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Mai 2008

25. Mai 08

【映画】天願大介監督『無敵のハンディキャップ 障害者プロレス・ドッグレッグス』(1993年)

 今日では、他の中小ローカル・プロレス団体の人気にけして引けを取らない団体へと成長した障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の、障害者自立ボランティア組織として結成された初期から、プロレス興業へと移行していくまでを描いたドキュメンタリー作品である。
 この作品は以前からぜひ見たかったのだが、絶版になっているようでなかなか良い映像素材が入手できず、先日やっと中古セルビデオ店から保存状態の最も良いものを入手できた。それに先立ち先週は新宿で実際にドッグレッグスの興行をリングサイドで観戦してきたので、それに合わせて映画の方もあらためて視聴してみた。

 監督の天願大介は、映画監督の今村昌平を父に持ち、寺山修司の『さらば箱舟』の美術スタッフに加わるなど、早い時期から映画製作の現場に関わってきた監督で、『無敵のハンディキャップ 障害者プロレス・ドッグレッグス』は、初の長編ドキュメンタリー作品である。作品の構成は、障害者レスラーとその家族、ボランティアへのインタビューを交えながら、実際にリングで戦う障害者レスラーの姿を描いている。
 特に、家族やボランティア関係者だけではなく、例えば障害者を客として迎い入れた経験のある風俗業の女性にもインタビューするなど、障害者を社会から切り離された存在ではなく、我々と同様の日常を生きる存在として描いているところは、事故で脊椎損傷を負った中途障害者が合気柔術の格闘家をめざすという後の作品『AIKI』(2002年)への布石にもなっていると考えられる。

 この作品が制作されたのは1993年で、ドッグレッグス結成の間もないころである。現在、ローカルなマット界でプロ格闘家として活躍を続けるドッグレッグスのレスラー達の姿しか知らない人々は、彼らがいかにして一般の客を対象にしたプロレス団体へと変わっていったのかを知ることとなろう。
 現在、ドッグレッグスの中心的レスラーとして活躍しているアンチテーゼ北島が、まだ北島行徳として障害者のボランティア活動に関わっていたころからドキュメンタリーはスタートする。その北島は、自らがレスラーになる以前から、障害者をとりまく環境の中で厳然として存在している、北島が言うところの“ボランティア業界”に対して、非常に厳しい目を持っていた。それは何かというと、まず閉鎖性と独善性である。具体的には、自分たちは社会福祉に貢献しているのだから、そのことについては他者からの批判は一切受け入れない、という頑なな態度などである。
 この問題は、音楽や美術が介在してくる芸術療法やアウトサイダー・アートをとりまく環境と実に良く似ていて、つまり彼らの行為はすべて尊いものであって、だから他者がそれを批評の俎上にのせて、それを作者と切り離された「作品」として批評を行うことを躊躇させてしまう、ある種の抑圧的なタブーを生んでいるのである。
 北島は、障害者と健常者が、社会の中でまったく対等になれるというのはウソであり、まやかしであるとも言う。そのことをまず、ボランティア団体に認識させることを一つの命題と考えたわけである。そして、北島が関わっていたボランティアグループの中で障害者同士がもめ事を起こし、しまいにはプロレス技まで繰り出すような本気のケンカをしている様子を見て、コイツらに本当にプロレスをやらせてみようと思ったのだ。
 障害者福祉という、北島の言うところの、どこか生暖かく欺瞞にみちた制度と、死者もでるかもしれない格闘技的空間は、当然のことながら共存できるものではない。北島はそれを、障害者福祉団体に対する“アンチテーゼ”だと言うのだ。言うまでもなくこの言葉は、後に北島自らがレスラーとなって障害者と闘う際のリングネームになったものだ。そして実際に、他の健常者も次々とリングに上げて、障害者相手に流血するまで殴る蹴るをやるのである。
 監督の天願はこの様子を見て、北島に対して露骨に嫌悪感を表している。しかし北島も、険悪な空気が漂う中で行われたインタビューでも、自分の考えを一歩も譲る気配がない。天願はその後も淡々と障害者レスラーの姿を撮っていく。もし天願と北島の間で何か考え方で接点を求めるとすれば、彼ら北島の下へ集まった障害者たちが、自らの意思でレスラーになることを選択したのを認めることであろう。

 ドッグレッグスが誕生したのは、もともとは先に述べたような、北島自身から湧いてきたアンチテーゼであるから、当初は観覧対象も、レスラーの家族や福祉団体関係者に限定されていて、試合会場も養護学校や福祉施設の体育館などである。それらはとても現在のような興行といえるものではなく、宛らボランティア団体の文化祭の余興といったところである。それでもインパクトは絶大で、賛否両論含めてボランティア業界の中では大きな話題となり、試合回数も増えていき、同時にドッグレッグスに加入するレスラーも充実してくるのである。
 しかし、ドッグレッグスの活動が軌道に乗り出したとき、これまで活動に協力的であった養護学校や福祉施設から、おそらくは道徳的見地からだとは思うが、会場の使用を拒否されて、突然締め出しをくらうのである。これにより、今までは作業所での軽作業や、パンやクッキーを焼いて安価で販売したりといった障害者を取り巻くありきたりの雛形からやっと脱却しかかった彼らの行き場がなくなってしまったのである。このシナリオは、どこまで北島が描いたものなのかは想像はつかないが、いずれにしても、これ以降、彼らがプロの格闘技団体として民間の小屋を借り、観覧者も一般格闘技ファンにまで拡大させたことについての必然性がここにあるのである。彼らは、言うなれば、所謂“ボランティア業界”から追放された正真正銘のアウトサイダーなのである。

 彼らの姿をプロの格闘家はどう見たのであろうか? その答えは、インタビューで本編の中にも登場する大仁田厚の言葉を借りれば理解できる。大仁田は、ドッグレッグスの試合のVTRを見ながら、“この子たちは、立てないのに何でプロレスなんてやるんだろう”と疑問を呈するが、自分がリングの世界でアウトサイダーとして生きてきたことも振り返りながら、“プロレスやらせてやりたいなあ”と一定の理解を示している。
 映画のクライマックスでは、これまではリングアナを務めていた北島が、いよいよアンチテーゼ北島となってリングに上がり、今も人気を誇る障害者レスラーのサンボ慎太郎と汗だくになって死闘を繰り広げる。この試合は、もともとはサンボ慎太郎の指名試合であった。北島もそれに応える形でリングに上がる。これは北島から慎太郎への“俺を越えて行け”というメッセージなのであろうか。

 かくしてプロの格闘技団体として認知され、興行を打つようにまでなったドッグレッグスのレスラーたちの夢は、聖地・後楽園ホールを満員にすることである。当時、エンドロールでこのメッセージを見た多くの人間は、それを荒唐無稽なことと揶揄したであろう。しかしあれから15年を経て、彼らの当初からの夢は、一歩また近づいたような気がする。

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18. Mai 08

【格闘技】ドッグレッグス第76回興行『障害力』(5・17 新宿FACE)

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 このほど大変幸運にも、格闘技団体の試合をリングサイド席で観戦することができた。
 私の記憶をたどると、格闘技をライブで観戦するのは、子供時代に後楽園ホールでタイガージェットシンのファイトを見て以来である。この時もリングサイドで観戦し、突如場外に出たタイガージェットシンが、サーベルを咥えながら恐ろしい形相をしてリングサイド席に迫り、私も観客の一人として必死に逃げ回ったのを思い出す。

 今回私が観戦したのはドッグレッグスというプロレス団体である。
 『障害力』という、格闘技興行にしては奇異な興行タイトルが示すとおり、これは、例えば知的障害、身体障害、ニート、ひきこもり、癌患者など、さまざまなハンディキャップを負った格闘家たちが集う、いわば障害者プロレス集団なのである。団体名のドッグレッグスも、もともとは英語のスラングでよくでてくる言葉で、「ダメなやつ」、「役立たず」、「かたわ」などを表すものだ。
 たぶん本日のエントリーをここまで読んだ多くのブログ読者の方々は、これを見てはいけない残酷な「見世物」と思うだろう。そして、井上はこんなものを見て喜んで、なんとまあ悪趣味な人間だとも思うかもしれない。しかしそれは早計である。もちろん私が悪趣味だと思われるのは一向に構わないが、ドッグレッグスの興行を実際に一度でも見れば、彼らが甘やかされた偽善主義を脱ぎ捨てて、己の肉体の極限に立っているプロのアスリートであることがわかるであろう。

 まず注目すべきは、彼らハンディキャップを負った者たちが、「プロ格闘家」と名乗っていることである。今回で76回目を迎える興行は、回を増すごとに観客が増え、今回も会場は超満員である。興行の規模としては今のところ東北の「みちのくプロレス」規模であるが、チケット販売ルートの確保や料金、会場の設営などをみても、興行として成り立っている。そして試合を行う際も、障害の種類、重度によってボクシングや柔道のように厳格に階級分けがなされ、各レスラーは、K-1ルールや総合ルールに準ずるルールにのっとってファイトを行うのである。
 ここで見えてくるのは、人間の身体の限界、それともうひとつ、それと対極をなす身体の可能性である。この命題は、実は同時にイチロー、北島康介、浅田真央、金本知憲、藤川球児といった現代のアスリートが求めていることでもある。彼らは恵まれた身体と近代的生理学をもって、重力、遠心力、空気抵抗、摩擦抵抗のただ中に肉体を曝し、プロとしてそこで最高のパフォーマンスを完成させようとする。一方で、ドッグレッグスのレスラーたちは、残された身体機能をフルに使って、格闘家としての最高のパフォーマンスを求めようとする。ステージは異なっても、この両者が最終的にたどり着く美学には違いはないように感じた。

 では本日の対戦カードで印象に残ったものについてふれることにする。
 まず、第5試合「中嶋有木VSハードロック」
 往年の山下を思わせる威厳に満ちた柔道着姿のハードロックは視覚障害者である。介助人の先導でリングに上がって一礼する姿に好感が持てた。対する中嶋は癌再発におびえる癌患者である。彼は癌再発の恐怖が原因で重い鬱病も併発してしまった。昨今、「癌難民」という言葉がしばしば聞かれるようになったが、中嶋も、その「癌難民」の一人であろう。
 「癌難民」とは、一度は癌の治療は成功するものの何年後かに再発し、再度の治療の方向性が定まらずに孤立してしまった癌患者たちのことである。このような状況が生まれるのには様々な問題が複合的に重なり合っている。まず第一に、あまりの情報過多によって癌患者自身が迷走してしまうケースがあげられる。次に、癌を抱えたまま社会復帰をした癌患者に対する社会のサポート体制の不備も癌患者を不幸にしているのだ。こういったことが重なると、癌患者自身の治療に対するモティベーションが下がるばかりか、心理的にも社会から孤立してしまうのである。そして癌患者たちは新たな治療法や新たな主治医や新たなコミュニティを求めて難民のように迷走し続けているうちに、居場所がなくなり孤立していくのである。
 癌再発の恐怖と同時に欝病まで併発した中嶋がドッグレッグスに最後の居場所を求めたのも、以上のような再発癌患者をとりまく日本社会の現況を考えると、至極まっとうなことである。「肉体の限界」というアスリートの命題は、中嶋の場合、格闘家として実際に戦うことが即ち“闘病”のメタファーとなって体現されるのである。
 中嶋VSハードロックのファイトは、結局ハードロックの腕挫十字固が決まって中嶋は敗れたが、これからも格闘家として戦う姿を晒して、癌再発の恐怖を乗り越えてほしい。

 第6試合「関口洋一郎VA福祉パワー」
 これは障害者VS健常者の変則マッチである。
 足に障害のある関口は座位のまま上半身をフルに使ったファイトスタイル。これに対し健常者である福祉パワーも関口と同じ条件で戦うために、下半身は拘束具を装着して座位のまま戦う。
 お互いに強力な腕力を持っており、腕を鉈の様に振り下ろすさまがすごい迫力である。例えるならば、泥濘にはまったグラディエイターが、至近距離で武器を振り回して戦っているかのようだ。そして相手の体にヒットするたびに鈍器で殴ったような鈍い音がリングサイド席まで聞こえてくる。あの瞬間は、いったい何キログラム重のエネルギーが放出されているのであろうか。しかも、グラディエイターよりもすごいのは、彼らは自分の身体そのものを凶器にしてしまったところである。

 第4試合「陽ノ道・高王VS虫けらゴロー・ロリろり太」(タッグマッチ)
 このファイトのオープニングは一味違った演出がなされた。ドッグレッグスのレスラーたちも、K-1などと同様に、颯爽とした入場テーマとともにリングインするのだが、このカードに登場する陽ノ道と高王はともに聴覚障害者であるという理由から、2人が入場する時にはあえて入場テーマ曲も流れなかった。場内アナウンスでも、「音のない静かな世界でのファイトをみてほしい」という趣旨のメッセージが流れた。
 格闘技に限らず、どんな商業スポーツでも、テレビ向けコンテンツへとシフトして以来、やや過剰な演出がなされてきた。そんな中、プロ野球パ・リーグの球団が、「野球の音を楽しむ日」という趣旨で、打楽器や管楽器などを使ったヒッテイングマーチはもとより、一切の集団的な応援行為を自粛する試みをしたことがあった。これはわが国のプロ野球的風土には合わなかったようで、以後定着することはなかったが、静かな空間の中でボールの音だけが突出して聞こえる様子はなかなか新鮮であった。
 聴覚障害レスラーの陽ノ道と高王の入場はまさにそんな感じであった。暗闇と静寂の中から彼らは現れ、実際にファイトが始まっても、彼らは互いの顔が見える位置では手話でコンタクトを取り、そうでない場合には、マットを激しく叩いてその振動を伝えコンタクトをとっている。音の存在しない空間で戦っている彼らを音のある空間で我々は見ているのだが、気がついてみると、彼らがわずかに体で感じる振動をコミュニケーションツールとしているのと同様に、リングの中で聞こえる微量な音や振動に聞き耳を立てている自分もいて、試合冒頭のアナウンスが実に効果的なものであったのかがわかる。

 尚、次回興行は11月22日(土)新木場1stRING
 詳細はドッグレッグスwebページ
 http://homepage3.nifty.com/doglegs/

5・17 「障害力」試合結果

○遠呂智vs愛人vsE.T(3WAYマッチ)
チョークスリーパー

世界障害者プロレスミラクルヘビー級選手権試合
○第11代障害王・ノーシンパシーvs挑戦者・よっこいしょ
3R TKO

サンボ慎太郎・天才まるボンvs永野V明・あらいぐまラジカル○
Tフォール勝ち

陽ノ道・高王vs虫けらゴロー・ロリろり太○
レフリーストップ

中嶋有木vsハードロック○
腕挫十字固

関口洋一郎vs福祉パワー○
チョークスリーパー

世界障害者プロレススーパーヘビー級選手権試合
○第8代障害王・鶴園誠vs挑戦者・真. 大玉
ドクターストップ

公開入団テスト
○アンチテーゼ北島vs柳下ミツル
腕挫十字固

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14. Mai 08

【上映会】「佐藤真の映像民俗学の世界を見る」(日本映像民俗学の会)

【上映会のお知らせ】

●佐藤真の映像民俗学の世界を見る●

~昨年夏に自死した映画作家の作品を鑑賞し、考察し、霊を悼む~

日 時:5月31日(土曜)午後5時30分~9時45分       

場 所:四谷区民センター内、四谷地域センター11階 集会室4 

会場借用費:一般学生共500円  

今回は、昨年急死された佐藤真さんの映画を中心におこないます。

彼は映像民俗の世界に近づいていきた…、というよりも彼の代表する映画「阿賀に生きる」は、映像民俗学そのものの作品といっていいと思います。

彼自身の思考回路を論理化するさなかに亡くなったことは無念であります。

今回は「阿賀の記憶」と彼の自死の原因ともなった映画の2本を上映します。

興味のある方のお声をかけてください。

日本映像民俗学の会

〒160-0014

 東京都新宿区内藤町1-10テラス大黒201

 03-3352-2291 [F]03-3352-2293

info@jefs.org

http://www.jefs.org/index.html

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05. Mai 08

【展覧会】『病と医療 江戸から明治へ』(国立公文書館)

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 江戸から明治にかけてのわが国の医学史料の一般公開である。史料の説明は、音声ガイドも含めて医学史という学問に初めてふれる初心者向けに作成されているが、史料そのものは貴重なものばかりで見ごたえ十分であり、メモを取りながら1点1点じっくりと見ていたら、2時間近くもかかってしまった。

 ここで公開史料の中から特に興味をひいたもの、貴重なものをいくつかピックアップする。

『官府御沙汰略記』(延享2年~安永2年)
 文京区小石川にあった幕臣小野家の隠居が書いた日記で、本来は幕府内の人事異動などを主に記録したものであるが、その一部に家庭医学書のような民間医療について書かれた項目もしばしば登場するので面白い。
 例えば、肌荒れのひどかった若い娘に対し、クチナシの煎じ汁に塩を入れて炊いた米を食べさせると良い、という記述がある。クチナシの抽出成分は、現在でも美容液に配合されることはしばしばあり、その効能はメラニンコントロールであると言われているが、肌荒れに対して果たして経口摂取で効能があったのかどうかは定かではない。
 また、幕臣の平坂孫二郎が、梅毒の治療のために草津温泉に湯治へ行った記録も記されている。しかしあまり効果はなかったようで、幕臣付きの医者も、もっと長期に滞在して治療する必要があると言っている。
 この当時はまだまだ西洋医療が入ってくる前であるから、疾病の概念も現在とは相当に異なる。すでにコレラ、赤痢、インフルエンザなどが一般的な内科的疾患と異なる伝染病であるとは認識されていたが、後に東京医学校(現、東京大学医学部)にベルツやミュレルが来るまでは、病理学という概念が明確にはなかったので、病気の原因を正確に突き止めることは困難であったのがうかがえる。ヨーロッパでさえ、リスターが登場するまでは「消毒」や「殺菌」という概念がなかったのである。
 それにしても、この頃からすでに温泉の有効性が認められているのが面白い。そして庶民は行楽で楽しむものであったようだが、特権階級のものにとっては、すでに長期滞在型の施設として存在していたようである。
 その温泉の効能については、後に薬学者として来日したオランダ人のゲールツが、日本各地の温泉地をフィールドワークした本を出版している。
 その資料が下記の『日本温泉独案内』である。

『日本温泉独案内』(明治12年)
 薬学者ゲールツが、日本全国の温泉をフィールドワークして、その効能をまとめたもの。タイトルだけを見ると、まるで“お一人様”の独身OL向けに編集した『るるぶ』別冊みたいだが、内容はいたって科学的なものである。
 当時、民間医療の間では、温泉ならどんな病でも効く、というような温泉万能主義が大勢を占めていたようだが、当然温泉成分はそれぞれ異なり、実際にはその効能を知らずに温泉に浸かると、かえって病気を悪くしてしまう場合もあった。そのために薬学者のゲールツが、全国各地の温泉を巡り、その成分と効能を分析したのである。(しかし、彼の文献を読むと、私にはまったり温泉巡りの旅をしているようにしか見えない)
 この文献の中には、熱海、湯河原、修善寺、草津といった現在でも有名どころの温泉の名がたくさんでてくるので面白い。例えば熱海の温泉については、「第4種含塩泉」と正確に分析している。
 この時代にこのような書物が刊行されたのは、長らくわが国では科学的根拠に基づかない民間療法が何の疑問を持たれることなく広がっていたためで、それをあらためて科学的に検証していくことは、医学の近代化においては絶対に必要なことであったといえる。何にしても、すべてに対して「万能」である薬や治療法は霊感商法でもないかぎり存在しないわけで、今日の健康情報番組のひどさをあらためて上げるまでもなく、「万能」という言葉に安易に飛びついてしまう大衆が、いつの時代にもたくさんいたのであろうことを容易に想像できる。

『養生訓』(生徳3年)
 江戸時代に貝原益軒によって書かれた養生のための手引き書。今風に言えば、出せばベストセラーになる「健康マニュアル」本に相当するが、内容そのものは日々の質素なライフスタイルを体現し、それが結果的に養生につながるといった、いわば老子などの道教的な考えに近いものがある。
 その中で、現代の我々がもっとも見習わなければならないと思った一節を書き出す。

   万の事一時心に快き事ハ
   必後にわざわいとなる

 つまり、その時は一時的に快楽を得られることでも、節度を超えるとかえって病気になる、ということを言っているのである。これは、後に『養生訓』の影響を受けて多くの医師や学者が執筆したこの類の書物の中にもしばしば出てくる。
 例えば、幕府の医師だった多紀元徳が書いた『養生大意抄』(天明8年)には次のようなことが書いてある。

  凡(およそ)何事をせしにも 節(ほど)あり
  切なく苦しきを強いてはなせバ
  神気を傷(やぶ)り 又は筋骨を傷める 

 これも、何をやるにもほどほどが良いということを言っていて、その中でも特に飲酒や夜遊びや食事について言及しているものと思われるが、いずれの共通点も、適度に体を休めるのが良い、と言っているわけである。

『老人必用養草』(正徳6年)
 江戸の世でも、現在と同様の老人問題があったようである。これは老人向けに、老人はどう暮すべきかを説いた養生書のひとつである。その項目は健康はもとより、衣服、住まい、色情までにいたっている。そしてこの中の健康に関する項目でも、身体的な健康だけではなく、精神的健康についても「七情」(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)という項目で扱っていて、近年やっとわが国の医療現場でもQOLの向上や、患者や患者の家族の精神的サポートについても言及されだしたことも考えると、実に先見の明があると思った。しかも、高齢者の「色情」については障害者のそれと同じく、介護の現場でも長らくタブーになっていたことでもあり、江戸の医師たちのアヴァン・ギャルドな感性に興味をそそられる。
 その中で思わず笑ってしまったのは、「隠居僻みの原因」という項目だ。これは、若者と高齢者の世代間闘争にもつながることだが、『老人必用養草』の中では、老人が若者の言うことに従わず頑固になる原因は、老人は自分の生きてきた考えに固執し、視野が狭くなるからだと記されている。だから時には庭の片隅に草木でも植えて、心の余裕を持て、などと言っている。
 たしかに、近年の団塊高齢者もこぞって田舎に引っ込み、ロハスやスローライフ志向に移行しようとしている状況をみると、ストレスフルな都会生活の中で、始終若者に八つ当たりするよりも、このほうがよほど心身の養生になる。

『和蘭医事問答』(寛政7年)
 蘭学医の杉田玄白と建部清庵が交わした往復書簡である。その中で清庵が杉田へと宛てた書簡の中で、来日するオランダの医師は外科医ばかりだが、オランダには内科医はいないのか?、と尋ねているものがある。もともと奥羽藩の藩医で和漢医療に携わっていた清庵がこのような質問をしたのは、来日する蘭学医や蘭学に学んだ医師たちが、塗り薬でも済みそうな場合でも、何かと外科的処置をすることに驚いたからである。これに対して杉田は、オランダには内科医も当然いるが、わが国に最初に来日した蘭学医がたまたま外科医だったので、そのような印象がひろまってしまったのだと思う、と清庵に宛てて書いている。

『広恵済急方』(寛政2年)
 江戸で庶民の間に伝承していた民間療法を、多紀元徳が改めて編纂したもの。当時の10代将軍・家治は、都会(江戸)と田舎、そして武士と農民などの身分によって広がった医療格差を是正しようと、誰にでも速やかに役立つであろう家庭医学書のようなものの編纂を元徳に依頼していた。そして各地に伝わる民間療法、とりわけ産中産後の処置、中毒、怪我、嘔吐、発熱などの緊急を要するものを重点にしてまとめられたのが『広恵済急方』である。
 読んでみると、いろいろと面白いことが書かれているが、中には目を疑うものも多々あるのも民間療法のご愛敬である。
 ここでひとつ書き出してみる。

【喉に物が詰まった時】
鼻の中に強い酢を注ぎこめば、むせて吐き出す。

 これを見た時に、私は思わず往年の漫才コンビ「ツービート」のテイストを感じてしまった。「ツービート」のネタの中に民間療法をテーマにしたものがあって、例えば、歯が痛い時にはどうしたらいいか? ということだが、この時には目に釘を刺せばいい、というものである。なぜなら、目の痛さで歯の痛さを忘れるから、というオチが付く。
 これは本当にナンセンスというしかないが、私の個人的記憶を辿ると、小学校の予防接種の時、注射の痛みと恐怖をこらえるために、注射の時に友人に自分の足を踏んでもらっていたことをふと思い出した。これはまさしく、足の痛さを意識することで注射の痛さを忘れるためである。これが意外に効果があったと記憶している。
 『広恵済急方』の中にある民間療法には、このようなばかばかしいとしか思えないようなものも多々あるが、けしてそれが荒唐無稽というわけではなく、誰かによる何らかの成功体験から民間の間で伝承されたものであろう。それは現代の科学のように再現性が認められるものばかりではないが、時には江戸の庶民の命を救ったものもあるのだろう。

『龍驤艦脚気病調査書』(明治18年)
 大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が演習中に海軍兵の中で起こった脚気(ビタミンB1欠乏)について詳細に報告したもの。周知の事であるが、わが国明治政府は、学問、技術、教育などをドイツに学んだ経緯があり、当然陸軍もドイツ式を導入していた。しかし海軍だけは例外で、軍医の高木兼寛がイギリスのセント・トーマス病院医学校に学んだことでもわかるように、伝統的に英国式を採用していた。このことは後に昭和に入っても何かと海軍対陸軍という構造を生じる原因にもなるが、海軍と陸軍が対立したのは単なる権力闘争だけではなく、そこには当然のことながら学問的対立も存在した。具体的に言うと、ドイツ病理学対イギリス臨床学の戦いである。
 海軍軍医の高木がイギリスで臨床医学を学んだのに対し、陸軍軍医の森鴎外(森林太郎)はドイツでコッホらの病理学を学んで帰ってきた。このことは、診断学というフィールドにおいて後々さまざまな対立をすることになるが、その最たるものが、脚気の診断と治療法をめぐる高木と鴎外の対立である。
 脚気の原因は、ビタミンB1欠乏によるものであることは現在は広く知られているが、明治に国民的病として脚気が蔓延した時には、なかなかその原因がわからなかったのである。ビタミンB1を含まない白飯が主食となった軍隊の中でも当然のことながら脚気が蔓延して、明治政府は軍医にその原因を突き止めるように命じた。
 ドイツでコッホ流の病理学を学んできた鴎外は、脚気の原因を病原菌説に求めて、“脚気菌”の特定とそれの同定を試みたがうまくいかなかった。それに対して高木は、かねてから鴎外の病原菌説を否定し、イギリスで学んだ臨床医学にのっとり、脚気にかかった海軍兵士たちの食習慣、生活習慣などを詳細に調査した結果、脚気の原因はやはり食事と生活習慣にあると仮説を立てた。そこで高木は、練習艦「龍驤」での反省をもとに、兵食に従来の白飯だけではなく麦、パンなどを取り入れてみたのだ。その結果、ビタミンを多く含む麦飯でビタミン欠乏が改善されて、脚気に罹る兵士が格段と少なくなったのである。高木のすごいところは、医学史上でまだビタミンの存在が発見されていない時代にこれをやったことではないだろうか。因みにビタミンの存在が発見されるのはずっと後になってからで、1911年にロンドンのリスター研究所にいたフンクによって、初めてビタミンが物質として同定されている。
 しかし、高木が正しく脚気の原因を突き止めても陸軍兵士の脚気の蔓延はしばらく止められなかった。これは、ドイツ医学に学んだ鴎外が、愚かにも最後まで高木の説を否定し続けたからである。そのため陸軍は日露戦争にいたっても相変わらずの白飯主義で、陸軍は戦闘以外にも多くの脚気患者で兵士を失っている。一方、練習艦「龍驤」での教訓を生かした海軍の兵食は戦艦「筑波」にも引き継がれ、脚気患者は激減しているのだ。
 昭和に入っても、兵食が充実していたのは海軍であり、例えば戦艦「大和」の中で食べられていた肉じゃがやカレーは、栄養学的にも理にかなったものである。

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