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26. Oktober 07

【ドラマ】「医龍-2」(フジテレビ)

 病院建築や美術セットの面白さから、毎週「医龍-2」を見ている。
 このドラマの中には明真大学病院と北洋病院という、対照的な空間が登場する。どちらも大都市の中核医療を担う総合病院という設定であるが、細かな演出やカメラワークなどで、明真のほうがよりコンテンポラりーに見えるのに対して、一方の北洋の方はというと、明らかに一世代前の医療空間であるのがよくわかる。物語上、もちろんこれは重要だ。
 まず、暗めの照明。これはけしてホスピタリティーを重視するようになった現代の病院が、患者に配慮して“落ち着く”照明設備に気を配っているのではない。設計の段階で患者のための採光という発想がそもそも無いのである。そして雑然とした廊下。これにしてもそうだが、患者やその見舞客のことに配慮していないから、自然とこういう状況になる。このような状況は本来、プロとしての医療者の仕事の楽屋内をさらけ出していることになるので、非常にみっともないことである。スタッフを含めて、そのいかにも発展途上の部分をうまく演出で見せている。
 こういった患者やその家族への配慮が感じられない医療空間は、古い時代の闘病ドラマや病院ドラマを見れば多くみつかるだろう。
 私は以前から、古い時代の(たとえそれが10年程度の古さでも)闘病ドラマを見た時にしばしば感じる絶望感は、その時代よりもはるかに進んだ現代の最新の医療技術を自分が知っていて、その目線で過去の時代を俯瞰してしまうことが原因でおこるのだと思い込んでいた。
 すでに故人となった著名人の伝記をドラマにする際、よく番組の最後で「この疾患は、現在は必ずしも不治の病ではなく、現在は新しい治療法で完治できるようになりました」というようなテロップが流れたりする。これからもわかるように、私はドラマを見ながら、もっとああすればいいのに、こうすればいいのに、しまいには、このステージの癌であれば、抗がん剤はアレとアレを3クールで、あとは段階的に放射線治療に移ればいいのにな! と、まるで自分が主人公の主治医になったつもりで見てしまう。だからどうすることも出来ない歯がゆさと絶望感に襲われるのだと思っていた。これは、あらゆる昔の闘病ドラマに言えることだ。できることならば、タイムマシンに乗って過去の時代に戻り、医師や主人公に新しい治療法や診断術を伝えたり、新薬を渡したりできるのにな、という思いである。
 しかし、「医龍-2」を見ていて、ことはそんな表層的なことではなく、実はその空間に滞留しているコンプライアンスの低さを連想し、今度は自分が患者となった立場で底知れぬ孤独感に襲われるのだということに気づいた。
 つまり、ドラマの中で、一世代前のような設備や空間を見せられた場合、その時代背景から推測すると、その病院がどういう体制の下、患者と接していたかがわかるのである。
 だから、難病に冒された主人公が手を尽くしたかいもなく亡くなっていくのに不安感を感じるのではなく、おそらく医師-患者間でのインフォームドコンセントがいまだ確立されていない医療空間、そしてそれにともなう患者のQOLの低下、こんな中で主治医に対してセカンドオピニオンの申請さえ許可してもらえない患者や患者の姿に、医療空間の中で取り残された孤独感を感じてしまうのである。しかも患者の個人情報もきちんと管理されておらず、なぜか他の面識のない患者やヘルパーなどまで自分の病気の名前を知っていたりして、プライバシーも守られない。今度は患者の立場で、もし自分がこんな医療空間に放り込まれたらどうしたものかと思ってしまうのである。
 「医龍-2」でハゲタカファンドの餌食になった北洋病院も、朝田たちが来る前は、このような空間になる可能性があった。現在のところ最安値更新中の北洋が、限られた設備、限られた人材で立ち上がっていく様子が、このドラマの前半の見どころであろう。 

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