慶太監督公式サイト
http://www.crowdinc.com/

金子修介監督公式サイト
http://www.shusuke-kaneko.com/
金子修介監督公式ブログ
http://blog.livedoor.jp/kaneko_power009/

【『深海獣レイゴー』 レビュー】再掲
 自主制作映画と銘打ちながら,約1億の製作費をかけ,しかも完成までに足かけ4年を要した作品である。一言申し上げると,こんなことをやらかして,まったくバカじゃないかと思うのは私だけではないだろう。しかし,バカにならなければ怪獣映画などは撮れないという今日の映画業界の情況を理解することで,この作品が紆余曲折の末,完成に至り,商業映画として公開へと踏み切った監督以下スタッフの方々にまず敬意を表したい。

 『深海獣レイゴー』の制作の話題がちらほら聞こえてきたのは,今から3年ほど前である。詳しくは以前のエントリー(http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2008/03/index.html)でも書いたが,ちょうど東映の大ヒット作品『男たちの大和』の公開時期と重なっていたのである。そして,それを意識するかのごとく,この作品のタイトルも当初は『レイゴー対大和』であったと思う。今回完成した作品を改めて見ると,初期の原案どおり,『レイゴーVS大和』の体は成していた。つまり,我々が子供の頃,ゴジラやガメラの映画に強そうな新怪獣が登場するたびに,この“ゴジラVS─”または“ガメラVS─”という未知の対決に胸を躍らせた怪獣映画における期待値は十分に満たしているということである。
 今回,このレイゴーなる大怪獣が戦う相手は旧帝国海軍の最大にして最強の戦艦大和である。林家監督によると,このような奇想天外なプロットが出来上がった経緯は,もともとは自分が好きなゴジラ的世界観とガメラ的世界観のミッシングリンクを仕掛けることから広がっていったらしい。つまり,この2つの世界観に何らかの接点を持たせるとすれば,設定に様々な拘束がかけられるであろう現代や未来を舞台にするよりも,ゴジラ,ガメラがこの世に姿を現す以前の近代を舞台にすることで,その空洞の空間で自由に大怪獣を暴れさせることができるのである。

 ゴジラ,ガメラは文字通りわが国を代表する二大怪獣であり,その人気も二分している。そこで2つの世界観にニアミスが起これば,必然的にゴジラとガメラは戦いざるを得なくなり,そこで展開されるであろう“ゴジラとガメラはどちらが強いのか”といった論争は,例えば「エイリアンVSプレデター」のように大人の思惑もからんだ不毛な結果になることは目に見えているわけである。そこであえてゴジラもガメラもまだ姿を表わさない近代に舞台を設定したのは正解である。しかも,全編を通して,ゴジラ,ガメラはそこにはいないが,いずれ我々の前に現れるであろうことをによわせる演出が随所になされ,この二大怪獣をあえて登場させることなく,ゴジラ的世界観とガメラ的世界観の融合を果たしている。例えば,怪獣が現れる予兆として,最初にその怪獣の餌である別の生物が現れたり,怪獣と思われる未確認生物の目撃が特定の人物に限られたりする。また,土着の住民に警告をされたり,別の場所で被害にあった人物と偶然に接触したりといったシークエンスは,怪獣映画の伝統的な様式美である。この作品でも,レイゴーに自分の艦がやられたとされる敵国の水兵が大和に救助されるという重要なシーンがある。ただ一点だけ残念なのは,この敵国の水兵からは被害にあった自分の艦や僚艦の名前が具体的には出てこないことである。ここでもし敵国の艦の名にアイオワ級戦艦の名でも上がれば,それだけでもレイゴーという未知の大怪獣がいかに強大であるのかを印象づけられたであろう。また同時に,そのレイゴーに対し,航空兵力ではなく艦に搭載された重火器のみで迎え撃つ大和が文字通り史上最強戦艦であることを揺るぎない事実として描けたであろう。

 では,今回登場するレイゴーなる大怪獣は一体いかなるものかといえば,それは監督に言わせると,“ゴジラになる前のゴジラ”である。円谷監督の初代ゴジラの設定を踏襲するとすれば,ゴジラは中生代の生物が放射性物質によって変異をきたして誕生した怪獣であるから,当然ゴジラ以前の何者かがそこに存在していたはずである。実はこの“ゴジラになる前のゴジラ”という着想は,以前にも大森一樹監督の『ゴジラVSキングギドラ』でも出てくるが,ここでは南方に展開していたはずの連合艦隊と,島に生息していたゴジラ以前の巨大な爬虫類が戦うことはなかった。そのかわりにその巨大な爬虫類は米帝の艦砲射撃によってあっけなく倒されるのである。それに比べてもレイゴーは,例え“ゴジラ以前のゴジラ”であるとしてもいささか強暴である。人を好んで喰うあたり,捕食動物として食物連鎖の最頂点に君臨している様子がうかがえる。これに対する大和も,スペック上は世界最強戦艦である。史実ではそのスペックを活かす場がなかったが,そのことがかえって,大和亡き後の今日でも,様々な所謂「架空戦記」といわれるものに幾度となく登場する経緯となっている。
 レイゴーと大和との戦いで面白いのは,大和は史実に沿った姿で忠実に登場することである。したがって巨大怪獣と対する時には当然のことながら94式三連装46サンチ砲をはじめとする重火器で戦う。ゴジラやガメラでは自衛隊のオーバーテクノロジーによる超兵器に見慣れているせいか,これは非常に新鮮であるとともに,大和に搭載された重火器の威力をあらためて感じさせるアイディアだ。
 また,この作品においておそらくは議論の俎上に上がるであろうと思われる“これは「怪獣映画」なのか「戦争映画」なのか”という問題提起であるが,私は個人的にそのどちらにも当てはまらない,まったく新しいジャンルの作品であると位置づけることにする。なぜならばこれは,一見すると怪獣映画や戦争映画に見えそうなのだが,実はその両者に通底している伝統的様式美により「日本」というものの強さと美を再構築することを試みた作品だからである。監督自身はこれをジャパネスク怪獣ロマンと呼ぶ。強いものにも“ものの哀れ”が存在するわが国独自の世界観である。
 昨今,わが国に古くからある怪獣映画にインスパイアされたと思われる外国産の怪獣映画を見る機会が多々あるが,そこに登場するものは,怪獣ではなくただの化け物である。生物的リアリズムを求めすぎるあまり,単なる嫌悪感に満ちた「魂」のない物体がそこに存在するだけだ。翻って,林家監督が作り出した世界観は,怪獣にも「魂」が宿るという世界観である。この主題は,監督がインスパイアされたという金子修介監督の平成ガメラ3部作や,また大森一樹監督の『ゴジラVSキングギドラ』にも一貫して通底している。レイゴーと大和の戦いでも,主砲で一撃を喰らわしたレイゴーに向かってなおも銃座から一斉掃射をする水兵に対し,それを制止した大和の艦長もまた,そんな美意識を持った人物に描かれている。駆逐艦の円陣の中で展開されるこのシーンが非常に凄惨であるだけに,日本海軍の伝統的なシーマンシップがより際立つ。
 ラストは,死闘の末,大和以下連合艦隊が,再び昭和20年4月7日の史実世界へと戻ってい行くという演出が違和感なくなされている。その後大和がどういう運命をたどったかということは,我々日本人なら誰でも知っているだけに,大和という艦が持つもう一つの側面,つまり悲劇性が怒涛の海に展開されていくのである。この部分はそれを感じさせるのに十分なシークエンスなので,賛否両論あると思うが歌舞伎パートの演出は,やや過剰ではないかと思った。(井上リサ)

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19. Juli 08

【新刊本】多賀茂・三脇康生編『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』(京都大学学術出版会)

<京都大学学術出版会から新刊本のお知らせ>
多賀 茂・三脇康生編
『医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想』

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(京都大学学術出版会)
A5上製・400頁・税込 約5,700円
ISBN: 9784876987511
発行年月: 2008/08


【紹介文】
 病を癒すには、まず医療をめぐる環境を癒してからでなければならない――。「制度を使った精神医療」をめぐる日本とフランスを中心としたの医療実践を紹介し、それらのバックボーンたる現代思想を解説する。
 病院機能評価によってますます硬直しつつある現在の医療・社会システムに風穴をあけ、「ひと」が癒える場をとりもどすために集結した、医療実務者と思想研究者による熱気あふれる論陣。

【目次】
第一部 実践編
第1章 制度を使った精神療法の実践
ラ・ボルド病院 多賀 茂、三脇康生
ラ・ボルド病院の日常  ジャン・ウリ、ラ・ボルド病院スタッフ
セクター制度   ティロ・ヘルド、和田 央

第2章 日本の精神医療現場での試み
四つの例
横浜市民団体の運動について 菅原道哉、
京都府南部の救急精神科医療について 和田 央、波床将材、
制度を使った音楽療法 高江洲義英
病院の外から病院を看る制度について 平田豊明、ミシェル・オラシウス、三脇康生 

第3章 身近なところから制度に取り組むために
医師という制度を分析する 菅原道哉、三脇康生、
看護師という制度を分析する ジャン・ウリ、吉浜文洋
デザインという制度を使う 蓮見 孝
写真という制度を使う 田村尚子
建築という制度を使う 高崎正治

第4章 日本の精神医療がなぜ「制度を使った精神療法」を使えなかったのか
三脇康生 

中間部 対話編 制度という論点をめぐって
野沢典子、看護師という制度を分析する
上山和樹 、ひきこもり問題から制度を使うことを考える

第二部 思想編
第5章 制度を使った精神療法の思想
ジャン・ウリ、制度を使った精神療法の思想
三脇康生、ウリとガタリの差異
合田正人、ラカン、マルディネ、トスカイェス
多賀 茂、フーコーとガタリ 

第6章 制度を使った精神療法とその周辺
江口重幸、精神療法の誕生
立木康介、ラカン派の応用精神分析
松嶋 健、イタリアのバザーリア

第7章 根を枯らさないために
多賀 茂

【著者による解説】
本書の表題にある「制度を使った精神療法」と訳された精神療法はフランスで50年以上前に始められ、現在も存続している。三脇は「制度を使った精神療法」について精神医療·保健·福祉·看護の領域で多くの紹介を行ってきた。その切っ掛けとなったのは『精神の管理社会をどう超えるか』(フェリックス·ガタリ他著、松籟社、2000年)という本を編集し論文を書くためにフランスと日本で精神医療の戦後の歴史を調べたことである。しかしその本においては、制度論的精神療法という訳語を三脇は共同編者と相談して用いた。しかしその後、三脇は再度、訳語を変更していた。制度論と言っても、治療の前提として制度を論じることではなく、精神療法のベースになる制度を改編しながら行う精神療法、つまり制度改変がそのまま治療に到達するという意味があるのだから、それがストレートに出るように変換したいと考えたため、制度改編的精神療法と訳を改めていたこともある。しかしこの本ではさらに「制度」に対して積極的で具体的な意味を込めるために「制度を使った精神療法」と改めることにした。
 精神医療の現場では芸術療法や作業療法という名前の療法が存在しているが、それには「芸術を使って」療法を行うとか「作業を使って」療法を行うという意味がある。それと同じように、まさに「制度を使って」精神の病を治していこうという方法が「制度を使った精神療法」である。しかし「制度を使って」ということは、「芸術を使って」とか「作業を使って」ということとはかなり異なった意味を持つ。なぜなら「制度」とは療法が行われる環境それ自体であり、単なる道具としてそれを使うことは決してできないからである。この療法の基本的な考え方は、「病んだ環境では病気を治すことはできない」ということであり、したがって医師や看護師や患者がその中で仕事をして生きている環境がどのような病気に冒されているのかということを、自ら明らかにしていくことがこの療法の中身になる。制度(治療環境)の分析は、常に治療へとフィード·バックされ、両者は常に循環的関係の中にあるとも言えよう。
 この「制度を使った精神療法」がなぜそれほど重要なのだろうか。答えは明確である。精神医療の対象である病の原因は目ではっきりと見えることは少なく、正常と以上の線引きの根拠は科学的には明確にしにくく、症状への知識の蓄積からしてこのような薬を飲んだりこのような休み方をしたりこのような入院の仕方をした方が患者にとっては良いのではないかとほぼ考えられるような、言わば東洋医学的な発想も含み得るものだからである。精神医学全体に科学性が他科と比べて少ないとも言えるだろう。精神医学の科学性を高める必要があるのも事実だろうと思われる。しかし現状では患者にしたら病名を告げられても納得できないことも多いはずである。であるから、病名を告げる側、医療者側が前提にしている思考の枠組みをどの程度柔らかくするのか、つまりどこは再検討しどこは再検討しないままで置くのか、一々判断していかなければ治療が始まらないからである。
 そういうことなら、すべてを柔らかくし遂には枠組みをなくしてしまえば良いと言われるかもしれない。そういう考え方は反精神医学ともよばれたことがある。日本にも政治運動の広がりの中で反精神医学の考え方は(幅はあっただろうが)存在していた。しかしすべてを柔らかくして社会全体で幻覚妄想状態に入ることはできない。しかしすべて固くしてしまうこともできない。このような精神医学と反精神医学の対決状態は、日本にもどこの国にも存在したのだが、フランスはその対立を超えるものとして「制度を使った精神療法」を維持していた感が強い。一方、日本ではその対立の着地点は明確には存在して来なかったと言えるだろう。もちろんそれぞれの素晴らしい試みは存在したのだが、枠組みを制度のどこを緩めてどこを緩めないのか、その判断を明確にしてこなかったのだ。本書では、既に日本に存在している試みも「制度を使った精神療法」という枠組みでとらえ直してみたいと思う。
 ここで精神科医として私の経験した臨床例をあげよう。私の担当していた患者の通うディケア施設に、レベルの高いサッカー経験を持つ若いケースワーカーが働き始め、自然とサッカーチームが作られていった。主に統合失調症の患者22歳から36歳が参加し、常時参加していたのは8人であった。半年ほどたつと、調子が良くなった患者から就労支援を受けたり、作業所に抜けて行った。私の担当した患者は、熱心にサッカーをしていた間に調子の良さを訴えたので薬を減らした。すると丁度、サッカーに参加していたメンバーが社会復帰に向け動き出したことから、人数の面からサッカーを十分には出来なくなり、この患者も仕事を探し始めるようになった。すると幻聴に支配されて2年ぶり再度の入院となった。入院後は、なぜ幻聴にふりまわされたのか考えてもらった。患者は「サッカーこそ生き甲斐という気持ちがした。今までにしたことの無い玉運びをケースワーカーに教えてもらい、ゴールが決まった時はかなりすっきりした。生きていること全てであると思えた」と言う。私は「そのような喜びを働くことや余暇に見つけようとしたのですか?」と聞いた。患者は「そうだと思う。」と振り返った。そこで私は、次のような類別をこの患者に示してみた。「生活·社会の方へ復帰した患者はサッカーの面白みにある程度距離を取れた患者ではないか。むしろ復帰を焦って病状悪化した患者はむしろサッカーの面白みに酔った患者ではないか。」するとその患者は「全くその通りだと思う」と言うのだった。それから薬を増やすと2ヶ月で退院となった。
 生命感を求め過ぎて生命感にのみ込まれてしまったこの患者に対応する時にこそ、制度分析(analyse d’institution)が行われているかが問われることにある。患者との自由な交流に基づくすばらしい治療などを私は求めていたのではない。患者が居心地の良さを感じたのは良いとして、それからどのような着地をしてもらうのか考えねばならないかった。入り口を作れば出口を作らなければならない。
それにこの症例の運営は失敗しているのだ。こんなことが起きないようにまさしく制度を使った精神療法のメッカであるラ·ボルド病院で多くの活動が維持されている。それにより、患者は生命感に飲み込まれるのではなく、生命感を適度に味あう。はっきりこの事例に適応するなら、サッカー以外の活動という制度をこの患者に使ってもらい、複数の活動の間でバランスをとるべきだったということになる。そのために私はスタッフと十分話し合う時間を持つことができなかった。あるいは主治医の私も含めて病院がこのような制度分析を行う体制になかったのだとも言える。このように組織内のミクロな制度使用は、それに応じた制度分析を伴っていなければならず、制度分析の有無は治療の首尾に直結する。それはこの症例でも明らかだろう。
 本書では、まず「制度を使った精神療法」の流派の考え方を十分に知ってもらうことを目指し、それに基づいて、いかにしたら日本というフランスとは全く異なった文化的·政治的風土の中で、「制度を使った精神療法」を日本の精神医療へ導入できるのかを考察したいと思う(本書では、そうした意味で広く理解する場合には「制度を使った精神医療」という言い方をしている)。
 そして、はじめにどうしても言っておかなければならないことが、もう一つある。それはこの流派の考え方が、制度(環境)について議論しながら分析し工夫することを根本とすることから帰結することとして、おそらくこのこともまたフランス文化の独自性ということになるのかもしれないが、単なる実践上のノウ·ハウだけではなく、きわめて哲学的·思想的な志向をもっているということである。現象学、ゲシュタルト理論、ラカン派の精神分析などに由来する様々な概念が、この流派の議論では駆使される。もちろんそれは衒学的な欲求からのものではない。制度という論点を、現場の組織論にしろ、抽象的な哲学にしろ、単一の観点からだけ見てしまうこと自体が、制度の病を生む(例えば<疎外>という重要な用語が指し示しているのはこのことである)ということをこの流派の人々が知りぬいているからである。そして、そうした議論を経た制度についての分析は、精神医療という枠組みを越えて一般的な社会環境に対する療法ともなるだろう。現代社会が私たちにとって「病んでいない」環境であるなどと言えるひとはおそらく一人もいないはずだからである。「制度を使った精神療法」は病院だけの問題ではない。これだけ社会の中でメンタルヘルスの問題が大きく取り上げられ、スクールカウンセリングや産業カウンセリングの重要性が叫ばれている現状がある以上、それは容易に理解していただけるだろう。しかし実は現在の社会構造では、この肝心のカウンセリングが機能しなくなっているのだ。それは結局のところ「制度を使う」ということを日本の組織が試行できないでいるからではないだろうか。
 本書は大きく実践編·思想編という二部構成をとることになった。実践編では、ラ·ボルド病院というフランスの一病院の例と、それと深く関わるセクター制度というフランス独特の地域精神医療制度とをまず詳しく紹介し、次に日本の精神医療の現場での問題点とそれに対する試みを紹介したのち、日本の精神医療の現場で制度分析がどんな形を取りうるのか、身近な制度をとりあげて検討する。思想編では、まず精神療法そのものの歴史やラカン派における試み、そしてイタリアの例など「制度を使った精神療法」の周辺にある問題を取り上げたのち、最後に「制度を使った精神療法」が思想的にどのような問題と繋がっているのかを考察しておきたい

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