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2007年3月 9日 (金)

【再掲】点滴史を築いた人びと(4)~アレクシス・ハルトマン

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第4回

アレクシス・フランク・ハルトマン(Alexis Frank Hartmann,1898-1964)

Hartmann  アレクシス・フランク・ハルトマン、ミズーリ州セントルイス生まれ。テニスと庭いじりが唯一の趣味の頑固な小児科医。あるいは“ノーベル賞を取りそこねた男”。
 入院経験のある人ならよく目にする点滴の輸液剤、たとえば「ラクテック」(大塚)などは、前回紹介したシドニー・リンガーによって創られたリンゲル液に乳酸ナトリウムを加えたもの、つまり「乳酸リンゲル液」注1)である。この溶液を考案し初めて臨床の場に用いたのがアメリカ人小児科医のハルトマンである。
 ハルトマンはその名前からもわかるとおり、一族はみなドイツ移民だ。アメリカへのドイツ人の入植がもっとも多かったのが1840年代である。他の移民たちが単身アメリカへ渡るのが多かったのに比べて、ドイツ移民たちは家族単位で渡米するのが一般的であった。ハルトマン家も例外ではなく、代々続く名門の医家系一族としてセントルイスにわたったのだ。
 当時、特にドイツ移民が多かった地域では、移民同士の交流の場であるターンフェライン注2)と呼ばれる社交組織が幾つもあり、ドイツ移民たちは異国の中でもドイツ文化を守りながら生活をしていた。このような移民社会の中で開業医として仕事をしていたハルトマンの父は、彼を名門のワシントン大学へと進学させる。
 大学へ進学したハルトマンはここで、フィリップ・アンダーソン・シェーファー(生化学)注3)、ウィリアム・マッキム・マリオット(小児科)注4)、エヴァーツ・グラハム(外科)注5)らと出会い、そののち小児科学と生化学の分野で多大な業績を残した。
 ハルトマンの研究テーマは小児科領域を中心とした低酸素症、低血糖症、腎機能障害など多伎にわたるが、中でも有名なのは自ら考案した乳酸リンゲル液を代謝性アシドーシスの治療に試みた事である(図1)。これを機に彼は一躍小児科界のスターダムにのし上がるのだが、これだけでは満足しなかった。今も語り継がれる面白い逸話だが、ハルトマンは、リンガーがそうであったように、自ら考案した輸液剤に自分の名前を献呈して歴史に名を残したかったのである。つまりリンゲル液と肩を並べる“ハルトマン液”の誕生だ。しかしこれは彼が思うほどに普及はせず、多くの場合「乳酸リンゲル液」と呼ばれるこの溶液を、自分では“ハルトマン液”と呼んでいたそうだ。
 彼のこんな一面に、少々屈折した虚栄心も感じるが、かつて彼は膵臓の内分泌作用の研究でノーベル賞まであと一歩という悔しい経験をしているで、必要以上に名声にこだわる彼の気持ちも理解できる。
 医学史では膵臓の内分泌作用の研究で真っ先に名を挙げられるのは、インシュリンの抽出に成功し1923年にノーベル賞を獲ったバンティングとマックロードであるが、実はハルトマンもほぼ同時期にシェーファーとともに血糖分析についての論文を発表し、さらに恩師マリオットの協力で彼の得たインシュリンのサンプルで糖尿病児の治療も試みているのだ。1922年の事である。つまり実戦においてはハルトマンが一歩リードだった。だからバンティングらがノーベル賞を獲った事はハルトマンにとっては刺激的な出来事であったに違いない。
 しかし彼は名誉と権威を重んじる野心家の医学者という一面の他に、献身的な臨床医としての姿もある。小児科医でもあった彼は、貧困のため下層階級に蔓延していたポリオの子どもたちを治療する際、黒人の子どもたちにも率先して手を差し伸べたのだ。そればかりか一般の小児科病棟に黒人の子どもたちも受け入れようとした。彼のこのような行動は、自分自身がドイツ移民としてアメリカ社会で苦労した経験があるからであろう。
 1964年、彼は66才の若さにもかかわらず癌でこの世を去るが、息子と孫が彼の後を継ぎ小児科医になっている。また、その他の小児科医たち――タルボット、ダロウ、バトラー、そしてわが国では高津忠夫らにも影響を与えていく事になる。
 ここから輸液史は、リンガーの生理学の時代からハルトマン以降の小児科学の時代へと切り開かれていくのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.4, pp.36-37, 2001)

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図1 ハルトマンが1932年に発表したもっとも有名な論文
この論文でハルトマンは乳酸リンゲル液が代謝性アシドーシスの治療に何らかの効果がある事を初めて報告している。
(Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (1). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 327-335.)

注1)
乳酸リンゲル液(ハルトマン液)は、リンゲル液中に含まれる塩化ナトリウムの一部を乳酸ナトリウムで代用し、塩素イオン濃度をヒト血漿中のイオン濃度とほぼ等しくしたものである。

注2)
ターンフェラインはドイツならではの社交組織であり、その活動内容は文科系、理系、体育会系のすべての要素を併せ持っていた。ここでは当然医者にも文武両道の精神が求められる。

注3)
フィリップ・アンダーソン・シェーファー(Philip Anderson Shaffer)はハルトマンに影響を与えた生化学者の一人。1921年にハルトマンと共同執筆で血糖分析についての論文を発表している。

注4)
ウィリアム・マッキム・マリオット(William McKim Marriott)は、ハルトマンに対し小児の糖尿病の血糖コントロールにインシュリンを用いる事を助言した人物。

注5)
エヴァーツ・グラハム(Evarts Graham)は、生化学の立場からしばしばハルトマンの助言をあおぎ、低血糖症の治療に膵臓切除術などを試みた。

参考文献
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (1). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 327-335.
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (2). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 337-344.
Hartmann AF, Senn MJE;Studies in the metabolism of sodium r-lactate (3). Journal of Clinical Investigation, 1932, 11: 345-355.
Shaffer PA, Hartmann AF, The iodometric determination of copper and its use in sugar analysis. Journal of Biological Chemistry, 1921, 45:349-364.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Lee JA;Sydney Ringer (1835-1910) and Alexis Hartmann (1989-1964). Anaesthesia (London), Journal of the Association of Great Britain and Ireland, 1981, 36 (12): 1115-1121.
In Memorium Alexis F. Hartmann, The Turkish Journal of Pediatrics, 1964, 6 (4).

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2007年3月 8日 (木)

【再掲】点滴史を築いた人びと(3)シドニー・リンガー(後編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第3回

シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)(後編)

 「リンゲル液」という奇跡のパーフェクト・ウォーターを発明し、またそれにともなう数々の生理学的研究で、リンガーの名と業績は国外にも次第に知れわたるようになったのだが、すぐさま学士院(Royal Society)会員にはなれず、その後3年も要している。
 リンガーの研究や発見が単なる偶然の産物ではないことを会員推薦の権利を持つ保守的な評議員に理解させるには、尚も精力的な研究発表が必要であったのだ。そこで彼の後押しをしたのが後にケンブリッジ大学の教授となる医学生時代からの旧友、ミヒャエル・フォスターだ(図1)。
 フォスターはリンガーと同世代の1836年生まれで、大学ではリンガーとともに生理学や臨床学を学んだ。彼はすでに学生時代からリンガーの並々ならぬ才能に気づいていた。そんな彼がリンガーのために最初にやったことは、「英国生理学誌」(Journal of Physiology)の発行と編集である。
 当時の医学界でもっとも権威があったジャーナルはランセット、サイエンスなどである。両ジャーナル誌上ではオックス・ブリッジの研究者たちがたった1本の論文を掲載するのにさえ凌ぎを削っていた。しかし、リンガーの研究スタイルは、論文を1本書いたからといってそれで終わるものではない。医学界のトレンドに左右されることなく、一つのテーマに根を下ろした彼の研究には、自分の研究成果をいわば連載のような形式で自由に発表できるメディアが必要であったのだ。また常に新鮮な記事を寄稿することで、読者とのインタラクティヴな関係も作っていける。
 「英国生理学誌」とリンガーとの関係は、現在の発想に置き換えればまさにメディア・タイアップといえるのだ。
 このような斬新な発想は、リンガーの思想の中に、医学だけではなく芸術の血も脈々と流れていることを物語っている。
 リンガーと芸術との深い関りについてふれておくと、彼が生涯とくに愛好したのが音楽と絵画である。たとえば日曜の午後には決まって妻とともにクイーンズホール(注1)へコンサートに出かけ、時間があればロンドン市内のギャラリーに出向き、若い画家や評論家たちと芸術論を戦わせた。医学以外の場でも鍛練されたリンガーの創造的な感性は、彼の後々の独創的な研究スタイルを作っていく上での充分な要素となったのはいうまでもない。
 彼の晩年もまるで一人の偉大な芸術家のようであった。1900年に大学を退官したリンガーは妻の実家があるヨークシャーに移り住んでからも、なお研究に対する意欲は衰えることはなく、自分の研究場所を求めて何回も方々の大学へと出向いている。リンガーがもっとも活躍したのはヴィクトリア時代である。その後エドワード時代に時がうつると同時に英国が次第に衰退していく様子は、あたかもリンガー自身に近づく「死」というものを暗示しているようにさえみえる。
 時は20世紀を迎え、医学界の第一線を退いたリンガーは、目まぐるしい世代交代の真っ只中にいた。しかし一人老いていくリンガーの偉大さを認識していた若い医学者たちもいたのだ。その中の一人であるバール医師は、グラスゴウ王立病院のオープニングの記事の中で、リンガーの業績を称える長い論文を書いている(図2)。病床でこの論文を読んだリンガーは、バール医師に向けて実に感動的な手紙を送っているのだ(図3)。事実上、これが彼の絶筆である。この手紙を出したあとリンガーの様態は急変し、1914年10月14日の早朝にこの世を去った。
 “Duty first, Pleasure after”。この言葉は、生前リンガーが医学生たちによく言っていた言葉である。医者が自分の患者の死に立ち会った時の心得を示した言葉だ。
 この言葉は彼の旧友であったウィリアム・オスラー(注2)の数々の名言とともに、英国の臨床の「魂」として今でも深く刻みこまれているのだ。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.3, pp.36-37, 2001)

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図1 ミヒャエル・フォスター(Sir Michael Foster, 1836-1907)
リンガーの医学生時代からの親友であったフォスターは,生涯にわたってリンガーの研究活動を支援する。

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図2 ジェームス・バール医師が1910年9月24日付の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」誌(British Medical Journal)に寄稿した論文。
この論文の中で,これまでのリンガーの業績が数ページにわたり紹介されている。

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図3 リンガーが病床からバール医師に送った手紙。
この手紙は後にリンガーの次女・チャールズにより1910年10月29日付「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」誌上に公開された。
この時チャールズは,“父(リンガー)には多くの方々から激励の手紙を頂いたが,とうとう全員に返事を書く事ができなくて残念です。”と語っている。

謝辞
 前回、今回とリンガーの評伝を書くにあたり、リンガー家の一族の一人アン・リンガー氏(Mrs. Anne Ringer)より多大な協力と激励をいただきました事に深く感謝申し上げます。(I would like to express my deepest gratitude to Mrs. Anne Ringer who is a member of Ringers family.
She has supported and encouraged me greatly while I was writing the last two critical biographies of Sydney Ringer.)

注1)
クイーンズホールは英国でも由緒ある音楽ホールの一つであり,かつてエルガーの「ヴァイオリン協奏曲」や「交響曲第2番」なども初演された。残念ながら当時の建物はドイツ軍の空爆で破壊されて今は残っていない。

注2)
カナダ出身の偉大な“臨床の父”ウィリアム・オスラーはまだ若かった頃,一時期ロンドンに留学し,リンガーからは内科診断学などを学んだ経験がある。1872年のクリスマス休暇にはリンガーの生まれ故郷であるノーリッジも旅している。
なお,オスラーにつては日野原重明氏の著書「医の道を求めて ウィリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ」(医学書院)でも詳しく知る事ができる。

参考文献
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
The Late Dr.Sydney Ringer. University College Hospital Magazine, 1910, 1:85-88.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Lancet, 1910, 2:1386-1387.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. British Medical Journal, 1910, 2:1384-1386.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Nature, 1910, 84:540.
Merrington, W.R. University College Hospital and its medical school: a history. Heinemann, London, 1976.
Barr J;An address on the use and abuse of the lime salts in health and disease. British Medical Journal, Sept. 24th 1910, 829-835.
Geison GL;Michael Foster and the Cambridge School of Physiology.- The scientific enterprise in late Victorian society. 1978,  Princeton Univ. Press.
Letter; to Sir James Barr from Sydney Ringer. Sept. 26th. 1910.

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2007年3月 7日 (水)

【再掲】点滴史を築いた人びと(2)シドニー・リンガー(前編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第2回

シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)(前編)

 現在はアートスクールの一角をなすロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの北側棟には,あるプレートがひっそりと埋めこまれている。
 “Here worked Sydney Ringer”とここに名の刻まれたリンガーなる人物こそ,長い点滴の歴史の中でその原点ともいえる「リンゲル液」(注1)を発明した人物なのだ。リンゲル液誕生の壮大な物語りは,かつてリンガーの研究室があったこの場所から始まる。
 リンガーは1835年にイギリスの田舎町ノーフォーク州ノーリッジに3人兄弟の二男として生まれる。父のジョンは地元では有名な貿易商であったが,リンガーが生まれてまもなく他界した。やがて兄のジョンと弟のフレデリックは,父の仕事を受け継ぐためにそれぞれ上海と長崎へと渡り,リンガーだけが母のもとで育てられることになる。
 リンガーはすでに子ども時代から科学や医学に興味を抱いており,当時よく知られたブレーワーの著書『科学の手引き(Guide to Science)』に出会ったのがきっかけで進路を決定づけることになる。そこで子ども時代から優秀であったリンガーは当然のことながらオックスフォード大学の医学部を志すが,彼の受け入れは拒否されたのである。なぜならリンガーはプロテスタントの家に産まれた者だからだ(注2)。
 当時のイギリス社会はカトリックを頂点として,その教会勢力が学問や芸術の世界にまで及んでいた。そこで唯一,異教徒の彼を受け入れたのがロンドン大学だ。ロンドン大学は創立当時から革新的思想を持っていた大学で,女学生に対して初めて学位の称号を与えたり,海外からも積極的に留学生を受け入れていた(注3)。この大学との出会いがリンガーにとっては生涯にわたる数々の奇跡を生んでいくのである。
 その奇跡のひとつが,リンガーの研究棟に流れる水道水であった。一六六六年のロンドン大火災の時から創業しているニューリバー・ウォーター・カンパニー社が供給する水は,実は数種のアルカリ・イオンを含んでいたのだ。その水をめぐってリンガーはある実験中に思いもがけないアクシデントに遭遇する。
 1883年のある日のことである。リンガーはいつものようにカエルから摘出した心臓を使って生理学実験を行なっていた。これは生きている心臓に生理食塩水を循環させて心臓の機能をリサーチするという実験で,彼の一貫したテーマである。しかしこの日だけはいつもの実験とは様子が違ったのだ(図1)。
 生体から摘出された心臓は,たとえ生理食塩水を循環させても普通ならばやがて停止するのだが,この日は4時間以上も力強く動き続けたのだ。リンガーはただちにこの異常に気づき,原因をさぐるのである。
 その結果,実験中になんらかのアクシデントが起こり,生理食塩水を作るために準備していた蒸留水に水道水が混入していたことがわかったのである。しかもその水道水は多電解質を含んでおり,リンガーは結果的に0.75%生理食塩水にカリウム,マグネシウム,カルシウムイオンなどを含んだ“未知の溶液”を産み出してしまったのだ(図2)。
 これが,彼が世界にその名を馳せた「リンゲル液」の原点である。
 リンガーはこれをきっかけに,当時はまだ謎とされていた心臓のメカニズムを次々と解明していった。それは,カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき,しかもカルシウムが少なすぎたり,カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり,さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう,という歴史的大発見である(図3)。
 しかし,このような歴史的大発見をしたリンガーではあったが,当時のイギリス医学界といえば,オックス・ブリッジ閥が絶大な権力を握っており,他派閥出身であったリンガーのことをなかなか認めようとはしなかったのだ。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.2, pp.36-37, 2001)

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図1 リンガーが心臓の灌流実験に用いた装置。
当時はまだ心電図,筋電図などのデジタル機器はなかったので,脈波の微妙な振動を増幅して記録紙に転写した。現在のようにP波,Q波,R波,S波などは検出できないが,心拍ターム,心室細動,心停止などの様子は充分に記録できた。
(Gunther,B. Ringer and the discovery of saline solution (1882). Rev. Med. Chile 115: 367-374, 1987.)

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図2 リンガーが「英国生理学誌」(Journal of Physiology)に発表したもっとも有名な論文。
ここに「リンゲル液」誕生の壮大なドラマがかくされている。
(Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.)

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図3 リンガーが実験で記録した心臓の波形図。
この実験では,様々なアルカリ・イオンが心筋に及ぼす作用についてリサーチしている。
これは後の心電図,筋電図の概念を導びくばかりか,外科手術の際の人工的な心停止状態の維持,心室細動の除細動といった技術にも応用された。
(Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.)

注1)
「リンゲル液」を原語で表記すると「Ringer's solution」である。つまり本来ならば「リンガー液」と英語式に発音するのが正しいが,当時の日本は明治維新の政策として帝大に高名な医学者ベルツを招聘するなどドイツ医学が導入されたため,Ringerもドイツ語式に発音した名残がある。これは日本と日本の医学から影響を受けたかつてのアジア諸国(例えば韓国など)だけの特異な例である。
注2)
リンガーと同じような理由で入学を拒否された者としてはクエーカー教徒の外科医リスターがいる。彼もロンドン大学に進学し,リンガーと同じく生理学をウィリアム・シャーピーに学んだ。
注3)
日本からも伊藤博文,井上 馨,五代友厚らが留学したのは有名である。

参考文献
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
The Late Dr.Sydney Ringer. University College Hospital Magazine, 1910, 1:85-88.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Lancet, 1910, 2:1386-1387.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. British Medical Journal, 1910, 2:1384-1386.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Nature, 1910, 84:540.
Gunther, B. Ringer and the discovery of saline solution (1882). Rev. Med. Chile 115: 367-374, 1987.
Dale, H. Accident and opportunism in medical research. British Medical Journal, 1948, 2:451-455.
Merrington, W.R. University College Hospital and its medical school: a history. Heinemann, London, 1976.
Beveridge, W.B. The Art of Scientific Investigation. Vintage Books, New York, 1957.

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2007年3月 6日 (火)

【再掲】点滴史を築いた人びと(1)~トーマス.A.ラッタ

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第1回

トーマス.A.ラッタ(Thomas Aichison Latta, 1833年没)

 医学史において,生理学,小児科学,内科学,外科学などそのあらゆる領域の中を,まるで血脈のように巡る輸液史注1)――つまり点滴の歴史の誕生は,今から170年ほど前にまでさかのぼる事ができる。実際に今日のような器具が登場するのはもっと後だが,点滴を,広義の意味で水・電解質の補正を目的とする静脈注射の技法の一つとして捉えた場合,1831年のある歴史的出来事へと行きつくのだ。
 ヒトの静脈内への水分,血液またはその他の液体の注入についての最も古い公式の報告は,1667年にJ.B.ドニー(Jean Baptiste Denys, 1625-1704)によって羊の血液を少年の静脈に注入した例が記録として残っている。これ以前にも,C.レン(Christopher Wren, 1632-1723)や,J.ウィルキンズ(John Wilkins, 1614-1672)による動物実験の記録も残っているが,いずれも臨床学的な効果を得るまでには至っていない。
 静脈への注射でその効果が初めて認められたのは,1831年にリースの開業医トーマス・ラッタが脱水状態にあるコレラ患者に対して塩化ナトリウムと重炭酸ナトリウムの水溶液を静脈に注射したという報告である。
 時は1817年,ガンジス川のデルタ地帯を汚染していたコレラはやがてインドからペルシャへとわたり,ヨーロッパにも侵攻を開始した。そしてついに1831年にはイギリスに上陸。イギリスではコレラ流行を食い止めるべく,医師たちが連携をして予防法や治療法をランセット誌(Lancet)へ送っていた。その中で,アイルランドの内科医オショーネシー(W.B.O'Shaughnessy, 1809-1889)は,コレラ患者は激しい下痢と嘔吐により脱水を起こし,血液からは塩分が失われることまでをつきとめるが,具体的な治療法を試みるまでには至らなかった。(図1)
 オショーネシーがランセットに送った書簡から示唆をうけて,彼のイメージする脱水の治療法――すなわち静脈から水・電解質を補給するという現在の点滴の理論にも通じる方法を実際に試みたのがラッタ医師である。(図2)
 トーマス・ラッタはエジンバラで医学を学んだスコットランドの開業医で,1819年に壊血病に関する論文で学位を得たのち,1822年にリースで開業医を始める。
 ラッタはすぐれた科学者であると同時に臨床家としても強い信念を持った人であった。そのことは,彼が患者の治療の様子を綴ったロンドン衛生部宛の書簡の中にも表れている。(図3)
 実は,ラッタは最初,死にかけた患者に対し,この新しい治療法を試すのを少し躊躇していたことを告白している。なぜなら,患者が死んだ場合,その治療法そのものにも非難が集中する事を恐れたからだ。しかしラッタは苦しむ患者を目の前にして,自らの保身を捨てて治療を行うことを決意する。彼の書簡の中には,患者たちが回復していく様子が喜びにみちた表現で綴られているのがわかる。
 そこの箇所を少し引用してみよう。
「死の兆しがみえていた青白く冷たい表情の顔に,生気がみなぎってきた。しばらく弱かった脈も力強いものとなった。(中略)彼女はしっかりとした声で,楽になった事を私に告げると,少し眠りたいといった」
 これが今日の輸液療法,すなわち点滴のさきがけとなった歴史的一頁である。
 ラッタの勇気ある試みによって多くの患者が救われ,これを機に点滴の歴史がいよいよ開花していくに思われたが,不幸にもこの時代はリスターによる消毒法の概念が登場する以前であり注2),脱水と電解質異常は改善されても,静脈からの細菌感染で死ぬ患者も数多くいた。そのため以後60年間,この画期的な治療法は闇の中で途絶えてしまうのである。
 しかし,ある一人の男の登場によって,点滴の歴史に再び幕が開くのだ。
 その男の名は,誰でも一度は耳にしたことがあるであろう,“リンゲル液”。その発明者,シドニー・リンガーその人である。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.1, pp.66-67, 2001)

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図1
オショーネシーが1831年12月29日付けでランセットへ送った書簡。
この書簡の中で彼は,コレラ患者の血中から遊離アルカリが欠乏することに触れている。

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図2
ラッタがコレラ患者の治療に用いた注入器。
管の先端を静脈に入れ,上からシリンダーを押して注入する。この方法で,0.5%塩化ナトリウムと0.2%重炭酸ナトリウムの水溶液が患者の静脈に注入された。現在の点滴の器具のような大量投与はできないので,1回の投与量を3.0~3.6リットルに定め,数回に分割して注入された。

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図3
ラッタが1832年5月23日付でロンドン衛生部宛に送った書簡。

注釈
注1)今日では医療現場で定着した「点滴」という語句は,医学用語でいう"intravenouse drip infusion",すなわち「静脈内点滴注入法」の略語である。
 「点滴」という語句は,もともとは中国大陸から伝わった言葉(たとえば前漢時代に書かれた漢書『枚乗伝』など)であり,その本来の意味は断続的に滴る「しずく」や「あまだれ」を示すものである。
 これに対し,医師らにより専門的に使われる「輸液」という言葉が,俗称として医学的に使われる「点滴」の本来の意味をなす。

注2)ラッタの時代は,医師や患者の身体だけではなく器具そのものに対しても殺菌する,という概念が普及していなかった。手術や注射が滅菌状態で安全に行われるようになるのは,パスツール(L.Pasteur, 1822-1895)による細菌学の確立(1861年),そしてリスター(J.Lister, 1827-1912)による消毒法の普及(1867年)以降である。

参考文献
Latta, T.A. Malignant Cholera. documents communicated by the Central Board of Health, London, relative to the treatment of cholera by the copious injection of aqueous and saline fluids into the veins. Lancet, 1831-1832, 2, 274.
O'Shaughnessy, W.B. Proposal of a new method of treating the blue epidemic cholera by the injection of highly oxygenised salts into the venous system. Lancet, 1831-1832, 1, 336.
O'Shaughnessy, W.B. Experiments on the blood in chorela. Lancet, 1, 490.
Duma, R.J. Thomas Latta, what have we done?-The Hazards of intravenous therapy. N Engl J Med. 1976 May 20; 294 (21): 1178-1180.
Masson, A.H.B. Latta-pioneer in saline infusion. Br J Anaesth, 1971 Jul; 43 (7): 681-686.
Keynes, Sir G.L. The history of blood transfusion. Brit. J.Surg., 1943, xxxi, 38-50.
Astrup, P. and Severinghaus, J. W. The history of bood gases, asids and bases. 1986, Radiometer A/S, Copenhagen.
C.Singer and E.A.Underwood. A short history of medicine, 1962, Oxford Univ. Press.

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2007年3月 5日 (月)

【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(後編)

(このコラムは、美術批評誌「Infance」第3号(1999)に掲載したテキストを加筆再掲したものです。)

評伝「シドニー・リンガー」~リンゲル液を創った男(後編)

国籍を剥奪された最高傑作

 わが国では、生粋のイギリス人であるリンガーの発明したその生理的電解質溶液の事を、「リンガー液」ではなく、“リンゲル液”とドイツ語式に呼んでいる。おそらく、私のこの『臨床美学試論』という論稿の中でリンガーの評伝を読んだ事で、実は“リンゲル液”の発明者はイギリス人科学者リンガーによるものであった事を初めて認識した人の方が多いであろう。実際に、私の回りの実に多くの知人・友人たちは、“リンゲル液”の発明者はレントゲンやコッホなどと同じドイツ人であると思い込んでいたのである。この“思い込み”とは実に面白いもので、現在のようにグローバル化が進み英語が公用語化した医学に対しても、未だに「医学=ドイツ」というイメージが浸透しており、輸液(点滴)の王道をいく“リンゲル液”などというものを作った医学者は絶対にドイツ人に違いない、という固定観念に由来するのである。そして、この固定観念とは、近代的権威主義の裏返しでもあるのだ。このような近代的権威主義の背景の一つとして、次のような点も挙げられる。
 1869年(明治2年)わが国は、時の明治政府の維新による改革にともない、近代医学のモデルをドイツ医学から踏襲するという方針を決定する。その後、1877年(明治10年)に東京帝国大学(現・東大)が創立されると、帝大の医学部にはドイツから来日したミュレル、ホフマン、ベルツらといった医学者が教鞭をとるようになっていったのである。
 この頃の世界の医学的勢力地図を振り返ると、生理学、臨床学ではイギリス、フランスが最もめざましい発展をみせ、逆に病理学ではドイツが一歩リードしていたのである。当時、リンガーの他にどのような医学者たちが活躍していたかというと、イギリスではリスター、ガスケル、ロッケら、フランスではベルナール、パスツールなどが有名である。特にリスターとパスツールは共に親交があり、彼らの交流もあってか、英仏の間では、常に最新の学問の交流も深かった。その他興味深いところでは、一時期リンガーの研究室に在籍し、後にアメリカ、カナダその他第三諸国へと近代生理学を広める事に尽力したカナダ出身のウィリアム・オスラーもいる。また、ナイチンゲールもこの時代だ。ナイチンゲールとリンガーとの間には直接の交流はなかったが、リンガーの大学時代(University College, London)の恩師の一人であるパークスが、ナイチンゲールが従軍したクリミア戦争時代に軍医として野戦病院の設営や医療の総指揮をとっていた経緯もあり、後のリンガー自身の臨床学への興味にも多少の影響を与えているといえよう。
 一方ドイツでは、コッホやナイセルらが病理学の分野で群を抜いた成果を上げていた。彼らをはじめとする伝統的なドイツ学派の医学者たちの目は、患者という「人間」にではなくヒトという「個体」に向けられており、彼らは「身体」という未開のジャングルの中で、ひたすら新しい病原菌を追い求めていたのである。このようなアプローチが明治の人たちには最もモダンに見えたのであろう。
 また、他の理由として、当時の軍事と医学の結び付きも無視できない。なぜなら、この頃になると、次第にアジア近隣まで勢力を伸ばしつつあった列強とわが国がわたりあっていく中で、科学・産業・軍事の急速な近代化が必要とされていたからだ。その中で、ドイツ医学が軍事のあらゆる面での応用――例えば毒ガス、細菌兵器など――に最も優れていた点も挙げられる。実際に、不幸な事ではあるが、医学史上、戦争と医学の発達は切り離して考える事はできない。例えば、多くの植民地での利権をめぐって戦争が絶えなかったイギリスでは、野戦病院という空間の中で傷病兵の看護ルーティンが出来上がっていき、それがやがて近代看護学と近代病院システムのベースになっていったのは言うまでもないわけだし、ナチスの様々な殺傷兵器をはじめ、わが国でも陸軍731部隊や九州大学医学部によって行われたとされる生体医学実験は、現代の医科学に何らかのかたちで関っているのも事実である。特に、九大が行なったとされる生体実験の中で、生理食塩水をヒトの体内に何リットルまで輸液できるか、という実験は、輸液における許容限度を知るだけではなく、輸液で起こる心不全、浮腫などの様々な副作用についての詳しいドキュメントを提示してしまった事にもなる。
 このように近代わが国は、ドイツ医学に多大な影響を受けて来た経緯から、わが国で医学史を語る時、近代以降は病理学中心のパラダイムによるところが大きく、そのため、臨床学の上で重要な仕事をした医学者たちの業績が隠れてしまいがちなのである。だから、結核菌や梅毒スピロヘータの発見者の事は皆よく知っていても、“リンゲル液”の発明者については正確なところ知らないのである。しかも、リンガーにとってのこの生涯最高の傑作も、わが国へはドイツ経由で輸入された事から、彼の母国語(英語)ではなく、外来語(独語)で、図らずも“リンゲル液”などと呼ばれるようになってしまったのである。
 実際、リンガーの事を非常に敬愛していた医師ジェームス・バールが、今から100年近くも前に、すでにこのような状態を予見するような論文を書いている。バールはリンガーよりも一世代下の医師だが、リンガーの数々の業績を高く評価しており、リンガーが死去する約1ヶ月前の1910年9月24日付の『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌(British Medical Journal)に寄稿したグラスゴウ王立病院のオープニングのための記事の中で、数ページにわたってリンガーのこれまでの一連の研究を振り返り、“我々が今日、当たり前の様に享受している生理学・臨床学におけるメソッドはリンガー氏の功績によるところが大きい。もし、彼の業績がドイツでいち早く認められていれば、今ごろは世界中の心臓学の本で彼の名は語られていたであろう。”と最後に結んでいる。
 1900年代初頭といえば、英国にとっては科学のみならず、産業・経済・政治においても衰退の一途をたどり始めた暗い時代でもあり、医学においてもその中心が次第にドイツへとシフトされだした頃でもある。その時代の真っ只中にいる医師が、ヴィクトリア時代の一人の天才へ寄せたこのオマージュが、当時の英国民の気持ちを代弁しているかのようである。
 因みに、この時すでに病床にあったリンガーは、このバールの論文を読んでいたく感動し、次の様な短い手紙を送っている。

Lastingham,
 Sinnington, R.S.O.,
  September 26th.
 My dear Sir James Barr,
 Thank you, thank you very greatly, for your kind reference to my work in your address. You can hardly imagine the pleasure it gives me. When you have reached my age and have ceased from all work and you receive such a complimentary notice of your work from so great an authority, you will know the pleasure you have given me.
Yours sincerely,
Sydney Ringer

 あえて訳すまでもないこの感動的な文章は、リンガーが病床から送った最期の手紙である。リンガーの様態はこの後日増しに悪くなり、まだやり残した研究を再び再開したいという彼の希望もかなう事なく、1910年10月14日の早朝、彼は息を引き取った。彼の訃報はただちに『Lancet』、『Nature』、『British Medical Journal』、『Biochemical Journal』、『Medical Press and Circular』、『University College Hospital Magazin』等の権威ある主要メディア、そして英国学士院(Royal Society)が発行する『Biological Sciences』によって世界に伝えられた。しかし、本国英国以外でリンガーへの再評価が始まるのは、実に、彼が死去してから50年も経ってからの事である。それまでの間、彼の残した「リンガー液」という最高傑作は、国籍のないままさまよい続けるのである。

リンガーを超えたかった男

 以前、HIVウィルスの世界初の臨床例をめぐって、フランスとアメリカの学者がかなりエキサイティングなやりとりをした事がある。アートの世界では、どの作品がオリジナルで、どれが盗作または贋作であるかが問題とされる事があるが、科学も同様にして、誰が最初に発見・発明・発表したかについて激しく争われる事があるのだ。だからダーウィンは『種の起源』の出版のために、自分の権力的な立場を利用して、若き研究者であったウォーレスの行なったリサーチやウォーレスが独自に立てた仮説までもあたかも自分自身の研究によるものだと偽る必要があったのだ。
 つまり科学者たちは、自分が最初に発見した生き物やあるいは病気、または方法論に自分の名前を献呈し、歴史に自分の名前を永遠に残したいという先天的な欲望を持っているのである。これは「学問」の本質とはおおよそ結び付かない奇異な行為に思えるが、例えばアーティストが自分の作品を後世に残したいという極めて自然な欲望を持っている事と照らし合わせれば容易に理解できるであろう。
 そしてもちろん輸液史の中でもっとも面白い例は、かの天才リンガーが世に残したRinger's solutionという最高傑作をめぐるエピソードだ。この輸液史上の最高傑作は、発明者のリンガーが生前中から、すでに世界各国で「リンガー液」(またはリンゲル液)と呼ばれる様になっていた。しかし、リンガー自身が自分でそのように呼んで欲しいと言った形跡は残っていない。彼自身は「リンガー液」の事を自分の論文や学会発表の中では“isotonic solution”とか“balanced saline solution”、つまり「生理的電解質溶液」と呼んでいたのだ。しかし、気がついたらいつの間にか皆がそれを「リンガー液」と呼ぶようになっていったのである。では誰がそれを最初に「リンガー液」と呼んだのであろう。おそらく、彼の生涯の親友で『英国生理学誌』(Journal of Physiology)の創刊者であるミヒャエル・フォスター(ケンブリッジ大学教授)あたりが言いだしたのではないかと私は思っている。実際に、リンガーが「リンガー液」を発明するに至るまでを書いた有名な論文の草稿を世界で誰よりも早く目を通したのはフォスターであるし、フォスター自身、この世紀の大発見にさぞ興奮したに違いない。そしてリンガーの論文を高々とあげて、思わず“Ringer's solution !”と叫んでしまったかどうかは定かではないとしても、この晩フォスターは興奮して、一杯あおらずには寝られなかったに違いない。まさに彼にとっても明日が待ちどうしい一日だったであろう。
 しかし、いくらリンガーの研究・発明――いやRinger's solutionという「傑作」がフォスターのように権威ある学者仲間から認められたからといって、それだけで彼の名前が医学史の中に永遠に残ったとは言いがたい。やはり、リンガーの論文には他の同世代の医学者たちにはない文学性とクリエイティヴィティがあったからなのだと私は理解する。彼は“Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. (1882)”、“A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. (1883)”という2本の論文がきっかけで英国学士院会員に推挙されるわけだが、このような「名誉」に留まらず、彼の名は、この論文を読んだ多くの人々の「記憶」に残っていったのである。なぜなら、彼がイオンという小宇宙の中で展開した、まるではるか彼方14万8千光年の大星雲に思いを馳せるがごとくダイナミックな思想や、それを支持体とする彼の堅牢な筆力が、もはや医学論文を超えてしまったからなのだ。この論文を書くために彼が対峙したあらゆる物質の原子核の軌道上を周回する電子は、さしずめリンガーにとっては彼の思想の宇宙の中で<アート>と<サイエンス>のフィールド間を自由に時空航行する星々に見えたにちがいないのだ。
 リンガーはこの時すでに幼い頃から多くの芸術から育んできた直感力で、医学にも芸術と同様に「思想」と「哲学」が必要である事を体得していたのである。彼の、もはや医学論文を超えてしまった医学論文は、それを表現していたのだ。現代のアートの現場では、しばしばアートは人間にとってどのように必要なものであるのか、あるいは、アートが存在しなくても人間はそれに代るものがあれば生きていけるのか、という大命題が提示される事がある。そのたびに現代の批評家や芸術家たちはあの手この手のアイロニー的手法でこの大命題の「解」を求めようと、時に白々しくも思える大風呂敷を広げて滑稽としか思えないモノばかり見せつけてきたわけだが、そのほとんどが説得力がなく、最初に提示された命題に対し「何」も答えてないのである。しかし、リンガーという、19世紀に生きた一人のクリエイターの人生と思想・哲学を振り返るとき、アートがこの世に存在しなかったとしても、人間が死ぬことはないにしても、逆にアートの存在こそが、一人の人間の人生にかくも深く関り、思想を導く場合だってあるとも言えるのである。
 リンガーの論文には時折“my solution”という言葉が象徴的に登場する。彼の言う“my solution”とは、もちろん彼が実験で試薬として使用し、後に「リンガー液」の前身となっていく様々なアルカリ・イオン溶液の事を指している。それならば論文中では“prepared solution”と書くべきところだが、いみじくも“my solution”と思わず彼が書いてしまったところに、この溶液は“prepared”されたものでもなく、まして“ready made”されたものでもなく、自分自身でこれを“create”したのだというリンガーの強い気持ちが私には読み取れる。つまり“my solution”とはすなわち“my works”=「作品」なのだ1)。フォスターをはじめ、リンガーのこれらの論文をかつて読んだ多くの人々は、リンガーのこのような思想のもとに「リンガー液」が誕生していった事をあらためて認識し、だからこそ、リンガー自身が言うまでもなく、奇跡のうちに誕生したその生理的電解質溶液の事を「リンガー液」と彼の名で呼ぶようになったのは当然といえば当然なのだ。
 リンガーは、このような学問に対する強いリアリティーを持っていたからこそ彼の論文は印象深く人々の心の中に残っていき、「リンガー液」の名とともに生理学史の中において不動の地位を獲得したわけである。
 しかし、そのことを羨んだ者たちもたくさんいたのも事実である。アレクシス・ハルトマン(A.F.Hartmann, 1898-1964)がその一人だ。
 ハルトマンはその名からもわかるとおり、母と妻がドイツに起源をもつドイツ系移民で、ミズーリ州セントルイスに生まれたアメリカ人である。彼の家系は代々由緒ある医学者の家系で、自分もその道に進むばかりか息子までも医学の道へと進ませている。だからハルトマンの場合、自分の意志でというよりは物心ついた頃から周囲の人間によって医学の道を歩まされたといえるかもしれない。これがハルトマン家代々の伝統である。この点がリンガーとは全く対象的で面白いところだ。つまり、リンガーは最初、科学と芸術に興味を持ち、その後科学の道に進んでからも、生物学、生理学、薬学といろんな世界を体験し、最終的には臨床学にも行きつくのだが、ハルトマンの場合、医家家系に生まれた医学生が何のためらいや疑問もなく容易に医者になってしまった印象をうけるのだ。だから、リンガーがクリエイションという行為自体に自分の科学者としてのアイデンティティを求めようとしたのに対し、一方のハルトマンは、自分が医学者であるという事に付随して得る事のできる権威・名声・地位といったものにアイデンティティを求めようとしたのだ。この点が唯一この男の「不幸」な部分である。彼がアシドーシスの治療のためにアレンジした乳酸ナトリウムを加えたリンガー液についてのエピソードがそれをものがたっている。
 昔から「天才は99%の努力と1%の才能」と言われているが、これは偽りの平等主義の中で生きている我々に対する慰めにもならない言葉だ。もしこの言葉の言う事が真実ならば、巷の草サッカー少年は、みんな中田みたいになれてしまう事になる。
 リンガーとハルトマンの関係を考えてみると、リンガーが「天才」であったとするならば、ハルトマンは努力に努力を重ねた「秀才」であると言える。そしてリンガーは、クリエイティヴである事を常に優先するあまり自分の地位や立場を忘れて、たとえ大学での講義の最中でも途端に自分の世界に没入してしまうような芸術家的キャラクターが浮かんでくるのに対し、ハルトマンは、人並みの権威と人並みの名声を普通に求めた、いうなれば極めて平均的な医学者、あるいは優秀な教官像が浮かぶ。その証拠に、リンガーの同僚や教え子たちによって書かれたリンガーの短い評伝では、リンガーが時折、大学の講義中に突然突拍子もない仮説や理論をぶちあげて学生や同僚たちを困らせたエピソードが2つ3つ必ず出てくる。それに対しハルトマンは実に優秀で模範的な教授であったようで、彼のレクチャーに対しネガティヴな評価をしている人物は見受けられない。
 1932年、ハルトマンは“Studies in the metabolism of sodium r-lactate (1)~(3)”という3本の論文の中で、アシドーシスの自分の患者に乳酸ナトリウムを加えたリンガー液を投与し、その治療効果について報告している。これは彼の人生でもっとも大きな発見であったし、またアシドーシスの治療への第一歩となったのも事実である。しかし、これだけでは終わらなかった。彼は、かつてリンガーがそうであったように、自分が治療で使ったリンガー液の事を、何とかして「ハルトマン液」という呼び名で定着させて、医学史の中に自分の名を刻みたかったのである。彼は自分がアレンジしたそのリンガー液の事を、仲間内の学会発表や患者のカルテに記載する際には自ら「ハルトマン液」と呼んでいたのである。彼は、論文で発表したのにもかかわらず自分の身の回りでは「ハルトマン液」という呼称がまったく認知されていない事を知ると、何か機会がある度に「ハルトマン液」という呼称をアナウンスしたのである。しかし、「ハルトマン液」という呼称が「リンガー液」の様に世界標準として認知される事は遂になかった。
 ハルトマンが乳酸加リンガー液――いわゆる彼流に言えば「ハルトマン液」に関する事例を自ら報告した時、彼はすでに医学界ではある程度の権威や名声をかちえていた。もともと名門の医家家系に生まれた彼だからこそ、当然といえば当然であるが、それゆえに彼は次々と生まれてくる新たな欲望にディレンマを感じていたのだ。この欲望とは医学史上に自分の名を献呈する事にはじまり、やがては自分の患者に何か新しい病名を寄与するという近代的権威主義へと拡張されていくのだ。
 これはハルトマンにとっては残酷な事だが、一人の優秀な医学者が「天才」を前にした時、「天才」が人生をかけて求め続ける大いなる欲望と自分が求める目先の欲望との間に存在する圧倒的な差の前にひざまづくしかないのだ。だが彼も仮にリンガーと同じく天才であったならば、例えばかつて大作曲家ラフマニノフやリストらが、同じく天才であったパガニーニの「主題」に堂々と挑み2)、その闘いの末にすばらしい作品を産み出したのと同様に、リンガーの思想・哲学とすら堂々と対決できたはずなのだ。もしそうならば、リンガーの事をただ羨み、単に自分の名も医学史に残したいと懇願するよりも、科学者として常に一瞬一瞬をクリエイティヴに生きていく事の方が大切である事をリンガーから学べたであろう。
 科学者や芸術家には2つの大きな欲望がある。一つは「クリエイション」に対する欲望であり、もう一つはその結果の「名声」や「成功」への欲望なのである。しかし、後者のようなちっぽけな欲望は、天才の大いなる欲望の前では撃沈されるよりほかないのである。

「主題」と「変奏」――拡張する欲望

 まず、付表を見ていただきたい。

Tableisotonic_solution_3

 ここに示したものは、リンガー以降、さまざまな医学者たちの「オリジナル」という概念をめぐっての攻防の跡が見られる。現在でも、先に登場したハルトマンの他にも、その名が辛うじて残っている改良型リンガー液がいくつかある。
 ではリンガー自身によって作られた「オリジナル」のリンガー液と、そのリンガー液を「アレンジ」したものとの関係とはどういうものであろう。これは、さしずめコーヒーという「飲み物」自体を発明したのと、そのコーヒーの「飲み方」を「アレンジ」したことほどの違いがあるのである。つまり、前者は「発明」と言えても後者はあくまでも「アレンジ」、つまり「ヴァリエーション」なのである。だから「ヴァリエーション」はあくまでも「主題」に帰属し、「主題」を超える事はできないのだ。
 だが、リンガー以後の医学者たちは、この「ヴァリエーション」という概念の中でも必死に生き残ろうとしていたのである。
 ではこの「ヴァリエーション」に何か最後のクリエイティヴな可能性をみいだすとすれば、それはその「ヴァリエーション」の中に「物語性」を構築し、新たに「記号」を拡張していくことだろう。
 この物語性を唯一持っているとすれば、わが国における「ソリタ液」開発にまつわるエピソードだ。この「ソリタ液」は付表を見てわかるとおり、乳酸リンガー液に糖を加えてアレンジしたものである。わが国の近代的輸液の物語はここからスタートするのだ。そして、この「ソリタ液」開発に関わったのが高津忠夫という一人の小児科医である。
 1954年、高津は東大小児科において主に乳幼児における脱水症改善と治療の研究をすぐさま始める。リンガー以降、近代の輸液史に名を連ねた人物、――先に登場したハルトマン、それからバトラー(A.M.Butler, 1894-1986)、ダロウ(D.C.Darrow, 1895-1966)らはそのほとんどが小児科医であるのだ。しかしこれは偶然の一致ではない。近代輸液の発展の歴史は優れた小児科医の登場なくしてはありえなかったのだ。なぜなら、軽度の脱水でも容易に命を落としかねない乳幼児のケアにこそ、輸液療法(いわゆる点滴)のルーティンづくりが急務とされていたからである。
 高津が東大の医局に入った1950年代当時は、スタンダードなリンガー液を含めたほんの数種類の輸液剤しか存在していなかった。しかし乳幼児の様々な種類の脱水症をすみやかに改善するためにはこれだけでは不十分であったのだ。そこで高津は様々な症状に対応できる乳酸リンガー液をアレンジしていき、そのアレンジされたリンガー液でひとつの画期的な体系を作った。この溶液は「東大小児科液」と呼ばれ、組成の異なる4種類の溶液(「東大小児科1号液~4号液」)で構成されている。「1号液」は別名「開始液」(点滴開始液)と呼ばれ、病態が判らない患者に対し応急処置として投与する液である。そのため、腎機能障害の場合も想定してKは含まれていない。そして「2号液」は体液バランスの補正を目的とし、「3号液」は「維持液」と呼ばれ、一日の必要水分と電解質を補う事を目的とする。そして「4号液」は術後回復の目的のためにアレンジされたのである。
 1961年、このアイディアによって治療効果を飛躍的にあげた東大小児科は、この「東大小児科液」をわが国の輸液ルーティンとするために清水製薬と武田薬品工業によって量産体制に入り、「ソリタ-T1号液~4号液」の名称で市販されるに至ったのである。
 市販化された際のこの「ソリタ」という名称の由来には面白いエピソードが残っている。これはsolution, life(またはlive), Takatsuのそれぞれ2文字をとり、「SOLITA」としたというのである。だとすると、「SOLITA」の後にある「T」は東大を表すか、あるいは開発に関わった武田薬品工業の頭文字ということだ。
 「ソリタ」を世に送り出した高津は、1965年に東京で開催された「第11回国際小児科学会」の座長を務め、翌年1966年には「第17回韓国小児科学会」で特別講演を行なった。つまりこうして近代輸液はアジアにも広がり出したのである。
 近年まで、韓国では民間に広がった俗称としては、「点滴」の事を“チョム-ジョク ”(「点滴」の音読みをハングルの発音で表したもの)とは言わず、“リンゲル-チュサ”(日本から伝わった古い時代の俗称である「リンゲル注射」という言葉をハングルで表したもの)と言う事の方が多かったのは興味深い。これは、本来一つの輸液剤を示すはずであった“リンゲル”という言葉が拡大解釈され、民間の間では輸液剤の総称または点滴の技法そのものを示す俗語として伝播し定着したためであろう。この現象は、わが国でも昭和初期まではしばしばみかけられた。例えばこの時代を描いた文学作品である遠藤周作の『海と毒薬』の中では、フィーベル(das Fieber;熱)、クランケ(das Kranke;患者)、ライヘ(die Leiche;遺体)といった現在ではほとんど使われなくなったドイツ語の古風な医学用語と並んで、“リンゲルを打つ”、“リンゲルの針を手に持った。”という表現が使われていたりする。
 遠藤の作品の中に登場する“リンゲル”という言葉の扱いは、液体を示したものではなく、あきらかに物質的な(個体としての)表現である。当時の他の文学作品においても、“リンゲル”という言葉が登場する時は、総じて同様の表現であるのだ。確かに、本来は英語である“Ringer”という言葉を「リンガー」とそのまま発音した場合には、非常にスマートで流動的なイメージがあるが、これを“リンゲル”という具合に古典的ドイツ語で発音すると、ゴツゴツとした塊の様な響きがあり、コッヘル、ゾンデ、イルリガートルと同様に器具の名称を示すようなイメージに変容する。
 このような理由で“リンゲル”は、当初は特定の輸液剤を意味する「記号」であったのだが、「民間」のフィールドではそれが「ことば」という意志を持ちながら、まず、輸液剤の総称を表わす「記号」に拡張され、次に、輸液器具、そして輸液の技法(いわゆる点滴)をも表わす「記号」としてさらに拡張されていったのである。つまり人々の意識の中では、「リンゲル<点滴」から「リンゲル=点滴」へと記号の拡張が起こったのである。
 近代、わが国においても、この“リンゲル”という「もの」と「ことば」がかくも強い印象を持って生き延びてきたのは、輸液(点滴)という技法が医学的にみても画期的であったばかりではなく、当時の民間人にとっても「重篤な病人に起死回生をもたらすもの」として象徴的にとらえられてきたからなのだ。つまり輸液(点滴)とは、物理的には注射の一技法であるわけだが、民間人が日常で目にする通常の注射の様に、注入した化学物質による複雑な作用により抽象的な効果を現すのではなく、体内の足りないものを直接大量に補う、または体液環境のバランスを一気に補正するという直接的な概念が斬新なのであり、また具体性を持っていたのである。また使用器具にしても、医師の手に収まる注射器の様な小型の「器具」ではなく、「装置」として空間に存在感を与えていたのである。
 この“リンゲル”をめぐる現象こそ、“リンゲル”という「記号」を「主題」として、それが時代や状況や文化的背景の中で、幾様にも「主題」を反復・拡張・変容させていった究極の「主題と変奏」ともいえるのである。
 図らずも、原作者の母国語(英語)ではなく外来語(独語)として定着してしまった“リンゲル”ではあるが、かつての高津のように医学にもロマンを求めていた時代の人々の100年を超える遥かなる思いも感じられない事もない。確かに、“リンゲル”が瀕死の患者に対する「最終兵器」として名実ともに機能していた時代もあるのである。
 かつて19世紀に一人の天才によって作られたものが、歴史の中で様々な変容を繰り返し、それが今日の我々のもとに継承されている事に、私はアーティストとして悠久の時を感じ、リンガーの「思想」が今日も生き続けている事に、医学史を超えたダイナミズムさえ感じるのである。
 それは、レオナルドの作品が人類の歴史の中に永久に残っていくのと同じなのである。
 なぜならリンガーは、そのような「作品」を作ったからなのだ。
(Infance, Vol.3, pp.25-31, 1999)

注釈
1)
 井上は、リンガーによって制作・発明されたリンガー液(リンゲル液)を、単なる臨床医学上の試薬または医薬品ではなく、<リンガーの「作品」である>と提起することから、リンガーによって制作された全ての種類の改良型リンガー液に対し、制作年代順に独自に作品番号“opus”を付している。したがってこれに基づき、リンガーが1882年5月の予備実験中に制作した『Ringer's solution』[原典版]を“op.1”とする。
 この「リンガー作品整理番号」についてはモーツァルト研究家であるケッヘルが、モーツァルトの死後、彼の作品に作品整理番号“K”を付したのと同様の観点で行われた。
2)
 作曲家のラフマニノフとリストはともに、パガニーニが作曲した『無伴奏ヴァイオリンのための奇想曲』op.1の主題をもとに『パガニーニの主題による狂詩曲』op.43(ラフマニノフ)、『パガニーニの主題による大練習曲』S.141(リスト)をそれぞれ作曲している。

参考文献
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2007年3月 4日 (日)

【再掲】評伝シドニー・リンガー~リンゲル液を創った男(前編)

(このコラムは、美術批評誌「Infance」第2号(1998)に掲載したテキストを加筆再掲したものです。)

評伝「シドニー・リンガー」~リンゲル液を創った男(前編)

我、イオンの海を漂流す

 1910年10月14日、ヨークシャー州ラスティンガム。
 早朝。
 昨夜の発作からもうほとんど意識のなくなった、物静かで上品そうな顔立ちのその一人の科学者の枕もとには1冊の哲学書が置いてあった。それには彼が何回ともなく読みかえした跡があり、その事が彼自身、「死」というものを科学者として謙虚に受け入れる準備ができていた事を物語っていた。
 病床の彼の傍らにはノース・アンプトンシャーから駆けつけた最愛の娘チャールズ・ケイラーと、古くからの親しい友人たち、そして最後まで献身的なケアをした主治医が寄り添っていた。
 そして朝日が登りかけた頃、彼は静かに息をひきとった。享年75才。
 彼の死がもし早朝ではなく、その生涯の最盛期を大作曲家エルガーと並び凌駕していたヴィクトリア時代の落日を象徴するかのごとく夕刻に訪れていたならば、その方がはるかに物語としてはドラマティックであったのかもしれない。
 しかし、彼の科学者としての数々の実績――例えば、イオンが生体組織におよぼす様々な影響についての生理学的リサーチ、両生類や魚類の心筋組織をメディアとした20年に及ぶ一連の血液・人工体液の灌流実験、化学物質を用いた麻酔作用の実験、泌尿器内科における体液平衡の研究等はどれをとっても、いうまでもなく、イギリス近代の、あるいは近代生理学全体における薬理学、臨床学(治療学)、心臓外科学、そして近代輸液(点滴)に欠かせないアルカロージス、アシドーシスの研究への先駆けとなったものである。それを考えると、生理学の新しい夜明けに科学者としての思想を託して力尽きていった彼だからこそ、その死が朝日が登る頃であった事は彼の人生を象徴しているのだ。
 この天才的なクリエイターの名はシドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)その人である。
 そして、彼のこれらの実に多伎にわたる研究を一つに繋いでいたのが、彼が1883年に幾多の苦労の末に発明した生理的電解質溶液――即ち(わが国ではしばしばリンゲル液と呼ばれる)リンガー液(Ringer's solution)だったのである。私たちの体液と同じくアルカリ・イオンを帯びたその人工体液は、まるで生態系を永遠に循環するかのように、リンガーの思想の中で終始止まる事なく巡り続けたのである。

 1883年のある日のこと、リンガーの研究室はいつになく慌ただしかった。彼の指示で世話しなく動く助手とは対象的に、彼は思いもよらぬ実験結果に当惑していた。
 発端は1882年の10月までさかのぼる。
 彼はこの日、数人の助手とともにいつものようにカエルの心筋組織を使った生理学実験を行なっていた。この実験は、生きたカエルから摘出した新鮮な心臓に血液や生理食塩水を循環させて、イオンが生体細胞に及ぼす影響や心臓のメカニズムについてリサーチするものである。
 リンガーがこのテーマを始めてから足掛け5年は過ぎようとしていた。この日もリンガーは助手が用意した蒸留水に0.75%塩を加えた生理食塩水を代用体液として同様の実験を行なっていた。この研究には心室の拍動の精密な観察が不可欠であり、同じロンドン大学(University College, London)のスタッフであるチャールズ・ロイが設計したトノメーター(脈波・圧力計)で心室の細動の変化を記録していた。
 このようにいつもと同様のフォーマットで実験をしていたリンガーが心臓と連結されたトノメーターの記録を何気なく見ると、そこにはいつもとはまるで様子が違う結果が表れているのに彼はすぐに気がついた。
 心臓に循環させている溶液が生理食塩水ならば、やがて心室の収縮は弱まっていくはずなのだが、そこに記録されたものは、いつまでも力強く拍動を続ける心臓だった。それはまったく正常の状態で血液が循環している時と同じである。
 リンガーは、なぜ突然にこのような事が起こったのか、彼の有名な論文の一つ“Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle, Journal of Physiology, 1882”の中でも謎を残したまま、翌年の1883年を迎える事になる。
 明けて1883年、リンガーはこの謎を解明するため再び同じ実験を始める。だが実際に実験を始めてみると、1882年の実験で突然起こった様な心室の力強い収縮はまだ見られない。ここで彼は多くの科学者たちがやりたがるような期待する研究結果のつじつま合わせのような実験から視点をかえて、1882年の実験を行なう前まで記憶をさかのぼる事にしたのだ。実験手法に違いはなかったか、実験コンディションは良好であったのかどうか。そして研究室で起こり得るあらゆるアクシデントの可能性――。ここで彼に必要だったのは学者としての分析的理性ではなく、彼が幼少時代から多くの芸術から育んできたクリエイターとしてのフレキシブルな感性であったのだ。
 そして彼は何度にも及ぶ実験により、彼の最も有名にして彼の名を世界的に知らしめる事となった論文“A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart, Journal of Physiology, 1883”の中でその謎を解明し、ここに歴史に名を残すリンガー液がいよいよ誕生するのだ。
 この論文の冒頭で、ある衝撃的にして運命的な出来事が語られている。
“After the publication of a paper in the JOURNAL OF PHYSIOLOGY, Vol.3, No.5, entitled “Concerning the influence exerted by each of the Constituents of the Blood on the Contraction of the Ventricle” I discovered, that the saline solution which I had used had not been prepared with distilled water, but with pipe water supplied by the New River Water Company.”
 つまり彼が1882年の実験で、助手が用意した蒸留水だとばかり思って使っていた水は、実はリンガーの研究室に流れている水道水だったのである。しかもその水道水には偶然にも様々な天然イオンが含まれていて、アルカリを帯びていたのだ。結果的にリンガーは、単なる0.75%塩の生理食塩水ではなく、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどを含んだ水に0.75%塩を加えたまったく“未知なる溶液”を作っていた事になるのである。この溶液を使えば、当然いつもとは実験結果も異なってくるであろうが、そんな事を知らない彼は、この実験結果に当惑したのである。
 しかし偶然のアクシデントで生成されたこの溶液こそ、リンガー液の原形となっていくのだ。
 一体いかなるいきさつで、蒸留水が水道水に入れ代わってしまったのかは判らない。スタッフ同士の申し送りにミスがあったのか、スタッフの技術的なミスなのか。
 いずれにしても、「リンガー液1882年原典版」が出来るまでには神のいたずらとしか思えない2つの大きなアクシデントが重なっている。

 しばしば、“スポーツと歴史には「たら」「れば」はない”と言われる。
 “あそこで呂比須がシュートしていたら日本はアルゼンチンに勝てたのに!”とかはナシなのだ。でも、もしリンガーがロンドン大学へ進学していなかったらどうなっていたであろう。彼はロンドン大学医学部の生理学研究室を流れるこの水道水にも出会う事もなかったのである。
 彼がロンドン大学へ進学したのにはわけがある。少年時代から科学者になるのが夢だったリンガーは当然のことながらイギリスの名門級のような経済的余裕などはなかったのである。これを示すようにリンガーの兄と弟は家計を助けるため、父の遺した貿易業の仕事で20才そこそこの若さで上海と長崎へ渡ってしまい、事実上リンガー家は一家離散となってしまう。このような状況でリンガーも医学部上級クラスへ進学するのに費用がかかるオックス・ブリッジへの進学をあきらめ、身分や宗派や国籍の差別のないロンドン大学医学部へ進学するのだ。
 ロンドン大学は創立当時から革新的思想を持っていた大学で、女学生に対して初めて学位の称号を与えたり、海外からも積極的に留学生を受け入れk奄フような経済的余裕などはなかったのである。これを示すようにリンガーの兄と弟は家計を助けるため、父の遺した貿易業の仕事で20才そこそこの若さで上海と長崎へ渡ってしまい、事実上リンガー家は一家離散となってしまう。このような状況でリンガーも医学部上級クラスへ進学するのに費用がかかるオックス・ブリッジへの進学をあきらめ、身分や宗派や国籍の差別のないロンドン大学医学部へ進学するのだ。
 ロンドン大学は創立当時から革新的思想を持っていた大学で、女学生に対して初めて学位の称号を与えたり、海外からも積極的に留学生を受け入れていた。日本からも伊藤博文、井上 馨、五代友厚らが当時長崎でリンガーの弟フレデリックと並んで総合商社を経営していたトーマス・グラバーの援助でこの大学に留学している。
 リンガーはこの大学から自分に与えられた研究室であの“パーフェクト・ウォーター”と出会い、生涯にわたり彼の研究、論文執筆活動のサポートをすることになる親友フォスター(後にケンブリッジ大学教授)とも出会うのである。
 リンガーの生涯を振り返ると、これはアクシデントというより多くの天才がその時“運命”だと直感する出来事であったのかもしれない。リンガーはその運命に導かれるかのように敢えて着地点を設定せず、生理学における人跡未踏のフィールドへと降り立ったのである。彼は果敢にも、この自分の実験のある意味では失敗であった地点から再び勇気をもって“はじめの一歩”を踏み出すのだ。この時、まるで流体のようにしなやかで純粋なリンガーの開放された感性がフルに発揮されるのである。
 多くの学者たちがリンガーの事を生理学者、薬学者、臨床学者――つまり「医学者」として位置付けているのに対し、私が敢えて彼の事を“クリエイター”と呼び、レオナルドやデューラーや他の偉大な芸術家と同じ文脈で彼の事を語る由縁がここにある。
 このようにしてリンガーは天性の開放された直感をたよりに1882年の実験を再び振り返り、水道水に含まれるいずれかのアルカリ・イオンの一定の法則とバランスが心室の収縮活動に大きく作用している、という大胆な仮説を立て、まだ心電図もない時代に、彼は来る日も来る日もpHや濃度を改変したあらゆる種類のアルカリ・イオン溶液を用いて永遠に終わる事のない順列組み合わせの様な実験を始めるのである。
 その時の模様をリンガーは次のように語っている。
“この液体(水道水)は心臓の灌流に極めてすぐれた特徴があり、条件によってはこの液体の中では心臓は4時間以上も動き続け、その上、実験の終わりでも血液で灌流していた時の心室の収縮とほぼ同じくらい強い収縮が得られるのだ。……(中略)このような強い心室の収縮は、蒸留水から生成した生理食塩水では不可能であり、そこに塩化カリウムを加えても起こらなかった。また、水道水に含まれる炭酸カルシウムの代わりに重炭酸ソーダを加えても起こらなかった。しかし収縮が止まってから少量の炭酸カルシウムを加えると、収縮が再び起こったのだ。”
 そして遂に彼はこの実験で、カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき、しかもカルシウムが少なすぎたり、カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり、さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう、という歴史的大発見をするのである。
 これらの結果からリンガーは改めて次のような実験用代用体液を処方した。
NaCl(塩化ナトリウム)0.65
KCl(塩化カリウム)  0.02
CaCl2(塩化カルシウム)0.02
NaHCO3(炭酸水素ナトリウム)0.02
 この、神が作ったとしか思えない芸術的なパーフェクト・ウォーターこそがリンガー液なのである。さらに、この液体は一時的な代用体液となるばかりか、生体から摘出した臓器をこの中にひたしておく事で細胞を長時間生かしておくのも可能なのである。
 この発見で彼の名は瞬く間に世界的に大ブレイクし、その後の著書や論文もメガ・ヒットとなるのだ。これを機にリンガーは王立学士員会員(Royal Society)に選出され、一度は彼に門戸を閉ざしたケンブリッジも彼の事を認め、彼をゲストとして招くのである。
 リンガーのこの一連のメソッドは現代の医科学にも延々と受け継がれている。例えば心臓外科手術の際、塩化カリウムを注入し一時的に心臓を停止させるという技法や、心室細動の除去、おいては心機能障害の解析にも応用されている。もちろん、後に登場してくる心電図という概念も、リンガーによる心臓の基礎研究があったからこそ生まれたものである。

 科学は結果が全てである、としばしば言われる事がある。確かに、科学を学問ではなく技術として享受する我々にとってはそうかもしれない。しかし、科学者たちにとってはけして結果が全てとは言いきれないのだ。仮説を立て、それを証明して結論へと導くまでの道のり、足取りこそが科学者個人の思想を支えていくものなのである。
 現代の科学論文は、Introduction, Methods, Results, and Discussionといった決まりきったフォーマットで書かれる事が多い。確かにこれは最も洗練された現代の論文スタイルである事は間違いない。だが、科学にとって重要なのは、例えばIntroductionからMethodsへの展開の過程、即ち2点を結ぶ道のりの中に「何」が存在したのか、という事である。しかしこのフォーマットではエッジの部分しか読者に伝わらず、事実は分かっても、「真実」まではけして分からない。シリングやメダウォーも、このようなフォーマットの弊害として科学者個人の思想が抜け落ちてしまう事を指摘している。
 リンガーが生涯に書いた83本の論文は、このフォーマットのエッジ間を結ぶ道のりこそがダイナミックに描かれているのである。I地点からM地点へ、そしてそれが結論へと導かれていく足取りが一歩一歩克明に記録されている。それは、例えば芸術家が一つの作品を作り上げていく行為とまったく同様である。
 だから私はアーティストの立場として、リンガー液も彼の一連の思想の集大成として結実した「作品」として認識するのだ。
 時としてリンガー自身も、自分が発明したその液体を“My solution”と論文の中でも「作品」のように呼ぶのである。
 それゆえに、彼の論文に登場する一人称は文学作品の主人公の様に時として力強いのである。
 “I discovered that……”、“I found that……”といったシンプルな言葉の中に、ここまでようやく辿りついたという彼の実感が一つの“文学”として伝わってくるのだ。

 “took to clinical medicine like a duck to water”

 これはリンガーの有名な言葉の一つである。この言葉には生涯にわたり学問に対して尽きる事のない好奇心と探求心を持ち続けた一人のクリエイターの実感がこもっている。
 彼にとって真の学問とは、一生かかってもたどりつく事のできない遥か彼方の頂にそびえる偉大なものであったのだ。
(Infance, Vol.2, pp.9-12, 1998)

参考文献
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
The Late Dr.Sydney Ringer. University College Hospital Magazine, 1910, 1:85-88.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Lancet, 1910, 2:1386-1387.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. British Medical Journal, 1910, 2:1384-1386.
Obituary. Dr.Sydney Ringer. Nature, 1910, 84:540.
Dale, H. Accident and opportunism in medical research. British Medical Journal, 1948, 2:451-455.
Schilling, H. A human enterprise. Science as lived by its practitioners bears but little resemblance to science as described in print. Science, 1958, 127:1324-1327.
Medawar, P.B. Is the scientific paper fraudulent? Yes; it misrepresents scientific thought. Sat Rev, Aug 1, 1964, 42-43.
Merrington, W.R. University College Hospital and its medical school: a history. Heinemann, London, 1976.
Beveridge, W.B. The Art of Scientific Investigation. Vintage Books, New York, 1957.
Comroe Jr, J.H. Retrospectroscope Insights into medical discovery. The Von Gehr Press, 1977.
 

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2007年3月 3日 (土)

シドニー・リンガー(Sydney Ringer)略歴

Ringer_portrait シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)
イギリスの生理学者・薬学者・小児科臨床医。
「リンゲル液」の発明者。
1835年ノーフォーク、ノーリッジに生まれる。
生まれ年については謎が多く、欧米のリンガー研究者の間でも、彼が所属していたヨークシャーのラスティンガム教会教区の記載資料などをめぐって「1835年」とするか、「1836年」とするか意見がわかれるところだが、英国生理学会のアーカイブでは公式に1835年としている。
リンガーの父・ジョンマンシップはクエーカー教徒として教区のリーダー的存在として知られていたようである。一方母のアンは、後のリンガーの訃報記事(1910年)に付された短いいくつかの評伝によると、非常に気が強い性格であったとの記述が散見される。
リンガーの2人の兄弟、ジョンとフレデリックはそれぞれ貿易商として海外(上海・長崎)で活躍する。弟のフレデリックは同僚のトーマス・グラバーとともに戦前の長崎で貿易商として成功し、外資系銀行の誘致や、捕鯨、近代建築などの技術も日本に伝え、わが国の近代化に多大な貢献を果たす。
フレデリックとその一族、子孫は、日米開戦まで長崎に定住し、日本の文化人・財界人とも交流を持っていた。現在、長崎でグラバー邸とともに観光地になっている「リンガー邸」は、戦前までフレデリックの住まいだった邸宅を修復し保存したもの。
兄のジョンについては上海に渡ったあとの詳しい記録は現在のところ公式アーカイブには残っていないが、現在調査中である。
兄弟たちが外国で活躍したのに対して、リンガーは、現存する記録ではイギリス国外に出向いたことは一度も無く、ロンドン大学時代はキャバンディッシュ・プレイスに居を構えていた。妻のアンはヨークシャーに起源を持つ伝統と格式のあるダーレー家の女性で、地元でも代々資産家として有名であった。
リンガーは、19世紀のイギリスの生理学、臨床学の発展に大きな貢献をしたが、中でも輸液(点滴)に使用されることで有名な生理的電解質溶液「リンゲル」液の発明者として世界的に名が知られるようになった。その有名な論文は以下のとおりだ。
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
リンガーはこの論文が認められて英国学士院会員となる。その後も内科、小児科の臨床に携わりながら、薬学・生理学の分野で精力的に研究を続け、不慮の事故で妻を失うまでの間、論文を書き続ける。
晩年はヨークシャーに移り住み、家族や近隣の住人らとともに静かに暮らし、1910年、脳卒中の発作のため永眠。享年75歳。
リンガーの墓は、ヨークシャー州ラスティンガムのセントメアリーにある。

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