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15. Dezember 07

【映画】松本人志監督『大日本人』(2007年・松竹)

 この作品は国内での試写がなかったので、封切後のスクリーンで1回、そして今回DVDでもう一度見る。初見の時に感想を上げておくつもりであったが、この作品についてはいろいろと考え込んでしまい、これまで保留となっていた。
 今あらためてこの作品について考えた場合、まず、「面白かったか?」、「面白くなかったか?」と問われれば、「面白かった」と私は答える。では、松本監督の意図が作品の中で十分に理解できたか? と言われれば、「理解できなかった」と答えるしかない。
 この作品は公開当初、私の周囲の映画関係者(プロの脚本家、演出家、映像作家など)からは総じて不評であった。もっと言えば、不評どころか、「映画」とすら認めていない。皆怒っていた。だが、それほどひどいと言われる作品ならば怖いもの見たさで逆に興味がわくのが人間のサガというものである。
 『大日本人』に対して、プロと自負する映画屋たちが怒るのも無理はない。『大日本人』は、映画専門学校やシナリオライター養成学校などで映画を学んだオーソドキシーたちからすれば、映画のセオリーをまったく無視しているからである。これは、松本自身が一つの表現として意図的にそうやっているのか、編集、演出、脚本の未熟さから結果的にそうなってしまったのかは、次の作品を見ないかぎり、私には分らないので、この時点で、『大日本人』は新しいアヴァン・ギャルドであると言ってしまうのは早計であると思う。
 さて、私が『大日本人』を見て感じたことは、この作品はある一定の年齢層には非常にツボにはまる映画ではないかということである。一定の年齢層とはつまり、松本監督と同世代ということだ。この同世代ということを意識した時に、『大日本人』は、実は彼が子供時代から様々な場面で感じてきた日常の不条理な出来事のアーカイヴであることに気づくのではないか。
 その不条理のアーカイヴをもっとも明確に、かつ鮮明に体現しているのが60年代から70年代にかけての特撮ヒーロー番組である。『大日本人』も、基本的には、ここでは「獣」と呼ばれる、いわゆる“怪獣”に相当する異形と、それを退治する巨大ヒーロー・大日本人、そしてその人間体である大佐藤との間に起こる数々の不条理劇である。
 ここで描かれる不条理とは、例えば、市街地に突然巨大怪獣が現れているのに、いつもと変わらない人々の暮らしや風景がそこに同時に存在していたり、誰もが応援してくれているはずだと疑いを持たないヒーローに、実は内心迷惑している人が大勢いたり、毎回「獣」を無惨に駆逐するヒーローは、実はあまり好かれていなかったりする状況である。
 しかしこういった状況は何も今始ったわけではない。我々が子供の頃に見ていた特撮ヒーロー番組の中でも多々でてきた状況ではある。ではなぜあの時、今ほどまでにその不条理さを感じなかったかといえば、それは、当時の才能あるクリエイターたちによって作られた秀逸な怪獣造形やヒーローのかっこ良さに日常の不条理が「中和」されていたからである。例えば我々は、ウルトラマンの「八つ裂き光輪」やウルトラセブンの「アイ・スラッガー」で文字通り“惨殺”される怪獣を見ても、死んでいく怪獣よりもヒーローの繰り出すそのかっこ良い必殺技に魅了されていたふしもある。だからこそ、『大日本人』で巨大化した大佐藤が、子供の「獣」を誤って殺してしまう場面で、こころの底にチクリとくるような忘却の彼方から蘇ってくる罪悪感に襲われたりもするのである。 『大日本人』には、随所にそういう場面があり、見ているこちらは常に「踏み絵」を踏まされるような、居心地の悪さを感じるのである。この居心地の悪さを「不快」と受け取るか、あるいはこれらを含めて一連の不条理劇として見るかは受け手による。
 一方で、特撮をプロットの重要な部分に入れているという点からみて、何か興味深い構成なり演出なりがあるとしたら、私は「獣」を退治する「大日本人」という存在そのものにもっとも興味を抱いた。物語の冒頭では、単に巨大化するヒーローとしてしか描かれていないが、それが実は一つの家系に代々継承されていく、いわば職業的“業”を負った孤独なヒーローであることが少しずつだが描かれていく。これをわが国の民俗的な歴史に例えれば、それはサンカやマタギのような存在と言えるかもしれない。だから大佐藤一族は、ウルトラの星から来たヒーローのように事件が解決したら地球から離れるというようなことはけしてできない。あくまで地縁、血縁のしがらみの中で、“「獣」を殺す”という「穢レ」を背負って生きていくしかないのである。私はこの部分に大佐藤の悲哀を感じることができた。
 では「獣」の造形についてはどうであろう。思いのほかCGが不自然なく合成されていて、それが一層シュールさを際立たせていた。我々はこれまで、たとえば成田亨、池谷仙克らといった秀逸なクリエイターたちの繰り出す、かっこ良い怪獣に見慣れていたわけだが、実際に「獣」が現れたら、意外に不可解で意味不明な姿をしているものも中にはいるかも知れないと思える演出はなされていた。特に、冒頭に登場する「締ルノ獣」の雄叫びや造形のシュールさは、私の個人的な記憶の中では「ダコーダ」に匹敵する。
 ラストの実写パートは、冒頭に書いたような松本監督個人の歴史の中で蓄積されてきた、特撮ヒーロー番組の物語世界で長らく展開されてきた日常に対する壮大なアイロニーとして受け取っておくことにする。

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