« 2007年5月 | トップページ | 2008年6月 »

2007年6月19日 (火)

【再掲】点滴史を築いた人びと(10)~高津忠夫(後編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第10回

高津忠夫(Tadao Takatsu, 1910-1974)(後編)

Prof_takatsu_2 東大小児科液、そしてソリタTの誕生
 現在の医療現場で使われている輸液剤は、用途別に分類すると4種類に分けることができる。
 まず、通称「1号液」といわれるもの。これは別名「開始液」(点滴開始液)とも呼ばれ、病態が判らない患者に対し応急処置として投与する液である。そのため、腎機能障害の場合も想定してKは含まれていない。次の「2号液」は体液バランスの補正を目的とし、「3号液」は「維持液」と呼ばれ、一日の必要水分と電解質を補う事を目的とする。そして「4号液」は術後回復のために投与されるものだ。
 なるほど、これをみるかぎり実に理にかなっている。しかし、これが終戦後の動乱期に、しかも物資も設備も充分でなかった時代から立ち上がっていったものであることを知った時、われわれは、そこに深く関わった人物に往年の本田宗一郎や盛田昭夫の姿を重ね合わせることができるであろう。
 日本近代の小児科学を築いた高津忠夫とは、まさにそのような人物である。
 1954年、信州大学から東大へ移った高津は、ダロウ★注1)、バトラー★注2)といったアメリカの小児科医たちが書いた論文などをさかんに研究していた。それらはすべて小児を対象とした最新の輸液療法に関するものである。高津はこれらの論文を読むたびに、日本の小児医療、それどころか輸液概論そのものがひどく遅れをとっていることを痛感せざるをえなかった。
 この当時、すでにアメリカでは病態に対応した様々な種類の輸液剤が開発されており、しかも静脈内輸液の技術も確立されていたのである。一方、日本はというと、高津が東大に着任した当時は、いまだ皮下輸液が行われていたという状況であったのだ。

あくまで「国産」にこだわる
 高津忠夫は、思い立ったら直ちに行動する人であった。信州大学時代から継続していた輸液の研究をさらにおし進めるために、1957年頃から主にアメリカを中心とした世界規模のフィールドワークを始めるのだ。高津が訪れた国は、アメリカを始めとして、西ドイツ、フランス、スイス、オランダ、イタリア、スウェーデン、チェコ、ソ連など実に広範囲にわたっている。高津はここで各国の様々な輸液組成の資料を収集して日本に持ち帰るのである。
 この中で高津が注目したのがやはりダロウやバトラーの作った輸液剤だ。高津はこれをもとにして3種類のベーシックをまず作ってみた。これはダロウやバトラーが作った組成を参考にした多電解質の溶液であった。高津はアメリカでの見聞により、信大時代から最大目標に掲げていた小児の三つの疾病、すなわち疫痢、消化不良性中毒症、アセトン血性嘔吐症(自家中毒)の治療には多電解質液の開発が必要であると考えるのである。
 しかし、東大薬局内でこれを作るのは困難を極めていた。まず、単一組成の溶液に新たにアンプルから別のものを加えるという発想がなかった。そのため、容量や配合を間違えると液が変色するとか、沈殿するといった事態が起こってしまった。
 試行錯誤の末、ようやく無色透明の原液が完成するものの、今度はこの原液のクオリティーを一定に保たなければならなかった。だが、とりあえずここに信大時代には果たせなかった「東大小児科液」が誕生したのだ。これを機に、外科からのアプローチで4号液も加わり、現在のソリタのスタンダードが完成する。
 高津が次に試みたのは、この「東大小児科液」をスタンダードとして製品化することだ。時に、輸液という言葉が現在のように普及する以前の1960年代に入って間もない頃の話しだ。高津はすでに幾度もの欧米での視察で、輸液というものが20世紀の大きな医薬産業の一つとなるであろうと予測していたのである。
 医局の中には、高津と同様にして「東大小児科液」を製品化することを切望した小児科医たちが数多くいた。その中でも1954年に入局した高津の一番弟子にあたる塙嘉之や翌年入局の大部芳郎らは、特に医局とつながりがあった幾つかの製薬会社との窓口になり製品化に尽力した。そして最終的に大部がチーフを務めていた東大小児科電解質研究班と清水製薬の共同開発により、わが国初の国産輸液剤「ソリタT」が誕生するのである。実に、高津忠夫が信大時代から数えて10年以上の歳月が流れていた。

小児科学の夜明け
 高津忠夫の業績をかたる時、輸液研究にばかりスポットが当たりがちであるが、それは研究者としての高津の一面であり、もう一方で、優れた小児科医としての姿もある。
 育児を経験したことのある人なら、一度は目にしたことはあるであろう育児書のベストセラー『スポック博士の育児書』。この育児書は、現在のように子育て情報誌がなかった時代の母親たちにとっては必須の手引書であった。実はこの育児書を翻訳するにあたっての監修者の一人に高津忠夫も名を連ねている。
 高津は小児科医療において病児を診ることは当然だが、それとともに病児を抱える母親の健康状態も同時に把握しなければ小児科医としての責務を充分に果たしたとはいえないと考えていた。高津が母子に対して注いだ深い愛情は、例えば森永ミルク中毒、予防接種事故といった昭和40年代に多発した不幸な出来事を目の当たりにしてきて、なお一層強いものになっていったのであろう。
 高津の小児科学に対する理念は、学外の多くの活動にも垣間見ることができる。例えば、「子どものがんを守る会」などをはじめとするNPO活動、「高津児童文庫」などもその一つだ。当時、学園紛争ただ中にあっても、その人柄なのか、運動家たちからの非難、攻撃などはなかったという。
 1970年に東大を退官してからも、予防接種事故審議会などの役員を務めるなど、常に母子の視点に立ち、小児科医としての道を極めた高津忠夫は、1974年12月、無念にも64才の若さでこの世を去る。しかし後世にわたり高津が残した遺産は数え切れない。それは、少子高齢化社会に加えて近年の小児科医の減少という状況の中にあっても、なおも小児科医を志す者たちにとっての礎なのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.10, pp.46-47, 2002)

[謝辞]
前回、今回と高津忠夫評伝を書くにあたり、清水製薬医薬情報部の法月晃夫氏より貴重な資料を提供していただいた事に深く感謝申し上げます。

注1)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.6のコラムを参照)
注2)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)は、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力したアメリカの小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)

参考文献
A message of congratulations to Tadao Takatsu. On the occasion of age-imposed retirement. Am J Dis Child. 1971 Jan; 121(1): 84.
To our respected Professor Takatsu. Paediatr Univ Tokyo. 1970 Dec; 18: 1-9.
Darrow DC.  Body-fluid physiology: the relation of tissue composition to problems of water and electrolyte balance. N Engl J Med, 1945; 233:91-111.
Darrow DC.  Congenital alkalosis with diarrhea. J Pediatr, 1945; 26: 519-32.
Butler AM.  Parenteral fluid therapy in diadetic coma.  Acta Pediatr, 1949; 38: 59-70.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
江川義雄「高津忠夫」広島医学, 1976, Vol.29, No.4. pp.112-113.
塙 嘉之「ソリタTと高津教授」(議事録、於・大森病院)1988年6月16日
順天堂大学・藪田敬治郎教授講演集,  1988年7月5日
「東大小児科の生い立ち」東大医学部小児科教室同窓会、1959年6月10日

| | コメント (0) | トラックバック (2)

【再掲】点滴史を築いた人びと(9)~高津忠夫(前編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第9回

高津忠夫(前編)(Tadao Takatsu)

Prof_takatsu_1 敗戦、暗黒の時代
 日本が戦争に負けたことは、政治経済といった国力や民族としてのプライドはもとより、文化、思想、芸術にまでも精神的ダメージをもたらしたのはいうまでもない。
 医学も例外ではなく、かつて日本が明治維新の政策によってドイツ人医学者ベルツを帝大(東京大学の前身)に招き★注1)、戦前・戦中ともにドイツ医学を基礎として構築されてきた技術体系も、アメリカ医学にとってかわり、ここで日本は大きな遅れをとることになる。
 かつてオショーネシー★注2)、トーマス・ラッタ★注3)、リンガー★注4)といった医学者たちの研究によりイギリス生理学および臨床学から発祥した輸液が、ギャンブル★注5)という“巨人”の登場で、最新の輸液概論はアメリカ医学へとシフトされていく中で、日本はというと、かつてドイツ経由で輸入されたリンゲル液の知識で急場をしのいでいたのが現状であった。
 このような、当時、一歩遅れをとった状況の中で、高津忠夫という一人の小児科医の登場は、まさに日本近代輸液史の夜明けを伝えるにふさわしい出来事であったのだ。

日本近代輸液史の夜明け
 日本における輸液療法(いわゆる「点滴」)が明確な記録として登場するのがようやくといってもいい1930年代である。そして欧米と同じく小児科学の分野で発達していくのだ。そのキーパーソンとなるのは石橋長英、泉仙助、高津忠夫らである。例えば石橋は、当時長時間にわたり点滴をするための適当な器具がなかったことから、かつてトーマス・ラッタがコレラ患者の治療に試みた時のように静脈切開をし、そこに定期的にリンゲル液や生理食塩水を流し込むという方法を試みている。しかし現在のような持続的な注入ではないので、その効果はまだ充分ではなかった。
 この時すでにアメリカでは生理食塩水、リンゲル液の他にも小児科医たちが独自に多種の輸液剤を開発し、しかもギャンブルを中心として体液平衡学の観点から輸液許容量についても研究を始めていたことを考えると、日本の輸液技術がいかに古典的であり、アメリカから遅れをとっていたかがわかるであろう。
 この遅れの原因はいろいろと考えられるが、例えば、輸液は今から150年以上も前のトーマス・ラッタもカルテに記録しているように、時として患者に対して視覚的にも劇的な回復を表わすことから、急場で威力を発揮するような起死回生的な切り札としての認識があったのも事実である。そのことが、さらに汎用性のある技術として発展していくのを遅らせたともいえよう。
 このような流れにあって、輸液を文字どおり汎用性のある技術へと広げていったのが高津忠夫である。

高津忠夫と東大小児科
 1955年、一人の医師が東京大学小児科に入局した。後に、わが国初の国産輸液剤「ソリタT」の開発にかかわることになる高津忠夫である。
 高津が小児科に入局した当時は、疫痢、赤痢により死亡する乳幼児が絶えなかった。高津はこれらの病気で脱水になった乳幼児の血清や尿を細かく分析して、脱水で失われる電解質の効果的な補給方法について試行錯誤を繰り返していた。
 現在われわれが目にする輸液セットはディスポーザブルで衛生的であるばかりか、とても使いやすく工夫されてきた。あらかじめ無菌状態で容器に基本液を密閉して出荷するという技術は、現場での基本液の調合というプロセスを一つ省略したのだ。それによって常に一定のコンディションの薬剤を容易に使用することが可能になったのだ。
 しかし当時は、東大といえども、重いガラス製のイルリゲーターの中に、1回ごとに基本液と薬剤を調合して入れるという方法をとっていた。しかもそこで使用されるものは、せいぜいリンゲル液、生理食塩水、そして0.5%ブドウ糖液などである。このわずかな種類の輸液剤で、様々な病態に対応しなければならなかったのだ。
 この状況に疑問を抱いたのが高津である。例えば、脱水という状況をひとつとってもその状態は様々に異なる。それにもかかわらず、単に電解質補給という目的で、いかなる症状の脱水にも一律の輸液剤を使うのは不適切であると唱えた高津は、リンゲル液や生理食塩水をアレンジして、いろいろな種類の輸液剤を作ることを試みるのである。それまで、量や速度を重点に考えられてきた輸液における新たな視点である。
 次に高津は、リンゲル液を基に独自に創製した輸液剤を用途別に分類し、「東大小児科液」というスタンダードを作るにいたるのだ。しかし手作業による調合では一定のクオリティを保つことや、無菌常温状態でストックを確保するのは困難である。そこで、高津はこの「東大小児科液」を生産ラインにのせ、広く治療薬として普及させることを思いつくのである。そしていよいよ国産初の輸液剤「ソリタT」が誕生していくのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.9, pp.40-41, 2002)

注1)1876(明治9)年、わが国は明治維新の教育政策として帝大医学部にドイツ人医学者ベルツを招いた。ベルツは以後25年間にわたり帝大で指導を続け、日本近代の医学の基礎を築いた。ベルツの研究でとりわけ有名なのは、長い間、日本の農村部で農民たちをを苦しめていた高熱をともなう風土病のひとつ「ツツガムシ病」のフィールドワークである。
注2)オショーネシー(W.B.O'Shaughnessy, 1809-1889)は、コレラ患者は激しい下痢と嘔吐により脱水を起こし、血液からは塩分が失われることをつきとめた。この報告は、ラッタの治療のアイディアになったといわれている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注3)トーマス・ラッタ(Thomas Aichison Latta, 1833年没)は、1831年に脱水状態にあるコレラ患者に対して塩化ナトリウムと重炭酸ナトリウムの水溶液を静脈に注射するという画期的な治療を試みた。これは医学史上、臨床学的に初めて具体的な効果が認められた輸液療法である。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注4)リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は、点滴の基本剤となるリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)
注5)ハーバード大学のギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)は、著書Chemical Anatomy, Physiology and Pathology of Extra-Cellular Fluid(『細胞外液の化学的解剖学、生理学および病理学』)により、近代の輸液療法の理論的基礎を築いた人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.7及びVol.8のコラムを参照)
注6)ラッタは1832年に、コレラ患者の克明な治療の記録をロンドン衛生局宛の書簡の中に記している。(Latta, T.A. Malignant Cholera. documents communicated by the Central Board of Health, London, relative to the treatment of cholera by the copious injection of aqueous and saline fluids into the veins. Lancet, 1831-1832, 2, 274.)

参考文献
A message of congratulations to Tadao Takatsu. On the occasion of age-imposed retirement. Am J Dis Child. 1971 Jan; 121(1): 84. No abstract available.
To our respected Professor Takatsu. Paediatr Univ Tokyo. 1970 Dec; 18: 1-9. No abstract available.
Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695
Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942
Latta, T.A. Malignant Cholera. documents communicated by the Central Board of Health, London, relative to the treatment of cholera by the copious injection of aqueous and saline fluids into the veins. Lancet, 1831-1832, 2, 274.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月18日 (月)

【再掲】点滴史を築いた人びと(8)~ジェームス・ローダー・ギャンブル(後編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第8回

ジェームス・ローダー・ギャンブル(後編)(James Lawder Gamble, 1883-1959)

戦争とモダニズム
 ギャンブルをはじめ、バトラー★注1)、ダロウ★注2)など輸液の歴史に大きく関わった医学者たちには小児科医出身であるという事と同時に、もうひとつ大きな共通点がある。
 それは、2つの大きな戦争(第一次世界大戦および第二次世界大戦)を体験したという事実である。
 彼らの人生の中で戦争が落とした「陰」はさまざまである。
 ある者は兵役にかりだされ、移民社会アメリカにおいて自分自身のルーツについて偏見や差別を受けたり、またある者は、一時期医学研究のリタイアを余儀なくされたりもした。
 これらはみなネガティブな出来事だが、皮肉にもこの戦争をきっかけに、医学が大きく進歩し、人類に恩恵を与えたのも事実として認めなければならない。
 医学史を振り返れば、例えばクリミア戦争ではナイチンゲールが登場し、野戦病院という空間から兵士(患者)の衛生管理という新しい概念が確立されたのは周知の事実である。
 ナイチンゲールが着目したように、戦争では兵士の衛生管理、栄養管理が戦況を左右する事は多分にあり、ギャンブルは特に海上で長く生活する海兵隊員や空軍パイロットの栄養管理に積極的な提言を行なった。ギャンブルは、兵士が厳しい戦闘の中で生き残るためには糖質も充分に摂取し、体重を維持する事にも触れているのだ。
 糖質摂取による体重維持――これは後に輸液が電解質補正という当初の目的から完全静脈栄養の概念にまで広がりを見せていく予感も感じさせるものだ。

「ギャンブルグラム」という最高傑作
 仮に、「輸液史モダニズムの夜明け」というものがあるとしたら、それは1923年であろう。
 1923年、ギャンブルは正常血漿内の酸塩基組成を明快な図で表わした(図1)。これは試行錯誤の末、後にバージョンアップを繰り返し、完全なる形をなしたのだ(図2)。彼がハーバード時代から取り組んでいたテーマ、すなわち――細胞液の組成と代謝の研究、それが身体に及ぼす影響という命題がここにようやく帰結する。
 一見するとモダンアートのアブストラクション(抽象表現)にも見える美しいグラフは、後にギャンブルグラムと呼ばれるようになる。
 ギャンブルグラムが画期的だったのは、これまで非常に抽象的にとらえられていた体液平衡という概念を明確に表わしただけではなく、他の研究者たちがそれぞれ個別に行なっていたこと――例えばハルトマン★注3)が行なっていたアシドーシスの研究や、ダロウが試みた小児の低カリウム血症の治療などの概念をも網羅する輸液治療のための集大成であった。これによって「体液生理学」という新しい概念が初めて生まれたのだ。

プライベートとその晩年
 ギャンブルのプライベートについてエピソードをいくつか拾っておくと、彼は1916年に結婚し、妻との間に女子2人男子3人の子どもをもうけている。そのうちの1人が彼と同じハーバードへ進学し医学の道へと進んだ。
 それから、彼のキャラクターであるが、実際に彼の講義を受けた弟子たちは、彼からきめ細かく親切で丁寧な指導を受けたと評価しているものが多い。中でもギャンブルの弟子たちの目に印象深かったのが、彼が講義中にしばしば熱弁をふるい、よく水を飲んでいたという事である。彼は講義終了のチャイムが鳴ると同時に、ポットに残っている最後の一杯を一気に飲み干したなどというエピソードも残っているほどだ。細身で渋い印象を受ける彼の外観とは対象的である。
 忙しいギャンブルの唯一の楽しみはボート・セイリングであった。休暇にはボストン周辺の海域をセイリングしたり、キャビンの中でのんびりと過ごす事もあったという。
 晩年は、1959年に亡くなるまで彼の名声は失せる事はなかった。まず1950年にロード・アイランド医学学会からの表彰を皮切りに、1951年にはアメリカ医師学会、1954年にはロイヤル・カレッジからもそれぞれ表彰され、そして1955年には小児科学においてもっとも権威あるホーランド・アワードを受賞している。その後彼が亡くなってからも、彼が残した著書、論文は世界各国で読まれるようになり、現在でも水・電解質、酸塩基平衡といった生理学の教科書としても多くの看護学生、医学生たちにも読まれている。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.8, pp.34-35, 2002)

Gamble_fig1_2






















図1-a
1923年に論文に発表されたギャンブルグラム
(Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695)

Gamble_fig2_2
図1-b
ギャンブルグラムのスケールをもとに実際に治療を行なった際の記録。治療経過を体液内の環境に着目した画期的なスケール。患者は8才のてんかんの女児。

Gamble_fig3

図2
1942年の論文でヴァージョンアップされたギャンブルグラム
(Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942)

注1)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)はハルトマンと同じく、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力した小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)
注2)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.6のコラムを参照)
注3)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann, 1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)

参考文献
Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695
Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Holliday MA.;Gamble and Darrow: pathfinders in body fluid physiology andfluid therapy for children, 1914-1964. Pediatr Nephrol. 2000 Dec;15(3-4):317-24.
Holliday MA.;James L. Gamble. J Pediatr. 1993 Jan;122(1):156-61.
Oehme J.;James L. Gamble (1883-1959). Kinderkrankenschwester. 1993 Sep;12(9):325. German.
Franklin CB.;James Lawder Gamble (1883-1959)A Biographical Sketch. J Nutr. 1981, 111 (2): 203-207.
Harvey AM.;Classics in Clinical Science: James L. Gamble and "Gamblegrams". Am J Med. 1979, 66 (6): 904-906.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月17日 (日)

【再掲】点滴史を築いた人びと(7)~ジェームス・ローダー・ギャンブル(前編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第7回

ジェームス・ローダー・ギャンブル(前編)(James Lawder Gamble, 1883-1959)

Dr_gamble  全世界のあらゆる内科学の教科書にその名前が必ず載っているといっても過言ではないギャンブルとは、内科医や小児科医にとっては一体どんな存在なのであろうか。
 彼が作った緻密なメソッドの数々から連想するに、対位法や平均律を完成させたバッハのような存在か。あるいは、「水・電解質」テキスト、「酸塩基平衡」といったギャンブルを語るうえで避けては通れない医学生泣かせの超難度のコンテクストからは、12音技法のシェーンベルクさえも連想できてしまう。

生い立ち
 ギャンブルは、あのリンガー★注1)が苦心の末にリンゲル液を完成させた年と同じ、1883年にケンタッキー州のミラーズブルグという片田舎に三人兄弟の末っ子として生まれた。南北戦争でイギリス農業の影響が色濃く残るこの時代背景からは、フライドチキンのCMを想像する人も多くいるだろう。ひとたび大都市に出れば、大手鉄道会社や石油会社が一斉にストライキやトラスト運動をしていた不況の時代にあって、ここは同じ国とは思えないほどまったく異なった時が流れている。
 ギャンブルが生まれ育った故郷ケンタッキーとは、洗練されたジャズよりも、のどかなフォスターの音楽がもっともよく似合う場所なのだ。
 ギャンブルは幼年時代をここで過ごした後、家族とともにカリフォルニアに移り、そこから彼の医学者としての原点が開かれていく。

いざ、輸液史の大海原へ!
 点滴の歴史を中国4千年の大黄河の流れに例えてみよう。まず、臨床学的に静脈からの水・電解質投与に初めて成功したトーマス・ラッタ★注2)と、彼にアイディアを与えたと思われるオショーネシー★注3)という存在がある。彼らは美しい山脈に湧き出たわずかな清流だ。その清流がリンガーと交わり、やがてそうしてできたあらゆる支流がひとつに集まり黄河へと注がれていく。その支流をひとつに束ねたのがギャンブルという存在である。彼は、近代の輸液史の中でもっとも重要な人物たち、例えばハルトマン★注4)、バトラー★注5)、ダロウ★注6)といった医学者たちとすべてかかわりを持ち、個別に派生した彼らの研究、実験を系統だてて整理していくという役割を担っていた。ギャンブルこそ近代輸液史の中の最も重要なキーパーソンである。今読んでもまったく色あせない彼の有名な著書 "Chemical Anatomy, Physiology and Pathology of Extra-Cellular Fluid" (『細胞外液の化学的解剖学、生理学および病理学』)は、繁雑で混沌としていた当時の体液生理学の概念をひとつのメソッドとして初めて明確にしたものである。
 またギャンブルは、当時まだ実験的な生理学と実践的な臨床学との間に溝があった時代から、生理学で得た新たな発見をいちはやく実際の臨床の場へと移行するという、生理学と臨床学の橋渡しもしたのである。これは、近代から現代に移り、輸液の概念と技術が医学のあらゆる分野で文字どおりフレキシブルに発達していくきっかけもつくったのである。
 もし、近代にギャンブルのような巨人が現われなかったら、経腸栄養や高カロリー輸液の技術や応用も、現在から少なくても20年、30年と遅れをとっていたであろう。

名著に隠れた珠玉の論文
 ギャンブルは数々の素晴らしい論文を世に残しているが、その中でひときわ異彩を放つ論文がひとつある。
 "Early History of Replacement Fluid Therapy"と題されたこの論文は、彼には、というよりも、当時、生理学、臨床学の最先端を走っていた医学者には珍しい医学史に関する論文である。この論文の中で彼は、あたかも輸液の歴史をたぐりよせるようにして、あのトーマス・ラッタが1831年に重症コレラ患者に対して行なった歴史的な治療について興味深く考察している。彼の持つこの独特のパースペクティブは、後々の研究や、そればかりではなく、いろいろな人々との出会いの中で、ますます開花していくのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.7, pp.66-67, 2002)

注1)
リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は、点滴の基本剤となるリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)
注2)
トーマス・ラッタ(Thomas Aichison Latta, 1833年没)は、1831年に脱水状態にあるコレラ患者に対して塩化ナトリウムと重炭酸ナトリウムの水溶液を静脈に注射するという画期的な治療を試みた。これは医学史上、臨床学的に初めて具体的な効果が認められた輸液療法である。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注3)
オショーネシー(W.B.O'Shaughnessy, 1809-1889)は、コレラ患者は激しい下痢と嘔吐により脱水を起こし、血液からは塩分が失われることをつきとめた。この報告は、ラッタの治療のアイディアになったといわれている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注4)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann, 1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)
注5)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)はハルトマンと同じく、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力した小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)
注6)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。

参考文献
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Holliday MA.;Gamble and Darrow: pathfinders in body fluid physiology andfluid therapy for children, 1914-1964. Pediatr Nephrol. 2000 Dec;15(3-4):317-24.
Holliday MA.;James L. Gamble. J Pediatr. 1993 Jan;122(1):156-61.
Oehme J.;James L. Gamble (1883-1959). Kinderkrankenschwester. 1993 Sep;12(9):325. German.
Franklin CB.;James Lawder Gamble (1883-1959)A Biographical Sketch. J Nutr. 1981, 111 (2): 203-207.
Harvey AM.;Classics in Clinical Science: James L. Gamble and "Gamblegrams". Am J Med. 1979, 66 (6): 904-906.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 1日 (金)

【再掲】点滴史を築いた人びと(6)~ダニエル・ダロウ

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第6回

ダニエル・キャディ・ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)

Darrow1_1  19世紀から20世紀にかけての輸液史の中で、混沌とした時代が3度訪れる。ひとつはリンガー(注1)の生理学の時代、ギャンブルをはじめとする小児科学の時代(注2)、そして近・現代になって主にダドリックらの研究によって外科学の分野で発達した手術後の中心静脈栄養や、大腸疾患のケアのための経腸栄養などの時代である(注3)。
 このようにして改めて輸液の歴史を振り返ると、それは医学の実にさまざまな分野をあたかも身体をめぐるように流動的に循環して発展を遂げてきたものだということがわかる。
 輸液史におけるこの3つの時代は、もちろん医学史というタームの中から見た場合にクローズアップされてくるのだが、その医学史をもう少し広くとらえて、たとえば人類の文化史のひとつとして見ていくと、もっとも混沌としているのが1880年代から1930年代にかけてのアメリカである。つまり、近代アメリカで大きな発展を遂げた輸液史は、別の見方をすればアメリカ移民史そのものなのだ。
 この時代はイギリス、ドイツ、オランダなどのヨーロッパ諸国で誕生したそれぞれの医学がその文化的土壌をもって、アメリカという地に移植されて新しい文化をもたらした時代なのだ。例えばドイツ移民のハルトマン(注4)は、ドイツの伝統的な医家系の文化――すなわち、医家たるものその道を極めるだけではなく、芸術・文化における教養、スポーツを通しての健全な肉体と精神の鍛練といった「文武両道」の精神をもたらした。そして今回登場するアイルランド移民のダロウもまた自らの民族の血をもって、アメリカに根をおろした人物の一人だ。
 ダロウ液の発明者であるダロウは1895年にノースダコタのファーゴに6人兄弟の一人として生まれた。彼の母方の祖父母はフロンティア精神旺盛なアイルランド人である。彼らは故郷を捨てて2度にわたりアメリカへの航海を試みるが、一度目の航海では船が座礁して失敗に終わる。しかし二度目の航海でニューヨークにたどり着き、そこからウィスコンシン州東部のアップルトンに入植した。こんなたくましい一族の血を引くダロウの両親もアメリカの大地にふさわしい進歩的な思想の持ち主であった。特にダロウの母は参政権取得などの女性市民運動で活躍した人物で(注5)、ダロウや彼の兄弟たちもしばしば市民集会に参加していたという。父は外科医だが、文学を特に好み、医学書を詩や文学のように読むのを趣味としていた。
 ダロウの人生はこの自由精神を見事に反映している。彼の足跡をたどると、まずノースダコタの農業大学に2年間在籍し、そのあとすぐにコーネル大学へと移籍する。この時彼は友人に自分が科学に興味があることを打ち明けると卒業後すぐにジョンス・ホプキンス大学へと入学し、当時もっともモダンであったアシドーシスの研究に没頭する。その後もニューヘブン、ボストン等の市民病院でインターンのトレーニングを続け、1925年にはハルトマンのいるワシントン大学の小児科に在籍し、1927年にはエール大学の小児科に入局する。
 彼はここで初めて下痢による脱水で苦しむ4才男児の患者と出会う。この少年は今でいう低カリウム血症であった。ここで活かされたのはダロウが大学時代に得た生化学の知識と技術である。彼は患者の少年の体液のphが極端にアルカリに傾倒し、しかもカリウムが欠乏していることに気付くと、先にハルトマンが提唱していた乳酸リンゲル液にカリウムを加えた輸液を患者に与え、症状を軽減させることに成功したのだ。これが今では「KN補液3A」(大塚)などの原形となり汎用されるにいたっている。
 その後のダロウの人生だが、彼は1953年までエール大学に在籍し、小児におけるアルカローシスの研究と治療を続けた。しかし彼の目は必ずしも患者の病気だけに向けられたものではなかった。患者の生活水準、階級などといった病原のバックボーンにも目を向け、人種により貧富の差が歴然とある社会の中で、患者の生活改善をどのようにフォローしていけばよいのか、といった新たな問題提起も行なった。このような、「医療」とそれをとりまく「人間」「社会」との接点、そこで生じるさまざまな問題を社会問題として医療の中にとりこむという発想の原点は、かつて女性人権運動やさまざまな市民運動に尽力してきた母のうしろ姿にあるのであろう。
 彼はしばしば同僚の医師たちに言っていた言葉がある。“The patient gave me the idea”、つまり患者に出会うごとに医師は成長し育てられていく、ということである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.5, pp.16-17, 2001)

Darrow2_1

同僚の医師とディスカッションするダロウ(右から2番目)
Cooke RE. Daniel C. Darrow, M.D. J Pediatr. 1966 Sep; 69(3): 490-495.

(注1)
シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)はリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC Japan」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)

(注2)
ハーバード大学のギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)をはじめ、この時代は小児科医たちが活躍した時代である。今でも名前が残る「ハルトマン液」、「バトラー液」、「タルボット液」などの輸液剤の名は、その発明者である小児科医たちの名に由来する。

(注3)
ダドリックは静脈からの高カロリー輸液に初めて成功した人物。1967年に小犬の上大動脈にカテーテルを留置し、カゼインと30%ブドウ糖液だけで最高255日間の生存に成功した。後にこれは臨床で応用され、1968年には経口摂取が不可能な先天性腸閉鎖症の新生児に44日間にわたり同様の方法を試みて、その間新生児が正常に発育・成長したことを世界で初めて報告した。

(注4)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann、1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)

(注5)
ダロウの母は女性にも教育と学問が必要であると唱えた人物。シカゴやニューヨークといった大都市へ旅行へいった際にはいつも手に抱えきれぬほどの雑誌、新聞、本などを買い求めていたというエピソードが残っている。

参考文献
Schwartz R. Comments from another student of Gamble and Darrow on fluids. Pediatrics. 1996 Aug; 98.
Hellerstein S. Daniel C. Darrow. J Pediatr. 1993 Nov; 123(5): 833-836.
Schloerb PR, et al. THE SURGEON's debt to Daniel C. Darrow. Am J Dis Child. 1966 Oct; 112(4): 280-282.
Powers GF. Daniel Cady Darrow. Am J Dis Child. 1966 Oct; 112(4): 271-272.
Cooke RE. Daniel C. Darrow, M.D. J Pediatr. 1966 Sep; 69(3): 490-495.
Darrow DC, Soule HC, Buckman TE. Blood volume in normal infants and children. J Clin Invest 1928;5:243-58.
Darrow DC. The role of the patient in clinical research of a physiological problem. Yale J Biol Med 1956;30:1-15.
Dudrick SJ. et al. Long-term total parenteral nutrition with growth in puppies and positive nitrogen balance in patients. Surg Forum, 18:356, 1967.
Dudrick SJ. et al. Long-term total parenteral nutrition woth growth, development and positive nitrogen balance. Surgery, 64:134, 1968.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年5月 | トップページ | 2008年6月 »