2011年2月27日 (日)

【講演】 『輸液史を築いた小児科医たち』(2011年2月22日,国立成育医療研究センター)

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 先週の22日(火),成城にある国立成育医療研究センターの講堂で,輸液の歴史についてレクチャーをさせていただいた。
 国立成育医療研究センターは日本で最も規模の大きい先端的な小児科専門の医療センターで,各科診療部,外来救急部に加えて,障害児の療育施設も備えている。その景観は,東京郊外の街の中にマンモス団地か,あるいは学園都市があるような雰囲気で,隣接する空間に対しても開放的な都市設計がなされている。
 このような外界に対する開放的な医療空間の設計は,近年,患者側や街からも求められてきた空間である。患者,障害者,高齢者が社会から孤立してしまう原因の一つとして,その医療空間,介護空間が街の中で閉鎖的空間を作っている事も挙げられる。つまり,ここへ通い,またはここで生活する病者にとっては日常の空間であっても,病者ではない者にとっては「非日常空間」なのである。
 この「日常」と「非日常」という空間の関わり方の差異によって,両者の間に見えない壁を作っている。そこで,外界との境界線にグラデーションを設ける事により,その療育空間が「閉じた」アウトサイダーなものではなく,こちらに向かって開かれたバリアフリーな空間となるのである。
 ジャン・ウリやフェリックス・ガタリによる地域精神医療運動の臨床の舞台となったフランスのラ・ボルド病院もこのような設計である。また,一昨年,全米で賛否両論話題をよんだ精神科病院が舞台の医療ドラマ『MENTAL』に登場するウォートン記念病院も,柵の無い庭をコモンスペースとするバリアフリー設計である。

 私が今回レクチャーを賜ったのは,輸液の歴史を通して小児科医療と公衆衛生の発展を振り返る内容のものだ。
 輸液の歴史に名を残した代表的医学者,リンガーハルトマンギャンブルバトラーダロウ,そして高津忠夫らは全員小児科医である。これは偶然ではない。歴史的に考察しても小児科医療の中で輸液が発展していった必然性が十分にあるのである。
 輸液による効果が初めてエビデンスのもとに提示された最も古い記録が,リースの医師トーマス・ラッタによるものである。1832年ラッタは,英全土に広がりかけていたコレラの治療に際し,0.5%塩化ナトリウムと0.2%重炭酸ナトリウムをコレラ患者の静脈内に大量投与し,症状が回復した事をLancetに報告している。
 これから月日が流れ,リンゲル液を発明したリンガーの登場で,小児科医たちの活躍の舞台が幕を開くのである。

 輸液の歴史を理解する上で,以下の5つのフェーズが基本となる。
1.術式の発達(外科学)
2.器具の開発(外科学)
3.薬剤の開発(小児科学)
4.輸液理論の確立(小児科学)
5.輸液技術の臨床現場への普及 (小児科学,内科学,公衆衛生学)

 これをみても分かるように,静脈確保などの術式,器具の開発以降の輸液の歴史は,小児科学がリードしていく事になる。
 それには以下のいくつかの理由がある。

1.19C~20C初頭にかけての乳幼児の死亡率が高かった。(疫痢,赤痢,その他栄養不良)
2.乳幼児の脱水は,成人の場合よりも危篤になるケースが多い。(感染症による下痢,発熱,嘔吐)
3.小児科医は乳幼児の脱水の症例に多く触れる事により,脱水改善の研究が進んだ。

 このように,小児科医が輸液の適用となる様々な脱水症の症例に多く触れる事により,まずは小児輸液の歴史からスタートしていったのである。
 さらにこれに付け加えれば,リンガー以降の近代の主たる小児科医達が米開拓移民の一族であることから考えて,彼らのフロンティア精神も多少なりとも影響しているといえよう。

 さて,今回私がレクチャーを賜ったこの国立成育医療研究センターでは,月に一度,様々な分野から講師を招き,研修会を行っている。私が登壇させていただいた輸液史のレクチャーもその一環である。
 近年,公立私立に関わらず,文化的行事や教養プログラムを積極的に企画,開催する医療機関が少しずつではあるが増えてきている。壁やフリースペースを利用した絵画や写真展,ロビーでのコンサート,詩の朗読会などが多い。
 これららのものは総じて患者や近隣地域住民に向けて開催されるものが多い。しかしそれだけではなく,病院で働く医療スタッフにとっても大切な事である。
 なぜなら,医師,看護師,介護師その他医療スタッフが一人の患者と接する時,その一個人の背景にある歴史,民俗,共同体,生活史といった文化的差異を理解することから臨床が始まるからである。そのためには,専門領域に隣接する周辺領域,またはまったく異なる学問,芸術,文化に触れる機会は,患者への異文化理解(特に小児科,精神科)の為には必要な事だからである。
 当日の私のレクチャーでも,忙しい診療の合間をぬって,多くの医療チームの皆さま方ににおこしいただく事ができたのも,日本の小児科医療の最先端で仕事をされる方々が,専門分野だけではなく,日頃から異文化,周辺領域に高い関心を持ち診療にあたられている様子がこちらにも伝わってきた。

■国立成育医療研究センター
http://www.ncchd.go.jp/

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2009年12月25日 (金)

リンガーの親族,アン・リンガーさんから来年のカレンダーとクリスマスカードが届く

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 クリスマスイブのこの日に,すばらしいタイミングでメルボルン在住の友人から来年のカレンダーとクリスマスカードが届く。送り主はアン・リンガーさん(Mrs. Anne Ringer)。名前を見てもわかるとおり,アンさんは,私が医学史領域で一貫して研究を続けているイギリスの生理学者シドニー・リンガー(Dr.Sydney Ringer, 1835-1910)の親族の方である。シドニー・リンガーは,わが国では輸液(点滴)のリンゲル液を発明した医学者としてよく知られるが,彼の医学的業績はこればかりではない。両生類の心筋を使った基礎研究をもとに,近代のカルディオロジーの基礎を作ったのもこのリンガーである。もしこの頃にノーベル賞が創設されていたならば,リンガーは間違いなくノーベル生理学賞を獲っていたであろう。

 アン・リンガーさんと私との出会いは,今から10年以上にさかのぼる。当時私は,医学史研究のため,しばしばイギリスと日本を往復する生活を始めた時,向こうの大学や研究機関に少し遅れるかたちでちょうど日本にもインターネットが普及し始めていた。その時に私が一番最初に開設したサイトが,作品のデータベース・サイトとリンガー研究を中心とした医学史研究サイトである。これは主に,海外の学者との研究交流,意見交換のために開設したもので,現在でもサイトを通して各国の研究者らと活発な交流がある。
 インターネットの特筆すべき点は,今さら言うまでもなく,その双方向性と集合知の構築である。自分がネット上に流したテキストは世界中の人たちが読んでいるわけである。このような状況の中で,ある日サイトを通して1通のメールが私のもとに届いた。
 「私はあなたが研究しているシドニー・リンガーの親族にあたるものです。あなたの研究に非常に興味を持ちました。日本でリンガーの研究をしている学者がいることにたいへん驚きました。」という内容のものだった。このメールを下さったのがアン・リンガーさんである。アンさんは,たまたまネットをサーフィンしていたら私のウェブページにたどりついたそうである。もしインターネットがなかったら,アンさんと出会うこともなかったかもしれない。私がネットというツールを基本的に肯定的に捉えているのは,ネット黎明期にこのようなダイナミズムを実体験したからだ。そして,そのころから,ネットというメディアはグローバルであるばかりではなく,マスメディアを含めたすべての領域をスーパーフラットな空間に作り変えていくであろうと予見していた。
 アンさんとのネットを通してのコンタクト以来,アンさん一家がたいへんな親日家であることから交流はさらに続き,アンさんからは,まだ医学史料としてアーカイヴされていないリンガー家の史料などを研究のためにご提供をいただいている。現在も,日本のある大手企業が進めている医学史関係の資料館開設のためにもいろいろとご協力をいただいているのである。

 そんなアンさんは,毎年この時期になると,クリスマスカードと一緒に必ずカレンダーを送ってきてくれるのである。アンさんから送られてくるカレンダーにはいろいろなメッセージがこめられている。ただ単に,新年を祝うというよりも,お互いにいろいろとあったこれまでの人生を鑑みながら,新しい年に向けての決意を表明するためのものでもあるのだ。私はアンさんのこのとても素敵な計らいに何度となく励まされてきた。失意のただ中にあった時に,ポストにアンさんからのカレンダーを見つけて救われた事もあったし,どのカレンダーも,アンさんと私の歩んできたこれまでの思い出が刻まれているのである。
 今年アンさんから送られてきたカレンダーは,オーストラリア政府のドクター・ヘリのカレンダーである。広大なオーストラリアの救命救急網をカバーするにはドクター・ヘリの活躍が必要不可欠だ。特に山火事などの自然災害が多い山岳地帯には,ドクター・ヘリでないと入っていけない場所もたくさんある。この点は,わが国の救命救急分野も見習うべき部分も多々あるのである。
 私の方からは,アンさんには「ジャパン・ナイトシーン」という,日本の観光地の夜景を集めたカレンダーを,そしてアンさんの長女で,現在大学で経済学を勉強中のアリソンには,山梨県の風景を集めたカレンダーをお送りした。アンさんにお送りした「ジャパン・ナイトシーン」の7月と8月のページは,熱海の海上花火大会の写真である。本当は全部熱海の観光カレンダーが欲しかったのだが見つからず,少しでも熱海の風景が載っているものと思い選んだのがこのカレンダーだ。現在,熱海で「農業・先端医療・アート」を連動させた熱海町づくりプロジェクトに関わっている私の苦肉の策である。
 アリソンに山梨のカレンダーを送ったのは,アリソンが山梨,特に甲府が大好きだからである。まず美しい富士が見えることと,アリソンがかつて交換留学で甲府に暮らしていたことがあって,その時にすっかり山梨を気に入ってしまったそうである。昨年は,不老園の梅園の写真と動画を送ったところ,とても喜んでいたので,今回の山梨のカレンダーも気にいってくれるにちがいない。
 
 

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2008年11月17日 (月)

カナダの医学史研究者からメールが届く

 カナダで現在,輸液史(点滴の歴史)に関わった医学者たちの評伝を編集しているというドクターからメールをいただく。その中でリンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)についての資料と写真を借りたいとのこと。おそらく,私が医学史の研究者用に開設しているWebかブログ経由でメールを下さったようだ。

リンガーについては以下のwebページを参照

リンガー研究web日本語版

http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer-J/SydneyRinger-(J).html
リンガー研究web英語版
http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer/S.Ringer.html

 リンガーは,点滴やその他,医療現場で実にいろいろな分野で汎用されているリンゲル液を発明したイギリスの生理学者である。リンガーについては医学史の分野における私の研究分野の一つであり,リンガーのフィールドワークを始めてからもう足かけ15年近くなる。近年ではネットの普及で,このように各国の研究者が私のwebページを見ていて,いろいろな大学の研究者からたくさんのメールをいただいている。
 私の長年の研究のために史料を提供して下さっているリンガー家のご親族の皆さんも,もともとは私のwebページをグーグルやYahooなどで偶然に見つけて,連絡を下さったのが出会いのきっかけであるから,ネットの創世記からネットに積極的に関わってきた私は,近年なにかと悪い部分が強調されているネットというツールに関しては,「悪い部分」以上の有用性をリアリティをもって感じている。なぜなら,今現在こうして私のwebページが,世界各地にいる輸液史やリンガー研究者らの窓口となりえているからである。これはネットがなかった時代には考えられなかったことであり,お互いの学術交流をワールドワイドにしてくれたのもネットというツールのおかげである。
 もちろん,学会などで渡欧した際に,そこで偶然出会った興味深い研究者たちもたくさんいるわけで,ネットがすべてとは言わないが,確率論的に,ネットを有用に使うことによって,本当に必要な人材や才能とダイレクトに繋がるようになったのも事実である。あとは運用する人間のバランスということだ。
 さて,今回連絡を下さったドクターは,カナダのウィニペグという所に勤務されている。私はまだ一度もカナダへは行ったことがないので,カナダの地理についてはとても疎い。興味があったのでついでにウィニペグについて調べてみると,これがけっこう日本にも馴染みのあるエピソードがあったりして,もし医学史関連で学会か何かが開かれれば,ちょっと行ってみたくなった。
 ウィニペグは,マニトバ州の州都で,ちょうど東部と西部を結ぶ起点にある。日本でもお馴染みの「クマのぷーさん」のモデルになったクマがいたそうである。それから東京の世田谷区と友好都市を結んでいる。またここの町にはテリー・フォックスというカナダの国民的英雄がいて,町に銅像まで建っている。このカナダの英雄テリー・フォックスの生い立ちは実に興味深い。彼は片足を癌のため切断するという不幸に見舞われたが,この癌の研究費を集めるために義足を装着してカナダ横断を試みた人である。残念ながら病気の進行により達成はできなかったが,全国から36億カナダドルの募金が集まったそうだ。テリー・フォックスの,後世の研究のために自らが人柱になるという行為が,多くの国民の共感を生んだのであろう。
 こんなウィニペグという町についての短い印象を添えてこのドクターには,資料の提供の快諾の意を伝えた。

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2008年6月15日 (日)

【テレビON AIR】フジテレビ『いただき+(プラス)』に生理学者リンガーの番組資料を提供(6月2日放送分)

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 フジテレビで毎週月曜19時54分~20時で放送中の情報番組『いただき+(プラス)』でカルシウムの特集があり,その際に,私が医学史の分野で長年にわたり研究をしている生理学者シドニー・リンガーの資料が必要ということでフジテレビから問い合わせがあった。そこで,私が研究のために以前からリンガーのご親族であるアン・リンガーさんなどから頂いている資料の一部を番組に提供させていただいた。
(尚,私のリンガーに関する研究については以下のwebも参照に)
 生理学者シドニー・リンガー研究ブログ(英語版)
 http://ringer.cocolog-nifty.com/biography/
 生理学者シドニー・リンガー研究
 http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer-J/SydneyRinger-(J).html
 生理学者シドニー・リンガー研究Web(英語版)
 http://www.t3.rim.or.jp/~lisalabo/Ringer/S.Ringer.html

 現在関東ローカルで放送中の『いただき+(プラス)』という番組は,全農が提供の番組で,小学生から中学生ぐらいを対象とした食育の情報番組である。放送時間は非常に短いのだが,毎回食べ物を通じて栄養素やその働きについて楽しく学ぶことができる番組だ。
 今回の特集は「カルシウム」ということで,番組ではカルシウムを多く含む食物の紹介とともに,そのカルシウムの働きを発見したことでも知られるリンガーの研究についても少しだが触れられることとなった。
 リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は,19世紀イギリスで主に生理学,内科学,小児科学の分野で活躍した人物で,彼の業績で一番有名なのは,点滴の際に輸液基本液として使用されるリンゲル液を発明したことである。多くの日本人は,リンゲル液をその名前の印象からドイツ医学由来のものだと思っているであろうが,実は発明者のリンガーはイギリスの生理学者なので,リンゲル液も本来はイギリス医学由来のものである。しかしわが国の場合は,時の明治政府が帝大(東京大学医学部)にベルツやミュレルを招聘し,近代医学の基礎はドイツ医学から学ぶという方針を決めたことで,わが国にはドイツ以外の由来の技術も多くはドイツ医学経由で入ってきた。そのような経緯から,本来は英語であるはずの“Ringer”も,「リンガー」とは発音せずに古いドイツ式発音で「リンゲル」といってきた慣例のようなものが医学界には存在している。(しかしながら,“er”の綴りを“エル”と発音するのはかなり古いドイツ語であり,現代ドイツ語による発音ならば,英語と同じく「リンガー」と発音するのが自然である。同じように,しばしば医学用語として登場する“Fieber”(発熱)も,「フィーベル」ではなく「フィーバー」とするのが現代ドイツ語では一般的である。)

 今回の番組ではリンガーのカルシウムに関する実験を取り上げることになった。リンガーがカルシウムの働きについて行った実験というのは,カエルから摘出した心臓にトノメータをつなぎ,生理食塩水を灌流させながら心筋におけるアルカリイオンの作用を詳しく分析するというものである。リンガーはこの実験を通して,カルシウムとカリウムが正しい割合で存在する事で心室の収縮がはじめて正常に維持でき,しかもカルシウムが少なすぎたり,カリウムが多すぎると収縮は不規則で弱まり,さらにカリウムを増やしすぎると心臓が止まってしまう,という歴史的大発見をするのである。
 この時に生理食塩水に偶然混入した多電解質でできた溶液がリンゲル液である。その後リンゲル液は,ヒト血漿用に多電解質が補正されて,現在医療現場で使用されているリンゲル液になった。
 また,リンガーのカルシウムを始めとする多電解質に関する実験とその成果は,現代の医科学にも延々と受け継がれている。例えば心臓外科手術の際、塩化カリウムを注入し一時的に心臓を停止させるという技法や、心室細動の除去などがそれであり,いずれもリンガーの研究がなければ産まれなかったであろうメソードである。
 以下は,Journal of Physiology(英国生理学雑誌)に掲載されているリンガーのカルシウムの研究と,リンゲル液誕生の記録である。
Ringer, S. Concerning the influence exerted by each of the constituents of the blood on the contraction of the ventricle. Journal of Physiology, 1882, 3:380-393.
Ringer, S. A further contribution regarding the influence of the different constituents of the blood on the contraction of the heart. Journal of Physiology, 1883, 4:29-42.
(因みに私の書斎には,リンガーが書いたこの2つの論文の表紙を額に入れて飾ってある)

 なお番組では,子どもたちに理解しやすいように,リンガーが研究する様子などがイラストでも登場した。イラストレーターの方が書いて下さったリンガーは,ポートレートに比べるとまだ若いころの印象だ。どことなく俳優の佐々木蔵之介さんにも似ていたりする。

番組Webページhttp://www.fujitv.co.jp/itadaki/

★BSフジで再放送(7月20日 20:55~21:00)

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2007年6月19日 (火)

【再掲】点滴史を築いた人びと(10)~高津忠夫(後編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第10回

高津忠夫(Tadao Takatsu, 1910-1974)(後編)

Prof_takatsu_2 東大小児科液、そしてソリタTの誕生
 現在の医療現場で使われている輸液剤は、用途別に分類すると4種類に分けることができる。
 まず、通称「1号液」といわれるもの。これは別名「開始液」(点滴開始液)とも呼ばれ、病態が判らない患者に対し応急処置として投与する液である。そのため、腎機能障害の場合も想定してKは含まれていない。次の「2号液」は体液バランスの補正を目的とし、「3号液」は「維持液」と呼ばれ、一日の必要水分と電解質を補う事を目的とする。そして「4号液」は術後回復のために投与されるものだ。
 なるほど、これをみるかぎり実に理にかなっている。しかし、これが終戦後の動乱期に、しかも物資も設備も充分でなかった時代から立ち上がっていったものであることを知った時、われわれは、そこに深く関わった人物に往年の本田宗一郎や盛田昭夫の姿を重ね合わせることができるであろう。
 日本近代の小児科学を築いた高津忠夫とは、まさにそのような人物である。
 1954年、信州大学から東大へ移った高津は、ダロウ★注1)、バトラー★注2)といったアメリカの小児科医たちが書いた論文などをさかんに研究していた。それらはすべて小児を対象とした最新の輸液療法に関するものである。高津はこれらの論文を読むたびに、日本の小児医療、それどころか輸液概論そのものがひどく遅れをとっていることを痛感せざるをえなかった。
 この当時、すでにアメリカでは病態に対応した様々な種類の輸液剤が開発されており、しかも静脈内輸液の技術も確立されていたのである。一方、日本はというと、高津が東大に着任した当時は、いまだ皮下輸液が行われていたという状況であったのだ。

あくまで「国産」にこだわる
 高津忠夫は、思い立ったら直ちに行動する人であった。信州大学時代から継続していた輸液の研究をさらにおし進めるために、1957年頃から主にアメリカを中心とした世界規模のフィールドワークを始めるのだ。高津が訪れた国は、アメリカを始めとして、西ドイツ、フランス、スイス、オランダ、イタリア、スウェーデン、チェコ、ソ連など実に広範囲にわたっている。高津はここで各国の様々な輸液組成の資料を収集して日本に持ち帰るのである。
 この中で高津が注目したのがやはりダロウやバトラーの作った輸液剤だ。高津はこれをもとにして3種類のベーシックをまず作ってみた。これはダロウやバトラーが作った組成を参考にした多電解質の溶液であった。高津はアメリカでの見聞により、信大時代から最大目標に掲げていた小児の三つの疾病、すなわち疫痢、消化不良性中毒症、アセトン血性嘔吐症(自家中毒)の治療には多電解質液の開発が必要であると考えるのである。
 しかし、東大薬局内でこれを作るのは困難を極めていた。まず、単一組成の溶液に新たにアンプルから別のものを加えるという発想がなかった。そのため、容量や配合を間違えると液が変色するとか、沈殿するといった事態が起こってしまった。
 試行錯誤の末、ようやく無色透明の原液が完成するものの、今度はこの原液のクオリティーを一定に保たなければならなかった。だが、とりあえずここに信大時代には果たせなかった「東大小児科液」が誕生したのだ。これを機に、外科からのアプローチで4号液も加わり、現在のソリタのスタンダードが完成する。
 高津が次に試みたのは、この「東大小児科液」をスタンダードとして製品化することだ。時に、輸液という言葉が現在のように普及する以前の1960年代に入って間もない頃の話しだ。高津はすでに幾度もの欧米での視察で、輸液というものが20世紀の大きな医薬産業の一つとなるであろうと予測していたのである。
 医局の中には、高津と同様にして「東大小児科液」を製品化することを切望した小児科医たちが数多くいた。その中でも1954年に入局した高津の一番弟子にあたる塙嘉之や翌年入局の大部芳郎らは、特に医局とつながりがあった幾つかの製薬会社との窓口になり製品化に尽力した。そして最終的に大部がチーフを務めていた東大小児科電解質研究班と清水製薬の共同開発により、わが国初の国産輸液剤「ソリタT」が誕生するのである。実に、高津忠夫が信大時代から数えて10年以上の歳月が流れていた。

小児科学の夜明け
 高津忠夫の業績をかたる時、輸液研究にばかりスポットが当たりがちであるが、それは研究者としての高津の一面であり、もう一方で、優れた小児科医としての姿もある。
 育児を経験したことのある人なら、一度は目にしたことはあるであろう育児書のベストセラー『スポック博士の育児書』。この育児書は、現在のように子育て情報誌がなかった時代の母親たちにとっては必須の手引書であった。実はこの育児書を翻訳するにあたっての監修者の一人に高津忠夫も名を連ねている。
 高津は小児科医療において病児を診ることは当然だが、それとともに病児を抱える母親の健康状態も同時に把握しなければ小児科医としての責務を充分に果たしたとはいえないと考えていた。高津が母子に対して注いだ深い愛情は、例えば森永ミルク中毒、予防接種事故といった昭和40年代に多発した不幸な出来事を目の当たりにしてきて、なお一層強いものになっていったのであろう。
 高津の小児科学に対する理念は、学外の多くの活動にも垣間見ることができる。例えば、「子どものがんを守る会」などをはじめとするNPO活動、「高津児童文庫」などもその一つだ。当時、学園紛争ただ中にあっても、その人柄なのか、運動家たちからの非難、攻撃などはなかったという。
 1970年に東大を退官してからも、予防接種事故審議会などの役員を務めるなど、常に母子の視点に立ち、小児科医としての道を極めた高津忠夫は、1974年12月、無念にも64才の若さでこの世を去る。しかし後世にわたり高津が残した遺産は数え切れない。それは、少子高齢化社会に加えて近年の小児科医の減少という状況の中にあっても、なおも小児科医を志す者たちにとっての礎なのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.10, pp.46-47, 2002)

[謝辞]
前回、今回と高津忠夫評伝を書くにあたり、清水製薬医薬情報部の法月晃夫氏より貴重な資料を提供していただいた事に深く感謝申し上げます。

注1)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.6のコラムを参照)
注2)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)は、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力したアメリカの小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)

参考文献
A message of congratulations to Tadao Takatsu. On the occasion of age-imposed retirement. Am J Dis Child. 1971 Jan; 121(1): 84.
To our respected Professor Takatsu. Paediatr Univ Tokyo. 1970 Dec; 18: 1-9.
Darrow DC.  Body-fluid physiology: the relation of tissue composition to problems of water and electrolyte balance. N Engl J Med, 1945; 233:91-111.
Darrow DC.  Congenital alkalosis with diarrhea. J Pediatr, 1945; 26: 519-32.
Butler AM.  Parenteral fluid therapy in diadetic coma.  Acta Pediatr, 1949; 38: 59-70.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
江川義雄「高津忠夫」広島医学, 1976, Vol.29, No.4. pp.112-113.
塙 嘉之「ソリタTと高津教授」(議事録、於・大森病院)1988年6月16日
順天堂大学・藪田敬治郎教授講演集,  1988年7月5日
「東大小児科の生い立ち」東大医学部小児科教室同窓会、1959年6月10日

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【再掲】点滴史を築いた人びと(9)~高津忠夫(前編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第9回

高津忠夫(前編)(Tadao Takatsu)

Prof_takatsu_1 敗戦、暗黒の時代
 日本が戦争に負けたことは、政治経済といった国力や民族としてのプライドはもとより、文化、思想、芸術にまでも精神的ダメージをもたらしたのはいうまでもない。
 医学も例外ではなく、かつて日本が明治維新の政策によってドイツ人医学者ベルツを帝大(東京大学の前身)に招き★注1)、戦前・戦中ともにドイツ医学を基礎として構築されてきた技術体系も、アメリカ医学にとってかわり、ここで日本は大きな遅れをとることになる。
 かつてオショーネシー★注2)、トーマス・ラッタ★注3)、リンガー★注4)といった医学者たちの研究によりイギリス生理学および臨床学から発祥した輸液が、ギャンブル★注5)という“巨人”の登場で、最新の輸液概論はアメリカ医学へとシフトされていく中で、日本はというと、かつてドイツ経由で輸入されたリンゲル液の知識で急場をしのいでいたのが現状であった。
 このような、当時、一歩遅れをとった状況の中で、高津忠夫という一人の小児科医の登場は、まさに日本近代輸液史の夜明けを伝えるにふさわしい出来事であったのだ。

日本近代輸液史の夜明け
 日本における輸液療法(いわゆる「点滴」)が明確な記録として登場するのがようやくといってもいい1930年代である。そして欧米と同じく小児科学の分野で発達していくのだ。そのキーパーソンとなるのは石橋長英、泉仙助、高津忠夫らである。例えば石橋は、当時長時間にわたり点滴をするための適当な器具がなかったことから、かつてトーマス・ラッタがコレラ患者の治療に試みた時のように静脈切開をし、そこに定期的にリンゲル液や生理食塩水を流し込むという方法を試みている。しかし現在のような持続的な注入ではないので、その効果はまだ充分ではなかった。
 この時すでにアメリカでは生理食塩水、リンゲル液の他にも小児科医たちが独自に多種の輸液剤を開発し、しかもギャンブルを中心として体液平衡学の観点から輸液許容量についても研究を始めていたことを考えると、日本の輸液技術がいかに古典的であり、アメリカから遅れをとっていたかがわかるであろう。
 この遅れの原因はいろいろと考えられるが、例えば、輸液は今から150年以上も前のトーマス・ラッタもカルテに記録しているように、時として患者に対して視覚的にも劇的な回復を表わすことから、急場で威力を発揮するような起死回生的な切り札としての認識があったのも事実である。そのことが、さらに汎用性のある技術として発展していくのを遅らせたともいえよう。
 このような流れにあって、輸液を文字どおり汎用性のある技術へと広げていったのが高津忠夫である。

高津忠夫と東大小児科
 1955年、一人の医師が東京大学小児科に入局した。後に、わが国初の国産輸液剤「ソリタT」の開発にかかわることになる高津忠夫である。
 高津が小児科に入局した当時は、疫痢、赤痢により死亡する乳幼児が絶えなかった。高津はこれらの病気で脱水になった乳幼児の血清や尿を細かく分析して、脱水で失われる電解質の効果的な補給方法について試行錯誤を繰り返していた。
 現在われわれが目にする輸液セットはディスポーザブルで衛生的であるばかりか、とても使いやすく工夫されてきた。あらかじめ無菌状態で容器に基本液を密閉して出荷するという技術は、現場での基本液の調合というプロセスを一つ省略したのだ。それによって常に一定のコンディションの薬剤を容易に使用することが可能になったのだ。
 しかし当時は、東大といえども、重いガラス製のイルリゲーターの中に、1回ごとに基本液と薬剤を調合して入れるという方法をとっていた。しかもそこで使用されるものは、せいぜいリンゲル液、生理食塩水、そして0.5%ブドウ糖液などである。このわずかな種類の輸液剤で、様々な病態に対応しなければならなかったのだ。
 この状況に疑問を抱いたのが高津である。例えば、脱水という状況をひとつとってもその状態は様々に異なる。それにもかかわらず、単に電解質補給という目的で、いかなる症状の脱水にも一律の輸液剤を使うのは不適切であると唱えた高津は、リンゲル液や生理食塩水をアレンジして、いろいろな種類の輸液剤を作ることを試みるのである。それまで、量や速度を重点に考えられてきた輸液における新たな視点である。
 次に高津は、リンゲル液を基に独自に創製した輸液剤を用途別に分類し、「東大小児科液」というスタンダードを作るにいたるのだ。しかし手作業による調合では一定のクオリティを保つことや、無菌常温状態でストックを確保するのは困難である。そこで、高津はこの「東大小児科液」を生産ラインにのせ、広く治療薬として普及させることを思いつくのである。そしていよいよ国産初の輸液剤「ソリタT」が誕生していくのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.9, pp.40-41, 2002)

注1)1876(明治9)年、わが国は明治維新の教育政策として帝大医学部にドイツ人医学者ベルツを招いた。ベルツは以後25年間にわたり帝大で指導を続け、日本近代の医学の基礎を築いた。ベルツの研究でとりわけ有名なのは、長い間、日本の農村部で農民たちをを苦しめていた高熱をともなう風土病のひとつ「ツツガムシ病」のフィールドワークである。
注2)オショーネシー(W.B.O'Shaughnessy, 1809-1889)は、コレラ患者は激しい下痢と嘔吐により脱水を起こし、血液からは塩分が失われることをつきとめた。この報告は、ラッタの治療のアイディアになったといわれている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注3)トーマス・ラッタ(Thomas Aichison Latta, 1833年没)は、1831年に脱水状態にあるコレラ患者に対して塩化ナトリウムと重炭酸ナトリウムの水溶液を静脈に注射するという画期的な治療を試みた。これは医学史上、臨床学的に初めて具体的な効果が認められた輸液療法である。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注4)リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は、点滴の基本剤となるリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)
注5)ハーバード大学のギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)は、著書Chemical Anatomy, Physiology and Pathology of Extra-Cellular Fluid(『細胞外液の化学的解剖学、生理学および病理学』)により、近代の輸液療法の理論的基礎を築いた人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.7及びVol.8のコラムを参照)
注6)ラッタは1832年に、コレラ患者の克明な治療の記録をロンドン衛生局宛の書簡の中に記している。(Latta, T.A. Malignant Cholera. documents communicated by the Central Board of Health, London, relative to the treatment of cholera by the copious injection of aqueous and saline fluids into the veins. Lancet, 1831-1832, 2, 274.)

参考文献
A message of congratulations to Tadao Takatsu. On the occasion of age-imposed retirement. Am J Dis Child. 1971 Jan; 121(1): 84. No abstract available.
To our respected Professor Takatsu. Paediatr Univ Tokyo. 1970 Dec; 18: 1-9. No abstract available.
Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695
Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942
Latta, T.A. Malignant Cholera. documents communicated by the Central Board of Health, London, relative to the treatment of cholera by the copious injection of aqueous and saline fluids into the veins. Lancet, 1831-1832, 2, 274.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.

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2007年6月18日 (月)

【再掲】点滴史を築いた人びと(8)~ジェームス・ローダー・ギャンブル(後編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第8回

ジェームス・ローダー・ギャンブル(後編)(James Lawder Gamble, 1883-1959)

戦争とモダニズム
 ギャンブルをはじめ、バトラー★注1)、ダロウ★注2)など輸液の歴史に大きく関わった医学者たちには小児科医出身であるという事と同時に、もうひとつ大きな共通点がある。
 それは、2つの大きな戦争(第一次世界大戦および第二次世界大戦)を体験したという事実である。
 彼らの人生の中で戦争が落とした「陰」はさまざまである。
 ある者は兵役にかりだされ、移民社会アメリカにおいて自分自身のルーツについて偏見や差別を受けたり、またある者は、一時期医学研究のリタイアを余儀なくされたりもした。
 これらはみなネガティブな出来事だが、皮肉にもこの戦争をきっかけに、医学が大きく進歩し、人類に恩恵を与えたのも事実として認めなければならない。
 医学史を振り返れば、例えばクリミア戦争ではナイチンゲールが登場し、野戦病院という空間から兵士(患者)の衛生管理という新しい概念が確立されたのは周知の事実である。
 ナイチンゲールが着目したように、戦争では兵士の衛生管理、栄養管理が戦況を左右する事は多分にあり、ギャンブルは特に海上で長く生活する海兵隊員や空軍パイロットの栄養管理に積極的な提言を行なった。ギャンブルは、兵士が厳しい戦闘の中で生き残るためには糖質も充分に摂取し、体重を維持する事にも触れているのだ。
 糖質摂取による体重維持――これは後に輸液が電解質補正という当初の目的から完全静脈栄養の概念にまで広がりを見せていく予感も感じさせるものだ。

「ギャンブルグラム」という最高傑作
 仮に、「輸液史モダニズムの夜明け」というものがあるとしたら、それは1923年であろう。
 1923年、ギャンブルは正常血漿内の酸塩基組成を明快な図で表わした(図1)。これは試行錯誤の末、後にバージョンアップを繰り返し、完全なる形をなしたのだ(図2)。彼がハーバード時代から取り組んでいたテーマ、すなわち――細胞液の組成と代謝の研究、それが身体に及ぼす影響という命題がここにようやく帰結する。
 一見するとモダンアートのアブストラクション(抽象表現)にも見える美しいグラフは、後にギャンブルグラムと呼ばれるようになる。
 ギャンブルグラムが画期的だったのは、これまで非常に抽象的にとらえられていた体液平衡という概念を明確に表わしただけではなく、他の研究者たちがそれぞれ個別に行なっていたこと――例えばハルトマン★注3)が行なっていたアシドーシスの研究や、ダロウが試みた小児の低カリウム血症の治療などの概念をも網羅する輸液治療のための集大成であった。これによって「体液生理学」という新しい概念が初めて生まれたのだ。

プライベートとその晩年
 ギャンブルのプライベートについてエピソードをいくつか拾っておくと、彼は1916年に結婚し、妻との間に女子2人男子3人の子どもをもうけている。そのうちの1人が彼と同じハーバードへ進学し医学の道へと進んだ。
 それから、彼のキャラクターであるが、実際に彼の講義を受けた弟子たちは、彼からきめ細かく親切で丁寧な指導を受けたと評価しているものが多い。中でもギャンブルの弟子たちの目に印象深かったのが、彼が講義中にしばしば熱弁をふるい、よく水を飲んでいたという事である。彼は講義終了のチャイムが鳴ると同時に、ポットに残っている最後の一杯を一気に飲み干したなどというエピソードも残っているほどだ。細身で渋い印象を受ける彼の外観とは対象的である。
 忙しいギャンブルの唯一の楽しみはボート・セイリングであった。休暇にはボストン周辺の海域をセイリングしたり、キャビンの中でのんびりと過ごす事もあったという。
 晩年は、1959年に亡くなるまで彼の名声は失せる事はなかった。まず1950年にロード・アイランド医学学会からの表彰を皮切りに、1951年にはアメリカ医師学会、1954年にはロイヤル・カレッジからもそれぞれ表彰され、そして1955年には小児科学においてもっとも権威あるホーランド・アワードを受賞している。その後彼が亡くなってからも、彼が残した著書、論文は世界各国で読まれるようになり、現在でも水・電解質、酸塩基平衡といった生理学の教科書としても多くの看護学生、医学生たちにも読まれている。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.8, pp.34-35, 2002)

Gamble_fig1_2






















図1-a
1923年に論文に発表されたギャンブルグラム
(Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695)

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図1-b
ギャンブルグラムのスケールをもとに実際に治療を行なった際の記録。治療経過を体液内の環境に着目した画期的なスケール。患者は8才のてんかんの女児。

Gamble_fig3

図2
1942年の論文でヴァージョンアップされたギャンブルグラム
(Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942)

注1)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)はハルトマンと同じく、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力した小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)
注2)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.6のコラムを参照)
注3)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann, 1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)

参考文献
Gamble JL, Ross GS, Tisdall FF;The metabolism of fixed base in fasting. J Biol Chem, 1932, 57: 633-695
Gamble JL;Chemical anatomy, physiology and pathology of extracellular fluid. Harvard University Press. Cambridge, 1942
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Holliday MA.;Gamble and Darrow: pathfinders in body fluid physiology andfluid therapy for children, 1914-1964. Pediatr Nephrol. 2000 Dec;15(3-4):317-24.
Holliday MA.;James L. Gamble. J Pediatr. 1993 Jan;122(1):156-61.
Oehme J.;James L. Gamble (1883-1959). Kinderkrankenschwester. 1993 Sep;12(9):325. German.
Franklin CB.;James Lawder Gamble (1883-1959)A Biographical Sketch. J Nutr. 1981, 111 (2): 203-207.
Harvey AM.;Classics in Clinical Science: James L. Gamble and "Gamblegrams". Am J Med. 1979, 66 (6): 904-906.

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2007年6月17日 (日)

【再掲】点滴史を築いた人びと(7)~ジェームス・ローダー・ギャンブル(前編)

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第7回

ジェームス・ローダー・ギャンブル(前編)(James Lawder Gamble, 1883-1959)

Dr_gamble  全世界のあらゆる内科学の教科書にその名前が必ず載っているといっても過言ではないギャンブルとは、内科医や小児科医にとっては一体どんな存在なのであろうか。
 彼が作った緻密なメソッドの数々から連想するに、対位法や平均律を完成させたバッハのような存在か。あるいは、「水・電解質」テキスト、「酸塩基平衡」といったギャンブルを語るうえで避けては通れない医学生泣かせの超難度のコンテクストからは、12音技法のシェーンベルクさえも連想できてしまう。

生い立ち
 ギャンブルは、あのリンガー★注1)が苦心の末にリンゲル液を完成させた年と同じ、1883年にケンタッキー州のミラーズブルグという片田舎に三人兄弟の末っ子として生まれた。南北戦争でイギリス農業の影響が色濃く残るこの時代背景からは、フライドチキンのCMを想像する人も多くいるだろう。ひとたび大都市に出れば、大手鉄道会社や石油会社が一斉にストライキやトラスト運動をしていた不況の時代にあって、ここは同じ国とは思えないほどまったく異なった時が流れている。
 ギャンブルが生まれ育った故郷ケンタッキーとは、洗練されたジャズよりも、のどかなフォスターの音楽がもっともよく似合う場所なのだ。
 ギャンブルは幼年時代をここで過ごした後、家族とともにカリフォルニアに移り、そこから彼の医学者としての原点が開かれていく。

いざ、輸液史の大海原へ!
 点滴の歴史を中国4千年の大黄河の流れに例えてみよう。まず、臨床学的に静脈からの水・電解質投与に初めて成功したトーマス・ラッタ★注2)と、彼にアイディアを与えたと思われるオショーネシー★注3)という存在がある。彼らは美しい山脈に湧き出たわずかな清流だ。その清流がリンガーと交わり、やがてそうしてできたあらゆる支流がひとつに集まり黄河へと注がれていく。その支流をひとつに束ねたのがギャンブルという存在である。彼は、近代の輸液史の中でもっとも重要な人物たち、例えばハルトマン★注4)、バトラー★注5)、ダロウ★注6)といった医学者たちとすべてかかわりを持ち、個別に派生した彼らの研究、実験を系統だてて整理していくという役割を担っていた。ギャンブルこそ近代輸液史の中の最も重要なキーパーソンである。今読んでもまったく色あせない彼の有名な著書 "Chemical Anatomy, Physiology and Pathology of Extra-Cellular Fluid" (『細胞外液の化学的解剖学、生理学および病理学』)は、繁雑で混沌としていた当時の体液生理学の概念をひとつのメソッドとして初めて明確にしたものである。
 またギャンブルは、当時まだ実験的な生理学と実践的な臨床学との間に溝があった時代から、生理学で得た新たな発見をいちはやく実際の臨床の場へと移行するという、生理学と臨床学の橋渡しもしたのである。これは、近代から現代に移り、輸液の概念と技術が医学のあらゆる分野で文字どおりフレキシブルに発達していくきっかけもつくったのである。
 もし、近代にギャンブルのような巨人が現われなかったら、経腸栄養や高カロリー輸液の技術や応用も、現在から少なくても20年、30年と遅れをとっていたであろう。

名著に隠れた珠玉の論文
 ギャンブルは数々の素晴らしい論文を世に残しているが、その中でひときわ異彩を放つ論文がひとつある。
 "Early History of Replacement Fluid Therapy"と題されたこの論文は、彼には、というよりも、当時、生理学、臨床学の最先端を走っていた医学者には珍しい医学史に関する論文である。この論文の中で彼は、あたかも輸液の歴史をたぐりよせるようにして、あのトーマス・ラッタが1831年に重症コレラ患者に対して行なった歴史的な治療について興味深く考察している。彼の持つこの独特のパースペクティブは、後々の研究や、そればかりではなく、いろいろな人々との出会いの中で、ますます開花していくのである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.7, pp.66-67, 2002)

注1)
リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)は、点滴の基本剤となるリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)
注2)
トーマス・ラッタ(Thomas Aichison Latta, 1833年没)は、1831年に脱水状態にあるコレラ患者に対して塩化ナトリウムと重炭酸ナトリウムの水溶液を静脈に注射するという画期的な治療を試みた。これは医学史上、臨床学的に初めて具体的な効果が認められた輸液療法である。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注3)
オショーネシー(W.B.O'Shaughnessy, 1809-1889)は、コレラ患者は激しい下痢と嘔吐により脱水を起こし、血液からは塩分が失われることをつきとめた。この報告は、ラッタの治療のアイディアになったといわれている。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.1のコラムを参照)
注4)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann, 1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)
注5)
バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)はハルトマンと同じく、小児の下痢や嘔吐によるアシドーシスの研究、治療に尽力した小児科医。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.5のコラムを参照)
注6)
ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)は、乳酸リンゲル液にカリウム・イオンを加えた輸液剤、いわいる「ダロウ液」を発明した人物。ダロウ液は今でも低カリウム血症などの治療に使われている。

参考文献
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.
Holliday MA.;Gamble and Darrow: pathfinders in body fluid physiology andfluid therapy for children, 1914-1964. Pediatr Nephrol. 2000 Dec;15(3-4):317-24.
Holliday MA.;James L. Gamble. J Pediatr. 1993 Jan;122(1):156-61.
Oehme J.;James L. Gamble (1883-1959). Kinderkrankenschwester. 1993 Sep;12(9):325. German.
Franklin CB.;James Lawder Gamble (1883-1959)A Biographical Sketch. J Nutr. 1981, 111 (2): 203-207.
Harvey AM.;Classics in Clinical Science: James L. Gamble and "Gamblegrams". Am J Med. 1979, 66 (6): 904-906.

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2007年6月 1日 (金)

【再掲】点滴史を築いた人びと(6)~ダニエル・ダロウ

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第6回

ダニエル・キャディ・ダロウ(Daniel Cady Darrow,1895-1965)

Darrow1_1  19世紀から20世紀にかけての輸液史の中で、混沌とした時代が3度訪れる。ひとつはリンガー(注1)の生理学の時代、ギャンブルをはじめとする小児科学の時代(注2)、そして近・現代になって主にダドリックらの研究によって外科学の分野で発達した手術後の中心静脈栄養や、大腸疾患のケアのための経腸栄養などの時代である(注3)。
 このようにして改めて輸液の歴史を振り返ると、それは医学の実にさまざまな分野をあたかも身体をめぐるように流動的に循環して発展を遂げてきたものだということがわかる。
 輸液史におけるこの3つの時代は、もちろん医学史というタームの中から見た場合にクローズアップされてくるのだが、その医学史をもう少し広くとらえて、たとえば人類の文化史のひとつとして見ていくと、もっとも混沌としているのが1880年代から1930年代にかけてのアメリカである。つまり、近代アメリカで大きな発展を遂げた輸液史は、別の見方をすればアメリカ移民史そのものなのだ。
 この時代はイギリス、ドイツ、オランダなどのヨーロッパ諸国で誕生したそれぞれの医学がその文化的土壌をもって、アメリカという地に移植されて新しい文化をもたらした時代なのだ。例えばドイツ移民のハルトマン(注4)は、ドイツの伝統的な医家系の文化――すなわち、医家たるものその道を極めるだけではなく、芸術・文化における教養、スポーツを通しての健全な肉体と精神の鍛練といった「文武両道」の精神をもたらした。そして今回登場するアイルランド移民のダロウもまた自らの民族の血をもって、アメリカに根をおろした人物の一人だ。
 ダロウ液の発明者であるダロウは1895年にノースダコタのファーゴに6人兄弟の一人として生まれた。彼の母方の祖父母はフロンティア精神旺盛なアイルランド人である。彼らは故郷を捨てて2度にわたりアメリカへの航海を試みるが、一度目の航海では船が座礁して失敗に終わる。しかし二度目の航海でニューヨークにたどり着き、そこからウィスコンシン州東部のアップルトンに入植した。こんなたくましい一族の血を引くダロウの両親もアメリカの大地にふさわしい進歩的な思想の持ち主であった。特にダロウの母は参政権取得などの女性市民運動で活躍した人物で(注5)、ダロウや彼の兄弟たちもしばしば市民集会に参加していたという。父は外科医だが、文学を特に好み、医学書を詩や文学のように読むのを趣味としていた。
 ダロウの人生はこの自由精神を見事に反映している。彼の足跡をたどると、まずノースダコタの農業大学に2年間在籍し、そのあとすぐにコーネル大学へと移籍する。この時彼は友人に自分が科学に興味があることを打ち明けると卒業後すぐにジョンス・ホプキンス大学へと入学し、当時もっともモダンであったアシドーシスの研究に没頭する。その後もニューヘブン、ボストン等の市民病院でインターンのトレーニングを続け、1925年にはハルトマンのいるワシントン大学の小児科に在籍し、1927年にはエール大学の小児科に入局する。
 彼はここで初めて下痢による脱水で苦しむ4才男児の患者と出会う。この少年は今でいう低カリウム血症であった。ここで活かされたのはダロウが大学時代に得た生化学の知識と技術である。彼は患者の少年の体液のphが極端にアルカリに傾倒し、しかもカリウムが欠乏していることに気付くと、先にハルトマンが提唱していた乳酸リンゲル液にカリウムを加えた輸液を患者に与え、症状を軽減させることに成功したのだ。これが今では「KN補液3A」(大塚)などの原形となり汎用されるにいたっている。
 その後のダロウの人生だが、彼は1953年までエール大学に在籍し、小児におけるアルカローシスの研究と治療を続けた。しかし彼の目は必ずしも患者の病気だけに向けられたものではなかった。患者の生活水準、階級などといった病原のバックボーンにも目を向け、人種により貧富の差が歴然とある社会の中で、患者の生活改善をどのようにフォローしていけばよいのか、といった新たな問題提起も行なった。このような、「医療」とそれをとりまく「人間」「社会」との接点、そこで生じるさまざまな問題を社会問題として医療の中にとりこむという発想の原点は、かつて女性人権運動やさまざまな市民運動に尽力してきた母のうしろ姿にあるのであろう。
 彼はしばしば同僚の医師たちに言っていた言葉がある。“The patient gave me the idea”、つまり患者に出会うごとに医師は成長し育てられていく、ということである。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.5, pp.16-17, 2001)

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同僚の医師とディスカッションするダロウ(右から2番目)
Cooke RE. Daniel C. Darrow, M.D. J Pediatr. 1966 Sep; 69(3): 490-495.

(注1)
シドニー・リンガー(Sydney Ringer, 1835-1910)はリンゲル液を発明したイギリス人生理学者。(詳しくは「CC Japan」Vol.2及びVol.3のコラムを参照)

(注2)
ハーバード大学のギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)をはじめ、この時代は小児科医たちが活躍した時代である。今でも名前が残る「ハルトマン液」、「バトラー液」、「タルボット液」などの輸液剤の名は、その発明者である小児科医たちの名に由来する。

(注3)
ダドリックは静脈からの高カロリー輸液に初めて成功した人物。1967年に小犬の上大動脈にカテーテルを留置し、カゼインと30%ブドウ糖液だけで最高255日間の生存に成功した。後にこれは臨床で応用され、1968年には経口摂取が不可能な先天性腸閉鎖症の新生児に44日間にわたり同様の方法を試みて、その間新生児が正常に発育・成長したことを世界で初めて報告した。

(注4)
ハルトマン(Alexis Frank Hartmann、1898-1964)は乳酸リンゲル液を発明した人物。(詳しくは「CC JAPAN」Vol.4のコラムを参照)

(注5)
ダロウの母は女性にも教育と学問が必要であると唱えた人物。シカゴやニューヨークといった大都市へ旅行へいった際にはいつも手に抱えきれぬほどの雑誌、新聞、本などを買い求めていたというエピソードが残っている。

参考文献
Schwartz R. Comments from another student of Gamble and Darrow on fluids. Pediatrics. 1996 Aug; 98.
Hellerstein S. Daniel C. Darrow. J Pediatr. 1993 Nov; 123(5): 833-836.
Schloerb PR, et al. THE SURGEON's debt to Daniel C. Darrow. Am J Dis Child. 1966 Oct; 112(4): 280-282.
Powers GF. Daniel Cady Darrow. Am J Dis Child. 1966 Oct; 112(4): 271-272.
Cooke RE. Daniel C. Darrow, M.D. J Pediatr. 1966 Sep; 69(3): 490-495.
Darrow DC, Soule HC, Buckman TE. Blood volume in normal infants and children. J Clin Invest 1928;5:243-58.
Darrow DC. The role of the patient in clinical research of a physiological problem. Yale J Biol Med 1956;30:1-15.
Dudrick SJ. et al. Long-term total parenteral nutrition with growth in puppies and positive nitrogen balance in patients. Surg Forum, 18:356, 1967.
Dudrick SJ. et al. Long-term total parenteral nutrition woth growth, development and positive nitrogen balance. Surgery, 64:134, 1968.
Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.

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2007年5月31日 (木)

【再掲】点滴史を築いた人びと(5)~アラン・M・バトラー

(このテキストは,難治性大腸疾患情報誌「CC JAPAN」に2001年4月から2003年2月にかけて連載した評伝を再掲したものです。ここに登場する歴史上の医学者たちは,輸液(点滴)の発達に大きく寄与した人物たちであり,その中で,リンガーの仕事はどのように位置づけられるかを改めて考察するものです。)

点滴史を築いた人びと 第5回

アラン・マーシー・バトラー(Allan Macy Butler, 1894-1986)

Butler  医療現場で現在使われている点滴の輸液剤の原形には開発者の名のついたものがいくつも存在する。
 例えばリンゲル液(Sydney Ringer, 1835-1910)、ハルトマン液(Alexis Frank Hartmann, 1898-1964)、ダロウ液(Daniel C.Darrow, 1895-1965)などが代表的なものであるが、今回登場する英国系アメリカ人医学者アラン・マーシー・バトラーにもその名をいただく輸液剤がある。実際に医療現場で使用されている「KN2A」(大塚)、「ソリタT2」(清水)などがこのバトラー液を各社でアレンジしたものだ。そしてリンガー、ハルトマン、ダロウ、バトラーら、彼ら19世紀から20世紀初頭にかけての輸液史に登場する医学者たちは、その多くはみな小児科医なのである。

 アラン・マーシー・バトラーはニューヨーク南東部、マンハッタン北部郊外の住宅地ヨンカーズに生まれ育った。父はウォール街で働く証券マンで、叔父はイギリスでも中堅どころの汽船会社のチェアマンである。これらのバックボーンからはあたかも彼自身が裕福な環境に育ったように想像できるが、実は彼こそ激動の近代史の中を駆け抜けてきた一人に違いないのだ。
 バトラーが生まれた1894年という年は、アメリカではかつてない不況が悪化の一途をたどっていった年であった。シカゴにあった大手鉄道車輌会社プルマン社(注1)が大規模なストライキに突入したのもこの年である。バトラーはこんな時代に生まれ、その後医学者になってからも二つの大きな戦争を経験する事になる。
 バトラーが医学者としてスタートをきったのは1916年にプリンストン大学を卒業してからだ。しかしこの時期に不幸にもアメリカは第一次世界大戦に突入してしまう。当然のごとくバトラーも兵役にかり出され、イギリス軍歩兵隊に参加した後、米軍砲術将校としても戦った。戦争が終わってもすぐに医学の道へもどる事はできず、しばらくは父と同じく株式のセールスマンとして働く日々が続いたのだ。それでも医学の道をあきらめられなかったバトラーは、1922年に今度はハーバード大学へ進学し、再び医学の道にもどるのである。時にバトラーが28才の頃である。
 ハーバードで彼がもっとも幸運だったのは同じく小児科医であったギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)(注2)とヘンダーソン(Lawrence J.Henderson, 1878-1942)(注3)に出会った事であろう。
 大学を卒業したバトラーの最初の働き場所は『生体の水』(Body Water; the Exchange of Fluids in Man. Springfield: Thomas, 1935)の著者であるジョン・ピータース(John P.Peters, 1887-1955)(注4)と、血液ガス測定装置(図1)の発明で知られるヴァン・スライク(Donald Dexter Van Slyke, 1883-1971)(注5)のいるロックフェラー医学研究所であった。ここで彼はピータースやヴァン・スライクの研究にも刺激されて、自らも水・電解質代謝、血液における酸・塩基平衡の研究を始めるようになる。これらの研究において特にヴァン・スライクは自分の弟子の指導には非常に厳しく、論文についても細かく添削をするほどであった。バトラーはここで築いた基礎をもって1928年にはボストン小児科病院へと移り、ギャンブルとともに水・電解質代謝の研究を本格的に開始する。そして当時もっともモダンであった輸液療法を乳幼児の治療に積極的に導入していくのだ。
 当時、ポリオと並び乳幼児の病気でもっとも恐れられていたのは胃腸炎とそれに伴う下痢、脱水である。そのことが乳幼児の死亡率を非常に高いものにしていた。その上に乳幼児の体は成人よりもデリケートなので、治療にはより慎重さが必要である。そこでバトラーが注目したのは単にアシドーシスの改善だけに目を向けるのではなく、水・電解質投与の許容限度を正確に知る事である。これは小児科医ならではの緻密な発想であり、長い輸液の歴史の中で、その発展期に彼ら小児科医たちが名を連ねる理由がここにあるのだ。実際、彼らの活躍によって1930年代には乳幼児の胃腸炎の死亡率が15~35%であったところを5%以下にまで引き下げることに成功したのである。
 1950年、二つめの大きな戦争をくぐりぬけたバトラーは、マサチューセッツ総合病院で小児科医として仕事をするが、ここで起きたある事件で彼の医師としてのラディカルな生き方が明確になる。
 当時、大学病院では医師に対して謝礼を行なうのは慣例になっていたが、これに疑問を唱えたのがバトラーである。彼はこのような会計上不透明な謝礼制度を廃止しようとした。それは当然病院側の反発を招き、一時は大学と病院側の圧力によって彼の解任騒動にまで発展するが、彼に賛同する同僚の医師たちの団結は固く、彼もこの圧力には決して屈することはなかった。そして1969年にはアメリカ小児科界において最も権威があるホーランド・アワードを受賞し、彼の地位は確固たるものとなる。その他にもバトラーは予防医学の重要性を啓発するなど、常にコンテンポラリーな視点で医学というものを見つめていった。
 1986年、バトラーはマサチューセッツ州東南部、ケイプコッドの南にある小島マーサズヴィニヤードで92才の生涯を閉じる。それは激動の世紀を生きた一人の小児科医の静かな死であった。
(井上リサ, e-mail:lisalabo@t3.rim.or.jp, CC JAPAN, Vol.5, pp.16-17, 2001)

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図1
ヴァン・スライク(Donald Dexter Van Slyke, 1883-1971)によって1917年に制作された血液ガス測定装置。
これはバトラー自身の研究にも大いに役立った。(Astrup, P. and Severinghaus, J. W. The history of bood gases, asids and bases. 1986, Radiometer A/S, Copenhagen.)

注1)
プルマン社は寝台車、食堂車、展望車などの鉄道車輌の製造を一手に引き受けていた大手鉄道車輌会社。1894年のストライキでは、アメリカ鉄道労働組合がプルマンの全車輌をボイコットした。
注2)
ハーバード大学のギャンブル(James L.Gamble, 1883-1959)は、著書Chemical Anatomy, Physiology and Pathology of Extra-Cellular Fluid(『細胞外液の化学的解剖学、生理学および病理学』)により、近代の輸液療法の理論的基礎を築いた人物。
注3)
ヘンダーソン(Lawrence J.Henderson, 1878-1942)は、ストラスブールの生理学研究所でホッペ-ザイラーの後継者であるホフマイスターのもとで血液における酸・塩基平衡の研究をした。
注4)
ジョン・ピータース(John P.Peters, 1887-1955)の著書『生体の水』(Body Water; the Exchange of Fluids in Man. Springfield: Thomas, 1935)は、ギャンブルにも大いに影響を与えた。
注5)
ヴァン・スライク(Donald Dexter Van Slyke, 1883-1971)は、長きにわたりロックフェラー医学研究所で酸・塩基に関する研究を行なった。これは第二次世界大戦後のアメリカ医学の発展に大いに寄与した。

参考文献
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Crawford JD, Ganz RN. Allan Macy Butler 1894-1986. Harvard Medical Alumni Bulletin 1986;60:61-3.
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Butler AM, Talbot NB, Burnett CH, Stanbury JB, MacLachlan EA. Metabolic studies in diabetic coma. Trans Assoc Am Physicians 1947;60:102-9.
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Mengoli LR;Excerpts from the history of postoperative fluid therapy. American Journal of Surgery, 1971, 121 (3): 311-321.

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