« 【映画】天願大介監督『無敵のハンディキャップ 障害者プロレス・ドッグレッグス』(1993年) | Start | 【論文紹介】松嶋 健「フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──」 »

01. Juni 08

【映画】佐藤真監督『阿賀の記憶』(上映会場:四谷地域センター集会室)

 5月31日(土)、映像民俗学の会の主催で、故・佐藤真監督の代表的な2作品を観る機会を得た。
 今回の上映会は、一昨年、うつ病の悪化で入院する予定だった成増中央病院付近の団地屋上から投身自殺をしてこの世を去った佐藤監督を偲びながら、佐藤監督のドキュメンタリー映画における方法論などを検証するという趣旨のものである。
 その中から、ドキュメンタリー映画における様々な矛盾を問題提起した作品として、同『阿賀に生きる』と同様に、ドキュメンタリー映画界の中では“問題作”との称号を得ている『阿賀の記憶』についてふれる。

 『阿賀の記憶』は、前作『阿賀に生きる』から10年後の作品で、前作と同様、新潟県阿賀野川流域で暮らす集落の人々の日常を記録した作品である。前作と異なる点は、高齢世帯が中心であった集落の人々の幾人かが、すでに物故者としてカメラから姿を消していることである。映画の構成は、阿賀野川流域の自然を映しながら、そこの住民の語りを入れるという手法をとっている。これは、前作『阿賀に生きる』でもドキュメンタリー映画が長らく抱えている矛盾を浮き彫りにしていく経緯にもなっている。
 そのドキュメンタリー映画が抱える矛盾は、その作品に史料的価値を求めるのか、あるいは映像という“芸術作品”としての美学的価値を求めるのかで常に揺れ動いていることである。またもし仮に、後者を求めるとするならば、監督とカメラマンとの間で起こってくる美学的闘争も、時には無視できなくなる。これは私事で大変恐縮だが、私の親類にあたる岩波映画の故・吉瀬昭生が、撮影現場を訪れる私に常々言っていた言葉、「自分は芸術家は嫌いだが、職人は好きだ」という言葉とも無関係ではない。つまり映画製作という、絵画や彫刻のなどの美術表現とは異なったいわば総合芸術においては、各セクトのクリエイターたちが勝手に作家性を主張しだしたら映画は成立しないわけであり、そこで求められるのはディレクターの構想を最高のパフォーマンスで提示できる技術なのである。しかしこれはあくまでも建前論であって、私も学生時代から、生前の吉瀬とは、ここの部分だけは常に意見が対立していたのを思い出した。佐藤の作品の中でも、しばしばメイキング映像が挿入されていて、撮影カメラマンとディレクターである佐藤との間で、雰囲気が一瞬険悪になるような場面もときおり登場している。このような経過を経て作られた映像という「作品」が、いったい誰のものであるのかといった著作人格権の問題は、佐藤の事実上の遺作となった『「映画監督って何だ?」メイキング版(ディレクターズカット)』で大いに語られていて興味深い。
 話を『阿賀の記憶』にもどすが、この作品ではもうひとつ、ドキュメンタリー映画が抱える矛盾について、いわば確信犯的に問題提起されている。それは、佐藤の著書の中でもしばしば語られていることだが、佐藤の撮った映画は、一瞬無垢なドキュメンタリーに見えてしまうが、実は巧妙でフィクショナルな仕掛けがしてあるということである。つまり、ドキュメンタリーとは日常を記録し編集していく行為に他ならないが、果たして撮影スタッフという異物が介入した空間に、「日常」など存在するのかという問題提起である。
 『阿賀の記憶』の冒頭のほうのカットで、阿賀野川でアユ漁をする漁師の姿が登場するが、この漁師のしぐさは、あきらかに自分の視界にいる撮影スタッフを意識しているのがわかる。目線もあきらかにカメラ目線であり、その行為ひとつひとつに一種の演技性なるものを感じるのである。また別のシーンでは、饒舌に話す村の住民の姿が出てくるが、ここでも同様のものを感じる。このようなものを見せられた時、われわれが共通言語としてこれまで認識してきたドキュメンタリーという様式そのものが、実は非常に疑わしいものになっていくのである。そしてそのことが、多くのドキュメンタリー映画関係者に対して違和感やいかがわしさを感じさせるきっかけになったのは言うまでもない。これはドキュメンタリー映画の根底を揺るがすような問題だからである。やや乱暴な言い方をすれば、映像表現におけるドキュメンタリーなどもはや幻想にすぎず、カメラが介入した空間にそもそも「日常」や「自然」などないとも言いきれてしまうのである。このような場合、例えば、“やらせ”と言われる民放の秘境探検番組(例えば『川口浩探検隊シリーズ』など)すら、ドキュメンタリーの立場からは一方的に批判できなくなるという実に面白い状況をつくりだしてしまうことになる。
 佐藤監督の一連のドキュメンタリーにおける方法論をみていると、そこにはドキュメンタリーにおける良心というものに対するささやかな悪意すらあり、そのことが、ドキュメンタリーとは単なるアーカイブズではなくて、そこには何らかのクリティークがなければならないという主張が強く感じられる。
 では、『阿賀の記憶』という作品を、ドキュメンタリーにおけるイデオロギー的対立項ではなく、映像芸術、つまり「作品」として見た場合、どんな風景が見えてくるのであろうか。当然のことながら、まず阿賀野川が象徴的存在として登場する。佐藤は様々な姿の阿賀野川を撮っているが、その中で印象的なのは遠方の町の灯を背景にした夕刻の阿賀野川である。この絵は、阿賀野川流域に点在する木造の集落を映すよりも日常的生活感にあふれている。それは、川という空間そのものが本来持っている有機性がそうさせるのである。川や水辺を象徴的に扱った作品といえば、野村芳太郎監督『震える舌』や坂野義光監督『ゴジラ対ヘドラ』がすぐに思い出されるが、川は、人間の生活排水、汚物はもとより、人間の情念、怨念、穢れまでも流れ込み、ある意味、人間の生活が作り出していく「病」をも抱えたまま流れていく存在である。『阿賀の記憶』の中に流れる阿賀野川は、そうした、かつて第二水俣病の発生地域でもあった流域集落のわずかな記憶を病の痕跡として、生活の中に横たわっているようにみえる。それはあえて社会問題的テーマを全面に出さなくても、川の持つ有機性や、そこで暮らす人間の生活を描いていけば、「絵」として病の痕跡を表現できることを佐藤は知っているようだ。
 演出的映像で面白かったのは、10年ぶりに訪れたこの場所で、前作『阿賀に生きる』を野外でインスタレーションするところである。林の中に大きな布を設置し、そこにプロジェクターで投影するのだが、その映像に登場する集落の人々の中には、すでに物故者となっているものもいるであろう。ここで佐藤監督が演出上に作りだしたメタイメージの中では、その人たちはいまだ日常をたんたんと生きているのである。このような、現代美術でしばしばみられる野外インスタレーションやアースワーク的映像展示は、本来その方法論そのものが、「日常/非日常」、「自然/身体」などの境界的表現に帰結していくわけで、この作品が、単なる記録映画ではなく、監督の主張をもってそこから一歩も二歩も前へ踏み出した作品なのではないかと思った。いずれにしても、今日まで続いているドキュメンタリーという方法論をめぐる論争に対し、何らかの問題を投げかけた作品であることは間違いないであろう。

 

|

« 【映画】天願大介監督『無敵のハンディキャップ 障害者プロレス・ドッグレッグス』(1993年) | Start | 【論文紹介】松嶋 健「フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──」 »

映画・ドキュメンタリー」カテゴリの記事

Kommentare

Kommentar schreiben



(Wird nicht angezeigt.)




TrackBack

TrackBack-Adresse für diesen Eintrag:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/204825/41390807

Folgende Weblogs beziehen sich auf 【映画】佐藤真監督『阿賀の記憶』(上映会場:四谷地域センター集会室):

« 【映画】天願大介監督『無敵のハンディキャップ 障害者プロレス・ドッグレッグス』(1993年) | Start | 【論文紹介】松嶋 健「フランコ・バザーリアと「文化」──イタリアにおける脱制度化と民族精神医学──」 »