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Februar 2008

23. Februar 08

【トークショーのお知らせ】金子雅和×井上リサ(2月29日・渋谷UPLINK X)

【トークショーのお知らせ】

金子雅和(映画監督)×井上リサ(現代美術作家、医学史・医学概論研究者)
2月29日(金) PM10:00~ 渋谷・UPLINK X

 現在、渋谷UPLINK Xでロングラン上映中の『すみれ人形』に併せて、金子監督からトークショーのゲストとして呼んでいただくことになりました。
 皆様、お誘い合わせの上、ぜひご来場下さい。
 また、このトークショーのために、ブログ読者に向けて金子監督からコメントを頂いているので、紹介します。

『すみれ人形』は、"人間が人形になる”というイメージから端を発した作品です。
精神的な傷みを、ひたすら身体やモノに執着することで補おうとする男たちの物語によって、従来のヒューマニズムでは捉えられない人間存在の不可解さを描き出そうとした作品です。この機会に、ご高覧頂けましたら幸いです。」 
                       
 『すみれ人形』監督・金子雅和

http://www.sumireningyo.com/ (すみれ人形公式HP)
http://www.uplink.co.jp/x/log/002413.php (アップリンクHP)

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21. Februar 08

金子雅和第1回監督作品『すみれ人形』(2008年・kinone)

 現在、渋谷UPLINK Xで連日レイトショー上映している金子雅和監督の最新作である。
 タイトルにある“すみれ人形”とは、主人公の男性の妹の名から献呈されたものだ。そしてその妹は、ドナーとして兄への生体腎移植手術を終えた後、家路につく途中に森の中で猟奇殺人に巻き込まれて惨殺される。妹・すみれを殺した鬼畜は実は人間の右腕のコレクターで、当然のことながらすみれの右腕も無残にも切断されるのだが、どういうわけかすみれの遺体は右腕を残したまま鬼畜とともに深い森の中に消息を絶つ。
 この物語に登場する人物たちは、そのすべてがアウトサイダーであるといっていい。里山から少し離れた深い森と谷が横たわる風景が、たとえばリンチの『ツインピークス』のような閉じたスモールタウンを形成し、このスモールタウンの中で展開される無限ループの忘却の旅が、純正培養された狂気に拍車をかける。その狂気の中心モティーフとなっているのが、すみれの右腕なのである。そして、以後物語は、すみれの右腕と失われた身体を求めて展開されていく。
 ここに登場する人物たちは、先ほども述べたとおり、皆なんらかの理由で病んでおり、その「病み」の部分をお互いが補完し合うかたちでコミュニティを形成している。冒頭で象徴的に登場する妹・すみれから兄への生体腎移植は、その互いの補完関係と、“臓器”という単位で認識する身体のアイデンティティのあり様を、メタファとして描いているのだ。その中で例えば兄の文月は、すみれに見立てた腹話術人形を操り、毎晩のように見世物小屋の舞台に立っている。文月の静かな語りで展開される腹話術劇は、突然のすみれの身体と右腕の分断というシーンで暗転を迎え、客に向かって「誰かすみれの右腕を知りませんかー!」という叫びが舞台に響き渡り、客席に向かって突き刺さる文月のそのメッセージが、劇中劇の観客まで“すみれの失われた右腕探しの旅”へと誘ってしまう。
 一方、すみれの幼馴染だった螢介は、アトリエにしている植物に浸食された廃墟に引きこもり、森の木や枝を素材にして、すみれの右腕にそっくりな義手の制作に明け暮れている。そのうえ螢介は、この木や枝でできた義手がただの義手ではなく、人間の体に装着することで、木の組織と人間の組織、すなわち血管および神経系と、文字通り血管新生によって融合を果たすとかたく信じている。
 すみれをめぐるこの2人の行動は確かに正気の沙汰ではない。だがしかし、もし彼らの気持ちを心底理解できる人がいるとすれば、それは唯一、実際に事故や肉腫、その他の理由で身体の一部を失った人であろう。脳神経科学の観点から立っても、人間が、失われた身体の一部を執拗に求め、またそれによって通常ではあり得ない様々な身体感覚や神経症状を体験するのは何ら稀なことではない。アメリカの脳神経科医のラマチャンドラらは、たとえば、すでに切断されたはずの手や足の感覚を脳が記憶していることから起こる「幻肢」、そしてそれに伴う「幻肢痛」について非常に興味深い論文を書き(V. S. Ramachandran, Sandra Blakeslee, Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind, 1998, William Morrow & Co)、そのメソッドは実際に脳梗塞などの脳神経系疾患のリハビリにも応用されているほどである。つまりは、第三者ではなく、あくまで当事者視点に立って文月や螢介の行動をみた場合、それは“異常”であるとも言い難く、むしろ人間のアイデンティティを臓器という単位で認識した場合に新たに浮上してくる潜在的なヒューマニティの萌芽であると言える。この問題は、わが国で議論が続いて久しい脳死と臓器移植問題や、それに伴う「脳の死」と「身体の死」の間にある深い溝とも抵触し、場合によっては唯脳論へのアンチテーゼにもなるのではないだろうか。

 金子監督が創り出す、美しい映像美についても少しふれておく。
 これは依然の8mm作品『那美の瀬』とも共通することなのだが、狂気に満ちた人間たちを取り巻く深い森や源流、里山に広がる棚田などの風景が、けして人間の暗黒面に依ることなく超然としているのである。今回の『すみれ人形』ではなお一層そのコントラストが鮮明になったという印象を受けた。
 また、この作品の中でしばしば登場する人間の身体と植物の組織のエロティックな融合を匂わせるシークエンスは、緻密なライティングや美術によって秀逸に表現されている。例えば、廃墟の壁をつたう蔦や淡い光の中で生育する無数の観葉植物の姿などがそうであるが、私がもっとも印象に残ったのは、冒頭の病室の場面である。
 逆光の病室の中で、妹・すみれからの腎臓の移植手術を終えて療養している文月がベッドに横たわっている。ベッドサイドの医療設備を見る限り、すでに輸液(点滴)装置が末梢血管からの1筒だけしかないことから、体力は確実に回復して退院も間もなくという場面だ。
 この場面の輸液装置に注目。ここで使用されている輸液の器具は、現在のような合成樹脂バックではなく、一世代前のガラス製のバイアル・ボトルである。しかもそのホルダーがボトル本体を囲む形式のものではなく、上部から吊るす形になっている。そのことで、輸液のバイアル・ボトルが透明の美しいフォルムを作り出しているのである。そしてその中にはやや白濁した溶液がわずかながら充たされている。通常の場合、点滴に使用する輸液剤は透明であり、そこに追加する薬剤によって色が変わるが、混濁した溶液はIVH(高カロリー輸液)に使用するイントラリピッドなどの極めて特殊なものを省いては存在しない。わが国の近代小児科学の基礎を築いた高津忠夫(1910-1974)も、東大医局時代にリンゲル液に代わる国産の多電解質の輸液剤「ソリタ-T」シリーズの開発をしていた頃、配合に失敗して溶液が沈殿、混濁しないように相当の神経を使っていたことからもわかるように、本来、混濁した輸液剤はアブノーマルな状態なのである。
 しかしそれが、ここの場面では実に効果的に表現されている。淡い光源の中で周囲の風景と同化して見える輸液装置は、エアートラップ(滴注管)から降りた細い管も含めてまるで植物のように見えるのである。そしてこの容器にわずかに充たされた混濁液は、植物が分泌するホルモンか、あるいは根や茎から滲出してくる細胞液を想像するには十分である。

渋谷・UPLINK Xにて連日レイトショー上映中 21時~
http://www.sumireningyo.com/ (すみれ人形公式HP)
http://www.uplink.co.jp/x/log/002413.php (アップリンクHP)

★2月29日(金) PM10:00~ トークショー 「金子雅和×井上リサ」

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20. Februar 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】2007年度追試問題

 名古屋芸術大学での私の講義「芸術療法講座」で、出席日数が足りない学生、またはレポートの成績があまりよくなかった学生に対し、以下のような追試を受けてもらった。
 本来なら、全員に同じ追試問題を課すところであるが、今回は私なりに一工夫してみた。見れば分かるとおり、全員に異なった内容の追試問題を出題したのである。これは、過去に私の各講義の中で実施した小レポートやワークショップなどからそれぞれの学生個別の理解度などを測り、その上で、学生らが創作活動の過程で何に一番興味を持っているのかを、深く考えてもらうためのものである。
 以下、主な追試問題をリストアップする。

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 「疾病論」 2007年度追試問題

追試問題(1)「疾病論」
以下の映像作品の中では、臨床学的に類似性のある空想上の血液疾患が登場します。以下の作品を視聴し、この3つの作品に登場する「病」の相違点、そしてこの空想上の血液疾患は何を象徴しているのかを比較し批評して下さい。
エンキ・ビラル監督『ティコムーン』(1997年)
岡本喜八監督『ブルー・クリスマス』(1978年)
実写版『マグマ大使』第17話~第20話(1966年)
400字×10(4000字)以上

追試問題(2)「ウルトラセブンと戦後シュルレアリスム」
あなたは、芸術療法講座第9回「シュルレアリスム」の講義で提出したレポートで、『ウルトラセブン』の「狙われた町」を取り上げ、古いアパートの中でちゃぶ台に向き合って座っている等身大のウルトラセブンとメトロン星人のカットがシュールであると書いていますが、このテーマをさらに掘り下げて下さい。
『ウルトラセブン』が放送されたのは1960年代であり、わが国の前衛的芸術運動、たとえばダダイズム、シュルレアリスム、暗黒舞踏といったものが興った時期と重なり、当時『ウルトラセブン』の制作現場に関わっていた監督の実相寺昭雄、前衛彫刻家の成田亨なども昭和の前衛芸術運動、思想運動に多大な影響を受けています。
そこで、『ウルトラセブン』のエピソードの中からシュールと思われるカメラワークや、成田亨がデザインした怪獣・星人などの造形をいくつか取り上げ、その造形やカメラワークの中に60年代を象徴する社会病理や心の闇がどのように表現されているか書いて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(3)「新感覚食品における新しい身体性とシュルレアリスム」
 あなたは、芸術療法講座第10回講義「シュルレアリスム」でのレポートで、「ねるねるねーるね」(クラシエフーズ)などのいわゆるケミカル系菓子について、菓子への食欲よりも菓子を介した化学実験のような要素があることがシュールであると述べています。
 これを踏まえて、この菓子と同業他社のケミカル系菓子類を比較・分析し、その食感から得られる身体感覚(味覚・臭覚・その他口腔内で感じる様々な感覚)や、食品でありながら「食べる」という行為以外の要素が消費者に好評を得ている理由を論説して下さい。
400字×10(4000字)以上
 
追試問題(4)「患者・障害者・被介護者におけるQOL~ファッション・宝飾デザインの現場からのアプローチ」
 あなたは、芸術療法講座第13回講義でのレポートで、宝飾デザインの制作をとおして患者とコミュニケーションをとりたい、と書いていますが、このテーマをさらに掘り下げて下さい。
 具体的には、病人、障害者、介護を受けている高齢者が、療養生活の中で服飾、宝飾などのファッションに興味を持つこと、またはそれを身につけることは、彼らのQOL(生活の質)の向上にどのような作用を与えるのか、具体的な事例を2例以上抽出して分析し、レポートを書いて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(5)『「お笑い」とシュルレアリスム』
 あなたは、「芸術療法講座第10回講義」シュルレアリスムのレポートで、お笑い芸人のムーディー勝山をとりあげ、彼の独特の芸風、すなわち何度も同じフレーズが反復されるなどの理由でシュールであると述べています。
 昨今の新人芸人には、ムーディー勝山の他にも反復的な芸風を得意とする芸人が多く、またそれが広く大衆から受け入れられています。これらの芸人が多く輩出される社会的背景なども含め、なぜそれがシュールな笑いへと帰結するのか述べて下さい。
400字×10(4000字)以上

追試問題(6)『障害者スポーツにおける「病」と「身体」』
 あなたは、「芸術療法講座第11回講義」アウトサイダーアートの中で視聴した障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の映像について、他の格闘技のような観客が一体となる臨場感(ライブ感)に欠けていると述べています。その理由として、観客が介入できる余地が欠けていることをあげていますが、ではなぜ「ドッグレッグス」の試合ではそのように感じるのか、またそれは障害者であるという理由でそう感じるのかなどを、他の障害者競技、たとえば全世界的に認知されている「パラリンピック」などとも比較しながら説明して下さい。
400字×10枚(4000字)

追試問題(7)『「食」という行為をめぐるシュルレアリスム』
 あなたは、「芸術療法講座第10回講義」シュルレアリスムのレポートで、カップラーメンがシュールであると述べています。その理由として、乾燥した状態から食べ物へと形状が変化することを理由にあげています。周知のとおりわが国が開発したこれらのインスタント技術は、宇宙食や自衛隊などの保存食にも応用され今日にいたりますが、今後これらの技術がさらに進んでいくとしたら、人間の「食」における身体感覚にどのような影響をもたらすと思うか、予測して下さい。
400字×10枚(4000字)

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19. Februar 08

金子雅和監督から新作DVDが届く

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 現在、渋谷のUPLINKで連日レイトショー上映している『すみれ人形』の金子雅和監督から、上映のお知らせとDVDが届く。
 金子監督と私の関わりを少し補足すると、2002年に旧BOX東中野(ポレポレ東中野)で特集上映された『12の眼』(http://www.12nome.com/cinema/10/10.htm)というインデペンデント映画のイベントのトークショーにゲストで呼んでいただいたことが始まりである。
 この時金子監督が上映した作品が『那美の瀬』という8mm作品であり、今でもこの作品のことは強く印象に残っている。
 『那美の瀬』は、主人公の男性が死んだ恋人の幻影を求めて、郊外を流れる二級河川から源流のある八木沢ダムあたりまでを、河に沿って歩いていくという内容であった。そしてこの映像の中で実に印象的だったのは、河川に沿って上流に上るという行為である。郊外を流れる河川は澱んでおり、その土壌も破傷風で汚染されていそうな雰囲気なのである。また、「河」という原風景は、我々日本人が古くからの因習の中で、例えば“河向こう”という言葉に象徴されるように、さまざまな身体的メタファやタブーとして作用してきた。
 私は去るトークショーでこのようなことも含めて、『那美の瀬』の中に象徴的に登場する「河」をテーマに、野村芳太郎(『震える舌』)や坂野義光(『ゴジラ対ヘドラ』)らの作品とも比較しながら、「<都市>と<河>をめぐる病の源流」というテーマで話させていただいた。それ以来、金子監督の作品にお目にかかる機会がなかなかなかったのだが、今回久しぶりに新作映画のご案内をいただいた。

 今回、劇場上映作品として第一回監督作品となる『すみれ人形』も、前作よりもさらに身体性を意識した作品のようであり、森や滝といった有機的なロケーションも強調されている。
 ここで展開されるストリーを簡単に説明すると、妹と恋人をそれぞれ失った2人の男が、かたや妹の姿を再現させる腹話術師になり、もう一方の男は、残された恋人の身体の一部を樹木で再生させようとする寓話から成り立っている。ここに浮上してくるのはやはり『那美の瀬』と同様の“癒されざる病”の姿である。人間の身体の源流を森や水源に求め、土に還ること、あるいは水に還ることを求めつつも、でも現実には失われた身体の幻影を求めて浮遊する人間の業が描かれているのだ。

 出演者もなかなか興味深い。今売出し中の若手俳優に加えて、現代美術作家の松蔭浩之、現役のストリッパーや芸人なども登場する。彼らの身体が、その“癒されざる病”あるいは“癒されざる身体”をどのように表現するのか注目である。
(渋谷・UPLINKで連日レイトショー)

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12. Februar 08

【名古屋芸術大学・芸術療法講座】最終レポート「疾病論」を読み終える

 名古屋芸術大学・芸術療法講座の2007年度最終レポート「疾病論」を読み終える。
 レポートを全部読んでみて、まず特徴的であったのは、学生が研究対象にした作品がアニメ・漫画、そして映画などの映像的な作品が多かったことである。(研究対象作品のリストはこちらを参照)研究対象の選定動機などを読んでみると、「今まで何気なく見ていた作品の中に、どのような病理があるのか改めて見直してみたい」、または「“病”と“表現”あるいは“病”と“芸術”の間にどんな関係性があるのか興味がわいた」といった理由をレポートの冒頭にあげている学生が多かった。

 これは毎回講義の中で実施した小レポートの中でも散見されたことだが、例えば、「芸術療法講座を受講するまでは、“病”と“表現”、または“医学”と“芸術”が実は歴史的にも深い関係があったことをあまり知る機会がなかった」、ゆえに、「講義を終えて、今まで目にしていた作品が、また別のものに見えてきた」という講義での印象についての記述からもわかるように、普段日常的にも親しんできた作品を改めて研究対象に選び、その作品の中に通底している表現病理について分析することに至ったと私は理解している。

 もっとも多かったアニメや映画等の映像作品を研究対象にしたレポートでは、レポートの5割~6割を作品のストーリーやプロットの解説に費やしてしまっているものが多く、そこから独自の作家論や作品論を批評として展開していくことへの困難さがうかがえた。

 しかしその中でも、例えばカメラワークや照明といった1つの表現手法に的を絞り、その手法が各場面でどのような効果を果たしているのか、またどのようなメタファが存在するのかを詳細に書き込んでいるものや、漫画のコマ割り、ペンタッチなどの技法から登場人物の心理状態を分析しているものもあった。

 また、映像作品ではなく、絵画、彫刻、写真などのパーマネントな美術作品を取り上げた研究レポートの中にも、作家の年代別のコメントをひろったり、自分が継続的に注目している美術作家の展覧会記録を参考にして、まだ美術業界では評価の定まらない若手作家の作品を積極的に研究対象に選んだレポートもあった。特にこれらのレポートは、すでに多くの研究者が存在する著名な作品や作家について批評する場合とは異なり、資料の収集や参考文献の閲覧もなかなか困難がつきまとうが、そこをよくクリアし、こちらの期待以上のレポートを仕上げた学生もいる。

 なお、各レポートについての感想や評価は、順次このブログで記事にしていく予定である。

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09. Februar 08

土方巽『舞踏大解剖2』(慶応義塾大学日吉キャンパス)

 去る12月21日(金)、慶応義塾大学日吉キャンパス内来往舎シンポジウム・スペースで、『土方巽 舞踏大解剖2』と題した上映会が催された。
 これは、舞踏家・土方巽が“役者”として出演した代表的映画を集め、その解説を含めながら上映するというものである。上映作品は、版権の問題で一部分しか上映が許可されないものや、日本での再版がされておらず、インターナショナル・バージョンで蘇った作品も含まれた。一つ一つの上映作品については、後日個別に書くことにして、ここでは映像の中の土方巽について考えてみる。
 まず、土方が出演した映画の中で、意外にも石井輝男監督の作品が多いことに驚いた。石井輝男といえば、高倉健主演の『網走番外地』シリーズで知られる東映のヒットメーカーである。つまりは興行的に“売れる”映画を作れる監督だ。その石井輝男が一方で、土方を迎えて撮った作品が『恐怖奇形人間』や『怪談昇り竜』などのいわゆるエログロ系のカルトムービーである。ここでの土方の役割は、現世から隔絶した存在の怨念や業(ごう)を秘めたアウトサイダーであり、それは映像のプロットの中で重要な骨格を作っている。
 つまり石井がショウビズの中で描いたアウトサイダーがヤクザであるならば、アートワークの中で描いたアウトサイダーが異常性愛者、障害者などである。物語の中では、現在では不快語として敬遠されている「かたわ」「キチガイ」「せむし」「びっこ」「裏日本」などという懐かしい言葉が隠すことなく平気で登場し、当然のことながらこれらの言葉の織りなす世界では、「男尊女卑」「近親相姦」「獣姦」「食人」「奇形」「人さらい」などといった前近代的タブーとアンチ・ヒューマニズムが存在している。これらは人間のハラワタのような存在であり、普段はそのハラワタを覆う骨格、筋肉、表皮が辛うじてそれを外に出さないようにしているのだが、その内部に怨念のように閉じ込められたハラワタが何かの拍子に外へと放出されそうな予感が緊張感を生んでいるのである。
 この「予感」とは、別の言い方をすれば怖いもの見たさとスリルであり、「裏日本」の古い因習の中で熟成された伝承のようなものが、あるもの無いものの想像力をかきたてるのである。
 土方の役割は、そういった因習のパノラマで異形の姿をなして閉じ込められた身体を演じきることである。
 この点と少し共通する逸話を、『恐怖奇形人間』共演者のビショップ山田氏がたいへん興味深く話してくれた。
 近代以前の東北の「裏日本」の冬は、ひとたび豪雪になると文字通り陸の孤島となり、電気も通っていなかった多くの集落では、あたり一面は闇の世界になる。その闇の世界では、集落の中で点在する近隣の家とは連絡も遮断され、身心ともに極限状態の一人ひとりが暗い家の中に取り残される。その暗い家の中で人々が何をして気を紛らわすかといえば、酒と会話なのだそうだ。酒はわかるとして、会話というのは何かというと、どうやらただの会話ではなく、妄想めいた作り話を延々とするそうである。つまりここで自然発生的に「語り部」の役割を担わされたものが現れ、その他がそれに聞き入ることで、何とか「キチガイ」にならないで済んでいるということだ。
 ビショップ山田氏の話によれば、出典は明らかではないが、この状況とまったく同じものを柳田国男の本で読んだことがあるそうだ。言われてみれば、柳田が採録した説話や物語は、そのプロットの中にはしばしば「通過儀礼」が設定されていて、「人食い」「親殺し」「鬼殺し」といった凄惨な行為の中にも、辺境の狭い閉鎖的集落での実生活をメタファにした掟がはっきりと刻印されている。ビショップ山田氏は、『北方舞踏派』の一連の仕事で東北の「裏日本」に長らく身を置くことで、柳田国男がフィールドワークで体験した世界と似たようなものを、物語の解体・再構築の過程の中で体験したというのであろうか。これは土方同様、一舞踏家として非常に重要で、かつ貴重な体験であり、「場」や「環境」が創作的モティベーションにどのように関わるのかを知る上でも、たいへん興味深い逸話であった。
 なお、来月3月4日には、このシンポジウムの後を継ぐかたちで、同じく慶応大学日吉キャンパスで、『1000年刻みの日時計』研究上映会が開催される。これは朝10:30から夕方の18:00までの長時間に及ぶ研究会で、再び土方の貴重な仕事に触れる機会となるであろう。

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