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05. Mai 08

【展覧会】『病と医療 江戸から明治へ』(国立公文書館)

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 江戸から明治にかけてのわが国の医学史料の一般公開である。史料の説明は、音声ガイドも含めて医学史という学問に初めてふれる初心者向けに作成されているが、史料そのものは貴重なものばかりで見ごたえ十分であり、メモを取りながら1点1点じっくりと見ていたら、2時間近くもかかってしまった。

 ここで公開史料の中から特に興味をひいたもの、貴重なものをいくつかピックアップする。

『官府御沙汰略記』(延享2年~安永2年)
 文京区小石川にあった幕臣小野家の隠居が書いた日記で、本来は幕府内の人事異動などを主に記録したものであるが、その一部に家庭医学書のような民間医療について書かれた項目もしばしば登場するので面白い。
 例えば、肌荒れのひどかった若い娘に対し、クチナシの煎じ汁に塩を入れて炊いた米を食べさせると良い、という記述がある。クチナシの抽出成分は、現在でも美容液に配合されることはしばしばあり、その効能はメラニンコントロールであると言われているが、肌荒れに対して果たして経口摂取で効能があったのかどうかは定かではない。
 また、幕臣の平坂孫二郎が、梅毒の治療のために草津温泉に湯治へ行った記録も記されている。しかしあまり効果はなかったようで、幕臣付きの医者も、もっと長期に滞在して治療する必要があると言っている。
 この当時はまだまだ西洋医療が入ってくる前であるから、疾病の概念も現在とは相当に異なる。すでにコレラ、赤痢、インフルエンザなどが一般的な内科的疾患と異なる伝染病であるとは認識されていたが、後に東京医学校(現、東京大学医学部)にベルツやミュレルが来るまでは、病理学という概念が明確にはなかったので、病気の原因を正確に突き止めることは困難であったのがうかがえる。ヨーロッパでさえ、リスターが登場するまでは「消毒」や「殺菌」という概念がなかったのである。
 それにしても、この頃からすでに温泉の有効性が認められているのが面白い。そして庶民は行楽で楽しむものであったようだが、特権階級のものにとっては、すでに長期滞在型の施設として存在していたようである。
 その温泉の効能については、後に薬学者として来日したオランダ人のゲールツが、日本各地の温泉地をフィールドワークした本を出版している。
 その資料が下記の『日本温泉独案内』である。

『日本温泉独案内』(明治12年)
 薬学者ゲールツが、日本全国の温泉をフィールドワークして、その効能をまとめたもの。タイトルだけを見ると、まるで“お一人様”の独身OL向けに編集した『るるぶ』別冊みたいだが、内容はいたって科学的なものである。
 当時、民間医療の間では、温泉ならどんな病でも効く、というような温泉万能主義が大勢を占めていたようだが、当然温泉成分はそれぞれ異なり、実際にはその効能を知らずに温泉に浸かると、かえって病気を悪くしてしまう場合もあった。そのために薬学者のゲールツが、全国各地の温泉を巡り、その成分と効能を分析したのである。(しかし、彼の文献を読むと、私にはまったり温泉巡りの旅をしているようにしか見えない)
 この文献の中には、熱海、湯河原、修善寺、草津といった現在でも有名どころの温泉の名がたくさんでてくるので面白い。例えば熱海の温泉については、「第4種含塩泉」と正確に分析している。
 この時代にこのような書物が刊行されたのは、長らくわが国では科学的根拠に基づかない民間療法が何の疑問を持たれることなく広がっていたためで、それをあらためて科学的に検証していくことは、医学の近代化においては絶対に必要なことであったといえる。何にしても、すべてに対して「万能」である薬や治療法は霊感商法でもないかぎり存在しないわけで、今日の健康情報番組のひどさをあらためて上げるまでもなく、「万能」という言葉に安易に飛びついてしまう大衆が、いつの時代にもたくさんいたのであろうことを容易に想像できる。

『養生訓』(生徳3年)
 江戸時代に貝原益軒によって書かれた養生のための手引き書。今風に言えば、出せばベストセラーになる「健康マニュアル」本に相当するが、内容そのものは日々の質素なライフスタイルを体現し、それが結果的に養生につながるといった、いわば老子などの道教的な考えに近いものがある。
 その中で、現代の我々がもっとも見習わなければならないと思った一節を書き出す。

   万の事一時心に快き事ハ
   必後にわざわいとなる

 つまり、その時は一時的に快楽を得られることでも、節度を超えるとかえって病気になる、ということを言っているのである。これは、後に『養生訓』の影響を受けて多くの医師や学者が執筆したこの類の書物の中にもしばしば出てくる。
 例えば、幕府の医師だった多紀元徳が書いた『養生大意抄』(天明8年)には次のようなことが書いてある。

  凡(およそ)何事をせしにも 節(ほど)あり
  切なく苦しきを強いてはなせバ
  神気を傷(やぶ)り 又は筋骨を傷める 

 これも、何をやるにもほどほどが良いということを言っていて、その中でも特に飲酒や夜遊びや食事について言及しているものと思われるが、いずれの共通点も、適度に体を休めるのが良い、と言っているわけである。

『老人必用養草』(正徳6年)
 江戸の世でも、現在と同様の老人問題があったようである。これは老人向けに、老人はどう暮すべきかを説いた養生書のひとつである。その項目は健康はもとより、衣服、住まい、色情までにいたっている。そしてこの中の健康に関する項目でも、身体的な健康だけではなく、精神的健康についても「七情」(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)という項目で扱っていて、近年やっとわが国の医療現場でもQOLの向上や、患者や患者の家族の精神的サポートについても言及されだしたことも考えると、実に先見の明があると思った。しかも、高齢者の「色情」については障害者のそれと同じく、介護の現場でも長らくタブーになっていたことでもあり、江戸の医師たちのアヴァン・ギャルドな感性に興味をそそられる。
 その中で思わず笑ってしまったのは、「隠居僻みの原因」という項目だ。これは、若者と高齢者の世代間闘争にもつながることだが、『老人必用養草』の中では、老人が若者の言うことに従わず頑固になる原因は、老人は自分の生きてきた考えに固執し、視野が狭くなるからだと記されている。だから時には庭の片隅に草木でも植えて、心の余裕を持て、などと言っている。
 たしかに、近年の団塊高齢者もこぞって田舎に引っ込み、ロハスやスローライフ志向に移行しようとしている状況をみると、ストレスフルな都会生活の中で、始終若者に八つ当たりするよりも、このほうがよほど心身の養生になる。

『和蘭医事問答』(寛政7年)
 蘭学医の杉田玄白と建部清庵が交わした往復書簡である。その中で清庵が杉田へと宛てた書簡の中で、来日するオランダの医師は外科医ばかりだが、オランダには内科医はいないのか?、と尋ねているものがある。もともと奥羽藩の藩医で和漢医療に携わっていた清庵がこのような質問をしたのは、来日する蘭学医や蘭学に学んだ医師たちが、塗り薬でも済みそうな場合でも、何かと外科的処置をすることに驚いたからである。これに対して杉田は、オランダには内科医も当然いるが、わが国に最初に来日した蘭学医がたまたま外科医だったので、そのような印象がひろまってしまったのだと思う、と清庵に宛てて書いている。

『広恵済急方』(寛政2年)
 江戸で庶民の間に伝承していた民間療法を、多紀元徳が改めて編纂したもの。当時の10代将軍・家治は、都会(江戸)と田舎、そして武士と農民などの身分によって広がった医療格差を是正しようと、誰にでも速やかに役立つであろう家庭医学書のようなものの編纂を元徳に依頼していた。そして各地に伝わる民間療法、とりわけ産中産後の処置、中毒、怪我、嘔吐、発熱などの緊急を要するものを重点にしてまとめられたのが『広恵済急方』である。
 読んでみると、いろいろと面白いことが書かれているが、中には目を疑うものも多々あるのも民間療法のご愛敬である。
 ここでひとつ書き出してみる。

【喉に物が詰まった時】
鼻の中に強い酢を注ぎこめば、むせて吐き出す。

 これを見た時に、私は思わず往年の漫才コンビ「ツービート」のテイストを感じてしまった。「ツービート」のネタの中に民間療法をテーマにしたものがあって、例えば、歯が痛い時にはどうしたらいいか? ということだが、この時には目に釘を刺せばいい、というものである。なぜなら、目の痛さで歯の痛さを忘れるから、というオチが付く。
 これは本当にナンセンスというしかないが、私の個人的記憶を辿ると、小学校の予防接種の時、注射の痛みと恐怖をこらえるために、注射の時に友人に自分の足を踏んでもらっていたことをふと思い出した。これはまさしく、足の痛さを意識することで注射の痛さを忘れるためである。これが意外に効果があったと記憶している。
 『広恵済急方』の中にある民間療法には、このようなばかばかしいとしか思えないようなものも多々あるが、けしてそれが荒唐無稽というわけではなく、誰かによる何らかの成功体験から民間の間で伝承されたものであろう。それは現代の科学のように再現性が認められるものばかりではないが、時には江戸の庶民の命を救ったものもあるのだろう。

『龍驤艦脚気病調査書』(明治18年)
 大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が演習中に海軍兵の中で起こった脚気(ビタミンB1欠乏)について詳細に報告したもの。周知の事であるが、わが国明治政府は、学問、技術、教育などをドイツに学んだ経緯があり、当然陸軍もドイツ式を導入していた。しかし海軍だけは例外で、軍医の高木兼寛がイギリスのセント・トーマス病院医学校に学んだことでもわかるように、伝統的に英国式を採用していた。このことは後に昭和に入っても何かと海軍対陸軍という構造を生じる原因にもなるが、海軍と陸軍が対立したのは単なる権力闘争だけではなく、そこには当然のことながら学問的対立も存在した。具体的に言うと、ドイツ病理学対イギリス臨床学の戦いである。
 海軍軍医の高木がイギリスで臨床医学を学んだのに対し、陸軍軍医の森鴎外(森林太郎)はドイツでコッホらの病理学を学んで帰ってきた。このことは、診断学というフィールドにおいて後々さまざまな対立をすることになるが、その最たるものが、脚気の診断と治療法をめぐる高木と鴎外の対立である。
 脚気の原因は、ビタミンB1欠乏によるものであることは現在は広く知られているが、明治に国民的病として脚気が蔓延した時には、なかなかその原因がわからなかったのである。ビタミンB1を含まない白飯が主食となった軍隊の中でも当然のことながら脚気が蔓延して、明治政府は軍医にその原因を突き止めるように命じた。
 ドイツでコッホ流の病理学を学んできた鴎外は、脚気の原因を病原菌説に求めて、“脚気菌”の特定とそれの同定を試みたがうまくいかなかった。それに対して高木は、かねてから鴎外の病原菌説を否定し、イギリスで学んだ臨床医学にのっとり、脚気にかかった海軍兵士たちの食習慣、生活習慣などを詳細に調査した結果、脚気の原因はやはり食事と生活習慣にあると仮説を立てた。そこで高木は、練習艦「龍驤」での反省をもとに、兵食に従来の白飯だけではなく麦、パンなどを取り入れてみたのだ。その結果、ビタミンを多く含む麦飯でビタミン欠乏が改善されて、脚気に罹る兵士が格段と少なくなったのである。高木のすごいところは、医学史上でまだビタミンの存在が発見されていない時代にこれをやったことではないだろうか。因みにビタミンの存在が発見されるのはずっと後になってからで、1911年にロンドンのリスター研究所にいたフンクによって、初めてビタミンが物質として同定されている。
 しかし、高木が正しく脚気の原因を突き止めても陸軍兵士の脚気の蔓延はしばらく止められなかった。これは、ドイツ医学に学んだ鴎外が、愚かにも最後まで高木の説を否定し続けたからである。そのため陸軍は日露戦争にいたっても相変わらずの白飯主義で、陸軍は戦闘以外にも多くの脚気患者で兵士を失っている。一方、練習艦「龍驤」での教訓を生かした海軍の兵食は戦艦「筑波」にも引き継がれ、脚気患者は激減しているのだ。
 昭和に入っても、兵食が充実していたのは海軍であり、例えば戦艦「大和」の中で食べられていた肉じゃがやカレーは、栄養学的にも理にかなったものである。

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