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21. Februar 08

金子雅和第1回監督作品『すみれ人形』(2008年・kinone)

 現在、渋谷UPLINK Xで連日レイトショー上映している金子雅和監督の最新作である。
 タイトルにある“すみれ人形”とは、主人公の男性の妹の名から献呈されたものだ。そしてその妹は、ドナーとして兄への生体腎移植手術を終えた後、家路につく途中に森の中で猟奇殺人に巻き込まれて惨殺される。妹・すみれを殺した鬼畜は実は人間の右腕のコレクターで、当然のことながらすみれの右腕も無残にも切断されるのだが、どういうわけかすみれの遺体は右腕を残したまま鬼畜とともに深い森の中に消息を絶つ。
 この物語に登場する人物たちは、そのすべてがアウトサイダーであるといっていい。里山から少し離れた深い森と谷が横たわる風景が、たとえばリンチの『ツインピークス』のような閉じたスモールタウンを形成し、このスモールタウンの中で展開される無限ループの忘却の旅が、純正培養された狂気に拍車をかける。その狂気の中心モティーフとなっているのが、すみれの右腕なのである。そして、以後物語は、すみれの右腕と失われた身体を求めて展開されていく。
 ここに登場する人物たちは、先ほども述べたとおり、皆なんらかの理由で病んでおり、その「病み」の部分をお互いが補完し合うかたちでコミュニティを形成している。冒頭で象徴的に登場する妹・すみれから兄への生体腎移植は、その互いの補完関係と、“臓器”という単位で認識する身体のアイデンティティのあり様を、メタファとして描いているのだ。その中で例えば兄の文月は、すみれに見立てた腹話術人形を操り、毎晩のように見世物小屋の舞台に立っている。文月の静かな語りで展開される腹話術劇は、突然のすみれの身体と右腕の分断というシーンで暗転を迎え、客に向かって「誰かすみれの右腕を知りませんかー!」という叫びが舞台に響き渡り、客席に向かって突き刺さる文月のそのメッセージが、劇中劇の観客まで“すみれの失われた右腕探しの旅”へと誘ってしまう。
 一方、すみれの幼馴染だった螢介は、アトリエにしている植物に浸食された廃墟に引きこもり、森の木や枝を素材にして、すみれの右腕にそっくりな義手の制作に明け暮れている。そのうえ螢介は、この木や枝でできた義手がただの義手ではなく、人間の体に装着することで、木の組織と人間の組織、すなわち血管および神経系と、文字通り血管新生によって融合を果たすとかたく信じている。
 すみれをめぐるこの2人の行動は確かに正気の沙汰ではない。だがしかし、もし彼らの気持ちを心底理解できる人がいるとすれば、それは唯一、実際に事故や肉腫、その他の理由で身体の一部を失った人であろう。脳神経科学の観点から立っても、人間が、失われた身体の一部を執拗に求め、またそれによって通常ではあり得ない様々な身体感覚や神経症状を体験するのは何ら稀なことではない。アメリカの脳神経科医のラマチャンドラらは、たとえば、すでに切断されたはずの手や足の感覚を脳が記憶していることから起こる「幻肢」、そしてそれに伴う「幻肢痛」について非常に興味深い論文を書き(V. S. Ramachandran, Sandra Blakeslee, Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind, 1998, William Morrow & Co)、そのメソッドは実際に脳梗塞などの脳神経系疾患のリハビリにも応用されているほどである。つまりは、第三者ではなく、あくまで当事者視点に立って文月や螢介の行動をみた場合、それは“異常”であるとも言い難く、むしろ人間のアイデンティティを臓器という単位で認識した場合に新たに浮上してくる潜在的なヒューマニティの萌芽であると言える。この問題は、わが国で議論が続いて久しい脳死と臓器移植問題や、それに伴う「脳の死」と「身体の死」の間にある深い溝とも抵触し、場合によっては唯脳論へのアンチテーゼにもなるのではないだろうか。

 金子監督が創り出す、美しい映像美についても少しふれておく。
 これは依然の8mm作品『那美の瀬』とも共通することなのだが、狂気に満ちた人間たちを取り巻く深い森や源流、里山に広がる棚田などの風景が、けして人間の暗黒面に依ることなく超然としているのである。今回の『すみれ人形』ではなお一層そのコントラストが鮮明になったという印象を受けた。
 また、この作品の中でしばしば登場する人間の身体と植物の組織のエロティックな融合を匂わせるシークエンスは、緻密なライティングや美術によって秀逸に表現されている。例えば、廃墟の壁をつたう蔦や淡い光の中で生育する無数の観葉植物の姿などがそうであるが、私がもっとも印象に残ったのは、冒頭の病室の場面である。
 逆光の病室の中で、妹・すみれからの腎臓の移植手術を終えて療養している文月がベッドに横たわっている。ベッドサイドの医療設備を見る限り、すでに輸液(点滴)装置が末梢血管からの1筒だけしかないことから、体力は確実に回復して退院も間もなくという場面だ。
 この場面の輸液装置に注目。ここで使用されている輸液の器具は、現在のような合成樹脂バックではなく、一世代前のガラス製のバイアル・ボトルである。しかもそのホルダーがボトル本体を囲む形式のものではなく、上部から吊るす形になっている。そのことで、輸液のバイアル・ボトルが透明の美しいフォルムを作り出しているのである。そしてその中にはやや白濁した溶液がわずかながら充たされている。通常の場合、点滴に使用する輸液剤は透明であり、そこに追加する薬剤によって色が変わるが、混濁した溶液はIVH(高カロリー輸液)に使用するイントラリピッドなどの極めて特殊なものを省いては存在しない。わが国の近代小児科学の基礎を築いた高津忠夫(1910-1974)も、東大医局時代にリンゲル液に代わる国産の多電解質の輸液剤「ソリタ-T」シリーズの開発をしていた頃、配合に失敗して溶液が沈殿、混濁しないように相当の神経を使っていたことからもわかるように、本来、混濁した輸液剤はアブノーマルな状態なのである。
 しかしそれが、ここの場面では実に効果的に表現されている。淡い光源の中で周囲の風景と同化して見える輸液装置は、エアートラップ(滴注管)から降りた細い管も含めてまるで植物のように見えるのである。そしてこの容器にわずかに充たされた混濁液は、植物が分泌するホルモンか、あるいは根や茎から滲出してくる細胞液を想像するには十分である。

渋谷・UPLINK Xにて連日レイトショー上映中 21時~
http://www.sumireningyo.com/ (すみれ人形公式HP)
http://www.uplink.co.jp/x/log/002413.php (アップリンクHP)

★2月29日(金) PM10:00~ トークショー 「金子雅和×井上リサ」

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