【朗読】ニシムラタツヤ,「肉体言語」で構築する朗読の世界~(女川シークレットライヴ,2014年4月27日より)
http://www.afrowagen.net/index2.shtml
昨年,2人のミュージシャンによって今まで音源すら存在しなかったある東北の労働歌が復刻された。『女川建準行動歌』である。
この労働歌『女川建準行動歌』とは,宮城県牡鹿郡女川町に立地する女川発電所の作業員がかつて歌っていたとされる発電所の労働歌で,当時,発電所建設事務所に勤務していた故・江川泰さんという人が作詞をしたものだ。その頃に流行のブルースの節に合わせて作業員らが歌っていたという記録も残るが,実際の音源は存在せず,今までは闇に埋もれていた労働歌である。
この労働歌の存在に注目し,新たに曲を付けて現代の労働歌として蘇らせたのはIkasama宗教の名でお馴染みの石巻のミュージシャンの阿部正樹と,彼のライヴ仲間である脱法超電磁高橋だ。
『女川建準行動歌』の復刻にはまずこの様な経緯がある。私が毎年催行している東北の観光ツアー「女川歴史民俗紀行~平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅」に同行した名古屋の舞台俳優ニシムラタツヤがまず女川の温泉宿の座敷で朗読による『女川建準行動歌』を上演している。(「女川歴史民俗紀行」とは,千年に一度の大震災に耐え抜いた女川発電所の設計思想を平安時代の津波伝承や古文書まで辿る歴史伝承の旅である。)
この時に同時に朗読された演目は,古文書『日本三代実録』巻十六「貞観大津波」と,高村光太郎『三陸廻り』だ。『日本三代実録』は,そこに記された貞観の大津波伝承が女川発電所の構造上の設計思想に大きく反映されている事でも女川という土地とも関わりが深く,高村光太郎の『三陸廻り』にも光太郎が石巻,女川を旅をした事も記されている。
これらのものを肉声で朗読するという行為そのものが,そのテクストの骨格に「肉付き」と「神経」と「血流」を与える行為でもあり,ニシムラタツヤの女川での朗読の舞台は,テクストの「場」と「空間」を十分に意識した内容の素晴らしいものであった。
そして,このニシムラタツヤの朗読に触発されたと言ってもいいのが,阿部正樹と脱法超電磁高橋の2人のミュージシャンである。特に,阿部正樹は自分自身が東日本大震災の被災者でもあり,漁師の父が女川発電所でも仕事をしていたという経歴も持つ。その当事者としてのミュージシャンが,音源が存在しない労働歌『女川建準行動歌』に新たに曲を付けて,現代のブルースとして蘇らせたいと思うのは至極当然な事だ。
こうして昨年に,まず山形・鶴岡「TRASH」で阿部正樹が初披露。次の仙台「音屋スタジオ+」で競作というかたちで阿部正樹と脱法超電磁高橋の2人のミュージシャンが,それぞれに別のカヴァーとして披露した。
同じテクストから別のアレンジが生まれるという面白さは,近年では宇多田ヒカルのカヴァーアルバム『宇多田ヒカルのうた-13組の音楽家による13の解釈について-』を聴いてもわかるとおり,優れたテクストは他のクリエイターの創作意欲も刺激し,これが後世にわたって「古典」として残っていくものである。このたびの阿部正樹と脱法超電磁高橋という2人のミュージシャンによる労働歌『女川建準行動歌』にも同様の事がいえる。
そして両者それぞれに楽曲の解釈も異なる。これは両者の2つの『女川建準行動歌』を聴き比べればわかるだろう。脱法超電磁高橋によるカヴァーでは,弾き語りのブルースとなっている。1日の労働を終えた後に浜辺で歌う様なブルースだ。脱法超電磁高橋はこれを「生活のうた」と呼び,なかなか報われない日々をクレイジーキャッツ風にアレンジしたという。
一方で,阿部正樹による『女川建準行動歌』は酒場で歌う音頭としてアレンジされている。そして江川泰さんのオリジナルの歌詞の前後には「朝礼」と「終礼」というフレーズが新たに加えられている(http://blog.livedoor.jp/sa2971696-aka/archives/42169558.html)。このフレーズは全ての労働者に敬意と感謝を込める内容となっており,例えば『ヨイトマケ』の様な土木の労働歌の正統派といえるだろう。それでいて,皆で手拍子で歌う様な陽気な「音頭」となっている。実際に,仙台に続き,昨年の暮れに東京・高円寺のライヴハウス「REEF」で披露された時には,会場の客が手拍子で踊りながら聴いていた。
「ブルース」と「音頭」というかたちで現代に蘇った発電所の労働歌『女川建準行動歌』の歌詞も吟味しながらぜひ聴き比べて欲しい。
ずんだ袋を肩にかけ
今日も出て行くあの浜へ
明日の着工 胸に秘め
おれはただ歩く
石を投げられ塩まかれ
乞食犬より つらい目に
遭えど怯まず たゆみなく
おれはただ根性
話し合いのひと事が
こんなに重いと誰が知ろ
願い遂げたる そのときは
おれはただ涙
やがて夜空に原子の灯
浜辺に映ゆる その時は
友よこぞって肩を組み
おれはただおどる
栄えあれかし女川の
夢も大きく はらむとき
共存共栄の旗かかげ
おれはまた歩く
2012年1月28日(土)、29日(日)に、東京・杉並の5つの会場(ふるさと交流市場、南阿佐ヶ谷すずらん商店街、西荻窪広小路親栄会、庚申文化会館、スターロード商店会事務所)で行われた「南相馬物産展」。
東京の杉並区と福島県の南相馬市は災害時相互援助協定を結んでおり、昨年の震災では、物産支援だけではなく、義捐金、区保養所への被災者受け入れなども行った。現在も、杉並区役所1階ロビーでは、南相馬のパネル展示を定期的に行っている。
次回開催は2月25日(土)、26日(日)
昨年の事である。デビュー以来、邦楽ポップスシーンで根強い人気を誇っている槇原敬之が、『Heart to Heart』という1枚のアルバムをリリースした。そして現在このアルバムのコンセプトをテーマとした全国ツアーの真っ最中である。
普段は現代音楽、吹奏楽、来日オーケストラの公演にしか足を運ぶ機会がない私が、今年初めて見に行ったコンサートである。
アルバム『Heart to Heart』は東日本大震災の後にリリースされた作品で、内容は少なからず震災に関する内容も各収録曲の中で登場する。そしてこの『Heart to Heart』は、震災後にリリースされた数多の楽曲の中で、唯一異彩を放っていたものであった。大きなハートの描かれたCDは、一見すると、これまでの槇原のラブソングの延長という印象で、中身ももちろん「愛」について歌ったものだ。しかし他のラブソングや震災復興応援ソングと何が異なるかと言えば、この慈悲にも近い「愛」が向けられているのが、被災者や、さらに言えば人間の男女に対してだけではない、という事である。
それは、海や山などの日本列島が織りなす豊かな自然であったり、人間が食べる為に殺される生き物であったり、そして解釈の仕方によっては、長年、人間の暮らしと文明を支えてきた原子力発電所の原子炉に対する「慈悲」も含まれる。
今回1月21日に行われた東京国際フォーラムでの公演では、一つ特筆すべき点があった。それは、槇原敬之が『Heart to Heart』ツアーを続ける中で、ファンの前で初めてこのツアーとアルバム・タイトルのコンセプトを明言した事である。槇原によれば、昨年から縦断を続けているこのツアーで、ファンの前でツアーのコンセプトと各楽曲が生まれるに至った詳しい経緯を語るのは今回が初めてだという事だ。
そして槇原敬之は、今回のツアーのテーマは「感謝」であると語った。奇しくもこれは、アルバム『Heart to Heart』の6曲目に収録されている「Appreciation」の事である。
槇原はさらにこんな事も語った。「人間は、自分からはしゃべらない物、モノ言わぬ物には心がないと思っている。でも僕はそういう物にも心があると思っている。そう思える世の中の方がロマンティックで可愛いでしょう。」と。そしてさらに、地震で家が断水した時や計画停電の時に、最初は原発事故を批判したい気持ちになったが、後から考えて、なぜ先に今までずっと働いてくれたもの(原子力発電所)にありがとう、ご苦労様と労いの言葉を自分は言えなかったのだろう、という気持ちで生まれた曲があると紹介した後に歌った曲が、アルバム収録曲の「Appreciation」と「White Lie」である。
『Heart to Heart』全国縦断ツアーは、演出でも様々な工夫がなされている。それは邦楽ポップスとしての最高のエンターテインメントを駆使したものであるが、ただ「楽しい」だけではなく、非常に奥が深く哲学的なのである。
まず入り口には槇原敬之のよく出来た等身大のフィギュアが出迎えている。自分のコンサートはお客さんに楽しんでいただくための「槇原ランド」なのだと公言する彼らしい演出だ。そして、白地に赤いハートが染め抜かれた旗が、万国旗の様にいたるところに展示されている。
この旗についても槇原は、国旗をイメージしていると明言している。コンサートのオープニングでも、屋敷豪太率いる錚々たるミュージシャン達が、この「国旗」を持って、マーチングバントの様に登場してきたのである。その他にも、この「槇原ランド」の「国旗」は、色々と楽しい演出をしてくれるのだ。
そして、「日本はこんな思いやりのある国になればいいな」「そういう国にしたいな」と槇原は語る。
では、楽曲の経緯や演出が素晴らしかった3曲について、当日の演奏順に紹介する。
「White Lie」(アルバムでは7曲目に収録)
「停電中のろうそくの 炎を見つめながら~」で始まるこの曲は、槇原敬之が報道写真などで東北の被災地の写真を見た時に着想したものである。その写真とは、瓦礫が積まれた道を歩く子供たちの後ろ姿だったそうだ。まるで実際に被災地を歩いている様なアングルで描写される歌詞は、この様な経緯から生まれていたのだ。
途中の「さんざん頼っていたものにさえ 何かが起こったとたんに 悪く言ってばかりだ」というフレーズで、停電の原因でもある原子力発電所の事故について、「Appreciation」ほどはストレートではないものの、やんわりと触れている。
そして、「絶望の淵と思っていた場所は 希望へとまっすぐ延びる道への始まりと気付く」というフレーズで、瓦礫の中を進む子供達の事を想起せざるを得ないのである。
「Appreciation」(アルバムでは6曲目に収録)
アルバム『Heart to Heart』リリース直後から物議をかもした曲である。特に、反原発思想を持つ者達からは批判の対象とされた。
タイトルのAppreciationとは、ここでは槇原がコンサート・ツアーのコンセプトとする「感謝」という意味が採用される。
冒頭の「仕事場へ僕を毎日運んでくれる電車を 動かしていたものを どうして僕は悪く言える?」というフレーズは、これだけではまだ抽象的で、もし震災後に作られた曲でなければ、槇原のラブソングで綴られるラフスケッチの様にもみえる。しかしながら、2番の歌詞で、これはそんな日常の陽だまりの中で存在する穏やかな断片ではなく、もっとストレートに我々に刃を突きつけてくるのだ。
「壊れた原子炉よりも手に負えないのはきっと 当たり前という気持ちに汚染された僕らの心」と、まさにこれが発売当初から物議をかもしたフレーズである。世の名だたるミュージシャン達が一斉に反原発ソングを歌う中、ちょっと待てよ、と我々を立ち止まらせる。
槇原敬之は「Appreciation」について、「歌詞の表層だけを捉える人たちがいる」と語ったうえで、実はこの曲は「原発、電力会社擁護の曲なのか?」と取材にきた新聞記者までいた事もあかす。しかしながら、全体を聴けば、人間は「いろんなものの命をもらう事でしか 生きてはいけない そんな弱い生き物」だと歌っているとおり、これは、人間の「命」「営み」を支えている世の中のあらゆる物への感謝を表している曲である事がわかる。そして当然の事ながら、槇原が「モノ言わぬ物にも心がある」と言うとおり、原子力発電所の原子炉や発電機も含まれている、という極めて当たり前の事なだけである。
さらに槇原は、「自分は悪くない」「自分こそ正義だ」としたうえで誰かを批判したり、世の中を批判しているわけではない。自分(槇原)はなぜ、「ありがとう」と素直に感謝できなかったのだろうと、自分の問題として内省しているのだ。それを、如何なるものもイデオロギーとして捉える者たちからは、原発擁護として見えるのであろう。
因みに私も、商用発電も含めて原子力というものを、「賛成/反対」とイデオロギーとして捉えた事はない。原子力は、車、飛行機、人工衛星、先端医療などを含む産業技術のひとつであると捉える。そこで、「Appreciation」という曲を受けてあえて言えば、原子力は賛成でもなく反対でもなく、私の「身体」の一部であると言える。なぜなら私の体の中には、今まで自分が生きる為に殺して食べてきた沢山の獣たちの血と、私の「営み」「身体」「命」をインフラで支えてきた原子力の血が流れているからだ。
この様な折りに、重低音が肚の底に響く「Appreciation」にこそ、本物のロック魂を感じた次第である。私の知る限りでは、この曲は震災以来、まだ一度もFM局では耳にしていない。
「林檎の花」(アルバムでは5曲目に収録)
「Appreciation」や「White Lie」とは好対照だが、この2曲が誕生するきっかけを作った作品である。なぜなら、先行シングルの「林檎の花」のリリース日が昨年の3月11日だったからである。
この日、槇原敬之は、「林檎の花」リリース日として朝を迎えた。何事もなく過ぎる1日だったはずが震災が起こった。ここで槇原の今後の楽曲製作に色々と変化をもたらす事となる。この時に自分を救ってくれたのが美輪明宏の「世の中のものに何でも感謝」という言葉だったそうだ。そして、男女のラブソングである「林檎の花」から、もっと壮大に、尚且つ哲学的に「愛」を謳った「Appreciation」や「White Lie」が生まれ、それがやがて『Heart to Heart』というアルバムに結実したのである。
「林檎の花」の中にある、「誰かを思う気持ちで僕らは生きているんだ」というフレーズは、もちろん震災前に綴られたものであるが、今、震災後を生きていく日本人こそ失いたくない言葉である。
これはライヴ終了での余禄だが、槇原敬之が、東京国際フォーラムの2階席まで埋め尽くした観客に対して、「何が起こるか分からない世の中で、今日ここに元気な姿で来てくれたみんな、ありがとう!」という言葉が、このライヴの全てを語っていた。そして、今年初めて「新年、あけましておめでとう!」という言葉を彼から聞いた。私も年が明けてからもずっと、「おめでとう」と言えないでいたのである。
毎年、沼津市で開催されているご当地グルメイベント「沼津なべフェスタ」に、今年は地元商工会、NPO「伊豆どろんこの会」の皆さんのご協力で、女川町も鍋と物産品で参加しました。
いわきの皆さん中心に結成された「ふくしま海援隊」による物産イベントです。「ふくしま海援隊」の皆さんは東北、北関東の復興イベントを中心に活動中。
古文書『日本三代実録』所収の「貞観大津波伝承」に関連する神社。
今回の大津波で手前まで津波が来たが、津波を避けた立地であったため被災を免れた。
なお、東北にはこの様な場所が多く存在し、稲荷神社(福島県南相馬市)、浪分神社(宮城県仙台市)、鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)、女川原子力発電所(宮城県牡鹿郡女川町塚浜)なども、貞観大津波伝承と関わる場所である。
本日、震災後に撮影した福島、女川の動画をまとめて公開する【東北復興映像アーカイヴ】カテゴリを追加しました。
ここに公開する動画は、被災地地元の皆さんのご案内で被災地の中を回り、全て私が撮影した映像です。
これは、今後10年間かけて、被災した郷土の民俗、歴史、産業、常民文化、民藝、年中行事、そして各地の復興イベントを通して、被災地の復興の様子を記録していくものであると同時に、着地型復興観光ツアーのモデル作りとしてもアーカイヴされるものです。
女川出身の写真家・鈴木麻弓と,その父・佐々木厚の2人展である。
3月11日の大震災と津波で,鈴木の実家であった佐々木写真館は跡かたも無く流されてしまった。そして写真館を営んでいた鈴木の両親も未だに鈴木の元へと帰って来ない。それ以来鈴木は,まるで亡き両親を捜すかのように,瓦礫に埋め尽くされた女川の地に立ち,震災後もそこで生きる人々のポートレートを取り続けている。
今回その様な状況下の中で撮られた鈴木麻弓によるポートレートと,父・佐々木厚が残したオリジナルプリントをコラボレーションしたのが本展である。
まず2人展入口に入ると,1台の泥と傷だらけのカメラがアクリルケースに入れられて鎮座している。フジフィルムGF670モデルとキャプションがある。想像するに,まるで中東の紛争地帯から戦場カメラマンの遺品として持ち帰られたようなこのカメラは,女川で写真館を営んでいた父・佐々木厚の物である。未だ行方不明の両親の身の代わりに,娘の写真家・鈴木麻弓の手元に戻ってきたのは,このカメラといくつかのオリジナルプリントだけである。かつて佐々木写真館があった場所はほとんど更地になって建物の面影も無い。しかしその背景には超然とした美しい海と青空が広がっている。
この断片的ともいえる郷土の喪失は,女川町という人口約1万の小さな漁撈集落のいたるところで起こっている事実である。写真家・鈴木麻弓の震災をきっかけとした今回の仕事は,その失われた郷土の記憶の断片と父の手触りを求めてシャッターを切り続けたルポルタージュであると言っていい。ここに登場するポートレートの被写体は,その背景に様々な人生の来歴を持ち,フレームの中で最も力強い瞬間が焼き付けられている。
同様に,父のオリジナルプリントを焼き起こしたモノクロームのポートレートも,今一度ここに並べてみると,圧倒的な迫力を持つ写真インスタレーションとして蘇って来る。写真館でポートレートをライフワークとした父・佐々木厚がかつて手がけた作品は,まるで彫塑の様に量感がある。近年はデジタル画像に感覚が補正されてしまっている我々からするとノイズやイレギュラーとして映ってしまう背景や影,逆光がもたらす複雑な反射も,相当に時間をかけて描きこんだ1枚のデッサンの様にも見える。そこはおそらく,長年父の仕事を見てきた鈴木麻弓なら,1枚のポートレートが完成するまでの,父の仕事の足跡を追う事も可能であろう。
そして父のポートレートと対するかたちで並べられた鈴木麻弓の作品は,冒頭でも説明したように,震災後も女川で暮らす人々の生活誌を捉えたものだ。だが,生活誌と言っても現在の女川町には,その生活の基盤となる支持体が無い。では,家だけではなく,集落の「日常」まで津波で流されてしまった人々を,鈴木麻弓はどう撮ったのかというと,かつて人々の「日常」があったであろう空間,つまり,見渡す限りは空と海と瓦礫の山の空間に立たせて,シャッターを切ったのである。
そこに映し出されたものは,まるで戦禍の中に佇む人々の様ではあるが,ただ1点だけ異なるのは,この人々は郷土を捨てずにここに留まった人々なのである。そして自分の足で立ち,ここから郷土再生をしていくであろう人々なのである。
女川町千年の歴史を辿れば,藩政時代には方々の軍勢に攻め込まれ,また,貞観,慶長,昭和三陸と,幾度となく大きな震災に見舞われながらも,人々がここの集落を捨てる事は一度も無かった。入江で形作られた各浜の集落も,それぞれに独立した「講」と伝統的漁撈文化を持ち,近代以降は村民自らが軍港誘致,そして鯨王と謂われた日本水産創業者の岡十郎がノルウェー式捕鯨や遠洋漁業の重要基地としてここを選んだ。伝統を継承しつつ,常にその時代の先端産業と共存してきた逞しさは,平成の町村大合併でも「女川」という町の名を絶やす事は一度もなかった。
このような土地に育った佐々木厚と鈴木麻弓という2人の写真家を繋いでいるのは,幾重にも地層の様に集積された女川の民俗と,郷土の記憶であり,彼らによってフレームに収められた人々は,その文化を継承してきたアーカイヴを骨格に持った人々なのである。今,その村落共同体の記憶は,父から娘へと伝承されて,この町の復興とともに,一度は喪失した生活誌と「日常」を,再び蘇らすであろう。
■】『LIFE~父の眼差し,娘の視線~』は8月18日(木)まで開催。
(10:00~19:00)最終日は16:00まで
http://fujifilmsquare.jp/detail/11080501.html
鈴木麻弓公式ツイッター
http://twitter.com/#!/monchicamera
鈴木麻弓公式web
http://monchiblog.exblog.jp/
詩人,三谷晃一は1922年福島県生まれ。地元新聞『福島民報』論説委員長を務めながら,郷土福島を題材とした詩を多く書いてきた。今回私が手にした詩集『星と花火』は,戦中の貧しい郷土の記憶と,今日に至る変わりゆく郷土の歳時記を綴ったものである。
まず『星と花火』に採録された作品を全て読んでみて思った事は,自分や郷土のおかれた様々な状況を,何に怨むまでもなく坦々と受け入れて生きていく三谷の姿である。
まず,「初夏の村で」,「魚をとる」という作品。具体的な場所を示す地名は一切でてこないが,ここに綴られた風景は,例えば井上陽水の『少年時代』の様に誰もが記憶として持っている故郷の原風景である。そんな故郷――すなわち,藁ぶき屋根の農家,リンゴの花,風でゆらゆら揺れる葱ぼうず。そして村で唯一の娯楽といえば,NHKラジオとテレビ。こんな時間が流れる村に,ある日突然工場,高速道路,工業団地,ダムが作られていく。しかし三谷は,今となっては村の総意で受け入れたそれらの物にたとえ郷土の記憶が奪われても,工場やダムの向うの町にも人々の暮らしがあるのだと,その敗北感を声高く叫ぶのではなく,静かに胸にしまいこむのである。
そして,「セイタカアワダチソウ」という作品。ここでは自分の郷土(日本)が何者かに征服されていくような光景が,変わりゆく故郷の風景ををメタファにして綴られている。それは異国の武力であり,また外来(東京)からの巨大資本でもある。
セイタカアワダチソウとは知られるとおり,昭和40年代頃から全国で爆発的に繁殖を始めた帰化植物であり,その自生場所は国産植物であるススキと競合する。作品「セイタカアワダチソウ」に登場する小さな風でも大きく揺れているススキの姿は,その見知らぬ侵略者に対する抵抗の象徴だ。
昭和40年代といえば,わが国は高度成長期のただ中であり,外来の工業文化,消費文化が一気に流入してきた時代だ。当時を振り返れば,このセイタカアワダチソウも同時に印象として焼き付いているだろう。
しかし三谷はここでも何かに,あるいは誰かに怨みの念を投げるのではなく,この事実と時代の変化を自らが「敗北者」として受け入れていくのである。
後半,唐突に現れる
「豊葦原瑞穂国。
秋。」
という『日本書紀』に謳われるわが国の美名のフレーズが,いつかは来るであろう外来農業と,それによってまたも滅ぼされるかもしれない村落共同体の農村文化に対する三谷の強い憂いが感じられる部分である。そして,遥か昔にダムに沈んだ村の一部を押し黙って眺めるのである。
そんな三谷には「東京」という町はどう映ったのか。「東京にいくと」という作品は,故郷(福島)から東京へ家族旅行か,あるいは出張で訪れた時の東京の町の点描風景である。デパ地下でワイン,チーズ,そして全国の物産が集まる食料品売り場で土産を買う。東北の人間からみたら寒暖の差が穏やかに感じる東京の佇まいを,三谷はこう表現する。
「なま暖かい東京よ。
なま暖かい思想よ。」
そうして東京の喧騒を離れて再び故郷の食卓についた時,東京から買ってきた鯵や烏賊の生乾しを目にして,「どうしてあんなところ(デパートの土産売り場)で腐敗もしないで きみは生きて来られたのか。」と呟きつつも,この普段より豪華な食卓に満足している三谷の姿がそこにはある。
これはかつて集団就職で東京に大挙して押し寄せた東北の労働者達が,二度と故郷へは帰らず,やがて「東京人」として帰化していった事への嘆きにも聞こえなくもないが,どんな状況下でも,物事の対立や争いを止揚していくような,三谷晃一という東北の郷土に生きた一人の詩人の懐の深さを感じるのである。
5月12日に,東日本大震災の被災地である女川に,地元女川町民の手による地域紙『うみねこタイムズ』が創刊された。
女川を始めとする東北地方で購読されている新聞として最もよく知られたものは『河北新報』である。その他には役場が発行している機関紙『女川広報』が地区長を通して女川町の全世帯に配布されている。
このたび創刊された『うみねこタイムズ』は,現在も被災地で避難所生活を続ける女川町民の為の生活情報を伝えるものである。紙面はB4一面で,活字は写植ではなく全て手書きだ。これが現在『河北新報』に織り込みされて,各地区の避難所に届けられている。
内容は,まず女川の地理に沿って細かく書かれた避難所マップがある。指ヶ浜地区の「かっぱ農園」避難所から,塚浜地区の「女川原子力発電所」避難所にかけて,自治体に指定された全17個所の避難所と,その収容人数が記されている。さらに,移転,他府県への疎開のために閉鎖,再編された避難所があれば,異動人数も明記されている。
この避難所マップは,これからも逐次情報が更新されていくと思われ,避難所再編や収容人数の変化により,町の復旧の様子が手に取る様に分かるであろう。つまり,町内のたった数人の異動であっても,そこには人の営みがあり,今まで名も知らぬままであった人口1万の小さな漁撈集落の存在を,身体的なリアリズムをもって認識できるであろう。
この他にも,ボランティア活動報告,営業再開情報,満潮時刻表,在宅避難地区・物資配給情報,避難所レポートなど,読者も記者も発行者も地元町民ならではの生活情報が網羅されている。これらは,被災の大きさをことさらに伝えようとするアウトサイダー(部外者)である中央メディアではけして伝えきれないものだ。そして集落の中で分散した町民らのライフラインとなっているのである。
■『うみねこ』とは伝統的漁撈集落の象徴
平安『三代実録』,『女川町誌』,『女川町震嘯誌』など,過去千年の集落の歴史を文献で辿れば,かつて女川町は,東北の経済を支える先進的な漁業基地であった事がわかる。古くは日本水産創始者の岡十郎が当時最先端だったノルウェー捕鯨を創業し,その捕鯨基地を女川港に開き,加工工場を石浜に作った。一方で大洋漁業の中部幾次郎と極洋捕鯨の山地土佐太郎は鮎川に捕鯨基地を開く。
これにより女川湾には大型船舶が多く往来するようになり,三陸を代表とする一大前線基地となっていったのである。そしてこの豊かな魚場の上には,いつも無数のうみねこ達が舞っている。
この状況を見たスペイン使節のビスカイノは,慶長16年の『金銀島探検』の中で,石浜、竹ノ浦などを指して“良港”と言っているのである。
■在宅避難地区・物資配給情報
『うみねこタイムズ』第2号には在宅避難地区の情報も掲載されている。
現在女川では,復興後の都市計画案として,高台移転と集落統合という難しい問題が出てきている。これは,再び津波で被災しないようにと自治体側が考えている復興計画の一つである。ひところ町作りで提唱された,いわゆる「コンパクトシティ」という概念だ。
しかし,この案について多くの町民から異論が出た。町民にとっては効率化,即ちそれは今まで脈々と伝承されてきた独自の漁撈民俗やそこでの常民文化の解体を意味するからである。
平安『三代実録』を紐解けば,女川は藩政時代の女川組二十浜の頃から今日まで,貞観,慶長と再三にわたる大津波で被災し,また,外部からの軍勢に苦しめられたが,一度たりとも女川の名が地図から消えた事がなかった。平成の町村合併においても,女川よりも人口が多い隣町との合併も受け入れず,独自の村落共同体を守ってきた土地柄がある。
この強い結びつきの土地柄ゆえ,自治体が指定した公的避難所ではなく,集落内の民家などで避難生活を送っている町民も多くいる。その被災者のライフラインをカバーするのが在宅避難地区情報なのである。ここでは集落ごとにルールが決められ,その取りまとめ役が救援隊の窓口となる。大都市ならば行政からこぼれ落ちてしまいそうな人々を,いわば「女川方式」ともいえる今日的な「講」組織により支えているのである。
■営業再開情報
今回の震災による地震,津波により,女川町は町の実に80%近くが甚大な被害を受けた。被災地から送られてくる多くの写真を見た限りでは,無傷で残っている建物はほんの僅かであり,その被災地の様相は,あたかも広島型の核爆弾が投下された様な状況なのである。そんな中でも立地上,奇跡的に大きな被災を免れた商店,水産加工会社が,震災直後から徐々に操業を開始している。
その中でも不自由な避難所暮らしをする被災者を勇気づけたのは,テレビ東京の番組『ガイアの夜明け』でも取り上げられた老舗蒲鉾屋の「高政」である。「高政」は,震災直後から工場を操業し,揚げたての温かい蒲鉾を,避難所にいる町民に配って回ったのである。集落喪失の危機にある中,この女川のソウルフードは,人々に震災を生き抜く力を与えた事であろう。
この『うみねこタイムズ』では,そうした商店の営業再開情報を詳細に掲載している。食堂,理髪店,新聞販売所など,まだ数えるほどしかないが,やがてこの欄の賑やかになり,復興の狼煙があがっていくのであろう。
※なお,『うみねこタイムズ』は,公式webページにてpdfファイルで閲覧する事ができる。
http://web.me.com/onagawa/Site/Umineko_Times/Umineko_Times.html
【付記】
今回の大きな震災で,事あるごとに比較される2つの発電所,即ち,東京電力の福島第一原子力発電所と,東北電力の女川原子力発電所。そのあまりのコントラストの違いに驚くのであるが,それにも増して複雑で,尚且つ興味深かったのは,しばしば“原発”と言われて人々に忌み嫌われ,本来は人間を寄せ付けないはずの原子力発電所という空間が,自然発生的に住民の避難所となっている事である。この事実をどう評価するかは人それぞれであるが,まだまだ考察の余地が多々ある。少なくても私が知る限り,このような空間は世界においてここだけにしか存在しない。そしてこの発電所は,女川という伝統的な漁撈集落の一角をなす村落共同体の一部となっている事はまぎれもない事実である。
わが国の大衆官能小説の巨匠・団鬼六逝去につき,監督と主演が異なる同名の作品を2本見る。
『花と蛇』は,ブラック企業の妻が借金のかたに売り飛ばされ,そこで拷問,凌辱の限りを受けるという,官能小説の古典的様式美。この辺りは永田守弘の『官能小説用語表現辞典』に詳しいが,数々の耽美的にして密度の高い字面,その質感によって表現される官能文学を,隠密性と余白を失わずに映像化できるのかが,いわゆるAV作品とポルノグラフィーの大きな違いである。
主演を務めるのは女優の杉本彩だ。杉本はアイドル時代から確かにセックスシンボルとなりえていたようであるが,この様な成人映画で裸体を晒すのは初めてであり,石井版『花と蛇』が公開当時から話題になったのはこのような理由もある。
団鬼六文学の様式美で忘れてならないのは,その代名詞でもある「縄」である。生贄となった女の身体が,数人の男たちによって縄で縛られていく。縄の圧迫による鬱血,各部位への食い込み具合の描写などから女の身体の膨らみと柔らかさが表現されるのである。こうして自分の意思に反した限界領域にまで折り曲げられ,畳まれ,不自由に変形した身体が完成する。この1つの異形となったオブジェは,性愛の対象としてではなく,ありきたりの人間性も排除された有機端末として,数々の凌辱的な入力信号にエロティカルに反応するのである。
映画の見所は,ブラック企業主催の秘密クラブに売り飛ばされた杉本彩が,裸体を晒しながら縄で宙釣りの柱に磔刑されていく場面である。不安定に揺れる杉本の裸体と,縄で軋む音は,文学的世界とはまた異なった美しさがある。この怪しさや隠密性は,古くは円形小屋のサーカスや見世物小屋で受け継がれてきたものだ。暗幕で覆われたこの空間は,その数ミリの僅かな布の被膜に覆われただけの脆弱な空間である。そこに充満する悪趣味な見物人たちの想念,情念は,今にも破裂しそうにこの空間を膨張した高圧環境に仕立て上げる。
ここで奴隷となった杉本は,呼吸,排尿といった生理的行為の自由も奪われ,その恍惚の表情が,次第に人格が崩壊していく「知性」を見事に演じている。口には開口弁が設けられた猿轡が施され,天井から吊り下げられたガラス製のイルリガートルから,やや白濁した液体を無理やり注がれる。このぬらぬらとしたイルリガートルの質感と形状は,この場にいれば誰しもが男性器を想起するものである。そして暫くしないうちに膀胱に満たされたその液体が,杉本の裸体を伝わって床に滴り落ちる仕掛けである。この時,この縄で磔刑された女の身体は,1本の管の様な,あるいは,蛭やミミズのような実にシンプルな環形動物の様にも見えてくる。
おそらく何百年も続いてきたであろう,人間の想像力と欲望の限りを尽くした鬼六文学の美しさを映像で表現した作品であった。
厳重な警備がなされている通用門と、緩い勾配の坂道を登っていく大型車両。そこに、警備の人間とは対照的に軽装のいでたちの2人の人物が、日用品を手に持って同じ坂道を登っていくというなんとも不思議な光景。そして、その坂道を登った先の高台には原子力発電所がある。
この光景をとらえたのは、「週刊文春」4月14日号を巻頭グラビアで飾った1枚のモノクロのドキュメンタリー・フォトである。撮影者は田中茂記者となっている。
私は田中茂記者の他の作品は見た事はなく、この作品も連作の中の1枚なのかも定かではない。しかし、非常に緊張感あふれる構図の中で、まるで“家路”へ向かって歩いて行く様な2人の人物の後ろ姿が、他の多くの被災地とは隔絶された一瞬の日常的雰囲気を作っている点に強い印象が残る作品である。
この作品で作られるコントラストはシュルともやや異なる。私がこれまでに感じた似たようなものの記憶を辿れば、それはデイヴィッド・リンチが『ツインピークス』で描いたパッカード木工所周辺の辺境のスモールタウンといったところか。
撮影の舞台となっているのは、今回の地震と大津波で最も甚大な被害を受けた宮城県の女川町という小さな漁撈集落にある女川原子力発電所である。この震災では、一般家屋はもとより、多くの公共施設、他の発電所、インフラが甚大な被害を受けるなかで、この女川の発電所だけは大きな事故を起こすこともなく無事だった。そのために、震災直後から近隣住民の避難所となっている。「週刊文春」の記事によれば、他の避難所よりも暖かく、しかも津波も来ないから安心だとして、この発電所へと移動してくる被災者もいるとのことである。
極めて大衆的な心情として、わが国が被爆国であるという事から、原子力技術そのものが、それを口に出す事も憚れるように忌み嫌われてきた経緯がある。そしてその技術を擁するこの空間も、本来は人間を絶対に寄せつけない。にもかかわらず、今家を失った多くの避難民たちがこの修羅の門をくぐり、ここに辿り着いたのである。
田中記者が写した1枚のドキュメンタリー・フォトは、この状況を目にした時に多くの人々が抱くであろう複雑な心境すら静かに洗い流してしまう様な、小さな漁撈集落の人々の生きる強さを感じさせる作品である。
“家路”を急ぐ2人の道の先には何があるのか、そういった想像力をかきたてるのだ。
シアター・ブロックによる秋田の民話と狂言を題材とした舞台である。言葉はあえて全編ネイティヴな秋田弁により上演された。
まず上演に先立ち,この舞台の演出家である新城聡から異例の口上があった。要約すると次の通りだ。
「今回の事は我々にとっても大変な事態であるが,この事態がきっかけで,世の中で誰が偽物の人間で,誰が本物の人間かがよくわかったと思う。これでかえってすっきりした。むしろ,この時期だからこそ上演する意味が我々にはある。」
この“大変な事態”とはもちろん今回,東北,北関東を襲った大地震の事である。それを踏まえたうえで新城聡は,震災の影響で被災地以外の地域でもイベントが相次いで自粛される中で,今回あえて予定通り公演に踏み切ったのは,どんな批判に晒される事も厭わない舞台に立つ人間の覚悟であるとも語った。
そして,都内も計画停電などで大混乱の中,この舞台に方々から駆け付けた来場者とこの「場」を共有し,連帯できた事を喜んだ。
私がこの舞台公演について知ったのは昨年の夏ごろ,本公演で板に立つ舞台俳優の岩田真を通してである。ちょうどその頃,知人の劇作家や演劇プロデューサーらも,集落に伝わる説話・伝承から現代の舞台を作るという試みをしていたので,舞台表現,身体表現における「方言」という記号がどのように「場」に作用するのか興味深いところでもあった。
また,このザムザ阿佐ヶ谷という空間は,まるで東北の古民家から資材を移築して作った様な空間であり,舞台天井を横断する大きな梁や,床,壁の無数の「傷」,「歪み」,「くすみ」は,たしかにこの「家」に誰かが棲んでいた気配すら感じる。舞台と客席がまったく同室の質感で繋がったこの空間は,まさに名も無き東北集落の「家」そのものである。
一昨年はこの舞台で慶應義塾大学アートセンターが,もともとは標準語で書かれた土方巽の『病める舞姫』を秋田弁で上演をするという試みを行い,今もなお,その土方の気配が残像として残るこの空間で,再び秋田弁による舞台が試みられたわけである。
上演されたものは,秋田民話の「へっぴりじい」,「にぎりままとじさま」,「なくてななくせ」の3編と,狂言「濯ぎ川」である。どの物語も,人間の業と我欲を面白おかしく語ったものであり,近世から口承により語り継がれてきたものである。
舞台ではまず演者が中央に登場し,その他黒子となった左右両翼に脇を固める複数の演者たちが,様々な民具を打ち鳴らす音と肉声で物語の効果音を入れる。本舞台の効果音はこれで全てであり,いわゆる電気的に予め合成された音響効果は存在しない。そして全編にわたりネイティヴな秋田弁である。
一昨年,慶應義塾大学アートセンターにより上演された秋田弁による土方巽の『病める舞姫』では,標準語圏の人間には聞き取りにくい秋田弁の会話の中に,ときおり標準語に翻訳された会話が挿入された。要所要所で掛け合う秋田弁と標準語がまるで即興ジャズのセッション,あるいは,言葉同士の格闘の様で,それはそれなりに面白かった。(『病める舞姫』についての批評はこちら→ http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2010/03/post-b4d4.html http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2010/03/post-b4d4.html)
翻って今回の舞台ではそれが一切ない。ふだん標準語圏で暮らす我々は,聞き馴染みのない秋田弁と対峙することとなる。まず,会話の内容が聞き取れるのがおおよそ60%。あとは演者の表情,身体表現により,理解できなかった秋田弁の断片を補完する。「言葉」とは意味が正確に伝わってこそ,記号の役割を果たすが,この空間ではそれは困難である。だがその事,つまり,単純明快に記号化できない「言葉」の存在があるからこそ,演者から発せられる肉声が,強い身体感覚を得てこちらに伝わってくるのである。
実は,中央線アンダーグラウンド文化を築いてきた阿佐ヶ谷,高円寺という土地は,東北と非常にゆかりが深い。60年代,70年代にアングラが栄えたこの地に地方から集まってきた者たち,例えば土方もそうだが,寺山修司や北方舞踏派の面々,伝説の音楽喫茶『ムービン』に集った無名のフォークゲリラたち,彼らのルーツを辿っていくと東北と繋がる。東北の人間は朴訥で辛抱強いと言われるが,実はそんな単純な事ではなく,外界と一切閉ざされた冬の長い豪雪の中で,酒と肉体と唄で濃密な人間関係が熟成され,その結果,土俗的身体を獲得してきたのである。
秋田弁の舞台に立つ演者たちは,地下足袋で板の間の舞台を踏み鳴らし,その重心は地面に限りなく近い。これはまさに「田植えの舞い」であり,舞台上で展開される幾重もの物語は,東北の名も無き集落の日常なのである。
冒頭でこの舞台の演出家である新城聡が言った,「この時期だからこそ上演する意味が我々にはある。」という言葉は,震災と大津波で喪失した東北の集落の記憶と民俗を,その「言葉」と「身体」でふたたび集落再建していく行為と繋がる舞台であった。
2011年3月11日に発生した戦後最大級の大地震と津波は,東北,北関東という広い地域に甚大な被害をもたらした。この大地震は今のところ,「東北関東大震災」,「東日本大震災」,「東北地方太平洋沖地震」と呼ばれている。かつての阪神大震災や中越地震とは異なり,あまりにも被害地域が広い。それゆえにこのような名称が付与されたのであろう。
その中で,私がこのコラムの表題で主にNHKが採用している「東北関東大震災」を使用したのは他でもない,この震災を,当事者性を持って受け止める為である。
日本国内で大災害が起こった時,それが東京から離れていれば離れているほど,東京人にとっては他人事に映る。日本の中枢機能が集結した帝都東京は,どんな事があっても潰れないという神話的な都市伝説に覆われている。それを一瞬だけ覆したのが1995年に東京都心で同時多発的に起こったカルト集団オウム真理教による「地下鉄サリン・テロ」であるが,これも,まさに喉元過ぎれば熱さ忘れるという状況で,今現在も当時の様に防災グッズを枕元に置いて寝ている人は少ないであろう。こういう状況の中で起こったのが今回の「東北関東大震災」なのである。
かつて阪神大震災が起きた年,パロディストのマッド・アマノが今見ても非常にインパクトの強い作品を制作した。それは東京23区の地図の作品である。一瞬見ただけでは何の変哲も無いただの地図であるが,よく見ると,23区の江東区,江戸川区あたりのエリアが,阪神大震災で最も被害が甚大であった灘区,長田区,御影町の地図と部分的に入れ替わっているのである。
私はこの作品を見た時に,一瞬だが背筋の寒い思いをした事を今でも身体的に記憶している。江東区周辺は海抜ゼロメートル地帯であり,もし今回の様な大津波が来たとしたら,おそらく今のままの防災体制では町全体を防衛できないであろう。マッド・アマノの作品は,今思うとそれを予見するような作品であった。
そして今回の大地震を,「東日本大震災」,または「東北地方太平洋沖地震」ともし呼ぶならば,停電と,東北地方と比べて僅かな死傷者だった東京は,まだ幾分だが感覚的には他人事でいられたわけである。しかしそれを「東北関東大震災」とあえて呼ぶ事で,途端にこの震災の大きさが身体性を持ってのしかかって来るのである。
津波で集落の2つ3つが一瞬にして消失するなど,まったく想像し難い。あまりにも多くの死者の人数は,それをリアリズムを持って捉える事も困難である。
この大地震が来る一週間前,私は長年懇意のあった知人を癌で亡くしたが,この知人と同様に,震災で亡くなった1万人以上の方々にはそれぞれの人生模様があり,歴史があったわけである。しかし,それを理解し,知ろうとするにはあまりにも数が多すぎて,1人の人間の頭で想像する許容量を超えてしまっているのである。
そして何よりも,首都東京の下層を神経の様に複雑に這うインフラが,電力も含めてかなり多くの部分で近隣他県からも享受されていた事にあらためて気づく。
特に,原子力発電所の被災による幾多のデマでパニックになった都民を見ていると,マッド・アマノの作品を突き付けたくなる。テレビでは原子力発電所の被災の様子を刻々と伝え,それを見て右往左往する都民が多くいるが,彼らの口からは,“原発の町”とともに生きてきた地域住民の気持ちや,復興後の原発界隈の地元経済,観光について心配するような意見はなかなか聞かれない。
今まで他所に多大なるリスクを負わせて享楽的に発展してきた「東京」というインテリジェンスが,まるで「病」に侵された箇所だけを切除して,自分だけは生き残ろうとするような,ある数の冷たさを感じてしまったのも事実である。それに対し,私に何ができるかと考えた時,せいぜい以前から所有していたガイガーカウンターで朝晩の放射線量を測定し,そのデータをネットにあげて近隣の友人達を安心させる事。それから,原発の修理が終わって被災地が復興したら,そこを観光で訪れる事ぐらいしか出来ない。
ということで,最後に,近年熱海の町づくり,町興しに関わってきた者として,“原発の町”女川(宮城),双葉町(福島)の復興を願い,観光案内をして終わりにしたいと思う。
宮城県女川町は,風光明媚なリアス式海岸に囲まれ,牡蠣,ホタテ,銀鮭などの養殖が盛んな漁師町である。町のいたるところには良質な温泉がたくさんあり,この眺めは熱海の伊豆多賀の風景を彷彿とさせる。また,眼下に広がる海は全国のアングラーにとっても絶好の釣りスポット。釣りビギナーでもアイナメ、メバル、タナゴを釣って楽しむ事ができ,町内にも多くの釣具店がある。
観光スポットとしてお薦めなのは,水産観光センター「マリンパル女川」。ここでは女川の水産業のPRの他に,海洋をテーマとした生物多様性について広い知識を得る事もでき,夏休みの自由研究には最も相応しい場所である。また,ここに併設されたフードコーナーでは女川の水産加工品を食べる事もできる。
福島県双葉郡の浜通りは,JRが「グルメ街道」として売り出すほどの,知る人ぞ知る食べ歩きスポット。カレイ,ホタテ,その他港で水揚げされた海産物が並び,この光景は熱海網代の干物銀座の様な賑わい。そしてもちろん周辺には良質の温泉が限りなくある。特に,近年映画『フラガール』で有名になったいわき市界隈には老舗旅館が立ち並び,毎年開催される町の観光プログラム「いわきフラオンパク」では,多岐にわたる体験プログラムで町の歴史,伝統,民俗まで見聞を広げる事が出来る。
ここに紹介した施設,イベントは,現在は多くが被災している。しかし,復興した町の姿を想像しつつ,あえてこのような文章を書いてみた。
原発の修理が完了し,安全宣言が出て,町に人々が戻って復興が始まったら,私は大勢でこの原発の町を訪れ,震災復興「福島・宮城温泉巡り+釣り・食い倒れ+女川原発見学」オフを決行し,かつての被災地で豪遊する予定である。
女川町公式
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/maintop.html
マリンパル女川
http://www.marinepal.com/
女川原子力PRセンター
http://www.tohoku-epco.co.jp/pr/onagawa/index.html
双葉町商店街公式
http://www.newcs.futaba.fukushima.jp/futaba/guide/shop/
にほんブログ村(福島県双葉郡)
http://chiiki.blogmura.com/fukushimaken/07545.html
福島県浜通り日帰り温泉
http://www.nextftp.com/terasawa/fukusima-hamadori-spa.htm
いわきフラオンパク
http://iwakihula.onpaku.com/
かつて1980年代に社会問題となっていた校内暴力,非行,登校拒否の未成年達を,厳しいヨットの訓練で更生させる施設として注目されていた戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長の半生を追ったドキュメンタリー作品。
この作品は,昨年東海テレビの制作でテレビ放映されると大きな反響を呼び,今回はテレビ放送では未公開だったシーンを加え,新たに再編集して1本のドキュメンタリー映画として公開された。
冒頭で私があえて“戸塚宏校長の半生を追ったドキュメンタリー”と書いたのは,この作品が,単に戸塚ヨットスクールと戸塚宏の教育論に「是・非」を問うだけの作品ではないからだ。
まずファーストカット導入部では,いわゆる戸塚宏と数名のコーチが「犯罪者」として裁かれた戸塚ヨット事件の当時のニュース映像が挿入される。当時この映像を見た記憶がある者は,恐らくは戸塚宏という人物がこの世の「鬼」か「化け物」に見えたであろう。報道番組で連日繰り返し流されるセンセーショナルな体罰シーンだけを見せられた我々は,そこに至るまでの理由も知る事もなく,戸塚宏をマスメディアの中で「化け物」に仕立て上げて,一方的に批判してきたともいえる。
これは意外に世間ではあまり知られていないようであるが,戸塚ヨットスクールは,開校当時から今のような更生施設であったわけではない。もともとは世界的ヨットマンであった戸塚宏が,地元市民や子供たちにヨットの楽しさを教えるために開いたヨット教室が前身である。そこにたまたま不登校や非行などの問題を抱えた子供が入校してきて,ヨットの厳しい訓練を受けるうちに立ち直っていったという口コミが全国に広がり,やがて非行の子供達だけの更生施設となっていったのである。
映画の中で戸塚宏は再三にわたって「こんな子供にしたのは誰なんだ?どんな世の中がこういう子達を作ったんだ?」と問いかける。
金属バット殺人事件を象徴とする家庭内暴力や校内暴力という言葉がしばしば聞かれるようになった70年代後半から80年代にかけて,様々な教育評論家や,今でいうプロ教師達がテレビに出る中で,ひと際異彩を放っていたのが戸塚宏である。親にも学校の教師にも制止する事ができない問題児の暴走はいったい誰が止めるのか。それは「社会で育てましょう」などと言う評論家の生ぬるい言葉に託すより,当時の世の中は戸塚宏を待望したのではなかったのか。
実は,『平成ジレンマ』が制作される以前,過去に戸塚ヨットスクールを題材にした映画がもう一つある。西河克己監督『スパルタの海』(1983)だ。これは当時,『東京新聞』に連載されていた同名のルポルタージュを同名映画化したもので,伊東四郎が戸塚宏の役をやって当時から話題になった。
そして数年後,ヨット訓練生が事故死するという戸塚ヨット事件が起こると,この作品はいつのまにか封印されてしまった。それ以降,ほぼ全てのメディアが掌を返すように一斉に戸塚宏を叩きだしたのだ。今のようなネットの無い時代である。当時の我々は戸塚宏の生の声を直接聞く機会もなく,彼を「化け物」にしてしまったのである。
『平成ジレンマ』では,これまで当時のマスメディアによって長らく封印されていた戸塚宏の「言葉」を少しずつ紐解いていく。その言葉一つ一つは戸塚宏によって肉体言語化されたものであり,非常に重い。あの事件後“戸塚被告”,そして“戸塚受刑者”となり,刑期を終えて再びヨットスクールに戻ってきた戸塚宏は現在70代である。そして,かつて「暴力」「体罰」とまで言われた厳しい訓練法は封印されてしまっている。70代になったこの「化け物」は,両手の手錠こそは外されたが,再び暴れないように見えない足枷がつけられている。
しかし,この手負いの「化け物」戸塚宏のもとにやってくる者は後を絶たない。マスメディアと世論と権力によって抹殺されたかにみえたこの空間は,現代の教育の歪み――即ち,ニート,引きこもり,不登校,薬物依存,そして集団での協調性がなく問題を起こす情緒障害児の漂流地点となっていたのである。
入学金は315万円で月々の月謝は寮での生活費込みで11万円。一度卒業しても社会復帰出来ず,再びここへ戻ってきた時は新たに入学金を取る事はない。コーチ,スタッフの年金や退職金ももちろん無く,現在は赤字経営である。そのうえ,スクール内で少しでも問題が起きるとどこからともなくハエの様なマスコミが一斉にたかってくる。そして故意に「化け物」を挑発し,「化け物」が狂って暴れ出すシャッターチャンスをうかがっているのだ。
こんな状況について戸塚宏は,先日の公開討論会の中でこのように述べている。
「情報にはインフォメーションとインテリジェンスの2種類ある。何らかの意図をもって編集されたものがインフォメーションである。」
これは日本のマスメディアが長らく抱えている問題そのものである。当時,戸塚ヨット事件にふれた我々は,編集されたインフォメーションによって,訓練生や訓練生の親,そして戸塚宏自身からこぼれ落ちた声を拾い集める手段を持っていなかった。今回『平成ジレンマ』という作品を通してその断片を拾い,海に面した「化け物」のアジトを,外と中から見る機会を得た。
現在,新生・戸塚ヨットスクールには常に10名程の訓練生が寝泊まりしている。脱走する者,卒業しても何度も戻って来る者,鬱が治りかけたとたんに屋上から飛び降りて自殺する者がいる一方で,1人では何もできなかった引きこもりの少女が,寮生活でヨットの楽しさに目覚め,「将来の夢は五輪選手」とまで言うようになる。
私はこのような状況も踏まえても,戸塚宏を無批判に是認するつもりはない。しかし,戸塚宏と同じく長い間ヨットやウインドサーフィンをやってきた人間の立場から言うと,世の中で生き抜いて行けない人間が海の上に出たら,確実に死ぬ,という事である。
かつて戸塚宏という「化け物」を生んでしまった現代社会を構成する一人として,誰もが一度は見ておくべき作品である。
■『平成ジレンマ』ポレポレ東中野で現在上映中
http://www.mmjp.or.jp/pole2/
シアターの正面には中央総武線「東中野」駅構内からも見える大きな垂れ幕がかかっている。
■『平成ジレンマ』公式web
http://www.heiseidilemma.jp/
先週の22日(火),成城にある国立成育医療研究センターの講堂で,輸液の歴史についてレクチャーをさせていただいた。
国立成育医療研究センターは日本で最も規模の大きい先端的な小児科専門の医療センターで,各科診療部,外来救急部に加えて,障害児の療育施設も備えている。その景観は,東京郊外の街の中にマンモス団地か,あるいは学園都市があるような雰囲気で,隣接する空間に対しても開放的な都市設計がなされている。
このような外界に対する開放的な医療空間の設計は,近年,患者側や街からも求められてきた空間である。患者,障害者,高齢者が社会から孤立してしまう原因の一つとして,その医療空間,介護空間が街の中で閉鎖的空間を作っている事も挙げられる。つまり,ここへ通い,またはここで生活する病者にとっては日常の空間であっても,病者ではない者にとっては「非日常空間」なのである。
この「日常」と「非日常」という空間の関わり方の差異によって,両者の間に見えない壁を作っている。そこで,外界との境界線にグラデーションを設ける事により,その療育空間が「閉じた」アウトサイダーなものではなく,こちらに向かって開かれたバリアフリーな空間となるのである。
ジャン・ウリやフェリックス・ガタリによる地域精神医療運動の臨床の舞台となったフランスのラ・ボルド病院もこのような設計である。また,一昨年,全米で賛否両論話題をよんだ精神科病院が舞台の医療ドラマ『MENTAL』に登場するウォートン記念病院も,柵の無い庭をコモンスペースとするバリアフリー設計である。
私が今回レクチャーを賜ったのは,輸液の歴史を通して小児科医療と公衆衛生の発展を振り返る内容のものだ。
輸液の歴史に名を残した代表的医学者,リンガー,ハルトマン,ギャンブル,バトラー,ダロウ,そして高津忠夫らは全員小児科医である。これは偶然ではない。歴史的に考察しても小児科医療の中で輸液が発展していった必然性が十分にあるのである。
輸液による効果が初めてエビデンスのもとに提示された最も古い記録が,リースの医師トーマス・ラッタによるものである。1832年ラッタは,英全土に広がりかけていたコレラの治療に際し,0.5%塩化ナトリウムと0.2%重炭酸ナトリウムをコレラ患者の静脈内に大量投与し,症状が回復した事をLancetに報告している。
これから月日が流れ,リンゲル液を発明したリンガーの登場で,小児科医たちの活躍の舞台が幕を開くのである。
輸液の歴史を理解する上で,以下の5つのフェーズが基本となる。
1.術式の発達(外科学)
2.器具の開発(外科学)
3.薬剤の開発(小児科学)
4.輸液理論の確立(小児科学)
5.輸液技術の臨床現場への普及 (小児科学,内科学,公衆衛生学)
これをみても分かるように,静脈確保などの術式,器具の開発以降の輸液の歴史は,小児科学がリードしていく事になる。
それには以下のいくつかの理由がある。
1.19C~20C初頭にかけての乳幼児の死亡率が高かった。(疫痢,赤痢,その他栄養不良)
2.乳幼児の脱水は,成人の場合よりも危篤になるケースが多い。(感染症による下痢,発熱,嘔吐)
3.小児科医は乳幼児の脱水の症例に多く触れる事により,脱水改善の研究が進んだ。
このように,小児科医が輸液の適用となる様々な脱水症の症例に多く触れる事により,まずは小児輸液の歴史からスタートしていったのである。
さらにこれに付け加えれば,リンガー以降の近代の主たる小児科医達が米開拓移民の一族であることから考えて,彼らのフロンティア精神も多少なりとも影響しているといえよう。
さて,今回私がレクチャーを賜ったこの国立成育医療研究センターでは,月に一度,様々な分野から講師を招き,研修会を行っている。私が登壇させていただいた輸液史のレクチャーもその一環である。
近年,公立私立に関わらず,文化的行事や教養プログラムを積極的に企画,開催する医療機関が少しずつではあるが増えてきている。壁やフリースペースを利用した絵画や写真展,ロビーでのコンサート,詩の朗読会などが多い。
これららのものは総じて患者や近隣地域住民に向けて開催されるものが多い。しかしそれだけではなく,病院で働く医療スタッフにとっても大切な事である。
なぜなら,医師,看護師,介護師その他医療スタッフが一人の患者と接する時,その一個人の背景にある歴史,民俗,共同体,生活史といった文化的差異を理解することから臨床が始まるからである。そのためには,専門領域に隣接する周辺領域,またはまったく異なる学問,芸術,文化に触れる機会は,患者への異文化理解(特に小児科,精神科)の為には必要な事だからである。
当日の私のレクチャーでも,忙しい診療の合間をぬって,多くの医療チームの皆さま方ににおこしいただく事ができたのも,日本の小児科医療の最先端で仕事をされる方々が,専門分野だけではなく,日頃から異文化,周辺領域に高い関心を持ち診療にあたられている様子がこちらにも伝わってきた。
■国立成育医療研究センター
http://www.ncchd.go.jp/
フランスを拠点に身体表現活動を続ける舞踏家・岩名雅記の第2回監督作品。作品の随所に男女の性器が明瞭に映されたハードコアな性交シーンがあるため、日本ではR18指定作品として上映された。
監督の岩名雅記は1945年東京生まれ。暗黒舞踏集団『大駱駝艦』や北方舞踏派、土方巽らの日本の舞踏黎明期を同時代として生きてきた舞踏家である。他のジャンルとのコラボレーションも多く試みており、筆者とは、画家・梅崎幸吉が主宰していた銀座7丁目のギャラリー・ケルビームで即興演奏の舞台に立っていたチェリストの入間川正美を通じて接点がある。
また岩名は、TVの声優としての顔もあり、その多くは『イナズマン』、『キカイダー01』、『正義のシンボル コンドールマン』、『秘密戦隊ゴレンジャー』などの特撮番組で悪の組織の首領役をやっていたという特異な一面も持つ監督だ。
本作『夏の家族』は、ノルマンディの辺境の村に暮らす62歳の舞踏家カミムラと、2人の女性(47歳の妻のアキコ、35歳の愛人のユズコ)をめぐる物語が、ノルマンディの淡い光の中で寓話的に描かれている。物語の中には8歳の娘マユも登場するが、その姿は最後まで現さない。手、足、後ろ姿、そして声のみが断片的に描かれ、その身体性は全編を通じてのマユ視点のカメラワークで表される。冒頭の手振れがするたどたどしい歩み、階段を一段ずつ用心深く昇る様は、口はませているが足元が覚束ない少女である事がわかる。
ここで描かれる日常とは、ノルマンディにアトリエを構える舞踏家カミムラを中心に行きかう人々の、一見するとありふれた情況ではあるが、それは閉鎖されたスモールタウン(村落共同体)の中で起こる「狂気」と常に隣接している。そして鮮やかな色彩をも感じさせるノモクロームの初夏の風景の中に投げ出されるのは、枯れ枝のように渇ききって軋む男女の身体である。
その身体は、禁欲的なまでの機能美のみを残し削ぎ落とされた、大地への生贄の様だ。それらは渇きを癒すように交わり、僅かに残された互いの粘液によって一瞬の潤いを得る。自分のあるがままの「性」をさらけ出すことの出来るカミムラと35歳の愛人のユズコ、そして、自らの衰えた身体と、その不自由な身体に抑圧された「性」の前で苦しむ47歳の妻のアキコとのコントラストがあまりにも残酷である。
この2人の女性の間にある静かな闘争は、不倫などという俗世間の道徳に括られるものではなく、女が女であるために向き合わなければならない根本的な問題の中で展開されるのである。
カミムラの書斎でカミムラが撮影したユズコの性器のクローズアップ写真を偶然見つけ、動揺するのではなく、自身の身体に静かに沸き起こる性欲に困惑する妻アキコの姿は、更年期を迎えた既婚女性の、けして人には知られたくない一面を覗き見した様な感覚に陥る。
冒頭で述べたとおり、『夏の家族』は日本ではR18指定である。性器をクローズアップで映されたハードコアな性交シーンは、ややもすれば巷に溢れるポルノグラフィよりも明瞭かもしれない。血管が浮き出た男性器と、それを受け入れる幾重にも複雑な襞を形成している女性器は、男性の指や舌や性具によって様々な形状に変容し、まるで一つの自立した人格を持つ新たな器官にさえ見えてくる。その弾力を持った生き物の様な襞は、性具として加工された西洋ナスや生牡蠣まで呑み込んでしまう。そしてその襞の奥から溢れる粘液で、枯れ枝の様に朽ちていた男性器も潤うのである。このシーンは大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976)へのオマージュも感じさせる。
しかしモノクロームの長回しで記録されるこれらの男女の性器は卑猥に映るものではなく、例えば、枯れ葉の透けた葉脈、植物の種子、鳥の羽根、鏡に付着した水滴、壁のシミやひび割れと同じく、風景の中で同化された静物画として存在するのである。それはカラヴァッジョの静物画に描かれた、やがて朽ちる前の潤いを貯めた果実そのものである。
カミムラは、その果実をいつまでも愛でながら、身の上話のように唐突に東京五輪の話をするのだが、カミムラのこんな台詞。
「東京五輪のあと、円谷が命を絶った時に、潮を引くように日本人の中にあった精神の佇まいも消えてしまったように思う。」──から、かつての復興の象徴であった東京五輪に映し出された様々な近代的身体──ある意味カミムラの、あるいは監督である岩名自身の身体、すなわち僅かな代謝活動により生き存え、やがては土に還る土俗の身体とは対極を成しているものが、戦後の繁栄の残像とともに人々の忘却の中へと消えていくような侘しさが感じられる。60余年、風雪に耐えてきたカミムラの身体とも象徴的に重なるシーンでもある。
カミムラがノルマンディーのスモールタウンで愛人を抱きながらも、この寓話的世界に唐突に割って入る東京の風景は、妻アキコの情念で満たされた郷土の呪縛そのものである。造形的には禁欲的な身体をこしらえ、それと相反するように野性のままに生きてきたカミムラは、その罰を受けるべく、村の小さな沼に身を投じる。それは見る者によってはいろいろな姿に見えるだろう。例えばイタリア・ルネサンスの磔刑図、ミレーの描いた瀕死のオフィーリア、または高山地帯に住む少数民族の鳥葬である。高所から急降下する鳥に身体をえぐられるカミムラは、無抵抗に身体を投げ出したまま朽ちた屍となっていく。
この時初めて娘のマユが姿を現すが、それは少女ではなく、朽ちた枝で作られた醜い異形であった。この異形がみつめていたのは、2人の女、ユズコとアキコが一つ屋根の下に暮らす歪な家の中で繰り返される枯渇した日常である。その「渇き」は、男女の身体のみならず、8歳の少女すら奪っていったとも解釈がとれる猟奇的な結末であった。
■『夏の家族』公式Web http://natsunokazoku.main.jp
■岩名雅記監督来日予定
舞踏とワークショップ
2011年1月17日(月)~21日(金) 16:00~21:00
1日2500円(5日通し10000円)
舞踏公演
2011年1月22日(土)18:30会場 19:00開演
23日(日)14:30会場 15:00開演
2500円
会場
キッド・アイラック・アート・ホール
http://www.kidailack.co.jp/
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
ここ近年,相次いで日本人ノーベル賞学者が誕生したり,先頃の惑星探査衛星「はやぶさ」による世界的快挙などもきっかけで,わが国の科学技術に対する関心が高まっている。NHKが戦後の日本の半導体技術開発を追ったドキュメンタリー『電子立国日本の自叙伝』を放送したのが今からちょうど20年ほど前。この時代は日本のリベラル悲観論者達からは「失われた10年」などと言われつつも,わが国の科学技術,産業技術はグローバル・スタンダードの中で常に高い水準を保ってきた。この時在欧中だった私のもとにも,世界を席巻するジャパン・ブランドの勢いは十分に伝わってきたのである。
しかしこれは何も今日的に達成されたものではなく,例えば麻生太郎の著書『とてつもない日本』(新潮新書)の中でも述べられているとおり,古来よりわが国が連綿と紡いできた技術,伝統,文化の絶え間ない蓄積により形を成したものなのである。
医学の分野も例外ではない。戦後直後の1950年代から,わが国は再び目覚ましい発展を遂げていく。しかし残念ながら戦時中の資料の中には紛失,焼失してしまったものも多く,この事が,多岐に及ぶ医科学研究分野を近・現代史として俯瞰する際の困難な状況を生んでいる。
本書『サイトカインハンティング』は,免疫学の分野で世界の最先端のフィールドで戦った,いわば先駆的メジャーリーガーみたいな日本人科学者達の物語である。
表題にあるサイトカインとは,免疫細胞から分泌されるタンパク質のことで,これまでに数百種が発見されているが,今日の研究者たちによっても新たな物が続々と発見されている。サイトカインの研究は,いわば密林をかき分けて新種の昆虫を発見しに行くような途方もない行為であり,これを追い求める医学者達の目が,時としてハンターの目に豹変するというのは容易に想像がつく。
免疫学分野は先に挙げた産業開発技術に比べると,抽象的すぎて一般的には馴染みが薄いかもしれない。しかしその概念の歴史は古く,「牛痘法」で有名なジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)の時代にまで遡る事が出来る。
1796年,ジェンナーは,生まれ故郷のグロスタシャーの農村地帯で古くから農民の間で伝わる伝承――すなわち,「牛痘に一度罹った者は,それより重い天然痘には罹らない」というものを科学的に実証するために,牛痘患者の牛痘疱から採取したリンパ液を健康な少年に接種し,その効果が確認されると,村人に集団接種を行った。そして彼が表した有名な書物が『牛痘の原因及び作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae)である。これがワクチンの始まりである。
興味深いのは,ジェンナーの発想の源泉が,科学とは程遠いはずの民間伝承を契機としたものであるという事である。わが国においても和名に充てられた「疫」という字は,かつて各地の村落共同体で伝承されていた疱瘡神信仰をも含む「疫病神」と同じである。村落共同体では「病」をカミサマとして祀る事で「病」封じを行った。年に一度の「祭り」では,その「病」のカミサマと交わる事が,いわば「通過儀礼」=すなわち,ワクチネーションであったのだ。それを思えば壮大な物語性をもって捉えることも可能である。
日本インターフェロン・サイトカイン学会編
『サイトカインハンティング―先頭を駆け抜けた日本人研究者たち―』
(京都大学学術出版会)
【目次】
第1章 プロローグ
第2章 インターフェロン
第3章 インターロイキン-2
第4章 インターロイキン-3,-4,-5
第5章 インターロイキン-6
第6章 IL-12とIL-18
第7章 ケモカイン
第8章 G-CSF,Fas
第9章 遺伝子改変マウス
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
JAXAが公開した「はやぶさ」最期の写真
この写真は、先日宇宙での7年間の観測を終え、地球に帰還した惑星探査衛星「はやぶさ」が大気圏に突入して燃え尽きる前に撮影した最後の一枚である。ここに映っているのはまぎれもなく故郷・地球である。
さて、この1枚の写真をどう評価するかで「はやぶさ」という観測衛星に対する見方がかなり異なってくる。この写真を単に記録写真、報道写真としてとらえた場合、「はやぶさ」は人間の手によって製作された観測装置にしかすぎない。いわば、レーダー装置や防犯カメラの様なものだ。特段にそれ以上のものでもなければそれ以下のものでもない。
しかし、この1枚の写真に記録写真を超越した想念を感じ、これを「作品」と認識した瞬間に、「はやぶさ」という存在がまったく異なった姿で我々の前に立ち上がって来るのである。この写真は地球の管制室で待機するスタッフが打ち込んだコマンドを「はやぶさ」が実行して撮影したものではある。これを「作品」と呼ぶならば、その所在はコマンドを打ち込んだ人間のもとにある。つまり、宇宙をまたにかけた壮大なアースワークス、またはメディア・アートであるといえるのである。バックミンスター・フラー、ハンス・ハーケ、クリスト等が果たせなかったアートだ。だが、多くの人々がこの写真を見て胸を振るわせたのは、それが壮大なアートであるからではなく、それが、ただ「はやぶさ」自身による作品に見えたからなのである。
では、「はやぶさ」自身による作品とは一体何を意味するのかと言えば、それは、あたかも「はやぶさ」が人間から独立した意思と感情を持ち、それを1枚の写真に焼きつけたのではないか、と想像する事である。多くの人々が、大気圏に突入して燃え尽きていく「はやぶさ」に儚さ、愛おしさを感じて涙を流したのは、この感情から去来するものだ。
「はやぶさ」帰還の前々日、NHKの『クローズアップ現代』で放送された「はやぶさ」の特集では、ある子供からの手紙が紹介された。そこには、「はやぶさ君が燃え尽きてしまうのが、かわいそうです」と書かれていた。これは、幼児が発達過程において様々なモノに感情移入してしまう事の一例として認識できる。そして成長過程において、生命を持った「生き物」と、そうでないモノとの区別がついてくるのである。しかし我々日本人は、しばしば生命を持たないモノに対しても感情移入する事がある。それは、古くは八百万神(やおよろずのかみ)信仰に始まり、それがモダニズムで分断される事なく民俗的、習俗的気配を保ちながら、近代以降の様々な物語、即ちわが国が世界に誇る数多の物語、SF、漫画、特撮怪獣文化に継承されることにより、我々は今でもこの幼児期の豊かな記憶を失わずにいられるのである。
「はやぶさ」が大気圏に突入していく姿に『鉄腕アトム』や『火の鳥』の姿を見た者もいれば、「はやぶさ」が最後に撮った地球の写真に、『宇宙戦艦ヤマト』のラストで沖田艦長がヤマト艦内の窓越しに見た地球を思い起こした者もきっといるだろう。だからこそ、このような感情が相まって多くの人が涙するのである。
このような、モノに「魂」や「生命」が宿るという概念は、欧州人にはなかなか理解できないと言われてきた。しかし私は今回の事を機に、必ずしもそうではない、と認識を新たにした。「はやぶさ」の地球帰還は世界中の人々から注目されたわけで、私の友人の欧州人達も例外ではない。彼らは日本の科学技術の高さを評価し、それに携わった研究者にも労いの言葉を惜しまなかった。そして、「はやぶさ」が最期の瞬間に送ってきた地球の写真に、何かとてつもない霊的なものを感じたという。それは、彼らの言うところの、いつも自分の傍らにいる「神」ではなく、人智をはるかに超えた何らかのもの、という意味でである。
若干ノイズが入り、けしてクリアな映像ではない地球の写真は、一瞬の記憶の中に時間と空間を焼き付ける写真という表現媒体にもっとも相応しいものであり、わずかに補足された地球の姿そのものに、最期の時を迎える間際の「はやぶさ」の身体性が表出されているのである。そして、画面の中で欠けて映らなかった余白の部分に、我々は様々なものを想像し得るのである。
このような感覚を共有できる欧州人には、ある共通点がある。それは、自国の文化、歴史を長い記憶の中で断絶せずに認識している者たちである。例えば英国やドイツは、かつては近代産業、工業を長きにわたり牽引してきたという歴史的経緯がある。その記憶の多くは戦争とモダニズムによって、まるで神経ブロックのように意識的に分断されてしまっているが、中にはそうではない者たちもいる。
象徴的だったのは、先の英国総選挙で台頭した若い2人のリーダーである。保守党のキャメロン首相は、選挙演説の第一声の空間として廃墟となった発電所を選び、首相就任直後の全英視察では、かつて産業革命で栄えた街を積極的に回った。これは人々の記憶から歴史的に分断された伝統文化の断片を再構築していく行為に他ならない。また、Lib Dems(英国自民党)のクレッグ副首相は、就任挨拶の席で、「地域の伝統、コミュニティ、家族を大切にするように」と英国民に語りかけた。これもキャメロン首相同様、身体的に記憶されているであろう村落共同体の歴史、文化を紡ぎ、モダニズムを超えていく行為なのである。そしてそれには歴史、文化と身体的に関わる必要があり、例え目の前のツールがアナログの工具からi-Padに変わったとしても、それは同様に拡張された身体となり得るのである。これを意識できる人間は、愛着のある伝統工具と同様に、夜空の探査衛星にも万感の思いを馳せる事ができるのだ。
今回、「はやぶさ」地球帰還の瞬間を現地で実際に見守ってくれたのは、落下地点付近の高速道路沿いに集まった多くのオーストラリア市民達である。CNNの現場特派員のインタビューに答えた彼らは「一生で一度のチャンス」、「はやぶさが着陸するのをこの目に焼き付ける」と興奮気味だったが、最後は歓声とともに祈りを捧げながら「はやぶさ」の帰還を見守った。そして、「はやぶさ」から放たれたサンプル採集用カプセルは、あたかもそれが「はやぶさ」の「魂」であるかのように、アボリジニの聖地へと消えていったのが、何とも象徴的であったのである。
現在CS放送ヒストリー・チャンネルで好評放送中の秘境ドキュメンタリー番組。
まずは今週の番組紹介から。
1995年、プエトリコの農場の家畜が血を抜かれて死んでいるのが次々と発見された。これはチュパカブラの仕業なのだろうか。
目撃者によるとそれは2本足の鋭い爪と牙を持った爬虫類のような怪物だという。しかし最近テキサスで目撃されたのは奇形の犬のような生き物だった。番組はテキサスのチュパカブラを追う。そしてテレビではじめて、プエトリコとテキサスの目撃現場からDNA鑑定を行い、チュパカブラの正体に迫る。(ヒストリー・チャンネル番組紹介)
これを見て何かを思い出さないだろうか。
これこそ、最新の撮影機材と最高の撮影スタッフで挑む、現代に蘇った『川口浩探検隊スペシャル』なのである。1970年代に日本のお茶の間を席巻した川口浩探検隊についてはすでにレビューで取り上げた通りだが、(→【コラム】「水曜スペシャル川口浩探検隊シリーズにおける映像民俗学的考察」)この『未確認モンスターを追え!』という番組は、川口浩探検隊を正統に受け継ぐものである。番組では、まだ誰も見た事がない化け物を求めて秘境を探検し、事件の現場の模様を地元の人々のインタビューを交えて紹介する。
ここに登場するのは、今回のチュパカブラをはじめ、人食いワニ、人食いチンパンジー、ビッグフッド、巨大ブタなど、人間の想像力を刺激するものばかりである。そして当然の事ながら、これらの化け物が番組の中で姿を現す事はない。我々は、番組内で証言をする被害者の村人の話や、化け物が残した足跡や歯形、暗視カメラに映る不鮮明な画像の断片を繋ぎ合せ、なんとか化け物の正体に迫ろうとする。
実はこの、「空間」と「身体」を共有するような臨場感こそが、この類の番組の面白いところなのである。断定的ではなく余白を提示する行為、そして多少演出紛いのカメラワークは、佐藤真がそうであったように、「そもそもドキュメンタリーとは何か」、という根本的な問題も同時に提起している事に彼ら探検隊の面々は果たして気が付いているであろうか。(→参照コラム【映画】佐藤真監督『阿賀の記憶』)
つまりこの類の番組を見るにあたっての心得として、頭ごなしに「やらせ」と否定するのではなく、ドキュメンタリーというコンテクストの中にノイズとして必ず発生する揺らぎや恣意的表現も、化け物との遭遇を楽しむための「見世物小屋」的演出として認識する事なのである。
今回登場する化け物のチュパカブラとは一体どんな化け物かといえば、その特徴は川口浩探検隊の頃から変わっていない。今でこそ、この化け物の名前はよく知られるようになったが、川口浩探検隊は、実に40年近くも前からこの化け物を追い続けていた事になる。番組を見る我々も、今度こそはと思いつつ、誰もその全容が明らかになるとは信じていない。チュパカブラに襲われた家畜の死骸や足跡などを見せられても、どうせ最後は何も出てこないだろうな、という事も分かっている。
この予定調和的に微妙な心理は、これまで伝説として信じられてきたものに対して現代科学の視座が入り、事が明確に明示されてしまう事に対するささやかな恐れと抵抗でもあると私は認識している。これは古くは村落共同体において共有されてきた空間が何者かによって侵犯される事への不安でもある。
一つの事例を上げれば、妖怪漫画家の水木しげるが常々言っている事だが、「現代日本には妖怪が棲める所が少なくなった」との言葉が重要である。つまりかつての汲み取り便所から水洗便所に変わり、日本家屋から「離れ」が無くなり、そして夜になっても24時間煌々と灯りが点いている空間には妖怪の棲める「闇」がないのである。「闇」のない世界とは同時に「ケ」の無い世界でもあり、我々は常に騒がしさを強要される「ハレ」の世界で生きているともいえる。言ってみれば、この「ハレ」のグローバル・スタンダートが、我々に対して多大な心身的ストレスをも与えているのだ。
本来、この喧騒から心身を鎮めるためにも「闇」や「ケ」の空間が必要であり、その「闇」や「ケ」の空間の中で広がりを持ってきたのが説話、伝説の中で伝承されてきた化け物や八百万神の世界なのである。『遠野物語』に登場するカミサマも、太陽が照りつく空間に現れるものではない。未確認モンスターの宝庫である中米、南米ではそれに相当するのが一連のチュパカブラ伝説である。
さて今回も、もちろんだが我々の前に、闇の中でも赤い目が光り、2本の鋭い牙を持ち、家畜の血を最後の一滴まで吸い尽くす怪物チュパカブラは正体を現さなかった。いつものとおり、村人の体験談と暗視カメラに映る不鮮明な映像と足跡だけである。最後に出てきたチュパカブラの死骸なるものも、専門家の判定の結果、疥癬症に罹り全身脱毛し、皮膚が硬化したピットブルの様な雑種犬である可能性が高い事が分かった。おそらく村の住人達も、このようなモノをチュパカブラとは認めたくはないであろう。
そしてチュパカブラはまた伝説の闇の中に姿を消していったのである。
次回は、アーカンソー州テキサカナの湿地帯に潜む人食いモンスターの探索である。乞うご期待!
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
鶴園誠(ドッグレッグス所属)=撮影・齋藤陽道
霊子(ドッグレッグス所属)=撮影・齋藤陽道
昨年、新人写真家の登竜門である『写真新世紀』で齋藤陽道という写真家の作品が入選した。作品は日常の心象風景を撮影したものだった。そして先日、その齋藤の新作が、あるプロ格闘技団体の会場にポストカードとして並べられていた。この2点の作品が齋藤の作品である。
写真家・齋藤陽道には、実は写真家とは別の格闘家という顔もある。そして現在も創作活動と平行し、格闘家・「陽ノ道」として障害者プロレス団体ドッグレッグスのリングに上がっているのだ。彼は聴覚障害者である。リングに上がる時も他の選手たちのような派手な入場テーマもなければ実況解説もない。それは陽ノ道自身が、観客も自分と同じ静寂な空間で肉体と肉体がぶつかり合う情況を体感して欲しい、という意図から考えたものでる。
これまで3度ほどリングサイドで陽ノ道の試合を観戦したが、そこにはたしかに静寂の中で広がった創造力をかきたてる空間が存在した。「音」が無い空間は他のものに注意が向けられる。それは選手がマットに倒れた時の振動や、打撃で赤く腫れあがっていく選手の身体などだ。陽ノ道が他の選手とタッグを組む時は、タッグの選手もマットを必死に叩き、その振動によってリングの上にいる陽ノ道に様々な情報を伝え、レフェリーも小さなホワイトボードで試合の経過を伝える。
この空間にはいわゆる健常者といわれる我々には計り知れない未知の身体性が広がっているのである。ドッグレッグスの試合はいつも様々な工夫を凝らし、その面白さを伝えている。例えば、立位が可能な選手と下肢に障害がある選手が試合をやる場合、立位が可能な選手の下肢は拘束具で固定され、全く同じ条件で戦う事となる。この場合双方足を使って移動ができないため、必然的に接近戦でのノーガードの殴り合いになるのだ。それは見た者でないとなかなか伝わりにくいとは思うが、ボクシング・ヘビー級の様な迫力なのである。選手たちの身体の中で僅かに残された健常な部位が究極なまでにビルドアップされ、まさに人間凶器となった彼らがギリシャ兵の如く戦うのである。これはもはや“ハンディキャップ”として我々の目に提示されるものではなく、異能の身体を持った者どもの究極のバーリトゥードなのだ。
聴覚障害者の齋藤陽道は、格闘家・陽ノ道として毎回このようなリングに上がり続けてきた。ここに紹介した2点の作品もドッグレッグス所属の格闘家達を被写体にしたものだ。
車イスに片足で乗っている鶴園誠は、世界障害者プロレス・スーパーヘビー級障害王のタイトルを持つレスラー。実は鶴園は、昨年開催されたドッグレッグス「8・1成城ホール大会」で、ここで紹介する陽ノ道と無差別級選手権試合を戦って、なんとこの王座は陽ノ道に譲り渡してしまったのだ。現在ドッグレッグスの中では一番のライバル関係である。そしてもう1点の作品は、同じくドッグレッグス所属の女性レスラー霊子である。彼女は昨年の「4・25北沢タウンホール大会」で初めてリングに上がった新人レスラー。40代で筋委縮症を発病し、子育てをしながら格闘家活動を続けている。
『写真新世紀』でデビューを果たして以来、齋藤陽道の被写体は専ら彼らの様なマイノリティと言われる人々である。齋藤は兼ねてから、このような人々を被写体に収めたいと言っていた。彼はそこに「尊厳」を焼き付けたいと言う。しかしそれはいわゆる社会的弱者の尊厳を意味するものではなく、もっと普遍的なものである。音の無い世界にいる齋藤は、リングでは無言で相手と殴り合う。自分よりも強い相手との指名試合も積極的に行うのだ。この行為は文字どおり、齋藤にとってのプロレス的「肉体言語」の帰結であり、言葉を交わす事のできない相手との唯一のコミュニケーション手段なのである。
そんな齋藤陽道にとって写真という表現媒体は、相手を殴る事ではなく、別の方法論で、言葉を交わせない選手の「言葉」と「身体」の内部に肉薄するための新たな試みである。そして齋藤は、身体障害、精神障害、知的障害、性的マイノリティといったあらゆるマイノリティと写真表現の現場で向き合っている。リングの上で殴られるのと同様に、被写体からは相当なリアクションが当然あるであろう。聴力と言語を持つ我々は、そのようなリアクションは全てノイズとして処理してしまいがちであるが、齋藤は逆に、そのノイズとして日常空間にこぼれていく声無き「声」を一つ一つ丁寧に拾い上げて被写体に焼きつける。そうして焼きあがった作品は、もはや“ハンディキャップ”とは到底言う事は出来ない超然とした彼らの姿を映し出すのである。
■齋藤陽道公式サイト■
http://www.saitoharumichi.com/
■障害者プロレス『ドッグレッグス』に関する記事■
【格闘技】コミックマーケットにドッグレッグス参上!(8月16日,東京ビッグサイト)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 「きっと生きている」の対戦カード第一弾が発表される
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる
【格闘技】ドッグレッグス第77回興行レビュー
【格闘技】ドッグレッグス第76回興行レビュー
【映画批評】天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
今からちょうど10年ほど前、イメージフォーラムでキム・ジウンという韓国人監督による問題作『Bad Movie』が試写で上映された。スラムにたむろする不良たちがおやじ狩りや障害者狩りをして盛り上がる、というとてつもない内容である。しかもどこまでがフィクションなのか、そしてどこからがドキュメンタリーなのか分からないようなメタ構造となっており、映画撮影中に警察に捕まったり行方不明になるスタッフも続出という触れ込みの作品であった。これを契機に、アジアに新しいアンダーグラウンド・シーンが起こるのではと少々期待はしたのだが、その後に押し寄せた、かつての大映映画の焼き直しの様なメロドラマに席巻されて、韓流地下映画はすっかり影も形も無くなってしまったのだ。
あれから実に10余年。こんな前衛的な監督が、日本という地の地下に潜伏していたとは、世の中まだまだ知らない事ばかりだ。このような作品と出会うたびに、人生とはまさに楽しむべきものだとつくづく思うのである。
今回、話題になりながらもなかなか上映の機会がなかった『かん天な人』、『てんせいな人』(ACT FACTORY TOPIX)を手掛けたパク・シンホ監督は、いわゆる在日である。この二つの作品も、韓国、北朝鮮、日本というそれぞれの立場で揺れ動いていた頃のパク監督の心象風景と寓話からなる実験的作品だ。そしていずれも、在日の帰化問題や外国人参政権、それから韓国民潭と朝鮮総聯の長きにわたる抗争といったタブーを掘り下げている。それでいながらイデオロギー的ではない。
パク監督自らが、「これは政治映画ではなくエンターテインメント映画。製作費がもっとあれば『レッドクリフ』みたいな殺陣もやりたかった」と言うように、政治的なものをモティーフにしながらも、それをはるかに超えたところで「作品」として成立しているのである。見ようによっては非常に前衛的な実験映画にも見えるし、あるいはブレヒトの様な不条理劇にも見えてくる。
パク監督の作品の中にこのようなものを感じるのは、パク監督自身が、南北問題、あるいは日韓問題で起こる様々な感情を、長い年月をかけてすでにアウフヘーベンしているからに他ならない。反対に言えば、ここを超えなければアートの領域には一向に達しない事を監督自身がよく認識している。もともとは舞台が活動の中心であったパク監督は、脚本だけでも3年間煮詰めたそうである。その煮詰まったテクストは禁欲的な装置を背景にして、肉体言語として映像に現れるのである。
『かん天な人』は、元在日で、北朝鮮による日本人拉致被害者救出運動を行っている国会議員・荒木勝竜と、彼を政治家として敬愛する藤原武雄という日本人青年の物語。冒頭で藤原が、演説中の荒木を暗殺しに来た朝鮮聯盟(明らかに朝鮮総聯をモデルにしている)の工作員の凶弾に倒れるところから物語は始まる。表題にもなっている「かん天」とは、神からのミッションを受けて地上に降りた天使の事。藤原は、ボーダー・ホスピタルという、いわば関所のような空間で、そこの番人から、このまま死を受け入れるか、「かん天」となって、自分が下界で果たせなかった事に再チャレンジするかを尋ねられる。
このボーダー・ホスピタルという空間設定がなかなか面白い。まだ完全な死者とは言えない藤原が置かれたアンバランスな立場が、パク監督自身の心象風景や半生と繋がるのである。しかしそれは、しばしばありがちなネガティヴで憎悪に満ちた感情が充満した空間ではなく、ありのままの情況を細密に描いた素描のようなものだ。少し目の粗いキャンソン紙に木炭で描かれた様なモノクロームの空間は、それを見る我々の中にも蓄積された偏見やフィクションと、強いコントラストを持って超然と対峙しているのである。つまりこの空間は、藤原にとってもパク監督にとっても、そして我々にとっても、アウフヘーベンという行為を突きつけられた厳しい空間なのだ。例えばブレヒトは、肉体言語の集積と解体でそれをやり、ドーフマンは1本の「線」にそれを託したわけである。
このような舞台空間で藤原はボーダー・ホスピタルの番人と、「答え」のけして出ない問答を繰り返すのである。そして藤原に与えられたミッションは、「かん天」となって、しがない会社員・平一造の身体を借り、自殺志願者を救う事なのだ。そして全てのミッションが完了したら、荒木勝竜との再会が果たせるというものである。
藤原がミッションで出会う自殺志願者の事情は様々。中野区在住のパク監督が、自らのホームグラウンドである中野の路地裏や雑踏で繰り広げる人間ドラマは、普段我々が気にも留める事もないような無名の人々の断片にすぎない。彼らの事はしばしば「一般市民」、または「一般人」という曖昧な枠組みで括られるが、ひとたび彼らの視点に立ってものを考えた場合、皆それぞれに、当事者にとっては“一般的”とは言えない事情を抱えている。
これは、例えば臨床医の立場から見たら全く同様の症例が手元にあるとして、だがしかし、それが個別の当事者にとってはそれぞれ異なったものに見える、という情況と同様である。この視点のずれ、差異が、舞台出身のパク監督の人間観察に表れているように考えさせられた。
不条理な情況が反復するこのような空間で厳しいミッションをこなす藤原は、果たして荒木勝竜との再会を果たせるのかはここではあえて触れない。そのプロセスまでの出来事をも含めて藤原武雄という一人の男の人生について見て欲しい作品である。
『かん天な人』と同時上映された『てんせいな人』は、『かん天な人』から何十年も時が経過している世界で描かれるドラマである。ここでもあの藤原が、ボーダー・ホスピタルで不条理な審判にかけられる。今度は女性の番人と、長い机を隔てて問答が繰り返される。その長い机の上には2つの領域を仕切る様に布がかけられており、これは、ドーフマンの戯曲『THE OTHER SIDE/線のむこう側』で演出家・ソン・ジンチェクが作った舞台空間をも彷彿とさせるインスタレーションである。この映画のもっとも象徴的なシーンであり、実は『てんせいな人』の中には様々なボーダーラインがメタ構造で仕掛けられている。
時代背景は近未来、しかし現代とさほど変わらない空間で、フィクションと実録が交差しているのである。ここで番人の許しを得て人間界に再び戻った藤原は、姿を変えて人間界に身を置くこととなる。この時代は一見すると南北問題や日韓問題はすでに過去のものとなり、非常に牧歌的な空気が漂っているかに見えたが、「外国人参政権」というまさに今日の我々にとっての実録的コンテクストが大きな「楔」を打ち込んでいるのである。
「外国人参政権」に反対、賛成、双方の論客を集めての討論会のシーンでは、アンカーマンとして桜井と名乗る市民運動家の男が登場する。この桜井という男を演じているのは、実は桜井誠という実在の市民運動家自身なのである。そして、映画の中に登場する「在日特権を許さない市民の会」(在特会)という市民団体も、実在の市民団体であり、現在も「外国人参政権」反対の立場で市民デモや街頭演説の活動を続けている。ここで我々が見せられている映像は、フィクションとしてスクリーンに映し出される「在特会」の幟や桜井誠なのだが、一方で、You Tubeや、ニコニコ動画、あるいは海外ニュース映像などで実録として流される「在特会」の幟や桜井誠の姿も、デジタル映像の記憶の中ではフラット化される。つまり、映像そのものがボーダーを超えてしまっているという現象が起こるのである。
このパク監督の、実にインタラクティヴな映像の仕掛けは、かつて、「ドキュメンタリー」という言語自体に疑いを持っていた佐藤真が、『阿賀の記憶』や『阿賀に生きる』で試みた、「ドキュメンタリー」の言語そのものを解体していく行為に通じるものがある。佐藤真は、『阿賀の記憶』の中で、かつて第二水俣病が発生して取り残された辺境の集落の人々の生活を記録しながら、最後は森の中に設置したスクリーンにその映像を投射し、それも含めて『阿賀の記憶』という映像作品に収めたのである。パク監督の『かん天な人』が肉体言語によりボーダーを超える試みならば、『てんせいな人』は、映像言語によってボーダーを超えていく試みではなかったのかと思える、前衛的にして興味深い作品であった。
■ACT FACTORY TOPIX『かん天な人』、『てんせいな人』公式ブログ
http://kantennahito.blog.shinobi.jp/
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
写真は4月18日,池袋の猫カフェ貸し切りで開催された「猫もふ」ティー・パーティーの様子(撮影=井上リサ)
5月6日に投票日を迎えるイギリス総選挙は,ここへきてじわじわと盛り上がりを見せている。その主役はイギリス自由民主党党首のニック・クレッグだ。
これまでの自民党は,労働党と保守党の二大政党の陰に隠れた第3政党のポジションであった。しかしその前身の歴史は古く,産業革命時代に王位継承問題でトーリー党と対立したホイッグ党が自民党の前身である。シンボルカラーは金,黄,黒。TVの党首討論でクレッグ党首は必ず黄色や金色のネクタイを着用して登場する。
自民党は,先日の3党首による第1回TV討論でも高いポイントを得て,これ以降支持率が急増し,4月21日現在,遂に労働党を蹴落として保守党に迫る勢いである。今まで政治に無関心だった英国民たちの中には“I agree with NICK”というTシャツを着たクレッグ・マニアなる人たちも登場した。
このムーブメントを起こしているのが,いわゆるティー・パーティーと言われる草の根保守運動だ。そして保守党もこれに負けじとロンドン郊外にまでティー・パーティーを展開しており,労働党の票田の切り崩しに出ている。各党が国民と対話するオフラインの場でもアグレッシブな政策論争を展開しており,今までは安定した二大政党制の下で今ひとつ政治に無関心だった英国民をも巻き込んでいるのだ。
ティー・パーティーの歴史は古く,その発祥は,1773年にイギリスが制定した茶税に関する法律に反対したボストン市民が行った一連の抗議行動から名づけられた市民運動である。それが現在では草の根保守の市民運動に対し、このように呼ばれるようになった。パーティー(Party)とはある共通する属性の集まりのことで、もちろん政党の事もパーティーと呼ばれる。最近では米共和党の反オバマデモ全米キャラバンで注目を集め,それが総選挙を控えたイギリスの保守党,自民党のオフライン活動にも波及したかたちだ。
一方で日本はというと,今年になって,この英米発のティー・パーティーと言えるような草の根保守運動が,にわかに広がりだしている。そのきっかけとなったのは自民党の企画した『みんなで行こうZE!』という国民集会であろう。これは自民党の国会議員が地元の産業や文化,あるいは自分の活動と関係の深い施設などを一般国民とともに散策し,そこで食事やお酒を楽しみながら政治経済に限らずいろいろな会話をして連帯を広げる,というものである。対象はあくまでも一般日本国民であって,党員に限られたものではない。先月,馳浩衆議院議員が主催した『プロレス的政治論~日本のスポーツ振興を考える』と題した全日本プロレス観戦ツアーも盛況であった。
実はこの『みんなで行こうZE!』という企画が立ち上がった時に私は,米共和党党員とドイツ自民党党員の友人,それからイギリスの大学で国際政治を研究している知人に向けて,「日本でもこんな事をやる政党がでてきた」と情報を送ったところ,彼ら全てが「それはやがて政党の手を離れたティー・パーティーに発展していくだろう」と予測していたのだ。
そして彼らの予測通り,このティー・パーティーは草の根保守運動として緩やかな連帯を築きながら広がりだしている。まずその象徴的だったのは,池袋サンシャイン・クルーズで開催された経済評論家・三橋貴明の後援会発足パーティーである。ここに集まったのは,まさしく“一般国民”であった。
写真は3月21日に両国国技館で開催されたプロレス・ティー・パーティー
http://ringer.cocolog-nifty.com/kunst_und_medizin/2010/03/321-172a.html
(撮影=自民党広報部)
従来,このような集まりは地縁,血縁,利権などで結ばれた者たちが義理で集まり,大抵は名刺交換と後援会パンフレットを配って終わるのだ。規模の小さなタウンミーティングにしても,あらかじめ自分のシンパに声をかけて“仕込み”を済ませておく。しかし,このサンシャイン・クルーズで開催されたパーティーに集まった人々は,自分で情報を集めて自由意志で来たわけである。パーティー会場にはもちろん著名な政治家,文化人の顔も散見されたが,その彼らが驚くほどに,従来の政治パーティーとは様相が異なっていたのである。
そしてこれが後の「コスプレ・アキバ・パーティー」や,先日行われたばかりの「猫もふ集会」へと発展していくのである。この経緯をたどると,まず,『みんなで行こうZE!』という政党が企画したオフィシャルなものが存在する。そしてこれに参加した者たちが,自分たちでも何か面白い事をやりたいと思って自然発生的に始まったのが,「コスプレ・アキバ・パーティー」や「猫もふ集会」なのである。特に先日,池袋の猫カフェで,国際政治アナリストの藤井厳喜氏主催で行われた「猫もふ集会」の方は,twitter上で自然発生的に企画が生まれたものである。告知も4,5日前であったが,遠方から新幹線に乗って駆けつけた参加者もいたほどだ。
そしてここに集った面々は,特に特定政党支持者でもなければ党員というわけでもない。政治志向としてはコンサバという人々である。これまでコンサバの人々の声を“国民の声”として正しく伝えるメディアが無かったのと,一同に集う場所も無かった。そこにこのような集会がきっかけで今回初めて顔を合わせたという状況である。
先日のCNNでは間もなく投票日を迎えるイギリス総選挙特集で興味深い分析をしていた。米,英でティー・パーティーという草の根保守運動が成功をしたのは両国とも選挙の戸別訪問が制度として認められているので,ネットやTVのオンラインの世界と,戸別訪問でのface to faceのオフラインの世界がスムーズに繋がっているからとのことである。
では,戸別訪問制度が認められていない日本ではどのような可能性があるかといえば,「コスプレ」,「プロレス」,「猫もふ」,といった極めてコアな属性で,緩やかな草の根保守の連帯が拡大していくことではないのか。しかもこれらのものは利権がからんだNPOや支持母体である各種組合に言われて義理や義務で集うものとは明らかに異なる。参加者みずからが楽しめるティー・パーティーは毎回リピーターが増えて,これが次第に各地に拡散,伝播されていくのである。
そして何よりも,この日本発のティー・パーティーに集う者たちは総じて高いメディア・リテラシーで完全武装しており,既存マスコミが悪意のあるスピンをかけても,もうこの草の根保守のムーブメントを止めることは出来ないであろう。
現在twitter上では「コスプレ・パティー」第2弾,「プロレス・ティー・パーティー~ローカル・プロレスの世界から沖縄問題を語る」,「農業ティー・パーティー~農業から政治経済・国防を語る」といったプランが自主的に立ち上がっており,これもおそらく実現するであろう。
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
東京・銀座のギャラリースペースQで、詩人で画家の伊藤洋子とパフォーマー・ナガッチョの即興ライブが行われた。このライブは伊藤洋子の個展『私の8つの太陽』のオープニング・イベントとして急遽開催されたものだ。
伊藤洋子は、1980年代から銀座、新橋、神田界隈の画廊を中心に、肉声によるポエトリー・リーディングを続けてきた詩人である。近年は現代詩の同人活動に加えて、画家としての活動も精力的に行っている。
画家としての伊藤の作品は詩と同じく、自分の家族や自分自身の身体を題材とした寓話的な作品が多く、マイクロフォンを通さない肉声によるポエトリー・リーディングにこだわるのも、自分の身体から発した「言葉」も肉体の一部であると考える伊藤の表現を裏付けるものである。
また近年制作されたタブローは、画面から以前のような余白が無くなり、細かい異形細胞のような模様がテクスチャーとして画面を覆っている。
昨年、池袋の協栄ジムの近くにある伊藤洋子のアトリエを訪ねてインタビューを試みた時、この作風の変化について、昨年患った卵巣腫瘍で片側の卵巣を全摘出した事が発端となっている事を初めて知った。つまりどういう事かと言うと、伊藤が無心になって画面の余白をテクスチャーで塗り込めていく行為は、片側の卵巣を失った事による喪失感を埋めるための代替行為なのである。
それは、片側の卵巣が無くなった事で,伊藤自身があたかもその場所が未だ空洞であるかのように感じる空間に何かを補填し,質量を卵巣摘出以前と同等に保つ事を表している。そして、伊藤が卵巣腫瘍を患った年齢が、自分の母親が乳癌を患った時と同じ年齢なのである。
今回、パフォーマーのナガッチョと試みたライブ・パフォーマンスはこの事を念頭において見ると、伊藤洋子自身の非常に複雑な年代記が寓話となって構成されている事が分かるであろう。
伊藤洋子がナガッチョの即興演奏をバックに朗読しているのは全て伊藤の自作の詩である。これは、若くして自分を残して乳癌でこの世を去った母に対する憎悪、悲哀、様々な感情が複雑に反復する作品である。自分を残して癌で死んだ母を自分の胎内に宿し、その母を自ら産み落とす事で母と再会して、自分が母を失った時の悲しさ、自分を残して死んでいった母に対する恨み、辛みの気持ちを母にぶつける、という寓話的な物語が展開されていく。
「お母さん、お腹が空いたよ」、「お母さん、痒いよ」と暗がりで悲痛に訴える伊藤洋子の声は、病で床に伏した母が自分の事を十分に構ってくれなかった事に対する残酷な怒りだ。
ライブで競演したナガッチョは、伊藤洋子と同じく1980年代から銀座、神田界隈の画廊を中心に活動を続けてきたパフォーマーで、笛、ハーモニカ、身近な小型の打楽器をリュックに詰めて、方々の美術作家の個展やグループ展会場を大道芸人のように渡り歩いてきた。その表現スタイルは、まず美術作家の展示作品からインスピレーションを得て、ライブを組み立てていくというものである。インスピレーションが降りてくるまでは相当の時間がかかる事もある。その時の会場の雰囲気、空間によっても内容が自在に変化する。
この日のライブは告知が遅れたために、ナガッチョのライブを知らずに伊藤洋子の個展会場に来た来場者もたくさんいた。そこでライブを最初から見る機会が無かった者のために、異例ではあるがアンコールで短めのライブも行われた。私が録画で記録したのがこのアンコールのものである。伊藤洋子が肉声でぶつける母への憎悪、悲哀を、音と自らの身体で表現を試みたものである。(伊藤洋子個展『私の8つの太陽』2010年4月12日(月)~17日(土)まで。ギャラリースペースQ・銀座)
■ギャラリースペースQ
http://12534552.at.webry.info/
■伊藤洋子作品レビュー■
【名古屋芸術大学・芸術療法講座】 詩人・伊藤洋子インタビュー(芸術療法演習)
【アート】伊藤洋子個展 『卵巣の雲』(2009年8月31日~9月5日,ギャラリー代々木)
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
京急・川崎大師駅から徒歩2分ほどのところにある金山神社では、毎年4月の第一日曜日には『かなまら祭』が盛大に行われる。この地域では川崎大師が外国人観光客からも最も知名度が高いが、この日だけは報道陣も外国人も、この奇祭を一目見ようと金山神社に詰めかける。
『かなまら祭』とは、もともとは鍛冶のカミサマを祀る金山神社が、願掛けの行事として始めたものだ。それが「かなまら講」として伝承され、商売繁盛の他に、子宝、安産、夫婦和合に加え、この祭りが奇祭として海外に配信された事により、近年では病封じ(エイズ除け)の祭りとしても定着しつつある。
小さな神社が地元の「講」として行われていた祭りが奇祭として世界的にも有名になったのは、ここの神社の御神体を見れば一目瞭然である。『かなまら祭』の御神体は、カナマラサマ(金摩羅様)という巨大な男性器のカミサマなのである。
男性器を祀るカミサマとして他に知られるカミサマは、柳田國男の『遠野物語』に登場するコンセイサマ(金勢様)が有名である。岩手・大沢温泉にある金勢神社に祀られるコンセイサマは長さ1.4mのケヤキで出来た御神体で、毎年4月29日の『例大祭』には御神体のある大久保山からコンセイサマを下山させ、大沢温泉に入れる儀式が行われている。このカミサマも川崎のカナマラサマと同じく子宝、安産、夫婦和合のカミサマである。この他にも『遠野物語』の岩手では、山道などには石で出来たコンセイサマが道祖神として祀られている。女性が目をつぶったままコンセイサマの周囲を回ると子宝に恵まれるという言い伝えがある。
近代までは、このような奇祭といわれる類のものは、欧米発祥の文化人類学の中では土着的なもの、衆俗的なものとして低位に捉えられてきた。これは医療人類学においてもそうであるが、西洋的学問体系に含まれないものは、オルタネイティヴ(異質)なものとしてアウトサイダー的に認識されてきたものである。特にわが国のように神仏混交でもあり、その根底に古代神道としての「八百万神」(ヤオヨロズノカミ)信仰が内在する民俗的背景は、一神教の諸国から見るとなかなか理解し難いものである。しかもキリスト教の様な経典はなく、多くはそれぞれの村落共同体(部落)の中で代々にわたり口述伝承されてきたものであり、この事においてもどこか密教的イメージをもたれてきた。
この事からもわかるように、例えばキリスト教における「神」とわが国における「カミサマ」は、同じ神でもまったく異なるのである。
『かなまら祭』が毎年行われる金山神社は、京急の駅から徒歩2分の住宅街の中にある。手前にはクリニックがあり、神社の敷地の中には幼稚園もある。四方は舗装された車線が走っており、周囲には中層の新興マンションが立ち並んでいる。岩手の遠野などとはまったく異なった環境なのだが、この郊外の都市の中にあっても「かなまら講」は代々伝承されてきたのである。近くにある川崎大師とは異なり、祭り以外は地元の参拝客しか訪れることはない小さな神社が、この時ばかりは「ハレ」の空間となる。
わが国の民俗信仰が、人々の生活形態が変化してもこのように残ってきたのは、そこに「ハレ」と「ケ」の空間が息づいているからである。「ハレ」とは「晴れの日」の事だ。普段は慎ましく「ケ」の日常で暮らしている村落の人々が、一年に一度の「ハレ」の舞台には、「ケ」の空間で集積されてきた一年分の情念を外に出す日なのである。これはある種のカタルシスでもあり、「酒」と「狂気」がつきものになる。
日本にいる800万のカミサマたちも、このカナマラサマを含めて、実に多彩、多様。その上、荒々しいカミサマも多い。わが国において「カミ」を祀る行為とは、一神教の「神」のように崇拝するのとは少々異なる。むしろ、これ以上カミサマが暴れないように、一年に一度だけカミサマのエネルギーを放出させて、「魂抜き」を行った後、静かに納める行為なのである。これは時に「災害封じ」、「飢饉封じ」、また「病封じ」でも行われた事であり、古来の日本人が、いかに生活の中でカミサマと共存してきたのかが分かるであろう。
カナマラサマは岩手県・遠野のコンセイサマと同じく男性器のカミサマである。これが「ケ」の日常において見る限りは、どこか滑稽でいて、しかも卑猥なものに見えてしまうが、「ハレ」の空間に降りたったカナマラサマは勇猛な荒々しいカミになる。全ての障害物をもその一突きで貫通するように進むカナマラサマは、人間の持つ原初的な闘争心を呼び起こすものである。時折ローカルニュースなどでこの祭りの様子を流す時に、けしからん事にカナマラサマにモザイク処理を施した映像も散見する。これはまことに愚かな行為であり、そもそも「祀り」事の意味が分かっていない。「性」についても明るく、猛々しく、開放的なのが日本のカミサマなのである。カミサマの前では老若男女、皆が村落共同体の一員なのである。
昨今、「多文化共生」や「地域主権」なる珍妙な言葉が世間を賑わしているようであるが、今こそ求められるのは昔ながらの「地縁」、「血縁」の「講」を中心とした「共同体社会」の復興である。そして、この「講」的空間の中には、「ネットの縁」という新たな繋がりも加えていいだろう。何故なら、800万もいるカミサマの中には、ネットのカミサマだってどこかにいるであろうからだ。
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
先日、おおよそ何十年振りかに全日本プロレス(以下、全日)の試合を升席で観戦する機会を得た。記憶を辿れば子供時代、父と友人の家族と一緒にリングサイドで観戦したのが全日の試合であった。今でも鮮明に思い出すのは、サーベルを口にくわえたタイガージェット・シンがリングサイドに乱入し、自分だけ1人逃げ遅れてタイガーから追いかけられた事である。今となってはいにしえの昭和の断片を語る時に無くてはならない思い出であり、このエピソードによって馳浩さんからも王道プロレスファンのお墨付きまでいただいてしまった。
今回戦いの舞台となったのは、後楽園ホールと並び「聖地」と称される両国国技館。すり鉢状の円形空間は、古代ギリシャのコロシアムと同じだ。殺気立った観客の声援、怒号に包まれながら、異形のバーリトゥーダー達が入場してくる。この場面は、数年前から試合を見るようになったドッグレッグスでも同様だが、観客がサーカスに並ぶ善良な人々から狂気へと変わる瞬間なのである。恐ろしい群集心理と暴走するカタルシスは、ギリシャの医神でも止める事はできない。
しばしばプロレスと総合格闘技を比較して、「総合格闘技はリアルファイトだが、プロレスはショーである」という言説がいまだにまかり通っているようだ。しかし、これは正しくない。それを言うならば、総合もプロレスも、どちらもリアルファイトであり、どちらもショー、すなわち「見世物」である。ただ両者が求めているリアリズムの質が異なるだけだ。プロレスは、ただ単にパワーゲームで勝敗を決めるものではないのだ。リングに上がった選手の怒り、憎しみ、狂気、それらのものが、情念として凝縮されていく。対戦選手同士、その情念を相手の肉や骨に叩きつける。技をかけられたら、肉が切れてもそれを受けなければならない。
これはまさに、「言葉」を「身体化」した行為であり、観客もその痛みを分かち合うのである。この「場」と「空間」の共有において展開されるのがプロレスの世界でいうリアルファイトだ。相手を殴って倒すだけがリアルファイトではない。
今回のカードで一番印象に残ったのが、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチだ。実は金網デスマッチをやる事に関して、ファンの間からは相当の異論が出ていた事を後で知った。試合終了後、選手を囲んでの懇親会の席での話だが、このカードが発表された時、ファンの多くは「なぜ今さら、昭和のプロレスの様な邪道をやるのか」と思ったそうだ。「こんな事をやっているから“パッケージ・プロレス”などと言われてしまうのだ」などという厳しい意見もあった。しかし試合を見た後にその思いは払拭されたのである。
後半の第一試合であった、「船木誠勝VS鈴木みのる」の金網デスマッチは、休憩時間を利用して特設空間の設置が行われた。これはテレビのプロレス中継では恐らく見る機会はないであろう。柔軟なロープで覆われたオープンエアの空間が、ガシャガシャと無機質な音を立てながら徐々に金網に覆われていく。これはまるで自分の意思で自由に動く身体を、四方から拘束具を装着されて矯正されていくような情況を想像せざるを得ない。全ての身体の自由を奪われて、己の身に起こるあらゆる凌辱を受けなければならないという恐ろしい空間にさえ見えた。そしてこの金網で覆われたキューブの中に両選手が入り、出入り口が完全に密閉されると、試合のゴングは鳴ったのである。
そこにはこれまでの試合とは明らかに異なる空気が流れていた。金網のキューブの中は、重力、気圧、密度、何をとっても客席とは異なる情況が存在していた。その情況を作っているのが船木と鈴木の間にある積年の怒り、憎しみなどといった情念なのである。本来ならばこれらの情念は、リングからオープンエアな客席に伝わって、そこでリングと客席との間で「場」の共有が保たれる。しかし、金網のキューブの中ではその両者の情念がこの空間に封じ込まれたまま、息苦しい緊張感を作っている。両者互いに金網に身体を叩きつける時に聞こえる金属音は、アナーキーなストリートファイトで耳にする音だ。互いが血だらけになり、どちらかがKOするまで戦い続けなければならないこのデスマッチは、まるで二頭の土佐闘犬が殺し合いをしているような凄まじい光景である。そこで何が起こっても、誰も手を出せないという究極の格闘空間と言えるかもしれない。
この光景を見て、このデスマッチを組んだ意図、そして意味は、私には十分に伝わったわけである。少なくてもそれは、単にショーアップの為に用意された茶番ではなく、あの金網のキューブは、「言葉」と「身体」を究極の領域にまで熟成させるための装置であったといえる。試合開始から19分。流血したままOKされた鈴木の身体はボロ布のように横たわっていた。それはまるで、南秋田の暗く凍てつく乾いた大地に野ざらしになって朽ちていく土方巽のように美しく見えた。(3・21、両国国技館、観衆8200人)
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
■格闘技に関する記事■
【格闘技】格闘家国会議員によるプロレス・ティー・パーティー(3・21 両国国技館)
【格闘技】コミックマーケットにドッグレッグス参上!(8月16日,東京ビッグサイト)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 『きっと生きている』(2009年8月1日,成城ホール)
【格闘技】ドッグレッグス第79回興行 「きっと生きている」の対戦カード第一弾が発表される
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行 「ここまで生きる」~究極のバーリトゥード~(4・25 北沢タウンホール)
【格闘技】ドッグレッグス第78回興行の対戦カードが決まる
【格闘技】ドッグレッグス第77回興行レビュー
【格闘技】ドッグレッグス第76回興行レビュー
【映画批評】天願大介監督『無敵のハンディキャップ~障害者プロレス・ドッグレッグス」
今年で実に100回目を迎えるフィギュア・スケート世界選手権は、男子は高橋大輔、女子は浅田真央の優勝で終わった。今シーズン最後の舞台で日本人選手が男女ともに表彰台の中央に上がった事は、誰もが納得できる結果であったといえよう。特に素晴らしかったのは浅田真央の作品であり、1年間かけて、ついにこの作品を完成させたわけである。
この『鐘』という浅田の作品は、フリー・スケーティングだけで独立したプログラムではない。実は、ショート・プログラムでさらにブラッシュ・アップされた『仮面舞踏会』とは通底したテーマがある。それは、浅田にとっての「死」を意識したメメント・モリ(Memento mori)的空間を身体化する行為だ。それを浅田はショート・プログラムでは『仮面舞踏会』の音楽と物語に乗せて、死にゆく人間の「死の舞踏」的狂気、乱舞、錯乱を、グリューネヴァルトのタブローのように、狂おうしくも美しく見事に演じ切り、これまでの清廉、可憐なフィギュアの妖精から、何者をも寄せ付けない“絶対狂人”としての浅田真央になったのである。
フリー・スケーティングの『鐘』は、まずはこのようなショート・プログラムの背景、伏線があってこその作品であり、『仮面舞踏会』並びに『鐘』の2つの作品は、今回も論争になった単なる政治的な採点基準の問題だけではなく、2つの独立したプログラムがそれぞれ表裏の関係として如何に重層的に表現されるべきかという非常にレベルの高い問題を提起しているのである。
つまり浅田は、ショート・プログラムとフリー・スケーティングという各章に分離され独立した要素を、一つの交響楽で表すという事をやってのけたのである。この2つの分離された章に、それぞれ浅田の武器であるトリプルアクセルを楔として打ち込むという行為は、例えれば、ロマン主義以降の近代的交響楽にメタ構造で現れる「動機」そのものなのである。タラソワがショート・プログラムから終始一貫してトリプルアクセルを要素に入れる事にこだわったのは、このような「芸術」を表現するためだからだ。
しばしばフィギュア等の採点競技では、「芸術性」をめぐって論争が起きる。しかしながらこれは、基本的ルーティーンが未熟な者から発せられる恣意的にして、かつ政治的な言説であり、「芸術」そのものをめぐって論争をするというレベルのものではない。そのような点において、本来ならば我々は、タラソワが4年がかりで仕掛けた、この計算されつくしたメタ的構造のプログラムにこそ驚愕し、浅田の作品ただ1点において芸術論争が起こるべきなのである。少なくても、寂れた歓楽街の大衆芸能のようなものとは同じ座標で語るものではない。
浅田にとって『鐘』とは、どんなプログラムであったのかと言えば、それは限りなくメメント・モリを意識したものだが、言い換えれば、この4年間の間に浅田の身に起こった様々な出来事が情念として堆積したものであると言ってもいい。当初、浅田の新プログラムでこの『鐘』が発表された時、フィギュアファンからも概ね不評であったようだ。ジャンプを華麗に飛ぶ軽快な浅田真央のイメージと、この『鐘』が持つ、暗く重苦しい雰囲気が馴染まないという理由である。だが、浅田真央のこれまでの道程を振り返れば、そんな演奏会用の明るく華やかな楽曲を選んだところで、浅田が胸に秘めた思いなど到底表現しきれなかったであろう。
『鐘』が表す世界とはどんな世界であるのか。これは中世暗黒時代の欧州の歴史とともに欧州人の記憶の中に潜在的に刷り込まれたものである。それは時に大災害や疫病や戦争であったり、または神の逆鱗にふれる出来事であったり、このような鬼気迫る状況の中でけたたましく鳴らされるのが『鐘』なのである。浅田真央はまさに、このような状況の中で、誰からも守られる事もなくたった一人で戦い続けたアスリートなのである。そして浅田が戦うべき敵はあまりにも多すぎた。
赤を基調とした衣装で颯爽とリンクに登場した浅田真央は、その胸の内に堆積した怒り、悲しみ、叫び、様々な情念を、まるで観客の我々までも焼き尽くすかの如く迫力で「死」のダンスを始めたのである。浅田が『鐘』で表した空間は、リンクの内も外も炎で包まれたような空間であり、その炎の輪の中を、人々の怒りの情念で召喚された魔物が焼け焦げた屍を蹴散らしながらぐるぐると旋回しているのである。欧州人が時に見る悪夢とはこのようなものなのだ。
そしてこの阿鼻叫喚の状況の中でその“魔物”と化した狂人・浅田真央は、全ての物を焼き尽くした後、終曲に向けて自らもその炎の中へと突っ込んで行った。何もかも焼き尽くされて昇華される事で、やっと我々人間の穢れた魂は浄化され、ようやく福音書(EVANGELION)の1ページをめくる事が許される――これが4年間の「場」と「空間」の共有の中で完成された、浅田真央の『鐘』という作品なのだ。
■浅田真央、安藤美姫についてのコラム■
【バンクーバー五輪】 世界女王対決・浅田真央VS安藤美姫、超絶技巧的空間と身体
【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~今季最後の女王対決~
【フィギュアスケート】 浅田真央VS安藤美姫~必殺技の美学
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
先日、アメリカ連邦議会で医療保険改革法案が可決された。強制加入が前提のこの法案は国論を二分するものであり、下院上程後の直近の世論調査でも、法案に賛成=45%、反対=48%であるとCNNの中で紹介された。
多くの米国民が反対の声を上げているのにはそれなりに理由がある。まず米国憲法に沿って考えてみた場合、合衆国政府が権限を大きく拡大して州の自治に対し介入してくる可能性があり、これが州法に違反するという考え方がある。これはわが国でも論争になっている「子供手当法案」や「外国人参政権法案」でも言えることだが、地方自治はどこまで国に対してインデペンデンスな立場が守られるか、という問題の提起である。
実際に、オバマ大統領が法案可決後に署名した後に、全米14州が「医療保険改革法案は憲法違反」として訴えを起こしたのである。
またこの法案をめぐっては、そもそもアメリカという国の建国の精神そのもの、すなわち、「自由」とは何かという根本的なものを問うきっかけにもなっている。確かに、わが国の「国民皆保険制度」に比べると、これまでのアメリカの医療制度はすべての国民を十分にフォローするものではなかった。しかし、それがアメリカであると言えばそのとおりなのである。自主独立、自立自助の国、アメリカ。皆はそれが分かってアメリカに暮らしているはずだ。だから共和党支持者を中心とした保守層は、国が国民の福祉に大きく介入してくるであろうこの法案に対して、まるで社会主義的だとして生理的な嫌悪感を抱いている。
かつてアメリカ大手の協同組合であったバークレー生協が潰れるぐらいだから、アメリカ人には社会主義、共産主義を連想させるようなものは、未だに受け付けないのである。
そしてこの法案とともに全米で草の根的に立ち上がったのが、いわゆるティー・パーティーと言われる保守市民運動である。最初は共和党のコアな支持層だけであったティー・パーティーが、今や無党派や中道左派にまで広がり、その模様はCNNよりも早く、在米の共和党員の友人達からのメールや動画で私のもとへ届けられる。まるでスタジアムのボールパークにでも来たような楽しい雰囲気で多くの市民が集まり街宣やデモを行っている。
ティー・パーティーの発祥とは、少し古い話になるが、1773年にイギリスが制定した茶税に関する法律に反対したボストン市民が行った一連の抗議行動から名づけられた市民運動である。それが現在では草の根保守の市民運動に対し、このように呼ばれるようになった。パーティーとはある共通する属性の集まりのことで、もちろん政党の事もパーティーと呼ばれる。
そして興味深い事に、わが国でもこのティー・パーティーとも言うべきムーブメントが徐々に広がりつつある。発端はアメリカと同様で、政権交代によって社会主義、あるいは社民主義的なリベラル政権が誕生した事に異を唱える潜在的な保守市民による様々な市民運動がそれである。
最近、その中でもこれぞティー・パーティーと言えるような集まりがいくつかあった。その中でも特に盛り上がったのは格闘家国会議員らによるプロレス・ティー・パーティーである。これは馳浩衆議院議員と、神取忍参議院議員とともに、『3・21 全日本プロレス両国国技館大会』を升席で観戦した後、鍋を囲んで政治談議、プロレス談議を楽しむというものである。
当日このティー・パーティーに集まったのは全国公募から抽選で選ばれた約50名。年齢は様々だが熱狂的プロレス・ファンばかり。好きなプロレス団体の地方巡業を見て回っている人もいれば、選手と自分の人生を重ね合わせてしまっている人もいる。そんな人たちが、政治とプロレスについて熱く語り合って緩やかな連帯を深めたのがこの日のティー・パーティーである。
ここに集った人たちは、プロレス好きというただ一点の属性で結ばれた人たちである。それ以外の日常の様々な経歴、肩書、地位などは関係ない。言うならばここはハーバーマス的なパブのような市民空間であり、誰か特定の著名人によって権威付けられたものではない。これがこれまでの日本になかった文化なので面白いのである。
実はこのプロレス・ティー・パーティーを企画したのは自民党なのだが、蓋を開けてみれば参加者の中には自民党党員など1人もおらず、その代わりに全国から熱狂的プロレスファンがつめかけた、という図式だ。この点も全米発の反オバマのティー・パーティーと実によく似ていて興味深い。
日本のこれまでの「公共圏」は、言ってみれば「赤ちょうちん」文化だ。つまりは、議員バッジや社章を着けたまま暖簾をくぐる文化である。この「赤ちょうちん」的公共圏では、年収の差、経歴、学歴、年齢、職業などの実社会におけるヒエラルキーがそのままスライドされる。たとえ無礼講と言われても、上司や先輩や総理大臣を批判する事はなかなかできない。
しかし、パブの文化は異なる。個人の経歴、肩書よりも、どんな会話を交わすかに価値がある。誰が発言したのかという権威主義ではなく、その発言内容のクオリティそのものが問われる。この情況はネット・メディアとも親和性がある。なぜならこの空間ではインテリゲンチャのブランド化がまったく通用しない。このような空間において潜在的な保守市民が行動しだしたという事の方が、後々歴史を振り返った時、“政権交代”よりもはるかに歴史的な出来事であったかが分かるであろう。
政治とプロレス。このいかにも唐突と思われるような組み合わせであるが、この両者の在り方を突き詰めて考えれば、結局は「言葉」と「身体」の関係性に行きつくのである。すなわち、政治もプロレスも、「言葉」を身体化していく行為だからだ。政治は政策をリアリズムによって遂行なされるべきものであり、その時に政治家は自身の「言葉」と「行動」を以って国民に伝えなければならない事がある。「言葉」だけで政策を語っても、国民に投げかけられた「言葉」は単なる選挙のための「記号」として空虚に空中を徘徊するだけなのだ。
この言説をめぐってTwitter上で面白いやりとりがあった。今の政治は「言葉」を全然「身体化」できていない、というものである。ではそんな政治を担う、“「言葉」を身体化できない政治家”とはどういうものなのかというと、自分で汗をかかない。人の痛みを受け止めない。相手の立場も受け止めることができないから信頼関係も築けない、というような政治家の事であるという。
これは全てプロレスにも当てはまる事なのである。プロレスには昨今の総合格闘技とはまた異なった美学が存在する。それは単にパワーゲームだけで勝敗が華麗に決まるものではない。リングから聞こえてくる双方の選手の肉や骨のぶつかり合う音や、積年の因縁、恨み、辛みその他の情念が、対戦相手に向かって叩きつけられる世界なのである。相手が技を繰り出したら、逃げずにそれを受けなければならない。自分が不利だからと言って党首討論から逃げて回っているような人間はこのリングに上がる資格はないのである。
そしてそれを見る我々も、真剣に戦う者たちの痛みを感じ、偽善者の振る舞いも衆人のもとに晒されるのである。この「場」と「空間」の共有こそ、まさに今の政治にも求められているリアリズムなのであろう。国家の骨格作りはまず体育にありとした三島由紀夫もまた、今の日本の情況をもし見たら、同じ事を思ったにちがいない。
----------------------------------------
【お知らせ】
twitterをはじめました。こちらでは政治家、経済専門家、医師、ジャーナリストらの皆さんと、わが国の外交、防衛、政治・経済、医療行政について討論をしています。
http://twitter.com/JPN_LISA
----------------------------------------
Letzte Kommentare