« 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編) | トップページ | 【再掲】点滴史を築いた人びと(1)~トーマス.A.ラッタ »

2007年3月 5日 (月)

【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編)

(このコラムは、美術批評誌「Infance」第3号(1999)に掲載したテキストを加筆再掲したものです。)

評伝「シドニー・リンガー」~リンゲル液を創った男(後編)

国籍を剥奪された最高傑作

 わが国では、生粋のイギリス人であるリンガーの発明したその生理的電解質溶液の事を、「リンガー液」ではなく、“リンゲル液”とドイツ語式に呼んでいる。おそらく、私のこの『臨床美学試論』という論稿の中でリンガーの評伝を読んだ事で、実は“リンゲル液”の発明者はイギリス人科学者リンガーによるものであった事を初めて認識した人の方が多いであろう。実際に、私の回りの実に多くの知人・友人たちは、“リンゲル液”の発明者はレントゲンやコッホなどと同じドイツ人であると思い込んでいたのである。この“思い込み”とは実に面白いもので、現在のようにグローバル化が進み英語が公用語化した医学に対しても、未だに「医学=ドイツ」というイメージが浸透しており、輸液(点滴)の王道をいく“リンゲル液”などというものを作った医学者は絶対にドイツ人に違いない、という固定観念に由来するのである。そして、この固定観念とは、近代的権威主義の裏返しでもあるのだ。このような近代的権威主義の背景の一つとして、次のような点も挙げられる。
 1869年(明治2年)わが国は、時の明治政府の維新による改革にともない、近代医学のモデルをドイツ医学から踏襲するという方針を決定する。その後、1877年(明治10年)に東京帝国大学(現・東大)が創立されると、帝大の医学部にはドイツから来日したミュレル、ホフマン、ベルツらといった医学者が教鞭をとるようになっていったのである。
 この頃の世界の医学的勢力地図を振り返ると、生理学、臨床学ではイギリス、フランスが最もめざましい発展をみせ、逆に病理学ではドイツが一歩リードしていたのである。当時、リンガーの他にどのような医学者たちが活躍していたかというと、イギリスではリスター、ガスケル、ロッケら、フランスではベルナール、パスツールなどが有名である。特にリスターとパスツールは共に親交があり、彼らの交流もあってか、英仏の間では、常に最新の学問の交流も深かった。その他興味深いところでは、一時期リンガーの研究室に在籍し、後にアメリカ、カナダその他第三諸国へと近代生理学を広める事に尽力したカナダ出身のウィリアム・オスラーもいる。また、ナイチンゲールもこの時代だ。ナイチンゲールとリンガーとの間には直接の交流はなかったが、リンガーの大学時代(University College, London)の恩師の一人であるパークスが、ナイチンゲールが従軍したクリミア戦争時代に軍医として野戦病院の設営や医療の総指揮をとっていた経緯もあり、後のリンガー自身の臨床学への興味にも多少の影響を与えているといえよう。
 一方ドイツでは、コッホやナイセルらが病理学の分野で群を抜いた成果を上げていた。彼らをはじめとする伝統的なドイツ学派の医学者たちの目は、患者という「人間」にではなくヒトという「個体」に向けられており、彼らは「身体」という未開のジャングルの中で、ひたすら新しい病原菌を追い求めていたのである。このようなアプローチが明治の人たちには最もモダンに見えたのであろう。
 また、他の理由として、当時の軍事と医学の結び付きも無視できない。なぜなら、この頃になると、次第にアジア近隣まで勢力を伸ばしつつあった列強とわが国がわたりあっていく中で、科学・産業・軍事の急速な近代化が必要とされていたからだ。その中で、ドイツ医学が軍事のあらゆる面での応用――例えば毒ガス、細菌兵器など――に最も優れていた点も挙げられる。実際に、不幸な事ではあるが、医学史上、戦争と医学の発達は切り離して考える事はできない。例えば、多くの植民地での利権をめぐって戦争が絶えなかったイギリスでは、野戦病院という空間の中で傷病兵の看護ルーティンが出来上がっていき、それがやがて近代看護学と近代病院システムのベースになっていったのは言うまでもないわけだし、ナチスの様々な殺傷兵器をはじめ、わが国でも陸軍731部隊や九州大学医学部によって行われたとされる生体医学実験は、現代の医科学に何らかのかたちで関っているのも事実である。特に、九大が行なったとされる生体実験の中で、生理食塩水をヒトの体内に何リットルまで輸液できるか、という実験は、輸液における許容限度を知るだけではなく、輸液で起こる心不全、浮腫などの様々な副作用についての詳しいドキュメントを提示してしまった事にもなる。
 このように近代わが国は、ドイツ医学に多大な影響を受けて来た経緯から、わが国で医学史を語る時、近代以降は病理学中心のパラダイムによるところが大きく、そのため、臨床学の上で重要な仕事をした医学者たちの業績が隠れてしまいがちなのである。だから、結核菌や梅毒スピロヘータの発見者の事は皆よく知っていても、“リンゲル液”の発明者については正確なところ知らないのである。しかも、リンガーにとってのこの生涯最高の傑作も、わが国へはドイツ経由で輸入された事から、彼の母国語(英語)ではなく、外来語(独語)で、図らずも“リンゲル液”などと呼ばれるようになってしまったのである。
 実際、リンガーの事を非常に敬愛していた医師ジェームス・バールが、今から100年近くも前に、すでにこのような状態を予見するような論文を書いている。バールはリンガーよりも一世代下の医師だが、リンガーの数々の業績を高く評価しており、リンガーが死去する約1ヶ月前の1910年9月24日付の『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌(British Medical Journal)に寄稿したグラスゴウ王立病院のオープニングのための記事の中で、数ページにわたってリンガーのこれまでの一連の研究を振り返り、“我々が今日、当たり前の様に享受している生理学・臨床学におけるメソッドはリンガー氏の功績によるところが大きい。もし、彼の業績がドイツでいち早く認められていれば、今ごろは世界中の心臓学の本で彼の名は語られていたであろう。”と最後に結んでいる。
 1900年代初頭といえば、英国にとっては科学のみならず、産業・経済・政治においても衰退の一途をたどり始めた暗い時代でもあり、医学においてもその中心が次第にドイツへとシフトされだした頃でもある。その時代の真っ只中にいる医師が、ヴィクトリア時代の一人の天才へ寄せたこのオマージュが、当時の英国民の気持ちを代弁しているかのようである。
 因みに、この時すでに病床にあったリンガーは、このバールの論文を読んでいたく感動し、次の様な短い手紙を送っている。

Lastingham,
 Sinnington, R.S.O.,
  September 26th.
 My dear Sir James Barr,
 Thank you, thank you very greatly, for your kind reference to my work in your address. You can hardly imagine the pleasure it gives me. When you have reached my age and have ceased from all work and you receive such a complimentary notice of your work from so great an authority, you will know the pleasure you have given me.
Yours sincerely,
Sydney Ringer

 あえて訳すまでもないこの感動的な文章は、リンガーが病床から送った最期の手紙である。リンガーの様態はこの後日増しに悪くなり、まだやり残した研究を再び再開したいという彼の希望もかなう事なく、1910年10月14日の早朝、彼は息を引き取った。彼の訃報はただちに『Lancet』、『Nature』、『British Medical Journal』、『Biochemical Journal』、『Medical Press and Circular』、『University College Hospital Magazin』等の権威ある主要メディア、そして英国学士院(Royal Society)が発行する『Biological Sciences』によって世界に伝えられた。しかし、本国英国以外でリンガーへの再評価が始まるのは、実に、彼が死去してから50年も経ってからの事である。それまでの間、彼の残した「リンガー液」という最高傑作は、国籍のないままさまよい続けるのである。

リンガーを超えたかった男

 以前、HIVウィルスの世界初の臨床例をめぐって、フランスとアメリカの学者がかなりエキサイティングなやりとりをした事がある。アートの世界では、どの作品がオリジナルで、どれが盗作または贋作であるかが問題とされる事があるが、科学も同様にして、誰が最初に発見・発明・発表したかについて激しく争われる事があるのだ。だからダーウィンは『種の起源』の出版のために、自分の権力的な立場を利用して、若き研究者であったウォーレスの行なったリサーチやウォーレスが独自に立てた仮説までもあたかも自分自身の研究によるものだと偽る必要があったのだ。
 つまり科学者たちは、自分が最初に発見した生き物やあるいは病気、または方法論に自分の名前を献呈し、歴史に自分の名前を永遠に残したいという先天的な欲望を持っているのである。これは「学問」の本質とはおおよそ結び付かない奇異な行為に思えるが、例えばアーティストが自分の作品を後世に残したいという極めて自然な欲望を持っている事と照らし合わせれば容易に理解できるであろう。
 そしてもちろん輸液史の中でもっとも面白い例は、かの天才リンガーが世に残したRinger's solutionという最高傑作をめぐるエピソードだ。この輸液史上の最高傑作は、発明者のリンガーが生前中から、すでに世界各国で「リンガー液」(またはリンゲル液)と呼ばれる様になっていた。しかし、リンガー自身が自分でそのように呼んで欲しいと言った形跡は残っていない。彼自身は「リンガー液」の事を自分の論文や学会発表の中では“isotonic solution”とか“balanced saline solution”、つまり「生理的電解質溶液」と呼んでいたのだ。しかし、気がついたらいつの間にか皆がそれを「リンガー液」と呼ぶようになっていったのである。では誰がそれを最初に「リンガー液」と呼んだのであろう。おそらく、彼の生涯の親友で『英国生理学誌』(Journal of Physiology)の創刊者であるミヒャエル・フォスター(ケンブリッジ大学教授)あたりが言いだしたのではないかと私は思っている。実際に、リンガーが「リンガー液」を発明するに至るまでを書いた有名な論文の草稿を世界で誰よりも早く目を通したのはフォスターであるし、フォスター自身、この世紀の大発見にさぞ興奮したに違いない。そしてリンガーの論文を高々とあげて、思わず“Ringer's solution !”と叫んでしまったかどうかは定かではないとしても、この晩フォスターは興奮して、一杯あおらずには寝られなかったに違いない。まさに彼にとっても明日が待ちどうしい一日だったであろう。
 しかし、いくらリンガーの研究・発明――いやRinger's solutionという「傑作」がフォスターのように権威ある学者仲間から認められたからといって、それだけで彼の名前が医学史の中に永遠に残ったとは言いがたい。やはり、リンガーの論文には他の同世代の医学者たちにはない文学性とクリエイティヴィティがあったからなのだと私は理解する。彼は“Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. (1882)”、“A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. (1883)”という2本の論文がきっかけで英国学士院会員に推挙されるわけだが、このような「名誉」に留まらず、彼の名は、この論文を読んだ多くの人々の「記憶」に残っていったのである。なぜなら、彼がイオンという小宇宙の中で展開した、まるではるか彼方14万8千光年の大星雲に思いを馳せるがごとくダイナミックな思想や、それを支持体とする彼の堅牢な筆力が、もはや医学論文を超えてしまったからなのだ。この論文を書くために彼が対峙したあらゆる物質の原子核の軌道上を周回する電子は、さしずめリンガーにとっては彼の思想の宇宙の中で<アート>と<サイエンス>のフィールド間を自由に時空航行する星々に見えたにちがいないのだ。
 リンガーはこの時すでに幼い頃から多くの芸術から育んできた直感力で、医学にも芸術と同様に「思想」と「哲学」が必要である事を体得していたのである。彼の、もはや医学論文を超えてしまった医学論文は、それを表現していたのだ。現代のアートの現場では、しばしばアートは人間にとってどのように必要なものであるのか、あるいは、アートが存在しなくても人間はそれに代るものがあれば生きていけるのか、という大命題が提示される事がある。そのたびに現代の批評家や芸術家たちはあの手この手のアイロニー的手法でこの大命題の「解」を求めようと、時に白々しくも思える大風呂敷を広げて滑稽としか思えないモノばかり見せつけてきたわけだが、そのほとんどが説得力がなく、最初に提示された命題に対し「何」も答えてないのである。しかし、リンガーという、19世紀に生きた一人のクリエイターの人生と思想・哲学を振り返るとき、アートがこの世に存在しなかったとしても、人間が死ぬことはないにしても、逆にアートの存在こそが、一人の人間の人生にかくも深く関り、思想を導く場合だってあるとも言えるのである。
 リンガーの論文には時折“my solution”という言葉が象徴的に登場する。彼の言う“my solution”とは、もちろん彼が実験で試薬として使用し、後に「リンガー液」の前身となっていく様々なアルカリ・イオン溶液の事を指している。それならば論文中では“prepared solution”と書くべきところだが、いみじくも“my solution”と思わず彼が書いてしまったところに、この溶液は“prepared”されたものでもなく、まして“ready made”されたものでもなく、自分自身でこれを“create”したのだというリンガーの強い気持ちが私には読み取れる。つまり“my solution”とはすなわち“my works”=「作品」なのだ1)。フォスターをはじめ、リンガーのこれらの論文をかつて読んだ多くの人々は、リンガーのこのような思想のもとに「リンガー液」が誕生していった事をあらためて認識し、だからこそ、リンガー自身が言うまでもなく、奇跡のうちに誕生したその生理的電解質溶液の事を「リンガー液」と彼の名で呼ぶようになったのは当然といえば当然なのだ。
 リンガーは、このような学問に対する強いリアリティーを持っていたからこそ彼の論文は印象深く人々の心の中に残っていき、「リンガー液」の名とともに生理学史の中において不動の地位を獲得したわけである。
 しかし、そのことを羨んだ者たちもたくさんいたのも事実である。アレクシス・ハルトマン(A.F.Hartmann, 1898-1964)がその一人だ。
 ハルトマンはその名からもわかるとおり、母と妻がドイツに起源をもつドイツ系移民で、ミズーリ州セントルイスに生まれたアメリカ人である。彼の家系は代々由緒ある医学者の家系で、自分もその道に進むばかりか息子までも医学の道へと進ませている。だからハルトマンの場合、自分の意志でというよりは物心ついた頃から周囲の人間によって医学の道を歩まされたといえるかもしれない。これがハルトマン家代々の伝統である。この点がリンガーとは全く対象的で面白いところだ。つまり、リンガーは最初、科学と芸術に興味を持ち、その後科学の道に進んでからも、生物学、生理学、薬学といろんな世界を体験し、最終的には臨床学にも行きつくのだが、ハルトマンの場合、医家家系に生まれた医学生が何のためらいや疑問もなく容易に医者になってしまった印象をうけるのだ。だから、リンガーがクリエイションという行為自体に自分の科学者としてのアイデンティティを求めようとしたのに対し、一方のハルトマンは、自分が医学者であるという事に付随して得る事のできる権威・名声・地位といったものにアイデンティティを求めようとしたのだ。この点が唯一この男の「不幸」な部分である。彼がアシドーシスの治療のためにアレンジした乳酸ナトリウムを加えたリンガー液についてのエピソードがそれをものがたっている。
 昔から「天才は99%の努力と1%の才能」と言われているが、これは偽りの平等主義の中で生きている我々に対する慰めにもならない言葉だ。もしこの言葉の言う事が真実ならば、巷の草サッカー少年は、みんな中田みたいになれてしまう事になる。
 リンガーとハルトマンの関係を考えてみると、リンガーが「天才」であったとするならば、ハルトマンは努力に努力を重ねた「秀才」であると言える。そしてリンガーは、クリエイティヴである事を常に優先するあまり自分の地位や立場を忘れて、たとえ大学での講義の最中でも途端に自分の世界に没入してしまうような芸術家的キャラクターが浮かんでくるのに対し、ハルトマンは、人並みの権威と人並みの名声を普通に求めた、いうなれば極めて平均的な医学者、あるいは優秀な教官像が浮かぶ。その証拠に、リンガーの同僚や教え子たちによって書かれたリンガーの短い評伝では、リンガーが時折、大学の講義中に突然突拍子もない仮説や理論をぶちあげて学生や同僚たちを困らせたエピソードが2つ3つ必ず出てくる。それに対しハルトマンは実に優秀で模範的な教授であったようで、彼のレクチャーに対しネガティヴな評価をしている人物は見受けられない。
 1932年、ハルトマンは“Studies in the metabolism of sodium r-lactate (1)~(3)”という3本の論文の中で、アシドーシスの自分の患者に乳酸ナトリウムを加えたリンガー液を投与し、その治療効果について報告している。これは彼の人生でもっとも大きな発見であったし、またアシドーシスの治療への第一歩となったのも事実である。しかし、これだけでは終わらなかった。彼は、かつてリンガーがそうであったように、自分が治療で使ったリンガー液の事を、何とかして「ハルトマン液」という呼び名で定着させて、医学史の中に自分の名を刻みたかったのである。彼は自分がアレンジしたそのリンガー液の事を、仲間内の学会発表や患者のカルテに記載する際には自ら「ハルトマン液」と呼んでいたのである。彼は、論文で発表したのにもかかわらず自分の身の回りでは「ハルトマン液」という呼称がまったく認知されていない事を知ると、何か機会がある度に「ハルトマン液」という呼称をアナウンスしたのである。しかし、「ハルトマン液」という呼称が「リンガー液」の様に世界標準として認知される事は遂になかった。
 ハルトマンが乳酸加リンガー液――いわゆる彼流に言えば「ハルトマン液」に関する事例を自ら報告した時、彼はすでに医学界ではある程度の権威や名声をかちえていた。もともと名門の医家家系に生まれた彼だからこそ、当然といえば当然であるが、それゆえに彼は次々と生まれてくる新たな欲望にディレンマを感じていたのだ。この欲望とは医学史上に自分の名を献呈する事にはじまり、やがては自分の患者に何か新しい病名を寄与するという近代的権威主義へと拡張されていくのだ。
 これはハルトマンにとっては残酷な事だが、一人の優秀な医学者が「天才」を前にした時、「天才」が人生をかけて求め続ける大いなる欲望と自分が求める目先の欲望との間に存在する圧倒的な差の前にひざまづくしかないのだ。だが彼も仮にリンガーと同じく天才であったならば、例えばかつて大作曲家ラフマニノフやリストらが、同じく天才であったパガニーニの「主題」に堂々と挑み2)、その闘いの末にすばらしい作品を産み出したのと同様に、リンガーの思想・哲学とすら堂々と対決できたはずなのだ。もしそうならば、リンガーの事をただ羨み、単に自分の名も医学史に残したいと懇願するよりも、科学者として常に一瞬一瞬をクリエイティヴに生きていく事の方が大切である事をリンガーから学べたであろう。
 科学者や芸術家には2つの大きな欲望がある。一つは「クリエイション」に対する欲望であり、もう一つはその結果の「名声」や「成功」への欲望なのである。しかし、後者のようなちっぽけな欲望は、天才の大いなる欲望の前では撃沈されるよりほかないのである。

「主題」と「変奏」――拡張する欲望

 まず、付表を見ていただきたい。

Tableisotonic_solution_3

 ここに示したものは、リンガー以降、さまざまな医学者たちの「オリジナル」という概念をめぐっての攻防の跡が見られる。現在でも、先に登場したハルトマンの他にも、その名が辛うじて残っている改良型リンガー液がいくつかある。
 ではリンガー自身によって作られた「オリジナル」のリンガー液と、そのリンガー液を「アレンジ」したものとの関係とはどういうものであろう。これは、さしずめコーヒーという「飲み物」自体を発明したのと、そのコーヒーの「飲み方」を「アレンジ」したことほどの違いがあるのである。つまり、前者は「発明」と言えても後者はあくまでも「アレンジ」、つまり「ヴァリエーション」なのである。だから「ヴァリエーション」はあくまでも「主題」に帰属し、「主題」を超える事はできないのだ。
 だが、リンガー以後の医学者たちは、この「ヴァリエーション」という概念の中でも必死に生き残ろうとしていたのである。
 ではこの「ヴァリエーション」に何か最後のクリエイティヴな可能性をみいだすとすれば、それはその「ヴァリエーション」の中に「物語性」を構築し、新たに「記号」を拡張していくことだろう。
 この物語性を唯一持っているとすれば、わが国における「ソリタ液」開発にまつわるエピソードだ。この「ソリタ液」は付表を見てわかるとおり、乳酸リンガー液に糖を加えてアレンジしたものである。わが国の近代的輸液の物語はここからスタートするのだ。そして、この「ソリタ液」開発に関わったのが高津忠夫という一人の小児科医である。
 1954年、高津は東大小児科において主に乳幼児における脱水症改善と治療の研究をすぐさま始める。リンガー以降、近代の輸液史に名を連ねた人物、――先に登場したハルトマン、それからバトラー(A.M.Butler, 1894-1986)、ダロウ(D.C.Darrow, 1895-1966)らはそのほとんどが小児科医であるのだ。しかしこれは偶然の一致ではない。近代輸液の発展の歴史は優れた小児科医の登場なくしてはありえなかったのだ。なぜなら、軽度の脱水でも容易に命を落としかねない乳幼児のケアにこそ、輸液療法(いわゆる点滴)のルーティンづくりが急務とされていたからである。
 高津が東大の医局に入った1950年代当時は、スタンダードなリンガー液を含めたほんの数種類の輸液剤しか存在していなかった。しかし乳幼児の様々な種類の脱水症をすみやかに改善するためにはこれだけでは不十分であったのだ。そこで高津は様々な症状に対応できる乳酸リンガー液をアレンジしていき、そのアレンジされたリンガー液でひとつの画期的な体系を作った。この溶液は「東大小児科液」と呼ばれ、組成の異なる4種類の溶液(「東大小児科1号液~4号液」)で構成されている。「1号液」は別名「開始液」(点滴開始液)と呼ばれ、病態が判らない患者に対し応急処置として投与する液である。そのため、腎機能障害の場合も想定してKは含まれていない。そして「2号液」は体液バランスの補正を目的とし、「3号液」は「維持液」と呼ばれ、一日の必要水分と電解質を補う事を目的とする。そして「4号液」は術後回復の目的のためにアレンジされたのである。
 1961年、このアイディアによって治療効果を飛躍的にあげた東大小児科は、この「東大小児科液」をわが国の輸液ルーティンとするために清水製薬と武田薬品工業によって量産体制に入り、「ソリタ-T1号液~4号液」の名称で市販されるに至ったのである。
 市販化された際のこの「ソリタ」という名称の由来には面白いエピソードが残っている。これはsolution, life(またはlive), Takatsuのそれぞれ2文字をとり、「SOLITA」としたというのである。だとすると、「SOLITA」の後にある「T」は東大を表すか、あるいは開発に関わった武田薬品工業の頭文字ということだ。
 「ソリタ」を世に送り出した高津は、1965年に東京で開催された「第11回国際小児科学会」の座長を務め、翌年1966年には「第17回韓国小児科学会」で特別講演を行なった。つまりこうして近代輸液はアジアにも広がり出したのである。
 近年まで、韓国では民間に広がった俗称としては、「点滴」の事を“チョム-ジョク ”(「点滴」の音読みをハングルの発音で表したもの)とは言わず、“リンゲル-チュサ”(日本から伝わった古い時代の俗称である「リンゲル注射」という言葉をハングルで表したもの)と言う事の方が多かったのは興味深い。これは、本来一つの輸液剤を示すはずであった“リンゲル”という言葉が拡大解釈され、民間の間では輸液剤の総称または点滴の技法そのものを示す俗語として伝播し定着したためであろう。この現象は、わが国でも昭和初期まではしばしばみかけられた。例えばこの時代を描いた文学作品である遠藤周作の『海と毒薬』の中では、フィーベル(das Fieber;熱)、クランケ(das Kranke;患者)、ライヘ(die Leiche;遺体)といった現在ではほとんど使われなくなったドイツ語の古風な医学用語と並んで、“リンゲルを打つ”、“リンゲルの針を手に持った。”という表現が使われていたりする。
 遠藤の作品の中に登場する“リンゲル”という言葉の扱いは、液体を示したものではなく、あきらかに物質的な(個体としての)表現である。当時の他の文学作品においても、“リンゲル”という言葉が登場する時は、総じて同様の表現であるのだ。確かに、本来は英語である“Ringer”という言葉を「リンガー」とそのまま発音した場合には、非常にスマートで流動的なイメージがあるが、これを“リンゲル”という具合に古典的ドイツ語で発音すると、ゴツゴツとした塊の様な響きがあり、コッヘル、ゾンデ、イルリガートルと同様に器具の名称を示すようなイメージに変容する。
 このような理由で“リンゲル”は、当初は特定の輸液剤を意味する「記号」であったのだが、「民間」のフィールドではそれが「ことば」という意志を持ちながら、まず、輸液剤の総称を表わす「記号」に拡張され、次に、輸液器具、そして輸液の技法(いわゆる点滴)をも表わす「記号」としてさらに拡張されていったのである。つまり人々の意識の中では、「リンゲル<点滴」から「リンゲル=点滴」へと記号の拡張が起こったのである。
 近代、わが国においても、この“リンゲル”という「もの」と「ことば」がかくも強い印象を持って生き延びてきたのは、輸液(点滴)という技法が医学的にみても画期的であったばかりではなく、当時の民間人にとっても「重篤な病人に起死回生をもたらすもの」として象徴的にとらえられてきたからなのだ。つまり輸液(点滴)とは、物理的には注射の一技法であるわけだが、民間人が日常で目にする通常の注射の様に、注入した化学物質による複雑な作用により抽象的な効果を現すのではなく、体内の足りないものを直接大量に補う、または体液環境のバランスを一気に補正するという直接的な概念が斬新なのであり、また具体性を持っていたのである。また使用器具にしても、医師の手に収まる注射器の様な小型の「器具」ではなく、「装置」として空間に存在感を与えていたのである。
 この“リンゲル”をめぐる現象こそ、“リンゲル”という「記号」を「主題」として、それが時代や状況や文化的背景の中で、幾様にも「主題」を反復・拡張・変容させていった究極の「主題と変奏」ともいえるのである。
 図らずも、原作者の母国語(英語)ではなく外来語(独語)として定着してしまった“リンゲル”ではあるが、かつての高津のように医学にもロマンを求めていた時代の人々の100年を超える遥かなる思いも感じられない事もない。確かに、“リンゲル”が瀕死の患者に対する「最終兵器」として名実ともに機能していた時代もあるのである。
 かつて19世紀に一人の天才によって作られたものが、歴史の中で様々な変容を繰り返し、それが今日の我々のもとに継承されている事に、私はアーティストとして悠久の時を感じ、リンガーの「思想」が今日も生き続けている事に、医学史を超えたダイナミズムさえ感じるのである。
 それは、レオナルドの作品が人類の歴史の中に永久に残っていくのと同じなのである。
 なぜならリンガーは、そのような「作品」を作ったからなのだ。
(Infance, Vol.3, pp.25-31, 1999)

注釈
1)
 井上は、リンガーによって制作・発明されたリンガー液(リンゲル液)を、単なる臨床医学上の試薬または医薬品ではなく、<リンガーの「作品」である>と提起することから、リンガーによって制作された全ての種類の改良型リンガー液に対し、制作年代順に独自に作品番号“opus”を付している。したがってこれに基づき、リンガーが1882年5月の予備実験中に制作した『Ringer's solution』[原典版]を“op.1”とする。
 この「リンガー作品整理番号」についてはモーツァルト研究家であるケッヘルが、モーツァルトの死後、彼の作品に作品整理番号“K”を付したのと同様の観点で行われた。
2)
 作曲家のラフマニノフとリストはともに、パガニーニが作曲した『無伴奏ヴァイオリンのための奇想曲』op.1の主題をもとに『パガニーニの主題による狂詩曲』op.43(ラフマニノフ)、『パガニーニの主題による大練習曲』S.141(リスト)をそれぞれ作曲している。

参考文献
Ringer S;Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer S;A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
Ringer S;An investigation regarding the action of rubidium and caesium salts compared with the action of potassium salts on the ventricle of the frog's heart. Journal of Physiology, 1883, 4: 370-379.
Ringer S;The influence of saline media on fishes. Journal of Physiology, 1883, 4: ・-・, Proceeding Physiological Society.
Ringer S;On the mutual antagonism between lime and potash salts, in toxic doses, 1884, 5: 247-254.
Barr J;An address on the use and abuse of the lime salts in health and disease. British Medical Journal, Sept. 24th 1910, 829-835.
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (1). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 327-335.
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (2). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 337-344.
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (3). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 345-355.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Lee JA;Sydney Ringer (1835-1910) and Alexis Hartmann (1989-1964). Anaesthesia (London), Journal of the Association of Great Britain and Ireland, 1981, 36 (12): 1115-1121.
Obituary, Parkes MD. British Medical Journal, 1876, 1: 397-398.
Cooke RE;Daniel C. Darrow, MD. Journal of Pediatrics, 1966, 69 (3): 490-495.
Schoen EJ;Allan Macy Butler (1894-1986). Journal of Pediatrics, 1996, 129 (1): 171-173.
Obituary, To our respected professor Takatsu. Pediatrics, University of Tokyo, 1970, 18: 1-9.
Letter; to Sir James Barr from Sydney Ringer. Sept. 26th. 1910.
Geison GL;Michael Foster and the Cambridge School of Physiolpgy.- The scientific enterprise in late Victorian society. 1978,  Princeton Univ. Press.

|

« 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編) | トップページ | 【再掲】点滴史を築いた人びと(1)~トーマス.A.ラッタ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/204825/14132680

この記事へのトラックバック一覧です: 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編):

» 浪人時代12 [アナウンサー物語]
ほとんどの人は、英単語は書いて覚えろ!そう教えられたはずだ。。。。俺に言わせれば完全な・・・ [続きを読む]

受信: 2007年3月 5日 (月) 13時03分

» エヴァンゲリオンの画像はすごい [新世紀エヴァンゲリオンレア動画の価値、奇跡]
エヴァンゲリオンのアスカのテーマに、 ドイツの有名アーティスト、ラムシュタインの曲が絡む! [続きを読む]

受信: 2007年3月14日 (水) 21時59分

» 西南学院大学の受験に関するRSSサイトです。 [西南学院大学受験情報]
西南学院大学に関するRSSサイトです。 [続きを読む]

受信: 2007年3月24日 (土) 17時10分

» 医薬翻訳者になるには [医薬翻訳者になる!]
医薬翻訳者になりたい方のために役立つ情報を提供 [続きを読む]

受信: 2007年3月26日 (月) 21時36分

« 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編) | トップページ | 【再掲】点滴史を築いた人びと(1)~トーマス.A.ラッタ »