« シドニー・リンガー(Sydney Ringer)略歴 | トップページ | 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編) »

2007年3月 4日 (日)

【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編)

(このコラムは、美術批評誌「Infance」第2号(1998)に掲載したテキストを加筆再掲したものです。)

評伝「シドニー・リンガー」~リンゲル液を創った男(前編)

我、イオンの海を漂流す

 1910年10月14日、ヨークシャー州ラスティンガム。
 早朝。
 昨夜の発作からもうほとんど意識のなくなった、物静かで上品そうな顔立ちのその一人の科学者の枕もとには1冊の哲学書が置いてあった。それには彼が何回ともなく読みかえした跡があり、その事が彼自身、「死」というものを科学者として謙虚に受け入れる準備ができていた事を物語っていた。
 病床の彼の傍らにはノース・アンプトンシャーから駆けつけた最愛の娘チャールズ・ケイラーと、古くからの親しい友人たち、そして最後まで献身的なケアをした主治医が寄り添っていた。
 そして朝日が登りかけた頃、彼は静かに息をひきとった。享年75才。
 彼の死がもし早朝ではなく、その生涯の最盛期を大作曲家エルガーと並び凌駕していたヴィクトリア時代の落日を象徴するかのごとく夕刻に訪れていたならば、その方がはるかに物語としてはドラマティックであったのかもしれない。
 しかし、彼の科学者としての数々の実績――例えば、イオンが生体組織におよぼす様々な影響についての生理学的リサーチ、両生類や魚類の心筋組織をメディアとした20年に及ぶ一連の血液・人工体液の灌流実験、化学物質を用いた麻酔作用の実験、泌尿器内科における体液平衡の研究等はどれをとっても、いうまでもなく、イギリス近代の、あるいは近代生理学全体における薬理学、臨床学(治療学)、心臓外科学、そして近代輸液(点滴)に欠かせないアルカロージス、アシドーシスの研究への先駆けとなったものである。それを考えると、生理学の新しい夜明けに科学者としての思想を託して力尽きていった彼だからこそ、その死が朝日が登る頃であった事は彼の人生を象徴しているのだ。
 この天才的なクリエイターの名はシドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)その人である。
 そして、彼のこれらの実に多伎にわたる研究を一つに繋いでいたのが、彼が1883年に幾多の苦労の末に発明した生理的電解質溶液――即ち(わが国ではしばしばリンゲル液と呼ばれる)リンガー液(Ringer's solution)だったのである。私たちの体液と同じくアルカリ・イオンを帯びたその人工体液は、まるで生態系を永遠に循環するかのように、リンガーの思想の中で終始止まる事なく巡り続けたのである。

 1883年のある日のこと、リンガーの研究室はいつになく慌ただしかった。彼の指示で世話しなく動く助手とは対象的に、彼は思いもよらぬ実験結果に当惑していた。
 発端は1882年の10月までさかのぼる。
 彼はこの日、数人の助手とともにいつものようにカエルの心筋組織を使った生理学実験を行なっていた。この実験は、生きたカエルから摘出した新鮮な心臓に血液や生理食塩水を循環させて、イオンが生体細胞に及ぼす影響や心臓のメカニズムについてリサーチするものである。
 リンガーがこのテーマを始めてから足掛け5年は過ぎようとしていた。この日もリンガーは助手が用意した蒸留水に0.75%塩を加えた生理食塩水を代用体液として同様の実験を行なっていた。この研究には心室の拍動の精密な観察が不可欠であり、同じロンドン大学(University College, London)のスタッフであるチャールズ・ロイが設計したトノメーター(脈波・圧力計)で心室の細動の変化を記録していた。
 このようにいつもと同様のフォーマットで実験をしていたリンガーが心臓と連結されたトノメーターの記録を何気なく見ると、そこにはいつもとはまるで様子が違う結果が表れているのに彼はすぐに気がついた。
 心臓に循環させている溶液が生理食塩水ならば、やがて心室の収縮は弱まっていくはずなのだが、そこに記録されたものは、いつまでも力強く拍動を続ける心臓だった。それはまったく正常の状態で血液が循環している時と同じである。
 リンガーは、なぜ突然にこのような事が起こったのか、彼の有名な論文の一つ“Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle, Journal of Physiology, 1882”の中でも謎を残したまま、翌年の1883年を迎える事になる。
 明けて1883年、リンガーはこの謎を解明するため再び同じ実験を始める。だが実際に実験を始めてみると、1882年の実験で突然起こった様な心室の力強い収縮はまだ見られない。ここで彼は多くの科学者たちがやりたがるような期待する研究結果のつじつま合わせのような実験から視点をかえて、1882年の実験を行なう前まで記憶をさかのぼる事にしたのだ。実験手法に違いはなかったか、実験コンディションは良好であったのかどうか。そして研究室で起こり得るあらゆるアクシデントの可能性――。ここで彼に必要だったのは学者としての分析的理性ではなく、彼が幼少時代から多くの芸術から育んできたクリエイターとしてのフレキシブルな感性であったのだ。
 そして彼は何度にも及ぶ実験により、彼の最も有名にして彼の名を世界的に知らしめる事となった論文“A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart, Journal of Physiology, 1883”の中でその謎を解明し、ここに歴史に名を残すリンガー液がいよいよ誕生するのだ。
 この論文の冒頭で、ある衝撃的にして運命的な出来事が語られている。
“After the publication of a paper in the JOURNAL OF PHYSIOLOGY, Vol.3, No.5, entitled “Concerning the influence exerted by each of the Constituents of the Blood on the Contraction of the Ventricle” I discovered, that the saline solution which I had used had not been prepared with distilled water, but with pipe water supplied by the New River Water Company.”
 つまり彼が1882年の実験で、助手が用意した蒸留水だとばかり思って使っていた水は、実はリンガーの研究室に流れている水道水だったのである。しかもその水道水には偶然にも様々な天然イオンが含まれていて、アルカリを帯びていたのだ。結果的にリンガーは、単なる0.75%塩の生理食塩水ではなく、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどを含んだ水に0.75%塩を加えたまったく“未知なる溶液”を作っていた事になるのである。この溶液を使えば、当然いつもとは実験結果も異なってくるであろうが、そんな事を知らない彼は、この実験結果に当惑したのである。
 しかし偶然のアクシデントで生成されたこの溶液こそ、リンガー液の原形となっていくのだ。
 一体いかなるいきさつで、蒸留水が水道水に入れ代わってしまったのかは判らない。スタッフ同士の申し送りにミスがあったのか、スタッフの技術的なミスなのか。
 いずれにしても、「リンガー液1882年原典版」が出来るまでには神のいたずらとしか思えない2つの大きなアクシデントが重なっている。

 しばしば、“スポーツと歴史には「たら」「れば」はない”と言われる。
 “あそこで呂比須がシュートしていたら日本はアルゼンチンに勝てたのに!”とかはナシなのだ。でも、もしリンガーがロンドン大学へ進学していなかったらどうなっていたであろう。彼はロンドン大学医学部の生理学研究室を流れるこの水道水にも出会う事もなかったのである。
 彼がロンドン大学へ進学したのにはわけがある。少年時代から科学者になるのが夢だったリンガーは当然のことながらイギリスの名門級のような経済的余裕などはなかったのである。これを示すようにリンガーの兄と弟は家計を助けるため、父の遺した貿易業の仕事で20才そこそこの若さで上海と長崎へ渡ってしまい、事実上リンガー家は一家離散となってしまう。このような状況でリンガーも医学部上級クラスへ進学するのに費用がかかるオックス・ブリッジへの進学をあきらめ、身分や宗派や国籍の差別のないロンドン大学医学部へ進学するのだ。
 ロンドン大学は創立当時から革新的思想を持っていた大学で、女学生に対して初めて学位の称号を与えたり、海外からも積極的に留学生を受け入れk奄フような経済的余裕などはなかったのである。これを示すようにリンガーの兄と弟は家計を助けるため、父の遺した貿易業の仕事で20才そこそこの若さで上海と長崎へ渡ってしまい、事実上リンガー家は一家離散となってしまう。このような状況でリンガーも医学部上級クラスへ進学するのに費用がかかるオックス・ブリッジへの進学をあきらめ、身分や宗派や国籍の差別のないロンドン大学医学部へ進学するのだ。
 ロンドン大学は創立当時から革新的思想を持っていた大学で、女学生に対して初めて学位の称号を与えたり、海外からも積極的に留学生を受け入れていた。日本からも伊藤博文、井上 馨、五代友厚らが当時長崎でリンガーの弟フレデリックと並んで総合商社を経営していたトーマス・グラバーの援助でこの大学に留学している。
 リンガーはこの大学から自分に与えられた研究室であの“パーフェクト・ウォーター”と出会い、生涯にわたり彼の研究、論文執筆活動のサポートをすることになる親友フォスター(後にケンブリッジ大学教授)とも出会うのである。
 リンガーの生涯を振り返ると、これはアクシデントというより多くの天才がその時“運命”だと直感する出来事であったのかもしれない。リンガーはその運命に導かれるかのように敢えて着地点を設定せず、生理学における人跡未踏のフィールドへと降り立ったのである。彼は果敢にも、この自分の実験のある意味では失敗であった地点から再び勇気をもって“はじめの一歩”を踏み出すのだ。この時、まるで流体のようにしなやかで純粋なリンガーの開放された感性がフルに発揮されるのである。
 多くの学者たちがリンガーの事を生理学者、薬学者、臨床学者――つまり「医学者」として位置付けているのに対し、私が敢えて彼の事を“クリエイター”と呼び、レオナルドやデューラーや他の偉大な芸術家と同じ文脈で彼の事を語る由縁がここにある。
 このようにしてリンガーは天性の開放された直感をたよりに1882年の実験を再び振り返り、水道水に含まれるいずれかのアルカリ・イオンの一定の法則とバランスが心室の収縮活動に大きく作用している、という大胆な仮説を立て、まだ心電図もない時代に、彼は来る日も来る日もpHや濃度を改変したあらゆる種類のアルカリ・イオン溶液を用いて永遠に終わる事のない順列組み合わせの様な実験を始めるのである。
 その時の模様をリンガーは次のように語っている。
“この液体(水道水)は心臓の灌流に極めてすぐれた特徴があり、条件によってはこの液体の中では心臓は4時間以上も動き続け、その上、実験の終わりでも血液で灌流していた時の心室の収縮とほぼ同じくらい強い収縮が得られるのだ。……(中略)このような強い心室の収縮は、蒸留水から生成した生理食塩水では不可能であり、そこに塩化カリウムを加えても起こらなかった。また、水道水に含まれる炭酸カルシウムの代わりに重炭酸ソーダを加えても起こらなかった。しかし収縮が止まってから少量の炭酸カルシウムを加えると、収縮が再び起こったのだ。”
 そして遂に彼はこの実験で、カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき、しかもカルシウムが少なすぎたり、カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり、さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう、という歴史的大発見をするのである。
 これらの結果からリンガーは改めて次のような実験用代用体液を処方した。
NaCl(塩化ナトリウム)0.65
KCl(塩化カリウム)  0.02
CaCl2(塩化カルシウム)0.02
NaHCO3(炭酸水素ナトリウム)0.02
 この、神が作ったとしか思えない芸術的なパーフェクト・ウォーターこそがリンガー液なのである。さらに、この液体は一時的な代用体液となるばかりか、生体から摘出した臓器をこの中にひたしておく事で細胞を長時間生かしておくのも可能なのである。
 この発見で彼の名は瞬く間に世界的に大ブレイクし、その後の著書や論文もメガ・ヒットとなるのだ。これを機にリンガーは王立学士員会員(Royal Society)に選出され、一度は彼に門戸を閉ざしたケンブリッジも彼の事を認め、彼をゲストとして招くのである。
 リンガーのこの一連のメソッドは現代の医科学にも延々と受け継がれている。例えば心臓外科手術の際、塩化カリウムを注入し一時的に心臓を停止させるという技法や、心室細動の除去、おいては心機能障害の解析にも応用されている。もちろん、後に登場してくる心電図という概念も、リンガーによる心臓の基礎研究があったからこそ生まれたものである。

 科学は結果が全てである、としばしば言われる事がある。確かに、科学を学問ではなく技術として享受する我々にとってはそうかもしれない。しかし、科学者たちにとってはけして結果が全てとは言いきれないのだ。仮説を立て、それを証明して結論へと導くまでの道のり、足取りこそが科学者個人の思想を支えていくものなのである。
 現代の科学論文は、Introduction, Methods, Results, and Discussionといった決まりきったフォーマットで書かれる事が多い。確かにこれは最も洗練された現代の論文スタイルである事は間違いない。だが、科学にとって重要なのは、例えばIntroductionからMethodsへの展開の過程、即ち2点を結ぶ道のりの中に「何」が存在したのか、という事である。しかしこのフォーマットではエッジの部分しか読者に伝わらず、事実は分かっても、「真実」まではけして分からない。シリングやメダウォーも、このようなフォーマットの弊害として科学者個人の思想が抜け落ちてしまう事を指摘している。
 リンガーが生涯に書いた83本の論文は、このフォーマットのエッジ間を結ぶ道のりこそがダイナミックに描かれているのである。I地点からM地点へ、そしてそれが結論へと導かれていく足取りが一歩一歩克明に記録されている。それは、例えば芸術家が一つの作品を作り上げていく行為とまったく同様である。
 だから私はアーティストの立場として、リンガー液も彼の一連の思想の集大成として結実した「作品」として認識するのだ。
 時としてリンガー自身も、自分が発明したその液体を“My solution”と論文の中でも「作品」のように呼ぶのである。
 それゆえに、彼の論文に登場する一人称は文学作品の主人公の様に時として力強いのである。
 “I discovered that……”、“I found that……”といったシンプルな言葉の中に、ここまでようやく辿りついたという彼の実感が一つの“文学”として伝わってくるのだ。

 “took to clinical medicine like a duck to water”

 これはリンガーの有名な言葉の一つである。この言葉には生涯にわたり学問に対して尽きる事のない好奇心と探求心を持ち続けた一人のクリエイターの実感がこもっている。
 彼にとって真の学問とは、一生かかってもたどりつく事のできない遥か彼方の頂にそびえる偉大なものであったのだ。
(Infance, Vol.2, pp.9-12, 1998)

参考文献
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
The Late Dr.Sydney Ringer. University College Hospital Magazine, 1910, 1:85-88.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Lancet, 1910, 2:1386-1387.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. British Medical Journal, 1910, 2:1384-1386.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Nature, 1910, 84:540.
Dale, H. Accident and opportunism in medical research. British Medical Journal, 1948, 2:451-455.
Schilling, H. A human enterprise. Science as lived by its practitioners bears but little resemblance to science as described in print. Science, 1958, 127:1324-1327.
Medawar, P.B. Is the scientific paper fraudulent? Yes; it misrepresents scientific thought. Sat Rev, Aug 1, 1964, 42-43.
Merrington, W.R. University College Hospital and its medical school: a history. Heinemann, London, 1976.
Beveridge, W.B. The Art of Scientific Investigation. Vintage Books, New York, 1957.
Comroe Jr, J.H. Retrospectroscope Insights into medical discovery. The Von Gehr Press, 1977.
 

|

« シドニー・リンガー(Sydney Ringer)略歴 | トップページ | 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/204825/14132429

この記事へのトラックバック一覧です: 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編):

« シドニー・リンガー(Sydney Ringer)略歴 | トップページ | 【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編) »